男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



二 日野屋の危機

 藤堂家は伊保を重宝し、伊保は一年もたたずに中臈(ちゅうろう)頭に抜擢された。中臈とは今でいう女中で、中臈頭とは女中頭のことだ。天保二年正月の話である。

 通常、中臈頭に登用されるのは二十五歳くらいになってからなのであるが、伊保は若干十六歳でこの役職に就いたのだ。数えだから今の中学二年生ほどで、いかに大抜擢だったかが分かる。

 伊保の役回りは殿様付きで同時に祐筆を兼ねた。祐筆とは現代用語では書記といったところか。日記をつけたり、手紙を書いたりする役回りである。秘書といってもあながち不正確ではないだろう。

 それから数年、世の中は天災や飢饉に見舞われてはいたものの、表面的には平和であった。教科書に刻まれるほどの大事件は大塩平八郎の乱まで起こらない。

 伊保が藤堂家の奉公に来てから六年の年月が流れた天保八年、まさに大阪で大塩平八郎の乱が起きるその年に伊保のもとを一人の女が尋ねてきた。伊保の一つ年上の姉、安(やす)である。

 安は備後の国、福山城の主(あるじ)阿部家の江戸屋敷に奉公に出ており、金吾と名乗っていたが、この頃には横山町の塗物問屋長尾宗右衛門の妻となっていた。

 伊保は下女に来客を告げられ、使用人部屋に向かうと、部屋では安が待っていた。随分と慌てた様子だった。

「助けてほしいんだよ」といきなり安。

「何かあったんですか?」と伊保。

「兄さんが勘当されちまうんだよ」

「勘当?」

 兄栄次郎の素行不良は伊保も聞き及んでいる。教育熱心な父忠兵衛は栄次郎に身分不相応の教育を施し、武家の子弟しか通えないはずの昌平坂学問所に学ばせてもいた。

 しかし、栄次郎は期待に応えることができず、その足は昌平坂ではなく吉原に向いていたのだ。

「兄さんが吉原の遊女に入れ込んじまってさ、身請けするって言って父さんと大喧嘩・・・」

「・・・それで私にどうしろと?」

 伊保は静かにため息をついた。

「分からない」

「分からない?」

「とにかく父さんに会ってどうしたら良いか聞いて。私の手には負えない」

「・・・分かりました。実家で騒動が起きているということで藤堂様には短い暇(いとま)をお願い致します。それで、お父様とお兄様の間にいさかいが起きているという話ですが、お兄様は今、家にはいないということですね?」

「ああ。今は吉原の遊女のところにいるよ」

「では、お父様とお兄様、どちらに先に会った方が良いでしょうか?」

「ああ、そういうことか。・・・それなら、それは兄さんの方だね。とにかく兄さんが今、どういう状況にあるのかを目に焼き付けてから父さんの話を聞く方が良いと思う」

「お姉様はお兄様にお会いになられたのですよね?」

「ああ、ひどいもんだったよ」

「では、お姉様がお父様とお兄様の仲裁をなされば良いではないですか?」

「さっき言ったでしょ。私の手には負えないって」

「では宗右衛門様は?」

「あいつは駄目だよ。昼間から酒飲んでばっかりでまるで役に立たないから。とにかくあたし達じゃ手に負えないと思ったんで父さんもこのあたしに伊保を呼びにやったんだよ」

「私の手にも負えないのでは?」

 伊保は首を捻った。

「あんた、藤堂様のお屋敷じゃ男ノ助って呼ばれてるんだろ?父さんはその力量を見込んでいるのさ」

 聞いて伊保はもう一度ため息が出た。面倒だとは思ったが、より面倒にならないために伊保は暇乞いをし、安と共にまずは吉原に向かった。日はまだ高い。

 

 安と伊保は栄次郎のいる女楼閣に着くと、下男に案内され、奥の部屋に通された。

 中に通されるとそこには遊女の膝枕で耳かきをされている目をつぶっている男が横たわっていた。今風に例えるなら秋葉原の耳かきサロンのような光景だ。

 伊保は情けない気持ちになり、一気に疲労感が襲って来た。来客に気付いた兄が目を開けた。

「ちょうど良いところに来た。なあ、伊保。お前に頼みがある」

 栄次郎は伊保を一瞥すると、久し振りに会ったというのに、世間話をするでもなく、少しにやけた。

「何でございましょう?」と冷静に伊保。

 兄と会うのは久し振りだが、伊保は事務的で冷たい。

「親父殿から大金を預かってきてもらいたいのだ」

 兄は飄々としていた。

「何に使うのでございましょう?」

「この司を身請けするのだ」

 言って兄は再び目をつぶった。それで伊保は膝枕の主が話題の遊女であることを知った。

「分かりました」

 伊保が短く返事をすると、それ以上は兄と話すこともなく、すぐに女楼閣を後にしたのは目の前の光景に耐えられなかったからである。

 

