「高速戦艦、榛名。着任しました」
美しく鈴のような声が、執務室に響き渡る。執務室の窓から差し込む朝の光が、彼女の艶やかな黒髪をきらめかせる。金剛装束と呼ばれる巫女服に身を包み、にこやかな笑みと共に提督の前に立った榛名は、まさに大和撫子と言える美しさを神秘性を秘めていた。
「はじめまして、戦艦榛名。私はここのリンガ泊地を預かっている敷島少佐だ。よろしく頼む」
立ち上がった俺はそっと手を差し出した。榛名はそれに合わせるように前に出て、少し恐縮した面持ちで軽く握手を交わした。指先から伝わる体温が、不思議な懐かしさを呼び起こしそうになるが、それをぐっと押し込める。
「じゃあまずは、ここの案内から始めようか。陸奥」
「はいはい」
後ろに控えていた陸奥は仕方ないわね、と呟いて持っていた書類を置いた。
「ああそれと、訓練等は明日以降からだ。司令は追って伝える」
俺は極めて事務的なことだけを伝え、視線を榛名から逸らした。え、という榛名の困惑した声に続いて陸奥が退室を促す。俺はそんな二人を他所に書類を整理し始めた。これ以上は限界だった。
二人が出て行ったあとの執務室はどこか寒々しい。カチコチと秒針を鳴らす年代物の時計は、この部屋の防音性を兼ねた設計のせいか静寂というよりむしろうるさいくらいだった。いつしか秒針の音は心臓の律動と共振し、整理しようとしていた書類の束すら煩わしく、そして思考の渦に呑まれていった。
あの大規模作戦の日の記憶が、また脳裏をよぎる。最後に交わした言葉、沈みゆく艦体、無線越しに届いた彼女のかすれた声──ややあって喉の奥に絡みつくような感覚を振り払うように、左目の眼帯を外した。
あの榛名はいない。目の前の彼女は、新たな艦娘として立っている。それは分かっているのに、心の奥に沈んだ痛みは消えない。
「あの態度はないんじゃない?」
執務室の扉が開いて、陸奥が入ってきた。榛名の案内を終えたらしい。その顔は呆れている。
「だいたいあんなもんだろう。最初の挨拶など」
「だからって、素っ気なさすぎよ。あの子、不安がってたわよ。自分は歓迎されてないんじゃないかって」
わかっている。あれはなかったと反省していたところだった。
「あの子のことが忘れられないのはわかるけど、あの榛名は別人。切り替えなきゃ。あなたはここの提督なんだから──ね?」
「……分かってるよ」
短くそう返し、俺は手元の書類を無造作に捲った。だが、内容はまるで頭に入ってこない。文字の羅列はただの記号にしか見えず、無意味に視線をさまよわせるばかりだった。
陸奥は深く息をつく。
「本当に分かってるのかしら」
その声はどこか優しく、それでいて痛烈だった。
分かってる。そんなことは、嫌というほど分かっている。さっき目の前にいた榛名は、かつての彼女の生まれ変わりですらない。ただ『新たに造られた』艦娘だ。記憶の継承はなく、当然ながら俺との過去も思い出も存在しない。
だからこそ、彼女に過度な期待を抱いてはいけない。俺の知る榛名の面影を求めても、それは叶わないのだから。
「……俺は、ただ」
言葉を探す。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
今の榛名を受け入れたら、かつての榛名が、記憶からいなくなってしまいそうで怖かった。
陸奥は俺を見つめ、やがて静かに微笑んだ。
「ねえ、提督。少しは休んだら?」
「……そんな暇はない」
「そうやって働いてばかりいるのも、昔から変わらないわね。いい? あなたは提督で、艦娘たちの指揮官なの。でも、それ以前に”人間”なのよ」
「……」
「病気とか疲労とか、人間は壊れやすいから。休むときは休むの。それに、時には振り返ることも大事だけど、そこに囚われすぎていたら前には進めないわ。お姉さんからの忠告よ」
その言葉は、ひどく重かった。
俺はまだ、前を向けているのか。あるいは、彼女が沈んでしまったあの日に縛られているのか。
答えが出ないまま黙っていると、陸奥はそっと微笑んだ。
「まあ、焦らずにね。榛名も、少しずつ慣れていくわ。それに……あなたも」
そう言い残し、ウインクした彼女は執務室を後にした。
静寂が戻る。あいつは時々、何もかも見透かしたようなことを言ってくる。艦娘に心配させてしまうなど、鎮守府の長として不甲斐ない。まだまだだ。俺は机に肘をつき、目元を覆う。左目の傷が疼いた。
俺は大きくため息をついて、書類に目を戻した。タワーの如く積まれた書類を目にし、辟易する。そういえば、この鎮守府の秘書艦がいない。さっき人に休めと諭しながら優雅に出て行った気がする。
「…逃げたな」
川内に連れ戻してもらった。