またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。
忠兵衛が没し、日野屋は喪に服した。そのため上野広小路の呉服店伊藤松坂屋の通い番頭を婿に取るという話は一旦棚上げになったので伊保の気は幾分楽にはなっていた。
しかし、問題が先送りされているだけで日野屋を巡る問題は暗礁に乗り上げたままだった。
日野屋の暖簾は忠兵衛の遺言により伊保が受け継ぐことになったが、伊保はすぐにこれを兄栄次郎に返していた。忠兵衛の後を継いだ栄次郎は、父の没後、三年ほど謹慎しており、商売にいそしんでいるようにも見え、表面上、日野屋は平和だった。
しかし、天保十三年になった頃から栄次郎の吉原通いが再燃し始めていた。相手はかつての浜照であり、忠兵衛というお目付け役を失った栄次郎は以前よりも激しく放蕩にふけるようになった。世は老中水野忠邦の天保の改革が中途半端に終わろうとしている頃である。
栄次郎は日野屋の暖簾を伊保に押し付けようとし、次のようなシナリオを描いた。伊藤松坂屋の通い番頭を婿入りさせる話を復活させる→浜照を落籍させ、妻とする→自身は隠居し、伊保夫婦に日野屋を継がせる→銀座の役人株でも購入し、のんべんだらりと余生を過ごす。
こんなことを考えていたものの婿入り話について妹はいつまでも首を縦に振らない。そんな兄と妹が静かに暖簾を押し付け合ううちに時は流れ、弘化元年を迎えると、渋江道純の妻徳の訃報がもたらされた。
道純の父充成と日野屋の主(あるじ)故山内忠兵衛は厚い友情で結ばれており、栄次郎は道純の門下生でもある。伊保は今の主である栄次郎と共に葬儀に参列し、道純とも顔を合わせているが近くで声をかけることはできていない。道純は喪主で忙しく、伊保も日野屋山内家の主ではないのだ。
なんとか直接道純にお悔やみを述べたいと伊保が思っているうちに道純は幕府の直参となり、登城するようになった。幕府の直参となるのは大出世であり、大変名誉なことである。そこで伊保はそのお祝いをも述べるため、渋江家に人をやって段取りを整え、ようやく道純と会う機会を作ることができた。
もっとも渋江家と山内家は先代以来の交友があり、伊保が渋江家を訪れること自体はおかしな話ではない。
渋江の屋敷に赴いた伊保は玄関で来意を告げると若党を従えた道純が現れた。
「これはこれは伊保殿、よく来て下さった」
伊保はかしこまった。
「道純先生。・・・徳様のこと心よりお悔やみ申し上げます」
出世のお祝いより、まずその言葉が出て伊保は一礼した。そんな伊保を見て道純は微笑んだ。
「よろしければ線香でもあげていって下さらぬか」
道純は傍にいる若党に案内を促し、奥に入り、若党は「どうぞこちらへ」と言って、伊保を仏間に案内した。
伊保は線香をあげ、合掌し、徳の冥福を祈り、振り返って改めて道純に一礼した。
「そなたの話は徳からも色々と聞いていた」と静かに道純。
聞いて伊保は少し驚いた。この夫婦の会話に自分が登場するなど、考えてもいなかったからである。道純が続けた。
「その後、栄次郎はどうなのだ。商売にいそしんでいるのか?」
「・・・残念ながら以前よりも悪くなってしまいました」
伊保は力なく言った。
「悪くというと?」
「吉原の女郎を身請けし、妻(さい)にすると言っております」
「そうか?吉原の女郎はどこそかの田舎大臣が身請けし、栄次郎はもう吉原には通っていないと聞いていたのだが」
「一度はそうなりました。父が亡くなってしばらくは大丈夫でした。しかし、月日が経つうちに元の兄に戻ってしまったのです」
「なるほど、元の木阿弥になったと」
「元の木阿弥よりもひどい結果になってしまいました」
「では日野屋の暖簾はそなたが受け継ぐのかな?」
「兄はそのつもりですが・・・」
「そなたにはそのつもりはないと」
「はい。しかし、兄は父が進めていた婿入りの話を蒸し返して、これを進めようとしているのです」
「婿入りの話は以前、聞いた気がするがどういう話だったろう?」
「上野広小路の呉服屋の通い番頭を私の婿として迎えるという話です。父の生前、その話は随分と具体化されていたのですが、私が首を縦に振らないうちに父が亡くなってしまい、棚上げになっているのです。兄はその話を蒸し返してきました・・・」
