夜のリンガ泊地は、昼間の喧騒とはまるで別の顔をしていた。艦娘たちの笑い声も、訓練の号令も、今はどこか遠く、波音にかき消されている。廊下に敷かれた絨毯が足音を吸い込み、燭台型の灯りが、揺らめく影を壁に映していた。
俺は執務室を出て、夜の潮風を感じようと足を進める。金剛の言葉が胸の奥にこびりついていて、落ち着かなかった。榛名を避けているつもりはなかった。そう言い聞かせても、自分の態度が彼女にどう映っているかを考えると、言い訳にはならない気がした。
ふと、廊下の先に人影が揺れる。長い黒髪が、灯りに照らされてゆらりと揺れた。
「……榛名?」
声に出してから、後悔する。反射的に呼んでしまった。彼女は小さく肩を跳ねさせ、慌てて振り向く。
「あ、提督……! こ、こんばんは……!」
夜気を孕んだ彼女の声が耳に届いた瞬間、俺の胸に鋭い痛みが走る。懐かしい声だった。記憶に染みついた、あの榛名の声音と寸分違わぬ響き。違うと分かっていても、どこかで受け入れられない自分がいる。
俺はぎこちなく歩み寄った。目を合わせることができない。見てしまったら、どうしようもなくなる気がした。
「こんな遅くに、どうした?」
「あ……その、少し……夜の空気を吸いたくなって……」
俺は答えず、並んで立ったまま、静かに夜の海を眺めた。以前の榛名も、眠れない日はよく夜風に当たっていた。
遠く、波が小さく砕ける音が聞こえる。月光が水面を撫で、銀の道を描いていた。空には幾千もの星が瞬き、白く、冷たい光を降らせている。
「……さっき、金剛に怒られてしまってな」
沈黙を破ると、榛名が驚いたようにこちらを向くのが分かった。だが、俺は相変わらず前を向いたまま、海を見つめる。
「きみが、ここに馴染めず不安になっているって」
「え……」
「多分、私のせいだろうな」
榛名の手が、小さく震えながら胸元で握られる気配がする。
「提督として、きみともっと意思疎通をしておくべきだった……不安にさせるつもりはなかったんだ。すまない」
そう言って俯くと、榛名が慌てて首を振る気配がした。
「い、いえっ! そんな、謝らないでください……! その……私が、勝手に考えすぎていただけで……」
耳から届く声が、脳裏に染み込んでくる。
あの時の戦場。無線越しに響いた最後の声。助けを求めるかのように呼ばれた自分の名。轟音。絶叫。鉄が砕ける音と、波間に沈む影。
あの日から、夜の海が嫌いになった。星明かりに照らされた水面が、何もかもを飲み込んでしまいそうな気がして。
「あの、提督」
「なんだ」
「ひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」
榛名は喉の奥から絞り出すように声を発した。
「……ああ、なんだって聞く」
そんな俺の言葉を聞いて、ぐっと喉を鳴らす音が聞こえた。大きく厚い雲が月光を遮って、俺と榛名の境界線を一層深く縁取っていく。
「榛名……ちゃんと、提督の、ここの役に立てているでしょうか?」
「何を言ってる」
「……だって、榛名、私はまだ、新しく建造されたばかりで……演習でも、皆さんに助けられてばかりで……」
声が弱々しく揺れる。視線を向けられているのが分かったが、俺はやはり、彼女の顔を見ることができなかった。
「はぁ……榛名」
俺は拳を開いては握りしめる。そうして薬指に嵌めたままの指輪を榛名に見られないように、ポケットに手を突っ込んだ。
「きみは自分には価値がないとおもていると思っているらしいが、それはとんだ思い違いだ」
「え……?」
「少なくとも私は、きみが……榛名がこのリンガ泊地に来てくれたことを、無駄だとは思っていない」
榛名が小さく息を呑んだ気がした。俺はまだ彼女の顔を見れない。
「それに、建造されて2ヶ月なんだから、周りよりもできなくて当然だ。そこまで気に病まなくていい」
それだけを告げると、彼女の気配がふっと静まった気がした。肌に纏わりつくかのような湿った夜の潮風が、俺と榛名の間を吹き抜けた。雲の狭間から月の光が漏れ出る。降り注いだ月光は、再び俺たちの影を伸ばした。
「……ありがとうございます」
小さな声が、微かに震えていた。俺はただ、目を閉じ、生ぬるい夜気を肺に満たした。
夜の海は、今日も何も言わず、ただ静かに波を寄せては帰っていった。