 一緒に女楼閣を出た安は「後は任せたと」言って長尾の屋敷に帰ってしまった。伊保はその足で日野屋に向かい、父忠兵衛を奥座敷に尋ねた。忠兵衛は文机に向かい、帳簿を見ているようであった。

「お呼びになられたと聞いて藤堂様から短い暇をいただいてまいりました」と伊保。

 聞いて忠兵衛は手招きをし、伊保を近くに座らせた。

「大変なことになった」と忠兵衛。

「今、お兄様にお会いしてまいりました」

「吉原に行ったのか?」

「はい。それで、司を身請けするのでお父様からお金を預かってくるようにと言われました」

 聞いて忠兵衛は苦虫を潰した。伊保が続けた。

「それで、お父様は何をお望みなのですか?」

「栄次郎を呼び戻してもらいたい」

「連れて帰ってくれば良いのですか?」

「そうだ」

「それでは身請けのお金を私にお預けくださいませ。そうすればすぐにでもお兄様を連れて帰れると思います。もちろん、その場合、司という名の女郎が付いてまいりますが」

 伊保は兄に対するのと同じように、父に対しても冷たく事務的だった。聞いた忠兵衛はもう一度苦虫を潰した。

「そういう話ではない。そんなことは分かっているだろう。そんなことはできない。できるはずがなかろう。お前ほどの教養があれば簡単に分かることではないか」

「はい。分かります。それではどうやって連れて帰れとお父様はおっしゃるのですか?」

 娘に詰問された父は首を横に振った。

「それはお前が考えてくれ。わしには分からん。とにかく栄次郎を連れ戻してきてくれ。もちろん金はやらん。司を身請けするなど論外だ。そして吉原には二度と行かないように戒めてやってほしい」

「お兄様を戒めるのはお父様のお役目かと存じますが」

「そんなことは分かっている。だからわしはあやつを勘当するのだ。これ以上の戒めはあるまい」

「では勘当を許されれば良いのではないですか?」

「そんなことをしたらわしの面目が丸つぶれだ。ただあやつの方からこれまでの行状を詫び、心を入れ替えて商売にいそしむというのであれば許してやらないでもない。だからお前にはあやつのところに行ってあやつがわしに詫びを入れるという段取りを作ってほしいのだ。もちろんわしに言われたという話ではなしに」

 言われて伊保はようやく今回の呼び戻しの概要がおぼろげながらつかめてきた。伊保は軽くため息をついた。

「早い話が親子喧嘩の仲裁に駆り出されたのですね。私は」

「まあ、そういう解釈でも良い」

 随分と面倒な役回りだ。

「私には少々荷が重過ぎるのですが」

「お前しか頼る者がおらん。安は駄目だ。安の婿も駄目だ」

「宗右衛門様はお兄さまとは同窓、話も合うのではないですか?」

 安の夫、宗右衛門も昌平坂学問所で学ぶ高学歴な商人(あきんど)だ。

「話が合うから駄目なのだ。学はあるかもしれないが二人とも同類。宗右衛門は商売も番頭に任せきりにし、酒ばかり飲んでいる。吉原に行かないだけ栄次郎よりましかもしれないが」

「それにしても私には荷が重過ぎます」

「・・・では道純先生にでも相談すれば良い」

 父は天を仰ぎながら独り言のようにポツリとつぶやいた。

「・・・渋江の道純先生ですか?」

「栄次郎の教育を道純先生にお任せしているところもあったのだ。それなのにこの体たらくだ。道純先生に多少の責任を負わせても罪ではあるまい」

 それも無茶な話で道純には迷惑だろうと伊保は思ったが、道純は有能な人物である。元々は津軽藩お抱えの学医、すなわち診療よりも研究を軸とする、今で言うところの研究医だが儒学にも明るい学者だ。相談すれば何か解決のヒントは得られるかもしれない。

