元生徒たちは青春物語の夢を見るか?   作:転倒

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総集編・加筆修正版です。
全部合わせたら15万字オーバーしてしまったので、前書きに第一話と後書きに最終話と避難させました。
※残酷描写や死亡と表現可能な描写あり
※オリジナルキャラ複数あり






 ユートピアの社会には、
 われわれの社会においても
 そうあることを
 期待したい(スペラーリム)というよりも、
 正しくいうならば、
 希望したい(オプターリム)ようなものが
 たくさんあるということである。

  トマス・モア「ユートピア」二宮敬訳



目次

 第一部 ああ、すばらしき新世界

 第二部 滑らかなクリーム色の紙 

 第三部 われら異なる者     


 第四部 永遠平和のために

 第五部 同一性と差異性

 第六部 非学園、非青春、非物語




ああ、すばらしき新世界

〔追記〕私はキヴォトスが未来永劫、
    美しいままであることを祈る。
    その一助のために、私は
    この顛末(てんまつ)を物語として記した。


 ──青色の空。ペンキ塗り職が誤って塗料缶をひっくり返したような、どこまでも続く明度の高い青色の空。たしか五年前に夢は「記憶の整理と定着の作業風景」だという話を見聞きしたことがある。
 だが、私は人生でこんな景色を見た覚えはなかった。こんなにも猥褻(わいせつ)な色があるだろうか? まったく冗談じゃない!
 ああ、だが。こうも聞いたことがある。そう「本来の空は青色(なんて恥ずかしい響き!)」である、と。それが事実なら、なんと自然はこうも下品で醜悪だったのか。
 無数の作為が無秩序に跋扈(ばっこ)しているのが本来の世界なら、やはり保護者は正しい。このことを公に言えば二重表現(﹅﹅﹅﹅)だと指摘されるほどには、正しい。
 ああ、無常。その保護者でさえも自然を駆逐しきれずにいる。現にこうやって青色の空があるのだから。
 すなわち、私の意識の奥底で自然が息を潜めている。今にも私を狂気に引きずりこもうとしているのだ。恐ろしい!
 私は思わず目をつむった。ぎゅっ、ぎゅっとまぶたに力を込める。すると、込めすぎたあまり眼底に激痛が走った。慌てて目を開けると、真っ暗闇。
 秩序的な心象風景にほっと胸を撫でおろしているうち、なにやら地面が小刻みに揺れはじめて──

 身体が内側から揺れ動く。義務として埋め込まれた体内時計盤(BCF)が宿主を起こすために、必死に全身を震わせているのだ。
 ほぼ、いや同時刻に。
 ほとんど、いや全ての市民が。
 そうやって身を揺らされている。そんな事実を思うと、キヴォトスが単一の生命体であるということを思い出させてくれる。
 今まさに、キヴォトスの細胞一つ一つが覚醒しつつあった。
 エックハルトもその内の一人である。「勤勉な細胞あれば怠惰な細胞あり」ということわざがあるように、彼は実にマイペースだった。
 目が覚めてから数分後。多少は身じろぐも、起きようという気概はまるで感じられない。義務違反手前まで惰眠を貪るのが、エックお決まりのルーティンであった。
 ひんやりとしたタイル敷きの床に両足をつけると、ようやく小煩いBCFが口を閉ざす。あんな気味の悪い夢を見たというのに不思議と汗はかいておらず、妙にすっきりとした気分がエックの心を包んでいた。
 起床後、人々は奉仕のために外出の支度をしはじめる。()はじ(﹅﹅)()()、この表現は誤解を生むかもしれない。
 部屋の一角にたたずむ角のないボックス。七時半(データベース曰く、到着誤差は三二秒以内)には必ずガタンと音がする。蓋を開けて覗いてみれば、そこには奉仕道具が用意されているのだ。
 カバンや靴は新品同様の輝きで、端的に役職を示している赤色の服にはシワひとつない。必要なものすべてが新鮮なうちに届けられる。
 ここでいう支度とは、出かける意思と袖を通すことを指す。

 エックの細っこい身体は薄い膜のドアをするりと通り抜け、延々と長ったらしい廊下に出る。
 機械仕掛けの生真面目連中がさっさと出掛けてしんと静かになった空間。こういった空間を、エックはとくに好んでいた。
 しかし、その日はそんな美しい静寂もズタズタに引き裂かれてしまった。エレベーターホールの方角へ一歩踏み出すと、ひどく酸っぱい悪臭が鼻孔を刺す。
 隣人が酒を浴びすぎたらしい。カーペットは健気に吐瀉物を吸収し、表面上は正常であるように見せかけている。
 むかつきを催す強烈な臭いと、それを誤魔化すために散布された芳烈な匂い。それらが混ざりあって、内廊下を掌握していた。
 過酷な奉仕のためにアルコールとカフェインの摂取が許されている〈協力者〉でありながら、この体たらく。
 罰則は三か月間の飲酒チケット停止と奉仕活動の謹慎だとエックは推測してみた。
 くだらない思考遊びをしているうちに、下降感は失われてチーンと音が鳴る。ランプが緑色になったのを一目見てから薄い膜扉を抜けた。
「いってきます」
「エックさん、気をつけてらっしゃいね」
 翼をパタパタさせて見送る管理人と義務最低限のコミュニケーションを交わす。
 エントランスを出ると、まばゆい光に彼は歓迎された。
 陽光はザラザラとした道路をこれ見よがしに照らしている。雲は規則的な配置のまま頭上を抜けていく。
 エックは二本の赤いラインが入った車に乗り、キーを回す。まばたきを五回しているうちに、轟音と共に高度を上げていった。
 緑色に光るランプが、姿勢制御は正常に機能していることを搭乗者に伝えてくれる。ほどなくして空域道路へと合流した。

 ──やはり安心する。そうこの色、この色なんだ──

 空はいつも通り、どこまでも透き通った灰空だった。



教授(マイスター)、ずいぶんと元気がないですね」
「その仰々しい呼び方をやめたら、幾分かマシになるよ」
 エックハルトの講義が終わって広場に人気がなくなると、一人の受講者が彼に声を掛けてきた。
 横に長い円柱型の頭に、まん丸の目がチャームポイントのロボット種。エックにとっては数少ない友好者でもある。
「これは失礼、エック。あなたらしくなかったのでつい。どうして、そんなに上を見ているのですか。空にお肉でも?」
「キミが食いたいだけじゃないか、それ……いやなに、嫌な夢と起き抜けのゲロ臭さでナイーブになっただけだよ。隣室のアル中のせいだね」
「廊下に漂っていた、と」
「そう」首を縦に振った。
「吐いた現場に出くわしたんですか」
「いや」首を横に振った。
「なら隣人とは言い切れないのでは」
 正直なところ、あの悪臭の原因が隣人である確証はなかった。エックは面倒そうに頭を掻きながら、語気を強くして反論する。
「いや、あれはあの禿げ頭に違いないね。近所にいる酒飲みはあいつぐらいだし」
 真実がなんであれ、大事なのは不快感で汚れた記憶の共有と精算だ。協力者が酒に潰れた真実こそが、シンプルで分かりやすい生け贄の山羊(スケープゴート)だろう。
 意図を察した受講者はカメラレンズからキュルキュルと音を発しながら付け髭の位置を直し、それ以上の追及をよした。
「まあ、それは災難でしたね。嫌な夢というのは」
「嫌な夢。そう、あれは……」
 エックは声のトーンを落とし、周りの視線を確認しつつ、そっと夢の内容を伝える。
()()()()──なんて下品な。そんなものが頭上を埋め尽くすなんて!」
「散々な夢だったよ。起きたら汗でぐっしょり。BCFのおかげで助かったけど」
「汗でぐっしょり、ですか?」
「当たり前だよ。あんな気色の悪い色──」
「にしては、ずいぶんと楽しそうに語っていますよ。口角も平時より〇・七度だけ上がっている。本当に、気色の悪い色だと、心の底からそう思ってますか?」
 ロボットは一滴の嘘に感づいたかのように、冷たいレンズが目の奥を覗こうとする。奥へと奥へと進み、当人さえ自覚していないエックの真意を──
「おーい、デカルト。そろそろ時間だろ」
 遠くにいる痩せこけたロボットが声を掛ける。彼らは同様の白い服を着ていた。白はその者の奉仕が取るに足らないものだと表しているのだ。
 デカルトは奉仕チケットを取り出し、時間を確認する。レンズはまた友好者の目に戻り、そのロボットのほうを向いた。
「じゃあね、デカルト」
「ええ。同じ夢が続くようであれば、早めに病院で診てもらったほうがいいですよ」
 最後の受講者が去り、広場は長い静寂に包まれる。エックは胸ポケットからモーセを一錠だけ取り出して、口の中に押し込み奥歯で噛んだ。
 〈預言者〉が口膣ではじけ飛ぶ。数分だけ自分の世界を堪能すると、カバンを手にエックも講演広場を後にした。

 スケジュール再確認のために耳裏を押すと、柔肌の下に隠されたパネルが反応する。エックの目前に半透明のスケジュール表が現れた。
 昼食時間は十二時から数えて三十分以内。時間外の食事は休養チケットを使わなければ違反となる。
 場所はA区εブロックの共有食堂。担当は柴。獣人種の柴犬族。ここから車で十分、現時刻の表示は一一時五五分。エックはアクセルを担う足に少しだけ力を加えた。
 見上げれば灰空の風景に馴染む巨大ピラミッド群。下を見れば真っ白なキャンバスに白色で厚塗りされた世界が足早に過ぎていく。
 あまりに色が統一されているので、疾走感はなかなか得られないのが難点だった。点々とある街路樹のみが車乗りに寄り添ってくれる。

 食堂は相変わらずの賑わいで、ロボットも獣人も入り乱れてごった返していた。
 むせ返るような熱気の中でエックはどうにか人波を掻き分け、奉仕員に食事チケットを渡す。
 銀色のトレーを持った人々がお行儀よく一列に並んで、食事奉仕員が忙しく牛乳パックと盛り付けられた食器を置いていく。置いても置いても列は長蛇のまま。
 ようやく昼食を手に入れたエックは端っこの席に着き、ただ一人で黙々と食べ進める。隣にも前の席にも、誰一人として座ろうとはしない。
「あれ、()()()のマイスターじゃない」
「初めてお目にかかるが、思った以上に不気味だな。まるで()()()みたいじゃないか」
「でも教授ってことは頭が良いんでしょ。なら、あの野蛮人たちとは違うわ」
「どうせ小狡い手を使ったんだ。そのうち降ろされるさ」
「俺の同僚が言っていたぜ。輪抜けの講義は回りくどくて、お粗末だって」
 嫌でも耳に入ってくる雑言。この言われようも仕方のないことで、エックの身体的特徴はまるで〈固定者〉のようだった。
 毛深くもなければ、鉄の肌でもない。長い腕と長い足に細い身体。ヘイローがないおかげで社会からの逸脱は免れたが、彼は孤独だった。
 周りからの目に耐えながら教授(マイスター)の名を冠しても、依然として彼は孤独だった。
 黙々と冷えた肉スープをすする。口の端から漏れた汁が顎を伝って、教授であることを示す象徴的な赤色の服に一滴垂れた。
「教授なんてひねくれ者ばっかよ」
 ──まあ、あながち間違いでもない──
「だが、思考講義は大事だろ。『思考から真実は生まれる』って」
 ──受講者か。名乗ったら内申点でもあげようか──
「私からしてみれば、あんなものは前時代の名残りさ。文字教育と同じように淘汰されるのを待つだけの、のろまな鳥(ドードー)だよ」
 ──どうだか。少なくとも、用済みになるのは私が引退した後だと思うが──
「あいつ、協力者になれないからって教授になったんだろ。はっ。ろくなやつじゃない」
「もう四度も受けたんですって。『一度こぼせば諦めろ』って言葉、知らないのかしら」
()()()がそんなこと知るわけないさ。野蛮人は手術を受けられないんだから──」
 プラスチックのスプーンを置いて、手を合わせる。エックが席を立つと指揮棒を下ろしたかのように周りのざわつきも止んだ。五拍置いて、また喧噪が取り戻される。
 トレーを返却口にそっと置く。エックは食事奉仕長の柴に一言だけ礼を伝え、チップ代わりのモーセをこっそり二錠だけ手渡した。
 彼がここの担当になってから、エックの配膳量は三年ぶりに通常へ戻ったのだ。

 午後の講義もつつがなく終わり、マイスター・エックハルトは呆けていた。全員が立ち去るまで待つのがポリシーであった彼は、モーセを砕きながら世界に浸った。
 肌身と空間の境界線が崩れていく。自他という概念は死に、絶対的な〝私〟が生まれる。細胞同士は膜や壁なんていう煩わしい枷を乗り越えて、一つ。
 その子宮の中での安らぎは、エックの心を埋めるにはこれ以上ないほどに適している。
「おじさん。さっきの話……質問いい?」
 黄昏から戻ってくると、目の前に少女──いや、固定者がいた。
 ヘイローが頭の上で白く光る。耳がピコピコと動き、目を輝かせていた。
 右目は腫れている。医師でなくてもそれが打撲傷だと診断できた。石も投げられたのか灰服の至るところが切れていて、白い肌に引かれた血の線がちらりと見える。
 その痛々しい姿を見てエックは思わず顔を背けてしまった。相手が固定者だから、という理由もあるが。
「あー、キミ。聴講チケットはあるのかな」
「ん、ない。外から聞いてた」
 そうだろう、とエックは頷いた。聞くまでもなく、聴講チケットなんて持っているわけがなかった。固定者に権利(チケット)なんてない。
 ──居住区外を出歩けるなんて半端な自由を与えてやらないほうが、固定者たちのためにもなるだろうに──そんなことを思いながら、エックはこの固定者を追い返すためのセリフを練る。
「学問に興味を持つことは否定しないよ。知性を持つ者としてはいい心構えだね。今回は、外からチケットなしで聞き耳を立てたことには目をつむってあげよう。わかったら立ち去ってほしい」
 この言葉に嘘はない。実際、このご時世で学問に励む者は少ない。エックは補助チップが埋め込まれたこめかみ辺りをトントンと指で叩く。
 このチップは保護府の〈データベース〉にアクセスするための鍵。おかげで流動者はいつでも好きな情報、好きな学識、好きなゴシップを得られる──

〈検索:PTA名誉表彰 公開表彰式 日程〉
〈情報取得中……完了〉
〈保護歴一一九年三月二九日一二時〉

 ──こんな具合に。この瞬間にも世界の端に咲く花、その種類と本数さえ知ることができるのだ。
 しかし、それゆえに自らの脳を働かせる気は起きづらい。そういう意味ではチップのない固定者のほうが探究心は残されていた。
「でも」遮るように右手を伸ばす。
「申し訳ないけど、こちらもしょっぴかれたくはないんだ。ここらでお暇するよ」
 気の毒に。エックはそんな哀れみの目を容赦なく固定者に向けた。それでも固定者はまっすぐな輝かしい(まなこ)を崩さなかった。
 彼は少し戸惑ったが、構わず横を通り抜け去ろうとした。
「真実は複数あるって、どういうこと? 真実は一つだと思うけど」
 その素直な疑問にエックは一度立ち止まり、また歩きだした。



「──以前、受講者(﹅﹅﹅)からこんな質問をもらった。『真実は一つなんじゃないか』、と。答えを伝える前にその者は去ってしまったので、この場を借りて今一度、私の見解を教えておこう。真実が一つだと言うのは思考錯誤だ。私たちが一つだと思っているものは、実際には万人が別々で抱えている個々的真実を全体的真実だと誤認しているだけ。噂について考えてみてほしい。噂は時として、信憑性に欠ける。しかし、そういったものから往々にして真実が生まれるものだ。『Aは試験に受かった。きっとズルをしたに違いない』、『Aは試験に受かった。きっとたゆまぬ努力が実ったのだろう』、どちらも思考から生まれた真実だ。たった一つに見えてもその実、互いに異なる真実を内包する、不安定な状態に陥っている。そんな数え切れない真実を、もし統制できたら? 『Aはズルをした』と『Aは努力をした』という相反する真実を対立させずに済む。考えてみてほしい。真の意味での全体的真実が達成された、明日の理想郷(キヴォトス)を」

 白。白。赤。白。紫。白。白。白。
 講演広場の外で行き交う人々の衣服、そして顔を一人一人、瞳孔の色までじっくりと探る。
 あの大きな耳を携えた銀髪の固定者が、もしかしたらまた性懲りもなく来るかもしれないからだった。
 エックは自分の顔が気味悪いにやけ面になっていることには気付いていないし、そうなっているとは思いもしない。
 もし来たら、とりあえず質問だけ聞いて、一瞥もせず立ち去ってやろうと教授は意気込んでいた。そしたらまた、明日。

 ──なぜ、私はこんな浮かれた気持ちなのか。相手は年端もいかない、しかも固定者ときている。日をまたいでいるとはいえ、疑問にまで答えてしまった! また変な噂が立ってしまったら──

 固定者は来なかった。主観を捨てさえすれば、これはエックにとって良いことだった。なにせ、大事な〈名誉試験〉がもう一週間後に差し迫っていたのだから。
 不当に貼られたレッテルを、糊跡さえ残さずにキレイさっぱり剥がす絶好のチャンス。
 名誉試験から見事、協力者に抜擢されれば何もかもが覆る。デカルトだって、輪抜け呼ばわりしてくる獣人共だって、これまでの態度を恥じるだろう。
 みんなを見返せることにエックは喜びを見出そうとした。しかし脳裏に浮かぶのはあの固定者の、好奇心の宿った目だけ。
 ため息を吐ききる間もなくマイスターはモーセを三錠ほど口に含んだ。

 エックが帰路を歩いていると、彼に気付いた人影が慌てて逃げていった。
〈固定者〉
〈教授を名乗るな〉
〈居住区に戻れ〉
〈輪抜け!〉
 自室のドアに貼られた罵倒たち。こんな幼稚な嫌がらせのために、わざわざ購入権利(チケット)で紙とペンとテープを用意するとは驚きだ。
 エックは文句も垂れず、拙くうねった字で書かれた張り紙を一枚ずつ丁寧に撤去した。
 文句を垂らしたところで〈守護者〉がまともに取り合ってくれないことは目に見えているからだ。残念ながら、このボロっちい廊下に監視カメラは配置されていない。
 壁に直接書き込まれた文字も清掃奉仕員が一週間のうちに消す。義務のおかげで、手を抜いた奉仕は許されない。
 自室に入って丸めた紙を廃棄口に投げた。それから足が自然と洗い場へ向かう。
 うがい、手洗い、洗面。いつものルーティン通り、水に濡れた白髪(しらが)交じりの髪を拭いた。
 心地の悪い椅子に座り、ごちゃごちゃとした引き出しの中からUSBメモリを取り出す。さっと襟足を左手でどかして後頸部のポートに挿した。
 エックの過去四度に渡る名誉への挑戦、つまり失敗の履歴が脳内に洗いざらい流し込まれる。
 彼にとって普段は思い出したくもないものだったので、こうやって外付けで保存していた。

Q:保護者の存在理由を答えよ。

A:破滅への道を歩む人々を戒め、救世のため存在する。

 不合格。

Q:社会を何と心得るか。

A:より善いものへと前進し続ける共同生命体。

 不合格。

Q:流動者と固定者はなぜ分けられているのか。

A:固定者は不安定な自我や暴力的性格を有し、社会に害する危険性があるため。

 不合格。

Q:同化計画の最終目標を考察せよ。

A:人種格差を是正した、平等社会の完成。

 不合格。不合格。不合格。不合格。
 エックはうなだれる。名誉試験の問題はどれも意図が曖昧で、明確な正解が用意されていない。保護者が求める答えにより近い者が協力者に選ばれるのだ。
 人として聡いかではなく、保護者をより理解していてより忠誠的であるかを測る試験。傾向と対策なんてものが入る隙間はない。一発勝負ともいえる内容。
 エックはうなだれる。世間一般では「一度こぼせば諦めろ」というのが常識だった。協力者になったところで生活が豊かになるわけではないから、何度も受ける人はそう多くない。
 とはいえ、彼のような名誉欲しさに諦めきれない者もいた。
 教授として培ってきた思考を駆使して保護者の真意を読み取ろうと試みる。エックの真実と保護者の真実、相違点を考察し、擦り合わせ、合致させる。
 義務就寝時間のすれすれ、罰則手前まで思考を止めることはなかった。勝機が見えてきたそのとき、眠気も臨界点を迎えた。



 ──青色の空、青色の空……青色の空。またか、いい加減飽きてくる! 無秩序に生える花々も、いよいよウンザリだ。
 そしてそこには少女の姿。あの狼か犬かの耳を持ち合わせた少女だ。
 しかし、この前とは様子が違う。背丈も高いし、発育もいい。十字のヘアピンも汚れ知らずでピカピカ。
 それにあれは……まさか、銃? なんてことだ、やはり固定者は暴力的人種で間違いなかった。破滅の象徴たる銃を、百年も前に絶滅した野蛮を未だに大事に抱えているなんて!
 いや待て。私は()()()()()()()ことがある(﹅﹅﹅﹅﹅)。この懐かしさ──

 当日。エックは珍しくBCFが鳴るとすぐに起きて支度を始めた。受取ボックスを開き、真っ黄色のコートを着て、識別票を腕に巻いた。
 会場の座標値を記録したUSBメモリを後頸部に挿すと、視界上にピンが現れる。思っていたよりも会場は近かった。彼はなんとなく、自分の足で行ってみることにした。

 いつもは車移動だからか、道のりがどこまでも長く感じられる。
 普段なら優しく暖かな光を与えてくれるはずのお日様は、焼けるように暑い日差しを歩行者の頭上に降らす。
 真っ直ぐ線を引いているはずの歩道は右へ左へグネグネと曲がっているように見え、歩いているはずなのに静止しているかのよう。それら矛盾する歪な感覚は、エックに悪寒を与えるのには十分であった。
 ──もしかしたら、このままいつまでもたどり着けないのでは──そんな間抜けな結末が頭によぎっては、エックは今朝の選択に心の中で後悔するばかりだった。

 頭上を車が飛び交う。歩行者は少ないが、閑散というほどでもない。月間の義務歩行時間の達成のために徒歩を選ぶ人もいる。
 エックと同じように、その友好者(デカルト)もまた歩いていたのだ。
「エック」
「……やあ、デカルト」
「また受けるのですか」
「分かってるよ、言いたいことは」
 エックにとっては今一番に会いたくなかった人物だ。黄色の外套は受験者が着るもので、ばったり会ってしまうと誤魔化しようがない。
 受験者はばつが悪そうな顔のまま応対する。
「でも協力者になれば、みんな私を見返すはずなんだ」
「あなたはもっと自信を培ったほうがいい。教授(マイスター)だってそうそうなれるものじゃないんですから」
「そうだね。結果、晴れて私は『輪抜けのエック』から『輪抜けのマイスター』と呼ばれるようになったわけだ」
 無論、すべてが無駄だったわけでもない。物を投げられたり階段を突き落とされたりしていた嫌がらせも、陰口と張り紙だけの可愛らしいものになったのだから。
「なら、次は『輪抜けの協力者(コペレター)』ですか? 気にしすぎですよ。あなたの思考論は画一的だ。もし同化計画で採用されれば、人と人との繋がりを強固にして、保護府の掲げる永遠平和の実現もより近づくでしょう」
「そう評価してくれるのは……キミぐらいだ」嘘。
 エックの思考論に耳を傾ける人物として、まず頭に浮かんだのは十数年来の知り合いではなく、少し言葉を交わしただけの固定者の姿だった。
 彼は自らの軽薄さに驚き、言い淀んでしまった。苦しい沈黙。
「試験前なのに、気分を害するようなことを言ってしまいましたね。申し訳ありません。気休め程度の言葉にしかなりませんでしょうが、応援してます」
「ありがとう」
「それと、エックのことが気になっているという方とお会いしました。あなたさえよければ明後日にでも紹介できますよ」
「……考えておこう」
 友好者の去る背中を見ることなく、早足で去った。

