泊地の南側に位置する執務室の空気は、その部屋の主人が発するオーラで澱んでいた。机の上には昨夜放り出したままの、整理しきれていない書類が積み重なり、その隙間には飲みかけのコーヒーが置かれている。苦味だけが残った液体は、すっかり冷え切っていた。
陽光が窓から斜めに差し込んでいる。執務室の机とそこに座る俺を挟んで、濃紺の上質なカーペットに薄い影を作り出していた。部屋の隅には、古びた木製の本棚が並び、そこに収められた無数の書類や帳簿が、提督業としての日々の業務を物語っている。壁には軍事作戦用の地図が飾られ、そのすべてが今や少しばかり色褪せ、長年の歴史の一部として静かに息をひそめている。
机の横のサイドテーブルを見れば、真新しいインク瓶がひときわ目に入る。昨日、やっと手に入れた新品の万年筆。前に使っていたのは金剛に壊されてしまったから、新調しなければいけなかった。
出撃の前日の話ではあるが、別に怒っていないというのに、万年筆を壊してしまったことを後から知った金剛が部屋に押しかけ、ごめんなさい、ごめんなさいと大声で泣かれてしまった事件があった。
その上抱きつかれ、何を言ってもまったく離れてくれなかった時は、一体この状況をどうしようかと大いに頭を悩ませた。なかなか降りてくれなかったため、数時間後に陸奥と他の姉妹たちによって金剛のバーニング(?)ハグから解放されるまで、ずっと鼻を啜る音と金剛の柔らか……質量を感じながら執務をしていた。
「あれがレディーなの……!?」と執務室のドアの隙間から覗いていた駆逐艦らと、それを情操教育上良くないと退避させる大人組のあのなんとも言えない生暖かい表情が忘れられない。できればもっと早く助けて欲しかった。あの苦行のせいで、肩こりがさらに悪化した気がする。
新品特有の、独特なインクの香りが鼻をつく。机の端に無造作に積まれた資料の山を見つめながら、俺はその無機質なペンを手に取った。
肩を揉みながら、目の前に広がる書類を整理しようとするが、その手がふと止まる。昨夜のことが、どうしても頭から離れない。
俺は椅子にもたれ、左目を隠す眼帯を押さえた。指先がじんと熱を帯びている。昨夜は眠れなかったわけではないが、なんとも心が落ち着かず、まともに休めたとは言い難い。机の端に転がる鉛筆を無意識に転がしながら、ぼんやりと昨日のことを思い返す。
榛名の体温が、まだ腕の奥に残っている気がした。
昨夜、港で彼女を抱きしめ、声をあげて泣いた。あの瞬間の情動は、どうにも誤魔化しようがない。
──やってしまった。
どうして、あんなことをしてしまったのか。いや、理由はちゃんとわかっている。彼女が生きていてくれたことが、ただただ嬉しかった。それだけだった。
でもなぁ、と誰もいない部屋でひとりごちる。あんなことして、今後どんな顔をして会えばいいんだ。あれを見てた艦娘は少なくなかった。絶対これから揶揄われる。穴があったら入りたかった。
その時──
「おはよう、提督」
「提督、おはようございます」
ノックと同時に聞き知った声が聞こえた。
振り向けば、扉の向こうに陸奥と大淀の姿があった。陸奥は報告書を片手に、どこか愉快そうな笑みを浮かべている。続く大淀は相変わらずのキリッとした表情だが、いつもより少しだけ口元が緩んでいる気がした。
「……おはよう……」
ぎこちなく答えると、陸奥が机に近づいてきた。
「昨夜はよく眠れた?」
悪意のない問いではあったが、俺は微かに肩を竦めるしかなかった。
「まあ、それなりには……」
陸奥はふっと微笑むと、俺の机に肘をつき、じっとこちらを覗き込む。
「ねえ、提督。目、腫れたままよ?」
「ぶっ……」
思わず噎せた。
陸奥はクスクスと肩を震わせる。大淀も、控えめながら目を伏せて微笑んでいた。
「今更隠したってバレバレですよ、提督」
「あなたのこと、今朝からいろんなところで持ちきりよ。金剛ったら、思い出し泣きまでしてるんだもの」
俺は頭を抱えた。金剛……あいつめ、また余計なことを。
大淀はメガネを正しながら笑みを含んだ声で言う。
