男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



六 道純出世

 森養竹が「医書彫刻取扱手伝」という肩書をもって躋寿館に正規採用されたのは嘉永元年十月十六日のことである。今でいえば東京大学医学部助手といったところだろうか。

 そして、翌嘉永二年三月には道純が「お目見」となった。

 お目見とは将軍に拝謁することであるが、この時代、将軍に直接お目通りするという事実よりもそれが許される地位に登りつめたということの方にはるかに意味があった。要するに道純は出世したのである。

 将軍家直属の家臣でも目見以上の旗本とそれ未満の御家人では大層な差がある。道純は津軽藩士なので旗本にも御家人にもあたらないが出世であることは同じである。

 ただし、藩がそれを喜ぶかどうかは藩によって温度差があった。

 森養竹が仕える福山藩などは藩士のお目見を喜んだから、藩士がお目見を終わって藩邸に戻ると、詰衆が玄関に出て平伏した。それで藩士はお目見以上の地位に登りつめたことを実感した。

 今で例えるなら、大臣となった国会議員が任命式における任命よりも、記念撮影よりも、SPが付くことによって己の出世を実感するようなものである。

 道純の津軽藩は藩士のお目見を喜ばなかった。

 現在の日本は世界最大の中央集権国家であるが、当時の日本は幕藩体制という分権国家であり、連邦制であった。すなわち国の中にもう一つの国である藩というものがあり、これはアメリカ合衆国が州によって構成されているようなものである。

 さらに人事という面でこの幕藩体制を例えると親会社と子会社のような状況が存在する。

 子会社に優秀な人材がいて、親会社に登用されることは良くも悪くもあるだろう。

 子会社採用でも頑張れば親会社に行って活躍でき、そして恐らく給料も上がるというのであれば子会社で働く従業員の士気も上がるに違いない。そして、その士気の高まりは子会社にとってもプラスに作用するだろう。

 一方、その従業員は当然子会社ではスーパーエースだろうから親会社に引き抜かれることによって子会社が受ける打撃は少なくないはずである。

 これが必ずしも津軽藩が道純の出世を素直には喜ばない理由である。道純自身も津軽藩士としての矜持というものがあったから、幕府の直参として活躍できることはもちろん名誉なことではあったけれども、両手を挙げて大喜びできることでもなかった。

 しかし、いくら藩が喜ばないとしてもお目見以上の地位に登りつめた者は慣例として盛大な祝宴を催さなければならなかった。これはどこかを借り切ってどんちゃん騒ぎをすれば良いというものではなくて、自身の屋敷にそれ相応の賓客を招いて執り行われなければならなかった。祝宴の規模も慣例で決められていたのである。

 自身の屋敷で執り行うわけであるから、もし祝宴に適した大広間がなければ自宅を改築して新たにあつらえなければならない。だからこの祝宴に必要な経費は馬鹿にならなかった。

 費用の面もあるが、渋江家ではまた別の問題が生じていた。すなわち、道純も伊保も祝宴を開催するということに慣れていないのである。二人とも倹約家で質素を旨とするから、それはそれで似たもの夫婦ということで良いのだが、そこには武家としての慣習というものもある。たとえどんちゃん騒ぎであったとしても苦手だからできませんでは済まされない。これは現代でも相通ずるものがあるだろう。

 心配した比良野貞固(さだかた)は道純のいないタイミングを見計らって伊保を訪れ、祝宴の準備について尋ねた。

「姉さん」

 渋江の屋敷の狭い客間で貞固は伊保に問いかけた。

「道純先生はお出かけでござるな?」

 貞固が伊保に確認する。

 津軽藩定府留守居役比良野文蔵の嫡男貞固は伊保の兄栄次郎と同い年であり、伊保よりも年上なのであるが、貞固の亡き姉威能が道純の二番目の妻だったことがあり、道純は貞固にとって義理の兄だった時期があったことから、貞固は道純の現在の妻である伊保のことを姉さんと呼んでいる。

「道純は下屋敷に行っております」

 伊保が答えた。

 津軽藩では藩主津軽信順(のぶゆき)の後を同い年の順承(ゆきつぐ)が継いでおり、信順は隠居し、柳島の下屋敷に移っていたが、藩主時代、信順に付いていた道純も引き続き信順付となり、平日は下屋敷で勤務していた。

