※拷問シーンがあるので残酷描写注意です
──ここはどこだ?
あまりにも真っ白な部屋。タイルの隙間から漏れる蛍光灯が眩しい。どこまでも奥行きが続いているように見えるし、たった一歩で端から端を制覇できるようにも思える。
〝あ、起きました?〟
「キミは……」
背丈は、ちょうど私と同じ。黒髪と、髭を綺麗に剃った顎。丸い輪郭がより幼く見せている。絵に描いたような好青年といった感じだった。
「先生か」
〝うん。その先生です。エックハルトさん、でいいのかな〟
おそらく彼は休戦交渉時の容姿なのだろう。なら私は、さしずめ賢者みたいな容姿か。鏡がないので確認できないが。
……そう考えて、振り返ると真後ろに姿見があった。しかし、肝心の私は映っていない。
「なるほど、ここは私の──私たちの精神世界みたいなものか」
〝たぶん、そうだと思います〟
保護者は、私と先生の統合を図った。そして、失敗した。
私の生涯は、なにもかもが無意味だった。
教授として皆を見返すのも、先生として生徒を助けるのも、保護者の駒として役割を果たすのも、何一つとして叶わなかった。
ふと見回すと、冷たい床の上にナイフが置いてあった。鏡と同じだ。
それは無作為な心象風景ではない。理由は明らかだった。
〝な、なにをして〟
私はそれを拾って、望んだ通りに刺す。
無情にも白い床が汚れることはなかった。刃が数センチ沈んだものの、皮膚には傷一つない。
ナイフは手をすり抜ける。床に接触すると同時に、刃は砕け散り何百もの破片が生まれた。
ああ、なぜ、死ぬことさえ。
〝えっと、エックハルトさん〟
「……エックでいい。一丁前に歳は食っているけどね、人生経験で考えればそっちのほうが歳上だよ」
死ねないのなら、前に進むしかない。依然として保護者は倒すべき敵だ。今は敵を打ち負かすことだけを考えよう。
保護者が先生を呼び起こしたとき、私はその存在を拒絶した。あれは咄嗟の判断で、別に後先を考えたものではない。
だが、その判断のおかげで私たちにもまだ勝ちの目が残されている。
私たちが統合されずに済んだのは、記憶の統合を拒絶したおかげだった。
彼はエックの事情を知らないし、私は先生の事情を知らないというわけだ。
「先生は現状についてどれだけ知ってる?」
〝とりあえず、保護者が私たちを操ろうとしているのは〟
「十分だ。魂が統合されたら私たちの負け。統合を防いだら私たちの勝ち。そして、私たちは勝つことに専念しよう」
〝……生徒たちはどうしていますか?〟
先生は自分が何年眠っていたのかすら知らない。残した生徒の安否が気になるのも仕方なかった。
しかし、それで動揺でもすれば保護者の思う壺なのだ。
「今は知らなくていい。生徒を信じるんだ」
〝……わかりました〟
この白い空間も、一体いつまで保つのか。時間経過は外と同じなのかも分からない。
この絶望的な状況を覆すなら、作戦を練る時間は一分一秒でも惜しい。思考する時間は一分一秒でも欲しい。
〝現状は、この二重人格を維持していればいいんですね〟
「相手もあらゆる手を使って統合を狙ってくるだろう。拷問ぐらいは覚悟しないと」
〝とりあえず、肉体の主導権は私のままで〟
「だが、どうしたものか」
作戦を練ろうにも、私たちに与えられた選択肢は二つだけ。
耐え続けるか、受け入れるか。
「先生を目覚めさせる前に、保護者は明らかに私の精神を揺さぶるような言動をしていた。つまり不安定化が……魂の不安定化が統合するうえで重要なわけだ」
魂の認識だなんて、ふざけたことを言い張るものだ。
人間の認識能力では触れることも許されない、神の領域。それも保護者なら可能だと?
