男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



十一 高等師範学校

 専六を山田源吾の養子とし、東京に送り込んだ作戦は成功し、これを足掛かりとして成善が東京に行き、比良野貞固(さだかた)もこれに続いた。

 行方不明になっていた優善の消息も間もなく知れた。優善は旧知の悪友、塩田良三を頼って浦和県の監獄の長になっていた。鉄とは既に離別していた。

 伊保は成善の脱藩防止のため、なお、弘前を出ることを許されなかったが、優善を保証人にするということでようやく弘前を出ることが許された。

 しかし、良い話ばかりではなかった。本所二つ目の藩邸は廃止され、弘前藩邸に身を寄せていた成善は本所割下水の兄山田専六の家にしばらく同居し、年が明けて明治五年、本所横網町の船宿鈴木きよ宅の二階を間借りした。

 伊保が東京に戻るは良いが、行先としては結局、横綱町にある成善の下宿しかなく、行き場を失った比良野貞固一家もそこに転がり込んでいた。

 食客が貞固でなければ家賃を取ることもできただろうが、貞固は言ってみれば上司の津軽藩留守居役であり、今は家族を抱え困窮の中にいる。とても家賃を払えと言える相手ではない。

 さらに貞固はこの界隈では男気の知れた好人物である。そのかつての名士が幕末の混乱を経て、一書生の下宿に家族もろとも転がり込むなどということが、いかに時代の流れとはいえ、成善には不憫でならなかった。

 結局、成善は比良野一家を受け入れ、代金は自身の行李の中にしのばせていた錦絵を骨董屋に売って工面した。そうこうするうちに貞固の養子房之介が弘前から上京し、本所緑町に家を借りたので比良野一家はそちらに移っていった。

 金銭的に苦しい状況ではあったが、それでも成善は旧師海保竹頚の塾に入り、英語を学ぶために共立学舎に入り、さらに大学南校にも席を置いた。共立学舎は当時の英語塾としては慶應義塾に並ぶ名門であり、大学南校は東京大学の前身である。大学南校の頭取フルベックからは個人教授も受けた。

 さらに森養竹との再会もあった。養竹は幕末の混乱期、福山に帰っていたが、時代の落ち着きと共に上京し、文部省に職を得ていた。齢(よわい)を重ねたものの、その歌舞伎役者のようないでたちは変わらなかった。

 そしてその年の五月二十日、ついに伊保の上京が実現した。水木(みき)はもちろんだが陸(くが)と矢川文一郎の夫婦も一緒にやって来て、取り敢えず成善の下宿に荷物を降ろした。

 成善が伊保と再会するのは十六か月振りであり、優善と専六もやって来て、母と子は久し振りに勢ぞろいした。

 伊保は断髪した三人の男子を見て改めて時代の流れを感じていた。

「おっか様はこれからどうなさるおつもりなのですか?」

 しばらくの談笑の後、成善は伊保に尋ねた。

「ここにいてお前の厄介になろうと思っていますよ」

 伊保が言った。成善が続けた。

「なるほど、確かにここ本所はおっか様にとって住み慣れた場所。弘前の生活はひどかったですからもうここを離れたくないという気持ちは分かります。しかしですね、ここはよく考えてください。私はまだ勉強しなければならない書生の身です。専六兄さんもそうです。今はまだ禄があるかもしれませんが、いずれそれもなくなるでしょう。自分の学費をどうやって支弁するかというだけでも大変なのです」

