男ノ助   作:山田甲八

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この物語は史実に基づいている部分もあるが、架空のものであり、登場する人物、場所、施設、役職などの固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
またこの物語は純然たるエンターテイメントであり、時代考証、風俗考証は元より正確を期していない。



七 黒船襲来

 翌嘉永四年、江戸は天然痘の病禍に見舞われた。そして、この病禍は渋江家をも襲うことになる。

 天然痘は不治の病ではなく、道純はむしろ専門医であったが、手遅れとなっては手の施しようがない。

 この年、二月四日には道純の三女であり、伊保の実家である日野屋山内家を形式上継いでいた棠(とう)が帰天し、続いて十五日には五女癸巳(きし)が三歳で帰天した。

 天然痘はもちろん渋江家の子どもの命だけではなく、多くの命を奪った。その命の中に津軽藩の医師、矢島玄碩(げんせき)の一家があった。

 矢島家は当主玄碩、妻寿美、長女環、次女鉄の四人家族であり、その全員が天然痘に襲われた。そしてわずか六歳の次女鉄だけが残された。そしてこのことが渋江家にも大きなインパクトを与えることになる。

 医者仲間の一人が道純に説いて、渋江家の次男允善を残された矢島家の次女鉄と結びつけ、矢島家の末後養子にしようとしたのだ。矢島家が絶えてしまうのは惜しいというのが表向きの理由であったが、裏にはまた、別の理由が隠されていた。

 道純は最初、この末後養子に反対の意向を見せていたが、最終的には賛成した。しかし、伊保は反対だった。

「しかし、允善はまだ十七歳、鉄に至ってはまだ六歳ではないですか。それに・・・」

 末後養子を進めようとする道純を前に伊保は声を荒げ、そして言いよどんだ。

「それに何だ?」

 道純が先を促す。

「・・・・・・」

 伊保はなお言いよどむ。なぜ言いよどんでいるのか、道純にはその理由が分かっていた。

「鉄の容姿のことを気にしているのだな?」

 道純が静かに言った。

 等しく天然痘の犠牲者だった鉄は、生き永らえたもののその容姿はあばだで破られていた。一方の允善は誰が見ても美丈夫であり、允善を玄碩の末後養子とし、鉄に充てるのは允善にとって犠牲が大き過ぎるように伊保には見えたのだ。

「允善が可哀想過ぎるとは思いませんか?」

 伊保は道純をなじった。

「これは允善のためでもあるのだ」

 道純は動じなかった。

「允善のため?」

「そうだ。允善は恵まれ過ぎている。甘やかされて育てられてしまった。悪い仲間との悪い遊びも覚えている」

「そうかもしれません」

 允善の姿と兄栄次郎とが重なった。允善はこの頃、放蕩にふけっていた。親が立派過ぎると子はうまく育たないのかもしれない。

「それに比べて鉄は可哀想過ぎる」

「はい」

 鉄が可哀想という気持ちは伊保にも理解できる。父、母、姉に先立たれ、自身は見るも無残な容貌で取り残されてしまったのだ。もし、鉄が完全な他人であれば心から同情できたことだろう。しかし、家族になるというのであれば話は違う。

「だから、允善に試練を与えたいのだ。允善に鉄を充てれば、允善も少しはまともに自分の人生について考えるのではないかと思うのだ」

 結局、伊保は道純の、鉄を救うために允善を与えるというその義侠心に負け、鉄の受け入れを認めた。允善は矢島家の末後養子となり、名を優善と改め、矢島優善を名乗るようになった。

 優善と鉄は夫婦になったものの、それは形式上のものであった。鉄はまだ六歳、数えだから今でいえばまだ四歳の幼児であり。結局、鉄は孤児として渋江家に引き取られたのも同然であった。

 伊保は同じ年頃の棠を天然痘で失ったばかりだった。棠は美しい子どもだった。兄の栄次郎をして「食いつきたくなるような子だ」と言わせしめるほどであった。伊保はそんな棠を愛し、よく添い寝をした。