「分かりました。では明日、台所町のお屋敷に行ってまいります」

 伊保はその晩、向柳原の藤堂邸には戻らず、久し振りに実家で眠った。

 

 次の日の昼前、伊保は台所町の渋江道純の屋敷を訪問した。

 玄関で声を掛けると書生と思われる若党が応対し、一度奥に下がって、品の良さそうな婦人が出てきた。渋江道純の三番目の妻徳だ。徳はこの年、三十二歳になる。

「実家に帰ってたんだ」と徳。

 伊保は父忠兵衛が道純の父允茂と懇意にしており、昔から渋江家と山内家の間には交流があり、兄栄次郎は道純に師事しているので奥方の徳とも知らない間柄ではない。

「はい。道純先生はいらっしゃいますか?」

「せっかく来てもらったのにごめんなさい。今、いないのよ」

 徳は申し訳なさそうに言った。

「お出かけですか。いつ頃お戻りに?」

「しばらく戻らないわよ。二、三年戻らないかも」

「何かあったんですか?」

 伊保は驚いて尋ねた。二、三年も家を空けるなどただ事ではない。

「国許に戻ったのよ。信順(のぶゆき)様の随行でね。信順様が国詰めの間は戻らない予定だよ」

 参勤交代は幕藩体制を維持するためのシステムであり、学校では江戸と国許を半年ごとに行ったり来たりすると解説しているが、江戸時代も後期になるとこのシステムも緩んでくる。必ずしも半年交代とは限らない。

「そうですか」と残念そうな伊保。

 津軽藩主津軽信順が国許に詰めているというのであれば藩医の道純もこれに従うほかなく、江戸に戻るのがいつになるのか分かるはずもない。

「夫に何か?」と徳。

「実は兄のことで相談したいと思いまして・・・」

 それだけで徳は状況を理解したようだった。同情というよりも表情が明るくなったようにさえ見えた。他人の不幸は蜜の味といったところか。

「ああ、栄次郎さんのことね。大変そうだね」

「そうなんです」

「ねえ、夫は今、いないけど、良かったらその相談、あたしが受けようか?」

「徳様がですか?」

 伊保は少しビックリした顔で言った。

「まあ、相談でなくても良いんだけど、雑談でも良いんだけど、ちょっと外に出てご飯でも食べない?お伊保ちゃんには色々と聞きたいことがあるから」

「聞きたいことって、・・・例えば何ですか?」

 伊保には心当たりがない。

「それは武勇伝とか。まあ、とにかく外に出よう。ちょっと待ってて。仕度してくるから」

 徳はそう言って伊保を待たせたまま奥に引っ込み、外出着に着替えて出てきて、屋敷からは少し離れた、ちょっぴり高級感のあるそば屋に入った。

 昼間から若い婦人が二人で外食など良い身分だ。伊保は兄のことをそっちのけで楽しい気分になっていた。今風に言えばランチ会といったところだ。

 徳もこういう機会は珍しいのだろう。二人は楽しそうに奥の座敷で向き合った。

「さっき、徳様がおっしゃっていた武勇伝って何ですか?」と伊保。

 徳は出されたお茶を啜った。

「例えば本丸で奉公していた時の話よ」

「はて、何かありましたでしょうか?」

「お伊保ちゃんが津山城主松平様の婿君と剣術の試合をやってぼっこぼこにしたって話を聞いたけど」

 聞いて伊保は渋い顔をした。尾ひれはひれがついている。

「そんなことはやっておりません。嘘でございます」

 伊保は怒った口調で言った。

「火のないところに煙は立たないと思うけど。松平様はともかく、当の若君の方は相当ご立腹で、お伊保ちゃんに仕返ししてやるって息巻いてるって噂だよ」

「確かに、松平様の婿様と一悶着あったのは事実でございます」

 伊保はややトーンダウンした。

「何があったの?」

「婿様を組み伏せました」

「じゃあ当たらずも遠からずね」

 徳は笑いを堪えていた。伊保は自分から話題を変えた。

「それで兄のことなんですけど」

「随分とひどいことになっているようね。私、町の噂話には興味なしだけど、その私の耳に入るくらいだからね」

 伊保は「たった今、私の噂話に興味を示していたではありませんか」と言いたいところだったが、その言葉は飲み込んだ。

「父に言われたんです。呼び戻してこいと」

「あれっ、じゃあ勘当は解かれるんだね?良かったじゃない」

「全然良くありません。勘当を解くわけじゃありません。そりゃ、兄が父に謝れば勘当は解かれるかもしれませんけど、兄にはそんな気はないようですし。私はただ親子喧嘩の仲裁に駆り出されているだけなんです。だから困っているんです」

