格式ばった静寂が、部屋の空気を引き締めていた。
重厚な木製の扉が開かれ、純白の軍服を纏った俺は部屋に一歩足を踏み入れる。肩章には、大尉の階級章が輝いていた。硬い大理石を、軍靴で鳴らす。
大本営──帝国海軍の中枢に位置するこの場所は、一般の士官ですら容易に立ち入ることができない。ましてや艦娘たちが足を踏み入れることなど許されるはずもなく、ここにいる者たちは皆、旧来の海軍制度の枠内で戦を指揮する将官ばかりである。
「敷島大尉、着任いたしました」
声が、静謐な空間に吸い込まれるように響く。
室内には、歴戦の提督たちがずらりと居並んでいた。壁際には数名の佐官が直立不動の姿勢で控え、中央の演壇の前には、白髪の男ひとり──元帥が立っている。軍刀を腰に差したその姿は、この国の海軍を長年支えてきた老練な軍人の風格を漂わせている。
「敷島大尉」
名を呼ばれ、一歩前に出た。
「大規模作戦であるヲ号作戦の戦功、並びに貴官の指揮能力を鑑み、本日をもって少佐に昇格を命ずる」
側近の士官が恭しく勲章を差し出した。
「敷島少佐、貴官の勇戦と功績を讃え、この勲章を授与する」
与えられたのは、金色に縁取られた勲章。かつて帝国海軍の士官たちが授与された、それと同じ意匠を持つものだった。
俺は与えられた勲章の重みを感じながら、胸の奥に冷たいものを押し殺していた。
この勲章が意味するものは、決して誇るべき勝利ばかりではない。俺がここに立つことができたのは、数多の戦場で艦娘たちを指揮し、そして──失ったからに他ならない。
軍令部の空気は、淡々としていた。そこには、祝賀の色など微塵もない。ただ義務として、規律として、この場は執り行われる。
「貴官には今後も泊地の指揮を任せる。引き続き、精励せよ」
短い言葉が交わされ、式は滞りなく終わる。再び敬礼し、踵を返す。重厚な扉が閉まると同時に、外の冷たい空気が頬を撫で、俺はそっと勲章を握りしめた。
この勲章は、あの日沈んでいった榛名のためのものではない。
それが、何よりも悔しかった。
冷えた廊下を踏みしめる靴音が、乾いた音を立てて響く。格式張った空気から解放され、ふと息をついたときだった。
「──敷島か」
声がした。瞬間、背筋が伸びる。
振り返ると、そこに立っていたのは白髪交じりの軍帽を抱えた男。金色の肩章には、海軍でも指折りの──少将の階級章が輝いている。
「鳴海少将……」
思わず姿勢を正す。
海軍少将・鳴海修平──彼は、士官学校時代からの恩師であり、戦術を叩き込まれた育ての親とも言える存在だった。
「出世したな、敷島大尉。いや、今はもう少佐か。怪我の調子はどうだ」
鳴海少将は苦笑しながら歩み寄り、軽く肩を叩いた。その仕草に、張り詰めていた心が少しだけ緩む。
「……ありがとうございます。ですがやはり、左目はダメかと」
「そうか……だが命があってよかった。確か、原因は敵の空襲だったな」
「はい。近くで爆発した破片が当たったと聞いております」
あの時、榛名のことで頭が一杯で気が付かなかったが、リンガ泊地は回り込んだ敵の艦載機の侵入を少数だが許してしまっていた。迎撃は出来たものの、侵入をみすみす許したのはあの場で指揮を放り投げた自分の落ち度だ。あんな体たらくでよく勲章をもらえたものだ。作戦が成功したのも、全て艦娘たちのおかげだ。俺は何もできなかったというのに。
「それなのに生きて帰ってくるとはな。今回の辞令にお前は納得していなさそうだが……あの大群を退けただけでも僥倖だったんだ。ふふ、それにお前の実力なら、少佐くらい当然だと思っていたさ」
