男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



三 日野屋の危機再び

 それからしばらく日野屋は表面的には平和だったが、それは、本当に表面的な平和に過ぎず、お家騒動の種火はくすぶり続けていた。

 そして、司の事件が起きてから二年が経った天保十年の春、伊保のもとに再び実家に戻るようメッセージが届けられた。

 しかし、今回は前回のように姉の安(やす)がメッセンジャーとして派遣されたのではない。実家から御台所宛に書簡が送られ、伊保は御台所の口から直接、実家に戻るよう命じられたのである。父忠兵衛が病にふせっているとのことだった。

 伊保は既に中臈(ちゅうろう)頭であり、従者として伊保の上に立つものはいない。結果として、御台所から直接指示が下ることになる。

 この年、主人である藤堂和泉守夫妻は伊勢神宮を参詣することになっていて、参詣の随員には伊保も数えられていた。それを伊保も楽しみにしていたのであるが、急遽、実家に呼び戻されることになったのである。

 伊保は不承不承ながら神田紺屋町の実家に急いだ。

 父が病にふせっているとは聞いていない。何かの間違いだろうとも思った。もちろん父はそれなりに齢(よわい)を重ねているから頑健とは言えないだろう。しかし、交友関係の中には医者も多く、体調不良を自覚してもその対応は速やかだろう。

 あるいは日野屋の暖簾に何か問題が生じていて、自分を呼び戻す口実に病を偽っているだけなのだろうか。伊保の明晰な頭の中を様々な憶測が右往左往した。

 悶々としているうちに日野屋に到着した。ちょうど店先から栄次郎が現れた。

「おお、伊保、帰ったか」

 栄次郎はどこかに出掛けるようで少し気まずそうだったが、それでも嬉々としていた。

「お兄さま・・・。それで・・・お父様のご容態はいかがなのですか?」

 嬉々満面な兄とは真反対に伊保が心配そうに尋ねる。

「父上か。父上は元気だぞ」

「お元気?」

「ああ、この上なく元気だ。その目でとくと確かめるがよい」

 伊保は訳が分からなくなって首を捻った。

「病にふせっていると聞いたのですが」

「それは口実だ。伊保。お前はなんでも藤堂様のお供でお伊勢参りに行く予定だったそうだな」

「はい」

「父上はそれが許せないのだ。おなごがお伊勢参りに行くなどということがな。父上様はそういうお考えの持ち主なのだ。では、私はこれから遊びに行くのでな。ハハハハハ」

 高笑いを残し兄は屋敷から出て行った。

 栄次郎の後ろ姿を見送ると、伊保は手荷物を店先の手代に預け、足早に屋敷の奥に進んだ。奥の間の障子が開いていて、忠兵衛が奥に座り、文机の上に帳面を広げていた。

 忠兵衛は廊下の伊保に気が付くと顔を向け、一言「お帰り」と言った。

「お父様。病と伺いましたが、お加減はよろしいのですか?」と伊保。

「見ての通りだ」と忠兵衛。

「床にふせっておいでかと存じました。では、ご病気だというのは嘘だったのですね?」

 さっき兄に言われたことが裏書きされたと思った伊保は忠兵衛の前に進み、忠兵衛を正面に捉えて、怒った口調で言った。楽しみにしていたお伊勢参りを駄目にされたという思いもあった。聞いて忠兵衛は少し苦笑いした。

「嘘ではない。わしが病にかかってこのところ調子を落としているのは事実だ」

「さっきお兄様にお会いしました」

 相変わらず怒った口調の伊保。

「ああ、栄次郎に会ったか。何か言っていたか?」

 一方の忠兵衛は飄々としている。

「病というのは私を藤堂様から呼び戻す口実だったと」

「それだけか?」

「私をお伊勢参りに行かせたくないがためにかような嘘をおつきになったと。お兄様はそうおっしゃっていました」

「なるほどね。まあ座りなさい」

 言って忠兵衛は右手で合図し、伊保に座るようすすめた。伊保は忠兵衛の前でかしこまった。

「確かに病でふせっているというのは嘘だ。しかしな、お前をお伊勢参りに行かせないために藤堂様から呼び戻したというのも嘘なのだ。つまりわしは病にふせっていると言って藤堂様をだまし、お前のお伊勢参りの邪魔をすると言って栄次郎をだましたのだ」