 棠亡き後、伊保は時々棠の夢を見た。棠を寝かしつけている夢である。夢うつつのまま胸に抱いている子どもが棠であると思い込んで目を開けると、目の前には瘢痕に満ちた鉄の顔がある。伊保は思わず悲鳴を上げた。

 この頃から伊保は精神の安定を失っていた。男ノ助と呼ばれていた頃の威勢は見られなくなった。夕方になると窓を開け、庭を見つめてボーっとしていることが多々あった。

 道純はさすがに気になり、「そなたらしくないではないか。しっかりしろ」と叱咤激励するものの、伊保のうつ状態は改善しなかった。

 

 そして運命の嘉永六年六月三日がやってきた。

 江戸湾の入口、浦賀水道に黒船がやってきたのだ。日本史上、歴史の転換点と呼ばれる事件は多々あるが、大化の改新よりも、蒙古来襲よりも、太平洋戦争よりも、何よりも最もインパクトを与えた歴史的大事件は黒船襲来ではないだろうか。

 江戸の町はたちまち大騒ぎになったが、黒船襲来の噂は伊保の耳にも入り、ふさぎ込んでいた伊保の心の中の何かに火をつけた。

 伊保はドタドタと道純を書斎に尋ね、道純に言葉をぶつけた。

「黒船を見に行きませんか?」と息も絶え絶えに伊保。

「なんだ藪から棒に」と道純。

 ふさぎ込んでいた伊保が急に力強く言ったので道純は驚いた。

「黒船の話はご存知ですね?」

「ああ、もちろん聞いているが」

「黒船を見に浦賀に行きましょうとお誘いしているのです」

 久し振りに元気な伊保を見て道純は少しうれしくなった。しかし、妻が元気になったのは素直にうれしいものの、江戸から浦賀までわざわざ出かけるのは道純の性に合わない。旅行がそもそも嫌いだし、出不精なのだ。学者の性といってもよい。

「私は無理だ。私は忙しいのだ。物見遊山に付き合ってはいられないよ」

 道純は素っ気なかった。

 聞いて伊保はがっかりするというよりもさもありなんと思った。先妻の徳から聞いていた通り、道純は遊びを知らないつまらない男なのだ。それゆえに助かっている部分もあるが、今はつまらない。

「では私が一人で行ってまいります」

 伊保はひるまなかった。

「それは駄目だ。おなごの一人旅など許せるはずはなかろう」

 聞いた伊保は唇を噛み、道純を怖い目で睨み付けた。道純はその迫力に少したじろぎ、続けた。

「私も無下にそなたの好奇心を邪魔しようと思っているのではない。ただ、心配なのだ。長旅などしたことのないそなたが浦賀などに行ってしまうことがな」

 心配だというのは道純の素直な気持ちだ。この時期、たとえ江戸から浦賀までであったとしても女性の一人旅は今でいうところのヒマラヤや南米の奥地に行くようなものである。

「もちろん、私一人ではまいりません。誰か若党を連れていきます」

 渋江の屋敷には常に何人かの書生が居候している。その中で道に詳しく、腕っぷしの強い者を一人連れて行けば用心棒としては十分だろう。

「それも駄目だ。若党連中は旅慣れていないし、道にも詳しくない。迷子になってしまったらどうしようもないよ。何より心配なのだ」

「どうすればお認めいただけますか?」

 伊保はどうしても黒船を見に行きたいのであるが、夫の反対を押し切ってまで見に行こうとは思わない。どのような形であれ、夫の了解は取っておきたいのだ。

 道純はしばらく黙ったが、そのうち妙案が浮かんだようで口を開いた。

「相模の道に詳しい者を連れて行くのであれば行っても良いぞ。それでどうだ」

 道純は妥協したような口調をした。

「相模の道に詳しい者?」

 伊保は首を捻った。

「一人いるであろう。森養竹だ。森は大磯で十年以上開業していた男だ。三浦の方にも往診していたというから浦賀の道にも詳しいだろう。森が道連れなら私も安心だ」

 道純はそう言って笑った。養竹の名前を聞いて伊保は少し渋い表情になった。

 道純は、地頭はもちろん良いのだが頓知とか、機転が利く方ではない。しかし、道純はこの考えはなかなか妙案だと考えた。

 森養竹と伊保は水と油であり、そもそも仲が良くはない。厳密に言えば常識人である伊保が奇人である養竹のことを一方的に嫌っている。だから、伊保が進んで養竹と行動を共にすることはないだろう。