「お目見の祝宴のことで相談がござる」

 貞固が改まって言った。

「相談、・・・ですか?」

「祝宴を開かねばならないことはご承知いただいてござるな?」

 貞固は念を押すように尋ねた。

「承知はしているのですが、具体的に何をどうしたら良いのかは正直分かりません。道純も私もそういうことについては不慣れなものですから」

 伊保は正直に答えた。貞固が唸った。

「そうでござろう。それで拙者は心配してこうして尋ねているのでござる」

「しかし、たかだか大の大人が酒を飲んで騒ぐだけのことではありませんか?なぜそんなに心配なさるのですか?」

 聞いて貞固はため息をついた。

「やはり姉さんにはご理解いただけないのかもしれませぬが、武家にはそれに相応しい格というものがあるのでござる。渋江家はこの度お目見以上となりござった。大変名誉なことで、津軽家の誇りでござる。つきましてはお目見以上に相応しい振る舞いをしなければならないのでござる。できなければ留守居役の父文蔵も他家から軽蔑されてしまうし、津軽家当主の顔にも泥を塗ってしまうのでござる」

 幕藩体制は連邦国家であり、藩は一つの独立した国でもある。だから対外関係を処理する留守居役は他藩との折衝にあたるいわば外交官であり、相互の交流もある。しかもその交流は活発だ。

 お目見以上になったのにそれなりの祝宴ができないとなれば他の藩から馬鹿にされてしまうだろう。

「津軽公の顔にも泥を?」

「それだけは絶対に避けなければなりませぬ」

 伊保は貞固の気持ちは理解できるのであるが、さりとて自分にそれだけの力量があるとも思っていない。

「比良野様は私がどうすればよろしいとお考えですか?道純も私もそのような祝宴が苦手なことはご存知だと思いますが」

「どなたかお二人の代わりに祝宴を差配できる御仁はござらぬか?その・・・贅沢な宴に慣れている御仁は・・・」

 贅沢という言葉を聞いて伊保はピンときた。伊保の頭の中にある男の顔が浮かんだのだ。そしてこのアイデアはなかなかの妙案のように思われ、伊保の表情が明るくなった。

「一人おります」

 伊保はニヤリと笑って言った。

「ほう、どなたでござるかな?」

「兄に頼んでみましょう」

「兄?・・・栄次郎でござるか?」

 伊保の兄栄次郎は実家である日野屋の相続で伊保との押し付け合戦に負け、一度は日野屋の暖簾を継いでいたが、吉原の浜照を落籍させ妻とし、弘化三年の十一月に日野屋の暖簾をわずか二歳であった道純の三女棠(とう)に相続させ、自身は金座の役人株を買って隠居し、広瀬栄次郎と名乗っていた。

「兄はおよそ誉められるような人間ではありませんが、長所は短所の裏返し。贅沢な宴を開くということではその実力を発揮できるのではないでしょうか」

「なるほど、それはそうかもしれぬ」

 貞固は納得顔で言った。

「それに兄であれば道純も知らない間柄ではありませんので、話を進めやすいかと思います」

 伊保がキッパリと言い、貞固はうなずいた。

「分かり申した。ここは姉さんにお任せ致す。くれぐれもお国のため、津軽家の名誉のため、どうぞよろしくお願い致します」

 貞固は伊保に恭しく頭を下げた。

 