 伊保はさらに訳が分からなくなった。

「なぜそのような戯言を」

 言われた忠兵衛は文机の帳面を閉じ、文机の上に両肘をついて顔の前で両手を合わせた。

「伊保、お前に頼みがある」

 忠兵衛が真剣な表情を見せたので、伊保はかしこまったままうなずいた。

「何でございましょう?」

「日野屋の暖簾を継いでもらえないだろうか」

「どういうことでございましょうか」

「お前は完全に理解しているだろうが、栄次郎は駄目だ。安の婿殿も駄目だ」

 日野屋の長男栄次郎も長女安の婿、横山町の塗物問屋、長尾宗右衛門も商人(あきんど)の倅としてはありえないほどの学を授けられていたはずであった。

 栄次郎は元々津軽藩のお抱え医師にして儒者、渋江道純の下で学んでいたが、後に昌平坂学問所に通うことになった。昌平坂学問所は江戸幕府直轄の学校であり、旗本など武家の子弟の学び舎だった。その学び舎に商人の倅である栄次郎が通い、宗右衛門も通った。栄次郎と宗右衛門は商人の倅でありながら侍の子弟に交じって侍と同等あるいはそれ以上の教育を受けていたのだ。

 しかし、学と商才あるいは人間力は別のものだ。栄次郎は吉原通いに溺れ、宗右衛門は商売を番頭任せにして酒に浸っている。伊保にしかこの日野屋の暖簾を守ることができないことは誰の目にも明らかだった。

「私に婿を取れとおっしゃるのですか?」

 伊保はすべてを理解したように言った。

「そういう歳でもあろう。色々な人からお前の話を聞いている。お前ならこの日野屋を切り回していける」

「婿を取るという話はもう進んでいるのですね?」

 忠兵衛は決して行き当たりばったりではない。かなり用意周到にことを進める方だ。その忠兵衛が暖簾の話をするということは入り婿の候補者も上がっているのだろう。

「上野広小路の呉服店、伊藤松坂屋は知っているな?」と忠兵衛。

「はい」と伊保。

「伊藤松坂屋に三十過ぎの通い番頭がいる」

「お兄様はどうなさるのですか?」

「浜照を知っているか?」

「浜照?」

「吉原のかぶろだ」

「かぶろ?」

「お前には馴染みがないだろうが、遊女見習いだ」

「吉原はもう終わってお兄様も反省し、謹慎されていたのではないのですか?そう聞いておりますが」

 二年前、そういうことで話は決着していたはずである。だからこの二年間、藤堂家で奉公していた伊保が兄のことで煩わされることはなかった。

「栄次郎は弱い男だ。そしてこのわしも弱い男だ。栄次郎はお前の力で勘当されずに済んだ。しかし、謹慎している間に栄次郎が入れていた司という遊女はどこぞの田舎大臣が身請けしてしまったのだ」

「・・・それで?」

 伊保はしばし沈黙の後、言った。

「それを聞いた栄次郎はひどくふさぎ込んでしまった。わしがもっと強ければ栄次郎を他に導く手立てがあったのかもしれん。しかし、あいにくわしも弱い男だった。こんな大事なことを簡単に解決しようとしてしまった」

「どうされたのです?」

「人に頼んで栄次郎を吉原に連れて行ってもらったのだ」

「・・・そこで浜照というかぶろと?」

「浜照は司の見習いだった。だから栄次郎は浜照の客になって前よりも盛んに遊び始めたのだ。元気にはなったのだが商人としては使い物にならなくなった。まあ、もっともそれがなくても使い物にはならなかったかもしれないが」

 忠兵衛は力なく言った。

「それで、どうされるのですか?」

「浜照を身請けし、さらに妻(さい)にするそうだ。だから今度こそ本当に栄次郎を勘当することになる。そうするほかあるまい。この日野屋の暖簾を守るためには」

 そこまで話す忠兵衛は天を仰いで一つ大きく息を吐き、伊保に視線を戻して続けた。

「伊保、どうか分かってほしい。お前はもはや藤堂様のところに戻ることはない。松坂屋の通い番頭であればお前との釣り合いも取れている。日野屋の暖簾を守り、出来損ないの兄と姉、そして姉の婿を助けてほしい。お前の力量ならこの日野屋を切り回していける。わしももうそう長くはない。どうかこれを最後の親孝行だと思って受け止めてはくれないだろうか」