あれはもう人間ではない。神そのものだ。
〝魂の同化で、私は
「ああ。多分、私の魂はすでに不安定なんだろう。保護者は『物に魂が宿るのと同じ要領』と言っていた。だから、記憶を統合するだけで魂も容易く混ざってしまう」
〝なら、あなたの魂を安定化させれば……〟
「難しいな。まず私たちは魂についての知識が少なすぎる。こんなことでは安定も不安定もない」
単なる気の持ちようなら、どれほど楽か。
もう一度だけ鏡を見る。そこに賢者の姿はなかった。映っているのは好青年のみ。
私を映さない鏡。鏡に映らない私。
偽りと罵った記憶も、それなしでは意識も芽生えなかった。この忌まわしい名前がなければ、私は存在しえなかった。
死に物狂いで教授になった日々、生徒のために奔走した日々、協力者として雑務をこなす日々。どこまでが贋物で、どこからが真実だったんだ?
保護者の目的によって形作られた私。
私という、曖昧な自我。
「私が死ねば苦労はしないんだが……」
〝死ねば、だなんて言わないでください。まだ諦めるべきじゃありません〟
こんな状況になっても、彼は犠牲を躊躇っているのか。あまりの甘ちゃん具合に腹が立つ。
「悠長なことを……お人好しか、それとも臆病なだけか?」
〝あなたが死んでも私が死んでも、同じ結果を得られる。なにもあなたが死ぬ必要はありません〟
「その先を考えてくれ。先生が死ねば、誰が生徒を導いてやるんだ」
〝それこそ、エックが死ねば同じ事の繰り返し。保護者はまた新しい魂を用意しますよ〟
十数秒間の沈黙が生まれる。いや案外、一秒となかったのかもしれない。
私はその言葉に何も言い返せなかった。私は私が思っている以上に、視野狭窄に陥っているのか。
「その通りだな。すまない」
〝……あなたのことはよく知りません。でも、命は簡単に投げ出していいような軽いものじゃないはず〟
「起きて早々に自死を試みたキミに言われたくはないな」
〝あ、あれは責任を取ろうとして……すみません。人のことは言えませんね〟
二〇年前に保護者と相対した日、先生はなにをしたのか。自分こそが最後のピースと知って死を試みたのだろうか。
この白い時間が終わる気配は一向に訪れない。かといって、私たちに論題が残っているかと言えば、なかった。
しばらくして、この気まずい空気を入れ換えようと先生が話題を振った。
〝私がいない間、エックが代わりに先生をやっていたんですよね〟
「そうだな。とても先生をこなせていたとは思えないが、及第点以上だったと信じているよ」
〝もっと自信を持っていいと思います。なにより、先生というのは何を為したかではなく、何を示せたかなんですから〟
「未来、とか?」
〝それもあります。子どもたちの可能性を守ることが、私たちの役割です〟
「……さらに自信を失った気がするな」
果たして、私はそうあれたのだろうか。過去を振り返ろうにも上手く思い出せなかった。
ここが現実世界とは異なるからなのか、言葉がまとまらない。思考がそのまま口から漏れていく。語気を取り繕うこともできそうにない。
「私は長い間を教授として、保護者による社会を讃え、教育の時代を罵ってきた。固定者と呼ばれるようになった生徒たちを差別的な目で見てきた」
〝でも、先生になって変わったんじゃないんですか?〟
「人間、そう簡単には変わらないよ。彼女たちと言葉を交わすたび、私の醜悪は暴露されていったさ。培われた観念は拭っても拭いきれない。結局、彼女たちへの嫌悪感を手放すことができなかったんだ」
〝それでも、先生としての道を選んだんですよね。ならあなたにも、大人としての責任と義務の感性は芽生えているはず〟
「確かに、これまではそうだったとも。私には責任があった。今は違う。手元にあるのは滑稽と高慢だ」
生徒たちが見ていたのは、私ではなかった。自惚れていたのだ、彼女たちには私が必要なのだと。
輪抜けごときが高望みしすぎた。その結果がこのザマだ。