 成善は言ったが、伊保は首を左右に振った。

「私は幸い健康だし、楽をしなくても良いですよ。それに学校に通うお前の世話も必要でしょう。私は針仕事でもして自分の食い扶持くらいは自分で稼ぎますよ」と伊保。

「しかしそれではおっか様があまりにも不憫です」と成善。

「それなら良い話があるぞ」

 不意に別の方向から声がしたと思って一同が振り向くと、階段を上がったところに歌舞伎役者のような格好をした男が立っていた。

「やあ伊保さん。お帰りなさい。元気そうですな」

 男が言い、下宿の一室に顔を覗かせた。

「森様!」

 伊保は叫び、立ち上がり、森養竹に駆け寄り、二人は手を握った。

「今日来ると聞いていたのでな」と養竹。

 生き別れになった戦友が久し振りに再会し、お互いの無事を喜びあっているかのようであった。

「・・・良い話とはどんな話でございますか?」

 しばらく二人の感動的な再会シーンに見とれていた成善が我に返り養竹に尋ねた。養竹は握っていた伊保の手を離した。

「ああ、食い扶持の話だったな。成善。そなた高等師範学校に行ってみないか?高等師範学校に行けば月額十円が支給されるぞ」

 高等師範学校はこの年開設予定で、ちょうど学生の募集を開始し始めた頃である。

 開設当初の高等師範学校は官立で、学生には給与が支給された。今でいうところの防衛大学校のようなものである。

 聞いて成善は大きなため息をついた。

「森様。高等師範学校開設の話は私も聞いております。しかし残念ながら高等師範学校の受験資格は二十歳以上なのです。私は今、十六です。入学するまで最低四年はかかってしまいます。とても今、糊口(ここう)をしのぐことはできません」

 聞いた養竹はニヤリと笑った。

「それは年齢だけの問題だろう?」

「そうですが」

「そんなことは何とでもなる。私は文部省に勤めているのだぞ」

「何とでもなると?」

 今度は伊保が驚いて言った。

「そなたが、学力がないというのであれば仕方がない。学力がないのに成績をごまかして入学させるということは私にはできない。しかし、そなたは藩学の助教をしていたくらいの人物ではないか。言ってみれば高等師範学校の教授になってもおかしくないくらいの人材なのだ。ただ年齢が文部省の定めたものより若干若いというだけのことだ」

「しかし、そんなことごまかせるのですか?」

「口八丁手八丁さ。そなたはもちろん元服しているだろう?」

「はい、もちろん」

「では二十歳とは元服のことだと思ったとかそんな理屈で何とかなるよ。そこは道純先生のご子息。実力十分と認められれば高等師範学校も入学を認めざるを得ないさ。まあ、ここはこの森にお任せ下され」

 養竹が言うと伊保と子ども達はお互いに顔を見合わせた。

「じゃあ、成善は高等師範学校に行くということで良いね?これで伊保さんも少しはのんびりできるかな」

 言って養竹は不敵に笑った。

 成善はこの年の八月に高等師範学校を受験し、合格、九月五日に入学した。

 

 入学して数ヶ月が経つと高等師範学校での生活は成善にとって耐えがたいものとなっていた。そこには成善が本当に学びたいと思っていたものがなかったからである。

 成善は英語を学びたかった。だから共立学舎や大学南校に通っていたのだ。

 しかし、高等師範学校の授業は漢学が中心であり、英語はおろそかであった。というより成善の英語力がずば抜けていて、高等師範学校の授業では満足できなかったのである。

 年が明け、明治六年の五月になると高等師範学校に寄宿舎ができた。校長は学生全員に入寮を命じた。

 しかし、成善は母の病気を理由に入寮の延期を申し出ていた。事実、この時、伊保は眼の病気にかかっていたのだが、成善の意図は別のところにあった。成善はこのまま高等師範学校を退学し、別のところで英語を学びたいと企んでいたのである。

 命令を無視して入寮を拒否すれば退学になるかもしれない。そうすれば高等師範学校の規律から脱し、大手を振って英語を思う存分学べると考えたのである。

 成善は母伊保にこの気持ちを打ち明け、伊保は「ならば母が針仕事でもして当座のお金を稼ぎましょう」と言って、成善の意見に同意していた。

 

「なぜ、また森殿のところにわざわざ出向かなければならないのでござるか?」

 腕組みをしながら比良野貞固は横に座る伊保に話しかけた。二人は馬車に揺られ、東京の町中を湯島切通しへと向かっている。

 周囲の風景は伝統的な建物の中にも西洋風の建築が入り交じり、嫌でも時代の流れを感じさせられる。

 成善から高等師範学校退学の意思を告げられた伊保は数日後、貞固と共に森養竹の借家に向かっていた。

「比良野様と森様に相談したいことがあると申し上げたはずでございますが」と伊保。

「それは聞いてござるが、拙者と森殿に話があるというのならば森殿を姉さんの下宿先に呼びつければ良いのであって、わざわざこちらから出向くことではないでござろう。姉さんは道純先生の奥方、一番弟子を呼びつけることくらい何でもないことではござらんか」