 仮に黒船への好奇心が勝り、伊保が養竹と行動を共にすることを選んだとしても、今度は養竹の方がこれを引き受けないだろう。いや引き受けられない。引き受けられるはずがない。

 福山藩の藩医である養竹の主君は藩主阿部正弘だ。阿部正弘は筆頭老中であり、病の床にある第十二代将軍徳川家慶に代わり、この国の舵取りをしなければならない立場にある。今でいうなら内閣総理大臣臨時代理といったところだ。

 黒船襲来対応のため主君阿部は多忙を極めているはずであり、福山藩の江戸屋敷も大混乱に陥っているはずである。いくら養竹が奇人といっても帰藩が許されたばかりであり、黒船を見に行くなどそこまで非常識な行動はできないだろう。道純は軽く考えた。

「分かりました。森様にお願いしてまいります」

 言って伊保は一礼し、下がっていった。

 そんな伊保を見て道純はほくそ笑んだ。

 

 伊保はこの際、養竹とのことはどうでも良かった。黒船を見ることが大事であり、養竹は手段に過ぎなかった。

 福山藩は混乱を極めているはずであったが、養竹は家にいて、相変わらず歌舞伎役者のような格好をして伊保を出迎えた。しかし伊保は以前抱いていたような嫌な感じは抱かなかった。好奇心が優っていた。

 養竹は確かに福山藩の家臣ではあるが、医者であり、武士ではない。だから政治とは遠いところにいるし、この頃の養竹の主たる仕事は臨床というよりも躋寿館での医書彫刻取扱手伝としての仕事である。医者には臨床医と研究医の二種類があるが、養竹はこの時期、研究医の立場にあったのであり、医者というよりも学者であった。

 学者であるから自分のスケジュールはある程度、融通がつく。しかも世間は黒船騒ぎで混乱している。養竹はその混乱の渦中から遠いところにいる。

「森様にお願いがございます」

 伊保は養竹を前に慇懃にかしこまった。

「伊保さんが私を頼るとはなんともめずらしい。もちろん伊保さんには妻(さい)共々日頃よりお世話になっているし、私にできることならなんでもお引き受けしよう。もし、今ここで腹を切れと言うなら腹を切っても良いぞ」

 伊保の勢いに奇人の養竹もキョトンとして言った。聞いた伊保は「それなら腹をお切りください」と言ってやりたくもなったが、今はそれどころではないと自分に言い聞かせた。

「黒船を見たいのです。それで私を浦賀まで連れて行っていただけないでしょうか?」

「黒船を?」

「はい。私はどうしても黒船というものをこの目で見てみたいのです。本当は道純に連れて行ってもらいたいのですが、道純は駄目だと申します」

「それはそうであろう。道純先生は物見遊山が大嫌いだからな。私の爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ」

 養竹が言ったがその言辞は無視して伊保は続けた。

「ただ、森様が一緒なら行っても良いと申しておりますので」

 伊保はそれまでのうつ状態が完治したかのように目を輝かせて言った。元の伊保が、男ノ助と呼ばれた伊保が甦ったようであった。

「私に浦賀まで連れて行けと言うのか?」

「はい」

「いやあ、それはさすがに伊保さんの願いでも無理だ」

「今、私の言うことはなんでも聞くとおっしゃったではありませんか」

 伊保は本気で怒った。あまりの迫力に養竹もビビる。

「私はできることならなんでもやると言ったのだ。できないことはたとえ伊保さんの願いでもできない。ご存じの通り、今、江戸の町は大騒ぎだ。主君、阿部正弘公は筆頭老中。そんな中で私がのこのこ浦賀まで遊びに行かれると思うか?そうでなくとも私は阿部家に帰籍したばかりなのだ。主君の気に障るとまた永の暇(いとま)になってしまう」