「それで、そなたはどうしたいのだ?」
「・・・それは、・・・分かりません」
「分からないとな?それでは栄次郎の提案に文句のつけようもないではないか」
「そうでしょうか?」
「そうだ。例えて言うならお国の政策にくちばしを入れるようなものだ」
「・・・・・・」
「例えの方が難しかったかな?ただ文句をつけるだけでは誰にも話を聞いてはもらえないということだ。代案というものがないとな。これをこうしたいという、あるべき姿というものが必要なのだ」
「あるべき姿?」
「そうだ。あるべき姿だ。本来あるべき姿はこうだが、現状はこうなっている。だからあるべき姿に直さなければならないと言わなければ説得力は生まれまい。通い番頭を婿入りさせてそなたに日野屋を継がせようというのはそなたにとってあるべき姿ではないのであろう?伊保殿がどう描いているかだ」
言われて伊保はうつむいた。現状が受け入れられないがこうしたいという代案があるわけではない。
「今はまだ分かりません。ただ、父や兄に押し付けられるような人生、日野屋の暖簾に縛られるような人生でないことは分かります。自分の人生は自分の意思で歩いていきたいのです」
「そうか・・・」
言って道純は黙った。しばらく黙っているので伊保は自分が変なことを言ってしまったのではないかと少し心配になった。
「・・・すみません。私、何かおかしなことを申し上げましたか?」
やや間があって
「・・・いや、そなたの言ったことがおかしいのではない。ただ、そなたの話を聞いていて徳は自分の人生をどのように考えていたのかなと思っただけなのだ」
道純はしんみりと言った。
「徳様は素晴らしい人生だったと思います。道純先生のような素晴らしい方のところに嫁されたのですから」
「果たしてそうかな?徳も自分の意思でこの私のところに嫁したのではない。父に、あるいは兄に言われたから仕方なく嫁したのだ。今のそなたと同じ状況だと思うが」
「それは・・・」
そう言われてしまうと次の言葉が出てこない。
「それに今だから言ってしまうが、実を言うと、私と徳はあまりうまくいっていなかったのだ」
聞いて伊保は驚き、道純の顔を見た。
「何をおっしゃいますか。お子にも恵まれていたではありませんか」
「そうだな。でも好も八三郎もまだ赤子のうちに逝ってしまった。それで私はなんとなく分かったのだ。本当の愛情に恵まれなければ、子は健やかに成長することはできないと」
「・・・・・・」
「そなたも私とのことを徳から聞いていたのではないか?」
聞いてもう一度、伊保は衝撃を受けた。こういうときに伊保は嘘をつける性格ではない。
「・・・確かに伺っておりました」
「何と?」
「それは・・・」
伊保が躊躇する。
「聞かせてくれぬか?徳の本当の気持ちを知っておきたいのだ」
伊保は改めて道純を見た。道純の力強いまなざしが伊保を襲う。伊保は観念した。
「酒も飲まず、女の簪も分からない。つまらないと笑っておっしゃっておられました」
「そうか。それは国許に行っている間の話だな?皮肉なことに、国許で冬を過ごすうちに私には晩酌の習慣がついてしまったのだ。弘前はあまりにも寒かったのでな。晩酌で寒さを凌いだのだ」
「そうでしたか」
「しかし、それはただの晩酌で、外でどんちゃん騒ぎをするようなことはしていない。旅に出ることもなく、遊びはせいぜい芝居見物をするくらいだからつまらない男だと思われてもそれはそれで仕方ないな。・・・他に何か聞いているか?」
「家計が火の車だとおっしゃっていました。道純先生が書生を置き過ぎるとか本を買い過ぎるとかそういうところが原因だと」
「そうか。私は徳に嫌な思いをさせてしまっていたのだな」
「しかし、私には徳様が不幸せには見えませんでした。夫婦(めおと)の間の考えの違いなど、どんな夫婦の間にもあるものなのではありませんか?他人に愚痴を言いたくなることぐらい誰にでもあることだと思います」
「そうかもしれないが私と徳とは馬が合わなかったのは事実だ。そしてその原因は間違いなく、この私にある。私はどうも本人ではなく、親や兄を見て妻を決めてしまう癖があるのだ」
「癖でございますか?」
