元生徒たちは青春物語の夢を見るか?   作:転倒

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ブルアカ×ディストピアが見たかったので書きました。
記念すべき第一話です。週一投稿を目指していきたいところ。
ハーメルン初投稿なので至らないところもあると思います。


理想郷の反証
ユートピア


 〔追記〕私はキヴォトスが未来永劫、平和であることを祈る。

 その一助のために、私はこの顛末(てんまつ)を物語として記した。

 

 

──青色の空。晴れた、どこまでも晴れ渡った青色の空。たしか五年前、夢は「記憶の整理と定着の作業風景」だという話を見聞きしたことがある。しかし、私は人生でこんな景色は見た覚えはなかった。こんなにも猥褻な色があるだろうか? 冗談ではない! ああ、だが。こうも聞いたことがある気がする。そう、「本来の空は青色(なんて恥ずかしい響き!)である」と。それが事実なら、なんと、自然はかくも下品であったか。私は思わず目をつむってしまった。ぎゅっ、ぎゅっとまぶたに力を込める。目を潰す勢いで力を込める。目を開けると、真っ暗闇。秩序的な心象風景にほっと胸を撫でおろしているうち、なにやら地面が小刻みに揺れはじめてくる──

 

 身体が内側から揺れ動く。義務として埋め込まれた体内時計盤(BCF)が宿主のために、必死に全身を震わせているのだ。ほぼ、いや同時刻に、ほとんど、いや全ての人間がそうやって身を揺らされている。そんな事実を思うと、キヴォトスが単一の生命体であるということを思い出させてくれる。今まさに、キヴォトスの細胞一つ一つが次々と覚醒しつつあった。

 エックハルトもその内の一人である。「勤勉な細胞あれば怠惰な細胞もあり」ということわざがあるように、彼は実にマイペースだ。目が覚めて数分。多少は身じろぐも、身体を起こそうという気概は感じられない。罰則手前まで惰眠を貪るのが、お決まりのルーティンであった。

 ひんやりとしたタイル敷きの床に両足をつけると、ようやくBCFが口を閉ざした。あんな夢を見たのに不思議と汗はかかず、すっきりとした妙な気分に彼の心は包まれていた。

 起床後、人々は奉仕のために外出の支度をし始める。()()()()、この表現は誤解を生むかもしれない。なぜなら、いつも朝の六時には、部屋の一角にたたずむ受取ボックスに奉仕道具が用意されているからだ。カバンや靴は新品同様の輝きで、服にはシワひとつない。必要なものすべてが届けられる。ここでいう支度とは、出かけるという意思そのものを指す。

 エックの細っこい身体は薄い膜のドアをするりと通り抜け、延々と長ったらしい廊下に出る。すると、ひどく酸っぱい悪臭が鼻孔を刺した。隣人が昨晩に酒を浴びすぎたらしい。カーペットは健気に吐瀉物を吸収し、表面上は正常であるように見せかけている。むかつきを催す強烈な臭いと、誤魔化すために散布された芳烈な匂い。それらが混ざりあって、内廊下を掌握していた。

 おそらくは三か月間の酒権停止と奉仕活動の謹慎だと──気分はさながら審問官のよう──エックは推測してみた。

 くだらない思考遊びをしているうちにエレベーターは地上への扉を開いた。

「いってきます」

「エックさん、気をつけてらっしゃいね」

 翼をパタパタさせながら見送る管理人と義務最低限のコミュニケーションを交わしてエントランスを出ると、まばゆい光に彼は歓迎される。

 陽光はザラザラとした道路をこれ見よがしに照らしていた。雲は規則的な配置のまま頭上を抜けていく。車に乗り、キーを回す。まばたきを五回ほどするうちに高度を上げていき、空域道路に合流する。

 

──ああ、やはり安心する。そうこの色! この色なんだ──

 

 空はいつも通りの、どこまでも透き通った灰空であった。

 

 

 

教授(マイスター)、ずいぶんと元気がないですね」

「その仰々しい呼び方をやめてくれたら、幾分かマシになるけど」

 エックハルトの講義が終わって広場に人気が少なくなると、一人の受講者が彼に声を掛けてきた。横に長い円柱型の頭に、まん丸の目がチャームポイントの、彼にとって数少ない友好者でもある。

