保護者はハッチの中へと降りていった。戸惑いつつ、エックも小銃をポケットにしまって後に続いた。光明の中へと溺れゆく。
どれほどの時間を光の中で過ごしたのか。時間さえ超越した空間で、誰かの声が聞こえた。
──賢者よ、よくぞ参られた。
エックはおそるおそる瞼を開く。そこには、見渡すかぎりの草原が広がっていた。
奥には風車も見える。周囲を見渡すも、保護者らしき姿は見えなかった。
ただ一人、目の前に長い灰髪をたなびかせた少女がいるだけ。ウイと同じくヘイローに形と色がある子だ。
エックは屈んで少女と目線を合わせた。来客がそんなに珍しいのか、きらきらと目を輝かせている。
「えっと、キミは?」
「アリスですか? アリスは見習い勇者です! 今はジョブチェンジして、スローライフを満喫する勇者をやっています!」
──ゆうしゃ? じょぶちぇんじ? すろぉらいふ? ──
困惑するのもそのはず。エックは古き良きRPGを地下で履修していなかったのだ。
「……アリス、でいいのかな。ここはどこなの?」
「はじまりの村の外れです! その様子だと、賢者は迷い込んでしまったんですね」
「……賢者、というのは?」
「白髪、髭、ローブ──これは賢者の鉄板装備です! でも、肝心の杖がありません……もしや杖なしでも魔法を使いこなせる、大賢者ですか?」
賢者の困惑は止まらず加速する。
「ま、魔法は使えないかな……」
「なるほど、まだ上級職に転生したてでスキルを習得していないんですね。つまり見習い賢者ということですね!」
エックは天を仰いだ。少女のペースに吞まれきっている。合わせようにも世界観も用語もまったく分からない。
彼は自らの不勉強を呪った。もはやそれを呪うべきかも判断がつかないぐらいだった。
「……とりあえず、自己紹介かな。私はエックハルト。よければ、エックって呼んで」
「では、エックと呼びます」
「お家はあるのかな」
「セーブをしたいんですね」
「あぁ、うん。案内してくれる?」
「パンパカパーン! エックが合流しました」
勇者パーティは原っぱを進んで、風車小屋近くの家に入った。年季の入った木製の扉が音も立てず開く。
中はこぢんまりとしていて、人ふたりが生活できるぐらいの家具が揃っていた。賢者は近くの椅子を近くまで寄せ、会話を再開させた。
「それで、キミはいったい誰なのかな?」
「? アリスは見習い勇者で──」
「待って、待ってほしい。訊き方が悪かったね……えー、アリスはここで、なにをしているのかな?」
「スローライフを満喫しています!」
「……もう少し具体的にお願い」
「神の使いから『魔王復活の刻まで待つ』というクエストを受注したので、じっとしています」
神の使い──保護者本人か、あるいはその配下か。
「その使いの名前は……」
「名前は教えてくれないので、シロガネと呼んでます。髪色がとても綺麗なのでアリスがそう名付けました!」
シロガネ、白銀色か。しかし先刻の保護者は髪を隠していた。まだ断定はできなかった。
「その人は、今どこに?」
「アリスにもわかりません。たまに会いにきて、いっぱいナデナデしてくれます! おかげで、どんなに寂しくてもこのクエストを頑張れるんです」
「アリスは……ここでどれぐらいの時間を過ごしたの」
「二四年半です」
二四年半。つまり、アリスは戦争が始まってすぐから、ずっとここ幽閉されているのだ。エックの腸が怒りに煮えてくる。
エックは今しがたの記憶を掘り返す──保護者の発言が正しければ、ここにはAL-1Sがあり、名もなき神とやらの技術を使うための実験場のはずだった。この少女を幽閉する正当性はない。
あるいは、AL-1Sを動かすために必要なのか。
──どうして保護者は私とアリスを会わせたのか──
「外のお話は、興味あるかな」
「冒険ですか? なら、アリスは知りたいです。たくさん聞かせてください!」
狼少女との出会い、地下ダンジョンの攻略、先生として受け継いだ意志。
面白おかしい語り口で紡がれる賢者の愉快極まりない冒険譚は、窓辺に射す光が落ちるまで続いた。
どうやら、この空間にも昼夜があるらしい。
「もう夜だね。そろそろ寝ないと」