言葉には誇りが滲んでいた。
だが、その直後、鳴海少将は表情を引き締め、周囲を一瞥する。
「少し歩こうか」
軍令部の建物を出ると、外の空気は冷たかった。日頃から東南アジア方面に在駐している俺にとって、久しぶりの本州の冬は堪えた。俺は腕に掛けていた外套を着直した。冬の陽はまだ低く、長く伸びた影が地面を染めている。
「榛名は、残念だった」
綺麗に舗装された道から外れ、冷気が包み込む芝生の上を歩いた。足元を鳴らしながら踏みしめると、細かな霜が砕け散って、ひんやりとした音を立てた。
「……いえ」
あの戦いでの轟沈者は、俺の指揮下の艦娘の中では榛名一人だけだった。戦いの火蓋が切られる前に半分も生き残れるかと覚悟していたことを考えれば、大勝利である。だが、勝利の代償にしては、俺にとって失った存在は大きすぎた。
鳴海少将は歩みを止め、俺はしばらくその背中を見守るように立ち止まった。これ以上榛名のことを聞いてこないのは、彼自身の優しさだろう。俺と彼女の仲を知っていたのだから、気を回してくれたのだろう。その事実に、少し申し訳なく感じる。冷たい風が少し、彼の髪を揺らした。目に映る光景がまるで遠い記憶の断片のように感じられる。しかし、鳴海少将の言葉がその静けさを破った。
「──最近、軍部がきな臭い」
鳴海少将がぼそりと呟き、また歩き出した。歩調を崩さぬまま、俺は視線を少将に向けた。
「どういう意味ですか?」
「深海棲艦の侵攻は落ち着き初めている。ロシアとの国交再開の交渉もこの期に格段に進むだろう。どこもかしこも慌ただしい。が、私はそれ以上に気になることがあってね」
その言葉に、提督は眉をひそめた。
深海棲艦との戦いは、かつてほどの脅威ではなくなっていた。各鎮守府は徐々に制空権、制海権ともに取り戻していた。巷では終戦も近いのではと囁かれている。そんな時期に内輪の揉め事などあってはならない。
「それは……いったい?」
「知ってるかね。最近、関西や九州を中心に連続して起こっている事件を」
「最近の……まさか、件の麻薬の流行ですか?」
深海棲艦の侵攻が落ち着き始めた頃、本州の一部では覚醒剤などを含む違法な薬物が出回った。貿易の一部制限付きの再開によって、少なくない輸入品が本国に入った。その弊害だろう。今まで裏社会にのみ流行していたものが安価で表社会まで回るようになってしまった。今月も何件も検挙されている。しかし、監視が厳しくなっても違法薬物事件の発生は止まることがなく、逆に件数を増やしていった。
「まさか、軍が斡旋していると?」
鳴海少将は言葉を選ぶように、僅かに口ごもる。そして、低い声で続けた。
「確証はない」
「しかし、監視を行う憲兵は陸軍の管轄です。海軍が介入する余地はないのでは?」
「海軍の一部の家系は陸軍と密接な関係にあるものも多い。犬猿の仲と揶揄された名残は、今や組織そのものを表しているに過ぎない」
「軍上層部はその限りではないと...」
俺は無意識に、胸に付けたばかりの勲章に手をやった。
「……俺に、何かできることは?」
鳴海少将は少しだけ笑った。
「そう思うなら、気をつけろ。お前は少佐になったばかりだが、それだけに軍部の動きに巻き込まれる可能性も高い」
そして、彼は立ち止まると、俺の肩をぽんと叩いた。
「しかしできることもある。お前のいるリンガは南方の主要な貿易ルートの中間地点の近くだ。尻尾は掴めるかもしれない。だが決して手は出すな。もし軍が介入していた場合、運が悪ければお前は消されるかもしれん」
俺は黙って頷いた。厄介ごとはごめんだが、だからと言って泊地の傍での悪事は許せない。
