「いえ、今のところは何も……ええ、わかりました。では、また後日。はい、失礼します」
軽くため息をついて受話器を置いた。冬の寒さが打ちつける本国で行われた勲章授与式から一週間、あれから海域を通る認可済みの貨物船には目を光らせている。直接の審査は、俺にその権利が与えられていないため行えないが、それでも現状の調査結果から見るに、違法薬物の輸入の存在は限りなく黒に近いグレーと言えた。
彼らのやり口は実に巧妙な手だった。違法薬物が含まれているかもしれないという疑念があって、かつ輸入品の項目と実際の輸送量に注目していなければ、一見してわからないように工夫されている。現物を見たわけじゃないが、やり方がプロのそれだ。民間輸送船の輸入制限が一部的に解かれた途端にこれだ。裏社会へのルートはもっと複雑なのだろう。
コンコン、と執務室の扉がノックされた。
「入れ」
入ってきたのは陸奥だった。片手にふたり分のコーヒーを乗せたトレーを持っている。
「電話は終わったようね。わざわざ私を出て行かせるなんて、よほど大事な案件だったの?」
彼女が近づくと、コーヒーの芳醇な香りと、フローラルな香水の匂いが香った。
はいこれ、と陸奥がコーヒーが入ったカップを渡してくる。
「ありがとう──少将閣下からの電話でな。機密の可能性もあったから」
「少将って……鳴瀬少将のこと?」
ああ、と頷き、淹れてくれたコーヒーを啜る。
彼女には、俺と鳴瀬少将の関係は知られている。一時期、士官学校で特別艦娘講師として教鞭をとっていた陸奥は、軍の内情や裏の知識に富んでいる。俺が初めて出会った艦娘もこの陸奥だったのだ。かつて自分の教師役だった彼女は、今は何の因果か秘書艦になっていた。
「そういえば、榛名とちゃんと話せたそうね」
その言葉に戸惑いそうになる。平静を装い、含んだコーヒーを嚥下する。
「ああ、そうだけど……どうしてそれを」
「今朝、彼女の顔がちょっと晴れていたから、かしらね。女の勘よ。直接聞いたわけじゃないから。どうなの?」
右隣の秘書艦の机に陸奥が座る。俺は昨夜の会話を思い出しながら、どう言えばいいか言葉を探しながら、執務机の横にある本棚から、戦術用の参考書を取り出すために立ち上がった。
「とりあえず、謝ったよ。彼女を不安にさせてしまったことは私の落ち度だ。艦娘は建造直後が一番精神的に不安定な時期だというのに、考慮してやれなかった。私情と仕事は切り離すべきだった」
俺の言葉に陸奥はあらかた納得したらしい。短く微笑み机に肘をついて、ゆっくり口を開いた。
「そう……まったく、あなたたちってホント不器用なんだから。言葉が足りてないのよ、いつも。知ってる?お姉さん、いつもヤキモキしてたんだから」
「面目ない……」
「ふふ……でもいいのよ。あの時のあなたたちだって、そうやって何度もすれ違って、でも分かり合えたじゃない」
陸奥は懐かしむように遠くを見た。
「……そうだな」
俺が肯定すると同時に、扉がノックされた。入れ、と入室を許可すると、入ってきたのは夕立だった。
「提督さーん、ただいまっぽい! 夕立、無事に帰還したよ~!」
元気よく声をかけるなり、夕立は提督に駆け寄って、そのまま無遠慮に抱きついた。柔らかい感触が胸に押しつけられる。彼女は明るい笑顔を浮かべて、俺にぴったりとくっついていた。倒れそうになるのを、なんとか耐える。
「お、おい、夕立、ちょっと……」
突然だったから少し驚いたが、あまり強くは拒めない。なんだかんだ言って懐いてくれるのは嬉しい。そのまま夕立の肩を優しく押して、ようやく彼女が離れる。夕立は俺に無邪気に笑いながらも、まだ少し距離を縮めてきた。
「それで、どうだった? 哨戒の結果は?」
「うん、無事に終わったっぽい! どこも異常なしだもんね!ねえねえ、褒めて褒めて〜」
よし。とりあえず褒めてやる。頭を撫でると夕立は気持ちよさそうに目を細めた。おかしいな、夕立に尻尾が生えてるように見える。かわいい。
にぱーと満面の笑みを浮かべる夕立の後ろから時雨が入ってきた。少し肩で息をしている。どうやら夕立を追って走ってきたらしい。
「提督、哨戒は終わったよ。特に目立った様子もなかった」
時雨は夕立と対照的に、いつもしっかりと報告をしてくれる。時雨は簡易的な報告書を俺に渡してきた。しかし、どうしても視線が夕立の行動に引き寄せられたのか、少し苦笑を浮かべる。
「夕立、提督にくっつきすぎだよ。提督が困ってるじゃないか。ちょっと離れた方がいいんじゃない?」
時雨は軽くからかうように言ったが、その表情はほんの少しのむすっとしている。
「えー、いいじゃん!減るもんじゃないっぽい!」
そう言ってまた提督に寄り添おうとするが、時雨はそれを引き剥がすように夕立の肩を引いた。
「いい加減にしなよ。これから艤装の点検があるって山城が言ってたじゃないか。遅れたら僕が怒られるんだからね。早く行くよ」
「ふん、時雨だってホントは甘えたいくせに……」
「な、何言ってるのさ!」
「愛情表現すらできないなんて、時雨はまだまだ子どもっぽい」
「夕立だって子どもだろう!?」
「それに夕立、知ってるっぽい!この前枕の下に提督さんの写真入れてたでしょ!」
「え、な、なんで知って──ハッ、じゃなくて、僕がそんなことするわけないじゃないか!夕立だって、この前提督に構ってもらえてないって小一時間布団から出てこなかったし!」
「ふふん、全然反撃になってないっぽい。子どもの時雨ちゃんは喧嘩もできないっぽい」
くすくすと笑う夕立に時雨がとうとう我慢できないといった顔でつかみかかった。夕立は機敏な動きで時雨の手を避け、俺の背後に回る。
「お、おい」
俺の周りを二人がぐるぐると回る。じきに追いかけるスピードは増していき、目で追えなくなる。二人とも動きが俊敏なせいで、一歩でも動くとこっちが怪我しそうだ。
「へへーん。捕まえてみるっぽい!」
そう言うと、夕立は執務室のドアを乱暴に開け、走り去ってしまった。かなり年季がある扉だから大事にして欲しいんですけど……
「ふ、ふふ……」
なんだか時雨の様子がおかしい。肩で息をする彼女の背後から、黒いオーラが出てる。
「あの、時雨……さん?」
「僕を怒らせたね……」
俺の呼びかけを無視してブツブツ言いながら執務室を出て行った。すごく怖い。あとで機嫌を取っておこう……
そんな俺たちのやり取りを、陸奥が部屋の隅から静かに見守っていた。微笑みを浮かべる彼女の表情に気づいた俺は、なんとも言えない恥ずかしさともどかしさを感じた。