「アリス、エックの話をもっと聞いていたいです!」
「じゃあ、続きは寝室で。ベッドは二階かな」
ジタバタする勇者をなだめて、賢者は階段を上がる。上の階には少し小さめのベッドと、背丈のある人間でも横になれる大きさのベッドがあった。
試しに寝っ転がるとかなりの寝心地。少し膝を曲げる必要があっても、睡眠を取るには事欠かないだろう。
満足げな賢者の顔を見て、勇者はオロオロし出す。
「……大丈夫。アリスが寝るまでは、私も寝ないよ」
ホッと安心するとすぐに元気を拾い直した。ベッドに転がって、二人は天井を見上げる。
「ねえ。アリスは、何をきっかけに勇者を目指しているの?」
「……わかりません。アリスの補助記憶装置に障害が発生していて、どうしても思い出せないんです。この『アリス』という名前は、誰から貰ったものなのかも」
保護者が二人を出会わせたのは、過去を失ったその境遇ゆえか。
「思い出せなくても、アリスは勇者であり続けたいです」
「どうしてかな」
「世界中の人が幸せでいてほしいんです。誰も悲しんだり、苦しんだりしない、そんな世界を……」
「優しいんだね。勇者になら、きっとできるよ」
「ありがとうございます、エック。でも、難しいことです。アリスはまだ見習いで、経験値が足りません……それでも、目を背けたくはないです。大切な人を守って、苦しんでいる人と同じ世界を見る勇気を持つ。アリスはそんな勇者になりたいです」
勇者の眼はまっすぐ前を見据えていた。迷いはあるかもしれないが、屈することのない強さを感じる眼だった。
「アリスも聞いていいですか」
「どうぞ」
「エックは、どうして先生をしているんですか?」
エックはすぐ言葉を発そうとして、しかしつっかえてしまった。
目をつむって考え込んで、しかし納得のいく答えはなかった。
「どうだろうね。魔術師に私の過去を教えてもらって、責任を感じたのかもしれない。そう求められたから、なのかもしれない。他人に求められて、認めてもらえるなんて経験がなかったんだ」
「エック?」
「……どうして、なんだろうな」
賢者の眼はその瞼によって閉ざされていた。迷うことさえできず、進むだけだった。眼はいらなかったのだ。
ぎゅっ。華奢な躯体から、ほのかに温度が伝わる。
「フフッ……エックの身体、あったかいです」
「アリス?」
「何度かシロガネにこうしてもらったことがあるんです。そのたびに、アリスの中にあった不安が上書きされました。エックはどうですか?」
「……ああ、温かいよ」
「自分のなりたい存在は、自分で決めていい──昔、誰かがアリスに教えてくれました。エックは、どんな存在になりたいですか」
ただ静かに、ただ情けなく、その体温に縋る。そっと肺の空気を入れ換えた。エックは答えようと努める。
しかし、エックはその思いを口にしなかった。適当にはぐらかした後、アリスを寝かしつける。
──私はみんなの先生でありたい。そのおかげで、アリスとも出会えたから。生徒のみんなと出会えたから。私は、誰かのための存在であり続けたいな──
アリスが寝付いたのを確認すると、エックは寝室を後にした。
五分ほどで手は〝壁〟と接触した。接触した箇所を起点に、テクスチャが徐々に剥がれていく。美しい月も、満天の星も、鮮やかな緑も、なにもかもが消え去る。
温かさの欠片もない無機質な空間が広がった。
「アリス、とてもいい子ですよね」
どこからともなく声が聞こえた。声の主は、もはや間違えようもない。
「そんないい子を、あなたはこの箱庭に二十年余りも閉じ込めている」
「いい加減に察しがついているでしょう。アリスこそがAL-1Sなのです。〈名もなき神々の王女〉である彼女がいなければ、地下居住区は維持できません」
「私は先生だ。これまでも、これからも。そして、アリスも私の生徒だ。助けない道理を捻じ曲げてでも助けるよ」
「……貴方になら、成し遂げられるとでも?」
次の瞬きで保護者は現れた。エックは反応速度も及ばずに蹴りを入れられる。
まともにみぞおちでくらって、為す術もなく後方に数メートルほど飛ばされた。
刹那、激痛の電気信号が脳を支配する。思わず口から胃液を吐き出した。けたたましいブザー音に刺激され、痛みが増幅する。
