天井を見つめる。
ぼんやりとしたまま、榛名はゆっくりと瞬きをした。
いつもと変わらないはずの朝。
総員起こしの時間はとうに過ぎているが、今日は非番だったとまだ覚醒しきっていない頭で思い出す。
窓の向こうには、白んだ空と海が広がり、波の音が静かに耳をくすぐる。微かに風が吹き、カーテンが揺れる。その向こうからは、基地の朝の喧騒が聞こえてきた。誰かの足音、遠くで響く掛け声、機械の駆動する音──すべてが、日常の風景だった。
けれど、胸の奥に残る感触が、昨日までの日常とは違っていた。
榛名はそっと、己の体を抱く。まるで、あの腕の温もりを確かめるように。
提督が見せた涙。高速修復材を使って傷は癒えたが、昨夜の記憶は薄まるばかりか再三とリフレインし、その度に心のどこかが疼いた。
温かく、そして痛々しいほどに必死な抱擁。震える手。声にならない嗚咽。榛名の肩にすがるようにして、乱れた呼吸を繰り返していた提督の姿。
あの時、榛名はどうすればよかったのだろう。
ただ、そっと背中に手を添えることしかできなかった。あまりに突然で、ただ戸惑った。
ついこの前まで冷たくされていたと思っていた提督が、榛名のために泣いたのだ。榛名には、提督の涙の意味がわからなかった。
ゆっくりと、深く息を吸い込む。扉の隙間から流れ込む潮の香りが鼻腔を満たし、昨夜の出来事を塗りつぶそうとするかのように、朝の空気が肺を満たした。
──大丈夫。榛名は大丈夫です。
そう、自分に言い聞かせるように、布団を払った。
昼下がりの食堂は艦娘たちの喧騒に包まれていた。大きな窓から差し込む陽光が、木製のテーブルや椅子に柔らかな影を落としている。潮風に混じる料理の香りが漂い、誰かの笑い声が絶えず響いていた。
榛名はトレイを両手に抱え、空いている席を探していた。目の前の味噌汁の湯気がゆらゆらと立ち昇るのを眺める。
ふと視線を巡らせると、木曾さん、鈴谷さん、利根さんの三人がテーブルを囲んでいた。彼女たちは談笑していたが、榛名と目が合うと、一瞬だけ微妙な間があった。
「──あ、榛名さんじゃん! ここ空いてるよー。ほら、座んなよ」
鈴谷さんが最初に口を開く。腕をぶんぶんと振って、反対の手で隣の席を指差している。
「あ、ありがとうございます!お邪魔します」
榛名が席に着くと、向かいの席に座っていた木曾さんが頬杖して榛名を見つめた。
「昨日の出撃、大変だったみたいだな」
「はい……皆さんのおかげで、何とか戻ってこれました」
その言葉に、利根さんが箸を置き、少し息を吐く。
「提督も心配しておったぞ。無事で何よりじゃ」
その一言に、榛名の心が少しざわめいた。提督の泣き顔が、まぶたの裏に浮かぶ。あの腕の中の震え。あの声のかすれ──。寝起きの時と同じ情緒に苛まれた榛名はそっと視線を落とし、小さく息をついた。
「まったく、あん時はこっちまでヒヤヒヤしたぜ。ありゃ提督が泣いても仕方ないな」
その言葉に榛名は木曽さんの方を向く。昨日の港には木曽さんはいなかったはず。
「あ、あの、なんでそのことを」
「朝からその話ばっかしだったからね〜。雪風と金剛さんがもう、すごかったんだから」
泣きながら榛名さんが無事でよかったって言ってたよねーと、おそらく今朝の食堂の時のことを思い出しながら鈴谷さんが話している。
自分が知らない間に噂の中心になっていたことに、泣いたのは自分じゃないというのにどこか恥ずかしくなる。どうして部屋から食堂までの道のりの最中で、いくつも視線を感じたのか合点がいった。てっきり自分が轟沈寸前にまで追い込まれたことで注目を浴びていたのだと思っていた。
「そ、その、提督には……ご迷惑をおかけしました。でも……」
榛名が次の言葉に言い澱んでいるのを、三人は怪訝に見たのを感じた。
「なんで提督は、その……私の、私なんかのために泣いてくださったのでしょうか」
利根さんたちは三人して顔を見合わせる。
「どうして、そう思ったのじゃ」
「だって、榛名以外の艦隊の皆さんも大怪我だったんです。提督がご存じなかったはずはないですし、なんで……」
なんで榛名にだけ……?