「他に適当な言葉が浮かばないから癖と言ったのだが適切ではないかもしれない。性分とでもいうのかな?徳の前の妻だった威能は津軽家留守居役比良野文蔵様の娘だ。だからこの人の娘なら大丈夫だと思ったのだ。実際に大丈夫だったのだが残念ながら短命だった。徳は福山城主阿部家のお抱え医師、岡西玄亭の妹で、玄亭は立派な人物だったからこの人の妹なら大丈夫だとまた思ったのだが、これは駄目だった。だから、婚姻してすぐに私は国許に長逗留するのだが、これは却って夫婦のためには良かったかもしれない。毎日顔を合わせていたのでは徳もやり切れなかっただろう」
「しかし、以前、道純先生は徳様からいつも長い手紙が来ると、それで江戸のことは細かいことまで手に取るように分かるとそうおっしゃっていたではありませんか。それはやはり夫を思ってのことではないのですか?」
「確かに手紙は来たよ。しかし、それは徳が自分で書いたものではない。もちろん徳の筆跡ではあったから徳が書いたのだが、徳が自分の意思で書いていたのではない。亡き父が下書きをしていたのだ」
「分かるのですか?」
「ああ。父の文体に気付けないほど私は愚かではない。父は私と徳の間を心配していた。だから私が弘前に長逗留している間に私の心が徳から離れてしまうことを心配して徳に長い手紙を書かせていたのだ」
「そうだったのですか」
「だから私は徳よりも父を悲しませないために良い夫婦であろうとした。おかしな話だよな」
「・・・私にはよく分かりません」
「そなたの考えは案外、正しいのかもしれない。自分の人生は自分で決めるべきで、父や兄であっても干渉を許してはいけないのかもしれない。やはり夫婦は自分で相手をキチンと見て選ばなければならないのだろう。さすがは忠兵衛殿の娘だな。そなたはしっかりとした考えを持っているよ。そなたはどこぞに奉公していた頃、男ノ助と呼ばれていたのだろう?そのことを思い出したよ」
言って道純は笑い、伊保は赤面した。話題を変えた。
「ところで先ほど比良野様のお名前が出ましたが、ご嫡子の貞固(さだかた)様はお元気なのでしょうか?」
「貞固を知っているのか?」
「はい。もう七年くらい前になるでしょうか。徳様のご紹介で勘当されていた貞固様にお会いしたことがございます。まだ神田の裏店にいらっしゃるのですか?」
「思い出した。栄次郎が女郎を身請けするのに貞固を仮親にしようとしたのだな?」
「それはそうですがそんなことまでご存知でしたか」
「徳の長い手紙に書いてあったのを覚えていたのだ」
「そうでしたか」
「貞固のことは案ずるに及ばない。貞固はその後、勘当が解けたのだ。今は比良野の嫡男としての務めを立派に果たしているよ」
言うと若党がやってきて道純に来客を告げた。伊保は道純に目配せし、退席の意をそれとなく伝えた。
「貴重なお話を伺いありがとうございました。それと申し遅れましたが、この度はご出世おめでとうございます。私はこれにて失礼致します」
伊保は両手をついて暇乞いをした。
「こちらこそ貴重な話を聞かせてもらった。本当はもっとゆっくりしてもらいたいところなのだが忙しくなってしまったのは事実だ。出世という程のことでもないが、本音を言うと徳にもその姿を見せてやりたかったな。もっとも徳は家計がもっと苦しくなるといって素直に喜びはしないだろうが」
言うと道純は立ち上がり、伊保は手をついたまま頭を下げた。
「しかし、徳は早かった」
道純がポツリと言った。
「はい」
伊保が返事をすると仏間を出ようとした道純は振り返ってもう一度伊保に顔を向けた。
「日野屋の件、どうなるにせよそなたにとって良い結果になることを祈っている。まあ、栄次郎との我慢比べになるのかもしれないが」
言って道純は若党に先導され、仏間から出て行った。
それから日が過ぎ、栄次郎が「話がしたい」と改まって言ってきた。伊保は直感的に棚上げになっている日野屋の暖簾の行方の決着を着けようとしているのだろうと思った。
栄次郎は伊保を日野屋の奥座敷に招き入れた。
「浜照を落籍させることにしたよ」と静かに栄次郎。
「おめでとうございます。これで、晴れて夫婦になれるのですね」と一層の皮肉を込めて伊保。
「ああ、そうだ。それで、お前も婿入りの話をいい加減に受け止めてもらいたい。お前にとっても悪い話ではなかろう。それにもう嫁に行きそびれているではないか」
「日野屋の暖簾はお兄様に守っていただきたく存じます」