 貞固の口調からは養竹のもとに自ら出向くことへの嫌悪が感じられる。

「ああ、そういうことですか。それは成善に聞かれるとよろしくない話だからです」

「成善でござるか?」

「それに森様が今、どういう生活をしておられるのかにも興味があります。むしろそちらの方が強いかもしれません」

「興味?」

「興味というか好奇心です。森様は今、かつて骨董品屋だったところを借りているそうで、遊びに来るよう、成善ともども何度も言われているのです」

 二人でそんな話をしているうちに目指す養竹の湯島切通しの家に到着した。いかにも古めかしい骨董屋でそれが借家であろうことは言われなくても分かる。

 店の外から歌舞伎役者の格好をした養竹の姿が見え、養竹は店主の椅子に座り本を読んでいた。

 看板は骨董屋だが、実際に営業はしていないようで、品物はない。

「やあ、いらっしゃい。比良野殿も一緒とは珍しいですな」

 二人が中に入ると、下を向いて本を読んでいた養竹はすぐにこれに気付き、上目遣いに言った。

「売卜者のようでござるな」

 貞固はポツリと言った。聞いた養竹は高く笑った。

「ハハハ、売卜者か。それはそう見えるかもしれないな。これは傑作だ」

 売卜者とは占い師のことである。歌舞伎役者の格好をした男が骨董屋の店主の椅子に座り本を読んでいるのである。占い師のようにも見える。養竹が続けた。

「では、比良野殿。そなたの将来を占ってしんぜようか?」

 貞固は首を振り、席を勧められはしなかったものの座っている養竹の前のカウンター越しに伊保と並んで座った。

「で、二人して私に何か相談事かな?」と養竹。

 読んでいた本を閉じ、目の前のカウンターの上に置いた。

「いえ、私が比良野様と森様のお二人に相談したいことがございましてまいりました。成善のことなのですが、成善の耳に入るといけないのでこうして比良野様と出向いてまいりました」と伊保

「成善のこと?」と養竹。

「成善は高等師範学校を辞めたいと申しております」

「何と。あんなイカサマまでして入学したというのに今更なんだといっておるのだ。成善は」

 養竹が吐き捨てるように言った。伊保が続けた。

「英語を勉強したいのだと。しかし、高等師範学校は漢文が中心で英語は十分に学べないと、そう申しております」と伊保。

 聞いた養竹は腕組みをした。

「なるほど、確かに高等師範学校が漢文中心だと言われればその通りだ。それでなくとも成善の英語の力はずば抜けていようし、成善にとってはつまらなくもあろう。ただ、英語を本格的に勉強するとなると慶應義塾にでも行かねばなるまい。もちろん、成善の実力は十分だが今の渋江の台所事情では月謝を払うのも難しかろう」

「そうなのでございます。今の渋江の台所は正直言って高等師範学校の給金が頼り。これがなくなってしまってはどうにもこうにもなりません」

 伊保が言うと隣の貞固が右手を上げて口を開いた。

「それならば姉さん、拙者から一つ提案がござる」

「提案・・・、ですか?」

「拙者が言うのも差し出がましいのでござるが、拙者は姉さんが優善の扶養に入ったらよろしいのではないかと考えるのでござる。優善は浦和で監獄の長をやっている。渋江のご子息の中では一番安定しているのではござらんか?」

「一番安定しているというのはその通りですが、私は優善の扶養に入ることを望んではおりません。今まで通り、成善の側にいたいと思っております」

「いや、しかし背に腹は代えられまい。それに姉さんが東京に来るにあたっては優善が保証人になっているはずでござる。その優善の扶養に入るのはしごく当然のことなのではござらんか?」

 貞固が言うと今度は養竹が右手の掌を貞固に向けた。

「比良野殿、そなたは相変わらず何も分かっておらんなあ」

 養竹はいつもの馬鹿にしたような口調で言った。

「森殿。何も分かっていないとはどういうことでござるかな?」

 貞固は憮然とした表情で言った。

「伊保さんの本当の気持ちを理解されていないということだが」

 聞いた貞固は一つ大きな息を吐いた。

「では、森殿、そなたは姉さんの何を理解しているというのでござるか?」

「伊保さんが何故、成善の退学を阻止したいと考えているかだ。伊保さんは今の東京での生活を失いたくないのだ。浦和のような片田舎に行くことには耐えられないのだ。伊保さん。そうでしょう?」

 聞いた伊保は微笑し、軽く頷いた。

「よく分かりましたね」

 そう言って今度は貞固を見た。

「比良野様。私は元々日野屋の娘だったのです」

「それはもちろん承知してござるが」

「日野屋は今でこそ見る影もなく落ちぶれてしまいましたが、元々は大店です。私はそこの娘です。私はチャキチャキの江戸娘なのです。だからこの町を離れたくはない。もう弘前でのような生活は嫌なのです」