「さあな、お前が一番新米で、重傷だったからだろ」
そう言う木曽さん声はぶっきらぼうで、その目はどこか遠い。
皆さんは、知っているのだろうか。提督が、あの夜、自分に向けた涙の意味を。
「まあまあ、そんなに気を落とさなくてもさ!──そう!そういえば最近、食堂に新しい間宮さんのスイーツが入ったんだって。知ってた?」
鈴谷さんがフォークをくるくると回しながらさっきよりも一層明るい声で空気を変えようとした。
「いえ、知りませんでした」
「新作の最中だってな。ここ最近は特に暑いから、餡子がアイスになっているらしい」
「うんうん、あれは食べなきゃ損だよねー」
鈴谷さんはその味を思い出したのか、頬に手を当てて恍惚とした表情を浮かべた。
「それに、もう間も無く間宮の甘味は当分たべられなくなるからのぅ」
「えっ、どうしてですか?」
利根さんの言葉に驚く。間宮さんのスイーツはまだ数回しか食べてみたことがないというのに、当分食べられないならあまりに早い別れだ。
「間宮は特定の所属を持たない艦娘だからな。今は派遣でここに来ているだけに過ぎない」
木曽さんは、派遣のシステムをいまいち理解しきれていない榛名にもわかりやすく説明してくれた。
間宮や伊良湖、明石といった特殊な役割を持つ艦娘は、作戦中の前線へと優先的に派遣される。その他の艦娘も、それぞれの特性を考慮した上で、深海棲艦との交戦が予想される拠点に重点的に配置されるのが基本だ。
先の大規模作戦では、リンガ泊地近海に大量の敵が出現したため、呉や舞鶴といった本州の鎮守府から多くの艦娘が派遣され、一時的に戦力が集中する形となった。作戦終了後、派遣された多くの艦娘は本来の配属先へ戻ったが、比叡お姉さまと霧島をはじめ、数名は現在もここで派遣任務を続けている状態にある。
つまり、今を逃すとまたいつ巡り会えるかわからないのだ。
「そ、そんな……」
榛名の声が絶望に染まる。その声が可笑しかったのか、鈴谷さんが笑いながらフォークを食器に置いた。
「じゃあさ、このあとみんなで食べに行こうよ。どうせみんな今日は暇でしょ?」
「おい、どうせっていうな……まあ、実際暇なんだけどな」
「吾輩は別に暇じゃないんだがの。まぁ今日は演習と哨戒だけだし、そのくらいの時間はあるか」
各々時間が空いていることを確認し合った三人は立ち上がり、榛名の方を向いて笑いかけた。
「どう?榛名さんも来ない?」
「は、はい!行きます!ぜひ……!」
慌てて立ち上がり、トレーを持ち上げる。そのまま4人でトレーと食器を返却して、鈴谷さんと木曽さんが先行して間宮さんのスイーツを貰いに並ぶ。利根さんは列の隣でツインテールの長い髪を弄っていたが、榛名の視線を感じたのか、流し目で見つめてきた。
「……何かあれば、いつでも話すと良い。皆、お主の仲間じゃからな」
その声は、鈴谷さんたちにも聴こえないような小さな声だったが、榛名にははっきりと聞こえた。
「……はい。ありがとうございます」
そう言って、榛名はぎこちなく笑った。
今日は2話分投稿します