 言われたが伊保は引き下がらなかった。

「それではこうしたらいかがでござましょう」

 伊保は考える暇を与えない。

「何か知恵があるのか?」

「森様は相模の国で開業されていらっしゃいましたね?」

「ああ。大磯でな」

「そのとき、三浦の方にも往診に行っていたと聞いております」

「うん」

「そのときの患者から急の往診に呼ばれたとおっしゃればよろしいのではないでしょうか?」

 聞いて養竹が唸る。

「確かに妙案ではあるが、伊保さんはどうするのだ」

「急な話で人が手当てできず、道純の妻を助手として連れて行くと言っていただければよろしいのでは?」

「伊保さんが助手に?」

「そうです。私は躋寿館講師である渋江道純の妻。その辺の町医者を連れて行くよりもはるかに説得力があると思いますが」

「なるほど。それもそうだなあ」

「では、決まりですね」

 伊保は養竹を急かした。

「旅の費えは伊保さんの方で負担してもらえるんだろうな?」

 養竹が念を押した。

「もちろんです。速かごで往復するでも良いです」

 伊保が間髪入れずに言い、養竹も腹を決めた。

「分かった。お引き受けしよう」

「では、すぐに出発を」

 伊保ははやる気持ちを抑えることができない。

「すぐには無理だ。伊保さん、その格好で浦賀まで行くつもりか?」

 伊保は着の身着のままである。

「はい。善は急げと申しますので」

「着の身着のままでは浦賀まで持たない。浅草に墓参に行くのとは違うぞ。伊保さん、少し冷静になった方がよろしいのでは?」

 言われて伊保はようやく自分がとても興奮していることに気が付いた。

「申し訳ありません。私としたことが、興奮してしまいました。少し冷静になります」

 言って伊保は深呼吸した。

「伊保さんらしくないな。いや、むしろ伊保さんらしいのかな。まあ、意外な一面を見せてもらったよ」

「それで、どう致しますか?」

 伊保は少し冷静になった。

「まずは旅支度だ。昼までにはできるだろう?支度ができ次第、出発しよう」

「しかし、それでは浦賀に着くまでに日が暮れてしまいませんか?」

「もちろんだ。だから今日中に浦賀まで行くつもりはない。今日は保土ヶ谷で一泊しよう」

「保土ヶ谷で一泊?」

「そうだ。保土ヶ谷に前泊して体制を立て直してから明日の早朝、夜明けとともに浦賀に向かうのだ。そうすれば昼前には浦賀に着ける。そして黒船をゆっくり見物すれば良い。遅くなるようであれば三浦には知己があるのでそこに厄介になれば良い」

 なるほどこの男は旅慣れしているし、相模の地理にも詳しい。聞いた伊保は道純の思惑とは真反対に養竹を旅の道連れに推薦した道純の眼力に感心していた。

 

 神田の屋敷にそそくさと戻った伊保は直ちに旅支度にかかり、若党を一人呼んで旅支度をするように命じた。それを道純は見咎めた。

「浦賀に行くのか?」

「はい。森様に一緒に行っていただくことになりました」

「何?森が一緒に行くことに同意したと?」

 道純は仰天した。

「いえ、厳密には森様のところにたまたま三浦の方より至急の往診の依頼があったのです。森様が長年診ていらっしゃる患者さんということで、それで私は森様の助手ということで一緒に連れて行っていただけることになったのです。その帰りに浦賀に寄って黒船を見てまいります」

「そなたが助手だと?」

「はい。私は躋寿館講師、渋江道純先生の妻。一番弟子である森養竹先生の助手にはふさわしいと思いますが」

「しかしだな・・・」

「森様が一緒ならよろしいのですよね?そうおっしゃっていましたよね?」

「んんっ」

 伊保の迫力に道純はぐうの音も出ない。結局、道純は伊保が若党と一緒に出掛けて行くのを見送ることしかできなかった。

 