「しかし、そう言われましてもなあ」

 貞固が渋った。

「ならば比良野殿、伊保さんをそなたの扶養親族にしたらよろしいではないか?義理とはいえ伊保さんと比良野殿は姉と弟、扶養しても何もおかしなことはなかろう」

 養竹が軽妙な口調で言った。

「それは・・・」

 貞固が言いよどむ。

「台所事情が厳しくてそれどころではないといったところかな?」

 養竹が相変わらずの口調で貞固を挑発する。貞固はムッとした。

「比良野殿、無礼でござろう。時代が時代なら切って捨てているものを、・・・残念ながら二本差しがござらん」

 貞固が歯ぎしりしながら言った。養竹は涼しい顔のままだ。

「二本差しはどうされたのかな?差し詰め質にでも入れたのであろう」

 貞固がもう一度歯ぎしりした。二本差しを質入れしたのはその通りなので反論できない。

「・・・しからば森殿、そなたがかつ殿亡きあと、姉さんを後添えにしたらいかがでござる。そなたは道純先生の一番弟子、忘れ形見の姉さんを後添えとし、面倒を見るとしても不自然ではなかろう。そなたは文部省で十分な給金を得ていると聞いている。姉さんとその子女の面倒を見るくらいどうということはないでござろう」

 聞いた養竹は首を左右に振った。

「確かに文部省の給金はあるが相変わらず金には不自由している。だからこんな安借家住まいをしているのだ。それに伊保さんを後添えにするのは問題ないというより、むしろ望むところだが石頭の義弟まで付いてきてはなあ」

「なんだと!」

 そんな二人のやり取りを見ていて今度は伊保が大声で笑い出した。

「何がおかしいのでござる?」

 貞固は憮然としたまま言った。伊保はそれでもしばらく笑っていた。

「・・・、これは失礼致しました。比良野様も森様も喧嘩するくらい仲良くなられたのだなあと感心してしまいました。昔は目も合わせなかったのに」

 聞いた二人は思わず目を合わせ、そして苦笑した。

「いかにも。激動の時代を生きてお互いに丸くなったのでござろう」と貞固。

「いやいや、ただ齢を重ねただけかもしれませんぞ」と養竹。

 そんな二人を伊保は微笑ましく見た。

「とにかく、状況は分かっていただけましたね?成善をどうやって言い聞かせるかはお二人にお任せします。ただ一つ、忘れないでいただきたいのは、私は表向き、成善の方に味方するということです。私は成善の肩を持ちますが、それを振り切って成善を説得していただきたいのです」

 それを聞いた二人は一瞬ポカンとした。少し間があった。

「・・・成善に味方すると?」と貞固。

「はい。しかし、それはあくまでも表向きです」と伊保。

「何故でござる?」

「私が成善に、己の思うままに生きてほしいと思うのは本心です。しかし、高等師範学校の給金も惜しい。それで退学は思いとどまってもらいたいのですが、成善に寄り添ってもいたいのです。もし、私が退学に反対したら成善は渋江を見限って家を出ていってしまうかもしれません。成善は渋江の当主。それは避けたいのです」

「だから私達に悪役になれと?」と養竹。

 伊保は貞固と養竹を交互に見て大きくうなずいた。

 