 会場が目前に確認できるところまで来た。百年前の人々が見たら、あまりの殺風景さに言葉を詰まらせるような外見だろう。
 こういった建築様式も見飽きていて、そろそろ古典主義に立ち戻るのもありなのではないだろうかと、エックは余分な思考を手に余らせていた。
 音。彼は思わず足を止める。暴力的な音だった。すぐ横にある路地裏からだ。なんだってこんな日にと、エックの心が少しばかり痛む。
 痛むのはすぐ近くで行われている暴力を憂いているから、という訳もあるが、それ以上に無視せざるを得ないことへの罪悪感があった。
 視界に映されている、入場受付終了まであと三十分の表示。
 今から仲裁に割って入り、当事者たちを最寄りの交番へ連れて行き、そこから会場に間に合うだろうか──いや、違う。大事なことが抜けている。
 今の時代、流動者同士の殴り合いはない。ここ十年で発展してきた〈輪禍論(りんかろん)〉が理不尽の矛先を変えたからだ。
 固定者がわざわざ居住区外に出ることは少ないものの、一ブロック内で月に数件は起きているらしい。
 固定者が一方的になぶられるなんてのはざらで、交番にいる守護者もいちいち相手にしない。
 なぜなら、固定者は頑丈で、暴力的で、なんら権利もない野蛮人だからだ。誰も仲裁なんてせずに通り過ぎていく。
 むしろ便乗して不満を発散しようとする下衆だって珍しくはない。社会の軋轢を修復するための発散プロセスとして黙認されているのが現状だった。
「すまない」
 その黙認の社会システムを築き上げたのは、他ならぬ彼ら教授(マイスター)。それを恥じる道理はない。なぜ恥じる必要があるのか。
 だから、このまま何も聞かなかったことにして向かうべきだと、エックはそう結論付けた。
「……ああ、くそ」
 足は止まったままだ。車を選ばなかった今朝をまた後悔する。
 意を決し、路地裏に目を向けることなく足を早めて通り過ぎようとした。
「──だれかっ!」
 声。片手で数えるほどしか聞いたことのない声。しかし、エックにとって馴染みのある声。
 声のする方を見てはいけない。エックは心の中で何度も繰り返した。見てはいけない。見てしまえば、この三年間がおじゃんなのだから。
 試験に間に合わなくなってしまう。そうこうしている間にも時間は過ぎているのだ。
 手にできたはずの尊厳が目前で泡となる。掴めるかもしれなかった栄誉ある未来を逃してしまう。
 そうやってもっともらしい理由を並べ尽くしてもなお、彼の足は前へ進もうとしなかった。
 ──デカルト。私はキミが羨ましい。鉄の肌を持つキミが心底羨ましい。
 立派な翼を携えたあの管理人が羨ましい。
 毛並みが良く大きな耳を持つあの食事奉仕員が、心の底から羨ましいんだ。
 そうだ、見返してやる。認めさせてやろうじゃないか。醜い姿の私自身を。輪抜けと罵ったやつらに!
 そうだ、それに意味はあるのか。決まってるだろう。
 人々が掌返しで私に拍手を贈って、それで満足なのか。満足じゃないか、やめろ。これまでの努力は私を見下してきた社会に認めてもらうための、ただそれだけのためなのか。駄目だ、よせ。
 正気になれエックハルト。
 あの少女を見捨ててまで、私は──



 時間を確認する。十分。受付終了時間まで十分を切っていた。
 保健管理ブザーが聴神経に刺激を与え、けたたましい電気信号を流している。唇から垂れた血をぬぐう。黄色の袖が赤黒く汚れた。
 エックの姿が固定者と似ているのもあったのだろう。間に割って入り、すぐ顔面に一撃を食らってしまった。
 声をあげて人を呼んでも敵が増えるだけなのは分かりきっていたので、守護者沙汰にはしないよう彼はただサンドバッグになって彼らの気が済むまで堪えた。
 金属由来の蹴りではないだけよかったものの、それでも無事では済まなかった。身体じゅうに痛みが走り、立つのもやっとな状態。
 足を引きずって間に合う距離ではないことを、エックはすぐに悟った。
 それでも脳裏に後悔の二文字はない。
「ん、ありがとう。ケガは平気?」
「平気だよ。あー、何年ぶりのケガだろうね。しかも、殴られてできたケガだなんて……痛っ」
「私はしょっちゅうケガしてる。余ったビスケットを、誰が食べるかでケンカしたり」
「そう。自分の主張を通そうとするのはいいことだけど、暴力より話し合うのがオススメだね」
「次からは、そうしてみる」
 彼女の妙な聞き分けのよさに、拍子抜けたエックはつい笑ってしまった。
 服についた埃を払う。さてこれからどうしたものかと思案した。
 少女は隅に蹴飛ばされたのであろう鉄の棒を手に取り、状態を確認している。
「それ、キミのかい」
「ん、護身用。街に出ると危険な目に逢うから。でも折れちゃった」
 名残惜しそうに、少女はお気にだったそれを手放した。カラン、と音を路地裏に響かせる。ついに護身の役目を終えたのだ。
「おじさん、この後は暇?」
「そうだね。ちょうど予定も空いたから」残り七分。
「ならついてきて。お礼がしたい」なんともキラキラした目。
 エックは少し戸惑って、少し考えた後、軽く頷いた。ピッピッと首のパネルを押して会場の座標データは削除し、腕に巻いていた識別票はビリッと破き捨てた。
 二つに裂かれた紙切れがはらりと落ちていく。
 彼は左足を庇いながら、少女の後を追う。二人は路地裏の奥へと進んでいった。
「さっきのおじさん、すごかった。私に覆いかぶさったまま三人からの攻撃を耐えてて。ホシノ先輩みたい」
「おじさん、じゃなくてエックハルト。エックでもいいよ」
「エックおじさん」
「……そういえば、キミの名前を聞いてなかったね」
 少女は立ち止まる。踵を返してエックと目を合わせた。ずれ落ちたマフラーの位置を直し、口を開く。

「──私、シロコ。よろしく」


加筆修正版
総集編(加筆修正版)


 ──白を基調とした建物の外壁が、次第に薄汚れた灰色にまみれていく──

 そんな様子をエックは想像していたが、その幻想は次第に色あせていった。どれほど奥へ、奥へと歩こうが、鼻につくようなカルキ臭が追ってくる。

 路地裏でさえ秩序的な配色は崩れず、昨晩に洗って今朝に乾いたばかりのタオルのような清潔さを保っていた。

 もっとも、この(たと)えは洗濯奉仕を経験したことのない彼には到底思いつかない。

 混沌としていてハレンチで生臭い──そんな退廃的風景を期待していたのか、エックは少し肩を落とす。

「着いたよ」

 その一言に不意を突かれたエックは困惑した。〝着いたよ〟と言うには、それらしきランドマークが見当たらないからだ。

 シロコは白い海にぷかぷかと浮かぶ灰色の壁面を前に立ち止まっている。

「えっと。それ、ただの壁じゃ」

「ん、ここを回すと開く」ガチャリ。

 取っ手らしきものをひねると、外壁の一部が音を軋ませながら重々しく動いた。

 エックは口をぽかんと開けたまま、唖然といった様子で眺める。

「壁が、開いた?」

「? これはドア」

「いや、ドアって言うのは……こんな手間のかかるドアなんてあるのか」

 文明人の発言にシロコは疑問符を浮かべる。膜状で取っ手知らずの扉しか知らなかったエックにとって、ここから先は未知だった。

 保護府の〈データベース〉にはない過去が大手を振って歩く、忘れられた世界。この扉の先にあるものに対して、エックは期待を胸に膨らませる。

 ()()が開いた先には、下へと向かう階段が続いていた。しかし、あまりに長い。段数を数えようなんて無謀な挑戦は誰もしないと断言できるほどには、長い。

 大の人間が一人通れるかどうかの狭さで、暗くて足元は見えづらく、奥底に輝く一縷(いちる)の光だけが心の支えだった。

 エックは左右の壁を支えにしつつ、足裏で一段一段を慎重に踏みしめる。シロコが構わずささっと降りていくのを止めようとしたが、彼はすぐに置いてけぼりにされてしまった。

 暗闇も相まって、無限に続くような感覚に陥る。この痛めた身体で転げ落ちたらどうなるか、ぞっとする最期がエックをより臆病にさせた。

 

 ついに光へたどり着き、全身が白に包まれる。網膜が光に慣れてくると、エックは思わず声を上げてしまった。

「──なんて、広い」

「こっちだよ。みんなに会いに行こう」

 天井から冷たい人工光が注がれる、だだっ広い地下世界。均等に配置された天と地を繋ぐ支柱に、地上では見られない旧時代式住宅。

 そして、住人の頭に浮かぶヘイロー。

 

 

 周りを見回すと、ヘイロー、ヘイロー、ヘイロー。

 誰の肌を見ても、鉄製でもなく毛深くもない。エックと同じ柔肌。固定者であることを表す灰色を、誰もが身にまとっている。

 ヘイローを持たないエックだけがこの空間において異質で、水の中に一滴のインクを垂らしたかのように目立っている。上でも下でも、この孤独感は変わらなかった。

「ここの地名は、上と同じA区?」

「ん。今歩いてる道路はA-β17」

「向かってる場所は」

「A-4-17-52」

「そこが、キミの住んでいるところ?」

 気になることはなんでも聞いてみるのがエックの性分だった。だからこそ、教授資格も難なく取れたのだろう。

 何を食べているのか、服は毎日支給されるのか、移動手段は何があるのか、銃はあるのか。

 キューアンドエーが小気味よく消化されていく。エックの好奇心をほどよく満たしていった。

 しかし、肝心の彼が期待する答えはない。

「ない。見たこともない」

 ──なら、あの夢で銃を持っていたのはなんだったんだ? たしかに、この子が持ってないのは鉄の棒を使っていた時点で分かったことだ。

 もしかしたら、固定者の野蛮性からイメージした姿だったのかもしれない。

 しかし、見たこともないとは! いや、それは私も同じはず。銃なんて見たことがない。

 なのに、なぜ私はあれを銃だと──

「……ならいいんだ。そのほうが平和だからね。地上にはどれぐらいの頻度で出るの?」

「あまり頻繁には行かない。体を動かしたいときだけ。最近は、おじさんたちに頼まれたから」

 では、あのとき広場に来たのは寄り道だったのかとエックは得心した。

 おじさんたちというのが誰なのか、妙に引っ掛かる。が、もし自分と同じ〈流動者〉たちのことなら、あまり胸糞のいい話ではない。彼は深堀るのをよした。

 

 シロコが道路の真ん中で急に立ち止まる。エックは不思議に思って声を掛けようとしたところで、周りの人々が上を見上げていることに気付いた。

 原住民に倣い、彼も天井を凝視する。

「……あれは」

「定期供給。アヤネに頼まれてて」

 天井がゆっくりと開く。その荘厳な様子は、まるで空に穴がくり抜かれたようだった。よく目を凝らしてみると穴は一つだけではなく、地平線の先まで等間隔に何千と開いていた。

 底の知れない暗闇から、すっと大きな手が現れる。昇降機が地上へ根を下ろそうとしているのだ。その手には、灰色の大きな箱が大事そうに抱えられていた。

 ふと周りを見渡すと、何メートルもの壁がせり上がって人々を囲っていた。どうやら、定期供給はエリアごとに区切られているらしい。

 ガーッ、ガコン。その場にいた全員が黒い箱を固唾を飲んで見守り、異様な静けさが空気中を漂っていた。

 箱の包装が解けて、食料が見えるや否や、その場にいた全員が一斉に飛びかかる。エックを除いて。

「おじさんも手伝って!」

「え、いや私ケガして──」

「どけ!」

 瞬間、エックは突き飛ばされた。両足は地面と悲壮な別れを告げ、肉体は華麗に宙を舞う。

 さながら、バレエダンサーか、フィギュアスケーター(当時キヴォトスにはどちらの単語も存在しないので、この表現は不適かもしれない)か。

 次のまばたき、地面と感動の再会を背中越しに果たした。保健管理ブザーが悶絶するエックの代わりに悲鳴をあげる。

 地面にうずくまったまま、彼は動けなくなってしまった。

 さっきの静寂が嘘だったかのように、喧噪が伝播していく。視界がぼやけ、音がだんだん遠くへ走っていった。

 ブザーの音。殴り合いの音。ブザー。蹴り。ブザー。ブザー。ブザー。

 

 

「──ねぇアヤネちゃん、これ死んでるんじゃない? ほんとに生きてるの?」誰かの声。

「まだ温かい。死んでしまったなら新鮮なうちに食べるべき」シロコの声。

「脈があるので死んでないですよ……。シロコ先輩は、もう少し反省の色を見せてください」これまた誰かの声。

「ん……」目を開ける。

「あ、起きた!」

 頭の内から殴られているような、脈打つ痛みで意識がはっきりしてくる。

 どうやら気絶していて、そのままベッドに担ぎ運ばれたようだと、エックはこの状況をそう仮定した。

 目の前にはシロコと、その仲間らしき二人の固定者がいた。なんとか身体を起こしてエックは目線を合わせようとする。

「えっと、キミたちは、シロコの……友だち?」

「まあ、うん。そんなところよ。私はセリカ」

「私の名前はアヤネです。シロコ先輩のせいで大ケガを負わせてしまい、申し訳ありません。当人にはしっかりと、反省させますので」

「ご、ごめん。上の人がこんなに弱いとは、思わなくて」

「言い訳になってませんよ?」

「ん……」アヤネという少女が強い子なのは分かった。

 何時間ほど気を失っていたのか、エックにはまったく判断がつかない。どうやら衝撃で体内時計盤(BCF)が壊れてしまったのか、視界の時刻表示は13:04で止まったままだった。

 窓の外が暗いのを見るに、地上もすでに陽は落ちているのだろう。天井の人工光は消灯していた。

 これが意味することは、地上にはもう戻ることができないという現実だ。

 

 エックは自分で血の気が引いていくのを実感する。

 ノコノコと地上へ出れば、確実に守護者がお迎えにあがってくれるだろう。

 彼が義務付けられた就寝時間を過ぎても自宅のドアを通過していないことは感知されている。

 いや、重要なのはそこではなかった。

 そう、致命的な問題は()()()()()()()()()ことだ! エックの顔はますます蒼白になっていく。

 

〈検索:固定者 隔離 居住区〉

〈情報取得中…………完了〉

〈同化計画に基づく隔離法案によって、固定者と流動者の住居は分けられた。現在にいたるまで、固定者の住処に侵入した流動者はいない〉

 

 これがデータベースに基づく保護府の見解。確かに、流動者は固定者の住処がどこにあるのか知らない。

 旧時代のドアも分からないので、路地裏であの灰色の壁を横切ろうと気付くことはないだろう。

 だが、もしかしたら偶然、ここへ入ってきてしまった者もいるかもしれない。ちょうど彼のように。

 侵入者が人知れず処理されているなら納得だ。そうすれば表面上は「侵入した流動者はいない」ことになる。

 となれば、間抜けなエックの結末は二通り。地下で野蛮人と仲良しこよしで行方不明になるか、正直に地上へ上がって蒸発か。

 

 室内のはずなのに身体が風に煽られているかのようにグラグラと揺れる。吐き気までこみ上げてくる始末だ。

 不調の原因が痛みのせいなのか絶望のせいなのか、エックにはまるで判断がつかなかった。

「顔色が悪いですね。お水を入れてきます」

「……ありがとう」

 ごくっ、ごくっ。コップに注がれた水を口へ流し込む。生ぬるい水が喉を通っていくのが分かった。毎日決まった時間に摂取する携帯補水液とはまったく違う。味が一段階、二段階ほど下回っていた。

 それでも、今のエックにはこの水がとても美味しく感じる。唇から垂れた雫を手で拭くと、血の気が少し戻ったことに気付いた。

「地上には帰れそうにないし、しばらくここに居候してもいいかな」

「はい。ご迷惑をおかけしてしまった分です、好きなだけ居てもらっても構いません」

 アヤネの言葉にセリカが怪訝な顔を見せた。

「ちょっと、どういうつもり? 人一人を養えるほどの余裕だって私らにはないでしょ。しかも、よりにもよって上のヤツなんて!」

「連れてきたのは私。だから、私でなんとかする」

「でも、だからってここまで良くする義理なんて……ああ、もうっ。私は知らないからね、二人で勝手にすれば」

 そう吐き捨て、乱暴にドアを閉めて出ていってしまった。呆気にとられているエックを見て二人が慌ててフォローをする。

 つんけんしてるけど心優しい子なんだとか、ああは言ってたけど実はけっこう心配してたとか、色々と聞かされた。

 話も落ち着いたところで二人が自室へと戻り、部屋はようやく静寂を取り戻した。ずいぶんと目まぐるしい一日で、エックにとってこれまでの人生が反転してしまった日でもある。

 地上に出ることさえできないことを踏まえると、固定者より固定者をしていると言える。

 口から変な笑い声が漏れた。さっきまで顔面蒼白だった人間とは思えないほどに、その心境は愉快で仕方ない。あとは、ヘイローがあれば完璧か?

 ひと通り笑ったあと、エックは静かにため息をついた。

 

 ──この夢も、前に見たときよりかは嫌悪感も薄れてきた。単なる慣れか、それとも心の変化か。

 嫌悪感が薄まるにつれ、どこからか視線を感じるようになった。その感覚の原因を探していくうちに、気がつくと部屋にいた。

 真ん中に長机が二つ並べられていて、ホワイトボードが……ああ、なるほど。これがホワイトボードか。どの家具も初めて見た型だが、どれも見覚えのあるものだ。

 シロコに、アヤネに、セリカ。それと、知らない子が三人いる。背の小さいピンク髪の少女に、この中だと背の高いクリーム髪の少女と、豊満な身体つきの薄い青緑髪の少女。

 五人がワイワイしてる中、青緑の少女は私の隣でその楽しそうな光景を眺めていた。その少女は口をパクパク動かしているが、なにも聞こえない。

 彼女をじっと見つめていると、視線に気がついたのか私の方を向いた。目が合うと、次第に建物は崩れていき──

 

 

 不幸中の幸いとでも言おうか、骨は折れていなかったようだ。

 不幸そのものが許されなくなった現代に、この古臭い言葉を思い浮かべることになるとは。エックハルトはいっそ清々しい気持ちであった。

 ふと、昨夜の夢を思い出す。ここ最近になって彼はやけに無秩序な夢を見るようになっていた。

 

〈検索:ホワイトボード〉

〈連絡用の掲示版等に使われていた白板。保護歴一三年に生産停止、現存する物は旧文明博物館で保管されている〉

 

 ──夢に出てきたホワイトボード。博物館に行ったことはあるが、展示されていただろうか……どうにも思い出せない──

 コンコン。

「ん、入るね」

「どうぞどうぞ」ガチャ。

「調子はどう?」

「最高だね。生まれ変わったような気分。まったくもって……」

「お礼のために連れてきたのに、ごめん」

 相手が固定者とはいえ、年下の女の子にそんな顔をされてしまっては、エックも強くは言えない。

 この見た目のおかげで女性経験もなかったのでなおさらだった。

「謝ることはないよ。この世界を知る機会を得られただけで、教授冥利に尽きるというものさ」

 あくまで知識の専門家ではなく思考の専門家ではあるが、言葉少なに角の立たない発言を心掛けた。

 野蛮人相手では何をされるか分かったものではないのと、冷たい目線を浴び続けた者なりの処世術の賜物である。

「でも……」

「じゃあ、ワガママを一つ聞いてもらおうかな。地下の色んなことを、もっと教えてくれるかい」

「ん、わかった。今度はちゃんと案内するね。歩ける?」

「肩をお貸し願うよ」

 溢れんばかりの人工光を浴びて、新たな朝が始まる。

 

 正直なところ、この地下世界はエックにとって期待外れの路地裏と同じだった。

 地上との相違点は暴力のベールに覆われているのと、何世代も前の生活品が現役なだけ。それ以外は清潔そのものだ。

 昨日は路上に散乱していたはずのゴミも、光が消えて点けば忽然と姿をくらます。危険信号を発させる刺激的な悪臭は、冷たいカルキ臭で覆われる。

 むしろ自身はなにを求めていたのか、自嘲がエックの精神に積もるばかりだった。もしかしたら、あの夢の答えが欲しかったのかもしれない。

 無機質な乾いた風が肌の水分を奪う。

「しっかり掴まって」

 エックは自転車と呼ばれるものに乗せてもらっていた。どうやら、シロコお気に入りの移動手段らしい。移動手段にお気に入りなんてあるものかと、彼には理解しがたい感覚ではあった。

 しかし、この肌身で風を切るような爽快感は、蓋をされた車にはないものだ。

 古典主義建築とはいわずとも、上では見られない街並み。多少はエックの気分転換に繋がった。

「待って。隠れないと」

「え?」

 返事も待たずに急ブレーキをかけ、歩道を突っ切って建物の隙間へと自転車は滑り込んだ。

 状況を飲み込めない搭乗者のなにか言いたげな口を押さえるシロコ。

「上の人に見つかるとまずい、だったかな?」こくこく、と頷く。

「あれは定期巡回。そこまで多いわけじゃないから、こうやってやり過ごせば大丈夫」

「……行った。もう平気だよ」

 ──平気なわけがあるか──そうエックは怒鳴りたかったが、文句が喉元でつっかえた。バクバクと(うるさ)い心臓を深呼吸で落ち着かせる。

「……私もヘイローが必要だね」

「ん、M区だったら偽造ヘイローを作れる人がいるかも」

「ほんの冗談のつもりだったんだけど。まぁ、行ってみるのもありかな」

「アヤネなら車が使えるから、相談してみる」

 

 その後も各地のランドマークを二人で見て回った。広場や駅、廃墟となった食堂。そして、A区固定者のコミュニティ。

「自警団、みたいなもの。ここにホシノ先輩がいる」

 とくに目立つような目印がないのは不思議だが、よく考えてみれば固定者による非保護府組織。目立たないようにするのは当たり前のことだった。

 挨拶しに行こうとシロコに手を引かれ、エックもとくに抵抗せず建物の中へと入った。

 カーペット敷きの廊下をぐんぐん進み、突き当たりを右に曲がる。

「あ、シロコちゃんだっ! わ~!」

 前方に鉢合わせた灰緑髪の少女が、エックの前を歩いていたシロコに抱きつく。

 シロコは前屈みの態勢で動けなくなり、顔が胸に埋もれたまま、なにかモゴモゴと喋っていた。

 夢に出てきた少女に似ているような気がして、エックは顔をじろじろと見つめる。

「えっと、はじめまして……その、なにか顔についてますか?」

「いや、そういうわけでは」

「ユメ先輩、苦しい」バシッバシ。

「あっごめんね! シロコちゃんと久しぶりに会えたから、つい」

「ん、まだ二日しか経ってない」

 胸から引き上げられたシロコは顔を左右に揺らす仕草をし、無感情ともとれる顔に戻る。

「ホシノ先輩に会いに来た。いつもの屋上?」

「そうだと思う! でも眠たそうだったからあんまり起こしてあげたくないかな……」

「じゃあ、待つ?」エックは相づちを打つ。

「お菓子用意するね! エレミヤでいい?」

 どうやら地下だと〈預言者〉はエレミヤが主流らしい。

 炭酸の強い刺激的な味わいとその強すぎる効力でエックは苦手としていたので、代わりにモーセをお願いした。

 二人は客間に案内された。他の部屋よりも大きいだろうか、真ん中に長机が二つ並べられている、いわゆる会議室のようなものだろう。エックは部屋中を吟味する。

 壁には張り紙が貼られ、パトロールの当番が書かれていた。この時間帯はノノミという名前の固定者が担当しているらしい。肝心のホワイトボードはどこにもなかった。

 一時間半ぐらいは待ってみようとのことなので、その間は他愛のない話をしていた。

 途中でユメも入ってくると会話はさらに弾んで、エックにとってもそう悪くないひと時を過ごした。シロコを助けたくだりで泣くほど感謝されたときは、さすがに顔を引きつらせていたが。

 ホシノという固定者について知りたかったので、エックは会ったときに上手く立ち回るためにも情報を得ようと少女たちに話を振る。

 シロコはエレミヤを頬張りすぎてボケーっとしていた。

「ホシノちゃんは、すっごく頑張り屋さんなんです。私が、A区(ここ)を争いのない、みんなが仲良くできるような場所にしようとして、それでも空回りしてばかりのときに、何度も助けてくれて……私よりもしっかりしてるし、利口で、優しくて、頼れるかわいい後輩です!」

 先輩、後輩という考え方も旧時代的で下卑(げび)た言葉だ。エックは上手いこと見下した態度を隠そうとするが、それでも会話の節々に(にじ)み出ていた。

 それを聞く相手が、明るく能天気な固定者だったのでとくに問題はなかったのは救いだろう。

 