「みなさんだって榛名さんのことが心配だったんです。提督が今の榛名さんを気にかけてることだって、ここの殆どの艦娘はわかってますよ」
その言葉に、俺はぐぅと唸ることしかできなかった。
「ま、しばらくは榛名に顔を合わせるのが気まずいでしょうけど……」
「……どうしよう」
「何を弱気になってるんですか。泣いてしまったって、それだけ心配だったのでしょう?別に恥ずかしいことじゃないですよ。むしろ羨ましいって言う子もいましたし……」
「大の大人が公然の場で泣き喚いたんだ。上司である俺が……。どんな顔でみんなの前に立てばいい……」
そんな俺を見て、陸奥は呆れたようにはぁ、とため息をつく。大淀もやれやれと言った表情である。こいつら……仮にも上官に対して失礼なやつらだ。まあ、今の俺が何を言っても威厳がないのは自覚しているが。
「口調、元に戻ってるわよ。それに誰も気にしないわよ。はい、それより仕事。昨日の分、まだ終わってないんでしょ?民間漁船の航行許可申請書なんてこんなに沢山……今日中に終わるの?」
「昨日、お前たちがやってくれててもよかったんだぞ」
「提督がお持ちの印鑑が必要でしたので」
観念してください、と大淀が俺の目の前に書類の山を移動させた。
ため息をつきながら俺は机の上の書類から窓の外に目を逸らして現実逃避する。
嗚呼、今日も空が綺麗だ──
トントンと陸奥が机を指で叩きながら説教してきた。
「それに、例の霧島と比叡の貸出期間の期限、もうすぐでしょう?連絡はどうするの?」
「そのうちやる。今はそれより優先することが多い。正体不明艦の特定も大本営への報告もまだなんだ。だから──」
「それもわかるけど、大規模作戦が終わって一ヶ月あたりから呉と鹿屋基地からの連絡がうるさいのよ。早く返せって。私、あそこの提督苦手なのよ」
陸奥は手に持っている書類の束を指でぱらぱらと捲りながら、形のいい眉を歪ませた。
「おい、相手は中将閣下だぞ。外では絶対言うなよ」
「わかってるわよ」
陸奥は長いため息をついた。確かに俺も呉の柳田提督──中将閣下は苦手だ。
現在、海軍では主に二つの勢力が拮抗している状態にある。
一つは元帥である黒田定彦元帥を筆頭とする保守派。この派閥は、艦娘を兵器の延長線上にあるものとして定義し、新日本帝国憲法で保障される基本的人権等の庇護下に置かず、敵を駆逐し次第艦娘の存在も同様に消去すべきと唱える派閥である。戦術的戦法を好む人間が多い影響か、捨て艦作戦が主流だった頃もある。
もう一つは横須賀鎮守府で提督をしている島津大将を筆頭とするリベラル派。艦娘の権利を尊重し、あくまで人間と同等の知的生命体だと定義し、艦娘の教育、福利厚生、生活環境の向上化などを目指している。
この二つの派閥は帝国議会においても影響があり、現在は議席の過半数が保守派である状況が続いている。
ちなみに俺や鳴海少将はそのリベラル派に属していることとなっている。
しかし、柳田中将に関してはどちらとも言えない態度をとっており、あくまで中立の立場である。しかし、口調や言論等々が常に嫌味ったらしく、出会った人物のほとんどがマイナスの印象を持つ。但し実力は本物のため、誰も口出しはできない。世襲やコネ、裏の手を使わず実績一本で中将の座に昇り詰めた男なのだ。尊敬はできるが会いたくない人。それが柳田中将なのだ。
大規模作戦──ヲ号作戦であの姉妹を貸し出してくれた恩はあるが、だからと言ってあまり連絡はとりたくない。
それに、陸奥に伝えたようにやるべきことは山ほどあるのは事実だ。それに、今この時期に榛名からあの姉妹を離れ離れにさせたくはない。返事を返すのはあと一週間は先延ばしでいいだろう。呉に借りている比叡と霧島の派遣はもともと半年の契約だった。満了まで一ヶ月はある。
「敵の出没が減った昨今において、件の正体不明艦の究明は最優先事項だ。呉の柳田中将と鹿屋の鳥羽大佐には、まだ期間は終了していないから、とごねておけ」
陸奥はやれやれと首を振り、業務作業を始めた。大淀は持っていたデータと書類一式を俺に預け、執務室から出て行った。とにかく、今日は無駄に考え込む時間を減らしたい。事務仕事に没頭することにした。