高尚な信条なんてものは残されていなかった。自由も、青空も、もうどうだっていい。
今はただ、憎き相手に一矢報いたい。
「先生ほど、私は気高くないんだ」
〝なら、私たちは似たもの同士ですよ〟
そう言って、先生は恥ずかしそうに自分の後頭部をさすった。そのにやけた顔は私に対する共感か、はたまた単なるご機嫌取りか。
〝私は平凡な人間ですから、なんでもできるわけじゃありません。それでも大人として、子どもを守りたかった。先生として、生徒を守りたかった〟
彼の風貌から、幼さが立ち去っていく。その顔に痛々しい傷が浮かび上がった。古傷と生傷が重なりあう。
〝でも、手の届くはずだった子を救えなかった。大人が背負うべき責任を、すべて背負わせてしまった〟
「保護者のことか」
先生は表とも裏とも言わない。それが答えだった。
内面の吐露を終えると、無数の傷が癒えて跡形もなくすっかりと消える。
身の丈に合わない信念を、彼は貫き通せなかった。尊厳もなにもかも失ったのだ。
「それでも、前に進むのか?」
〝これまでの責任を果たせなかったからといって、これからの責任を放棄してもいい理由にはなりません〟
その瞳は最初の印象とまるで違う。それは彼自身の変化ではなく、私の見方が変化したからなのだろう。
私の想像に反して先生はあまりに無力な人間だった。なのに、その野望は保護者さえも救おうとした。
大人と子どもという旧時代の価値観に囚われた夢想家。なんてちっぽけな存在か。
しかし、私は目が離せなかった。その眩しさに目が眩む。
「保護者を救って、その後は? あの人は世界の在り方まで変えてしまった。もはや取り返しのつくものではない」
〝今からでも、一緒に背負うことはできます〟
空間に飽和していた白い光が明滅し始めた。どうやら時間のようだ。
「先生の志は立派だと思う。だが、私は保護者を殺すつもりだ。悪く思わないでくれ」
〝悪くは思いません。でも、私は保護者を救うつもりですよ。生徒ですからね〟
「……彼女の名前、知ってるかい」
〝? いえ〟
「シロガネ。多分、本名ではないけどね。生徒だと言うのに保護者だと、ややっこしくて仕方がないだろう?」
〝……っはは、たしかに!〟
先生の立っていた地面以外が崩れていく。私は抵抗することなくゆっくりと下る。
〝最後に一つだけ、いいですか〟
「どうした?」
〝大事なのは、経験ではなく選択です。なにを経験してきたかではなく、なにを選択していくか。今のあなたなら、わかるはず〟
私はバラバラになったタイルと共に暗闇へと落ちていった──
液体が奥底に沈んでいた意識を釣り糸で引っ張り上げる。先生は咳と一緒に水を吐き出して、びしょ濡れの顔を上げた。
身体を動かそうとしたものの、四肢が木製の椅子に縛られている。
「──いやはや、こんな若人が大病を患うだなんて。恐ろしいですね」
〝君は、誰だ?〟
仮面で顔を隠したロボットは空になったバケツを端に投げ捨てる。レンズをキュルキュルと動かした。
「見ての通りの、しがないロボットですよ」
〝……保護者はどこに?〟
「それを知ってどうすると」
〝会って話がしたいんだ〟
先生のあまりの愚かな物言いに、ロボットは間接部位を軋ませ不愉快な音を立てながら笑う。
「はあ……なかなか可笑しいことを仰る。起き抜けで頭が回っていない様子!」
〝私の思考は正常だよ。彼女、シロガネは私の生徒だから〟
「ははっ、やはり治療が必要なようですね」
ロボットは無造作に物が置かれた、光沢のあるテーブル上を漁る。ガチャガチャ。ピタッと止まり、手を抜き出すとその掌には一つのUSBメモリが収められていた。
「特別にあなたの立場を教えましょう。保護府が築き上げた秩序を脅かすあなたは、〈治療〉を必要とする〈患者〉なのです」
──ほう。私たちは狂人扱いか──
〝誰に指図されたんだ?〟
「指図もなにも。これが私の奉仕でしてね。ここ一号室に運び込まれた患者を、その人に適した治療法で治す。これが〈執行人〉の役目ですから」