「これは失礼、エック。あなたらしくなかったのでつい。どうして、そんなに空を見ているのですか。宙に霜降り肉でも浮いてました?」

「キミが食いただけだろ、それ。いやなに、嫌な夢と起き抜けのゲロ臭さでナイーブになっただけ。隣室のアル中のせいだよ」

「隣……廊下に漂っていたと」

「そう」愚痴を吐けることに喜んで首を縦に振った。

「吐いた現場に出くわしたんですか」

「いや」不都合そうに首を横に振った。

「なら隣人とは言い切れないのでは」

 正直なところ、あの臭いの原因が隣人である確証はなかった。エックは面倒そうに頭を掻きながら、語気を強くして反論する。

「いや、あれはあの禿げ頭に違いないね。近所にいる酒飲みはあいつぐらいだ」

 真実がなんであれ、大事なのは不快感で汚れた記憶の共有と精算だ。禿げ頭が酒に潰れた真実こそが、シンプルで分かりやすい生け贄の山羊(スケープゴート)だろう。

 それを察した受講者はカメラレンズからキュルキュルと音を発しながら付け髭の位置を直し、それ以上の追及をよした。

「まあ、それは災難でしたね。嫌な夢というのは?」

「嫌な夢。そう、あれは……」

 エックは声のトーンを落とし、周りの視線を確認しつつ、そっと夢の内容を伝える。

()()()()! なんて下品な。そんなものが頭上を埋め尽くすなんて」

「酷い夢だろう。起きたら汗でぐっしょり。BCFのおかげで助かったが」真っ赤な嘘。

「汗でぐっしょり、ですか?」

「当たり前だろ。あんな気色の悪い色」

「にしては、ずいぶんと楽しそうに語っていますよ。口角まで上がってる。本当に、気色の悪い色だと。心の底からそう思ってますか」

 ロボットは一滴の嘘に感づいたかのように、冷たいレンズが目の奥を覗こうとする。奥へと奥へと進み、当人さえ自覚していないエックの真意を。

「おーい、デカルト。そろそろ時間だろ」

 遠くにいた細身のロボットに声を掛けられた受講者は、奉仕チケットを取り出し、時間を確認する。レンズはまた友好者の目に戻り、声のした方を向く。

「じゃあね、デカルト」

「ええ。同じ夢が続くようであれば、早めに病院へ行くことも考えてみては」

 長い静寂に包まれる。マイスターは胸ポケットからモーセを一錠だけ取り出し、口の中に押し込み奥歯で噛んだ。〈預言者〉が口膣ではじけ飛ぶ。数分だけ自分の世界を堪能してから、カバンを手にエックも講演広場を後にした。

 

 

 

 共有食堂は相変わらずの賑わいでごった返していた。なんとか人波をかき分けて食事チケットを渡し、トレーに乗った昼食を手に入れる。端っこの席について、ただ一人黙々と食べ進める。隣にも前の席にも、誰一人として座ろうとしない。

「あれ、輪抜けのマイスターじゃない」

「初めてお目にかかるが、思った以上に不気味だな。まるで固定者みたいじゃないか」

「でも教授ってことは頭が良いんでしょ。なら、あの野蛮人たちとは違うわ」

「どうせ小狡い手を使ったんだ。そのうち降ろされるだろ」

「俺の友達が言っていたぜ、輪抜けの講義は回りくどくてお粗末だって」

 嫌でも耳に入ってくる言葉たち。この言われようも仕方のないことと言えば仕方のないことで、エックの身体的特徴はまるで固定者のようだった。毛深くもなければ、鉄の肌でもない。長い腕に細身。ヘイローがないおかげで社会からの逸脱は免れたが、彼は孤独だった。周りからの目に耐えながら教授(マイスター)の名を冠してもなお、彼は孤独だった。

 黙々と冷えた肉スープをすする。汁が頬を伝って、教授であることを示す象徴的な赤色の服に一滴垂れた。

「教授なんてひねくれ者ばっかよ」

「だが、思考講義は大事だろ。『思考から真実は生まれる』って」

「私からしてみれば、あんなものは前時代の名残りさ。知識講義と同じように淘汰されるのを待つだけの、のろまな鳥(ドードー)だよ」

「あいつ、協力者になれないからって教授になったんだろ。はっ。ろくなやつじゃない」

「もう四度も受けたんですって。『一度落ちたら諦めろ』って言葉、知らないのかしら」

「輪抜けがそんなこと知るわけないさ」

 プラスチックのスプーンを置いて、手を合わせる。エックが席を立つと指揮棒を下ろしたかのように周りのざわつきも止んだ。五拍置いて、また喧噪が取り戻される。

 トレーは返却口にカタンと音を鳴らす。エックは柴犬の食事奉仕員に一言だけ礼を伝え、チップ代わりのモーセを二錠ほど手渡した。彼が担当になってから、エックの配膳量はようやく腹を満たせる量になったのだ。

