男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



五 紙一重

 何とかと天才は紙一重と言われる。

 本来ならば何とかと天才の間には距離があり、その間に無数の凡人が埋め込まれていると考えるのが常識的な発想だろう。しかし、常識に囚われないという一点を持って何とかと天才は共通項を持つのであり、果たしてそれが天才的なのか真逆なのかが常識人には分からない。

 伊保が道純に嫁し、渋江の家にやってきてからこれまで、ほとんどすべてのことがうまく行っていた。しかし、男ノ助と呼ばれた伊保の力量をもってしてもどうにもならず、伊保のストレスが溜まる一方ということが一つだけあった。

 森養竹を名乗る道純の一番弟子の存在がそれであった。養竹も何とかと天才のように、悪く言えば非常識、良く言えば常識に囚われない御仁であった。一方の伊保は常識が着物着て歩いているような存在である。

 夕餉の後、道純に呼び止められた伊保はまだ座ったままの道純の傍に座り、かしこまった。

「何でございましょう?」と伊保。

 道純は懐から一枚の紙を取り出し、無言のまま伊保に渡した。

 伊保が広げると、その紙には伊保の筆跡で韻文が書かれている。

「さっき、森に渡されたのだ。そなたからもらったと」

 森養竹は、元は備後の国福山藩の藩医であるが、その奇行ゆえに藩主の反感を買い、永の暇(いとま)となっていた。

 永の暇となった理由は些細なことであった。養竹は劇が好きだった。その劇好きが災いしたのである。

 観劇が趣味ということであれば、道純もその一人に数えることができるだろう。しかし、道純がいかに好劇家だといっても安いゴザ席で見物する程度である。一方、養竹の場合、ただ単に観劇するだけに留まらない。

 もちろん観劇は好きでひいきの役者もいた。しかし、それはただのひいきには留まらなかった。養竹はひいきの役者のいで立ちで街を歩き回り、今でいうところのコスプレをして、声を掛けられれば見得を切るということまでやってのけた。それだけでも福山藩お抱えの医師としては問題児の部類に入るのに十分であり、咎められても文句が言えないことである。

 養竹はそれにも留まらなかった。役者の真似事だけでは満足できず、自ら演じることにも強い興味を示したのだ。自ら台詞を覚え、舞台に立ち、主役級まで演じたのだ。

 ある日福山藩主阿部家の中臈(ちゅうろう)が芝居を見に行くと、出演俳優の一人が養竹に似ていることに気付いた。最初のうちは「似ているなあ」という程度だったが、そのうち確信に変わり、屋敷に戻るとそのことを同輩たちに語って聞かせた。

 もちろんその中臈には養竹に対する恨みなどは一切なく、養竹を貶めようとする思いなどは毛頭なかった。ただ単に笑い話として披露したに過ぎなかったが、この話が屋敷内を転々とするうちに上役の耳に入り、捨ててはおけぬお家の恥さらしということになって永の暇になってしまったのである。

 それからしばらくは江戸で浪人生活を送っていたが、その奇行ゆえに借金を重ね、助けてくれる友もなく、夜逃げ同然に江戸を出て行った。

 背に腹は代えられず、最初のうちは按摩でも、産科でも何でもやってのけ、果ては獣医の領域にまで手を伸ばした。生活は困窮を極めたが、天才肌のところもあったことから持ち直し、相模の国大磯で、今でいうところの個人クリニックを開業した。

 しばらく不遇の時代が続いたが、この頃になるとクリニックの経営も上向きとなり、時々江戸に出てきては道純のところに逗留するようになっていた。

 道純の屋敷に逗留する養竹の姿はかつて夜逃げ同然に江戸を離れた人のそれではなかった。人知れず、お忍びで行動するのではなく、歌舞伎役者のようないで立ちで江戸の町を歩き、養竹が七代目団十郎をひいきにしていることを知っている人が「成田屋!」と声を掛けると立ち止まって見得を切って見せるほどであった。