〝執行?〟
「私は純協力者の一柱、執行人。保護者より処刑特権を賜り、それを唯一の使命とする者です」
執行人は気を取り直すように、円柱型の頭を覆った仮面の位置を調整する。
怒り狂う仮面が、これから彼らが向かう未来を案じていた。
「あまりお喋りに熱中しては、観測者にまた奉仕怠慢だと指摘されてしまいますね。さっさと始めますか」
そう言いながら執行人は椅子の後ろに回り、設置された機械のポートにUSBメモリを挿入する。すでにその機械は患者の首に繋がれていた。
カタカタ。
〝なにをする気だ〟
「ゴウモンでも期待していましたか。我々は野蛮人ではなく、文明人ですよ。地下に蔓延る固定者どもとは違ってね」
カタカタ。
〝……なんだって?〟
──先生、こんな鉄屑の言葉に耳を傾けては──
「知りませんか、ヘイローを持つ種族。丁度あなたのような肌を持った連中でしたかね。私の友人の一人もそういう特徴で辛い目にあっていましたが、あなたも大変でしょう。あんな凶暴な輩と一緒にされては、さぞ屈辱的で──」
〝私の生徒を貶すな〟
カタ。
「はい?」
拳に青筋が浮かぶ。先生は静かに、冷たく言葉を発する。
〝わからないのか。貶すな、と言ったんだ〟
「ふむ。先生、でしたか。どうやら筋金入りのようで。これは治療に時間を要してしまいますね」
厄介な患者に思わずため息が漏れつつ、執行人は止めた手を再び動かす。
「はい、舌を噛まないようにマウスガードを付けておきましょう」
〝もっ、むむ〟
「さて、これから行われるのは高尚な〝治療行為〟です。後根神経節を介して脊髄に電気信号を送り、化学物質に変換された情報は最終的に大脳皮質へと到達します。まあ、専門的なことは抜きにしてさっそく体験してみましょう」
〝ぐっぅ……んんん!〟
びりびり。じんじん。
ちくちく。ひりひり。
きりきり。ずきずき。
ぴりぴり。みしみし。
指がピンと張り、意思とは関係なしに身体がこわばった。この苦痛から逃れようと必死に拘束を外そうとする。
「機械刺激、温度刺激、化学刺激。あらゆる痛みが際限なく流し込まれます。安心してほしいのは、これによる直接的な物理的外傷はありません。暴れすぎると多少の怪我は負いますがね。神経性ショックを引き起こさないように、限度の超えた痛みが流れることもありません……たまに不運な患者もいますが」
患者は咥えさせられたプラスチックを噛みちぎる勢いで食いしばる。意識を失うこともできず、ただ苦痛を耐えることに必死で執行人の声は届かなかった。
「これこそ文明の果てにある人道的療法! 断頭台も足枷もデータベースの中で埃をかぶって、民衆が刑罰という恐ろしい言葉を思い出すことはない!」
──違う。これは幼稚な言葉遊びだ。どれほど誤魔化そうと本質は変わらない──
〝ヴヴヴヴ……!〟
否応なく手足はガタガタと震え、脂汗が止めどなく溢れる。じわじわと下半身に温かさが伝わってきた。
「排泄は自由にしてください。椅子の下にある溝を通って処理されますので」
──この
〝……〟
──限界だと思ったなら構わず私と交代してくれ──
額から垂れた一滴の汗が右目を潤す。塩っ気のあるそれが先生を暗黒に招くが、むしろ彼は瞼を開いた。
その正しき眼は執行人の顔を捉える。仮面で隠匿された、変わることのない本質を。
──待て。こいつは、お前は──
「執行人として、必ずやあなたを完治へと導きましょう」
手を震わせる患者の前で、デカルトは一礼した。
夜はまだ長い。
人の時は限られている。
保護歴一二四年十二月二五日。一号室。
相変わらず、患者は老廃物を垂れ流している。
栄養失調や脱水症状を防ぐために、治療の合間に挟まれる休憩だけが唯一息をつける時間だった。
「では、そろそろ休憩としましょう」
唸り声を上げていた機械は静まり、それを合図に痛みも止んだ。患者は胃液と共にマウスガードを吐き出す。
「かはっ、はぁっ、はぁっ……」
白髪が垂れて彼の視界を遮った。治療を中断しても、五分弱ほど経たなければ手の