必死に息を吸おうとしても、口からキューッキューッと音が漏れるばかり。立ち上がろうとする意思とは反対にエックの意識は無情にも遠のいていく。
気がつくと、エックはアリスの家にいた。保護者にリビングまで連れ戻されたのだ。
目前には、一人の女性が立っていた。まるで雪景色のような艶やかな髪と、瞳に宿る赤い虹彩。頭上には、いくつもの輪っかが重なり織り成された巨大なヘイロー。
「
「……命令されずとも、そんな元気はないかな」
そうは言いつつもエックは足に力を入れてみる。あのときと同じで、やはりできなかった。
──これは神秘の同時発動で出来るような芸当ではない。おそらく、これが保護者が持つ本来の力。この力で学園都市は負けた──
「ご明察です、エックハルト。私が掌握するのはキヴォトスに属するすべて。非生物であればその構造と位置を自在に操り、生物であれば自由に操れます」
「はぁ、まったく。無法にも限度があるでしょ」
「弱点はありますよ。対象はキヴォトス由来に絞られますので。外から来た物質、存在には効きません」
ゲマトリアを野放しにしているのは、そのためだったのだ。
しかし、保護者はまだ手の内を見せきっていない──エックは思考を止めない。
「それだけじゃないはず。あなたは発信機を破壊したとき『どうりで気づくのが遅れた』と言っていた。どうして、私が認知していないゲマトリアの動向を知らないのか? 彼らはあなたにとって私以上の脅威だろう、監視をしないわけがない……監視ができるなら、の話だけどね」
「ええ。その通り。外物は探知できず、神秘による監視もできません。おかげで、私の体内にはウイさんから戴いた銃弾の破片が埋まったままです」
震える足を押さえ、平然とした表情を保とうとしている。
「あなたは、固定者をどうしたいんだ」
「救いたいのですよ」
「救う? ははっ、これのどこが救うだって」
「彼女たちは飢えていますか?」
「なに?」
「飢えていないでしょう。誰一人として、腹を空かせている者はいません」
「……でも」
「ユメさんを蘇らせたのは私ですよ。おかげで悲劇は綺麗さっぱり除去されました。ホシノさんも、深い傷がなかったことになってよかったじゃありませんか」
「ウイはどう説明する? 彼女に遺された人たちは」
「今、新しいウイさんは七歳前後まで成長しました。居住区へ移動させる際に記憶処理でも
「本気で言っているのか。ヒナタの苦しみをなかったことにすると?」
「貴方こそ、なにをそこまで気にしているのですか。苦しみなんてないほうがいいに決まっていますよね。それとも、ヒナタさんが生涯に亘って苦しみを背負い続けても構わない、と?」
エックは言葉を詰まらせた。当然のことだった。これは私の理論云々というよりも、彼の感性が地上で育ったことに起因している。
彼は保護者を本質的に否定できない。
「けれど、私の目的をしっかりと理解できていない様子。一から話してあげましょう──」
昔々、一人の
それは、社会を映して人々に内省を促す画期的な鏡。
鏡の世界なんてものは存在しない。痴愚と狂気に踊らされる社会への批判のために産まれた島に、真実はなかった。
この世のどこを探そうと、地球の裏の毛穴まで探索し尽くしても見つからない非存在の概念。
しかし、人々は存在することのないユートピアを実現する目前まで到達してしまった。
物流発展による国際化、穀物の生産性向上、情報革命がもたらす監視社会。
ユートピアは、ディストピアへと変容した。
私はその現象をキヴォトスで行った。
ディストピアというテクスチャを被せるのは容易かった。言ってしまえば、初めからユートピアだったからだ。
ユートピアといっても、青春賛歌の鏡であるこの世界はあまりに不完全。悪意が加えられるだけで途端に崩れてしまうほどに脆い。
そんなガラスのような世界にコンクリートを流し込む。つまり私の成したことはそういうことだった。
「ディストピアの素晴らしい点はなにか、分かりますか」
それは、終わりがないこと。人々は前進することも後退することもない。そのうえ苦痛や不幸が座る席は用意されていない。