 その数日後、貞固と養竹は成善のいる時間を見計い、揃って横網町の下宿を尋ねてきて成善との面会を求めた。

 そして伊保も同席の上、四人は向かい合い、成善の退学問題について話し合った。

「比良野様と森様が一緒に訪ねて来られるなんて珍しいですね」

 何も知らない成善は二人の客人を交互に見ながらそう言った。

「本当にそうですね。それで成善のこととのことですが、どのようなことでしょうか?」と伊保。

 とぼけた伊保の態度に貞固は一つ咳払いをし、成善を見据えた。

「実は姉さんからそなたが高等師範学校を辞めようとしているということを聞いたのでござるが、相違ないか?」と貞固。

「はい。間違いありません。高等師範学校では自分の思っている勉強ができませんので」

 成善はそう言って伊保の方を向き「おっか様も賛成しています。そうですよね?おっか様」と伊保に同意を求めた。言われた伊保は貞固と養竹を交互に見た。

「ええ。私も賛成です。入学の便を図ってくださった森様には申し訳ないのですが、成善には自分の選んだ道を歩んでもらいたいですから」

 聞いた貞固はもう一度咳払いをした。

「意見したいことはそのことだ。拙者は退学には賛成できない。翻意するのだ」と貞固。

「ご心配をお掛けし申し訳ありません。しかし、これはもう決めたことなのです。どうか反対なさらないでいただきたいのです」

 成善はうつむき加減に言った。

「これは拙者だけの意見ではない。森殿も反対なのだ」

 貞固はそう言って養竹の方を見た。養竹はうなずいた。

「なぜ、そんなに反対されるのでございましょう?そもそも高等師範学校に行った目的は給金のため。私は十六で入学資格もなかった身。退学しても失うものはないと思いますが」

 貞固は養竹の方を向いて発言を促す。台本があるとはいえ、芝居をするのは貞固にはためらいがある。一方、養竹は自ら舞台に立ち、主役級を演じてもいる。元来、噓をつくことにもためらいはない。

 養竹は貞固のように一つ咳払いをして成善を見た。

「退学をして失うものはないとな?とんでもない。退学してしまうとそなたは大きなものを失うことになるぞ」と養竹。

「それは何でございましょう?」と成善。

「信用だよ」

「信用?」

「そうだ世間の信用だ」

「世間の信用とはどういうことでございましょうか」

「そなたは何も知らないのかもしれないが、退学処分を受けるとそれが世間に公表されてしまうのだ。そのことがこれから先、そなたの履歴に汚点となるかもしれない。我々はそれを心配しているのだ」

 成善は一瞬黙ったが、すぐに口を開いた。

「信用とはそんなに大きなものでしょうか?」

「大きいとも。高等師範学校を途中でやめてしまうような輩(やから)を、もちろん雇ってくれる者もいるだろうが、責任ある役回りに据えようとは思わないだろう」

「しかし、そんなことのためにやりたいこと、学びたいことを諦めるというのは私にとっては耐えがたいです」

 成善は毅然と言った。

「・・・別に諦めることにはならないのではないでしょうか」

 それまで黙って聞いていた伊保がポツリと言った。

「それはどういうことでしょう?」

 成善は隣の母を見て聞いた。

「もっと実利的に考えるのです。高等師範学校に行ったのはいわば給金をもらうためでしょう?」

「はい」

「では給金と自分の夢を分けて考えるのです」

「はあ」

「高等師範学校を出ればそれなりの仕事に付くことができ、それなりの給金をもらうこともできるでしょう。それはお前のやりたい仕事ではないかもしれないかもしれませんが、幸いお前はまだ若くて健康で、まだまだやり直しが効きます。今はお金を貯めることに専念するのです。そしてそれを貯めて、相当程度溜まったらそのお金で英語学校に通えば良いのです」

 言った伊保は貞固と養竹を交互に見て同意を求めた。

「なるほどそれは妙案だ」

 貞固が同意した。養竹もうなずく。

 成善はなおも不満だったが、ここは黙ってうなずくよりほかなかった。

 十月に入り、成善は諦めて高等師範学校の寄宿舎に入寮した。

 

 明治六年、成善は引き続き高等師範学校で勉学に励んでいたが、その成善のもとに弘前の矢島周禎から手紙が来た。近々上京するので息子の周策とともに相談に伺いたいというのである。

 成善は伊保と手紙の文面に首を捻った。周禎が渋江に相談したいことがあるというのは何だろう?

 可能性があるとすれば周禎の年下の養父優善のことである。

 成善の兄優善は矢島家の末期養子になったが、素行不良により隠居を命じられ、年長者養子周禎を取り、優善と周禎は形の上では親子の関係にあった。

 しかし、周禎としては武家である矢島株を買っただけのつもりでいる、すなわちお金で武士の身分を手に入れただけのつもりでいるので優善に義理立てするつもりはない。弘前にいた頃、元妻の鉄の面倒を周禎に見てもらおうと伊保が画策した折にもこれを一度は拒否しており、渋江家と矢島家の間には緊張関係があった。

 優善は引き続き浦和にいたものの、休みの日には本所の伊保を度々尋ねていたので、伊保と成善と優善とで周禎の本心を談義することになった。

 三人はある週末、本所の下宿で向き合った。

「周禎殿の手紙のことなのですが」と成善。

「うん」と優善。

「私に相談したいとのことですが、私個人としては相談されるようなことはもちろん思い浮かびません。ですからこれは渋江の当主である私に対してということだと思います。すると相談内容は優善兄さんのことしか考えられないのですが、何か心当たりはありますか?」