「いやはや、驚きましたね。人格が入れ替わると容姿まで入れ替わるとは。聞いた学者連中はみな驚いてましたよ、
「……我らの友情に免じて、もう解放してくれないか」
「むしろ、友人だからこそですよ。大病に苦しむ友を見捨てたりなどしません」
執行人の目は濁っておらず、奥底まで澄んでいた。生憎なことに仮面がそれを遮っていて、エックからは分からない。
「治療再開まであと二時間です。その間に栄養補給を……おや」
毎度のように発する常套句を中断し、そっぽを向いてなにやら確認をし始めた。
彼の役職では、急な連絡が入るのもあまり珍しいことではない。この数ヶ月の間で、このような流れで患者に背を向けたのはこれで三七回目だ。
数分の沈黙の後、ゆっくりと執行人は振り返った。
「──現状の治療法では効果無しと判断されました。よって、只今より新たな治療法を開始します」
「保護者サマも相当焦っているご様子だな……ちなみに、休憩時間は?」
「これは今までの治療とは異なり、肉体的負担の少ないものとなります。栄養補給がてらで結構です」
上辺だけの人道だった対応が途端に寛大さを見せ始める。患者の心には疑いの気持ちがあるものの、この展開は彼らにとって逃せない転機でもあった。
いつまで保てるかの耐久レースでは平行線でしかない。ここから起死回生の一手に出て、停滞した盤面を動かす。
──気をつけて。なにがあるか分からないよ──
「大丈夫だ、先生。この機は逃さないとも」
執行人は機械に操作を加える。するとエックのBCFが起動し、いつもながらの鬱陶しい表示と再会した。
「今からライブカメラの映像を映します。遅延はおよそ三秒なので、早めのご決断をお勧めします」
ジジジと視界に浮かび上がる。そこには、一人の少女がいた。
見間違いはあり得ない。間違いようもない。
ぼさっとした長い髪。鉄色がかった紺の瞳。
「──ウイ?」
時計型のヘイローではなく、ただの白い輪っかを携えていた。容姿も七歳前後に見える。
しかし、そこに立っているのはウイ本人だ。
「あなたの選択によって、この固定者の運命が決まります」
「……運命だなんて、大層なことを」
「人々は耐え難いがために、それを運命と名付けた──昔、あなたが私に教えてくれたことです。であれば、これこそ運命と呼ぶに相応しい」
映像の端が、ちょっとずつ狭まっていく。それはカメラの不調によるものではない。機械は目の前の光景を忠実に映し出していた。
左右の壁が中心へと迫っているのだ。
少女の辿る運命がどんなものか、それを理解できないエックではなかった。
──どうして、ウイが幼くなって──
「壁を止めろ」
「では、魂の統合を受け入れてください」
「……っ」
「この固定者の生死に関しては心配いりません。肉体が使えなくなっても、新しい肉体にデータを移せば問題ありませんので。この治療を何度も何度も繰り返すことが可能です」
「彼女は関係ないだろ!」
「なら、受け入れなくても構いませんよ。価値のない固定者が何十回何千回と潰れるまでです」
口論をしているうちに、運命はじりじりと近づいていた。
──これはシロガネの罠だ。彼女は無意味に苦痛を与えるような子じゃない。私たちを揺すぶろうと──
「黙れ! この期に及んであいつの良心を信じろと言うのか!」
「猶予はあと三〇秒です」
少女は壁にぺたりと触れた。もしかしたら、自らに降りかかる災難を悟ったのかもしれない。
「あと二〇秒」
「……」
「あと一五秒」
「……」
「あ──「受け入れる」
その言葉から五秒経って運命は静止した。満足に身体を動かせないところまで差し迫っていた壁が、冷酷に止まった。
「エックハルト。その言葉に嘘はありませんね」
「ない」
──エック! ──
「判断を信じてくれ、先生」
「では、記憶の統合を再度実行します」
「
──わかった。信じるよ──
〈コード*I.N.R.I〉
〈システム:再実行〉
〈・・・・・・成功〉