 養竹は道純の一番弟子であるが、弟子入りしたとき、師匠である道純はまだ十三歳、養竹はわずかに十一歳であった。

「それで森様は何と?」

 面倒くさそうに伊保が言った。事実、伊保にとってはとてつもなく面倒なことであり、話題にもしたくなかった。

 紙に書かれているのは絶縁の詩であった。道純は軽くため息をついた。

「何も言ってはおらん。だからそなたから聞きたいのだ。その紙は何だ」

「ここに書いてある通りでございます。伊保は森様とは絶縁したいということでございます」

「何があったというのだ?」

 道純が少し語気を強めた。不穏な空気が漂い、傍目には夫婦げんかの始まりのようにも見える。

「森様がろくを追いかけまわしました。そして行燈を倒し、畳を油まみれにしました」

 ろくは、元は藤堂家の下女であったが、伊保が道純に嫁すにあたり、今でいうところのヘッドハントをして連れてきていた。

「だから絶縁状か」

 道純が苦笑したので伊保はムッとした。

「私もおまえ様に聞きたいことがございます。なぜあのような常識のかけらも持ち合わせていないようなお方がこの家に逗留しなければならないのですか?」

 伊保が詰問した。

「なるほど、常識のかけらもないか。それはその通りだ」

 聞いて伊保は少し黙った。道純が言い返してくれば言いくるめてやろうかと思っていたが、素直に認められてしまうと強くも出られない。

「森の才能が惜しいのだ」

 道純が静かに続けた。

「才能、・・・ですか?」

「そうだ。才能だ。森は医においても儒においても非凡な才能を持っている。もちろん奇行の持ち主であることは私も認めよう。私もあやつには何度となく煮え湯を飲まされてきたからな。そなたも森の性癖については昔から聞き及んでいるであろう。姉御の安(やす)殿が阿部家に仕えていたのだからな」

 伊保の姉安はその昔、阿部家の奥に仕えていたことがあり、金吾と呼ばれていた。確かにその頃から養竹の奇行は有名であり、姉からでなくとも聞き及んでいるところはあった。

「師匠に煮え湯を飲ます輩(やから)など破門にすべきではありませんか?」

 伊保は詰問を重ねた。

「そなたの意見はもっともだよ。だから阿部家で永の暇になったのだ。それが常識というものだろう。だがそうすると森は相模に永遠にうずもれてしまうではないか。やつの類希なる才能と共にな。それはしのびないのだ。私も医者だからな。森の学識が惜しいのだ。私は何とかこの江戸で森の活躍できる場がないか探しているのだ」

「それはお上での仕事ということでございますか?」

「そうだ。森がこの家に逗留するのはそういう事情だ」

 道純は伊保の詰問を意に返さず淡々と答えた。

「だから私に我慢しろと?」

「やつの才能と畳一枚を天秤にかけるまでもないということだ。まあ、そう言うな。いずれ森は帰籍できるだろう。その準備もしている。それまでの辛抱だよ」

 道純は慰めのつもりだったが伊保は納得せず、ムッとしたまま道純を睨み付けた。

 

 翌朝、伊保が仏壇の掃除をしていると仏間に人の気配がし、「伊保さん」と自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。誰の声かは聞き覚えがあり、それは今、伊保が最も顔を合わせたくない輩だったので、伊保は朝から嫌な気分になった。