 忠兵衛は言って居住まいを正し、文机に手をつき、「この通りだ」と言って伊保に深々と頭を下げ、さらにその額を文机につけた。

 伊保は額を文机につけたまま動かない父の姿を見て複雑な気持ちになった。

「・・・ともかく、思ったよりもお父様がお元気なので安心しました」

 伊保が言うと忠兵衛は顔を上げた。

「確かに床にふせるほどではないが病なのは事実だ。今日も後で道純先生にお越しいただくことになっている」

 道純の名を聞いて伊保はハッとした。道純が来るということが往診を意味することは説明されずとも理解できた。

「道純先生は国許からお戻りになられたのですか?」

 津軽藩の藩医である道純は藩主信順(のぶゆき)に従い、国許に戻っていたはずである。それで、この前、この兄の問題で道純に相談しようと思ったとき、道純ではなく、妻の徳が対応したのだ。

「この春にな。この五月には津軽様で代替わりがあるそうだ」

「代替わりでございますか?」

「信順公が隠居されるのだ。道純先生はご隠居様付きになられるのだろうな。それで、江戸に戻って来られたのでわしの病を見てもらっている。良くはないようだ」

 最初は元気だった忠兵衛は病人のように言った。

「・・・・・・」

 伊保は次の言葉が出ない。

「お前も道純先生とはご無沙汰であろう。あいさつに行ってきたらどうだ」

 忠兵衛に言われて伊保は「はい」と静かに返事をした。

 

 忠兵衛の部屋を辞した伊保は、その足で道純の屋敷に向かった。

 二年前も兄のことで道純に相談しようとしたが、道純は国許に戻っていて相談はできていない。対応したのは妻の徳で、徳とも世間話しかできなかった。

 それでも伊保は徳との会話から解決のヒントを見つけ出し、自らの力で解決してみせた。今は道純がいるということなので道純から何かヒントを導き出すことができるだろうか?

 道純は二年間、国許である弘前に戻っていた。もっとも道純は江戸詰めの藩医であり、生まれも育ちも江戸で、弘前になじみはないはずである。妻の徳は江戸に残したままであり、言うなれば今でいう単身赴任だった。弘前での生活はどのようなものだったのだろうか。そんなことを考えながら歩いているうちに渋江の屋敷に着いた。

 約束はしていなかったが、玄関で来意を告げると徳が現れた。徳は相変わらず快活で「あら、お伊保ちゃん」と声を掛けると、少し世間話があってから一度奥に戻り、玄関に戻ってきて伊保を屋敷の奥に案内し、自身は席を外した。

 奥の道純の部屋では道純が儒者らしくかしこまって伊保を迎え、着座を勧めた。奥の文机には紙や硯や筆が出されたままで何か書き物をしていたのだろうと思われた。

「ごあいさつに伺いました」

 着座した伊保は畳に両手をつき、ゆっくりと頭を下げた。

「忠兵衛殿のことだな?」

 伊保が顔を上げると道純が言った。

「はい?」

 伊保は少し面食らった。伊保はここに来るまでの間、兄のことや日野屋の暖簾、あるいは道純の弘前での生活などは考えていたが、忠兵衛の病のことはすっかり頭の隅に追いやられていた。

「忠兵衛殿の病について聞きに来たのではないのか?」

 伊保がポカンとしているので道純がもう一度尋ねた。

「あっ、はっ、はい」

 伊保はぎこちない返事をした。道純に問われるまで忠兵衛の容態のことなど気にしていなかったのは事実であるが、忠兵衛の娘である自分がわざわざ単身、医師である道純を訪ねて来るのは、道純からしてみれば父の容態を詳しく聞きたいからだろうと思うのが自然であり、道純に言われて初めて伊保はそのことに気付いた。

 伊保は少し動揺した。道純が続けた。

「率直に申し上げるが御父上の容態は良くはない」

「はい」

 伊保はもう一度ぎこちない返事をした。

「隠していてもそなたのためにもならないだろうからはっきりと言うが、次の正月を迎えられるかどうかといったところだ」

 聞いて伊保は絶句した。さっき会ったばかりの父は伊保の目には元気に見えた。もちろん、話が進むうちに元気さはなくなっていったが、それは日野屋の暖簾が原因であり、病がひどく、後一年ももたないとはとても思えなかった。