キヴォトスは終わりのない世界を望んでいる。私は、それを叶えた。
「ゆえに非物語なのです。喜劇も悲劇も存在しないなんて、すばらしいことでしょう?」
私の役割は、あらゆる破滅を取り除くこと。
忘れられた神々。
無名の司祭。
デカグラマトン。
排除することは容易かった。それらは、キヴォトスの内にあるものだったから。
しかし、外からの脅威には無力だった。
ゲマトリア。
色彩。
そして、先生。
私は策を講じた。外に対抗する力を得るために、あらゆる神秘を取り込んだ。名もなき神の遺物さえも利用した。二十年の刻を経て、ついにその足掛かりを掴んだ。
こうして、終わりは取り除かれる。
世界の次は生命だった。世界が不変となっても、生命は流転する。不死の研究はしなかった。どのような権能をもってしても、死は逃れられない結末だ。
肉体の不滅にできないのなら、精神を不滅にすればいい。魂はゼロイチの二進数世界へと落とし込まれる。肉体は工場生産にして、朽ちる前に交換される。
こうして、この世界からすべての終わりが駆逐される。
「魂のデータ化なんて、面白い詭弁だ」
「貴方がたには理解できない領域でしょう。私は保護者であり、キヴォトスにあって私に認識し得ないものは存在しません」
「……外からの破滅はどうするのかな。保護者の権能だと太刀打ちできないだろう」
「足掛かりを掴んだ、と言ったでしょう。貴方こそがその足掛かりなのです」
「そう。それで、私に何をさせたい?」
「何もしなくていいのです。貴方はただエックのままで、それだけで十分に働いてくれています」
私は彼の胸に手を置いた。触覚に意識を集中させる。
そこには、確かに魂があった。先生の魂ではない。他ならぬ、エック自身の魂。私が操ることのできる魂。
「いったいなにを……」
「少しも疑問に思いませんでしたか。保護者の力に屈している自分を」
「……なんの冗談だ」
「言ったでしょう。私は外物を支配できない。それは先生も例外ではありません」
「待ってくれ」
「二十年前、交渉のテーブルについたあの日。私は先生のことを操れませんでした」
「待て……」
「ですから、同化手術によって記憶と魂を封印して新しい記憶と名を与えました」
「そんな、そんな筈は……」
「操れるようになると、次は〈大人のカード〉を行使できなくなってしまいました」
「それじゃ私は」
「私が用意できるのは記憶と名だけ。魂をゼロから生み出すことは敵いません」
「やめてくれ」
「この二十年間。空っぽの貴方に魂が生まれる日を待っていました。物に魂が宿るのと同じ要領ですよ」
「頼む、お願いだから」
「エックの魂は内物ですので、先生の魂と違って操ることができます。この二つを混ぜることで、〈大人のカード〉の行使も自在となります」
「……嘘だ」
気が動転したのか、エックは椅子から崩れ落ちて私の足下に縋っていた。
赦しを乞うように、救いを願うように、頭を垂れる。
「どうかしましたか、エック。なにをそんなに錯乱しているのでしょう」
「私は、先生なんだろう?」
「……ああ、なるほど。貴方の心の支えはそこからくる自尊心だったわけですね。先生として求められ認められ、今までの惨めな人生が報われたように思えた──そんなところですか」
「わた、私は」
「けれど、現実は違いましたね。貴方はエックであって、先生ではありません。〈シッテムの箱〉が起動しないのも、〈大人のカード〉が使えないのも、記憶がないからではありません」
「……あ、ああ」
「貴方が先生ではないからです」
さきほどまでは恐怖で震える足を押さえていた手が、今は動揺で震えている。
これまでエックを突き動かしてきたものは消え去った。気づけば奈落は足の下。
「一つ、貴方の現状にぴったりのお話をしましょう」
ある日。靴直しの記憶を持って目覚めた王子と、王子の記憶を持って目覚めた靴直しがいました。
王子はいつも通りに宮殿で目覚め、傍目だと眠りについたときと同じ人格に見えるでしょう。
ですが、王子は自らを靴直しだと感じています。王子ではなく靴直しとしての記憶があるからです。