冷たい風が、二人の間を吹き抜けていった。
鳴海少将との会話を終えた俺は、再び重い足取りで軍施設の門の外へと歩み出した。
門を出ると、見慣れた姿が遠くに見える。待機していたのは、陸奥だ。
「──少し遅くなったな、すまない」
相変わらずの軽装だ。寒くないのだろうか……。とりあえず着ていた外套を陸奥の肩にかける。
「あら、ありがと」
「礼を言うくらいなら、最初から着てこい」
「寒さには強い方なのよ。昔からね」
腕時計を覗いて、そろそろホテルにテェックインできる時間だと確認する。
「思ったより早く終わった」
「そうね。でも少佐の昇進式なんて、もっと時間がかかるものだと思ったけど」
「あくまで形式だけだからな。作戦が終わって二ヶ月も先延ばしにしたんだ。だがおかげで早く休める」
「そう……まぁそりゃそうだけど」
そう言いながらも、陸奥の眼差しには少し心配の色が浮かんでいる。何かあったと、陸奥はあえて尋ねないが、その一言が空気に滲み出ていた。
「駆逐の奴らにお土産買ってかないとな。忘れたら後で怖い」
微かに表情を曇らてしまったことを自覚し、すぐに意識を切り替えた。少しだけ会話を交わしながら、二人は専用車に向かって歩き出した。
陸奥が車の後方のドアを開け、俺はすぐ車内に乗り込む。陸奥も隣に乗り終えてすぐに、車のエンジンが静かに鳴り始め、ホテルへと向かう道を進んでいく。さっきまで陽が出てたというのに、窓の外は既にもう暗く、建物はその輪郭を闇に沈めていた。若干色を失った冬の街並みが少し寂しく、流れる街灯の光が静かに揺れていた。
車内はしばらく無言の時間が続く。陸奥も、特に話しかけることはしなかった。しかし、その沈黙があまりにも長く続いたため、ふと口を開いた。
「陸奥、お前、好きなものはなんだったか」
その問いに、陸奥は驚いた様子で提督を見つめる。
「へ……?」
「だから、好きな食べ物」
「……どうしたのよ、藪から棒に」
提供する話題を間違えてしまった。なんとか言い訳を考える。
「ほら、今日はわざわざついてきてくれたろう?待たせてしまったし……夕餉くらい、陸奥の好きなものをだな」
意外なものを見るように見つめてくる陸奥の視線に耐えきれず、俺は外に視線を外した。これじゃまるで童貞みたいじゃないか。久しぶりに羞恥を味わった。
「秘書艦だからついていくのは当たり前でしょ?それに、ホテルに着いたら夕食が用意されてるってあなたが……」
そうだった。自分が言ったことを忘れてしまうなんて、どうやら俺は相当動揺しているらしい。やめだ。冗談だったことにしよう。
言葉を続ける前に、陸奥が口を開いた。
「うーん、そうねぇ。じゃあビフテキ」
「は?」
「だから、ビフテキよビフテキ。突然食べたくなったの。あなたが奢ってくれるんでしょう?」
陸奥が上目遣いで揶揄うように見てくる。
逡巡、俺は思考を放棄した。考えることが馬鹿らしく思えたのだ。
「わかった……ビーフステーキな。ここらで美味い店を知ってる。今日はそこにしよう」
今日泊まるホテルが通いの所で良かった。軍の御あつらえの宿は、宿泊人が緊急時の場合にキャンセルすることが多いため、そういうところで柔軟だったりする。俺は再び窓の外に顔を向けた。
しかしビフテキか……懐かしい気分だ。昔、近所の爺さんがよくビフテキビフテキ言いながら連れてってくれたなぁ……
よし、今日はいい肉を食わせてやろう。懐古の気分に少し笑って、陸奥に顔を向ける。
「ところで陸奥、そのビフテキって呼び方、少し古くないか」
財布が軽くなった。