伊保は譲らない。
「それは無理だ。浜照に女将は無理だ。俺にも商才はない。それはお前も十分分かっている話だろう?いいか。お前がこの日野屋の暖簾を継ぐことは親父殿の遺志でもあるのだぞ」
伊保は兄の話にまともに応じず、
「浜照は吉原から直接、この日野屋に輿入れするのですか?それも随分と身分不相応と存じますが」
伊保の皮肉めいた口調を聞いた栄次郎はそれを問われることを予想していたかのように、勝ち誇ったように言った。
「そんなことはしない。浜照は貞白先生に仮親になっていただく」
福山城主阿部家の医師石川貞白は日野屋にも出入りしていて栄次郎とも昵懇の中だ。もっと分かりやすくいえば悪い遊び仲間で、七年前に栄次郎が父忠兵衛に勘当されそうになった際、伊保との間に入ったのも貞白だった。
「石川貞白先生ですか・・・」
伊保はため息をついたが、それを聞いて次の瞬間頭の中にひらめくものがあった。しかし顔には出さず、冷静に続けた。
「・・・お兄様にお願いがございます」と急に改まって伊保。
「何だ?急に」とやや驚いた表情で栄次郎。
「貞白先生をここにお連れいただけないでしょうか?お話ししたいことがございます」
伊保はやや早口になった。
「貞白先生を連れて来いだと?それは構わないが、仮親にならないよう説得しようとしても無駄だぞ。貞白先生は私を裏切るようなことはしないし、貞白先生が浜照の仮親になることはもう決まったことなのだ。後戻りはできないぞ」
「それは承知しております。そうではなく、浜照の件とは別に貞白先生にお話したいことがあるのです。内密に」
「んんっ」
栄次郎は唸った。そして伊保は貞白に文句の一つでも言ってやりたいのだろうと考えた。
貞白には申し訳ないが、その程度で伊保の気が紛れるのであれば、そして、伊保が棚上げになっている伊藤松坂屋の通い番頭の婿入りを受け入れ日野屋の暖簾を継いでくれるならば、さらに、自身は浜照を身請けした上でさっさと隠居し、安全地帯へと逃げおおせるのならば、こんなに易いことはないと思った。
「分かった。良いだろう。ではすぐに連れてくるよ。でもなあ、伊保。貞白先生にはこの兄の方から特別にお願いし、先生は渋々引き受けてくださったのだ。だからあまりいじめないでくれよ」
栄次郎が自嘲気味に言うと伊保は理解したように不気味に笑って見せた。
次の日、貞白はすぐにやってきた。盗み聞きをされるといけないので栄次郎には金を持たせ、遊びに行かせた。その徹底ぶりに貞白の方がたじろいだ。
「この度はご足労いただきありがとうございます」と奥座敷で手をつき頭を下げての伊保。
「足労というほどのことでもないが」と貞白。
伊保に罵倒されることを覚悟している貞白の額には既に冷や汗が浮き出ている。
「今日はお願いがあってお呼びだて致しました」
伊保の態度がいつになく慇懃なので貞白はかえって調子を狂わされる。
「あらかじめ断っておくが、たとえ伊保殿の願いでも、浜照の身請けをなしにするということはもはやできませぬぞ。これはもう決まったことなのだ」
貞白はきっぱりと言ったつもりだが言葉に力が入らず凄味が出ない。
「そんなことではございません。お願いは私自身についてのことでございます」
「伊保殿ご自身のこと?」
「先生は阿部家の医師でいらっしゃいますから、渋江道純先生の家にもよく出入りされていらっしゃいますね?」
「もちろん主家は違えど同じお抱え医師だし、井沢蘭軒先生の門下ということもある。交流もあるし、情報交換もしているが、それが何か?」
「そこでお願いがございます」
言うと伊保は居住まいを正し、貞白の前に両手をついた。
「私を徳様亡き後、道純先生の後添えのご斡旋をしていただきたいのです」
伊保は深々と頭を下げた。
仰天したのは貞白の方である。予想外の告白を聞いて貞白は衝撃を受け、しばらく目を見開き、固まった。次の言葉が出てくるのに少し時間がかかった。
「・・・そんなことを本気で考えているのか?相手は四十過ぎの男やもめだぞ」
「この私にはもったいないくらいの立派なお方だと存じております」
「それに先妻の子どもだって三人もいる。そなたは知らないのかもしれぬが、この三人のお子はそれぞれ腹違いなのだぞ」
「それは存じております」