 

 午後の講義もつつがなく終わり、マイスター・エックハルトは黄昏ていた。全員が立ち去るまで待つのがルーティンであった彼は、モーセを砕きながら浸っていた。

「あの、さっきの話……質問いい?」

 黄昏から戻ってくると、目の前に少女、いや、固定者がいた。

 ヘイローが頭の上で白く光る。耳がピコピコと動き、目を輝かせていた。

「あー、キミ。聴講チケットはあるのかな」

「ん、ない。外から聞いてた」

 そうだろうな、とエックは頷いた。聞くまでもなく、聴講チケットなんて持っているわけがなかった。固定者に権利(チケット)はない。

「学問に興味を持つことは否定しないよ。外からチケットなしで聞き耳を立てたことにも目を瞑ろう。わかったら立ち去ってほしい」

「でも」エックは遮るように右手を伸ばした。

「捕まりたくないんでね。私はここらでお暇するよ」

 気の毒に。エックはそんな哀れみの目を容赦なく少女に向けた。それでも少女は真っ直ぐとした輝かしい(まなこ)を崩さなかった。彼は少し戸惑ったが、構わず横を通り抜け去ろうとした。

「真実は複数あるってどういうこと? 真実は一つだと思うけど」

 エックは一度立ち止まり、また歩きだした。

 

 

 

「真実は一つだと言うのは思考錯誤だ。私たちが一つだと思っているものは、実際には万人が別々で抱えている個々的真実を全体的真実だと誤認しているだけ。噂について考えてみてほしい。噂は時として、信憑性に欠ける。しかし、そういったものから往々にして真実が生まれる。『Aは試験に受かった。きっとズルをしたに違いない』、『Aは試験に受かった。きっとたゆまぬ努力が実ったのだろう』、どちらも思考から生まれた真実だ。たった一つに見えてもその実、互いに異なる真実を内包する、不安定な状態に陥っている。そんな数え切れない真実を、もし統制できたら? 『Aはズルをした』と『Aは努力をした』という相反する真実を対立させずに済む。今一度考えてみてほしい。真の意味での全体的真実が達成されたとき。私たちのキヴォトスは更なる進歩を遂げるんだ」

 講演広場の外で行き交う人々の顔をひとりひとり探る。あの大きな耳を携えた銀髪の少女が、もしかしたらまた性懲りもなく来るかもしれない。エックは自分の口角が上がっていることに気付いていない。もし来たら、とりあえず質問だけ聞いて、一瞥もせず立ち去ってやろうと意気込んでいた。そしたらまた明日……。

──なぜ、私はこんな浮かれた気持ちなのか。相手は年端もいかない、しかも固定者ときている。日をまたいでいるとはいえ、疑問にまで答えてしまった! また変な噂が立ってしまったら──

 少女は来なかった。客観的に言えば、これはエックにとって良いことだった。なにせ、大事な〈名誉試験〉がもう一週間後に差し迫っていたのだから。不当に貼られたレッテルを、跡さえ残さずにキレイさっぱり剥がす絶好のチャンス。名誉試験から見事に協力者に抜擢されれば、デカルトだって、輪抜け呼ばわりしてくる犬っころだって、これまでの態度を恥じるだろう。みんなを見返せることに、喜びを見出そうとした。しかし脳裏に浮かぶのはあの少女の、好奇心の宿る目だけだった。マイスターはモーセを三錠ほど口に含んだ。

 彼は自室に着くや否や、襟足を左手でどかして後頸部のポートにUSBメモリを挿した。彼の過去四度に渡る名誉への挑戦、つまり失敗の履歴が脳内に洗いざらい流し込まれる。彼にとって普段は思い出したくもないものだったので、こうやって外付けで保存していた。

 

Q:保護者の存在理由を答えよ。

 

A:破滅への道を歩む人々を戒め、救世のため存在する。

 

 不合格。

 

Q:社会を何と心得るか。

 

A:より善いものへと前進し続ける共同生命体。

 

 不合格。

 

Q:流動者と固定者はなぜ分けられているのか。

 

A:固定者は不安定な自我や暴力的性格を有し、社会に害する危険性があるため。

 

 不合格。

 