 伊保は困った顔つきをした。

「栄次郎さん、女郎に入れあげてるっていう話だけど、真剣なんだね?」

「そのようです。昨日、兄にも会ったんですけど、私には良さが分かりません」

「そう?私はそういうの素敵だなって思うけど」

「えっ?何が素敵なんですか?」

 思いもよらない意見に伊保はハッとした。

「男女がお互いに本当に惚れ合って、色々な障害を乗り越えて夫婦(めおと)になるってことよ」

「そんな」

「もちろんお伊保ちゃんの言いたいことは分かってるよ。ふしだらだって言いたいんでしょ?」

「ええ。百姓や職人ならともかく大店(おおだな)の子息がそんなことをするなんて」

「でも私は憧れるな。そんな生活に」

 聞いて伊保は少し驚き、改まって尋ねた。

「それって、道純先生との生活に不満があるということですか?」

「もちろん。不満だらけだよ」

 徳がしれっと言った。聞いた伊保は深いため息をつき、徳を上目遣いににらみながら続けた。

「そんな言い方はないと思います。そうお感じになるのは徳様が恵まれ過ぎているからです。あまりにも恵まれ過ぎているから目の前のことが見えないのだと思います」

 伊保が怒った口調で言った。

「恵まれてるって?私が?どこが?」

「道純先生のような素晴らしいお方のところに嫁したことです」

 聞いた徳は一瞬固まり、そしてニヤッとした。

「そうか、お伊保ちゃんはああいうのが好みなんだ」

 徳はいたずらっぽい口調になった。変なことを言われ伊保は少し赤くなった。

「何をおっしゃいます。そういうことではございません。ただ、一家の主としてはこの上ないということです。真面目で、お酒もたしなまず、吉原などとは縁もない。道純先生の爪の垢を煎じて兄に飲ませてやりたいくらいです」

 照れた伊保は少し早口になった。

「なるほどね。でもそれは栄次郎さんがひど過ぎるだけだと思うよ。道純はね、一緒にいてもつまらないよ。確かに頭は良いよ。津軽じゃ一番だろうね。頭が良すぎて幕府の直参になるんじゃないかって思うくらい」

「それは素晴らしいじゃないですか」

「それ自体はね。でも欠点もあって、さっきお伊保ちゃんが言ってたように酒を飲まないっていうのもそうなんだけど、確かに酒を飲まないのは長所でもあるけど面白味には欠けるよね。私の髪飾りが変わっても気付いたことないのよ。たったの一度だって」

「はあ」

「それと胆力がない。武家なのにね。まあ、それは医者だから、それも学医だから腕っぷしが弱いのは仕方ない部分もあるけど。それと最大の欠点はお金に無頓着なこと。だから家計はいつも火の車。こればっかりはどうしようもない」

「お金に無頓着っておっしゃいますけど、道純先生、お酒はたしなまれませんし、吉原通いとか、変な遊びもなさらないではありませんか」

 伊保がやや厳しい口調で抗議した。

「でも渋江の家、お金は全然たまらないの。結構、稼いでるんだよ。何でだと思う?結構稼いでいて変な遊びもしない。でもお金はたまらない」

 伊保は珍問に首を捻った。

「さあ」

「理由は二つあるの。一つは食客よ」

「書生さんですか?」

 食客、あるいは書生、あるいは居候は貧しかった日本ではあたり前に見られた光景だ。それが見られなくなってしまったのはいつ頃からなのだろう。

 今でも経済的な理由で進学を諦める若者はいる。貧富の差が激しかった昔はなおのことだったろう。しかし、貧富の差が激しかったからこそ、書生というシステムが機能していたとも言える。

 向学心はあるが金のない若者は金持ちに衣食住を委ね、奇特な金持ちは何の見返りも要求することなく、持てるものを若者に提供すれば良かった。そして若者がビッグになったとき、今度は自分が若い頃にしてもらったことをしてあげる番になる。