 お菓子を盛りつけた皿が寂しくなってきたころ、扉がギィッと音を立てる。

 開いた扉の先から小柄な人影が入ってきた。エレミヤの効果が切れたシロコが顔を上げる。

「ん、ホシノ先輩。ようやく起きたね」

「うへ、久しぶりだねシロコ。アヤネとセリカは元気?」

「相変わらず。今日は新人を紹介しにきた」

 ピンク髪の少女。夢との相違点は、長髪でないこととそのシャキッとした立ち姿か──そんなことをエックは目を合わせながら考えていた。

 ホシノはゆっくりと間合いを詰める。

「ホシノちゃん、この人はね──」音もなくエックの喉元にナイフを突き立てる。

「あなた、上の人だね。なにが目的?」

「あっえっ、ホシノちゃん?」

「ユメ先輩は黙っててください」

「聞いてホシノちゃん。多分、なにか誤解が」

「黙っててください」

「ひぃん……」

 左手で首根っこを押さえ、もう片方の手にはナイフが握られている。

 どのタイミングでそれを取り出したのか。刹那のあまり、エックは寸前に差し迫ってからようやくその殺気に気付いた。

 首に冷たい鉄の刃が当たる。彼女がもう少し力を加えれば、服が鮮血で汚れてしまうだろう。恐怖で身体がこわばった。

 エックは自分の立場を弁え、素直に質問を聞くことにした。

「地下にしばらく滞在することになってね。挨拶のために来たんだ」

「聞きたいのはそこじゃない。なぜ、あなたはシロコを助けた?」

「ん、それは」

「シロコも黙ってて」

「……助けたいから助けた。それだけだよ」

「そんな戯言を、信じると思うのか」

 ホシノの手に力が入る。少しでも気に障るような発言をすれば一巻の終わり。手の汗が(にじ)んできた。

「昨晩、ヘイローのない幽霊が現れたって噂が出回ってた。気になって黒服から情報を聞き出したけど、まさか私たちと同じ姿をした流動者がいるなんてね」

「その通り。私はそのヘイローのない幽霊、といったところかな」

「勝手に喋るな。楽しくお話をしようなんて気はさらさらない。あなたの目的は、私たちのような非合法の自治組織を探し出して守護者に報告すること、そうでしょ。そうじゃないなら、心底軽蔑している固定者を好き好んで助けるわけがない。それに、あなたは私たちに似てるから、警戒されづらいよね」

 ──似てる、私が、野蛮人と? ふざけたことを──

「ははっ。それこそ、誰が好き好んで固定者(お前ら)のような白痴と同じ姿になんてなりたいんだ」

「そうか、もういい」

「ダメ! ホシノちゃん!」

 すんでのところでユメが止めに入った。シロコが止めようとするよりも速く、ホシノの手を掴んだ。

 ホシノは目線を逸らさずにエックをまっすぐ睨みつけている。

流動者(こいつ)を信じるんですか。ユメ先輩だって何度も経験したでしょう。人の善意につけ込む上の連中を。こいつだって、私たちと同じ姿形のくせに、私たちを見下してる!」

「ホシノちゃん。たしかに、エックハルトさんは私たちのことをよくは思ってないかもしれない。でも、シロコちゃんを助けてくれたのは事実だよ? 今まで、身を挺して守ってくれた人はいなかったでしょ。ねぇ、根深くて簡単には断ち切れない嫌悪よりも優しさが勝ったって、なんだか奇跡みたいだと思うんだ。だから、私はこの奇跡を……エックハルトさんを信じたいの」

 ユメの震える手を見て、ホシノはゆっくりと刃を下ろす。

「分かりましたよ。じゃあ私も、その奇跡とやらに賭けてみます」

 流動者の首はようやく自由を取り戻した。ぜぇはぁと乱れた息を整え、額の汗をぬぐう。生きた心地がしない。こんな所にいては命がいくつあっても足りないだろう。

 十秒とかからずに、二束三文の価値さえない嘆きよりも優先すべき生存思考に切り替えた。

 首をさすりながら、エックは本題を語る。

「私の名はマイスター・エックハルト。エックでいい。シロコを助けた後に地下へ来たけど、保護義務法をいくつか破ってしまった。地上へ出れば確実に捕まる。固定者のことを知りすぎたことで消される可能性もある。だから地下で暮らさないといけない。私の知識や技術を提供する代わりに、ここで暮らすことを許してほしい」

「そう、わかった。ならマイスター・エックハルト、あなたを私たちの仕事の一つを任せる。明日、A-1-25での定期供給を調停して。ケガ人を出すことなく収めることができたら、あなたを認めるよ」

「ちょ、ちょっとホシノちゃん」

 拒否する理由も権利もないエックは頷く。

 後ろ二人の心配そうな顔を見、この仕事の困難さを察したが、今さらどうなることでもない。ホシノの横を通ってドアの取っ手に触れる。

「──エック。奇跡を証明してみせて」

 廊下に出た後、追いかけてきたユメに謝られたものの、エックの身にとっては恩人なので感謝したいぐらいだった。

 せっかくなのでお詫びの品はいただいておいた。袋いっぱいに詰まったエレミヤから薬品臭が漂う。

 

 

 自転車の後ろで身体が揺れる。路面の凹凸のせいなのか乗り心地は最悪で、地上では無縁だった乗り物酔いがエックハルトの悩みの種となりつつあった。

 ユメから貰った数粒のモーセを含みながら吐き気を誤魔化す。

「エックおじさん、本当に大丈夫?」

「ああ。乗り物酔いが思いのほかキツくて」

「いや、そっちじゃなくて。明日のこと。あそこはG区と隣り合ってる地域だから、他のところより争いごとが絶えない。定期供給だといつも負傷者が出てる」

「あのときの定期供給と比べたら、どれぐらいなの」

「あれを一としたとき、A-1-25(あそこ)は四ぐらいかな」

「……骨が折れるね」

 実際、二つの意味で骨が折れそうだ。ああ、平穏を祈るばかり。砂粒を巻き込んだ風が吹きすさぶ。

 自室に戻ると、ビスケットと水が置いてあった。アヤネの部屋までお礼をしにエックは出向くも、なんと彼女が用意したものではないらしい。

 となると、消去法で該当者は一人だけ。

 エックは渋々セリカの部屋のドアを叩いて機嫌をうかがう。が、ドア越しに叩き返されてそのまま門前払いをされてしまった。

 つんけんしているが心優しい子という評価もあながち間違いではないらしい。

 ドアを閉めるとエックは勢いよくベッドに身を投げた。少し硬いが、寝心地は存外悪くない。

 彼の意識が、だんだんと、まどろんでいく。

 

 窓から射す光で目が覚める。BCFで起こされない朝にも慣れないといけない、とは考えつつも、エックにとっては規律的な朝よりも不規則で乱れた目覚めのほうが性に合っていた。

 思いのほか、壊れてくれて好都合だったのかもしれない。

「エックおじさん、そろそろ起きて」

「おじさんって言うの、やめてくれたら素直に起きるよ」面倒くさいおっさん。

「……ん。エック、起きて。定期供給まで余裕はあるけど、早めに行くに越したことはないから」

 干してある服を手に取り、袖を通してみる。灰色のドレス。固定者の証。

 屈辱を覚えるのと同時に、しっくりときた感覚があることに、エックはなんとも情けない気持ちになった。

 事前に考えた稚拙な策のために、色々と準備をした。鋭利な刃物を用意したり、エレミヤをありったけ集めたり。個数は多ければ多いほど良いので、シロコにもねだった。

 嫌そうな顔をしていたが、あとで倍にする約束でなんとか交渉成立させる。

 シロコのへそくり、もとい溜め込んでいたエレミヤで懐は潤沢となり、あとは人手不足の解消だった。

 アヤネやセリカにも声をかけて手伝ってもらえないかと頼んだ。前者は快く引き受け、後者は拒絶する。

 しかし、作戦のために是が非でも彼女を引き入れたいエックもただでは引き下がらない。

「ビビってるならしょうがないか。じゃあ、怖がりさんのセリカちゃんはお留守番だぁ? お家をしっかり守れるよう、よろしく!」

 ドアは音を立てて勢いよく開いた。どうやら準備万端らしい。

 

 アヤネの華麗なる運転技術をもって、四輪駆動車はクセのある砂道を難なく進んでいった。御一行はご自慢の馬力で目的地に運ばれていく。

 後部座席にはエックと対面する形でシロコとセリカが座っていた。

「ホシノ先輩も意地悪ね。G区付近の定期供給に介入するときは武力行使でケガ人が出る前提なのに」

「それにアビドスの拠点から離れてて、顔も利かない。先輩たちの名前が使えれば話し合いも簡単なんだけど……」

 明らかに試されているだろう。なにをそんなに期待しているのか、単なる厄介払いのための口実か、今のエックにはホシノの真意は判断しかねた。

「それで、なにか策はあるわけ?」エックは〈預言者〉をポケットから取り出す。

「これを使う。シロコ、ほら一粒」

「ん、ありがとう」

 シロコは奥歯でそれをかみ砕いて空へと旅立った。ボケーっと蕩けた顔のまま、車中の揺れになされるがままとなる。

「エレミヤの特長は即効性と、その効力の高さにある。効果が切れるまでは、意識が完全に覚醒することはない。これを定期供給で集まった人たちに含ませて、まず私たちが食料と水を占領するんだ」

「一人占めしたいってこと? やっぱり上のヤツは信じらんないわね」

「まあまあ、最後まで聞いて。そしたら私たちが一人分の食料と水を一人一人に分配する。結局、みんなが鬼の形相で食料に向かってくるのは、満足な量を手に入るかどうか分からないから、でしょ?」

「それならまあ、そうね。なんだか上手くいきそうな気がしてきた!」

「ただ、問題なのは」シロコが目を開ける。

「この効果時間の短さ。平均して一粒一分。複数個を同時に含めば時間も伸びるけど、その伸びもどんどん緩やかになる。三粒で二分、五粒で三分。全員に五粒ずつ与えたとしても、猶予はたった三分しかない」

「用意できた数は?」

「ざっと五百粒。あのエリアに住む人数は?」

「五百人」

「ねえ、これ本当にいけるの。なんか不安になってきたんだけど……」

「半数に渡せれば上々。残りは別プランでいくよ」

 シロコは目を爛々とさせ、セリカは物憂げな顔になり、エックは武器の調子を確認し、アヤネは運転に集中していた。

「ちなみに、血しぶきを見たことはある?」

「ないわよ。すり傷で血が出ることぐらいはあるけど」

「そう。私もまだ見たことないんだよね」

「なんで聞いたのよ」

 エックは刃を肌に軽く刺して血を確認する。驚く二人をよそに、ブザーが虚しく鳴った。

 

「みんな、エレミヤは持ったね」五十粒。

「ん」百五十粒。

「はい」百粒。

「ちょっと、私の分だけ多くない……ねえ?」二百粒。

 地の底まで震わすような音で空に穴が開く。昇降機が地面に手をつけて、灰色の箱が降りる。

 四方の壁もすでにせり上がっていた。人々が箱に目が釘付けになっている今がチャンス。

 箱が近づき、地面に落とす影が濃くなっていく。

「いくよ……サン、ニ、イチ!」

 粒を一人一人の口へ的確に入れ、無理やり噛ませる。事前に打ち合わせた通り、迅速に事を済ませていく。

「なっなんだおまモゴッ」

「悪く思わないでよね!」

 箱は残り四メートルまで近づいていた。

「よし! こっちは渡しきったわよ」三メートル。

「ん、私も終わり」二メートル。

「はぁ、はぁ。私も、なんとかなりました」一メートル。

「これで!」

「モゴゴ……」〇・五メートル。

 全員の口にエレミヤを配ったのは確かのはずだ。しかし、エックの手には一粒だけ残っている。

 見落としを確認する間もなく、ついにそれは降臨した。箱の外套がほどける。

 猶予はすでに一分を切っていた。一同はすぐさま駆け寄って、食料を手渡し始める。

 エックがなんとなくで見込んだ通り、セリカの手際は誰よりも良かった。

 残り十秒、なんとか目標の半分を超えて全体の七割まで達成する。

「間に合わないっ!」残り五秒。

「いいや、上出来だよ。あとは頼む」ゼロ秒。

「……んぁ?」

 目を開けるとなぜか一人前の食料があった。少女たちは一体、なにがあったのかと困惑した様子で呆然と立ち尽くしている。

「どいて! 腹を空かせた妹が待ってるの!」

「なっ」

 そんな奇怪な状況に目もくれず、手ぶらのまま目覚めた人々が箱に突っ込んでくる。

 エックは箱の上に立ち、包丁を懐から取り出した。肺に空気を注ぎ、出せるだけの声量を発する。

「──見よぅ!」

 全員がこちらを向いて一瞬で恐怖に染まる。固定者には、包丁を持った長身の幽霊が見えているのだ。無理もない。

 ふと、建物の屋上をちらと見ると、ピンク髪の少女がいた。エックはニヤリと笑う。包丁を高きに掲げ、勢いのまま左腕に振り下ろす。

 ブザー。鮮血。

 血しぶきが箱を濡らして地面に染み込んでいく。箱に接近していた人の顔面に、幽霊の血がベッタリと付着する。

 三人を除いたその場にいた者たちは訳も分からず凍り付く。恐怖で腰を抜かす子もいた。

「すぅーっ……大人しく、せいっ!」渾身の怒号。

 アヤネからの合図が見え、すぐさま左腕を押さえて昇降機から降りた。

 昇降機は音を立てながら空へと昇っていき、壁も消え失せる。

 一陣の風そのものだった御一行はすぐにその場を離れた。エックはもう一度、屋上を見上げてみたものの、そこにホシノはいなかった。

 

 妹思いの少女が、顔についた血を涙で洗う。生温かい液体が下半身にジワジワと広がって、ズボンがそれを吸う。

 立つことさえままならず、人々が散り散りになっていくのをただ眺めて時間が過ぎていく。

 しばらく経ってから、重い足取りで帰る。布に包まれた箱をしっかり抱えて。

 姉の帰宅に気がついた少女は枝のような両腕に力を込め、ベッドから上体を起こして満面の笑顔で迎える。

「お姉ちゃ──どうしたの、その血」

「私のじゃないから心配しないで。はい、今日の分。お姉ちゃんはもう食べたから、残りはあなたが食べていいのよ」

 去勢を張る姉は取り繕った笑顔のまま妹の膝に乗せた。

 妹はちょうちょ結びで締められた布をほどいて、箱の蓋を開ける。その中身を見て、ため息をつきながら笑顔を見せた。

「もうっ、嘘つかないでよね。ちゃんと二人分(﹅﹅﹅)あるじゃん! ほら来て、一緒に食べよっ」

「え、ええ。そうね、食べましょうか。二人で……」

 そんな奇跡に驚きながらも、少女は妹の横で手を合わせる。

 

 車に乗り込むとアヤネがすぐさま止血の処置をしてくれた。ガーゼを重ね、体重をかけて出血部位を圧迫する。

 苦悶の声が唇の隙間から漏れる。血を流しすぎたのか、意識がはっきりとしない。

「あの、子には……」

「大丈夫、しっかり二人分にしたわよ」

 エックは一息ついて、安心しきった顔を見せる。

「……ここの子たちはみな頑丈だ。暴力が日常なのにも関わらず、すり傷程度で済んでしまう」

「だから、血を見るのに耐性がないと踏んで無茶をしたの?」

「年老いたヒョロガリ長身の幽霊が怒声を出しながら血しぶきあげてたら、誰だって怖いでしょ」

「無茶も無茶。無茶苦茶もいいところね」

「そうだね。でも、ケガ人は出なかった」

「ん、自分を勘定に入れないのも、ホシノ先輩そっくり」

「まったくです。今回は見過ごしますが、きっちり反省してもらいますよ」

 自身へのご褒美として袋からモーセを、と思ってガサゴソ漁ったが見当たらない。どうやら、エレミヤに紛れて配ってしまったらしい。

 苦しまぎれの笑顔もここでようやく途絶え、エックは眠りに落ちた。

 

 

「どうでしたか、彼は」

「上の連中が嫌いなのは、変わらない。それと、エックがその一人だって事実も……でも、少しだけ信じてみようと思う」

「そうですか。あの〈暁のホルス〉から信頼を勝ち取るとは、さすが先生です……いや、今は教授(マイスター)、でしたね。彼はその信頼に値する人ですよ。必ずや、あなた方を再び地上へと返り咲かせてくれます」

「黒服は会いに行かないの? 旧友なんでしょ」

「確かに、会ってまた大人同士の語らいでもしたいのはやまやまですが、先に済ませるべき案件がありますので。それでは」

 そう言うと、スーツを着た影のような黒い人型のそれは、消灯した地下の暗闇へと溶けて消えた。

 

 

 

 

「ケガ人を出すことなく、と言ったはずだけど」

「いやあ、ケガ人。出てないけどね?」

「あなた以外はね」

 ホシノは包帯でくるまれた左腕を指す。エックは困った風な顔をして誤魔化した。

 数週間で歩けるまでに回復したのは彼も自身の頑丈さに驚いたが、しばらく貧血と付き合うことにはなるだろう。

固定者(キミたち)からのケガ人はゼロ。それでいいでしょ?」

「……まあいいよ、認める。これであなたも私たちの一員だよ」

 ジュッ。旧時代の名残りなのか、儀式として右腕に焼印を押すのだ。三角形の内に煌々(こうこう)と照る太陽を描いたこのマークが、A区自警団である〈アビドス〉の所属であることを示すものになる。

 アナログで下品だが、こと地下文明のレベルでなら理に適っているとマイスターは感心した。

 地下における身分証明。痛みと共に刻まれた、固定者の烙印。

 思案すべき問題はいくつかあるものの、これでエックは彷徨(さまよ)う幽霊ではない。実体をもった人間として生きることができる。

 あとは、頭上の寂しさを紛らわせば完璧だ。

「なるほど。それでM区に行きたい、と」

「うん。守護者による定期巡回を抜きにしても、ヘイローがないと目立っちゃってしょうがないから」

「なら、行くついでに〈ミレニアム〉ともコンタクトを取って。共有したい情報があるから」

 封をされた一枚の手紙をエックに渡す。

 用事を片付けたホシノはたまらず出そうになる欠伸を手で押さえ、部屋を出ていった。どうやら、昼寝の時間らしい。

 

 本来、名称は同一だが便宜上〈上空車〉、〈地上車〉と呼び分けよう。

 エックも上空車は保護生育期間を終えた十三歳から乗りこなしていた。普通車運転マニュアルはデータベース上からインストール済みで、三十一年間の運転経験と合わさって人並みに運転はできる。

 ということで、彼は地上車も難なく乗りこなせるだろうと思っていた。

 結果はこうである。

「あはは……私も音楽プレーヤーが壊れていて、修理に出したかったのでちょうど良かったんです。ですから、その、あまり気になさらないでください」

 ああ、情けないエックハルト。

 意気揚々と運転を試みたが、エンジンを吹かすどころか始動さえできなかった。恥を忍んでアヤネに色々と聞いてみたものの、一発で覚えられるものではない。

 まともな運転ができるようになるまで、早くても一ヶ月はかかるだろう。

 そもそも、なぜこれほどまでに難解な操作をわざわざ要求するのか。彼は理解に苦しんだ。

 なんにせよ、四十代も半ばの流動者が二十歳以上も年の離れた固定者に運転を頼んだ経験は、エックをとても惨めな気持ちにさせた。

「……まあ、そうだね。気にしないことにしよう。アヤネは普段、どんな曲を聞いてるの」

「B.o.Bさんの『良セーブ・DAN』ですね。運転するときによく聞いてるんです」

 エックが十五の頃、人の手によって生み出されていた音楽は、機械によって作られる音楽に取って代わり、徐々に地上からその姿を消した。

 現存する有人楽曲は片手五本で数えるほどしかない。

 その五本でさえ、わざわざ聞こうなんていう物好きな流動者は少なく、変人たちの趣向の代名詞としてみられるだけである。

 B.o.Bは公式のキヴォトス史上最後の音楽家であるという情報を、彼は記憶媒体に保存していた。

 アヤネが壊れた音楽プレーヤーとカセットテープを見せてくれた。エックは出土品に触りでもするかのように、表面を軽くなぞる。

 これに詰まっているのは機械によるものではなく、人間による時間芸術。

 固定者の文化の中で、有人音楽は生きていた。単なる延命処置に過ぎなくとも、それは確かに息吹いていた。

「直ったら、聞かせてくれないかな。地上では聞いたことがないんだ」

「いいですよ。でも、意外ですね。地上だとB.o.Bさんは有名ではないのでしょうか」

「どうだろうね……ああでも、あいつなら詳しいかもしれない。デカルトってやつなんだけど」

 

 地上車も上空車に負けず劣らずのスピードで、昼過ぎにはA区とM区の区境が目視できる位置まで来た。後部座席からエックは前方に鎮座するゲートを見やる。

「……アヤネ、あれはなに?」

「検問所ですよ」

「えっ」

「えっ、聞いてませんでしたか? ホシノ先輩からてっきり伝えられているとばかり……とりあえず、隠れましょう。そこのレバーを引いてください」

 一台の車がゲート前で止まる。小屋から、紫色の衣を(まと)ったロボットが出てきた。

 守護者の証である護杖(金属製の杖)を片手にしっかりと握っている。

 ロボットは一歩ずつゆっくりと車に近づき、窓をコンコンと叩いた。ヴィーッと窓が収納される。

「名前は」

「アヤネです」

「一人ですか」

「はい」

「訪問予定地は」

「M-27-31-1です」

「越境理由は」

「修理に出したい機器がありまして」音楽プレーヤーを見せる。

「A区の修理屋でよいのでは」

「古い型番は扱っていない、と断られてしまいましたので」

「なるほど。では後ろを確認しても?」

「どうぞ」

 後部ドアを開き、座席を一つずつ丁寧に触れたり押したりして確認する。ロボットは油を差し忘れたのか、動くたびに不快な音を鳴らしていた。

 足元にも不審なものがないのか、レンズを動かして凝視する。ふと、脇にあるレバーが守護者(ロボット)の目についた。

 レバーを握り、引く。倒れていた座席がガコンと戻ってきた。

 車の下にも潜り、とくに異常が見られなかったのか、ロボットは身体を起こして運転手に声をかける。

「問題ないですね。ゲートが開き次第、そのまま発進してください」

 バーゲートがゆっくりともたげり、そそくさと車は検問所を通過していった。

 検問所が後方へ遠ざかるのを確認すると、アヤネは引っ込んでいたレバーを戻した。

 エックは再び後部座席に姿を現す。

「すごいね、これ」

「もう何度も無事に通過しているんですよ。M区の技術力は凄まじいですから」

 地上のM区も工業地帯で有名なので、地下でもそれは同じなのだろう。上空車工場はすべてM区に設置されているし、地上車も例外ではないのかもしれない。

 エックは目前に広がった、新たな世界の光景を目に焼き付ける。

 道路沿いには立派な木々が生えていた。天井光が日光と同じ役割を担っているのだろう。A区には生えていなかったのを見るに、どういう訳か地上と瓜二つの気候区分に調整しているらしい。

 建物の外見はA区と変わらずだが、天地を繋いだ煙突群がどこまでも広がっていた。

 

 

 道中、セリカが用意してくれた弁当をつまんだりして腹を満たした。切り分けられたブロック状の肉に、ペースト状の野菜。

 原材料は見当がつかないし、わざわざすり潰して地下に寄越す理由も分からないが、思ったよりも味は悪くなかった。

 エックは空になった箱に手を合わせる。工房はすでに目と鼻の先だった。

 