 伊保は一瞬手を止めたが、すぐにそれを再開させ、仏壇に集中しようとした。

「何でしょう?」

 伊保は声の方向に振り向くことはなく、不機嫌に答えた。もっともその不機嫌が養竹に伝わるとは思っていない。

「実は伊保さんに相談がある。恒善のことなのだが」

 養竹は伊保の機嫌を気にすることもなかった。

 恒善は道純の長男であり、最初の妻定の産んだ子で今年、二十歳を迎えている。

「恒善がどうかしましたか?」

 伊保は手を休めず、面倒くさそうに応じる。

「伊保さんは恒善をどう思う?」

「どうとおっしゃいますと?」

「おとなし過ぎるとは思わぬか?」

「そうでしょうか?」

「そうだとも」

「だからどうしろと?」

「一つ提案なのだが、恒善ももう二十歳を越えている。そこで吉原に連れて行こうと思うのだがどうだろう?」

「吉原へ?」

「うん」

 吉原と聞いて兄栄次郎の記憶が蘇り、伊保は吐き気を催した。なんとも言えず、仏壇の掃除に力を入れるしかなかった。

「道純にその話は?」

「してはいない。したところで道純先生の理解が得られるとも思えない」

「それはそうでしょう。道純が最も忌み嫌うところです」

 伊保は淡々と答えた。

「道純先生は生真面目なお方だからな。しかし、このままでは恒善も同じような生真面目な人間になってしまう」

「それはそれでよろしいではありませんか」

「そなたも道純先生が真面目過ぎると思っているであろう。もっと面白味がある方が、人間的に魅力が出るとは思わぬか?」

 そう言われるとそれはその通りだ。前妻の徳から言われていることもある。道純は、学は素晴らしいが面白みに欠けると言われると言い返すことはできない。

 思わず養竹の意見に同意しそうになり、そんな自分にまた嫌気がさした。

 黙っている伊保の沈黙を黙認と受け取った養竹が続けた。

「そうであろう?だから伊保さんの同意を得たということをもって恒善を吉原に連れて行きたいのだ。同意していただけるな?」

 吉原は兄栄次郎の件で散々な思いをしている。

 また道純が吉原を忌み嫌っていること、それゆえに恒善も道純の意を汲み、養竹の誘いに乗らないのであろうことも承知している。

 さらに養竹の言う「同意しろ」は「金を出せ」と同義だ。道純が幕府の直参となってから渋江家では出て行く金が多く、それでいて養竹のような食客を養っているので亭主が出世しても生活が楽になるわけではない。

 何より伊保は養竹と話をしたくない。顔を合わせることも苦痛なのだ。

 伊保は養竹の問いには答えず、黙々と仏壇の掃除を続け、一通り終えると養竹の方に向き直り、「話はそれだけですか?」と言って、話を終わりにしようとした。それは養竹の提案に同意していないことの意思表示でもあった。

「私はあきらめませんよ。また折を見てお話しましょう」

 養竹はそう言って深追いはしなかった。

「では、私はこれから用事がありますので」

 特に用はなかったのだが、この場を去りたい一心で方便を述べた。

「どちらかにお出かけですか?」

 不審に思った養竹が聞いた。

「山内の菩提寺にお参りに行ってまいります」

 特に用事のなかった伊保はとっさに口から出まかせを言った。

 

 墓参に行くと言ってしまった手前、伊保は身支度をして浅草に出向いた。

 伊保の実家、山内家の菩提寺は浅草永住町の覚音寺である。伊保は実家をも大切にしているので毎月、山内の菩提寺を尋ねることを厭わない。それとは別に父や母の命日にも必ずお参りをしていた。

 墓参を済ませ、帰ろうとすると「伊保殿」と自分を呼ぶ男の声がした。

 声の方を振り返ると石川貞白が立っていた。

「これは貞白先生ご無沙汰致しております」と伊保。

 貞白は道純と伊保の事実上の仲人であるので伊保にとっては恩人でもある。

「道純先生のお屋敷に伺ったところ、こちらだと言われたので」と貞白。

 日野屋にいた頃は貞白も随分と上から来たが、道純に嫁した後は貞白の態度も少しは慇懃になっている。

「私に何かご用でも?」

「相談したいことがあるのだ。立ち話ではなんだからそこで茶でもいかがかな?」

 貞白は近くの桃太郎団子の店を指さして言った。

 貞白の相談事というとまた兄栄次郎のことかなと伊保は一瞬、身構えたが、道純の後見(うしろみ)を得た今となっては兄のことも取るに足らない存在である。

「分かりました。良いですよ」

 養竹のいる渋江の屋敷に真っ直ぐに帰るのも気が重い。伊保は貞白の提案に同意した。

 二人は茶店の前の縁台に腰掛けた。貞白が茶と団子を注文すると、身体をやや斜めに伊保に向けた。

「実はそなたにお願いがある」

 貞白が改まって言ったので伊保は少し驚いた。

「私にですか?」

「ああ」

「どんなことでしょう?」

「森養竹先生のことだ」

 その名前を聞いて伊保の顔が穏やかではなくなった。伊保の心中が穏やかではなくなったことは貞白にもすぐに分かったようで、貞白の表情も少し固くなった。

「今、道純先生のところにおいでだな?」

 伊保は深いため息をついた。

「あの人のことは話題にもしたくないのですが」

「その気持ちは分からぬでもない。森先生は存在自体が賛否両論だからな」

「賛があるとは思えませんが」

 伊保の口調は皮肉っぽい。

「まあそう言わないでくれ。道純先生も私と同じ意見だと思うが、森先生の学識、特に本草に関する知識は素晴らしいのだ。これを捨て置いて相模の一町医者として終わらせてしまうのは惜しいのだ」