 伊保はすぐ手土産を持って神田紺屋町の日野屋に兄を尋ねた。

 兄の栄次郎は既に隠居の身であり、屋敷の奥で暇そうにしていた。妻の浜照は出かけていて不在のようだった。

「お兄様、相談がございます」

 伊保は奥の部屋でゴロゴロしている栄次郎に話しかけた。日野屋は伊保の実家、気を使うところでもない。

「相談?どうせロクな話ではないのであろう?」

 口では言ったがゴロゴロしながらも珍しく兄は妹の話に耳を傾けた。好奇心はあるようだ。よほど暇だったのだろう。

「そうかもしれません」

「まあ、今は隠居の身で暇だし、聞くだけ聞いてやっても良いぞ」

 栄次郎は身を起こした。

「普請をお願いしたいのです」

「はっ?」

 栄次郎は飲み込めないようだった。

「はい?」

「今、普請と言ったか?」

「はい。普請と申しました」

「なぜこの私が普請なのだ?私になじみはないぞ」

 栄次郎は首を捻った。伊保は一呼吸おいた。

「・・・なるほど、話が急過ぎましたね。順を追って説明しましょう。道純のお目見はご存知ですね?」

「もちろんだとも。さすがは道純先生。出世なされたな。お前も妻(さい)として鼻が高いであろう」

「もちろん大変名誉なことではございますが、問題もあるのです」

「問題とな?」

「祝宴を開かなければなりません」

「当然のことだ」

「しかし、道純も私も不慣れでございます」

「そうであろう、道純先生は医や儒にかけては素晴らしいものをお持ちだが遊びの方はさっぱりだ。私が教えて差し上げたいくらいだ」

 栄次郎は皮肉交じりに言ったが、伊保は冷静に受け止めた。

「ですからここは一つお兄様に教えていただきたいのです」

 伊保にそこまで言われ、栄次郎はようやく伊保の意図するところを理解したようだった。納得した表情になった。

「なるほど、道純先生やお前では満足な宴が開けないということか。確かに芸者一人呼ぶのも苦労しそうだな。しかし、祝宴は分かったがなぜ普請なのだ?」

 少し真面目に栄次郎が聞いた。

「家を改築し、立派な客間を作らなければなりません」

「屋敷でやるのだな。その祝宴は」

「それが慣例でございます」

「なぜ私なのだ?」

「他に頼める方がおりません。お兄様は銭金を使うことには長けておいででしょう?」

「誉めてはおらんな」

 栄次郎が唸った。

「いいえ、誉めております。銭金を惜しげもなく、それこそ湯水のように使うことができるのはお兄様の得意とするところです。他の人には、私も含め、容易に真似できることではありません。むろん道純は真似できません」

 聞いて栄次郎は鼻で笑った。

「さすがのお前でもこればっかりはできないのか?」

「道純もそうですが、私も倹約を旨としております。ですから客間を改築するにしてもどうしても貧相なものになってしまうのです。お兄様ならば豪華絢爛な客間に改築していただけると思います」

 栄次郎は腕を組み、少し唸った。

「確かにそれはそうかもしれぬ。きっとそうだろう。しかし、金が要るぞ。道純先生は何とおっしゃっているのだ?」

「何も申してはおりません。興味すらないのではないでしょうか。ですから比良野様が心配されておられるのです。貧相な祝宴を開いて津軽家に恥をかかせてしまわないかと」

「なるほど、比良野様らしいな。しかし、私がやるとして、何をどうやればよいのだ?」

「道純に三十両の見積書をお示しください。そしてこの見積りで自分が引き受けると」

 聞いて栄次郎は渋い表情になった。

「三十両では足りんぞ。できなくはないかもしれないが貧相なものになるぞ」

 栄次郎は普請の専門家ではないが、日野屋の若旦那だったのであり、そのくらいは分かる。

「それは承知しております。しかし、最初から百両の見積りとかを見せてしまうと道純は首を縦には振らないでしょう。ですから取り敢えず三十両の見積りを見せて道純を安心させるのです。工事に入ってしまえばこっちのものです」

 伊保は不気味に笑った。栄次郎は、首を捻りさらに唸った。

「しかし、そうすると三十両の見積りで百両を超える工事をするのであろう。そんなことをしたら分かった時に私が道純先生に怒られてしまうではないか。責任者は私なのであろう?」

「そうでしょうね。道純は怒ると思います。そこでお兄様にはそのまま怒られてほしいのです」

 伊保は表情を変えずにしれっとしていた。

「はあ?私に怒られろと?」

「そうです」

「兄の私を売り飛ばすのか?それでは私は踏んだり蹴ったりではないか」

「そうでしょうか?百両単位の銭金をお兄様の裁量で動かせるのですよ。暇つぶしにはもってこいだと思いますが」

 そう言われてうなずける部分もある。金座の役人は暇な役回りだ。日野屋も隠居してしまったし、百両もの金が自身の裁量で動かせるのであれば確かに面白くもあろう。

「しかし、道純先生に怒られるのは嫌だなあ」

 栄次郎は躊躇を見せた。

「別に良いではありませんか。どのみちお兄様は道純に誉められるような人間ではないのですから」

 伊保が歯に衣着せず言った。

 栄次郎はさすがに少しカチンときた。

「お前がやって怒られれば良いではないか」

「それはいけません。そんなことをしたら私は道純に離縁させられるかもしれません。しかし、お兄様ならば怒られて、せいぜい出入り禁止になるくらいで済むではありませんか。お兄様には珍しく、人の役に立てる機会なのです。どうかこの妹のために、そして津軽家の名誉のために一肌脱いでは下さいませぬか。祝宴がうまくいけば比良野様もお兄様に一目置くと思います」