 カランコロンという音と共にドアが開くと、コゲ臭さと火薬の匂いが肺を襲う。咳き込み、部屋を見回そうとしても煙が視界を遮っていた。

  ついさっき爆発でもあったのだろうか。換気扇が硝煙を吸っていくと、ようやく人影が視認できるようになった。

 細目のままエックは人影に声を掛ける。

「ウタハさん、で合ってるかな」

「合ってるけど、まずはそちらが名乗るべきじゃないかな。見るに、地下の人間ではなさそうだね」

 その少女は手にあるレンチを置き、ゴーグルを指に引っかけてエックの顔を裸眼で確認する。

「失礼。私の名はマイスター・エックハルト。エックと呼んでほしい。訳あって地上から移住してきて、今はA区に住んでいるんだ」

「マイスターを名乗ってるのかい。それは奇遇、私もマイスターを自負していてね。ウタハだ。さん付けはいらないよ」

 スラっとした体型をもつ薄紫髪の少女は歩み寄る。右手の黒手袋を外すと、そのまま手を差し出した。

 上でも下でも握手という交流の文化に違いはないらしい。二人のマイスターは握手を交わした。

「なるほど。地上では壇上に立つ教授をマイスターと呼ぶんだね」

「地下では職人のことを指すのか」

 教授(マイスター)職人(マイスター)、単なる同音異義だが、この偶然はエックに妙な親近感を抱かせた。

「それで、なにがお望みかな。なんでも作るし、なんでも直してあげるよ」

「頭上の輪っかって、作れる?」

 白く輝く光の輪(ヘイロー)。ウタハはエックの頭上を見て、頭をひねった。輪がないことに気付いていなかったらしい。

「んー。私たちに似ていても正確には異なるということなのかな」

「なんにせよ、幽霊だのなんだのと言われるのも癪だからね。多少クオリティが下がってもいいから、二週間でお願いできる?」

「一週間で十分さ。任せて、最高の特注光輪(オーダーヘイロー)を作ってみせるよ」

「ありがとう。あ、あとこの音楽プレーヤーを直してほしいんだけど」

「む、二世代前の型番だ……この機種ならヒビキに任せるのが最適だね。奥にいる、耳の垂れた黒髪の子に預けておいて」

 エックは前金としてエレミヤを五つ渡そうとした。しかし、モーセが好みだと断られたので、おやつにとっておいた分をポケットから取り、代わりに渡した。

 外へ出て、多少はマシな外の空気で肺を換気する。

 

「二週間も待たないで済むんだね」

「あの三人組の工房は優秀なことで評判ですから。余計な機能が足されてしまうことでも有名ですけれど」

「大丈夫なのかい、それ」

 石畳の上を揺れながら進む。残る用事は、この地区で活動している固定者の組織に手紙を渡すこと。ホシノ曰く、M区滞在中の衣食住はそこが保障してくれるそうだ。

 巡回する守護者の目を三回ほど搔い潜ったこと以外は、山も谷もなく、無事にメモに書いてある住所まで到着した。

 アヤネが腕時計を見る。自宅から出発して八時間超、すでに短針は十七時であることを示していた。

 長時間の運転で疲れているだろうと思い、車中で休んでいて構わないとアヤネに伝え、エックは住所にある部屋へ歩いた。

 ──どこもかしこも同じのっぺりとした建物、同じカーペット敷きの廊下、同じ灰色のドア!──

 ノイローゼになりそうだとエックは心の中でごねたが、これはまったくおかしな話だった。なぜなら、地上だって配色と建築様式が異なるだけで、同じく逸脱した物なんて一つもなかったのだから。

 彼は足を止め、部屋番号と手紙の番号を照らし合わせてからノックする。

「A区の者です」

「のぞき穴から印が見えるよう、腕を出してください」袖をまくり、焼印のついた右腕を穴の前に掲げる。

「……どうぞ、入ってください」ガチャリ。

 艶のある灰髪を左右で結んだ少女がエックを出迎える。少女はA区からの使者を奥の席へと案内した。

 エックは目の前にあるコップに注がれた水でカラカラの喉を潤す。

「この水、美味しいですね」

「もちろん。M区の技師が作った浄水器は優秀ですから」

 なるほど、浄水器。その装置が優秀なのは事実なようで、エックの舌がこの水を地上の補水液だと誤認してしまうほどだ。

 ただのバカ舌かもしれないが。

「マイスター・エックハルトです。エック、と気軽に呼んでもらっても構いません。これをリーダーのホシノから」

「リーダー……ホシノさんからですね。ありがとうございます」

 手紙の封を切り、少女は淡々と目を通す。その背筋をしっかりと伸ばした姿勢は整然として見えた。

 読み終えると、机に置いてあった缶の中からライターを手に取り、手紙の下部分に火を付ける。

 火は上へ、上へと、紙の全身を優しく包んだ。抱擁(ほうよう)のあとに残るのはただ灰ばかり。

「貴重な情報を届けていただき、ありがとうございます。申し遅れました、私はM区ギルド共同体〈ミレニアム〉、会計担当のユウカです。本日はトップであるリオ会長が不在のため、その代理を務めています。手紙にはエックさんの情報も載っていましたが、上の方なんですね。地下について知らないことばかりでしょう。消灯時間まで、あと九四二七秒の余裕がありますので、聞きたいことがあれば仰ってください。答えられる範囲で答えます」

 その言葉に甘え、エックは気になったことをいくつか訊ねてみることにした。

「自警団ではなく、ギルド共同体なんですね」

「ええ。M区は他地区と比べて暴力沙汰が少なく、防犯よりも技術者・専門家同士のコミュニケーションの場が求められたんです。それもあって、必要に迫られて発足された他共同体よりも歴史は浅いのですが……」

「いいことですよ、平和が一番ですから」

 暴力に訴えない固定者たちがいることを知れて、エックは少し安心する。

 固定者が暴力性を克服できるなら、いずれ流動者と固定者の境界線は消え、保護者ひいてはキヴォトス人の悲願である〈同化計画〉が完遂すると考えたからだ。

 M区について話を聞く中、ふとペン立てが視界に入り、彼の忘れかけていた疑問が喋りだした。

「そういえば、なぜ文字の読み書きができるんですか」

 

 現代、文字教育は廃止された。固定者・流動者に限らず教育は施されない。

 生活上必須の知識は脳に直結した記憶装置に書き込めるということで、六十年前には教育不要論が市民権を獲得していた。しかし、ロボット種はそれが先天的に可能であったが、動物種はそうではなかったのだ。

 この格差問題を解決すべく、同化計画の推進で、動物種も手術で後天的に知識書き込みを可能とする技術が確立された。

 かくして教育不要論は勝利を収め、教育に関連したものはすべて廃止された。学校も、教室も、生徒も、先生も、教科書も。

 それらは墓碑に刻まれるばかりか、忌むべき過去の悪習として道行く人々に唾を吐き捨てられるようになった。

 この〈同化手術〉は全流動者に適用されたが、固定者は手術を受けることを禁じられた。

 したがって、()()()()()()文字を書くことはできない。

 だが、なぜかここには使えるはずのないペンが置いてある。エックはペンを手に取って、ノック筒を繰り返し押してみる。

「……お答えできかねます」カチッ、カチッ。

「アビドスの会議室へ入ったとき、当番表が貼られていました。見たところ、地上と同じ文字でした。今朝に渡された手紙も、ホシノが書いたのでしょう。ユウカさんも先ほどの様子をみるに、すらすらと文字を読めるようですね。どうやって──いや、誰に文字を習ったんですか?」カチッ、カチッ。

「繰り返しますが、それはお答えできません。あなたは上の方ですので」

「答えなくても構いませんよ──いるんですね、教え導く()()が」

 ペン先を指に当てる。インク切れのようで、エックの表皮には押しつけた跡だけが残った。

「……仮に〝先生〟にあたる人物がいたとして、それが明るみになるのはマズいでしょうね。それに、万が一でも『エックハルトは守護者で、先生の行方を探ってる』可能性があるなら、言わないほうが吉です。あなたのその毅然(きぜん)とした対応も納得いく」

「ええ。私一人で判断するわけにもいかないんです。こちら側の都合で質問に答えられず、申し訳ありません」

「こちらこそ失礼しました、変に探るような質問をしてしまって。寝泊まりはどこで」

「廊下を出て左隣二つの部屋です」

「そうですか、では」

 先生という単語に、ユウカの眉がピクリと動いているのが見えた。間違いなく、先生はいる。エックはそう考察した。

 アヤネに同様の質問をふっかけてみたがとくに反応はなかったので、組織の中でもトップかそれに次ぐ人物ぐらいしか知らないのだろう。

 これ以上の詮索が実を結ぶことはないと判断したのか、彼はソファーから立ち上がって部屋を出た。

 ユウカは部屋の中でただ一人、静かにため息をつく。

「先生、ね……リオ会長に相談するべきかしら」

 

 車に戻ってアヤネに部屋番号を伝え、二人は睡眠欲求を解消するべくさっさと各々の部屋へ向かっていった。

 いくら工業が発展していても、ベッドの質も家具の配置も変わらないらしい。上質すぎもせず、粗悪すぎもしない。地上よりワンランク下の平等が敷かれている。

 慣れてしまえば、流動者だって地下でも生きていけるのだろう。

 しかし、生きていけるにしても、エックは同じ境遇の仲間が欲しかった。〝先生〟は確実に流動者だろうし、エックと同じような理由で地下に来たのかもしれない。

 爪弾き者の流動者。彼は期待感でなかなか寝付けなかった。猶予は一週間。早いこと先生について聞き出さなくてはならない。

 

 ──高層ビル群。青色の空に届きそうなほどの建物。列車窓を通して、美しい景色が見える。以前の夢にも感じた妙な視線を探ってみようとした。

 つり革が揺れる。落下。肺が水で満たされる。私は必死にもがき、溺れる私を救おうと水中から這い上がった。

 気が付くと、薄暗い部屋だ。黒髪の少女、少女というには大人びているが、とにかく少女がいた。赤い瞳はモニターをじっと見つめている。その姿は、まるで保護者のよう。

 声をかけると、彼女はこちらを振り向き──

 

 

 一週間が経った。ただ待っているのも暇だと思ったエックは、アヤネと町へ繰り出したり、ユウカに会ってお喋りしたりした。

 彼は何度もミレニアムに足を運んで、ノアという書記担当の少女と会った。ユウカとはかなり仲の良い親友らしく、いろいろ彼女の情報を聞かされたりもした。ノアもユウカと同様、先生については何も教えてくれなかった。

 結局、リオ会長と会うことはなく、先生について聞き出すことも叶わなかった。

 最終日にいたるまでエックの周りでとくに騒ぎもなかったので、事件が少なく平和なのは間違いないらしい。

 日に三回はどこからか爆発音が聞こえるものの。

 工房へ入ると、前と変わらずのコゲ臭さがエックを歓迎する。作業に集中するウタハを邪魔しないよう、彼は近くの椅子に腰掛けて静かに待った。

「……これでよし。やあ、エックか。待たせてしまったね」

「気にしないで。ヘイローはどうかな」

「昨晩に完成してね。いま持ってくるから少し待っていてくれ」

 そう言って工房裏に入り、数分すると完成品らしき装置を手に戻ってきた。

「なかなかの自信作だよ。さっそく着けてみようか」エックの後頭部に装着する。

「ここのダイヤルを時計回りに回すと締まるよ。締まったら、つむじあたりにあるボタンを押してみて」ポチッ。

「鏡はあるかな? 自分の目で見たいんだけど」

「あ、すまない。すっかり失念していた」

 鏡には、ヘイローを浮かべたマイスター・エックハルトの姿があった。

 ヘイローと頭頂部の間に手を入れてみるとたちまち消え、手をどかすとまた光り出す。白い光輪が頭上に君臨していた。

 鏡越しに映る彼自身の姿は、どこをどう見ても固定者だ。灰色の服に、細っこい身体に、ヘイロー。複雑な心境を飲み込み、エックは満足げな顔を見せた。

「思った以上の出来だね。ありがとう」

「どういたしまして。〈輪っかちゃん〉を気に入ってもらえてなによりだ。そうだ、もう一回ボタンを押してみて」

「──これは」

「ふふ、カッコいいだろう? 長押しするとフラッシュモードになって目眩ましに役立つんだ。少々強すぎるから使うときは──」

 鏡の中のヘイローは、七色に光り輝いていた。

 

 さて、用事を終えた二人はアビドスへ帰るのみであった。しかしエックには心残りがある。

 彼は、その足取りのままミレニアムへ向かった。

「やはり来ましたね、エックさん。そのヘイロー、似合ってますよ」部屋にいたのはユウカ。

「ありがとう。これね、七色に光り輝くんだよ」ピカピカヘイロー。

「……あの三人組、また変な機能をつけて」

 エックは対面の椅子に座り、互いに顔を見合わせた。

「さっきの言い方だと、私が来るのを予測してたみたいだね。いつから待ってたの?」

「いえ、朝っぱらからコユ……んんっ、問題が発生しまして。解決のために動いていて見送りどころではなかったのですが、リオ会長から言伝てと共に部屋で待つように、と言われましたので」

「お疲れ様だねー。お腹空いてるでしょ、ペーストサラダ食べる?」

「いえ、結構です」

 コップの中の水を飲み干すと、ユウカはその言伝てとやらを話し始めた。

「先生の存在について、気になっていましたよね」エックは頷く。

「確かに〈先生〉はいます。私はリオ会長から文字を習ったので直接会ったことはありませんが、リオ会長は〈先生〉から基礎教育を受けたと言っていました。〈先生〉のことを『漂白化を生き残った人』だとも」

「漂白化?」

「詳しい話は〈先生〉本人に聞いてください。歴史は生き証人に訊ねるのが手っ取り早いですからね」

 ユウカはそう語りながら、机の下に手を伸ばして、大きな何かを机上に置いた。

 それは本だった。エックはそう確信する。

 彼は半生で本には触れたことも、嗅いだことも、見たこともない。それでも、これが本だということが一目で分かった。

 楽園に生えたる知恵の樹の実。蛇は物言わずにじっとこちらを見つめる。イヴはただその実を目前に差し出す。アダムは、ああ、その実を手に取った。

「この本は『100万回生きたねこ』という絵本です。エックさん、あなたはそれを手にして読んだ時点で、もはや戻ることは叶わないでしょう。読んだらホシノさんにその内容を伝えてください。〈先生〉の居所を教えてくれると思います」

「……なぜ、私にこれを? ホシノの手紙にはなんて書いてあったんだ? 先生とは、いったい誰だ?」

「リオ会長はあなたのことを〈先生〉が十数年もの間ずっと探していた人物である可能性が高い、とだけ。ホシノさんも同じことを考えて、この本があるミレニアムに向かうようにと手紙を預けたんだと思います。もし、地上に戻ろうとする気持ちが少しでもあるのなら、机に置いてください」

 エックの心は妙に落ち着いていた。青色の空であんなにも取り乱していた人物がそれと同等、いやそれ以上の、物語が(つづ)られた本に一片の嫌悪感さえ抱いていない。

 手が恐怖で震えることもなく、正確に一ページ一ページを読んでは次へとめくる。

「初めて触れる物語でしょうから、焦らずゆっくり読んでみてください。今回の情報料として、その本はアビドスに譲ります」

「……わかった、そろそろお暇するね」

 本を懐に入れ、エックはドアノブに手をかける。

「あ、そうそう。もう何日も話した仲なんだし、さん付けはいらないよ」

「ふふっ。じゃあ、エック。また会いましょうね」

 

 エックは助手席に座り、アヤネに修理済みの音楽プレーヤーを手渡した。

「無事に直ってよかったです。ヘイローも手に入ったようですし」

「そう、偽造ヘイロー〈輪っかちゃん〉。これがなかなかの出来でね。七色に輝くんだよ」

「……輝いてますね、七色に」

「そう。ピカピカでしょ」

「ピカピカですね」

 アヤネはキラキラとしたエックの視線を軽く受け流しつつ、さっそくカセットを挿して再生ボタンを押した。

 たちまち車内に大音量の「方舟」が響く。重低音と電子音がエックの耳を突き刺した。

 固定者は音楽性も野蛮なんだろうかと、彼は耳を押さえながらそう邪推した。

 

 

「で、あなたの答えは?」

「私には分からないことだらけだよ。王も、船乗りも、サーカスも、泥棒も、お婆さんも……そもそも、猫というものも見たことはない。もちろん、ぜんぶ言葉としてなら知ってるけどね。でも、分からないんだ。なんで最後に、猫は生き返らなかったのか」

「そう」

「死、という言葉に、悲しまなければならないはずなんだ。それなのに、私はなぜだかホッとしている。とらねこと白いねこの結末に、よかったと、そう思えてしまったんだ」

 話してくうちにまた感極まって言葉を震わすエックに、ホシノは黙って頷いている。

 彼が言葉を出し切った様子をみて、手紙を渡した。

「これをT区にいる〈先生〉に渡してきて。その格好なら、怪しまれずに列車も乗れるでしょ」

「ねぇ。私ってなぜだか手紙を送り届けてばかりじゃないかな? 手紙にはなんて書いてあるんだい」

「黙って運んで」

 エックは不満げな顔で大人しく出ていった。部屋は空気が固まったように静かになる。

 十数秒後、その静寂を破ったのは黒ずくめのそれであった。

「これでよかったの? ずいぶんと回りくどく試したけど」

「ええ。ここまでしたのはみなさんと交流を広げてもらうという意味もありますが。私たちは慎重に立ち回らなければなりません。なにせ、彼は本当に我々が探してる人物なのか、私たちにも確証は得られていませんからね。物語を読んで、彼がそこからどのような意図を汲み取り、感受するのか。この試練は()の魔術師からも必ず行うようにと言われてますので。魔術師曰く、本を読んだときの感想であの人かどうか分かる、とのことです」

 

 二人がA区に帰宅した次の日に、エックはT区に向かう列車に乗り込んだ。みな治安維持に大忙しで、誰ともろくに顔を合わせることなく出発した。

 ことを急ぐ必要はなかったが、彼の心がそうしたのか。それでもただ一人、ユメが見送りに来ていた。

「〈先生〉に会いに行くんですよね。ユメは元気にしていますと、そう伝えてくれませんか」

「いいけど、ユメは先生と会ったことがあるの?」

「はい。彼女から大事なことをいっぱい教わったんです。おかげで、ホシノちゃんたちにもいっぱい大事なことを教えることができて……」

 エックは、リオ会長とユウカのことを思い出した。〈先生〉からユメへ、ユメからホシノへ伝わっていってるのなら、リーダーはユメではないのだろうか。彼は首を傾げた。

「私がアビドスのリーダーですよ。あれっ、もしかして教えてませんでしたか?」

 シューッ。列車の扉が閉まり、車窓越しに二人は手を振って別れを告げた。

 窓の外に広がる変化のない街並みを呆けた顔で眺める。エックはユウカに「リーダーのホシノ」と言ったことを思い出した。なぜ、誰も訂正してくれないのか。

 今だけは、赤い夕日がとても恋しく思う。

 

 

 列車はG区を経由した。G区の駅から乗車してきた固定者たちはなかなかに騒がしく、エックはモーセを含んでT区に着くまでは上の空のまま過ごした。

 終点を知らせるけたたましい警笛を合図に列車から降りる。A区やM区と大差ない光景が広がっていた。A区よりも人だかりは多いだろうか。

 エックは時計を見て、寄り道する時間がないことを把握すると、手紙に書かれた住所へまっすぐ向かった。

 行き交う固定者たちを見ると、どうやらここは翼を持つ人が多いらしい。翼と言っても、鳥人種と違って腕とは別で生えてるようだった。

 そうして駅から一時間、エックの足はようやく目的地にたどり着いた。

 しかし、目印もないのでただの路地裏にしか見えず、戸惑った彼はあたりをうろちょろ無意味に動く。

 しばらくして、地面の一部分が開いて下へと続く穴が現れた。おそるおそる掛けられた梯子に掴まって、彼は暗闇の中に溺れていった。

 

 どれほど長く暗闇にいただろうか。時間さえ克服した空間で、エックの前に明かりが灯る。明かりに吸い寄せられると、焦げ茶色の古めかしいドアが見えた。

 このドアの先に、答えがある。漂白化、同化計画、固定者──いや、そんなことはどうでもよかった。彼がただ知りたいのは、物語、青色、先生。

 固定者のような流動者である輪抜けのエックのように、唾を吐きかけられてきたものたちの存在意義だった。

 ノックをしようと手を上げると、戸を叩く寸前に中から声がした。

「どうぞ、入ってください」ガチャ。

 部屋に入るとほろ苦くも香ばしい、なんとも筆舌しがたい匂いが漂っていた。エックは声の主と目を合わせる。

 ──大人びた雰囲気に、ぼさっとした長い髪。時計のようにも見える異様なヘイロー。灰色の服ではなく、白のスカートにカーディガン!──

 まるで何世紀も前からやってきたような姿だった。女性は嬉しそうに頬を緩めて、エックに話しかける。

「お久しぶりです、先生。お互い少し歳を取りすぎてしまいましたが……信じて待ってましたよ。十五年も、ずっと」

「ちょっと待って。えっと、どういうこと?」

「あ、そうでした。言われたことをすっかり忘れて……すみません、一旦忘れてください。まずは自己紹介から、ですよね」

 エックは不思議だった。初めて会うはずなのに、この人の名前を知ってるような気がするからだ。

 気がするだけで、名前を当てられるわけではなかったが。

「私は古関ウイ。この地下図書館の主、そして学生連盟のリーダーである〈先生〉を務めています」

 蠟燭の揺らめく明かりで、数え切れない本の山が照らされていた。

 

 

滑らかなクリーム色の紙

 テーブルの上に置かれた蠟燭が灯す小さな火が、二人の顔をかすかに照らす。

「あなたが、先生?」

「そういうことになりますね」

 先生、もとい古関ウイの姿は異様だった。顔にできた小ジワが他の固定者よりも明らかに歳が高いように見せていて、身長はエックと数センチ程度の差しかない。

 白い輪っかが基本のはずのヘイローにも特徴がある。まるで時計のようだ。固定者なのは間違いようのないことだが、彼女を構成する何もかもが特異なようにエックは感じた。

「アビドスから来てお疲れですよね。質素ですがベッドもありますので、お話は休んだ後でも遅くないと思います」エックは首を振る。

「ここに来たのは、ベッドでぐっすり眠るためでも、長旅を癒してもらうためでもありません。答えを得るためです。ウイさん、あなたなら分かるはず」

 鬼気迫った表情で距離を詰めるエックに、ウイは両手を前に突き出しながら後ずさった。

 牽制もむなしくガタン、と背後の机にぶつかる。

「お、落ち着いてください。はやる気持ちは理解できますが……まず、私にあまり期待しないでください。あくまで私は、私の半生と把握できている情報を伝えるだけで、そこから答えを導くのはエックさんご自身です」

「……申し訳ない。少し、浮かれてしまっていました」

「どうか、顔を上げてください」

 ウイはエックの瞳の奥を覗く。

 十五年の歳月が、彼をどれほど変容させてしまったのか、自分の知る彼がどれほど残っているのか、見定めるように目を合わせる。

「──お飲み物を用意しますね。珈琲でもどうでしょうか」

「ぜひ」

「今から淹れますので、ソファーに腰を掛けて待っていてください」

 珈琲。三十年ほど前にカフェインの危険性が指摘され、保健法に基づいて規制された飲料。

 十五歳のころ、広場で晒し者になった雀を見たあの記憶はエックにとって印象的だった。たかだか百五十㎖程度の飲み物のために、裸で縛り上げられ、輪抜け以上の辱めを受けた者の、鋭く冷たい眼差しを未だ忘れられずにいる。

 暖炉の火を眺めているうちに、ウイがコーヒーを入れたカップを手に戻ってきた。

「はいどうぞ、アメリカーノです」

 ほのかに漂う香りを嗅いで、エックは部屋に入ったときに感じた匂いの正体に合点がいった。

 このとても飲み物とは思えない黒。温めた泥水だと言われても、彼は納得するだろう。

 とても飲もうとは思えない。思えないが、その感情に反して彼は取っ手に指を掛けてカップのふちを口まで運んでいった。

「熱っぁ」ブザー。

 苦味。その強烈な苦さで、衝撃のあまり舌がのたうち回っている。ちょろっと漏れ出た涙をエックはぐっと力んで止めた。

 意外にも、不味いという感想は出てこない。かといって美味しいとも言い難く、なんとも歯切りが悪かった。

 エックはブザーをなだめるよう慎重にカフェインを体内へ流し込む。

「はじめて飲みましたが、美味しいですね」

()()()()、ですか? 地上だと飲めないのでしょうか」

「ええ。私が生まれる前に禁止されてしまったので。裸になる覚悟があれば飲めますけど……」

「なるほど。ですが、エックさん。あなたは飲んだことがありますよ」

 ウイはそう言い切った。まるで確たる証拠を握っているかのように。しかし、初対面でどうやって珈琲を飲んだか飲んでいないかが分かるというのだろう。

 あまりに唐突で稚拙な冗談に、エックは嘲笑した。

「はは、まさか! 私が広場で裸吊りされたことがあるとでも」

「ないでしょうね。でも、飲んだことがあるはずです。たとえ思い出と過去が塗り替えられたとしても、真実は揺るぎません。あなたは青空を、見たことがあるはず」

 カップを口に近づけようとした手が止まる。

 音を立てないようにそっと受け皿に戻し、エックは呟く。

 

「青色の空、銃、ホワイトボード」

 ノー、という返事か、あるいは拒絶を予想していたウイは目を見張る。

「夢で見ただけですよ。猥褻(わいせつ)な言葉として知っていて、初めて見たのは夢の中でした。なぜ一目見てなにか分かったのかは、私にも分かりません。病気なのか、それとも……そもそも、()()()()ではないのか」

「……なら、これから私の語ることが、その夢の答えになると思います」

 ──今思えば、あの夢が始まりだったのかもしれない。広場でシロコと出会った日。そして、協力者の道ではなく固定者の道を選んだあの路地裏。

 この地下での生活は、愚かな好奇心が招いた滑稽極まる転落だと考えていた。でも、本当にそうなのだろうか? 