 忠兵衛が「最後の親孝行」と言っていた意味を伊保はようやく理解した。

「そなたは日野屋の暖簾を継ぐために藤堂様のお屋敷から戻ったのではないのか?そう聞いているが」

 伊保が黙っているので道純が続けた。

「・・・いいえ。父がそんなに悪いなどとは私も存じませんでした。ただ、父は以前から私に日野屋を継がせようとしておりましたので・・・」

「どういうことだ?」

 道純が首を捻った。

「どういうこととおっしゃられますと?」

「私はそなたがどこそかから婿をとって日野屋の暖簾を継ぐということを聞いている。国許にいたとき徳から長い手紙をもらっていて、江戸でのことは細かいことまで手に取るように分かっていたのだ。だから私はそなたが忠兵衛殿の容態もある程度は承知していて、それで奉公から戻ったものと思っていた。しかし今の口振りでは何も知らされてはいないようだな」

「・・・はい」

 少しの沈黙の後、伊保はしっかりと答えた。

「そなたは日野屋を継ぐことが不満なのか?」

 道純が続ける。

「はい」

「そなたはどうしたいのだ?」

「日野屋の暖簾を継ぎたくはありません。日野屋を継ぐのは誰から見ても兄であるべきで、決して私ではありません」

「しかし、今の栄次郎の力量では無理であろう。それに比べてそなたの力量は十分すぎる」

「お誉めいただきありがとうございます。しかし、私は日野屋の暖簾に人生のすべてをつぎ込みたくはありません」

「日野屋の女主人ではそなたの生き様がつまらないと?」

「それもあります。今のままでは兄の食い扶持にされてしまうのは目に見えています」

 伊保は躊躇することなくハッキリと言った。

「なるほど。さすがは男ノ助と呼ばれるだけのことはあるな。私が忠兵衛殿でも間違いなく栄次郎ではなくそなたに暖簾を継がせたいと思うだろう。しかし、栄次郎に食い物にされたくないというそなたの考えももっともだ。さりとてどうする?このままでは栄次郎は勘当されてしまうぞ」

「それを道純先生に相談させていただきたいのです。私はどうすればよろしいのでしょうか?」

 聞いて道純は腕を組み、目をつぶって少し考える素振りを見せた。

「まず、そなたがやらなければならないことは栄次郎の廃嫡を逃れしめることだ」

「勘当を阻止しろと?」

「栄次郎が勘当されてしまったら日野屋の暖簾はそなたが継ぐほかなくなってしまうではないか」

 聞いて伊保は唇を噛んだ。

 家督相続がなくなった現代においては制度としての勘当はなくなった。もっとも制度としての勘当はなくなっても言葉としては残っていて、漫画やテレビドラマとかでも使われているし、言葉そのものは小学生でも知っているだろう。

 この時代は制度としての勘当があった。制度なのだから当然、要式行為である。

 親あるいは子が積極的に親子関係を断とうとするとき、子が幼ければ、あるいは親が老いていれば、ともすればそれは子捨て親捨てということになりかねない。

 だから親子関係を断とうとする場合、それは厳格な要式行為でなければならないこととなる。証人が求められ、奉行所への届けが必要とされる。

 親が子を勘当する場合、その理由のほとんどは子の素行不良ということだろう。現代では家督相続はなくなり、近代的な遺言制度も整ったので制度としての勘当は必要なくなったのかもしれない。ただ遺留分減殺制度が残される遺族を被相続人の気まぐれから救っている。

「廃嫡について忠兵衛殿からは何か聞いていないのかな?」

 伊保が黙っているので道純が続けた。

「何かとおっしゃいますと?」

「どのような手続きを踏んで栄次郎を勘当するのかということだ。例えば証人は誰にするのかとかそういうことだ」

「いえ、何も。父の病気がひどいということも今、初めて知ったくらいですから。道純先生は何かご存知ですか?」

 聞いて道純は軽くため息をついた。

「そなたには申し訳ないが、私は医者だ。医者というのは患者の秘密をペラペラとしゃべることはできないのだ」

「私は忠兵衛の娘です。まったくの他人というわけでもありませんが」

 伊保が抗議する。

「たとえ家族であっても話せないこともあるのだ。医者と患者は信頼関係がなくてはならない。もちろん病状は家族にも告げるだろう。それは、家族の理解がなければ治療は進まないし、家族は家族として準備しなければならないこともあるからだ。しかし、医業とは関係のない個人的なことはやはり家族でも話すことはできない。それに、実際問題として私は栄次郎を廃嫡するということは聞かされているが、どのように手続するのかまでは聞かされてはいないのだ」