 栄次郎は妹に馬鹿にされているのか期待されているのかよく分からなくなり混乱したが、暇つぶしにはなるだろうと思い、結局、伊保の提案を引き受けることにした。

 実際、道純は客間の改築に興味を示しておらず、栄次郎が三十両の見積書を見せると特に異議をとどめることもなく、建築に着手させ、その進行管理を栄次郎に一任した。

 

 しかし、工事が進むにつれて道純の顔色が怪しくなってきた。いくら道純が普請に疎いといっても見積もりの三倍以上の工事がなされればその異常さには気が付く。

 道純は栄次郎を咎め、さらに伊保を咎めて工事の費用が既に百両を越えていることを知り驚愕するのである。

 そんな夫にある日、伊保は言った。

「妻の私がこんなことを申し上げるのはいささか僭越ではありますが、ここは一世一代のおめでたきこと。金銭のことごときでご心配になるのを黙って見ていることはできません。金銭のことはどうかこの伊保にお任せ下さいまし」

 確かに、道純は伊保のその計算能力にも惹かれて娶ったのだ。しかし、いくら伊保でも何百両という資金の調達は不可能なように思われた。

「そなたはそんなことを言うが、何百両という金が容易に調達できぬものであることは私にも分かる。そなたは何かあてがあって言っているのか?」

 道純の詰問に伊保は笑って答えた。

「はい。いくら私が愚かでも、あてなしに申し上げることは致しません」

 伊保があまりにも自信たっぷりなので、道純は自分の出る幕ではないと判断し、普請のことは伊保に任せ、これ以上、この問題にはくちばしを入れないこととした。

 伊保は手紙を書き、女中に持たせて弁慶橋の質屋、市野屋に行かせた。

 市野屋は、もとは道純の儒の師であり年長の友人でもある市野迷庵の実家である。質屋は既に孫の代になっていた。

 手紙を吟味するタイミングがあり、市野屋の手代が渋江の屋敷にやって来た。伊保はタンスや長持から嫁入りの際に持ってきた衣類や寝具を出して見せ、これを質草に金を借りることを求めた。

「一枚一両の平均ではいかがでしょうか?」と質草を一通り吟味した手代。

「それでは市野屋様がぼろ儲けではありませんか。これらの品、山内の実家から持ってきた確かな物です。それにお爺様と道純とは大変親しい関係でございました。ここはお爺様のお顔に免じてもっともっと勉強していただきたい」

 言って伊保は引き下がらなかった。

 結局、手代は弁慶橋に取って返し、さらに何往復かのやり取りがあり、最終的に伊保は三百両を調達することができた。

 三百両は屋敷の改築費用としては十分な金額であり、お目見に伴う祝宴の費用を賄っても十分に余りある金額である。

 結果、祝宴は大成功に終わり、懐かしい顔との再会もあり、道純も伊保も貞固も、皆が大満足した。

 

 しかし、問題はこれで終わらなかった。伊保は兄栄次郎の実力を適切に評価できていなかった。

 伊保は寄せられた大工や棟梁、酒屋や料理屋の普請やら宴やらの請求書を合算し、驚愕した。合計額がいつの間にか三百両を越えていたのである。

 驚いた伊保はすぐに神田鍛冶町の実家に急ぎ、兄栄次郎に面会を求めた。そして兄の前に請求書の束を叩きつけた。今度は手土産を持っていない。

「なぜこんなに費えがかかっているのですか?」

 伊保は兄に詰問した。

「なぜって、お前が贅沢な宴を開けと言ったのだろう。私はお前の言いつけを忠実に実行したのだ。みんな喜んでおられたぞ。お上のお役人もな。それでな、私は道純先生からお誉めいただいたのだ」

 栄次郎は伊保の詰問口調を不思議に思いつつも笑顔で答えた。事実、祝宴は大成功に終わり、道純も満足しており、伊保も道純に誉められたのだ。しかし、渋江家の台所事情はまた別問題である。

「しかし、いくらなんでもこれはかかり過ぎではありませんか?」

「そうだな。かかり過ぎている。しかし、贅沢な宴を開けと言ったのはお前ではないか。私は言われたことをしたまでだぞ。何を怒っているのだ。私は道純先生には怒られたとしてもお前には感謝されこそすれ、怒られる筋合いはない」