 隠された真実があるのだとすれば──

 ウイは立ち上がり、積まれた本の山に向かって歩く。エックも彼女の後を着いていき、山の麓で帰りを待った。

 数分後、ガサゴソとした音が止んでウイが山から出てきた。ステープル留めされた紙の束を手に、彼女は呼吸を整える。

「──昔話をしましょう。二十年以上前、キヴォトスには数千もの学園が存在しました。各学園が自治区を有する、学園都市キヴォトス。行政は連邦生徒会という生徒で構成された組織が担い、運営していたんです。街行く人々はみな銃火器を携え、毎日どこかで発砲音を耳にする、それが日常でした。その社会構造には欠陥もあり、無視できない問題は山積みでしたが、それでも生徒たち、市民たちは懸命に生きていました。そんな日々に終わりが訪れます。ある日、自らを〝保護者〟と名乗る生徒が全学園に宣戦布告しました。はじめは誰も気にかけませんでしたが、一夜にしてミレニアムが陥落したことをきっかけに、先生率いる学園連合軍が結成されました。保護者対連合軍の戦争が始まったんです」

「……大故国戦争のこと、ですか?」

 自信のない控えめな声でエックが言うと、ウイは頷く。自信がなかったのは、大故国戦争は百年以上も前の出来事だと彼は記憶していたからだ。

 これは単なる記憶違いではない。

 

〈検索:大故国戦争〉

〈保護者による人民保護宣言の後に保護者と連合政府間で起こった戦争。旧暦二〇二一年一日二二日から保護歴四年一一月一一日にかけて四年間続いた。「最終戦争」「四年戦争」とも呼ばれる〉

 

 保護府の管理するデータベースにはそう記録されていて、戦争終結から今日にいたるまで軍事行動は一切ないとされている。

 つまり、彼女の語る昔話と〈データベース〉の語る歴史には相違がある。

「先生の健闘むなしく連合軍は劣勢に追いこまれ、三年でほとんどの自治区が保護者勢力の手に渡りました。連合軍はトリニティ自治区にある地下墓地(カタコンベ)まで後退、私たちはそこで新たな生活圏を築きました。ここも、その一部です」

 ウイは手を広げる。一片の陽光さえ届かない地の底で、彼女たちは抵抗していた。ウイは話を続ける。

「地下での抵抗は一年ほど続き、私たちは疲弊しました。この状況を憂いた先生は責任を取ると言って、自ら休戦交渉をしに保護者の元へ向かいました。交渉は無事に成立したおかげで戦争は四年目にして終結し、つかの間の休息を得る事ができました。ですが、休戦してすぐに先生は消息を絶ちました。求心力を失った連邦生徒会は崩壊。無政府状態となった地下に保護府が介入し、生き残りの生徒たちは捕まって処刑されました。生徒で生き残ったのは、私ただ一人です」

 知られざる歴史を聞いて、エックはただ驚くばかりだった。ウイの語ったことは眉唾もいいところである。

 戦争があったという期間、彼の周りに焦土の匂いはなかった。いくら思い出そうとも、陰口と清潔感のある部屋とモーセ以外にはない。

 しかし、彼女もただの妄言を吐く固定者とは思えない。その堂々たる様相には、相応の説得力があった。

 彼は首にあるポートに触れる。記憶装置のデジタル化によって情報の出し入れが容易になった、画期的な技術。それは同時に、記憶改(ざん)を可能とする技術だった。

 エックはもちろん、全流動者はその危険性を承知で受け入れていた。保護者という()()()()()を信奉しているからだ。信じることで、キヴォトスは楽園であることが保障される。

 だが、彼の中の信仰心が揺らぐ。知恵の実を食べた彼はもう裸でいられない。哀れなことに、神を疑う心が生まれてしまった。

 データベースどころか自らの記憶さえ噓をついている可能性がエックの頭に過ぎる。

 それはすなわち、保護者が私たちを騙していることに他ならない。受け入れがたい真実に彼は頭を抱えた。

「考える時間をください。あなたの話は、少し飲み込みがたい。端から信じないというわけでは、ないのですが……」

「突然こんな話を語られて、混乱する気持ちも分かります。話の区切りもいいですね。そろそろ睡眠を取りましょう。太陽がなくても夜は訪れますし、眠気だってありますからね」

 案内された客室に入って、渡された紙の束と共にエックはベッドへ沈む。

 仰向けで天井を眺めているうちに、そのまま天井が落ちてきてくるのではないかと彼は思った。落ちてくる天井に抵抗できずに挟まれ、ブザーが声をあげる暇もなく身体が粉々に砕かれる。

 骨格、筋繊維、内臓。暗闇の中で薄れていく意識は、まさに死そのものだ。

 

 ──くすぐったい視線が、だんだんと近づいているような気がする。周りを見渡すと、そこは地下図書館によく似た場所だった。そう、ここは古書館だ!

 珈琲の匂いがする。釣られるまま匂いの方向に向かうと、そこにはウイがいた。ヘイローの形は同じだが、かなり若い。二十歳ほど若返っているのか? 他の固定者と同じぐらいの歳に見えた。

 渡されたアメリカーノを一口飲む。先ほど飲んだものより味は落ちるが、十分に美味い。

 暖炉のパチパチとする音に耳を委ねながら、滑らかなクリーム色のページをめくる──

 

 

 足音でエックの意識は濃くなっていく。目を開けると、すぐ横でウイが布団をめくろうとしていた。彼はむくりと上体を起こす。

「おはようございます。一向に起きる気配がなかったので、起こしに来ましたよ」

「ん……どれぐらい寝てました?」ヘイローを起動する。

「十二時間ぐらいですね」

 エックはテーブルに置いておいた腕時計を手に取って確認する。太陽があれば、すでに頭上に位置している時間だ。

 ズキズキと痛む頭を押さえる。

「その時計、誰から貰ったんですか」

「アビドスのシロコからです。あると便利だと言われまして」

「ユメさんのところの子ですか?」

「はい。彼女、元気にしてますよ」左腕に着ける。

「……昨日から気になっていたんですが、敬語はいらないですからね」

「あなただって敬語じゃありませんか」

「それは、後で事情を説明しますので。とにかく、いつも通り、フランクにお願いします。そっちのほうがこっちも気が楽なので」

 ──いつも通り? ──

「それじゃあ。ウイ、おはよう」

 顔を隠してエックから目を逸らす。

「どうしたんで、どうしたの?」

「いえ、こっちの話ですから。気にしないでください」

 ウイは部屋を出ていき、エックも十数分ほどゴロゴロしてベッドから起き上がった。

 

 昨日、歓談した暖炉の前に向かうと、黒い影が珈琲を静かに啜っていた。

 灯火が照らし出すそれは、人の形を保っていながらも頭部の輪郭は不安定に揺れている。エックは思わず息を潜めた。

「ふむ、やはり紅茶のほうが私の舌には合いますね」

「文句があるなら飲まないでくれますか」

「ウイ……そいつは?」

 エックの存在に気付いたそれは、視覚の役割を担っているであろう白く光る部位で目を合わせる。

 数秒の間を置いて、それは嬉しそうに音を発した。

「これは、これは。マイスター・エックハルト。あなたとの感動的な再会を、杯でも交わしながらでも喜びを分かち合いたいですね。しかし、今のあなたにとってはこれが初対面でしょうから、杯のないここでは控えておきましょう」

 カップを置き、すくっと立ち上がるとエックに近寄り、右手を差し出す。エックはまだ身構えたまま、無性に湧く警戒心を剝き出しにしていた。

「──おっと、自己紹介がまだでしたね。私のことは黒服、とでも呼んでください。崇高を探究する〈ゲマトリア〉のメンバーです。漂白化を生き残った魔術師、古関ウイが率いる学生同盟とは協力関係にあります。ああ、見た目は気にしないでください。私はキヴォトスの外部の者ですので、キヴォトス人とは身体構造が異なるのです。それはあなたも同じことですが」

「そう。よろしくね」

 ようやく二人は形式上の握手をした。黒い炎は揺らめき、不敵に笑う。

「せっかく淹れたものが冷めてしまいますので、エックさんも席に座ってください」

 促されるままソファーに腰掛け、少し湯気の抜けたアメリカーノを飲んだ。

 

 舌に転がる苦味が薄れていく。カップの底についた跡を眺めながら、エックは口を開いた。

「昨日からのウイの口ぶりと……その黒服、さん? の発言から察するに、私たちは初めましてではないんだね。つまり、私は記憶を失っているわけか」こめかみを突っつく。

「──二十年前、キヴォトスの外から赴任してきた方がいました。連邦捜査部シャーレの担当顧問であり、先生と呼ばれ、生徒たちから慕われていた方です。先生は大小あらゆる問題を生徒と共に解決へと導き、ときには世界の危機さえ救いました。学園の存亡を賭けたあの戦争も、先生がいなければ一年も保たずに、私たちは為す術もなく屈服させられていたと思います──地下に撤退してから一年経ったあの日、それまで意思疎通の一切を拒絶していた保護者が対談を提案しました。それが罠であることは、みんな分かっていました。ですが、戦いを終わらせたい先生の意志を、止めることは……できなかったんです」

「そして、彼は保護者と休戦協定を結び、消息を絶ったと」

「ええ。青空を廃したあの漂白化の後も、私たちは先生を捜索し続けました。保護者に抹消された可能性も高く、望み薄ではありましたがね。ですが一五年の歳月を経て、ようやく行方知らずだった先生を観測できたのです。すでにお察しでしょう? エックハルト、あなたがその先生なのですよ」

 黒服は興奮を抑えながら語る。それが抱いている感情とリンクするように白い光は輝きを増し、輪郭が揺らめく。

 エック自身が先生という下品な存在であったことは、驚くべき真実だ。だが、彼は不思議と落ち着いた調子のままだった。

 まるで他人の身体に乗り移り、操っているような気分。

「先生は私と同じく外部から来た〝不可解な存在〟です。流動者でも固定者でも異質なものとして扱われ、疎外感に悩まされるのも無理はありません。これがあなたの被ってきた、不条理の答えです」

 三一年間、偽の記憶を除けば一五年間。生涯に渡ってエックを苦しませていたものの正体を掴めた。掴んでしまえば、あっけないものだ。

 エックの心に動揺はない。はじめからすべてを知っていたかのように。

「で、キミたちは何をさせたいのかな?」

「先生がいない間、私は〈先生〉として固定者解放を目指す学生同盟を結成しました。私が育てた生徒たちは各地に点在し、それぞれの地区で共同体を作っています。どうか、お願いします。私たちの青春を取り戻すために、エックさん、もう一度私たちの先生に──」

「無理だね」食い気味。

 空気が重くなる。暖炉の火は今にも尽きそうで、弱々しい光を放っていた。

「ど、どうして……」

「勝ち筋がない。相手は保護者と協力者率いる守護者たち。天井光や食料のような生命線(ライフライン)を保護府に握られている以上、正面切っての行動は取れない。となると、相手に悟られず保護者を直接叩くしかない……到底不可能だ」

「ふむ、全流動者に記憶改竄を暴露すれば味方にできるのでは?」

「私のように受け入れられるとは限らない。みんな、現状に満足してるからね」

 ポケットの底にあったモーセを一粒取り、口に放り込んで噛まずに舌の上で転がす。

 ウイは口を動かそうとするものの、声を出せずにいた。

エック(あなた)なら、たしかに勝ち目のない盤面を覆すほどの力はないでしょう。しかし、先生(あなた)なら可能です。変数であり、特異点である先生であれば。あなた自身が覚えておらずとも、私たちはあなたの成してきた奇跡を覚えていますよ」

「そうかい。私は覚えてないし、奇跡とやらになんら興味も湧かないね。残念ながら、私はどこまでいっても先生ではなくエックだよ。青色は嫌いだし、学園とやらも不愉快極まりないと思っている。先生だったという事実を知ってもなお、その認識は揺るがない。そう、思考から真実は生まれるんだ」

 エックは席を立ち、暖炉を背に扉へ向かう。黒服は静かに、それでいて耳に届くよう呟いた。

「エック、あなたに見せたいものがあります」

 立ち止まり、ドアノブから手を離して後ろを振り返った。エックの目は黒服の目をしっかりと捉え、白い光の奥にあるものを探る。

 しばらく考えた後、彼は黒服の後についていった。

 

 

 黒服はランタン片手に明かりのない廊下を進んでいく。カビの生えたドアをゆっくりと開き、埃の舞う部屋の中へエックをいざなう。天井から伸びたフックにランタンを掛け、床に手を置いた。板を横にずらして、床下から物を取り出す。

「これは?」

「あなたが先生だった頃に使っていた代物、〈シッテムの箱〉と〈大人のカード〉です。起動できますか」

 電源ボタンらしきものを押してみる。すると、画面に光が灯った。灯ったが、「S」という字がでかでかと映し出されるだけで、なにも起こる気配はない。

「……記憶を取り戻さない限り、本来の機能を扱うことはできないようですね。恐らくは、このカードも同様でしょう」

「黒服はこれが唯一の勝ち目だと考えているのかい」

「さすが、話が早くて助かります」

「でも、これを以てしても先生(わたし)は勝てなかった。そうでしょ?」

「条件と手順が違えば、異なる観測結果が出るものですよ」

「そんなものを勝ち目とは呼ばないよ」

「ええ、これは無謀な賭けに過ぎません。ですが、このリターンはあなたにとって大変魅力的だと思います」

 煤けたタブレットに触れる。指先から懐かしさが伝う。だが、その懐かしさの正体をエックは思い出せない。

 彼はランタンを凝視しながら、深いため息をついた。どこまでいっても、好奇心にはなかなか勝てない。

「気になるね。過去の私が、なぜ固定者たち──生徒たちを助けようとしたのか。その答えは、ここにあるのかな」液晶をコツンと叩く。

「ククク……そうかもしれませんね。どうぞ、持っていってください。先生(あなた)のものなのですから」

 

 小さく溶けていく燭台の火をぼうっと眺めるウイに、後ろから声をかける。

「やっ。元気がないね、ウイ。私のせいかな」

「せんせ──あっ。すみません、エックさん」

「呼びやすいほうで呼んでもらって構わないよ。エックでも、先生でも」

「ですが……」

「これ、分かるでしょ。まだ起動できないけどね」わざとらしくタブレットを扇ぐ。

「──先生としての道を、歩んでくれるんですか?」

「まあ、それはまだ断言できないけど。でも少しだけ、青空がどんなものか、この目で見たくなったんだ。好き嫌いは、それから決めることにするよ」

 ウイは安心したように胸を撫でた。後ろで尽きかけている火に気付いて、暖炉に薪をくべる。

 火は再び、吹き返した。

 

 ──視線が強い。刺すような視線だ!

 目を開けると、そこには水平線の向こう側まで広がる海。

 ここは教室だろうか。積み重ねられた机に、半壊した天井と壁。

 不規則で分厚い雲が、青空の中を自由に泳いでいる。綺麗だ。おっと、左手が握られている?

 振り返ると、そこには少女がいた。今まで会った少女の中でも、かなりのちんちくりんだ。この子の笑顔を見ていると、なんだか穏やかな気持ちになる。

 しかし、ここはどこだろう? この子はいったい──

 

「黒服は来ないの?」

「私は〈敵対者〉として追われる身ですので、消灯後でないと行動が起こせないのですよ。屋内から屋内への直接移動は可能ですが……寂しがらずとも、そう遠くないうちに会えます」

「先生、そいつは放っておいてさっさと行きますよ」バタン。

「ククク……相変わらず()()()には辛辣ですね」

 ということで、エックはウイと二人でT区を散歩することになった。

 〈トリニティ〉のホストへ会いに行くのと、回顧した思い出を先生(エック)に伝えるためだと彼女は言っていた。

 薄暗く狭い地下通路に反響する足音を聞きながら、エックは黒服の言っていたことを思い起こす。

『自らの足で向かう必要はありません。幹部らは地下図書館(ここ)をご存知ですし、招集すればよいのです。それに、過去の出来事はウイさん自身が普段から日記に事細かく書いているのですから、わざわざ外に出る意味はないでしょう。それに、ウイさんは外出を苦手としている、と私は記憶していますが。違いましたか?』

 そう言った後、ウイに頭を鷲掴まれたまま奥の部屋に連れていかれた黒服は、しばらくすると顔のヒビ割れを一つ増やして帰ってきた。

 旧時代で言うところのイメチェンだろうとエックは解釈した。彼女に何をされたのか訊く勇気はなかった。

 

 足を膝の位置まで上げないといけないほどに急勾配な階段を上っていくと、光が二人を出迎えた。

 後ろを振り返ると、ウイは膝に手をついて乱れた呼吸を整えている。

「はーっ、はーっ……きつい。これだから外に出るのは……」

「無理に外出しなくてもよかったんじゃ」

「いえ、たまには運動もしないと、いけませんので。生徒のみんなにも言われてますし。それに──」

「それに?」

「先生とはこうして、出かけたかったので」

 花の蕾がほころぶようにウイは微笑んでみせる。少し考えてから、エックは笑顔で返すことにした。

 

 道を行き交う固定者たちは、二人の横を通ってもウイに見向きすることなく過ぎていく。変装は上手くいったらしい。

 ウイの顔が割れている中で目立ってしまうと守護者に見つかるかもしれないので、なにかしら対策が必要だったのだ。

 今の彼女の姿は凡百の固定者そのものだ。ボディラインを拾わない灰色の衣に、艶を抑えた黒のウィッグ。

「輪っかは誤魔化さないでいいのかい」

「色形を認識できるのは先生だけですよ」

「そうなの?」

 他愛のない会話を楽しみながら二人は地下街を歩く。いかにも歴史がありそうな建物をウイは一瞥もせず話を続ける。

 そう、こんな歴史に価値などない。保護者によって徹底的に漂白された後、意図的に作られた歴史。

 しかし、昨日の話を聞いてもなおエックはこの建造物群に歴史の重みを感じていた。

「見た目は清潔だけど、建築様式はA区より古そうだね」

「はい。実際には五年の差しかありませんが」

 

〈検索:固定者居住区 開発 いつ〉

〈同化計画によって構想された流動者と固定者の分断は……〉

 

「──データベースには『七十五年前に固定者居住区開発計画が始まり、二十五年の時を経て居住区は完成した』とあるね。記録上の築年数だと二十年以上は離れていそうだ」

「辻褄合わせのためだけに、()()()建物を古ぼけたように見せて、それでいて外壁の塗装剝げはすぐ補修だなんて。馬鹿みたいですよね」

 たしかに倒錯的だ。秩序のためなら生活水準を低くすることだって(いと)わないらしい。保護者による壮大な演劇の舞台上に二人は立っている。

 エックは歩道橋の上から足元に広がる大通りを眺めた。

 網膜に映るのは、保護者の掌で生かされているこの街と少女たち。

 

 そんな調子で散歩していると、前方からこちらに手を振る人影がちらりと見えた。遠目でも分かるぐらいにぶんぶんと勢いよく手を振りながら走ってくる。

 ハツラツな声が届いて、顔もよく見える位置まで近づいたところで、倒れた。

 見るに、すっ転んだらしい。

「いたた……」

「ヒナタさん、大丈夫ですか」手を伸ばす。

「ありがとうございます、ウイ先生っ」

「外で先生呼びは控えてください」

 長い黒髪で見え隠れする、宝石のように潤んだ赤い目の少女は、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。

 ウイは少女の服についた汚れをはらう。

「足元には気を付けましょうね」

「珍しく外でウイさんを見かけたのでつい……そちらの方は」

「せん、エックさんです。T区に来たのは初めてとのことなので、街案内をしているんです」

 ここで、エックは当然の疑問を投げた。

「……なぜ、ヒナタさんは遠くからウイだとわかったの?」

「歩き方でわかりますよ!」

 クセを覚えるほどに両者の関係が深いのが垣間見える。そこまでの間柄を持った経験のないエックにとっては、なかなか実感しづらいものだ。

「しっかりとご飯は食べていますか」

「一昨日は食べました」

「お部屋はキレイに整頓してますか」

「なにがどこにあるのかは把握してますし」

「シミコさんも心配してましたよ、『また散らかっていたら、お仕置きとして一ヶ月間コーヒー禁止にしましょう』って」

「……善処します」

 ヒナタの明るさと世話焼き具合にウイが気圧されている様子は、なかなか愉快なものだ。

 先生と呼ばれ慕われているはずの彼女からは、あまり年長の威厳を感じられなかった。その光景はまるで年頃の少女たちの談笑のようだ。

 長くなりそうな世間話もそこそこに、ヒナタは二人に別れの挨拶をして走っていった。遠くなっていく生徒の背中を見つめながら、渡された携帯食料をかじる。

 A区のものより繊細な味付けになっているようにエックの舌は感じ取った。

「ヒナタさんは、私の……友だちでした。漂白化以前のことですが」

「それは、どういう?」

「二十年前、〝若葉ヒナタ〟という生徒がいました。その人は真面目で、誰にでも優しくて、おっちょこちょいでよくケガをする、太陽のように眩しい人でした。戦争が始まって二年、桜から最後の花びらが散るころ、安否不明者名簿にヒナタさんの名が記されました。従軍聖職者として前線で祈りを捧げていた彼女は、敵に捕まりました。保護者側とコンタクトが取れない以上、捕虜として生きているのかどうかさえ分かりません。あいつらはただ、アクセサリーを航空機越しにこちらへ渡してくるばかりでした」

 ウイは手をポケットに入れて、なにかを掴んで取り出した。

 掌にはチェーン付きの小さな十字架があった。

「漂白化の後、ゲマトリアの方々に助けられながら地下図書館で身を潜めること五年。外の様子を確認するため、変装して地下生活圏を歩いていると、ルビーのような赤い瞳をもつ少女に出会いました」

 十字架を握り締める。皮膚に刺さったのか、指の隙間から血が垂れ落ち、地面に一滴の汚れを残した。

「その子はヒナタと名乗りました。真面目で、誰にでも優しくて、おっちょこちょいでよくケガをする、太陽のように、眩しい子」

「それは──」

「見間違えませんよ、あの子は間違いなくヒナタさんです。でも、あり得ないことでした。本当だったら二十六の誕生日を迎える人が、まだ七歳だと言って、自分の苗字さえ覚えていないんですから。先生から、彼女のヘイローはどう見えましたか」

「ただの白い光輪だったね」

「私だけはなく、みなさんもヘイローに特徴がありました。ヒナタさんもそうです……保護者が捕まえた生徒をどうしたのかは分かりません。私から言えるのは、私の知る若葉ヒナタさんはすでにいない、ということだけです」

 生徒たちは一人として欠けることなく生きていた。そして、苗字を失い、銃を失い、ヘイローを失った。さらには生徒であることも失い、固定者として生きている。

 すれ違う少女も、追い越していく少女も元生徒なのだ。

「そろそろ着きますよ。ここを右に曲がれば目的地です」

 二人は光の届かない路地裏へ消えていった。

 

 

 ウイが壁に空いた穴に腕の焼き印を見せると、壁がスライドして一本の通路が現れた。

 人ひとりが通れる幅しかない廊下を進み、広い空間に出ると姿勢よく座る一人の少女がいた。薄いクリーム髪の少女は二人の存在に気付き、すっと立ち上がってお辞儀をした。

「ごきげんよう、ウイ先生。それとはじめまして、マイスター・エックハルトさん。お話は伺っております。どうぞこちらへお掛けください。紅茶、お入れしますね」

 二人を席に案内して座らせると、少女は向かいの椅子に座った。目の前にある三つのカップに紅茶を注ぎ、ポットをそっと置いた。

「トリニティのホスト兼、学生同盟で先生の補佐を務めております、ナギサと申します。改めましてマイスター・エックハルトさん、はじめまして。今後ともよろしくお願いいたします」