 本草とは薬草に関する知識で、漢方の基本的な部分である。養竹の名声は天下に轟いており、この時期、我が国最高のレベルであると言っても過言ではなかった。

「森様が、その奇行はともかく、ある分野でとてつもない才能をお持ちなことは私も理解しているつもりです。道純もそんなことを申しておりましたから。だから、渋江の屋敷にも長逗留するのだと」

「道純先生にも森先生の才能は認めていただいていることは私も承知している。できれば帰籍させたいということも。帰籍に関しては私もそうだが、福山城主阿部家の多くの医者がそれを願っているのだ。森先生が帰籍されれば、我が阿部家は本草で抜きんでることができるからな。道純先生は、もちろん福山のお方ではないから、また別の考え方をお持ちのようだ。森先生の才能を幕府の方で開花させたいと」

「確かにそんなことも申しておりました」

「つまり我々福山の人間も道純先生も森先生の復権に関しては同じ方向を向いているのだ。ただ、やり方が違っている」

「やり方?」

「そう。道純先生はまず帰籍させ、それから幕府に登用させようと考えていらっしゃるようだ。それで、道純先生は阿部家の公用人服部九十郎様や勘定奉行の小此木伴七様などに根回しをされているとも聞き及んでいる。普通に考えれば道純先生のお考えはもっともなことだ。幕府に登用されるよりも帰籍する方が簡単に見えるからな。一方、幕府に登用されるのは難しい。それが普通だ」

「それはそうでしょう。私もそう思います」

 そこで給仕が茶と団子を運んできて二人の間に置いた。

 貞白は出てきた団子を伊保に勧め、自身は茶を啜ってから続けた。

「ところがこの森先生の場合にはその普通があてはまらないのだ」

「それは森様が奇人だからですか?」

 伊保は言ってからさらに「いただきます」と言って団子を一串手に取り、口に運んだ。貞白は苦笑した。

「なるほど奇人ゆえか。突き詰めて言えばそういうことにはなるな。服部様も小此木様も森先生の帰籍には反対してはおられぬ。むしろぜひ帰籍させたいと考えれておられるのだ」

「では、何故、滞っているのでございますか?」

 団子を咀嚼しながら伊保が聞いた。

「福山城主阿部伊勢守正弘公だ。どんなに下の者が根回しをし、意見を一にしても当主が反対ではどうにもならぬ」

「それで?」

「正弘公も実は森先生の本草の知識についてはご存知のはずだ。それでも帰籍を認めないのは以前のことがよほど腹に据えかねたのだろう。あるいは諸侯から馬鹿にされたのかもしれない。だから、ここは通常とは逆にまず、幕府の方で何らかの役目を森先生に与えていただきたいのだ。幕府が認めるような人材であれば、正弘公にとっても帰籍の言い訳になるだろうということだ」

 貞白はそこまで言うともう一度茶を啜り、伊保を見た。

「なるほど。事情は分かりましたが、それで私にどうしろと?」

「道純先生は幕府の直参で、医学においても影響力を持っておられる。道純先生は帰籍が先とお考えのようであるが、今言ったことを説明して、帰籍を待たずに幕府の仕事にありつけるよう、道純先生にお力添えをいただきたいのだ」

 道純は先妻の徳が亡くなり、伊保が嫁した弘化元年の三月に幕府の医学校、躋寿館の講師に任ぜられている。躋寿館は、元々は幕府の医官多紀玉池が明和二年に佐久間町に建てた私塾であったが、寛政三年に幕府の管轄に移されていた。今でいうところの東京大学医学部といったところで、道純は今でいうところの東京大学医学部教授の職にあったことになる。

 伊保は二つ目の団子をゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

「・・・そんなこと、貞白先生が直接、道純に意見すればよろしいではありませんか」

 聞いた貞白はやや下を向き、少し唸った。

「そなたには分かってはいただけぬかもしれぬが、道純先生は今や幕府の直参なのだ。昔の道純先生ではない。私ごときが意見できるような相手ではないのだ」

「それで私にと?」

 伊保は分かったような分からないような表情をした。

「なんといってもそなたは奥方だからな。森先生の話題になった時に、そう言えばこんな話を聞いたとか言って、道純先生のお耳に入れてくれれば良い。耳に入れば道純先生は優秀なお方、自分の判断で森先生帰籍の道筋を開いてくださるであろう」