「そうですか」

 伊保が再び唇を噛む。

「ではどう致す?とにもかくにも栄次郎の廃嫡を阻止しなければ話にならない」

「・・・奉行所への届けを阻止すれば兄は勘当されずに済みますでしょうか?」

 しばしの思案の後、伊保は道純に尋ねた。

「まあ、そういうことにはなるが、しかし、一体どうやって阻止するつもりだ?」

 道純の声にも力が入る。

「誰を証人にするのか分かりませんがその人に、証人にならないよう説得します」

「しかし、誰が証人になるのか分からないのでは話が進まないではないか?私は知らないし、たとえ知っていたとしても私の口から話すことはできない。さっき説明したとおりだ」

 聞いた伊保は居住まいを正し、続けた。

「道純先生の口からお聞きすることは諦めます。つきましては父の口から聞きたいので一つお力を貸していただけませんでしょうか」

 伊保は顔を上げたまま畳に両手をついて言った。

「私に協力しろと?何をしろと言うのだ?」

 道純は不審そうに尋ねた。

「先生は今日、これから日野屋へ往診にいらっしゃると聞いております。父がそう申しておりました」

「ああ、その予定だが」

 道純が相槌を打つ。

「その時、父から誰を兄勘当の証人にするか聞き出していただきたいのです」

「聞き出すのは良いが、さっきも言ったが私には秘密を守る義務がある。たとえ聞き出せたところでそなたに教えることはできないぞ」

 道純が首を捻る。

「聞き出して下さればそれで結構です。私は隣の部屋で聞き耳を立てております。そうすれば私が証人について聞き及ぶのは父の口から直接ということになります。道純先生にご迷惑をお掛けすることはありません」

 聞いて道純はため息をついた。

「それでは盗み聞きではないか」

 伊保は首を左右に振る。

「いいえ、盗み聞きではありません。先生が父を診ている時にたまたま私が隣の部屋にいた。そして父の声が聞こえてしまった。ただそれだけのことでございます」

「だがなあ」

 道純が渋るので伊保は追い討ちをかけた。

「父はこう申しておりました。兄がああなってしまったのは道純先生にも責任があると」

「私に責任?」

 道純は眉をひそめた。

「兄は道純先生の門人です。その兄が素行不良になったのは師匠にも責任の一端があるのではないでしょうか?」

 伊保は、口調は丁寧に、それでいて道純を咎めるように言った。

 道純は一瞬ムッとした表情になったが、次の瞬間には苦笑していた。

「・・・なるほど、確かに私は栄次郎の師匠だ。私にも責任があると言われればそれはそうかもしれない。分かった分かった。そなたの言う通りにしよう。しかし、まあ、・・・さすがは男ノ助と呼ばれるだけのことはあるなあ」

 道純は半ば感心し、半ば呆れていた。

 

 その日の午後、道純は往診のため日野屋を訪れた。

 後で分かったことだが、忠兵衛はこの頃、調子が良い時は起き上がって文机に向かい、そうでないときは床に就いているような生活を送っていた。伊保が最初に忠兵衛に面会した時はちょうど調子が良い時だったのだ。

 道純は寝間に忠兵衛を訪ねた。

「今日、伊保殿が見えました」

 一通り診察を終えると道純は横になっている忠兵衛に言った。

「道純先生が国許からお戻りになったことを伝えましたのでごあいさつに伺ったのでしょう」

 忠兵衛は床に臥せたまま応じた。

「日野屋の暖簾を気にしておられましたよ」

「日野屋の暖簾は伊保に継いでもらいます。先生も伊保が適任だと思われるでしょう」

「今日、その話も出たのだが、本人は嫌がっているようでしたよ」

「そのようです。困ったものです。しかし、伊保以外に選択の余地はありません。ここはわしから先生にもお願いなのですが、先生にも伊保を説得するお手伝いを願えませんでしょうか」

 聞いて道純は言葉に詰まった。道純は伊保の側についてしまっているのだ。話題を変えた、というより本題に入った。ふすまの向こうに伊保の気配を感じる。

「ところで栄次郎のことは廃嫡なさるおつもりか?」

「ええ。あやつがいると伊保も決心がつかないでしょうから。勘当してしまえば伊保も諦めて日野屋を継ぐことを決断してくれると思います」

 道純は忠兵衛の迷いのなさに思わず笑ってしまいそうになったがそこはこらえた。

「ところで忠兵衛殿。廃嫡されるとして奉行所への届け出が必要となろう。奉行所に届け出るとして証人はどなたかあてがあるのかな?あてがないようであればこの私が証人になっても構わぬが」