 言われても優善は首を捻るしかない。

「周禎は私もご無沙汰だからなあ。思いつくことはない。鉄と別れてからも久しいし。鉄がまだ周禎の世話になっていることは聞いているが」

「例えば鉄の面倒を見た費用を渋江に要求するということはありませんか?」と伊保。

 もしそうなったら渋江としては大打撃である。高等師範学校の学生である成善にとって、収入は高等師範学校からの給費金がほとんどすべてであって、足りない部分は伊保が針仕事の内職をしてなんとか食いつないでいる状況である。臨時の出費など賄えるはずはない。

「もちろんその可能性がないとは言い切れないが、矢島の台所がどうなっているのかは分からないからなあ。ただ、周禎は、医者としての腕は良いから弘前でも流行っているのではないかな?武家の名義を買うくらい金は持っていたからなあ」

 聞いた伊保は大きな咳払いをした。嫌な過去を思い出して本当にむせたのだろう。

 そんな母を気にして優善が続けた。

「それよりおっか様、眼の方はその後いかがですか?」

 優善が優しく尋ねた。優善は問題児ではあるが心根は優しい。

 伊保は若い頃は武芸にいそしみ、身体は鍛錬されており、成人してからは摂生に努めてきたので長らく無病の人だった。しかし、伊保はこの頃、眼病を患っていて、眼が見えにくくなっていた。

「良くはありません。もう歳ですしね」

 伊保が答えた。

「しかし、放っておくと悪くなる一方でしょう。医者に診せた方が良いのではないですか?」

 優善が続けて聞いた。

「お医者様に診てもらうにはお金が必要です。残念ながら今の渋江にはそれだけのお金はありません」

 伊保が静かに答えた。

「では、優善兄さんが診て上げたらよろしいではないですか。優善兄さんも津軽家では医官だったのですから」

 今度は成善が優善に聞いた。優善は津軽藩では奥医者まで務めている。

「できることならそうして差し上げたいのだが、私の専門は父譲りの痘であって、眼病は詳しくないのだ。それにもう医業からは遠ざかっているし、おっか様の眼を治せと言われても今の私の力量では無理だ。いっそ周禎に診てもらうかなあ。あやつは眼病が専門なのだ」

 優善が答えた。

「まあ、今すぐ見えなくなるとかそういうことではありませんからしばらくはこのままで大丈夫ですよ。成善が独り立ちしてからゆっくり治しますから、お前たちは心配しないで良いですよ」

 伊保は二人の子を交互に見ながら言って微笑んだ。

 

 それからしばらくして弘前から上京した矢島周禎が息子周策を連れ、本所横綱町の下宿にやってきた。当主の成善と伊保はもちろんだが、この日は優善も浦和から出てきてこの面談に立ち会った。

 五人は取り敢えず、お互いの無事を喜び合った。利害は対立したかもしれないが、幕末動乱の激動の時間を凌ぎ切ったという意味では同士でもあるのだ。

「それで、お手紙には私に相談したいことがあるとありましたが、一体、どのようなことでしょうか?」

 一通りのあいさつを終えると、成善が周禎に尋ねた。言われた周禎は居住まいを正し、つられて隣に座っている周策も居住まいを正した。

「実はこの周策、齢二十九になるのですが、上京の折、高等師範学校で学びたいと申しまして、私も異論はないのですが、これまで医学を学んでは来たものの、儒学の方はさっぱりで、そこで、高等師範学校受験に際し、成善殿に漢文をご教授いただけないかとそのお願いに参ったわけでございます」

 周禎は優善の年長者養子であり、年齢は周禎の方が親といってもおかしくないほどだが、元々周禎は武家ではないので、四民平等となっても元々武家の渋江の人に対しては慇懃に振る舞う。言葉遣いは江戸時代のそれのままだ。周禎が続けた。

「成善殿は十六歳で高等師範学校に入学されたと聞いております。入学資格が二十歳なのにもかかわらずです。さすがは津軽一の秀才、藩学の助教をしていただけのことはあると弘前でも噂されていたくらいです」