「これはご丁寧にどうも……美味しいですね、これ」

 紅茶は珈琲よりカフェイン含有量は少ないものの、茶葉の生産規制でほとんど飲む機会はなかった。

 覚醒作用による眠気解消や集中力向上を理由に医療用茶葉として残っているが、処方されたことのないエックにとってはこの一杯が紅茶との出会いだった。

「茶葉は貴重ですが、こうしてご足労いただいたお客様にはお出ししませんと」

「だからって私の分まで用意しなくても」

「お客様、ですからね? いつも地下に籠もって代理である私に業務を押しつけ、何か月ぶりにようやく会いに来たと思いきや流動者を連れてくるような方は……」

「それはその、申し訳ないと思ってます……ですが、この人はただの流動者じゃありません。私たちと一緒に戦い抜いた先生その人です」

 ナギサはカップを唇に寄せ、山海経産の紅茶を少し含む。カタン。

「ウイ先生がそうおっしゃるのなら、そうなのでしょうね。ですが、T区の固定者代表として、あなたの生徒の一人として、エックハルトさんを先生として迎え入れることはできません」

「私の意見は聞き入れられませんか」

「そうではありません。私がよいとしても、みなさんを納得させるには相応の時間と信頼獲得が必要になります。私たちの先生は、古関ウイさんただ一人なのですから──それに、敗軍を指揮した方が今さら、なにをしようと言うのです」

「ナギサ!」怒りを抑えながらも声を荒らげる。

「諫言と捉えていただいて構いません。ですが……」

 エックがピンと手を挙げ、両者の間に割って入る。蚊帳の外であることが不満のようだった。

「ナギサさんの言う通り、私は流動者だよ。このヘイローが偽りである限り、その真実は変えられない。しかし、流動者を味方につけるのはキミたちの利になるはず」

「その心は?」

「私たちの勝機は保護者と直接対峙すること。真っ向勝負だと負けるのは過去が教えてくれたからね。では、保護者に会うための手立てはなにか」

「……学生同盟に与する流動者が保護府中枢に入り込んで保護者に接近する、でしょうか」

「その通り。流動者と固定者、一番の差は『協力者になれるか否か』だ。名誉試験を受けられるのは流動者に限られる。ナギサさん、あなたの目前にそのチャンスがいるんだよ。保護者に一矢報いるチャンスが」

「あなたを信じろというのですか?」

 真偽を見定めようと瞳の奥を覗こうとするナギサをエックは振り払い、ウイの方を向く。

「私ではなく、ウイを信じてあげてほしい。私を信じる先生(ウイ)のことを」

「お願いします、ナギサさん」

 二人は深々と頭を下げる。それを見ると、ナギサは息を少しついてから言葉をかけた。

「顔を上げてください……エックハルトさん、あなたのことを認めます」

「ありがとう、ナギサさん」

「ですが学生同盟の〈先生〉は、表向きだけでもウイさんが引き続き務めてください」

 カップから漂う、リンゴのように甘く柔らかな香りが部屋を包み込んでいる。鼻孔を通る優しい匂いに、三人の心は少しばかり解されていた。

「──失礼、そなたらの話も幕間と相成ったか」

 声のする方を向くとそこには双頭の木製人形と、絵画を抱えた首なしのコート姿の影が立っていた。

 

 

 人形がカタカタと音を立てながらテーブルに近寄り、ポットの蓋を開けた。

「ふむ、私たちの来訪は事前に伝えておいたはずだが」

「あなた方は生命活動を保つために補水を必要としないのでしょう。茶葉は貴重ですので」

「…………」

「そういうこった!」

 お客様待遇がないことを確認すると、それらはエックの方を振り向いて前屈気味に顔を見合わせる。

 目らしきものはないが、エックを隅々まで観察するかのような動作をする。ようやく満足したのか、体勢を起こした。

「おっと、失敬。定型の挨拶を済ませていなかったな。お初にお目にかかる、先生。久方ぶりの再会、大変喜ばしい。私はマエストロ。ゲマトリアではそう呼ばれている」

「…………」

()の者はデカルコマニー。絵画はシャガールだ。双方は互いの〝記号〟として象徴し合い、互いを証明し合って存在している。生憎、シャガールは寡黙なので彼らの代弁は私が執り行おう」

「そういうこった!」

 人数が増えてずいぶんと賑やかそうに見えるが、空気中は先ほどよりもピリついていた。

「どうやら歓迎の雰囲気ではないが、構わず続けさせてもらうぞ。先生(エック)には私たちの局面を飲み込んでおいてほしいのでな」

「わかった。よろしくね、マエストロさん」

 

 マエストロは席に着き、デカルコマニーはその背後で直立したままエックをじっと見つめる。その視線を感じたエックは、全身にかすかな悪寒が走った。

「まずは、先の戦争についてだ。断っておくが、先生が負けるのは有り得ない事象だった。相手はたった一人の生徒、かたや全学園都市勢力……戦力差を覆したことについても多少の疑問は残るが、最も不可思議なのは生徒たちの神秘を抽出した点だ。少女たちは崇高の器であり、神秘と恐怖を写し出す鏡。器そのものに力はなく、崇高にこそ力の本源があった。元生徒である固定者は、いわば空の器であり、無力な脱け殻なのだ」

「保護者には、その神秘というものを奪う方法があるわけだね」

「ああ。一時は解散したゲマトリア(わたしたち)であったが、この現象の興味深さには一様に惹かれた。そこで、先生と協力関係を築いて保護者の神秘を探究することにしたのだ。しかし、その方法は未だ不可解である。キヴォトスの生徒たちを実験対象とした崇高への道は黒服が専門とするところだが、彼を以てしても解明には手こずっている」

「そういうこった!」

「先生だった私が言うのもあれなんだけど、保護者の神秘について探りたいのであれば、保護者側につくべきなんじゃないのかい」

「残念ながら、彼女はゲマトリアをキヴォトス外からの〝侵略者〟と見做し、敵対しているのだ。もっとも、芸術を『旧時代の野蛮』だとか、稚拙で的外れな論理を展開するような輩と手を組む気は毛頭ないが」

「…………」

 ──彼の言っていることは理解しがたいが、ひとまずゲマトリアの立場はわかった。おそらく、彼らを味方だと考えるのは危険か。

 神秘とやらに興味があるだけで、生徒たちやキヴォトスがどうなろうと気にしないだろう。警戒を怠るべきではないな──

「相変わらず顔に出やすいな、先生。なに、私たちを信用する必要はない。しかしながら、砂漠の中で砂粒に扮していたそなたを見つけ出し、ここまで導いたのは他でもない。私たちであることを理解してほしい」

 エックはウイの顔を見て真偽を確かめる。どうやら、ゲマトリアの主張は正しいようだった。

 シロコが地上に出ていた理由について「おじさんたちに頼まれた」と言っていたことを思い出す。

「そなたがホシノから頼まれた一連の手紙も私たちの差し金だ。ときに、古関ウイにあの手紙は渡してあるか」

「あっ……今からでもセーフ?」

 マエストロが少しの沈黙の後にコクコクと頷いたのを見て、懐で温めっぱなしだった手紙をウイに手渡した。

 ウイは封を切ってそこに書いてある文に目を通す。

「──把握しました。ありがとうございます」

「さて、話を移そう。そなたも気になっているだろう。青空を灰空へと変質させた元凶である〈漂白化〉について」

「…………」

「ふむ、そうだな。この現象については、シャガールのほうが造詣が深い。彼の言葉をそのまま、そなたらに伝えよう」

「そういうこったあ!」

 

 デカルコマニーはマエストロに近寄って背中に張り付き、数分の静寂の末に人形が喋りだした。

「……十五年前の二月四日十一時〇分〇秒、最初の〈異変〉が観測された。サンクトゥムタワーを中心に異変は伝播していき、同日一九時〇分〇秒にはキヴォトス全域に蔓延し尽くした。これによりキヴォトスから〝学園〟と〝青春〟と〝物語〟、以上三つの記号の消失が確認された。キヴォトスに根付いていた記号が漂白されたことから、この〈異変〉を〈漂白化〉と呼称した。漂白化現象には保護者が関与しているものと思われるが、なぜ漂白化を発生させたのか具体的な動機は不明。聞きたければ本人に直接問い質すといい」

「消失……でも、私は言葉として三つとも知っているよ。それが何を意味するのかも」

「……記号の消失は、言葉の消失を意味しない。喩えるとすれば、空島という言葉があっても空島が存在するわけではない、そんなところだ。まあ本来、記号とは即ち言葉。どちらかが欠けていては存在しないものなのだが。もしかすれば、私たちは『消失した』と誤認させられているだけなのかもしれない」

「そういうこった!」

「シャガール、キミ自身の見解でいい。なぜ、保護者はその三つを消したと思う?」

 次の静寂はかなりの長さだった。エックは過ぎた質問だったと思い、訂正しようと口を開いた瞬間に人形が動き出す。

「……学園と青春と物語。これらの記号には共通する解釈が見出せる。それは可能性であり、不完全性であり、希望であり、破滅。この解釈から生まれる数多の〝テクスト〟が保護者にはお気に召さなかったのだろう。これは私個人の見解であり、参考程度に留めておくことを推奨する」

「貴重な意見、助かるよ。ありがとう」

「……私からは以上だ。他に質問がなければ、これにて失礼する」

「そういうこった!」

 デカルコマニーはマエストロの背中から剝がれ、元の位置に戻った。調子を取り戻そうとナギサが舵を取る。

「エックハルトさんも、これで現状の把握が十全にできたかと思います。今後の方針としては、保護者暗殺を目標とした計画立案とその準備ですね」

「そうだね……ねえ、ウイ。保護者は生徒で間違いないの?」

「はい。ヘイローが確認されているので、そこは間違いありませんよ」

「そう」

 エックは額に親指を当て、黙り込む。ぐりぐり。少ししてからまた言葉を続けた。

「本当に、殺すべきなのかな」

 

 

 場が凍るというのは、まさにこういう状況を指すのにピッタリだ。そう思えるほどに凍ってしまった。

 この言葉に激情をみせたのはウイだった。

「先生、気は確かですか」

「確かだよ。これ以上ないほどにね」

「あなたはそうやって……あのときもそうだったんですか」

「あのときってのが思い出せないけど、そうだね。私が生徒を思う先生なら、まず対話を望むんじゃないかな」

「大勢が犠牲になったんですよ。保護者のせいでどれだけ多くの生徒が死んだと思ってるんです?」

「本当の意味で死んだわけじゃない。彼女たちは今も生きている。神秘を抽出したというのなら、その逆もできるはずだ。みんな元に戻る道があって、それを話し合いで切り拓けるのなら、先生(わたし)だってそうするはず──」

 痛み。ブザーは限界を迎えて擦り切れたのか、すでに鳴らなくなっていた。平手打ちをくらった頬に触れる。

 ウイはエックの胸ぐらを掴み、壁に押しつけた。彼女の瞳は、涙で(にじ)んでいる。

「それができたなら、休戦交渉したあの日にすべて終わったんですよ。でも、そうはならなかった。もう対話なんて無意味です!」

「交渉の場で、二人はなにを話したのか。それを知るのは保護者と私だけなんだ。私がその内容を思い出せれば、もしかしたら希望があるかもしれない」

「もう、死んだんですよ……ヒナタさんも、シミコも、みんな! もう、嫌なんです。ありもしない希望に縋るのは、疲れたんです。やめてください……先生の顔を見ると、また信じたくなっちゃうじゃないですか」

「ごめんね。これが先生(わたし)なんだと思う」

 ウイはその場にへたり込んだ。彼女の身体をそっと抱き寄せ、エックは受け止める。

 十九年間の絶望、憎悪、孤独、後悔。彼の胸で泣きじゃくるウイを見ていたナギサも、ハンカチを取って目頭を拭いた。

 

 落ち着きを取り戻したところで、二人とも席に戻って話を続けた。

 保護者に対してはまず対話を試みて、交渉が決裂したら予定通り殺害する、というところで互いに譲歩した。キヴォトス人は頑丈だが、専用の得物をシャガールたちが用意してくれるらしい。

 その他の予算調整や人員再配置など、それ以降はとくに対立する意見なく話も円滑に進んでいった。ナギサとウイの仕事ぶりを見ていると、エックは自身の存在意義について自問したくなった。

 会話の輪に入れないことを悟ると、マエストロのほうに椅子を寄せた。

「ちなみに、ゲマトリアは三人で全員なの?」

「現在のゲマトリアには三人しかいないな。旧メンバーにはベアトリーチェやフランシス、地下生活者などがいたが……彼らとはあまり良い思い出がないな。どうにもそりが合わなかった。いや、撤回しよう。ゴルコンダとは記号から生まれるテクストの虚構と非実在について語り、興味深い知見を得ることができた。すでに居ないことが実に惜しい」

エック(わたし)についてはどこまで知ってるの?」

「名誉試験に四回ほど落ちていることは把握している」

「……それって捏造された記憶だったりしないかな。実際には試験を受けてなかったりとか」

「黄色い服を身につけて会場に入っていく場面を四回、会場から出ると手応えを感じたのか小さくガッツポーズした場面を四回、合否通知を見て肩を落と──」遮る。

「あー、あー、もういい分かった。そうだね実力で落ちたんだな受け止めるよ現実を」

「そういうこった!」

 そうこう話しているうちに、消灯時間も近づいてきていた。

「では、みなさま。帰り道には気をつけてお帰りください」

「私たちはお先に失礼する」

「…………」

「そういうこった!」

 ゲマトリアは早々に立ち去る。壁にそのまま向かっていくと、彼らを壁はすっぽりと飲み込んだ。跡も残らずどこかへ消えていった。

 二人も荷物をまとめ、ナギサに別れを告げて細い廊下を抜ける。路地裏に出て、壁が閉まっていくのを確認してから二人は大通りへと歩く。

 前を行くエックの背を見ながら、ウイは喋り出した。

「その、今日はありがとうございました。そして、ごめんなさい。先生は悪くないのに、八つ当たりをしてしまいました。生徒の前であんな醜態を晒してしまいましたし。仮にも先生の名を背負っている身なのに……」

「いや、謝るべきは私のほうだよ。私が背負うべきはずの重荷を、生徒に一五年も押しつけてしまった」

「最初の五年は引きこもっていましたので、正しくは十年ですよ。それに、生徒といっても私もいい歳ですから」

「私から見れば三十代なんてまだまだ子どもだよ。ウイは立派にやってくれてる。ヒナタやナギサとの関係を見れば分かるよ。キミは、いい先生だ」

「先生……今日なんだか私のことを泣かせにいこうとしてませんか」

「気のせいだよ」

「ふふっ、ありがとうございます。先生」

 大通りに出ると、建物で遮られていた光がエックの全身に注がれる。思いきり背筋を伸ばして、深い息を吐いた。

 本物の太陽ではないにしても、日陰にいるよりかは多少の元気を与えてくれる。

「よし、帰ろうか。ウイ」

「……」

「ウイ?」

 光の届かない路地裏には、誰もいなかった。

 十字架のピアスと、ロケットペンダントを残して。

 

 

 私のはじまりは、方舟が発した悲鳴の声。

 

 生と死が絡まって奏でる旋律。

 

 ああ、可哀想に! 私はそう思った。

 

 助けてあげよう! 私はそう思った。

 

 求められるままに目を開けた。

 

 私のはじまりは、朱に染まった大空の下。

 

 

 滴って反響する水の音が、ウイの眠りを妨げる。ゆっくりとまぶたを開けると、そこは見知らぬ部屋だった。ベッドの上でぐっすりと眠っていたようだ。

 身体を起こす。拘束具らしきものはついていない。変装をしていたはずが、インナー、カーディガン。いつもの普段着になっている。

 冷えた空気がどこからか流れ、彼女の肌を震わせる。天井から光が射し、黒い大型の箱のようなものを包み込んでいた。

「おはようございます」

 どこかで聞き覚えのある声に反応して振り返ると、そこには一人の女性がいた。

 二十歳前後のように見える若々しい容姿に、ウイ以上の背丈。体型はスラっとしていて大人びている。光に照らされた白銀色の長髪。鮮血のような目。

 その美しい瞳に、光はなかった。

「あまり容姿のことには触れないでください。少々恥ずかしいですので……よく眠れましたか? 一応、ウイさんの身体に合うベッドを用意したつもりなのですが」

「あなたは誰ですか」

「わたし──私、ですか」

 

 心細さからか、ベッドシーツを掴んだまま動かないウイさんに私は少しずつ近づいていく。

 ウイさんが私の言葉を聞き漏らさないよう、一音一音を丁寧に発した。

「私は保護者。貴方たちの保護者。お久しぶりです、古書館の魔術師……古関ウイさん」

 そう私が言い切る前にウイさんは後方へ跳び、ベッドを挟んで私との距離を取られてしまった。

「二十年ぶりの再会なのに、その態度は心外ですね」

「あいにく、会うのは初めてです」

 混乱、不安、殺意。錯綜する思考を押しやって私への思いを募らせている。そんなウイさんを見て、少し憂鬱な気分に襲われる。

「記憶が正しければ、古書館には三か月ほど足繫く通っていたのですが。まあ、いいでしょう」

「黙ってください」

 先刻まで眠りこけていたとは思えないほどの瞬発力で、ベッドを盾にしつつ愛銃を取り出して引き金を引く。

 〇・四五インチ口径から放たれた弾丸は音を殺して(くう)を切り、私の胸に綺麗な赤い花を咲かせてみせた。

 バタン。私は後ろに力なく倒れてしまった。だんだんと床に血が広がって、生温かい感触でいっぱいになる。

「あっけない」

 ウイさんは一言、そう添えた。コツン、コツンと音がして、次にペチャ、ペチャと血を踏みにじりながら私のほうへ歩いてくる。

 銃口を眉間に押しつけて引き金に人指し指をかける。そしてぐっと、指に力を入れた。

 しかし、引き金はピクリとも動かない。

 より正確に言えば、指が動かせなくなったのだ。

「──油断しました。まさか懐から小銃(カービン)を取り出して、いとも容易く腹をぶち抜いてしまうとは。デカルコマニーに手入れでもしてもらいましたか?」

「こ、れはっ……」

 私は血をなぞって空いた胸を撫でた。広がった血の湖は空いた穴に回帰していく。朱に染まった服はだんだんと緑色を取り戻す。十秒も経たずに、死の痕跡はすっかり失われた。

 銃口をどかして起き上がり、私は近くにあった椅子を引き寄せて座った。

「ぐ、あ、あああ……」力を振り絞っているようだ。

「ダメじゃないですかウイさん。まずは対話を試みてからと、先生と約束していましたのに。()()()()()()()()()()()()? 茶菓子は用意できませんけれど」

「なっ、身体がっ」

 私の指先の動きを追うように、ウイさんの身体は姿勢よく着席した。

「……やはり銃はすでに〝外〟の判定になっているようですね。とりあえず、()()()()()()()()()()

 銃はそのまま寝そべる。手はお膝の上。私とウイさんは向き合ってようやく話し合いの席についた。

 ──奪った神秘を使えるだけじゃない? この能力は一体──

「気になりますか、私の能力が」

「私をここに連れて来れたのは……セリナさんの神秘で。ですね」

「大正解です。複数の神秘を同時発動すれば、大抵のことはできますよ。本来であれば致命傷でも、超回復の重ね掛けで、ほらこの通り」

 ウイさんは変わらず鬼のような形相で私を睨んでいる。絶望的な状況でもなお彼女は折れずにいた。死を覚悟した者が見せる反応とは、往々にしてこんなものである。

「安心してください、私に人をいたぶる趣味はないので。もう少し肩の力を抜いてもいいんですよ」

「私を拉致して、なにがしたいんですか」

「神秘の回収です。あなたは無事に役目を達成されましたので」

 何のことだかさっぱりだと言いたげなウイさんの表情。私は構わず話を続けた。

「──あなたは保護者に一矢報いるため、反保護府地下組織を作って固定者たちを教育した。しかし道半ばで守護者に捕らえられて処刑されてしまう。そして、あなたの遺志を継いだエックハルトが〈先生〉の座を継承する──これが筋書きです」

「すべては自分の手のひらの上だと言いたいんですか? 私たちを操った気になって、神様気分はさぞ気持ちいいでしょうね」

「どのような解釈をしようと、ウイさんの勝手ですが……」

 

 前屈みになってウイさんの顔を覗き込むと、そこには炎があった。決して消えない憎悪の炎。

 彼女が死んでも、その燈火は人へ人へと伝播して、いずれ私の身体を吞み込むのだろう。ここで鎮火しておかなければならない。

 なぜだか、胸の奥が熱い。

「私は先生の記憶を凍結させ、『エックハルト』の名と記憶を与えました。そして、鷲見さんと水羽さん、他数名の神秘を併用して監視を続けました。エックとしての生を与えたとはいえ、彼は元先生。そう遠くないうちにウイさんと接触すると読んだのです。ただの〝直感〟でしたが」

「先生は必ず思い出を取り戻します。偽の記憶なんかには惑わされません」

「取り戻す? 前提が違いますね」

 席を立って本棚に向かい、一冊の本を抜き取った。表紙には「エック教授の講義記録」と記されている。それをウイさんの膝に置いた。

()()()()()()()()()()()()。どうか遠慮なさらず、あなたのためにわざわざ紙媒体で用意したのですから」

「これは……」ペラッ、ペラッ。

「エックハルトの仕事ぶりです。彼の言葉に、先生としての経験則は存在しません。エックとしての純粋な思考に基づいた理論です」

 

〈……固定者を差別し、嫌悪することで社会は滞りなく動く。悪感情の発散は生理現象だ。発散を滞らせることは精神的自傷に繋がるだけでなく、重大な義務違反を犯す原因にもなる。だからといって、流動者同士で争うのは不毛だろう。流動者は固定者を、固定者は流動者を。これこそが健全な社会を維持するための……〉

 

「これを、本当に先生が?」

「先生ではありません。あの子はマイスター・エックハルト──正しくはエックハルト・フォン・ホーホハイム。かつて神を求め、自己の無を目指すことを説いた者」

「……なぜ、その人の名前を与えたんですか?」

「神と被造物、それは先生とエックに置き換えることができます。外物と内物が混ざり合うことで、ついに私は先生を操れるのです」

「あなたの目的は、つまり」

「先生を介してシッテムの箱を起動させ、大人のカードを発動させる。それが色彩打倒、最後のピース」

 話し終えた私は小休止に椅子へ戻り、再びウイさんと向き合った。彼女は狼狽えた様子のまま動けずにいる。

 そうだ、救出に向かっているであろう先生側の動向も見ておかなければ。

 なぜだか、胸の奥がすごく熱い。

 

 

 暖炉の火は、静かに燃えている。

 ヒナタはドローンを両手に抱え、焦る気持ちを抑えながら壁の前で待機していた。エックは渡されたUSBメモリを挿して目的地のマップデータを読み込む。

 壁に手を当てながら、黒服はぶつぶつと聞き取れない音を呟いていた。

「あとどれぐらいかかる?」

「もうしばらくお待ちください。初めて向かう座標なら、慎重に設定しなければならないのです。些細なミスが死に直結します。助けに向かって身体が真っ二つになってしまっては元も子もないでしょう」

 敵地のど真ん中に潜入してウイを助けに行くにあたり、ミレニアムから索敵用のドローンを二台借りた。まだ実証段階ということもあって、彼女らも実戦データ収集のために快く協力してくれた。

 このドローンにはゲマトリアの技術も使っていて、地上のものに匹敵する性能を有しているらしい。人工知能搭載、迷彩機能、煙幕機能、自爆機能付き。

 果たして自爆などという野蛮さが必要なのか、エックは疑問に思っていた。

『こういうのはロマンなんだよ、エック教授』

 ウタハはそう言っていた。職人(マイスター)が言うのなら、間違いないのだろう。

「……〈壁の目〉、繋がりました。あらかじめウイさんに埋め込ませてもらった受信機が役に立ちましたね」

「行こう。時間がない」

「はいっ」

 