「いえいえ、そんなことで先生を煩わせることなどできません」

 忠兵衛は普通に遠慮した。

「しかし、さっき伊保殿は、栄次郎のことについては師匠である私にも責任があると、そう言っていましたぞ」

 聞いて忠兵衛は驚き、少し沈黙した。

「・・・あやつめ、そんなことを先生に。それは失礼致しました。そんなことはございません。栄次郎の不始末はすべて親であるこの私の責任です」

 忠兵衛は恐縮した。

「しかし、伊保殿はそなたがそう言っていたと、この道純の責任であると言っていたと、だからこの道純に相談するように言っていたと、そう言っていたが・・・」

 聞いて忠兵衛はさらに長い時間、沈黙した。

「・・・重ね重ね申し訳ございません。確かにこの忠兵衛が伊保にそのようなことを言ったのは事実でございます。しかしそれは、その~、親子喧嘩の上での戯言であって本心ではございません。伊保も戯言と分かっていながらわざわざ道純先生に告げ口するとは。・・・いやいや、これも親である私の不手際でございます」

 忠兵衛は申し訳なさそうに弁解した。

「そんなことは良い。それよりもし証人にお困りであればこの私が証人になるがいかがかな?私は忠兵衛殿の主治医であるし、栄次郎の師匠筋でもある。この私が証人になれば奉行所も変な詮索はしまい」

 道純が話を元に戻した。

「いえいえ、道純先生にそんな役回りはもったいのうございます。証人は間に合っていますのでご心配には及びません」

「ほう、どなたかな?私の知っている人かな?」

 道純は普通に尋ねた。

「実は私の腹違いの兄に十人衆を務めていた男がいるのです。この者を証人に立てようと思っています。十人衆を務めたほどの男であれば、奉行所の信頼も厚いでしょうから」

 忠兵衛は普通に答えた。

「なるほど、それは良い。十人衆を務めておられた腹違いの兄御ですか。十人衆を務めたお方なら奉行所の信頼は十分であろうし、親類縁者ならばなおさらのことだ。良い方を見つけてまいりましたな」

 道純はふすまの向こうの伊保の気配に向かって言うようにしっかりした口調で復唱した。忠兵衛は特に意に返さなかった。

 

 それから月日は流れ、この年の十二月七日、忠兵衛は帰らぬ人となった。

 忠兵衛は予定通り勘当届を奉行所に提出したが、不備があったようで手続きは遅れに遅れた。その前に忠兵衛は帰天し、ついに栄次郎が廃嫡されることはなかった。

 年の瀬も迫ったある日、伊保は長きに渡る診療の礼を言うため道純の屋敷を訪れた。

 そして以前と同じように、道純と二人きりで向き合った。

「父のこと長きに渡りありがとうございました」

 伊保が畳に両手をついて深々と頭を下げた。

「栄次郎は廃嫡を逃れたそうだな?」

 伊保が顔を上げるのを待って道純が尋ねた。

「はい」

 伊保はしっかりと答えた。

「しかし、忠兵衛殿の遺言ではそなたが日野屋の暖簾を受け継ぐことになっていたはずだが」

「確かにそのようにはなっていましたが、有無を言わさず、すぐに兄に返しました。ですから家督は兄のところにあります」

「そうか」

 聞いた道純は静かに言い、続けた。

「しかし、あれからどうしたのだ。忠兵衛殿が廃嫡の証人に腹違いの兄を立てるというのは当事者以外、この私とそなたしか知らない秘密であったが」

 聞かれた伊保はクスリと笑った。

「特別なことはしておりません。伯父上様にお会いし、証人にならないようお願いしただけでございます」

「よくそなたの言うことを聞き入れてくれたなあ。十人衆を務めたほどの男が」

「確かに、見た目は立派な方ではございましたが、気が弱く、優柔不断でした」

 それを聞いた道純はギクリとした。

「脅したのか?」

 道純が驚いて尋ねた。

「滅相もありません。あくまでも強くお願いしただけです。ただ、気の強いお方ではありませんでしたので簡単でしたよ」

 それを聞いて道純はもう一度驚き、気を落ち着かせるために軽く深呼吸した。

「・・・しかし、これですべてが解決したわけではないな」

 道純がポツリとつぶやいた。

「そうですね。取り敢えず一時しのぎをしただけです」

 伊保は自分の言葉を噛みしめ、神妙になった。

 

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