 伊保は用心棒の若党を連れて再び森養竹の家に向かい、養竹と合流してから東海道を下った。まずまずの陽気だったので歩を進め、疲れたらかごに乗り、この日のゴールである保土ヶ谷の宿を目指した。養竹はいつもの歌舞伎役者のような風貌ではなく、普通の旅装束だった。こんな格好もできるのだなと伊保は少し感心した。

 保土ヶ谷の旅籠(はたご)に着くと、早めに眠り、翌朝、日の出とともに伊保、養竹、若党の三人は出発した。

 保土ヶ谷から今でいうところの国道十六号線沿いに三浦半島を南下し、三浦半島東側の先端に向かった。

 今の県立観音崎公園の辺りまで来ると視界も開けてくる。季節は生暖かく、晴れてはいたものの視界良好というほどでもなかった。

 それでも房総半島は靄(もや)の向こうに見え、その手前の浦賀水道には明らかに異国の物、巨大な軍艦四隻が煙突から黒い煙を吐き出していた。

 黒船までは相当の距離があるので圧迫感はないものの、周囲の船に比べるとその大きさは圧倒的であり、伊保は、そして養竹も度肝を抜かれた。

 黒船は、今でいうなら遊星人が空飛ぶ円盤に乗ってやってくるようなものだろうか。現代人が未知の空飛ぶ円盤を見つめるように、伊保、養竹、そして若党の三人は口をあんぐりと開けながら黒船に見入った。

「森様?」

 しばらくして伊保が養竹に声を掛けた。

「うん」

「色々とお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 伊保は好奇心を掻き立てられる。養竹が漢学に偏った道純に比べ西洋通であることも知っている。

「まあ、私で答えられることであれば」

「黒船から煙が出ておりますが、あれは何の煙でしょう?火事のようには見えませんが」

 伊保は黒船を指さし、養竹に尋ねた。

「もちろん火事ではない。よく見なさい。煙は煙突から出ているではないか?」

 養竹は笑って答えた。

「それにしても煙の量が激し過ぎやしませんか?暖を取るような季節ではないし、料理をしているにしてもあの煙の量はないですよね?」

「あの船は蒸気船なのだよ」

 養竹は静かに言った。

「蒸気船?」

「蒸気船は知らぬかな?」

「聞いたことはあります」

「ほう。聞いたことがあると?」

 この時期は蒸気船の存在はもちろん、蒸気機関の存在を知っている日本人すら珍しい。

「はい。兄の栄次郎の持っている本でそのような話を読んだことがあります。帆船のように風に頼らず、人力でもなく、火を焚いて走る船だったと思います」

 伊保は教育だけは最高のものを授けられた栄次郎の影響で本をよく読み、地球が丸いことも地球が動いていることも既に知っていた。

「そうだ。蒸気船の蒸気とは湯気のことだが、湯気の力で動かすのだ」

 聞いて伊保は首を捻った。湯気と聞いて伊保の頭に浮かぶのは風呂やみそ汁に漂う湯気だ。そんな伊保を見て養竹が続けた。

「湯気の力で鍋ややかんの蓋が動くのを伊保さんも見たことがあるだろう」

「はい。それは」

「その力で船を動かすのだ」

「そんなもので船は動くものなのですか?」

「ああ。これからは風力や人力ではなく、蒸気が主力となるのだろうな。船だけではない。アメリカには陸の上も蒸気で走る車が走っているのだ。江戸もそのうちそうなるだろうな」