 聞いて成善は赤面した。十六歳で入学できたのは森養竹が手を回したからであり、純然たる成善の実力とも言い難い。

「入門料は弾ませていただきます。どうぞよろしくお願い致します」

 言って周禎は頭を下げ、ワンテンポ遅れて周策が頭を下げた。入門料という言葉に力が入っていたので矢島家の台所事情が豊かなことはそれとなく分かった。

 聞いた成善は伊保と優善を交互に見た。取り敢えず、矢島家が渋江家に無理難題を吹っ掛けるわけではないことを知り、伊保、成善、優善の三人は安堵した。そして、やはりここでも伊保はしたたかだった。

 成善と視線を合わせた伊保はうなずき、周禎の方を向き直った。

「周禎様、それは難しいですね」

 どう答えようか迷っている成善を制して伊保が言った。

「そこをなんとかお願いしたいのですが」と周禎。

「成善は今、高等師範学校で勉学に励んでいる身なのです。人様の勉強を見るというところまではとても気が回るものではありません。よそをあたってはいただけないでしょうか」

 伊保が言ったが周禎は引き下がらなかった。

「よそに頼るところがないから成善殿に頭を下げているのです。入門料は弾みます。無理なお願いであることは承知しておりますが、同じ津軽のよしみ、どうかお願い致します」

 言って周禎はさっきよりもより深く頭を下げ、周策も頭を下げた。

 伊保は十秒くらい二人の頭を眺め、二人が揃って顔を上げたところで口を開いた。

「では、私の方からも周禎様に無理なお願いを一つ聞いていただいてもよろしいでしょうか?」

 伊保が不気味に言った。

「はあ?」

 周禎が一気に緊張した。そうでなくても矢島家はこれまで渋江家に無理難題をさんざん持ち掛けられているのだ。

「入門料は弾んでいただくとして、さらに付け加えていただきたいことがあるのです」

「はあ」

「実は私、眼病を患いまして、お医者様に診ていただきたいとかねてから思っておりました」

「何、眼病ですと?」

「はい」

「少し拝見させていただけますかな?」

 周禎は言って伊保に近付き、伊保の眼をしばらく観察した。その辺はさすがに眼科の専門医のようであった。

「なるほど、これはひどい」

 周禎が言い、伊保が続けた。

「私もそう思ってはいるのですが、適当なお医者様が見当たりません。いたとしても今の渋江では治療の費えも払えません。当主の成善がまだ書生の身ですから。まあ、今すぐどうこうということではないので、成善が独り立ちしてからと思っていたのですが、もし周禎様にただで診ていただけるというのであればありがたいことです」

 伊保は「ただで」というところに力を入れつつも事務的に説明した。

「はあ」と周禎。周禎は逆に「ただで」というところが引っかかっているようだ。

「そもそも形の上では優善は周禎様の父。ということは、私は周禎様にとって祖母にあたることになりましょう」

「まあ、形の上ではそうなりますが」

 周禎は少し嫌な顔をして言った。

「祖母が医者の孫に自身の治療を委ねるのは罰当たりではなく、むしろ孝行と存じますが、いかがでしょう?」

 周禎は腕を組んで唸った。伊保が続けた。

「成善は書生の身。それに引き換え、周禎様は流行医者ではございませんか。もちろん、ご子息様の高等師範合格はこの成善が請け合います」

 言って伊保は成善を見た。心の準備ができていない成善は引きつりながらもうなずいた。

 聞いて周禎はしかめっ面を解き、むしろニッコリと微笑んで伊保を見た。

「分かりました。今は何といっても激動の時代。お互いに助け合わなくては生きてはいけませんな。伊保様の眼のことはお任せください。少し時間はかかりますが、良くなっていくと思います。その代わり、周策のことはよろしくお願い致します」

 周禎が言い、伊保、成善、優善はホッとした。

「ところで周禎殿。弘前を引き上げたということはこちらで開業されるおつもりか?」

 ホッとした優善が聞いた。

「霊岸島で開業することにしています」

 周禎が答えた。霊岸島は今の新川の辺りだ。

「鉄は元気にしていますか?」

 優善が前妻の消息をさり気なく聞いた。

「鉄殿はここから目と鼻の先、二つ目通でおもちゃ屋さんを開くそうです」

 周禎が答えた。

 結局、成善は多額の入門料をもらって周策の弟子入りを認め、漢文を伝授しただけでなく、受験対策の個人指導までやってみせ、周策はその年の試験に合格し、高等師範学校の門をくぐった。

 一方、伊保の眼病は周禎の治療の甲斐があり、治っていった。

 

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