木々の葉はすっかり枯れ、数ミリの雪が路上に積もらず溶けてなくなる季節。
本来であればそんな季節なのだろう。天井を仰ぎながら、カヤは雪景色に思い馳せる。
「はあ……」
空に絵の具が垂らされ、白い結晶がポタポタと落ちてくる。その一滴が頬をなぞった。冷たさも、ましてや感触もない。
「ここに居ましたか」
「もう少し、一人にさせてくれませんかね」
屋上で静かに風に当たるひとときは、来訪者によって慈悲もなく破られた。
「山積みの仕事を終わらせてからにしてください。その後であれば、好きなだけ一人になっていいですよ」
「終わる日なんて来ないじゃないですか」
「あなた次第です」
リン局長の呼びかけで、仕方なさそうにカヤは起き上がった。
先生が消息を絶ってからもう四ヶ月が過ぎようとしている。ゲマトリアは発信機の反応が消失したと言っていた。保護者暗殺が失敗したのは明らかだ。
「先生が帰ってくれば、私もゆったりとコーヒータイムを楽しめるんですが」
「無駄口を叩く余裕はあるみたいですね。では、行きましょうか」
ため息をする間もなくリン局長が足早と階段を下りていく。慌ててカヤもその後をついていった。二人の足音が階段中に空しく反響する。
先生は最悪を回避するためにカヤを代理として立てた。そして彼の思惑通りに作用し、学連は瓦解を免れたのだ。
しかし、状況は悪くなるばかり。平和的な配給もままならずに学連以前の混沌へ逆戻りしつつある。
「トリニティからの緊急要請です。反体制勢力の鎮圧を手伝ってほしい、と」
「またヘルメット団ですか……規模は?」
「前回の襲撃のおよそ十倍とのこと。トリニティを落としにかかっているのは間違いないでしょう」
「まったく、不良たちもよく飽きませんね。今すぐ使える部隊は?」
「FOX小隊を待機させています」
彼女たちの足は〈壁の目〉のある場所に真っ直ぐ向かう。
扉を開けると、すでに小隊の面々が準備を終えていた。カヤは隅のハンガーラックに掛けてある上着を取って羽織り、彼女には少々オーバーサイズな帽子を被る。
襟の立ち上がった白色のコート、左腕に巻かれた灰の腕章。それは〈先生〉の意志を継ぐ証。
「壁の目の座標を五一・五〇〇八、 マイナス〇・一四二二二二に設定」
職員が〈壁の目〉の横に備えられた装置に座標を入力する。目標地点はトリニティ本部。
「本日十三時。シャーレはトリニティからの緊急要請を受け、カヤ顧問及びFOX小隊に出動を命じます」
「了解。本件は地下秩序を脅かす重大な犯罪であり──」
カヤはセリフを中断し、〈壁の目〉の方を向いた。座標値の調整が完了したらしい。
「ま、長ったらしい口上は抜きにして、さっさと出動しましょう」
そう言ってカヤは壁に消えていく。FOX小隊も後に続いて壁のシミとなった。
「はあ……」
腰を掛け、額に手を置いた。リン局長の肩に疲労と責任が重くのしかかる。
先生を喪ったその日から地下は灯火を失った。青空を取り戻すなんていう荒唐無稽な夢は、もう見る影もない。
シャーレだけでは現状の好転どころか維持さえままならない。このままでは、もって半年がせいぜいか。
──もし私が先生なら、どうする──
「……RABBIT小隊に帰投の命令を」
「任務中ですが、よろしいのですか?」
「今回は明らかに規模が大きいです。
たとえ先生が帰ってこなくても、すでに死んでしまっていても。
──一人の生徒として……あの人たちの前で胸を張っていられるように、全力を尽くすだけ──
トリニティ本部。
「正面の防衛線が突破されました!」
「負傷者多数! もう持ち堪えられません!」
地響きが段々と近づきつつあった。これほどの惨状でも、守護者たちは固定者同士の争いを止める素振りを見せない。
「せめてシャーレが来れば……」
「呼びましたか?」
声のする方を見ると、シャーレの顧問が壁からひょっこりと顔を出していた。
「カヤさん!」
「状況を」