 栄次郎はなぜ伊保が不機嫌なのかを理解できないでいた。

 伊保は失敗したと思った。栄次郎の力を過大評価していた。いや過少評価と言うべきか。

 

 それからしばらくして、渋江家の支払いが滞っているという噂が江戸に流れ始めた。道純の耳にも入ったが、道純は「台所は妻に任せている」と言って関知しない。そのうち心配した比良野貞固がまた伊保を尋ねて渋江の屋敷にやって来た。

 貞固は再び道純のいない時間を見計らって伊保のもとを訪れた。

 渋江の屋敷の今では立派となった真新しい客間で貞固は伊保に問うた。

「道純先生はお出かけでござるな?」

「道純は柳島の下屋敷に行っております」

 朝の早い時間であり、道純は当分帰ってこない。

「お目見の祝宴のことなのでござるが」

 貞固が改まった。

「はい」

「渋江の支払いが滞っているとの噂を拙者も聞き及んでござる」

 貞固は重苦しい口調だった。

「それは噂ではありません。渋江の支払いが滞っているのは事実ですから」

 伊保は素直に認めた。こういう場合、伊保が何か言い訳めいたことを言うことはない。

「どうするおつもりでござるか?」

「そのことなのですが、比良野様にお助けいただくことは可能でしょうか?」

「助けるとは?」

「いくばくかを助成いただけると」

 伊保は金銭援助を頼んだ。聞いて貞固は首を横に振った。

「それは無理でござる。姉さんも嫁す前に比良野の家にしばらくいたわけでござるから、比良野の家の事情はある程度ご存知かと思うのでござるが、あれは表向きでござる。比良野家は代々津軽家留守居役の家柄、留守居役は他の国の留守居役との付き合いが頻繁で出て行く金が半端ではござらん。拙者は新年を迎えるときでも真新しいふんどしを買うこともできず、古着屋に入ることすら躊躇するのでござる」

「しからば津軽家の金庫から助成いただけないでしょうか?そもそも今回の盛大な祝宴は津軽家の面目を保つためのものだったのですから」

 聞いて貞固はもう一度首を振った。

「余計無理でござる。津軽家に余剰の金などあるわけござらん」

「それでは渋江はどうしたら良いのでしょう?このままではそれこそ津軽公の顔に泥を塗ってしまいます。せっかく、祝宴はうまくいったのに」

「どうしたらと言われましてもなあ」

「もし比良野様に何かお考えがおありでしたらお知恵を拝借したいのですが」

 それから二人は食客を減らすとか子供を養子にやるとか喧々諤々議論したがどれも渋江の危機を救う決定打にはなりそうもなかった。

 貞固が腕を組み、伊保が手を膝の上に載せ、長考に入ると廊下の方に人の気配を感じた。

 人の気配を感じたかと思うと、次の瞬間には森養竹が客間に入って来た。養竹は相変わらず歌舞伎役者のような格好をしており、「成田屋」と声を掛けられればその場で見得を切りそうな勢いである。もちろんこの場には似つかわしくない。

「これはこれはお二人さん。何を渋い顔をしておられる」と養竹。

 二人の顔は益々渋くなった。

 森養竹は元々渋江の屋敷には出入り自由であり、二人の密談の場に突然現れてもそれ自体は不自然なことではない。もとより養竹は神出鬼没なのだ。

「森様。無礼ではありませんか。この伊保はともかく比良野様の前ではお控えください」

 伊保は怒ったが養竹は意に返さない。

「まあまあ、比良野殿とは長い付き合いなのだからそう堅いことを言わずとも良いではないか。で、お二人で何を密かに話しておられたのだ?おおよそ渋江の厳しい台所事情の相談でもされていたのであろう」

 そう言って養竹は二人の間に座り、あぐらをかいた。

 養竹の言ったことが図星だったので貞固と伊保は益々渋い顔になった。

「私が相談に乗っても良いぞ」

 そんな二人の気持ちはお構いなしに養竹は微笑みながら二人を交互に見た。

「相談とな?そなたは道純先生に無心ばかりしている身ではないか。そんなそなたに今の渋江の台所が救えるのか?そなたの妻は姉さんに腰巻の無心までしてきたと聞いておるぞ」