「アメリカは何のために浦賀にやってきたのでしょう?」

「何のためにというと?」

 養竹は伊保の質問がすぐには飲み込めない。

「蒙古のように日本を我が物にしようというのでしょうか?」

「だとしたらどうだというのだ」

「だとしたら、勝ち目はありますまい」

 聞いた養竹は少し笑った。

「そうだな。勝ち目はないだろう。でもアメリカは日本相手に戦を仕掛けるような馬鹿な真似はしないだろう。日本が戦を仕掛ければ相手にはしてくれるとは思うが」

「なぜでございましょう?」

「戦をするほどの魅力が日本にはないのだ。日本にはアメリカ人が欲しがるようなものは何もない。日本というか、この辺りが西洋では何と呼ばれているか伊保さんは知っているかな?」

「さあ?」

 伊保が首を捻る。

「ハアイイストと呼ばれているのだ」

「ハアイイスト?」

「そうだ。ハアは極端なという意味、イイストは東という意味だ。つまり、西洋にとって日本はあまりにも東にあるということだ。もちろん、どんなに東にあってもお宝の山であれば危険を冒してでもやってくるのだろうな。ところが日本には西洋人が好むようなものはない。せいぜい絹くらいのものだ。かの国の人々は米も食わないからな」

「米を食べないのであれば何を食べるのです?」

「麦やあるいはせいぜい芋といったところかな。向こうの国は日本と違って寒いし水が豊かではないのだ。だから米は育たない。日本に来たのは清への足掛かりにしようというのだろうな。長い船旅、薪や食料の補給が必要だろうからそのための港が欲しのだろう」

「港を貸せと?」

「親書を持ってきたと聞いている」

「お手紙ですか?」

「そうだ。あちらの将軍様からこちらの将軍様家慶公への親書だ」

 ペリーは開国を要求する将軍あての親書を持ってきていた。日本にとって幸か不幸か、宛先の第十二代将軍家慶は病にふせっていて親書に対する回答ができない。結局、回答は来年まで待ってくれということでこの時、日本はペリーをなんとか撃退している。

「アメリカは日本と比べて大層広い国土を持っていると聞いています。あちらの将軍様はさぞかし立派な力量をお持ちなのでしょうね」

 伊保がポツリと言った。少し間があり、養竹が続けた。

「なるほど、伊保さんはアメリカの将軍がどのような人物か想像がつくかな?」

 聞いて伊保は再び首を捻った。大きな身体だというのは想像がつくが、それ以上は分からない。

「想像もつきません」

 伊保は素直に答えた。

「アメリカはな、日本と違って将軍は世襲ではないのだ」

「・・・世襲ではない?ではどうやって選ぶのですか?」

 伊保は軽い衝撃を受けた。

「入札だよ」

 養竹がポツリと言った。

「・・・入札?」

 伊保がさらに首を捻る。

「そうだ入札だ」

「入札とは何でございますか?」

「まさか伊保さんほどの教養のある人が入札を知らぬはずはなかろう。札に名前を書いて箱に入れるのだ」

「入札がどういうものかはもちろん知っております。それでは世襲ではなく、老中とかが入札で将軍様を決めるということですか?」

 聞いて養竹はため息をつき、軽く笑った。

「なるほど、伊保さんには理解が難しいかな?これは失敬。実はこの私にも理解し難いことなのだ。民が、すべての民が一人一札を持っているのだ。そして我こそは将軍にならんとする輩(やから)が手を挙げるのだな。そして我に入札せよと宣伝するのだ。それを聞いて民は誰が将軍に相応しかを自分で判断して札にその人の名を書き、入札箱に入れるのだ。そして最も札を集めた輩が将軍となるのだ」

「・・・・・・」

 伊保は絶句した。

「理解し難いであろう。デモクラスイというのだ。しかも、さらに驚くべきは、札を与えられているのは武家だけではないということだ。百姓でも商人(あきんど)でも職人でも、誰でも札が与えられる」

「何と」

「しかも、我こそは将軍にならんと名乗りを上げる輩も百姓でも商人でも職人でも誰でも良いのだ。かの国はそういう国なのだ」

 聞いて伊保はますます分からなくなった。

「それは無理でございましょう」

「なぜそう思うのだ?」

「誰が名乗りを挙げているのかは高札でも上げれば分かるかもしれませんが、その、将軍になろうとするお方の人となりを田舎の百姓や職人にまで理解させることはできませんでしょう」

