波間に砲撃の閃光が走る。
次いで轟く、耳をつんざくような破裂音。白煙が海面を舐め、微かな潮の香りと火薬の匂いが混じり合う。
「右舷、敵艦の砲撃!榛名さん、回避を!」
吹雪の悲鳴じみた声に、沖合に構えていた榛名が慌てて舵を切る。艤装が軋み、海水が高く弾けた。しかし、彼女の動きは僅かに遅い。
「くっ……!」
次の瞬間、鈍い衝撃。模擬弾が装甲に着弾し、榛名の体がわずかに揺れる。
観測席から双眼鏡を覗きながら、俺は静かに息を吐いた。
やはり、まだぎこちない。
演習相手は神通の水雷戦隊。練度の高い水雷戦隊が相手とはいえ、姉妹艦である金剛や比叡と比べると、榛名の動きは圧倒的に拙かった。回避は一歩遅れ、砲撃は正確さに欠ける。射線の微調整も不慣れで、僅かに弾着がずれる。
無理もない。
彼女はまだ新米の戦艦なのだから。
「ふうん……悪くはないけど、ちょっと迷いがあるかな?」
隣で観戦していた陸奥が、顎に手を添えて呟いた。
「撃つべき時に撃たない。守るべき時に守りに徹しきれない。まるで、自分の力を測りかねているようね。まぁ着任二ヶ月なら妥当ってところじゃないかしら」
俺は黙って双眼鏡を降ろした。彼女の動きには、明らかに迷いがあった。しかし、それは当然だ。榛名は、今の自分がどこまで戦えるのか分かっていないのだろう。
新たに生まれたばかりの戦艦。その力も、戦場での立ち回りも、経験がなければすぐには身につかない。最近は海域も安定しているため、出撃自体が少なくなっており、実戦経験が積めていないことも影響している。
──かつての榛名ならば。
ふと、無意識にそんな考えがよぎる。
戦場に立てば、一切の迷いなく最適解を導き出す。迎撃の際も、仲間との連携も、まるで長年鍛え上げられた剣士のように流れるような動きを見せていた。戦いにおいて、彼女は天性の才を持っていたと言っていい。
しかし──
今、演習の海に立つ榛名は、まったくの別人だ。
当然だ。彼女はあの榛名ではない。それなのに、過去に縋って、押し付けて。
「…」
「提督?」
陸奥が訝しげに俺の顔を覗き込む。
「……いや、何でもない」
俺はそう呟くと、再び双眼鏡を覗いた。榛名は、もどかしげに唇を噛んでいた。神通の放った一撃が、彼女の艤装をかすめる。回避行動はとったが完全には防げず、大破判定となった。
「これにて、演習終了ー!」
大淀の声が響いた。演習の終了を告げる信号弾が打ち上げられ、演習は終了となった。やがて、各艦娘が帰投を始める。
そんな中、榛名だけは、悔しそうに遠く海を見つめていた。
その横顔が、どこか遠い記憶に重なりそうになって──
俺は、そっと視線を逸らした。
居酒屋鳳翔は俺が唯一気を休められる場所だ。いつもの端のカウンター席に座り、差し出された冷水の入ったコップを傾けた。
店内は柔らかな灯りに包まれ、どこか懐かしい香りが漂っている。鳳翔が丁寧に手入れした木のカウンターは、長年の使用にも関わらず艶やかで、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「いつもの焼き魚とつぶ貝、それと冷酒をお願いします」
「はい、少々お待ちくださいね」
鳳翔はテキパキと調理を始める。魚が炭火の上で焼ける音が心地よい。提督はぼんやりとその様子を眺めながら、ここ数日の出来事を振り返っていた。
榛名——
二ヶ月前、着任したばかりの彼女の姿が脳裏に浮かぶ。礼儀正しく、優しげな笑みを浮かべていた。最後にあったのが着任式。あれからまともに会話していない気がする。
「お待たせしました」
鳳翔が運んできた料理の香ばしい匂いに意識を引き戻される。俺は箸を取り、魚の身をほぐしながら静かに食事を始めた。
——そのとき、店の扉が勢いよく開いた。
「おーい、提督!こんなとこで独り酒かよぉ!」
隼鷹の陽気な声が響く。後ろには龍驤、千歳、那智の姿もあった。隼鷹と千歳は榛名と同時期にここに転属となった艦娘だった。毎回何かと絡んでくるが、断りきれずいつしかこいつらの酒代は全て俺持ちにまでなっている。
「なんやキミィ、しみったれた顔して」
「大方、また陸奥に叱られたんだろ。確か前回は提督が毎食カップ麺を三日続けてたことがバレた時か」