 そういうルールでこの奨学金システムはつい最近まで機能していたはずであるが、最近では質の良い教育ローンに取って代わられてしまっている。

「遊びはしないけど、分不相応に食客を居候させているのよ。見込みのある、貧しい若者を放っておけないのね」

「そういうことですか」

 伊保は納得した表情を見せた。

「そしてもう一つが本」

「本?」

「そう。やっぱり学者なのか、購入する本の量が半端じゃないの。本当に貸本屋ができるくらいの量の、それと質もね、渋江の屋敷にはあるわね」

「それなら本貸しを商売としてなさったら良いではありませんか?家の中が火の車というのであれば」

「さすがはお伊保ちゃん。商人の娘だねえ。実際に本貸しはしてるのよ。色んな人が色んな本をそれこそ毎日借りていくわ。でもね、道純は決してお金なんか取らないのよ」

 徳は伊保の疑問にはきはきと答える。

「なるほど、道純先生らしいです」

「でもそれだけじゃないの。笑っちゃうんだけど、借りた本を返さない輩(やから)が沢山いるの。でも道純はケチをつけたりしない。それだけじゃない。借りた本を古本屋で売ってしまう輩さえいるのよ。それでも道純は怒ったり、ケチつけたり、出入り禁止にしたりはしないの。だから江戸の古本屋には渋江の号の入った古本が沢山売ってるのよ。もっと笑っちゃうんだけど、道純がその本を、お金を払って古本屋から買い戻すこともあるの。まったく何やってんのって感じよねえ」

 それを聞いて伊保は道純の人間性に触れた気がした。そして道純の妻である目の前のこの人は果たして幸せと言えるのかどうか考えた。

 もし自分が徳の立場だったら、きっと幸せを感じるのだろう。誠実で教養もある藩医の妻。その姿を伊保は少し夢想した。

「ねえ、今、ピンと来たんだけど、お伊保ちゃん、道純の妻としてふさわしいんじゃないかなあ」

「はあ?何をおっしゃるんですか」

 結構、図星というか、まさに道純の妻として自分がふさわしいと考えていたところだったので伊保はうろたえた。

「商人の娘だし、渋江の家計を切り回していけるよ」

「・・・・・・」

「それにお伊保ちゃんなら道純の用心棒も務まるかも。藤堂様のお屋敷じゃ男ノ助って呼ばれてんでしょ?あハハハハ」

 徳の笑い声とは逆に、伊保は大きなため息をついた。

「話、元に戻して良いですか?」

 本当はそんなことを言われてうれしくもあるのだが、照れくささもあってそれを隠すように不機嫌な振りをした。

「話って何だっけ?」

 徳があっけらかんと聞いた。

「兄の話です」

「ああ、そうだった、そうだった。で、お伊保ちゃんとしてはどうしたいの?」

「私としては、あまり興味はありません。ただ、日野屋のごたごたに巻き込まれるのは嫌なのです。藤堂様のお務めに専念したいので」

「じゃあ、良いんじゃない?栄次郎さんの好きにさせておけば。お伊保ちゃんはふしだらだっていうかもしれないけど、そういうの西洋では貴族でも結構、普通にあって、自由恋愛っていうそうだよ」

「自由恋愛ですか?」

「そう」

「でも兄は日野屋の跡取りですよ?」

 聞いた徳は大きく首を振った。

「大店の跡取りだなんて関係ないよ。実はね、武家でもその自由恋愛とやらで夫婦になった人もいるんだよ」

「本当ですか?」

「そう。案外身近にね。きっとお伊保ちゃんの知ってる人だよ」

「どなたですか?」

「比良野貞固(さだかた)様。ほうら津軽家留守居役、比良野文蔵様のご嫡男だよ」

 貞固のことは栄次郎が津軽藩の学医道純の門下生ということもあり、知ってはいるが、自由恋愛で奥方と結ばれたという話は聞いたことがない。

「なんと、留守居役の跡取りともあろうお方が。徳様はなぜご存知なのですか?」

「実は貞固様は夫の先妻のお威能さんの弟御なのよ」

「へえ、そうだったんですか・・・。それで比良野様はご無事なのですか?」

「無事なわけないよ。奥様共々勘当されてしまって、今、神田の裏店で細々と暮らしているよ。でも素敵じゃない。津軽家重鎮としての誇りを捨てて愛を貫くなんて。私は福山の城主お抱えの医者の娘だけどうらやましいと思っちゃった」