「それにそなたはまだ三十前だし、そりゃ道純先生は悪いお方ではないが、そなたが嫁すなどそなたの方がもったいなくはないか?」
「もったいないとはなぜそのようにお考えになるのでしょう?」
「そなたには伊藤松坂屋の通い番頭が婿入りする話があると聞いている」
「はい」
「婿が来て、栄次郎はそなたに日野屋の暖簾を継がせたいと考えている。それがそなたにとっても、日野屋にとっても幸せだと思うのだが」
「私は学のある夫が欲しいのです」
伊保はきっぱりと言い、続けた。
「確かに婿を迎えて私が日野屋を継げば、日野屋の暖簾は安泰かもしれません。亡き父忠兵衛もそれを望んでいました。しかし、私にとってはそれではつまらないのです」
「つまらないとは?」
「結局、私の人生は日野屋に尽くして終わってしまいます。私はそんな父や兄にゆだねられた人生ではなく、自分の足で自分の生きる道を歩いて行きたいのです」
「それで道純先生ということか。日野屋はどうするのだ?」
「兄に継いでもらいます」
「栄次郎に日野屋の暖簾が継げると思うのか?」
「既に継いでおります。妻も娶ることですし、所帯を持てば兄も少しはやる気を起こすのではないでしょうか」
「しかし、栄次郎にその力量がないことはそなたが一番よく知っているのではないのか?」
「兄は浜照を身請けし、私に婿を取らせて日野屋の暖簾を渡し、自身はさっさと隠居して金座の役人株でも買ってのうのうと余生を過ごそうと考えているようです。しかし、それでは兄が自由に過ぎるのではないでしょうか。それに引き換え私の人生は惨め過ぎます」
「確かにそう言えなくもないが」
貞白はさすがに伊保に同情した。栄次郎にさんざん加担した罪悪感もあった。
「私は浜照の身請けを我慢するのです。どうかこれを最大の譲歩だと考えていただけないでしょうか」
伊保はもう一度深々と頭を下げた。
「・・・分かった。そなたの考えももっともである。それで私はどうすれば良いのだ?」
貞白は顔を上げた伊保に尋ねた。
「道純先生に日野屋の娘伊保を娶るよう話をしていただきたいのです。もちろん、私にそのように言われたということは一切出さずに、あくまでも貞白先生のご判断ということで、この私を道純先生にご推薦いただきたいのです」
「推薦するには理由がいるが、道純先生には何と説明する?」
「まずは、男やもめでは幕府の直参は務まらないと」
「それは道理だ」
「それから幕府の直参ともなれば出て行く銭金も半端ではありません。そのためには銭金の計算に長けたおなごが良かろうかと。ついては日野屋の娘が行き遅れているのでこれをもらったらどうかと。そうおっしゃっていただければと存じます」
貞白はしばらく考えていたが、やがて合点がいったように両手をポンと叩いた。
「なるほど。確かにそう言われてみれば道純先生とそなたはお似合いかもしれん。分かり申した。道純先生に取り次ぐことは約束致そう。そなたから頼まれたということはおくびにも出さずにな。ただなあ・・・」
言って貞白は右手をおでこの辺りにあて、悩ましい素振りを見せた。
「何かご不審がおありでしょうか?」
「学のある男に嫁したいというのであれば、そなたも学のあるおなご故、嘘ではないのだろう。それは私にも理解できる。しかし、それだけではない、何か別の動機があるのではないか?別にそなたの気持ちをあれこれ詮索するつもりはないのだが、道純先生に取り次ぐとして、私もそなたの本当の気持ちを理解していなければうまく取り次ぐことはできん。言いにくいこともあるかもしれないが、ここは道純先生に嫁したいという本当の動機を聞かせてはもらえないだろうか」
聞いて伊保は「はい」と静かに言い、居住まいをもう一度正した。
数日後、伊保が帳場で帳簿を見ていると外出先から栄次郎が帰宅し、奥座敷に来るように言われた。伊保は再び兄の前に座った。
「何かございましたか?」と伊保。
「今、渋江の家に呼ばれて道純先生にお会いしてきたのだ」と栄次郎。
口元が不満そうである。
「はい」
「それでこんなことを言われたのだ。伊保を娶りたいと・・・」
「そうですか。それは良い話にございます」
伊保の声は自然と明るくなった。
「正気か?相手は津軽家の医師とはいえ、四十過ぎの男やもめだぞ」
「承知しております」
「どうするつもりなのだ?」