 二人は壁にめり込んでいく。〈壁の目〉による移動は危険を孕んでいるが、非常時においてこれより便利なものもない。壁紙に全身を包まれて、視界は閉ざされた。

 エックは覚えている。暗闇の中に溺れていくこの感覚を。地下へと続く梯子と同じだった。

「エックさん、起きてください」

 目を開けてみればすでに移動は済んでいた。

 部屋を見渡すと机の上で受信機が赤く点滅している。エックはそれを手に取り、損傷がないか観察する。

「……ウイの受信機で間違いないね。抜き取られてしまっていたのか」

「ウイ先生はご無事でしょうか」

「今は無事だと考えておこう。受信機をわざわざ壊さずに放置したということは、救出に来るのは見透かされているね」

 エックも覚悟していたことだが、これは明らかな釣り餌である。受信機の位置──つまり救出部隊の出現位置を相手に掴まれてしまった以上、圧倒的に不利な状況だった。

 あえて部屋に守護者を配置していないのが、余計に思惑を感じさせる。

「ヒナタ、正直に言うと……私たちは罠に掛かっている。このまま進めば犬死にだよ。私は責任を果たすためにも向かうけど、犠牲者は少ない方がいい。つまり──」

「引き返しません。エックさんに責任があるのなら、私には恩がありますから! 先生のおかげで、私の灰色の世界は色鮮やかになりました。今度は私が助ける番です」

 ヒナタがスイッチを入れると、ドローンたちは四方のプロペラの回転速度を上げていく。空気を巻き上げながらフワッと目線の高さまで上昇する。

 エックはゆっくりとドアを開け、ドローンはそのまま廊下へ飛び込んだ。

〈熱源反応:ゼロ〉

 数分後、安っぽい携帯モニターに映し出された情報をヒナタは確認する。彼女の頷きを見てエックも廊下に出た。

 冷たい照明はすでに消え、やわらかな月明かりのみが窓越しに射している。

「どうやってウイ先生を探しましょう?」

「しらみつぶし探索はあまり好きじゃないな……なに、どの部屋にいるかの検討ぐらいはつくとも」

 前方にかざした手で空を撫でてマップデータを展開する。どうやらここは最上階のようだ。網膜に投影された立体地図を見ながら、非常階段に向かって走った。

 不気味なほどに静かなこの空間では、二人の地面を蹴る音とドローンの羽音だけが耳に残る。

 

 エスプレッソを作るには、抽出するための機械が必要だ。なら、神秘の抽出はどうだろう。ゲマトリア曰く、それは成しえることのできないはずだった神業。

 神業にはそれに相応しい機械が必要だろうとエックは仮定した。丁度良く、この建物の地下には〝機械〟がある。名は〈クラフトチェンバー〉。そこに保護者とウイがいなければ、二人は総当たりか撤退を覚悟しなくてはならない。

 しかし、エックには妙な確信があった。この確信は彼の中の先生によるものなのか、あるいはただの直感か。

 

 

 私は顎を撫でながら、土足で踏み込んできた来賓に対するもてなしを考えてみる。ふと壁に掛けられた時計の針を見た。

「まだ抽出には時間が必要ですね。少し邪魔をしてしまいましょう」

 壁に人差し指を押し当て、横にすーっとなぞっていく。

「……なにをしてるんです」

「階段を変形させたり、通路を迷路にしたりしています。ご安心を、お二人に危害を加えるつもりはありませんよ。単なる時間稼ぎですので」

 この建造物〈シャーレ〉には守護者を配置していない。ここは一八年前に私が掌握してから現在まで封鎖状態のまま。

 代わりに〈パンちゃん〉をけしかけてもいいが、それで怪我でもしたら大変だろう。

「お気づきでしょうが、抽出完了までにそれほど時間は残されていません。六時間前に開始したので、あと十分ほどです」

「……抽出が終わったら?」

「貴方は生まれ変わります」

 その発言を聞いて疑問符を浮かべるウイさんに、私は答えを返す。

「神秘を取り除いた身体は、輪郭を維持できずに崩壊してしまいます。魂だけが残り、楽園に辿り着くことなくキヴォトスを彷徨うのです。その魂を回収し、用意しておいた新たな身体を与える……こうして、ウイさんは神秘から解放されます」

「おかげさまで。まったく、何様のつもりなんですか……」

「感謝の言葉はいりません。永遠平和のために、私は私のなすべきことをなしているだけですので」

 皮肉も効かないのかと悪態をつきたそうにしているウイさん。怒りの原動力すら失ってしまったのか、げっそりとした顔を見せる。

 なぜだか、胸の奥が熱くて仕方ない。

「辛そうですね。無理せず横になってもいいんですよ」

「……一つ訊かせてください。どうして、学園都市を、青春を、破壊したんですか」

「この世界が患っている〝破滅〟を摘出するためです」

「だから、可能性の明日ごと潰そうと言うんですか?」

 同意を求められないことは分かっていた。頭で理解していても、心は痛むものだ。椅子から崩れ落ちそうになっているウイさんを支える。

 ああ、その痛む心を与えてくれた人は、私の目前で息も絶え絶え。

「曰く『それが安定のために我々が払わないといけない犠牲なのだ。幸福か、それとも芸術か、どちらかを選ばなくてはならない』……」

「……『すばらしい新世界(Brave New World)』ですか」

「さすがですね。そう、私はあの社会に感銘を受けたのです。そして実行した。最終構想はオーウェル的になってしまいましたが」

「あなたはフォードでも、ビッグ・ブラザーでも、恩人でもありません」

「ええ。私は誰でもない、ただの保護者。貴方たちの保護を目的とする存在」

 なんと哀れなことか。目の奥にあった、憎悪を薪にくべて燃え滾っていたはずの炎は、すでに見る影もない。

「昔、古書館で文献を読み漁らせてもらいました。ウイさんは私のことを思い出せないようですが……なぜ、そうしたのか、分かりますか」

 返事はなかった。私は構わず話を続ける。

「破滅の原因を探るためです。なぜ、空が赤く染まったのかを調べ、二度と同じことが起きないように対策する。これが私に与えられた指令」

「あの事件は、先生がなんとかしてくれました。今さらなにを……」

「あれはまた起こり得ます。私たちが神秘を持っている限り〈反転〉はいつ起きてもおかしくないのです。根本から絶たなければ苦しみは続いてしまいます。次また空が赤く染まったとき、解決できるとは限りません。キヴォトスを守るためには、こうするしかなかったんです」

 ウイさんは私の頬を流れる一縷の涙をぬぐい、舌先で舐めた。

 気持ち程度の栄養補給を済ませると、震える足を両手で押さえながら立ち上がる。

 今にも倒れそうな彼女は喘ぎながらも肺を動かして、私の顔をじっと見つめた。

「……ああ、あなた、だったんですね」

「思い出してくれましたか」

「あのとき、引き留めておけばよかったです」

「いずれこうなる運命でしたよ……でも、確かに。古書館で掃除係でもしていれば、なにか違ったのかもしれませんね」

「最後に、質問……させてください」

「どうぞ」

「一度失った神秘は、元に戻せますか?」

「いいえ、不可逆です。あなたの青春は、二度と帰ってきません」

 私はキッパリと答えた。意地悪ではなく、本当にそうだから。ウイさんは私に微笑みかける。そして一言、ただ一言だけ呟いた。

 ああ、胸の奥が焼けるように熱い。

 

「おやすみ」

 接吻。同時に、熱。熱い。胸が、とても。なんだ。なにが。

「かっ、は……」

 咄嗟に口を押さえた手には、べったりと血がついていた。目線を下ろすと、私の胸からいくつもの棘が全方向に突き出ていた。

 内臓はもちろん、喉、乳房、脊柱、太股、足、肩、前腕、眼窩(がんか)。あらゆる部位を棘は容赦なくずたずたにした。

 そればかりか、目の前にいたウイさんの身体まで貫いていた。この隙を作るために、自らも巻き添えにしたのだ。

 彼女が後ずさると鋭利な棘はずるずると胸から抜けていく。後ろ髪も巻き込まれて黄緑色のリボンが解け、長い髪が垂れる。抜き切ると、胸には穴が空いていた。

 小さな小さな穴だが、致命傷だった。

「油断したらいけませんよ。相手は魔術師なんですから」

「……」

「弾、取り除いてませんでしたよね。放置したら()()()になりますよ?」

「……」声が出ない。

「ふふ、してやったり、ですね。私だって保護者(あなた)を本気で殺そうと、十年も燻ぶっていたんです。ゲマトリアのみなさんには、感謝、しないと……」

 ウイさんは目を擦る。まばたきする度に掠れていく視界。壁を背に、彼女はドアのある方向へ進む。

 左足に力が入らない。手で胸を覆いながら、一歩ずつ、一歩ずつ。

 右足から力が抜ける。うつ伏せに倒れ、受け身も取れずに全身を打ちつけられる痛みが走った。

 左腕は床にぶつかった衝撃で折れた。これでは、本を治療することは当分できそうにない。

 右手指の感覚はなくなってしまった。しばらくは、ペンを握ることも叶わない。

「帰らなきゃ……あの本たち()と、生徒が」

 彼女は這いずる。力の出る限り身体を動かし、ドアに向かう。

 冷たい床が、残り僅かな生命の熱を奪っていく。

 天井から射す優しい光で、肌は焼くような痛みを与えられる。

 それでも、前へ進む。

 

 

 二人はアスレチックのような階段を駆け抜けて、ようやく地下に着いた。

「なんだ、これ……地図とまるっきり違う」

 通路のはずのところに壁。壁のはずのところに通路。エックは壁を小突く。これでは部屋に辿り着くまで相当な時間がかかる。

「部屋の方向を教えてください」

「ここを真っすぐだ。でも、壁が」

「壁なんて壊しちゃえばいいんです!」

 二人は横の通路に退避した。スイッチを長押しすると、ドローンは赤く光って突撃していく。轟音と共に翼で風を巻き起こし、目にも止まらぬ速さで壁と激突する。

 モニターに〈短イ間アリガトウ〉と表示された次の瞬間、爆発音がキーンと頭に響く。

 エックはおそるおそる頭を上げて壁の様子を確認する。硝煙の中から、床に散らばった瓦礫が現れた。支柱らしき残骸は見当たらない。

 ウタハの言うように、爆発はロマンだということが分かった。足元に気を付けながら二人は先へ進む。

 

 また壁を破壊し、手持ちのドローンはゼロとなった。しかし、壁はもう一枚残っていた。

「もうドローンは残ってません……」

「なにか、まだあるはず」

 ──持ってきたナイフは役に立たない。今から回り込んで……間に合う保証は? 換気口はどうだ。誰かにねじ曲げられていてとても侵入できそうにないな。いっそのこと体当たりで、いやそんなことをしても時間の無駄だ! もうさっさと通路に沿って──

 ヒナタは壁に触れ、思い切り拳を突き上げる。鈍い音が空気を揺らした。壁はびくともしない。

「いってて……やっぱりダメでした」

「なにやってるんだ。そんなことしたって」

「若葉さんという、私によく似た友人がいたと……ウイ先生は仰っていました。その方はとても力持ちだったそうです。もしかしたら、と思いまして。そう上手くはいかないですね」

 血が垂れ、床に滴り落ちる。笑顔を取り繕っているが、その手は小さく震えていた。

 それを見たエックも壁の前に立ち、握り拳を作って同じように突き上げる。結果は変わらず、ただ手の甲が血で濡れただけだった。

 しかし、エックは確かな手応えを感じた。

「この壁、薄いな」

「一緒に体当たりしてみたら、壊せるかもしれません!」

 二人は息を合わせ、助走をつけながら壁に突撃する。さながら気分は特攻ドローンだった。

 衝突すると壁は五センチほどぐにゃりとへこみ、ついに負荷に耐えきれずドミノのように倒れた。粉塵が舞う。二人は目を細めて咳き込みながら立ち上がる。

 突貫工事で作られたような迷路は、ついに突破された。この扉の先に、ウイがいるはず。そして、保護者も。

 急いでドアノブを回して二人は中へ飛び込んだ。

 

「……ウイ?」

 そこには血を纏って地に伏している彼女の姿があった。二人の気配に感づいたのか、最後の力を振り絞って上体を起こそうと腕を伸ばす。

 力むたびに噴き出る血液と形容しがたい激痛。そんなことをものともしないかのように顔を上げて、ウイはエックを見てホッと息をついた。

 それと同時に部屋が眩い光で照らされる。彼女の後方で黒い箱が白い光を放っていた。

 ウイは手を伸ばす。それに気付いたエックも急いで手を取ろうと駆け寄る。

「せんせ──」

 

 

 パシャッ。

 部屋にいる全員が白い光に視界を奪われる。三十秒ほど経過して、箱は発光を弱めていった。

 二人はゆっくりと目を開ける。そこに、彼女の姿はない。

 ふと、エックは自分の手が濡れていることに気が付いた。周りを見ると、ウイがいたはずの場所は水浸しで、バケツの水をひっくり返したような惨状だった。

 エックは水をすくい上げる。指の隙間からこぼれていく。

 ただの水だ。何の変哲もない一酸化二水素。

 状況を呑み込めていないヒナタは、ただ困惑のまま呆然としている。少ししてから、声を絞り出した。

「えっと、ウイさんは、どこに……?」

「……間に合わなかった」

「ま、待ってください。今、あの箱が光ったあと、ウイさんが」

「消えたんだ」

「探しましょう、まだそう遠くへは行ってないはずです。きっと保護者がなにかしたんです」

 錯乱するヒナタの肩に手を置き、エックはしっかりと目を合わせる。

「あの箱は〈クラフトチェンバー〉だろう。あの光がなんなのかは分からないが、作動したとみていい。それと同時に、ウイは消えた。おそらく、神秘の抽出が完了したんだ」

「じゃあ、ウイさんは……」

 エックはそれ以上、何も言わなかった。いや、何も言えなかった、と表記したほうがより正しいニュアンスだろう。なにより目前で起こったこと。この()の正体には彼自身も動揺を隠せなかった。

 彼の灰ざめた顔を見て、少女もようやく先生の最期を悟った。びちゃっ。両膝が水面につく。

 まるで魂が抜けたかのように、顔を埋めたまま動けなくなってしまった。

 部屋を見回すと、黒い箱の近くに筒状の何かが落ちていた。ぴちゃ、ぴちゃと靴が濡れることも気にせず近づいて手に取る。

 ズッシリとした重量がエックの腕にのしかかる。これが何なのかはさっぱり分からないはずだが、彼はこれが〝銃〟だと感づいた。トリニティの紋章をみるに、おそらくウイのものだろうか。

 ──どうしてウイは私に銃があることを教えてくれなかったんだ──その疑問と共にストラップを肩にかけて銃を背負った。

 向かい合った椅子の近くにはリボンや髪の毛が落ちていた。ずぶ濡れになっている黄緑色のリボンを、絞りもせずにポケットに入れる。髪の毛を一本摘まんでみると、光に照らされて輝く白銀色。ウイのではない。

 おそらく、保護者のものだろう。二つの椅子、二人は対話したのだ。もしかしたら、そこで真相が語られたのかもしれない。

 ここでようやく血の跡に気がついた。床にベッタリとついた血糊。ウイは地面に垂らした血液ごとああ(﹅﹅)なった。なら、これは保護者の血で間違いない。

 部屋の四隅までしっかりと確認する。血痕から出血量を推測するに、逃げ仰せるほどの体力は残されていないはずだとエックは考えたのだ。

 冷たい風が首元を通る。振り向くと、蓋の外れた換気口があった。人一人がすっぽり入るぐらいの大きさだ。緊急脱出口の役割も兼ねているのだろう。

 周りには血がついている。素手で拭ってみると、まだ乾ききってないのが分かる。

 ──後を追いかける? 今ならまだトドメを刺せるかもしれない。どうやって? この銃の使い方さえ分かれば──

「ヒナタ、ヒナタ」

「──あ、ああ」

 名前で呼びかけても、返ってくるのはかすかな呻き声だけだった。彼女なら銃の使い方を知ってるかもしれないが、今はあてにならない。

 一人で追って確実に殺せる手立てがない以上、深追いするべきではないことは分かっていた。

 しかし、銃身を握る手はまだ力が籠もったまま。

「せんせい、せんせい、せんせい……」

 小さくか細い声。そんな生徒に銃を握らせて仇を取れなんて、ウイも、先生も言わないだろう。

 エックは何も言わず、ヒナタを抱きかかえて部屋を後にした。濡れた身体はしばらく乾きそうにない。

 

 冷たい空気が肌に当たる。私は目を開け、二人が去ったことを確認した。

 霞沢の神秘のおかげでなんとかやり過ごせたようだ。しかし、まだ一息つくには早い。

 自由がきく左手で棘に触れてみる。うんともすんとも言わない。予想通り、外物のものだ。このままではただ死を待つのみである。折ろうにも、かなり硬い。

──蒼森、十六夜、若葉、聖園──

 力を込める。棘はメリメリと音を立てて、ついに折れた。全身の筋繊維という筋繊維が、棘を体外へ追い出そうとする。

 半刻ほどの格闘の末、身体修復を阻害していた大きな破片は排出されきった。身体は蒸気をまとい、着々と修復し始めている。

 それから数分して声帯が回復した。

「あ、あー……ようやく喋れますね」

 ウイさんのところまで歩こうとするものの、足は言うことを聞こうとしない。

 身体の動きが鈍い。ズキズキとした痛みが全身にまとわりつく。小さな破片までは取り除けなかったせいだ。頭の中で声が響いている。

 片足を引きずったまま進んでいく。水浸しになって倒れているウイさんの魂を両手で掴んだ。

 それはとても美しく輝いていて、触れると優しい温かさが手に伝わった。

 ウイさんをボディが安置してある部屋まで案内した。魂はそれにすっと入っていき、おくるみに包まれた中でウイさんは生まれる。

 瞳も髪色も染まっていく。腕の中で泣く彼女をあやしながら、私はシャーレのビルを後にした。冷ややかな夜風が髪をなびかせている。

 部屋は静寂に包まれた。水溜まりはすでに消え、どこからか流れる風の音が空間を滑空する。

 黒い箱は、弱々しい光を放っていた。

 

 

 

われら異なる者

 ──大草原で日向ぼっこというのも、なかなか良いものだ。久しぶりの陽光が五臓六腑を癒やしてくれる。大の字で寝て、嫌なことはすべて忘れてしまおう!

 しかし、音がする。お迎えだ。あー、起きたくない。あと五分だけ──

 

 アラームの音が聞こえる。エックは観念して目を開き、テーブルの目覚まし時計に手を伸ばした。

 BCFから解放されたものの、怠惰な彼には目覚めを促すものが必要だったのだ。内側にあったものが外側に先祖返りしただけで、なんら本質は変わらない。

 エックは慣習に従って、彼女が毎朝コーヒーを淹れていた台所まで向かった。彼女と同じように珈琲を作ってみようと、そう思い立った彼はコーヒーミルを手に取る。

 豆をスプーンですくって入れて、すくって入れたらフタを閉め、取っ手をゆっくり回していく。微粉になるまで挽いた豆をマキネッタの中のフィルターに流し込んだら、コンロの上で弱火にかけて抽出を待つ。

 この数分間を、彼女は珈琲を淹れるときの楽しみの一つだと言っていた。上部の蓋をずらして覗くと、コポコポと音を立てながら焦げ茶色の液体が湧き出る様子が見られる。

 この光景を、彼女は何回見ても飽きないと、そう言って先生に微笑みかけていた。

 出来上がった珈琲を二つのカップにちょろちょろと注ぐ。好みの量のお湯で割れば、彼女が愛飲していたアメリカーノの完成。

 エックはこぼさないようゆっくりと、両手に湯呑みで暖炉前に運んでいく。

 棚に飾られたロケットペンダントの傍に片方のカップを置くと、彼はソファーに腰を下ろして珈琲をすすった。

「不味いな」

 一度見ただけの作業を見よう見まねでやっているのだから、美味しいわけもない。エックは考える、あの味を再現するまでにどれほどの時間が必要なのか。

 おそらく、どれだけ時間をかけても、何千回と淹れようとあの味にはならない。

 彼女が楽しんでいた一つ一つの工程を、彼はどうしても楽しめていないからだ。どこまでいっても作業はただの作業。

 だから美味しく作れないのだろうと、エックは半ば諦観の気持ちに覆われていた。

 ペンダントと、リボンと十字架が横三つに並べられ、小さくも暖かな灯りに照らされていた。エックは考える、果たして先生をこなせるのだろうか。

 結局のところ、珈琲を淹れるのも先生を全うするのも同じことで、うわべだけをなぞって本質を掴めないままでいるのだ。

 カップをぐいっと傾けて中身を飲み干す。沈殿していた粉末が舌の上に広がった。

 

 古関ウイの死から三日後。早くもその出来事による動揺はT区全体に波紋のように広がっていた。

 学生同盟を指導する〈先生〉の席が不在の今、誰がその席に座るのか、幹部間できな臭さと不穏な空気が流れている。いわゆる権力闘争のような状態だ。

 しかし、どの生徒が()こうと未来はない。みんな「大戦争を唯一生き抜いた人」だから先生を慕っていたのだ。

 もしかしたら、もっと豊かな生活を送れるかもしれないという淡くて曖昧な幻想を抱いて、伝説に縋っていたのだ。

 求心力を失った学生同盟は数年もしないうちに、保護者の脅威ではなくなるだろう。いつかの連邦生徒会のように。

 エックはそんな暗い明日を憂いながら紙の山を整理する。

 その大半はメモ書きで、大した意味を持たないものばかりだった。やることリストや複製時に書き損じたページ、生徒からの手紙などもある。手紙はどれも綺麗なまま残されていた。

 彼は暖炉の火を見つめる。

 エックなら捨てるだろう、先生なら大事にしまっておくのだろう。

 そのとき、彼の思考に恐ろしい影が差した。

 

 ──私は()()()なんだ? ──

 

「先生、少々よろしいですか」

 紙の山から顔を出すと、そこには黒服が立っていた。

「申し訳ないけど、珈琲は二人分しか用意してないんだ」

「構いませんよ。それよりも、これをウイさんから預かっていまして」

 黒服は手を懐に入れて取り出した手紙をエックに渡す。封を切ると二枚の紙が出てきた。

 一枚目には、作業机の引き出しに保護者の能力について判明していることをまとめたノートがあること、ナギサは先生就任の手助けをしてくれることなど、一言でまとめれば引き継ぎのためのことが書いてあった。

〈私は学生同盟の先生として、エックハルトを指定する〉

 二枚目の冒頭には大きく書かれた遺言書という文字と共に、後任としてエックを選ぶ旨が書いてあった。

「あなたが地下入りしたその日のうちに書かれていましたよ」

「……私が断ったらどうする気だったのかな」

 その手紙には〝エックハルト〟と達筆な字で書かれているが、その信頼は先生宛てのものだった。

 彼はその紙をしまうと〈輪っかちゃん〉のヘイローを起動させる。ロケットペンダントを首にかけ、ドアノブを回した。

「その書面があれば幹部である十二生徒は承認してくれるでしょう。しかし、今のあなたは流動者の身。全員に迎え入れてもらうのは時間がかかるかと思いますが」

「なに、考えはあるとも」

 三日ぶりに浴びた天井光は、太陽と見紛うほどの眩さだった。

 

 

 ウイの訃報はすでにゲマトリアの情報伝達網によって各地に散った生徒の耳に届いている。皆一様に嘆き、計略を練り、T区に赴いた。

 エックが集会部屋に着くと、一二人の生徒が円卓を囲んで話し合っていた。彼の来訪に気付いた少女らは次第に口を閉ざし、場は静まった。

「──お待ちしておりました、次期先生候補のエックハルトさん」

「もう知ってるのか」

「遺言書のこともそうですが、以前からウイさんは本来の先生に座を譲りたいと再三おしゃっていましたので」

 円卓の座は一席だけ空いていた。しかし、この目線の中で意気揚々と座れる人はなかなかいない。空気を人一倍読めるエックなら尚のことだ。

 彼はその場に突っ立ったまま、話の中心に引っ張り出された。

「それで、キミたちは私を先生にするのはどう思ってるのかな」

「賛成が五、反対が六、棄権が一です」

「エックハルトさんはアビドスで私たちのために奔走してくれました。〈先生〉にふさわしい人だと思います!」

「ま~いいんじゃないですかあ。ウイ先生が選んだ後釜なんですし?」

「彼が〈先生〉に相応しいのかを判断するのに二回、三回の善行だけではサンプル数に欠けるわ。この目で実際の言行を見るまでは、本当にウイ先生の言っていた()()()()なのか、疑わしいと言わざるを得ないわね」

「キキッ、リオ会計の言う通りだな。それに、固定者たちが青春を手にするべく集った組織のトップが流動者だなんて、とんだお笑い(ぐさ)じゃあないか。なあ、ナギサ補佐?」