 それを聞いて伊保の頭の中にはひらめくものがあった。

「徳様、お願いがあるのですが」

「何、改まって」

「比良野様に会わせていただきたいのです」

「良いけど、何かするの?」

 徳が不思議そうに尋ねる。

「・・・今の徳様のお話しを聞いて、私も自由恋愛とやらの素晴らしさを理解しました。つきましてはもし、比良野様が幸せな家庭を築いていらっしゃるのならば私は父ではなく、兄の方に付いてこの件を終わりにしたいと思います」

 そして二人は雑談しながら昼餉を済ませた後、その足で神田の裏店に向かい、貞固と顔を合わせてから、伊保は、この日は一度、藤堂邸に戻った。

 

 次の日、伊保は栄次郎を連れて貞固の裏店へと向かった。司も同行している。司は女郎ではなく、普通の格好をしているのでこうして歩いているとどこにでもいる普通の娘だ。

「どうして急に比良野様のところに行くことになったのだ?しかも司も連れて」と栄次郎。

 伊保はずんずんと前を歩く。

「昨日、道純先生の奥様の徳様とお会いしました」

「徳様に?どうして?」

「お兄様のことを相談したのです」

「出過ぎてやしないか?まあ、そういうことか。それで?」

「お兄様のような生き方も素晴らしいんじゃないかと言われました。自由恋愛というそうです」

「自由恋愛?」

 兄は首を捻る。

「お兄様と司とがです。徳様の話を聞いて私もそれが正しいんじゃないかと思うようになりました。それで私もお兄様の応援をしたいと思い、自由恋愛の先達である比良野様に司の仮親になっていただこうと考えたのです」

 そんなことを話しながら三人は貞固の住む長屋に到着した。貞固の住まいは奥の方なので狭く薄暗い。

 入口の扉は開いており、伊保は中に「ごめんください」と声を掛けて中に入り、栄次郎も中に入り、司も入った。さらに土間から奥をのぞいたものの貞固の姿は見えず、四畳半の汚い部屋の中でみすぼらしい下男が一人、何か作業をしているだけだった。虫かごをいじっているようにも見える。

 やがて下男はようやく侵入者に気付き、顔を上げて栄次郎と目を合わせた。そして、「おう、栄次郎じゃないか。どうした?」と言った。そこで初めて栄次郎は目の前にいるのが下男ではなく比良野貞固その人であることを認識した。

「比良野様。一体こんなところで何をなさっておられるのですか?」

 栄次郎は驚きの声を挙げた。自分の知っている貞固と目の前のそれとのギャップに栄次郎はついていかれない。

「ああ、これか?鈴虫を育てているのだ」と貞固。

「鈴虫をですって?何故そんなことをなされているのです?」と栄次郎。

「何故って言われてもなあ。まあ、内職だ。食い扶持を稼がないといけないからな。結構、金になるのだ。そんなことより、そなたはどうしたのだ」

 聞かれたが栄次郎が絶句しているので代わりに伊保が口を開いた。

「昨日は突然お邪魔し、失礼致しました。兄が吉原の女郎と夫婦になりたいと申しているのですが、貞固様におかれましてはその女郎の仮親になっていただけないかと存じましてこうしてやってまいりました」

 聞いて貞固は伊保と栄次郎を交互に見た。

「なるほど、拙者のような生き様に憧れるのだな?それは構わぬが、それより栄次郎よ、何か食う物を持ってきてはくれぬか。ここのところ何も食べていないのだ」

 貞固は飄々としていたが栄次郎は茫然と立ち尽くしたままだった。貞固がさらに続けた。

「ところでその花嫁とやらはどこにおるのだ?」

 聞かれたので栄次郎は後ろを振り返ったが、そこにはいたはずの司の姿はなかった。栄次郎は「探してくる」と言って踵を返し、裏店から出て行った。

 残された伊保は栄次郎の後ろ姿を見送り、もう二人が戻って来るとは思わなかったので、貞固に向き直り、

「出直してまいります。奥様にもよろしくお伝えください」

「そうか。では、そなたも忠兵衛殿によろしくお伝えくだされ」

 聞くと伊保は貞固に一礼し裏店を後にした。そして日野屋には帰らず、そのまま藤堂家の屋敷に戻った。

 