「・・・嫌でございます」

 伊保はけんもほろろだった。

「なぜだ?」

 貞白が首を捻る。

「あのような、師匠の家の中で下女を追いかけまわし、行燈を倒して畳を油まみれにするようなお方とは関わり合いたくないのです」

 聞いた貞白は茶を縁台に置き、考え事をするように目をつぶって腕組みをした。

「ところで、今、森先生は道純先生のところに長逗留していると聞いているが、そなた、森先生とはうまくやっておられるか?」

 聞いた伊保の表情がさらに険しくなった。目を開いた貞白は伊保と目を合わせ、微笑みながら続けた。

「その様子ではうまくはいっていないのだろうなあ」

「あたり前でございます」

 伊保は吐き捨てた。

「森先生の逗留にお困りの様子だな?」

「もちろんです」

「では、この話、森先生の帰籍の話だが、そなたにとっても朗報になるぞ」

「どういうことでございましょう?」

 伊保は不思議そうな表情で聞いた。

「何で森先生は道純先生のところに長逗留するのだ?」

「道純からは、森様は幕府に勤め口がないか探していらっしゃるというようなことを聞いておりますが・・・」

「それも理由の一つだが、より根本的な理由は江戸に住まいがないからだ。住まいが江戸からものすごく離れていれば、例えば福山とか弘前であればそうちょくちょく江戸には出ては来られないのかもしれないが、森先生のお住まいは大磯だ。だから江戸に出てくるのは苦痛ではないが、その日のうちに大磯に帰るというのも面倒なことだ」

「分かります」

 伊保は首肯した。

「だから江戸での宿泊先が必要となる。森先生は道純先生の一番弟子。しかも道純先生は金の無い者に優しいから道純先生のところで逗留するのは実に都合の良いことということだ」

「しからば江戸に宿を取れば良いではありませんか。大磯では医業が随分と繁盛しているようにも聞きますが」

「繫盛はしているようだが森先生に金はない。なぜかは私にも分からないが、まあ、奇人たるゆえんだろう」

「それで私にとって朗報とは何でございましょう?」

 伊保が話を元に戻した。

「つまりだな、帰籍が成功すると森先生はもう大磯に住んではいられないということだ」

「はあ」

「森先生は元々阿部家江戸詰めのお抱え医師だ。だから当然、江戸に住まうことになる。大磯の妻子を呼び寄せて江戸にご自身の屋敷を構えることになるのだ。もちろん森先生は道純先生の一番弟子なのであるから道純先生の屋敷に赴くことはあるだろうが逗留することはなくなる。その必要がなくなるのだ。妻子が待つ自分の屋敷が江戸にできるのだからな」

 聞いた伊保の表情はみるみる明るくなった。

「なるほど、それは朗報でございます。そういうことならぜひお手伝いをさせていただきます」

 明るく言った伊保は三つ目の団子を勢いよく口に含んだ。希望の光が差し込んだような気がしていた。

 

 それでも森養竹を帰藩させる話はなお停滞した。努力が重ねられた後、嘉永元年になってようやく、養竹は躋寿館の事業の一つである「千金方」の校正係となることが内定し、同じ年の五月にようやく帰藩がかなった。

 福山藩への帰藩がかない、養竹は大磯の家を引き払い、妻、娘と共に江戸に来ることになった。ここで道純は近所のお玉が池の家を愛弟子のために借りてやった。

 借家の敷金や家賃、あるいは家財道具の請求は渋江家に寄せられた。寝耳に水の伊保は請求書を見て驚愕し、その金額を見てさらに驚愕した。

 伊保は請求書をそのまま道純にたたきつけた。

「これはどういうことでございますか?」と冷静さを失った伊保。

「見てのとおりの請求書ではないか。その内容が理解できぬほどそなたも愚かではなかろう」と冷酷なまでに冷静な道純。

「そんなことは分かっています。私も商家の娘です。これが請求書であることは承知しています。承知していないのは、なぜこのお金を渋江が払わなければならないのかということです」

「分かっているとは思うが森には金がないのだ。ただ才はある。ここはその才に免じて払っておいてはくれぬか」

「才だけでは食べては行かれませぬ。それでなくとも渋江の家計は火の車なのです。こちらに嫁いできて私も驚いたのですが、渋江の家計はどんぶり勘定ではありませんか」とさらに冷静さを失った伊保。