 貞固が怒った口調で言った。それでも養竹は涼しい顔だ。

「比良野殿。誤解なさるな。私は渋江の負債をこの森が肩代わりするとは言ってはおらん。私にはそんな金はない。ただ、金はないが知恵はある」

 言って養竹は右の人差し指で自分の頭を叩いてみせた。

「知恵?」と伊保。

「そうだ。知恵だ。この三人の中では私が一番だろう。腕っぷしでは比良野殿。計算では伊保さん。そして頭ではこの森だ。お二人とも異論はあるまい。私はこの屋敷にあるものを売って金を作れば良いと申したいのだ」

 聞いて貞固と伊保は深いため息をついた。

「それは無理です。金目のものはもう質に入っているのです」

 伊保が静かに言った。聞いた養竹はうなずいた。

「この家の値のある物が大概質に取られていることは私も知っている。市野屋の手代が泣いておったからな。私が言いたいのはそのことではない。伊保さん。商人(あきんど)の娘であるあなたはこの家にある本当に価値のあるものを知らないということを言いたいのだ」

「本当に価値のあるもの?」

 伊保は首を捻る。

「そう。本当に価値のあるもの。それこそ伊保さんが山内の実家から持ってきた衣服や寝具よりもはるかに価値のあるものだ。それを売って金を作れば良い。商人の目には見えないのかもしれないが」

「森殿。いい加減なことを申すではないぞ」

 貞固が唸った。

「比良野殿。そなたの目にも見えないかな。そなたも武士(もののふ)だな。腕っぷしだけの武士の目にも見えないのだろうな」

 養竹が馬鹿にした口調で言ったので貞固はムッとして大きく咳払いした。しかし、伊保は冷静だった。

「森様。教えていただけないでしょうか。もしそれが本当に渋江の危機を救う物ならば」

「・・・本だよ」

 養竹は少し間をおいてから言った。

「本?」

「そうだ、本だ。道純先生は価値のある本を何万冊とお持ちだ。それを古書店に売るのだ。金になるぞ」

「しかし・・・それは道純が大切にしているものでは?」

 伊保が困惑する。

「もちろんだ。だからこそ価値があり売れるのだ」

 確かに本に価値があると言われればその通りなのだろう。先妻の徳からもそんな話を聞いたことがある。それこそ数えきれないほどの蔵書が今、この屋敷にはある。それにこの男は常識外れだが学識だけは世間並みをはるかに超えてある。道純の蔵書の価値を見抜くこともできるのであろう。

「しかし道純は同意しないでしょう」

「当然だ。だからこっそりやるのだ」

「そんなことをしたら怒られてしまいます」

「それは案ずるに及ばない。先生は本を大切にされてはおるが、厳格に管理されているわけではない。医業や学業が忙しくて本の管理にまで手が回っていないというのが実情だ。それに先生の本を借りていく輩(やから)はたくさんいる。もし、先生に本の所在について何か言われたらあの本は誰それに貸していると言えばよろしい」

 言って養竹は伊保と貞固を交互に見た。伊保は貞固と視線を合わせたが、貞固は気まずそうに眼をそらした。少し二人でもじもじし、やがて伊保が顔を上げ、養竹を見た。

「・・・できません」

 か弱い声で伊保が言った。男ノ助と呼ばれた伊保もこの場ではさすがに自信なさ気だ。

「では伊保さんは背に腹を代えることができるのですかな?」

 養竹がとどめを刺した。伊保はもう一度貞固と目を合わせた。貞固は目を閉じ、申し訳なさそうにうなずいた。伊保も観念した。

「分かりました。森様のおっしゃるように致しましょう。それでどうすればよろしいのですか?」

「伊保さんも比良野殿も書を売る眼力は持ち合わせていないようですな。まあ、ここはこの森にお任せください」

 言って養竹は不気味に笑った。

 

 森養竹の登場により渋江家の危機は去った。結局、養竹がどれだけの本をどのようにさばいたのかは養竹以外の誰にも分からなかったが、渋江の負債は消え失せた。

 この年、道純の五女癸巳(きし)が生まれた。

 当時の渋江の家族は道純四十五歳、伊保三十四歳、長男恒善二十四歳、次男允善十五歳、四女陸(くが)三歳、五女癸巳一歳の六人であった。

 長女純(いと)は馬場家に嫁に行き、三女棠は幼くして伊保の実家山内家を継ぎ、次女好、三男八三郎、四男幻香は既に亡くなっていた。

 翌嘉永三年の四月には伊保の仮親だった津軽藩江戸詰留守居役比良野文蔵が帰天し、嫡子貞固が目附から留守居役に進んだ。

 

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