「はい。ヘルメット団を名乗る武装集団の襲撃に遭いまして、地下倉庫が大打撃を受けました。さきほど正面防衛線も破れてしまい、ここも時間の問題かと」
「把握しました。集められるだけの人員をここに。シャーレとトリニティの共同戦線を張りましょう。あと、士気向上のためにも前線に
「わかりました。それと、敵は火器とドローンを保有しています。注意してください」
「……ヘルメット団がそんなものを」
火薬や機械はM区でしか製造されていない。他地区では設備も技術も足りないはずだ。
M区でさえ火薬の密造がバレてしまうと守護者に差し押さえられてしまうために、生産量は少量に留まっている。ただのチンピラ集団が手に入るような代物ではなかった。
──どこから入手した? まさか、ミレニアムがヘルメット団に支援を……いや、それはない。なら自ら造って……どう頑張っても粗悪品のはず。武器として運用するには──
カヤは思考を巡らせ、納得のいく答えを得るには情報が足りないことを悟った。ひとまずは目前の問題が先決。
「FOX小隊は、残存兵力と共に防衛線を再編。正面から牽制しつつ、ステルスドローンで挟撃、これをもって敵勢力の無力化……つまり、常套手段ということです」
「FOX1、了解した」
四人のFOXは応答すると、ドローンを駆り出して廊下に駆けていった。
顧問もその後を追おうとしたが、一度足を止めて気に掛かった疑問をトリニティ幹部に投げる。
「そういえば、ナギサ会長はどこに?」
「ナギサ様はG区へ会談に行っています。ミカ様やセイア様との連絡は取れていません。不在の穴を突かれた形ですが、この情報は機密なのでヘルメット団が知るはずは……」
「彼女たちはずいぶんと入念に下調べしたようですねぇ……重要な情報、感謝しますよ」
カヤは帽子のツバに触れる仕草をする。そのまま廊下の方へ走り、すぐに背中は小さくなっていった。
「た、助かりましたね……シャーレが味方についたからにはもう安心ですよ!」
「いえ、気を抜いてはなりません。私たちも指揮を立て直さなくては──」
カヤは息を切らしながら、前線手前に辿り着いた。
「ぜぇっ、はぁ……」
「カヤ……もうちょっと体力作りしたほうがいいんじゃない?」
「うるさい、ですね……これでも成長、してるんですよっ……」
上司の情けない声に呆れながらも、FOX4はスコープから目を離さずに集中する。
「……ふう。FOX1、報告を」
〈挟撃には成功し、敵勢力は撤退した。ただ、逃げ方からして戦意喪失ではなく意図した退却に見えた。明らかに統率が取れている〉
──今までにない規模の襲撃、会長不在の隙を突いた計画性、さながら軍隊のような動き方──
「どうやら、裏に大物がいるようですね。正面戦闘はトリニティに任せ、私たちは指揮系統を叩きましょう」
〈こちらFOX3、敵の通信機を奪取。これで司令部の位置を割り出せるはずよ〉
シャーレは道中に適宜遊撃を挟みながら発信源まで向かう。しかし援護するまでもなく、ヘルメット団はさきほどの退却を皮切りに、次々と退いていった。
「なんだか呆気ないわね」
「気を緩めるな。なにか狙いがあるのかもしれない」
数分後。彼女たちは発信源のある部屋を視界に収めた。
「……くそっ、ここもじきに撤退か」
「問題ない。我々のやることは済んだ」
刹那、爆発音と共に扉が跡形もなく消し去る。粉塵の中から、五人の来客が姿を現した。
白のコートをたなびかせ、顧問が口を開く。
「問題ない……やることは済んだ……ですか。その話、私たちにもぜひ聞かせてほしいですねぇ?」
「シャーレ! なぜここが──」
その言葉を吐ききる前に、部屋は鎮圧された。おっかない武装で身を固めていても、
拘束されても強情な態度を崩さない小柄な少女を、カヤは問い詰めることにした。
「では、さっさと教えてください」
「ははっ、なにをだ」
「とぼけないでくれますかね。今までの
「我々は我々の意志で──」
顧問はすかさず腹に蹴りを入れる。身動きが取れない状態で食らえば、たとえ貧弱なものでも効くだろう。