「あの時は間宮さんも相当怒ってたからね」
「ひゃっはっはっは!」
「うるさい…」
折角の静かなひと時は10分も保たなかった。時間というのは斯も残酷である。
「ふふ、鳳翔さん、私たちもお酒とつまみをお願い」
「はい、かしこまりました」
四人は俺のそばに座り、それぞれ思い思いの酒を頼む。やがて盃が満たされ、賑やかな時間が始まった。隣に座っていいって言ってないんだけど…。
微妙な顔をした俺を完全に無視して隣に陣取った隼鷹が盃を傾けた。
「飲みに来るのは構わないが、隼鷹、先日の演習の報告書は書き終わったんだろうな。期限は明日までだからな」
「わぁーかってるってえー。あたしはやるときゃやるんだからね〜」
本当に終わってるのか怪しい。こいつは職務怠慢の常習犯。演習や遠征の際はしっかりやってくれるが、書類仕事はてんでだめだ。書く字はどこかのお嬢様かと思うくらい綺麗なのに、どうしてだろうか。艦娘七不思議である。
「いくら海域がこの頃安定しているからといって、油断は禁物だぞ」
固いねぇ、と愚痴りながら隼鷹は日本酒を盃にドバドバ注ぐ。よくこぼれないものだ。
海域といえば、と千歳が切り出した。
「最近の海域、静かなのはいいんだけど、ちょっと……」
「うむ。奇妙なほどに穏やかだな。以前は毎週のように小競り合いがあったが、最近はそれもない」
那智が顎に手を当てて考え込む。
「ええことやんか。いっつも戦闘ばっかじゃ疲れるし」
龍驤はあたりめをくちゃくちゃ噛みながら気楽そうに笑う。
「……だが、こうも暇が続くと、むしろ気味が悪い」
那智は渋い表情で酒をあおる。提督もその意見には同感だった。敵が動かないことが、逆に不安を煽る。
「敵が引いてるのか、嵐の前の静けさなのか…あるいは」
俺は冷酒を口に含みながら、慎重に言葉を選んだ。
「油断は禁物だな。いざというときのために、戦力の補強と鍛錬を怠らないようにしておけ」
「了解、しっかり準備しとくわ」
うん、と龍驤が頷く。顔が真剣なのに口の端からイカ足が出てる。緊張感のないやつだ。
「ところで提督さぁ……」
突然、隼鷹がニヤニヤと笑いながら身を乗り出してきた。
「ん?」
「恋人とかさぁ、そういう浮ついたハナシないのぉ〜?」
「そうそう、提督ってば、全然色恋沙汰に興味ないじゃないですか」
「……急にどうした?」
俺は努めて冷静に問い返すが、隼鷹たちは楽しそうに続ける。隼鷹はともかく、千歳は酔ったらここまで面倒臭い性格だったのか。
「ほら、ここには可愛い子いっぱいいるじゃん?提督、若くて顔もそれなりに良いじゃんか。それに最近じゃ前回の大規模作戦の成功で海を平和にした英雄だって呼ぶやつもいるらしいしぃ。でも誰ともデートとかしないしさ〜、艦娘に手出す気ないの?」
「ふふ、それとも、もう特定の誰かがいるんですかぁ?」
酔ったのか顔を赤くした千歳が意味深な笑みを浮かべる。
「いや、別にそういうわけじゃない。ただ、きみたちは仲間で部下だからな。心配しなくても手を出す気はない」
「……えー、つまんない!」
隼鷹が頬を膨らませる。
「……酒の肴になる気はないからな」
「はいはい!提督も困ってるやろ!この話これでおーしまい!!」
先ほどからずっと黙っていた龍驤が二人を治めた。千歳と隼鷹が教えろー!と喚いている。うちの最古参なだけあって、こういう時の龍驤は頼りになる。とうとう那智が怒り出した。これは収拾がつかなくなるパターンだ。
しかし、恋愛について聞かれるとは思ってなかった。
俺は箸で魚の骨を取り除きながら心の中で自らを嘲笑した。あの時、本当に大事だった存在を守れなかった男が、今更という話である。もしあの時、もっと作戦を綿密に練っていたら、もっと的確に指示を出せていたら、もっと早く支援部隊を送っていれば、あの場で指揮を放り出してさえいなければ──
後悔が止むことはない。どれだけ言い訳を並べても、失敗したことに変わりはない。栄誉を国から授かろうと、マスコミでもてはやされようと、心にポッカリ空いた穴は塞がらない。俺の心は、いまだあの海に取り残されたままだ。
懺悔なんて…
魚の小骨なんかより深く、鋭く胸につっかえる痛みを、今の俺は盃を干すことでしかその和らげ方を知らなかった。