「まあそう言うな。そなたの方が特殊なのだ」とどこまでも冷静な道純。

「はて、私が特殊だと?」

 伊保は首を捻った。

「実はな、そなたには内緒にしていたのであるが、そなたを娶る前、そなたのことを熱心に推薦してきた者がいる」

 石川貞白のことだと伊保は即座に理解したが、顔には出さなかった。道純が続けた。

「先方との約束なので名を明かすことはできないが、その御仁はこのようなことを言っていたのだよ。幕府の直参ともなれば出て行く金が半端ではない。だから妻を娶るのであれば銭金の計算ができるおなごが良かろう。ついては日野屋の娘が行き遅れているのでこれを娶ったらどうかと。私もなるほどと思い、その通りにしたのだ。確かに、直参となってからは何かと出て行く金が多い。そなたには助けてもらっている。感謝しているぞ」

「・・・・・・」

 言い返そうにもそれは伊保が仕組んだことなので言い返しようがない。

 仕方なく、伊保は必要な金を工面し、森養竹の借家の敷金を払い、家賃を払い、家具一式の請求書も決済してみせた。しかし、話はこれだけでは済まなかった。

 

 数日後、大磯から森養竹一家が引っ越してきた。引っ越し早々、伊保は養竹の妻、かつの訪問を受けた。伊保と面会したかつの姿は、藩医の妻としては不自然なくらいみすぼらしいものであった。

「あなた、随分と薄着のようだけど」

 季節は初夏なので薄着でも構わないのだが、それにしてもかつの着ているものがあまりにも貧相なので伊保は気になって聞いた。

「はい。お察しいただけるとは思うのですが、向こうでの生活があまりにも苦しくて、着る物はまるで持っておりません。それでも主人は往診に行かなければなりませんので着る物を一通りは持っていますが、私と娘は何も」

 言ってかつは首(こうべ)を垂れ、さらに続けた。

「お恥ずかしい話なのですが、今も私は腰巻もつけていないのです」

「はあ・・・」

 聞いた伊保は思わず驚きの声が出た。渋江はこの者たちの生活の面倒まで見なければならないのか?と思ったのだ。

「主人から、こちらに伺えばなんでもいただけると聞いたものですから」

 聞いた伊保は一瞬、頭に血が上ったが、ため息とも深呼吸ともつかない息づかいをして気持ちを落ち着けた。

「ごめんなさい。ちょっと待っててもらえるかな」

 動揺を隠しつつも席を外した伊保は道純のいる奥の間に向かった。

 奥の間では道純が伊保に背を向け、文机に向かい何か書き物をしている最中だった。

「おまえ様」

 伊保の呼びかけに声色で不機嫌を感じ取ったのだろう。道純の反応は鈍かった。少し間があった。

「どうした」

 背を向けたままの道純。伊保のイライラがつのる。

「・・・森様の奥様、かつさんが来ています。それで、着る物を無心しているのですが」

 聞いて道純は筆を止め、伊保の方に向き直った。そして伊保を見つめた。

「伊保。森の妻は相模の国から来たばかりで江戸のことは不慣れだ。どうか優しくしてやってはくれまいか」

 道純は静かに言った。伊保は自然とため息をついた。

「優しくと言われましても、かつさんはかろうじて浴衣のようなものは着ていますが、それもボロボロで腰巻もつけていないと言うのです。あれでは素裸も同然ではないですか」

「相模へはほとんど夜逃げ同然で逃げて行ったのだ。苦労したのは当然であろう」

「しかし、それでは下着も足袋も下駄も、髪飾りもすべて差し上げろということですか?」

「何故そんなに怖い顔をする。そなたの力量からすれば森の一家に恵んでやることくらいなんでもないではないか」

 道純に言われ、伊保は自分で自分の首を絞めるとはこういうことをいうのだろうかと力なく思った。

 伊保は今の状況を「森養竹がこの屋敷に長逗留するよりまし」と考えて苦笑いするしかなかった。

 伊保が道純に嫁してからこの間、伊保は道純の三女棠(とう)を産み、四男幻香を産み、四女陸(くが)を産んだ。幻香は生き長らえなかった。

 

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