「あなたたちのような不良を名乗る輩が、こんな惨事を統率なしにできるわけがないでしょう。裏で糸を引いている人がいますね」
「ぐぅ、ぅっ……」
「早く吐いたほうが身のためですよ」
「だれ、がっ、屈するかぁっ……」
「ニヤニヤ教授だ」
口を閉ざしていた大柄な不良が、庇うように口を割った。
「おまっ、なにを……」
「知っていることは全部話す。だから、それ以上はやめてくれ」
「いいでしょう。そのニヤニヤ教授とは、一体誰ですか?」
「三ヶ月前、先生が消えたって騒ぎになり始めたころだ。ニヤニヤ教授と名乗るやつがやってきた。あいつは俺たちに基礎的な兵法とやらを教えてくれた。それに、火器の扱い方も。この日に会長が留守にしている情報を教えてくれたのもあいつだ。どうやって情報を仕入れているのかは、俺も知らない」
不良はぺらぺらと語る。こうもあっさり情報を漏らすあたり、まだ素人に毛の生えた程度のようだ。
──ニヤニヤ教授。真偽のほどは他のヘルメット団員にも尋問して確かめましょうか──
「……くく、は、ははははは!」
この窮地に、小柄は高笑いしだした。
「なにが可笑しいんですか」
「やることは済んだって言っただろう? トリニティを落とせりゃもっとよかったが、お前らをおびき寄せただけでも御の字なんだよ!」
──ここまでトリニティを追い詰めておきながら、私たちが援軍に来ると徹底抗戦もせずにあっさりと手を引いた。それに、私たちをおびき寄せた? いったいなんのために──
「──まさか、狙いはシャーレ」
顧問の言葉に、FOXの面々は一瞬だけ毛を逆立てた。
「本部へ急ぎますよ!」
「了解!」
立ち込める黒煙の中からゆらりと人影が生まれる。狐の面を被った少女が、シャーレ局長の前に立った。
「うふふ、〈壁の目〉は破壊させていただきました。これであなたもお終いですね」
「……生徒同士でこんなことをしている場合ではありません。武器を下ろしてください」
筒先を向けられてもなお、リンは汗一つ垂らさずに説得を続ける。しかし、その言葉が狐の心に届くことはなかった。
「あなた方も多少の自覚はあるのでしょう。学連のやっていることは、もはや保護府のそれと変わりありませんわ」
「だから、学連を壊滅させると? 混沌に戻ってもいいと言うのですか」
「少なくとも、政治遊びに耽っている現状よりも良いものだと思いますけれど」
筒先はブレない。説得の余地はないようだった。リンは息をつき、両手を下ろす。
「私たちは、先生たちが継いだ火を絶やさないように、ここに立っています。引き下がるわけにはいきません」
「そうやって先生の威を借りて……その態度が、不愉快極まりないのです」
狐は引き金を引こうと人差し指に力を入れた。火薬は爆ぜ、弾丸が押し出される。
しかし、弾はリンの足下に着地した。さっきまで胸に狙いを定めていた筒先が、何者かの手によって下ろされたのだ。
骨張った手が狐の少女の手を取る。
「〝ワカモ、暴力はいけないよ〟」
「その声、そのお姿……あ、あなた様は」
大きな背丈に浅いシワの入った顔。髪には白髪が混じっている。もちろん、ヘイローも忘れずに取り付けていた。
「あなた様っ、あなたさまぁっ! もう、もう二度と会えないものかとっ……」
「〝積もる話は後にしようか。まずは、この騒ぎをなんとかしないとね〟」
「はいっ、あなた様が仰ることなら、何なりと♡」
ワカモは思い人の望み通り、鎮圧のために部屋を飛び出していった。呆然としながらも、リンは言葉を振り絞ろうとする。
彼女の目前にいるのは、たしかに待ちわびていた人だった。なのに、まるで別人のような気配を感じる。
藁にも縋る想いで、その名を一音ずつ発した。
「せん、せい……?」
その名に反応するように、彼は目線を合わせて微笑みかける。
その目に、光はなかった。
「〝や、リンちゃん。久しぶり〟」
自己対話シーンだけで三分の一あるんですよ。
バカみたいですね。