「それができるのだな」

「どうやってでございますか?」

「かわら版だよ」

「かわら版?」

「そうだ。かわら版だ。ただ江戸の町で見かけるかわら版とは違うぞ。あちらのかわら版は毎日発行されるし、毎朝、家まで届けてくれるのだ。そのかわら版に将軍になろうとする輩のことが書かれるのだ。それを見て民は誰に入札するかを決めるのだ」

 聞いて伊保はまた衝撃を受けた。しばらく沈黙した。

「・・・決めました」としばらくして伊保。

「何を?」と養竹。

「私、かわら版職人になります」

「はあ?」

「これからは日本もアメリカのようにかわら版職人が大切な職業になっていきますでしょう」

「それはそうかもしれないが、伊保さんには無理だ」

「なぜでございますか?」

「伊保さんはもう歳を取り過ぎている。かわら版職人がこれから重要な仕事になることは否定しないが、その夢はご子息に託すのだな」

 聞いた伊保は少し微笑み、また黒船の方を見た。未来がそこにあるように見えた。今まで鬱屈していた自分がとてもちっぽけに見えた。

 もう一度黒船の方に目をやると、黒船の周りに小さな船が浮かんでいるのが目に付いた。

「あれはなんでございましょう?」

 伊保が黒船の方を指さして養竹に聞いた。

「あれとは?」

「黒船の周りを小さな船が行ったり来たりしておりますが」

「よくは分からないが近所の漁師が黒船を近くで見ようと船を出しているのではないか。伊保さんのように好奇心旺盛な漁師がな」

 聞いて伊保の目が一段と輝いた。

「では私達も漁師の船に乗りましょう」

「はあ?漁師の船ってどうするつもりだ?」

 養竹がビックリして聞いた。

「船を出すよう漁師と交渉するのです。さあ、まいりましょう」

 伊保はそう言うと養竹と若党を置いたまま高台を下っていった。

 

 帰りにもう一度保土ヶ谷に宿泊した一行は翌日の夕方には江戸に帰って来た。伊保は心配して待っていた道純に早速、土産話を聞かせる。

「さらに私は黒船に乗り込もうと思って近所の漁師に頼んで船を出してもらおうと思ったのです」

「なんだと?森もか?」

 道純が驚いた。

「いいえ。森様は腰が引けていました。それで、私が漁師のところに行って交渉したのですが、船を出してくれる漁師はいませんでした」

「うん」

「それで奉行所に黒船に載せてもらえないかお願いに行こうと思ったのです」

「浦賀奉行所にか?」

 道純はさらに驚愕した。そんなことをしたらお咎めは必至である。

「残念ながらそれはできませんでした。さすがに森様に止められてしまいました。森様を振り切ろうとしたのですが、若党も身の危険を感じたようで森様に寝返ってしまい、森様と若党に両腕を掴まれて保土ヶ谷まで引っ張っていかれました」

「そうか」

 道純は伊保の話を聞いて少し冷や冷やしたが、伊保が元気を取り戻したのは素直にうれしかった。

「私、黒船を見に行って良かったです。森様からも貴重なお話を伺うことができました。おまえ様も少しは西洋の学問に目を向けた方が良いのではないですか」

 行き過ぎたこととは思ったが伊保は言わずにはいられなかった。

「んん」

 道純は唸った。道純にとって学問は漢学であり、西洋の学問は軽く見ている。しかし、そういう時代ではないと意見する同輩もいる。

 道純は伊保の話を聞いて日本人も西洋の文物に真剣に向き合わなければならない時が来ているのかなと少し思った。

 この年、道純は四十九歳、伊保は三十八歳になっていた。この年の正月には道純の六女水木(みき)が生まれていた。

 嘉永六年より明治維新までを日本史では幕末と呼んでいる。明治元年まではなお十五年を要するが、この十五年はそれまでのどの時代よりも、それ以降のどの時代よりも最もこの国が揺れ動いた十五年だった。

 

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