Q:同化計画の最終目標を考察せよ。

 

A:人種格差を是正した、平等社会の完成。

 

 不合格。不合格。不合格。不合格。エックはうなだれる。〈名誉試験〉の問題はどれも意図が曖昧で、明確な正解が用意されていない。保護者が求める答えにより近い者が協力者に選ばれる。知識や聡明さではなく、保護者を理解していて忠誠的であるかを測る試験。傾向と対策なんてものが入る隙間はない。一発勝負ともいえる内容。エックはうなだれる。世間一般では「一度落ちたら諦めろ」が常識だった。協力者になったところで生活が豊かになるわけではないから、複数にわたって受ける人はそう多くない。とはいえ、彼のように名誉欲しさに諦めきれない者もいる。

 教授として培ってきた思考を駆使して、保護者の真意を読み取ろうと試みる。エックの真実と保護者の真実、相違点を考察し、擦り合わせ、合致させる。義務就寝時間のすれすれ、罰則手前まで思考を止めることはなかった。勝機が見えてきたそのとき、眠気も臨界点を迎えた。

 

 

 

──青色の空。またか。いい加減飽きてくる! 無秩序に生える花々も、いよいよウンザリだ。そして、そこには少女の姿。しかし、この前とは様子が違う。背丈も高いし、発育もいい。十字のヘアピンも汚れ知らずでピカピカ。それにあれは、まさか。銃! なんてことだ、やはり固定者は暴力的人種で間違いなかった。破滅の象徴たる銃を、百年も前に絶滅した野蛮を未だに大事に抱えてるなんて。いや、待て。私は()()()()()()()ことがある。いつだったか、この懐かしさ──

 

 当日。エックは珍しくBCFが鳴るとすぐに起きて支度を始めた。受取ボックスを開き、真っ黄色のコートを着て、識別票を腕に巻いた。会場の座標値を記録したUSBメモリを後頸部に挿すと、視界上にピンが現れる。思ったよりも会場は近かった。彼はなんとなく、自分の足で行ってみることにした。

 普段は車移動だからか、道のりがどこまでも長く感じる。真っ直ぐ線を引いているはずの歩道は右へ左へグネグネと曲がっているように見え、歩いているはずなのに止まっているような感覚は、エックに悪寒を与えるのには十分であった。もしかしたら、このままいつまでもたどり着けないんじゃないかと、今朝の選択に心の中で後悔するばかりだった。

 頭上を車が飛び交う。歩行者は少ないが、閑散というほどでもない。月間の義務歩行時間のクリアのために徒歩を選ぶ人もいる。エックと同じように、その友好者(デカルト)もまた歩いていた。

「エック」

「あ、デカルト……」

「また、受けるのですか」

「分かってるよ言いたいことは」

 エックにとっては今一番に会いたくなかった人物だ。黄色の服は名誉試験の受験者が着るもので、ばったり会ってしまうと誤魔化しようがない。ばつの悪い顔を隠さずに応対する。

「でも協力者になれば、みんな私を見返すはずなんだ」

「あなたはもっと自信を培ったほうがいい。教授(マイスター)だってそうそうなれるものじゃないんですから」

「そうだな。結果、晴れて私は『輪抜けのエック』から『輪抜けのマイスター』と呼ばれるようになったわけだ」

「なら、次は『輪抜けの協力者』ですか? 気にしすぎですよ。あなたの思考論は画一的だ。もし同化計画で採用されれば、人と人との繋がりを強固にして、争いを失くすことだってできる」

「そう評価してくれるのは……キミぐらいだ」嘘。

 エックの言葉に耳を傾ける人物として、まず頭に浮かんだのは数年来の知り合いではなく、少し言葉を交わしただけの固定者の姿だった。彼はそれに驚き、思わず言い淀んでしまった。沈黙。

「試験前なのに、気分を害するようなことを言ってしまいましたね。申し訳ありません。気休め程度の言葉にしかなりませんでしょうが、応援してますよ」

「ありがとう」

 友好者の去る背中を見ることなく、足を速めた。

 

 会場が目前に確認できるところまで来た。百年前の人が見たら、あまりの殺風景さに言葉を詰まらせるような外見だ。こういった建築様式も見飽きていて、そろそろ古典主義に立ち戻るのもありなのではないだろうかと、エックは余分な思考を手に余らせていた。