 次の日の昼頃、藤堂邸の伊保は来客だと言われて勝手口から裏門を見ると剃髪した男が裏門のところに立っていた。男は伊保に気付くと笑いかけた。

 父忠兵衛と交流のある福山城主阿部家の医師石川貞白であり、伊保もこの医師を知っていたので、近付いていって伊保から声を掛けた。

「私に何かご用でしょうか?」

「やあ、すまぬがそなたの兄のことでお願いがあって参った」

 貞白は首を通りの先の方に向けた。角の陰に栄次郎が隠れているのが見える。

 伊保には貞白の言わんとしていることには何となく見当がついていた。兄が自分との面会を求めたのだが藤堂家の敷居が高過ぎて、それで貞白をメッセンジャーとして送り込んだということなのだろう。

 伊保は貞白と栄次郎の所まで歩いて行った。兄はおどおどしている。

「お兄様、どういうことでございますか?」と伊保。

「実はな、その、女楼閣を追い出されてしまったのだ」と栄次郎。

「司に追い出されたというのですか?」

「そうなのだ。比良野様の生活があまりにもひどかったので、こんなことになるのならとても一緒にはいられないと愛想を尽かされてしまったのだ」

 栄次郎は伊保にすがるように言った。伊保は計算通りだったので冷静に応じた。

「それで、どうなさるおつもりですか?」

「日野屋に帰って親父殿に謝りたい」

「それで私に仲裁をしろと」

「そうだ。もうお前しか頼れるものがおらん」

 伊保は内心微笑んでいたが、それでも表情は憮然としていた。

「分かりました。でも一つ条件がございます」

「ああ、何でも言ってくれ。お前の言う通りにするよ」

「もう二度と吉原には行かないとお誓いください」

「それは・・・」

「では、お引き取りください。私はお務めがありますのでこれで」

 引き上げようとする伊保に栄次郎は食い下がって

「分かった、分かった。お前の言う通りにする」

 栄次郎は力なく言った。

 

 日野屋の奥座敷で忠兵衛を前にし、栄次郎はうなだれていた。後ろに伊保が座っている。

「それでどうするというのだ」と忠兵衛。

 声に力がある。栄次郎が黙っているので伊保が口を開いた。

「今回は私の顔に免じてお兄様をお許しいただけないでしょうか」

 忠兵衛の腹はとっくに決まっていたがそれでももったいをつけるように少し考える素振りを見せた。

「分かった。許すつもりはさらさらないが、伊保がそこまで言うのなら少し様子を見てやろう」

 聞くと伊保は「ありがとうございます」と言って深々と頭を下げ、少し遅れて栄次郎も居住まいを正し、忠兵衛に向かって手をついて頭を下げた。

「栄次郎!そんなところで何をボーっとしている。さっさと小僧の格好をして店の前の掃除でもせんか。お前は最初からやり直しだ」

 忠兵衛がそう言うと栄次郎は「はいっ」と返事をしてもう一度忠兵衛に一礼し、部屋から出て行った。残された伊保は顔を上げた。

「伊保。まずは礼を言う」と忠兵衛。

「どういたしまして」と伊保。

「しかし、一体何をやったのだ。あやつが頭を下げてくるなど、わしには信じられんのだが。からくりをわしにも教えてくれないか」

「比良野貞固様に引き合わせたのです」

 伊保は冷静に言った。

「貞固様とな?貞固様は確か勘当されて・・・」

「今は神田の裏店にお住まいです」

「そうか」

「貞固様のお姿をお兄様に見せれば、親に勘当された者がどのような運命を歩むかを見せれば、そうすればお兄様にはとても我慢できないだろうと考えたのです。しかし、それ以上に我慢できなかったのは司の方でした。お兄様はさっさと司に愛想を尽かされ、捨てられてしまいました」

 聞いた忠兵衛は満足そうに微笑んだ。

「見事だったよ。お前が跡取りだったら良かったのにな」

 聞いて伊保も微笑んだ。

「何か望むものはあるかな?」と忠兵衛。

「はい、ございます」と伊保。

「何だ?」

「もう、兄のことで私を藤堂様のお屋敷から呼び戻すことはやめにして頂きたいのです。日野屋のごたごたに関わるのはうんざりですから」

「分かった。約束しよう」

 忠兵衛は大きなため息をついた。そして、伊保が男だったらどんなに良かっただろうと改めて思った。

 

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