「もちろん、お受け致します。道純先生にそう言っていただけるのならばこんなに光栄なことはございません」
「何か既にもう知っているような口ぶりだな」
「いいえ。そんなことはございません。今、初めてお聞きしました」
伊保が珍しく言いよどんだが、その声は明るい。
「日野屋はどうなるのだ?」
「日野屋の暖簾はお兄様に守っていただきます」
「私に隠居させないつもりなのか?」
「それではお兄様は渋江家の申し出を断ることができますか?一体、何と言ってお断りするおつもりなのですか?自分は遊女と所帯を持って隠居し、面倒なことは全部妹に押し付けるので妹をやるわけにはいかないとおっしゃるのですか?」
「そんなこと言えるわけないだろう」
「では我慢なさいまし。私も浜照の身請けを我慢しているのです」
言うと伊保は不敵に笑った。してやったりだった。予想外のシナリオ崩壊に栄次郎は憮然としていた。
伊保は商人(あきんど)の娘なので武家に嫁すためには仮親が必要になる。仮親は道純が探し津軽藩留守居役で道純の二番目の妻威能の父でもある比良野文蔵が務めることとなった。すなわち貞固の父である。威能亡き後も比良野家と渋江家は良好であり、文蔵自らこれを買って出たのである。
そして、仮親ではあるが少しでも本物の親子であるようにしたいと文蔵が言い、伊保は輿入れまでの三ヶ月ほど、比良野の屋敷で本物の親子のまねごとをした。
文蔵は伊保を本当の娘のように傍らに置き、キセルを詰めさせ、茶を入れさせ、酒の酌をさせるなどした。
比良野の屋敷には文蔵の嫡子貞固とかなの夫妻もいた。伊保が貞固と相まみえるのは、貞固がかなと駆け落ちし、親の逆鱗に触れ、勘当させられていた際に、神田の裏店で会ったとき以来である。
その後、勘当は解かれ、貞固は津軽藩の重鎮としてその存在感を増している。
貞固が比良野の屋敷で久し振りに伊保に対面したとき、貞固はどこかばつが悪そうだった。
「それで拙者から一つ相談がござる」
久し振りに伊保と対面した貞固は少し困惑した様子で伊保と向き合った。
「なんでございましょう」と伊保。
神田の裏店で会った頃は貧相であったが、今は津軽藩の重鎮として光り輝いて見える。まだ糸鬢が粋と思われていた時代、糸鬢奴の貞固は実際に粋な侍だった。今ならイケメンともてはやされているはずである。
「その~っ、拙者は伊保殿のことを何と呼んだら良いものでござるか?」
「どういうことでございますか?」
今度は伊保が困惑する。
「つまり、伊保殿は父文蔵の養子となったわけだから拙者にとっては妹ということになるはずでござる」
実際に婚姻の際に伊保は津軽家目附役百石比良野助太郎妹翳として届けられている。助太郎は貞固の通称であり、翳は伊保が藤堂家に奉公していたときの呼び名である。
「ごもっともです。貞固様は兄栄次郎と同い年ですから私の兄ということについて異論はございません」
「ところがだ、伊保殿は道純先生に嫁されるわけでござる」
貞固が一段高い声で言った。
「はい」
「道純先生は我が姉威能の夫であられたわけであるから、拙者にとっては兄でござる」
「姉の夫ということであればそうなりましょう」
「しからば兄の妻である伊保殿は拙者にとっても姉ということにもなりましょう。そうすると拙者にとっても悩ましいわけでござる。一体、伊保殿は姉なのか妹なのか」
聞いて伊保は微笑んだ。相変わらず一本気で真面目な男だと感じた。
「私としてはいずれでも異論はございません。比良野様の呼びやすいように呼んでいただければよろしいのではないでしょうか?」
「分かり申した。では姉さんと呼ばせていただきましょう」
末っ子の伊保は今まで姉さんなどと呼ばれたことはなかったので少し面映ゆかったが、心地良い響きでもあった。
そしてこの年の十二月、伊保は渋江家に輿入れした。栄次郎の放蕩により、既に日野屋の暖簾は傾きかけていたが、それでもそれは立派なものであった。
日野屋から渋江の屋敷に運び込まれた衣服や調度品の数々は人々の目を驚かせるものであった。
新しい家族には渋江道純四十歳、妻伊保二十九歳、この他、道純の一番目の妻定との子、長男恒善十九歳、二番目の妻威能との子、長女純(いと)十四歳、三番目の妻徳との子、次男允善十歳の三人の腹違いの子ども達がいた。