ある哲学者は、この場合「王子が自分を靴直しだと感じる」ことは正しいと考えました。
人格の同一性は肉体の連続性ではなく、記憶の連続性によって決まるのです。
「他人に
「……」
「さて、先生の記憶を解除してあげましょう。記憶が戻ることで、それに結びついた人格も戻ってきます。よかったですね、エック。あんなに使いたがっていた大人のカードを使えるようになりますよ」
「……」
「大人のカードがあれば私を殺せるのですよ。ほら、かわいい生徒たちを救ってあげなくては!」
エックから返事はなかった。私としたことが、調子に乗って貶しすぎたかもしれない。彼は我が子同然の存在だというのに。
まあ、これも計算の内としておく。魂の輪郭が不安定にならなければ、先生と混ざることなく二重人格状態に陥ってしまうからだ。
私が求めるのはエックと先生の統合。統合によって、先生に内物が混ざって先生のまま操れるようになるはず。
「内物と外物を混ぜたとき、どんな挙動をするのかは分かりませんけれどね。いわば一か八かの賭けです。成功すれば外物共すべてが敵ではなくなります」
私は後頸部の外皮を指でパカッと開けて、一本のコードを引っ張り出した。それをエックのポートに刺す。
〈権限照合中……完了〉
〈コード*I.N.R.I〉
〈記憶装置:制限解除〉
〈アクセス*先生.zip:解凍〉
「さあ、先生。
私の命令で、先生は立ち上がる。
「……私を利用すれば、世界から終わりはなくなるんだね」
「ええ。ついに偉業は達成されます。悲しみも苦しみも永久に失われます。いずれはこの世界だけでなく、あらゆる並行世界に救いをもたらせるでしょう!」
〝
「つまり、私が死ねばご破算なわけだね」
「──え」
先生はいつの間にかポケットからナイフを取り出していた。そのサイズからしてポケットに入りきるものではない。
ゲマトリアの技術が使われた代物。保護者を殺すために用意したものだ。
ブザー。
一瞬の出来事だった。その刃先に躊躇はなかった。彼は正確に自らの腹を突き刺した。ブザー。吐き出した血が私の服にかかる。
「
先生がナイフを手放すことはない。つまり、私は賭けに負けたのだ。
即座に膂力系の神秘を発動させる。もう限界だったのか、右手首を掴んで軽くひねれば簡単にナイフが地面に落ちていく。
私はナイフを手に取って自身の肌に赤い線を引いた。こぼれていく血を、先生のパックリと割れた傷口に垂らし、
もう一度、彼の胸に手を当てる。そこには二つの魂があった。混ざらなかったのだ。
「……少し見くびっていましたね。混ざらずに耐えるとは、なんて凄まじい精神力」
脈はまだある。ひとまずは治療室に連れていかなければ。
「〈観測者〉、聞こえていますか。今すぐ清掃員を寄こしてください」
『すでに手配してますよ……』
私は両腕で先生を抱えて、家を飛び出す。
「──エック?」
数時間後。窓から差す光に反応して、勇者はスリープモードを解除していた。隣で寝ていたはずの賢者はどこにもいない。
「目覚めましたか、アリス」
代わりに、神の使いが窓辺に立っていた。光の反射で銀が美しく輝き、その顔は勇者に微笑みかける。
「シロガネ! 元気にしていましたか?」
「ええ。変わらずですよ。顔を出す頻度が減ってしまって、心配をかけてしまいましたね」
私はアリスの頭を木綿でも触れるように撫でた。アリスは無邪気な笑顔で、撫でられるがままだ。
「シロガネは、エックがどこにいったか知っていますか?」
「私はすべてを見通せますから、もちろん知っていますよ。エックはまた旅に出たのです」
「……そう、ですか」
みるみるうちに暗くなっていく顔。私は屈んで、そのほっぺたをこねくり回す。
「んむっ」
むぎゅむぎゅ。
「寂しいですか」
「エックにも使命があることはわかっています。でも、アリスはちゃんとお別れがしたかったです……」
「また会える日が来ますよ。彼は先生で、アリスは生徒なのですから」
エックと先生の融合。一旦は失敗したものの、まだ諦める段階ではない。今のキヴォトスには彼が必要だ。あらゆる手を尽くしてでも屈服させなければならない。
エック、なんか可哀想ですね
報われるんでしょうか?
私にも分かりません。