 音。彼は思わず足を止める。暴力的な音。横にある路地裏からだ。なんだってこんな日にと、エックの心が少しばかり痛む。痛むのはすぐ近くで行われている暴力を憂いているから、という理由もあるが、それ以上に無視せざるを得ないことへの罪悪感だった。視界に映されている、入場受付終了まであと三十分の表示。今から仲裁に割って入り、当事者たちを最寄りの交番へ連れて行き、そこから会場に間に合うか。違う。大事なことを忘れている。

 今の時代、暴力沙汰は大抵が固定者がらみだ。固定者への性暴力なんてしょっちゅうで、交番にいる守護者もいちいち相手にしない。なぜなら、固定者は頑丈で暴力的でなんら権利もない野蛮人だから。誰も仲裁なんてせずに通り過ぎていく。むしろ便乗して欲望を発散しようとする下衆だって珍しくない。だから、このまま何も聞かなかったことにして向かうべきだと、彼はそう結論付けた。足は止まったままだった。車を選ばなかった今朝をまた後悔した。意を決し、路地裏に目を向けることなく早足で通り過ぎようとする。

「やめてっ、だれか」

 声。片手で数えるほどにしか聞いたことのない声。しかし、彼にとってなじみのある声。見てはいけない。心の中で何度も繰り返す。見てはいけない。見ればおじゃんだ。試験に間に合わない。こうしている間にも時間は過ぎている。尊厳が目前で泡となる。掴めるかもしれなかった未来を、みんなと心を通わせる明日を逃してしまう。そうやっていくつものもっともらしい理由を並べ尽くしてもなお、彼の足は再び止まってしまった。

──デカルト。私はキミが羨ましい。鉄の肌を持つキミが、心底羨ましい。立派な翼を携えたあの管理人が羨ましい。毛並みが良く大きな耳を持つあの食事奉仕員が羨ましい。そうだ、見返してやる。認めさせてやる。醜い姿の私を、私自身を。輪抜けと罵ったやつらを。けど、それに意味はあるのか。人々が掌返しで私に拍手を贈って、それで満足なのか。これまでの努力は私を見下した連中に認めてもらうための、ただそれだけのためなのか。あの少女を見捨ててまで、私は──

 

 

 

 時間を確認する。十分。受付終了時間まで十分を切っていた。保健管理ブザーが聴神経に刺激を与え、けたたましい電気信号を流している。唇から垂れた血を拭う。黄色の袖が赤黒く汚れた。エックの姿が固定者と似ているのもあったのだろう。間に割って入り、すぐ顔面に一撃を食らってしまった。守護者沙汰にはしたくなかったので、彼はただサンドバッグになって下衆どもの気が済むまで堪えた。身体じゅうに痛みが走り、立つのもやっとな状態。足を引きずって間に合う距離ではないことを、彼はすぐに悟った。それでも、脳裏に後悔の二文字はなかった。

「ん、ありがとう。ケガは平気?」

「平気だよ。あー、何年ぶりのケガだろうね。しかも、殴られてできたケガだなんて」

「私はしょっちゅうケガしてる。余ったビスケットを、誰が食べるかでケンカしたり」

「そうか。自分の主張を通そうとするのはいいことだけど、暴力より話し合うのがオススメだよ」

「次からは、そうしてみる」

 彼女の妙な聞き分けのよさに思わずエックは笑ってしまった。服についた埃を払い、さてこれからどうしたものかと思案する。少女は隅に蹴飛ばされたのであろう鉄の棒を手に取り、状態を確認していた。

「それ、キミのかい」

「ん、護身用。街に出ると危険な目に逢うから。けど折れちゃった」

 名残惜しそうに、少女はお気にだった武器を手放した。カラン、と音を路地裏に響かせて、棒はその役目を終えた。

「おじさん、この後は暇?」

「そうだね。ちょうど予定も空いたから」残り五分。

「ならついてきて。お礼がしたい」キラキラした目。

 エックは少し戸惑って、少し考えた後、軽く頷いた。会場の座標データを削除し、腕に巻いていた識別票を破き捨てた。彼は左足を庇いながら、少女の後を追う。二人は路地裏の奥へと進んでいった。

「さっきのおじさん、すごかった。覆いかぶさって三人からの攻撃に耐えてて。ホシノ先輩みたい」

「おじさん、じゃなくてエック」

「エックおじさん」

「……そういえば、キミの名前を聞いてなかったね」

 少女は立ち止まり、踵を返してエックと目を合わせる。ずれ落ちたマフラーの位置を直し、口を開く。

 

「私、シロコ。よろしく」

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