「むにゃ、むにゃ……プリン、かむらっどと…………」

 空気が重たくなるのが肌で分かる。彼女らにとって古関ウイがどのような存在だったのか、想像に難くない。

 学生同盟を立て直し、彼女の意志を継ぐのなら、まずはこの場にいる全員を納得させなければならないだろう。

『せんせ──』

 少女の最期を、彼は今も鮮明に思い出せる。なんともはた迷惑なことだ。

 先生であれ、エックであれ、託されたことはキッチリと果たさなければならない。大事な処世術だ。

 彼は空席の背もたれに手を置き、口を開ける。

「この遺言書にある通り、古関ウイ先生は後任者に私を選んだ。けど、この席に座るのはあなたたちを頷かせてからにすべきだね」

「ほう、ずいぶんと自信のある口ぶりだ。本物の太陽を浴びて育った頭なら、地底人を説き伏せるのも容易いか」

「マコトちゃん、そんな言い方……」

 エックは擁護しようとするユメの言葉を遮った。それを見て角の生えた少女はキキキと笑い声を漏らす。

「私が流動者でなければ、キミたちも文句はないわけだね」

「そうさな、妾たちが憂慮しておるのはその点じゃからのう」

「なら、固定者ということにしてしまえばいい」

 その発言で場が騒がしくなる。反応は三者三様で、頷いて同意する者、顔をしかめる者、眠りこけたままの者といった様子だった。

「嘘をつけと?」

「私たちにとっては嘘でも、私の正体を知らない子たちにとっては真実になる」

「明るみに出ればおしまいですよ」

「この紙を破って私以外の誰かが就任したとしても、求心力のない学生同盟は緩やかに死ぬだけだ。それはキミたちが一番分かっていると思う。ウイと同列か、それ以上の象徴が必要なんだよ──例えば、大戦争の最前線で戦い抜いた先生」

 

 

 ウイは初めから、生死不明の先生が帰ってきたときのために手足となって動かせる組織として、この学生同盟を結成した。

 そして、青春を知らない子どもたちに千の物語を紡いだ。ウイは少女たちに語る、大戦争で生徒のために戦った先生のお話を。

 今となっては彼女の意図なのかどうか分からないが、その物語は固定者の中で神話となっていた。

 固定者にとって、先生とは救世主(メシア)の記号。彼女が先生を名乗るのはその偉大な存在を慕っているから、というのは有名な話だ。エックはこれを利用しようと持ちかけたのだ。

 先ほどまで不敵に笑っていた少女は角をポリポリと掻きながら、鋭い眼差しでその元先生を見た。腹を探るようにじっくりと観察する。

「……いいじゃないか。どんなお題目を唱えるつもりだ?」

「保護者に捕らえられていた伝説の固定者である〈先生〉が古関ウイの尊い犠牲によって解放され、再び生徒のもとに現れた──なんてのはどうかな。これまで〈先生〉が行方知らずだったのは敵に捕まっていたからということにして、ウイが敵地で死んだのはその〈先生〉を助けるためだったことにするんだ。これならウイの死に意味が生まれるし、私が学生同盟を継ぐのも納得できる」

「ウイ先生は〈先生〉のことを固定者とは明言しておりませんよ」

「そして流動者とも明言していない、でしょ? ウイがメモ書きで残していたよ」

 エックが机に置いたシワだらけの紙切れには、先生にヘイローがないことは伝えない、と書かれていた。物語を語る上で、自分への注意書きに使ったのだろう。

 固定者と流動者の溝は先生という救世主伝説さえもかき消すほどなのだ。

「固定者たちは私を信じる。そして、あなたたちはウイ先生の判断を信じてほしい。これから私は固定者として生き、固定者のためにこの身を捧げることを誓おう。どうか、この席に座ることをお許し願いたい」

 十二生徒は押し黙る。固定者を前に膝をつき頭を下げる流動者なんて、彼女たちは見たことがなかった。

 遺言書という正当性がある以上、彼女たちからの承認を得る必要はない。なのにも関わらず、わざわざ頭を低くしている。これを誠実と言わずしてなんと言おうか。

 実際、彼は有無を言わせずに座るだろうと考えていた反対派にとって、この言動は意表を突かれた。

「では、エックハルトさんの意見を踏まえまして、もう一度表決を取りましょう。生徒一同、テーブルの上に片手をお出しください。エックハルトが先生に就任することに賛成の方は手の平を、反対の方は手の甲をお見せください」

 ユメをはじめとした賛成派は再び平を見せ、先ほどは反対派だった生徒も何人かが平に返した。

 文字通りの掌返し。

「賛成が八、反対が三、棄権が一。過半数議決の原則に基づき、十二生徒はエックハルトの先生就任を認めます」

 少女らが拍手を送る中でエックは席に座った。組織のトップが座るというには作りの甘い椅子で、座り心地の良いものではなかった。

「改めまして、エックハルト先生──」

「エック先生でいいよ」

「では、エック先生。今後の学生同盟の方針を決めましょう」

「前任の古関ウイが定めた目標である『固定者解放』に加え『保護者並びに協力者打倒』の計画を本格的に進めよう」

 

 その日の会議は大まかな方針だけを話し合い、解散となった。マコトは居眠りしたままの少女の肩を揺らす。

「おい、チェリノ書記。そろそろ起きろ」

「んぐっ……ま、待ってくれ。おいらは寝てなんかいないぞ。熟考する姿がそう見えてしまったのなら謝っておこう」

「マコト様が代わりに記録しておいてやったんだ。プリンを返礼品として期待しておこう」

「な、おいらだって絵本でしか見たことないのに、贅沢なやつだな!」

 すたすたと部屋を立ち去るチェリノの背中を見ながら、マコトは思案に耽る。

「キキ、キキキッ……やるじゃないか、エックハルト。しかし、このマコト様の目は欺けないぞ。必ずや本性を暴いてウイ先生の意志を継ぐ。私こそが、真の先生(メシア)だ」

 高笑いが静寂に包まれていた空間を響かせる。少女は笑いすぎで咳き込んだ後、ご機嫌な調子で部屋を出た。

 

 

 私は目を覚ます。素晴らしい一日の始まり。

 いや、これは誇張だ。あれからずいぶんと経つというのに、体内に残留している棘が鈍い痛みを提供しているのだから。

 おかげで睡眠を取らなければいけない始末。なんと面倒なことか。

 さて、正気を保ち直して彼を観察しなければ。

 エックが先生に就任して、何度か季節が巡った──と言っても「季節」という言葉は、第五八六三回PTA総会にて秩序を乱す単語と認定されてデータベースから削除されたが。

 思考教授としての知恵は組織運営の役に立った。生来の勤勉さが上手く作用し、データベースの記録だけでなく地下図書館に所蔵された本からの知識も着々と蓄えていった。

 今のエックなら、アダムとイヴのお話をベースとした皮肉だって言えるだろう。あるいはリア王か、蜘蛛の糸か。

 ウイが残した文書や色々な文献を読んで、エックなりの先生像も輪郭がはっきりとしてきた。

 生徒たちと真摯に向き合い、主体的な問題解決ができるように支える。そして、取るべき責任を背負う。

 大人と子どもなんていう括り方はいかにも旧時代的で非文明的かもしれないが、先生と生徒とはそういった関係なのだと彼は結論付けた。

 その野蛮な関係を受け入れた彼は、なぜだか嬉しい気持ちで満たされていた。

 それらエック先生の実直な行動は、十二生徒を含めた多くの固定者たちからの信頼を積み重ねていった。

 

 先生交代になってから数えて四回目の会議。ゲヘナで開催された円卓会議の終わりをエック先生が告げる。

 しんと静かになった会議室で少女は頭を抱えた。

「なぜだーっ! ぜんっぜん弱みを握れないじゃないかーっ!」

「先輩、イブキが起きてしまうので静かにしてください」

 健やかな眠りについた少女に毛布をかけ、ふわふわな赤髪のイロハはマコトを諫めた。

「どうしてだ……ゲヘナの情報網をもってしても、聖人君子のエピソードが積まれていくばかりっ」

「はあ、そろそろ諦めていいんじゃないですか。エック先生は悪い方じゃないと思いますよ。それに、余計な人員コストを削っていただければ、私の仕事も減りますし」

「ぐっ、それは確かにそうだが──やはりナギサを陥れて補佐の地位に就き、先生に近づいて籠絡するべきか?」

「……あの人、もう四十超えてるんですよね。なら、年老いて隠居したタイミングを計って乗っ取ったほうが楽なんじゃないんですか」

 その言葉を耳にしたマコトはピタッと止まり、地面にまで届きそうな麗しい銀髪を勢いよく揺らしながらイロハのほうを向いた。

「そ、それだ! その手があったか! これでキヴォトスは私の手に……精々、老後を楽しみにしておくといい、エックハルトよ。キキキ、キャハハハハ!」

「静かに」

「すまない」

 

 

 急行列車の揺れは一際激しい。度重なる出張で乗り物酔いに耐性がつきはじめたエック先生でも、モーセを含まなければ酔い潰れ待ったなしだ。

 暖房の効かない車内で毛布にくるまって彼は小型ペンを走らせる。

()()()年代物のような暖房装置ですね」

「最初から壊れた状態で設置されていても、その最初を知らないから『古いからガタが来てる』と考えてしまう。保護者が直接手を下すまでもなく、私たちは自ら歴史を捻じ曲げるんだ」

 馴れ馴れしく対面の席に座った黒服が不愉快な笑い声と共に話しかけてくるのを、エック先生は手を止めずに適当な返事で流す。

「次はR区ですか。あの地区は上でも下でも寒いですから、体調管理にはお気をつけてください」

「助言どうも、気をつけるよ」

 軽くあしらう彼をつまらなく思ったのか、黒服はしばらく黙って窓外の景色を眺める。

 次に沈黙を破ったのはエック先生だった。

「なにか伝言でもあるんじゃないのか。まさか、ただ会いたくてー、みたいな女々しい理由で来たわけじゃないよな」

「クックック……もし『そうだ』と返されたら、どうするおつもりで」

「窓から投げ飛ばす」

「ほんの軽い冗談ですよ。保護者打倒のためにも、エック先生に把握してもらうべき事実を伝えようと思い立った次第です」

「……古関ウイのことか」

 

 エック先生はペンと紙を手のひらサイズの筒にしまい、歯に紐を引っかけて飲み込んだ。

 二人は目線を合わせると、機嫌を取り戻した黒服が白い光を揺らめかせる。

「お察しの通り、ウイさんのことについてです。ウイさんの死をゲマトリア(わたしたち)は事前に想定していました」

「ウイが殺されることは織り込み済みだったわけだ」

「思ったより冷静ですね」

「冷静に見えるのか」

 刃物の柄に手を添えて、エック先生は冷たい声を吐く。黒服は一切調子を崩さず話を続けた。

「保護者は取り込んだ神秘を利用することができます。複数の神秘を同時発動できるのかは確定していませんが、〝できる〟とみていいでしょう」

「ウイもそう書き残していた。その全能を前に過去の私は敗北を喫したと」

「ええ。その能力を利用して私たち……より正確に言えばエック先生、あなたは保護者直々の監視下にあるものと思われます。この会話も筒抜けでしょう」

「いつでも殺せるように、かな」

「保護者の動向から推察するに、先生を殺すつもりはなさそうですね。少なくとも当面のうちは、ですが。先生を利用するつもりかと」

「なぜお前たちは私が監視されていると分かっていながら、シロコを危険に晒してまで地下(ここ)に連れてきた……なぜ、ウイのところまで誘導した?」

 柄頭を指先でトントンと叩きながらエック先生は質問を詰める。

「ウイさんが望んだことですから。もちろん、私は事前にその危険性を忠告しましたよ。当人はただで老いるつもりはなかったようです」

「それはゲマトリアも望んでいたことだろ」

「もし『そうだ』と返されたら、どうするおつもりで」

「……どうもしないさ。お前たちが関心を寄せているのは崇高という観念だけだというのは、承知の上だよ」

 どうもしない、という割にその右手は柄をしっかりと握り締めていた。エック先生の様子を見て、黒服は嘲笑うかのように声を上げる。

「クックック、ご理解いただけて嬉しい限りです。この際、正直に話してしまいましょう。ゲマトリアはキヴォトスの未来など憂いていません。保護者が一体何者なのか、すべての神秘を取り込んだ存在とは果たしてどのようなものなのか、それだけに注視しています」

「私もそのための駒かな」

「まさか、私たちはパートナー(﹅﹅﹅﹅﹅)ですよ。お互いに利用し合っているのですから」

 

 列車が北に向かうにつれ、空気の凍るような冷たさが肌を刺す。黒服は身震い一つ見せない。

「もう一つ、伝えておくべき情報を。保護者打倒についてです」

「なにか攻略法でも見つかったのかい」

「残念ながら、その逆です。先生に回収していただいた銃、あれはデカルコマニーが改造した作品であり、対保護者として設計されたもの。あなたに渡したそのナイフと同じです。一発でも当たれば致命傷となるように細工が施されています。弾倉の装填数が一つ減っていたことから発砲したと思われますが、保護者は今も生きていますね」

 学生同盟の動きは監視され、攻撃も通用せず、いつでも手に掛けられるというのにわざと泳がせている。

 エック先生の思考に、ただ〝詰み〟の二文字が浮かんだ。

「そんな顔をせずとも、まだ切り札はあるでしょう」

 黒服はぐいっと顔を近づけるとエック先生の内ポケットに手を入れ、一枚のカードを取り出した。経年劣化で汚れた黒色のそれは自らの役割を思い出せずにいる。

「大人のカード?」

「これは不可解な奇跡を起こす代物。あなただけの武器。とは言ったものの、先生が記憶を取り戻さない限りは無用の長物ですが」

「たかが一枚で戦況がひっくり返るものかな」

「ひっくり返せるからこそ、人はそれを奇跡と呼ぶんですよ。しかし、力には代償がつきもの。あのときは──」

「余計なことはいい。要は思い出せば勝ちということだね」

〈終点。R区、一〇の二七。終点。R区。一〇の二七〉

 列車の揺れは次第に収まり、警笛が車内を駆け巡る。エック先生は毛布をカバンに詰めて手荷物をまとめ立ち上がった。

 モーセを一錠かみ砕き、列車を降りる。

 一分一五秒置きに北から流れる冷たい風に身を震わせながら、彼は歩く。ただ、向かうべき地まで歩き続けた。

 小さくなって消えるその影を、黒服は窓際から黙って見送る。

 

「……期待してますよ、エック先生」

 

 鼻腔を刺激する、しつこいくらいに上品な香り。挽き臼(ミル)の凹凸とした歯に挟まれ、抵抗むなしく砕かれていく豆の断末魔。ぐつぐつと音を立てる熱湯は水蒸気で自らを押し上げ、焦げ茶色の粉粒体を抜けていった。

 自らが珈琲であるかのように振る舞う焦げ茶色の熱湯を二つのカップに、交互に注いでいく。

 そして、粒が沈殿した残りをウイのカップへ。傾けたポットの口から最後の一滴がゆっくりと滴り落ちた。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 棚に置かれたカップが湯気を巻いている。エメラルドグリーンの瞳をまぶたで隠す少女はフーッ、フーッと水面に息を吹きかけた。

「熱いうちに飲んだほうが美味しいよ」

「そ、そうですか。では……」

 傾けられたカップから少女の口内へ。バランスの取れた酸味と苦みがワルツを舞って、ほんのりとあるコクが軽やかなステップを踏む。

 人生一杯目の珈琲はとても好印象なものとして、少女の記憶に刻まれた。

「美味しいですね、とても」

「そりゃよかった。彼女の出来には到底及ばないけどね」

「ウイ先生はこの飲み物を好んで飲んでいたと、十二生徒の先輩方から聞いてます」

「うん。私のは、その──いや、なんでもない」

 所詮は猿真似でしかない。なんて言葉を吐いても、生徒が困ってしまうだけだろう。先生としてマイナス思考を口走ろうとしたことを密やかに内省した。

「初めてここに来ましたが、とても雰囲気の良いところですね。静かで、暖かくて。本も綺麗に整頓されていますし」

「この量を整理するのは、なかなか骨が折れたよ」

 エック先生は空になったカップをテーブルに置く。並べられた本の背表紙をなぞって、お目当ての本を指で抜き取った。

 埃を払いながらパラパラとページをめくる。

「この前に渡した本、どこまで読んでくれた?」

「すでに読み終わりましたよ」

「早いね。さすが」

 本をパタンと閉じて、向き合う形で椅子に座った。暖炉の火が煌々と二人の顔を照らす。

 薄い赤紫髪が、少しばかり暗い図書館の中で目立っている。

「私からの知恵の贈り物はどうだったかな」

「この世界(地下)だけでは到底思いつかない見方ばかりで、大変学びを得られましたね。ですが、どうしてこれを私に?」

「……カヤ、キミに保護者の是非を問いたい」

 

 天井光が何百もの明滅を繰り返しているうちに、学生同盟も随分と様変わりした。百二十名ばかりだった生徒も、今や千四百だ。十二の主要な共同体の所属人数も合わせれば、万は優に超えるだろう。

 エック先生が散歩道を気怠げに歩けば、人々はすれ違いざまに声をかけて歓談に花を咲かせる。

 列車の窓に肘をついて物憂げに外を見つめれば、人々は遠くから手を振る。

 地下で張り巡らされ、増殖し、膨張し、肥え太った同盟は〈学生連邦〉へと名を変えた。

 属する固定者共同体も各地区での権威を確固たるものにしていた。とくに〈ゲヘナ〉や〈トリニティ〉はそれが顕著で、学生連邦への影響力も一際強い。

 末端の構成員が守護者に捕まる事件も増えていて、組織規則の課題が表面化しつつあった。頭痛の種は減るどころか増すばかりである。

 先生を中心とした地下勢力はすでに地を這う虫けらではなく、猫を噛み殺す大鼠と成った。

 しかし、保護府転覆にはまだ足りない。

 せいぜい、玉砕覚悟で特攻をすれば主要な建造物を三棟ほど瓦礫の山にする程度でしかない。彼女らが放つ鉛玉は、堅牢な砦の上に立つ保護者の眉間にはまだ届きそうになかった。

 保護者の手の上で茶番劇をこなしているうちは、エック先生はうかつに手札を切れないまま。

 保護者が彼に何を求めているのかも分からない現状を打破するためにも、〈大人のカード〉とは別の切り札を彼は探していた。

 二ヶ月前、エック先生が戦前の資料を読み漁っていたときに〈連邦生徒会〉についての詳細な記録が見つかった。連邦生徒会長の失踪、七神リン代行による執政、不知火カヤ防衛室長のクーデター。そしてその失墜。

 なぜウイがこの人材たちを使わなかったのか疑問は残る。

 資料と照らし合わせると生徒と固定者は身体能力、あるいは埒外の特殊能力が喪失している以外に変化はみられない。据え置きの性能だ。ならば、使わない手はないだろうに。

 連邦生徒会に対する不信からか、もしくは先生のために手付かずで残したのか。ペンダントは答えてくれそうにない。

 

 カヤはカップの中身をぐいっと飲み干した。液体が食道を通って身体の一部になる。少女は珈琲を十分に味わった。

「はっきり言ってしまえば、保護者が敷いた社会は完璧です。飢餓も貧困も戦争も、すべてを過去のものにしましたから。生徒がどう思っていようと、大半の固定者は今に満足しているのがどうしようもない現実ですね」

「なら、保護者は正しいのかな」

「子曰はく『己を脩めて以つて敬す』と。保護者と会ったことはありませんが、会ったことがないからこそ断言できます。私たちを地下に追いやり、差別という枷をはめ、その上で合わす顔さえないとでも言いたげに。地上で閉じこもっているような人間が、正しいわけないでしょう」

 カヤはハッキリと、そう断言した。顔に(かげ)りはない。開いた両目を逸らさずにエック先生を捉える。

 エック先生は微笑んで質問を続けた。

「なら、上に立つ者としてふさわしいのは誰だろうね」

「それこそ先生でしょう。自身を修養し、世の中を安泰に導ける方なんですから」

「いいや、違うよ。立つべきはキミたち自身だ」

 暖炉に薪をくべる。乾いた木は弱々しくなっていた火に包まれて、パチパチと燃え立つ炎となった。

「先生とは、教え導く者。キミたちが再び自由になれるよう手助けしているだけ。いつか自由になったそのとき、キミたちは自分の足で立って前に進まなくちゃいけない。自分で責任を負わなくちゃいけない」

「それは……」

「まあ、その〝いつか〟がくるまでは、私に任せてね」

「あらたまってこの話をしたのには、なにかワケがあるんですね?」

 エック先生は優しくカヤの手を取って立ち上がる。暖炉を横切って奥に歩いていく彼の背中を、少女は黙って見ていた。

 振り向いたその顔にはすでに笑みなどない。

「私は保護者に監視されている。今、この瞬間も」

 カヤはその場に凍りついた。針を刺す視線にでも囲まれているかのような錯覚に陥る。テンポが早くなった心臓の音が彼女自身の耳にも届く。

 平静を装うと試みる様子に、少し気の毒に思いながらもエック先生は一枚の紙を手渡した。

「学連が敷いた地下社会下での、超法規的権限を有することを証明する紙切れだよ。煮るも焼くもキミ次第。他人に譲渡するもよし、一人で東奔西走もよし、仲間を集めて超法規的機関を運営するもよし」

「……こんなものを渡されましても」

「断片的な情報による推測だから断言はしないけど……たとえ保護者でも、同時に二人は監視できないはず。なら私の手中から外れた組織を用意すればいい」

「ですが、私にできるのでしょうか」

 その言葉を聞いて、エック先生は口を押さえた。

 資料にああ書いてあった少女が、まさか。いかにも不安そうな顔がますますツボを刺激してきてしょうがない。しかし、その不安は嘘偽りなく本物。

 同じ名前、同じ髪色、同じ性格、同じ才能、同じ欠点。だからどうしたというのだろう。

 以前とは百八十度も違う経験をしている以上、不知火カヤと固定者カヤは似て非なる人物だ。

 先生とエックハルト、それらが似て非なる存在なのと同様に。

 一通りして笑いの波が収まると、彼は笑顔で答える。

「私はカヤのことを信じるよ」

「……わかりました。私も腹を括りますよ」

「あ、そうそう。リンとかキミと相性良さそうだし、なにか困ったら彼女を頼るといいと思うよ!」

「やっぱりこの紙破きますね」

 

 暖炉には燃えカスだけが積み上がり、卓上の蝋も短くなっていた。そろそろ寝ようとエック先生が吹きかけた息を黒い手が阻む。

「もう寝るつもりなんだけどな」

「まあまあ、大人同士の語らいもたまにはいいじゃないですか」

「キッパリ言わせてもらおう。私はお前が嫌いだ。わかった?」

「ええ、分かっていますよ」

「理解してくれたならいいんだ。おやすみ」

「カヤさんを選んだのは、なにか意図があってのことでしょう」

 席を立とうと腰を上げていたエック先生は、少しの葛藤の後にまた腰を下ろした。彼はため息交じりに答える。

「資料を読んだ感じ、彼女はそこそこ優秀だ。それこそ、リンと組めば私の期待以上の結果が生まれるかもしれない」

「両者の関係はあまり良好だとは言えませんが……それに、二人を比べるとリンさんのほうがより優れているように思えますね」

「政治が得意なのはカヤのほうだ。人脈を上手いこと利用してくれる子のほうが、私としてはありがたいからね」

「カヤさんはクーデターの件がありますので、先生の地位を奪うために謀らないとも言い切れませんよ」

「まあ、私の思惑の外に配置してしまった以上、それは賭けだ。私はカヤの可能性を信じるよ。それが〝先生〟というものだろう?」

 黒服は黙ったままピクリとも動こうとしない。

 すでに蝋は尽きかけ、ちょこんとした小さな火を必死に抱えている。黒服は指先で芯を押し潰した。

 燭台の受け皿には真ん中を凹ませた芯と蝋が残されていた。

「夜更けに呼び止めてしまい申し訳ありませんでした。お詫びとはいってはなんですが」箱を手渡す。

「これは……」

「モーセです。ここ最近は地下への供給が少なかったですから、先生も久しく摂取していないのでは? 目の隈をみるに相当お疲れのようですので、睡眠導入に一粒どうでしょう」

 紙箱の側面をなぞり、爪を蓋に引っかける。鼻を近づけるとほのかに香る懐かしきケミカル臭。

 刺激される五感に呼応して指先が震えだす。分泌される唾液を喉奥へとしまい、箱を黒服の胸部に押しつけた。

預言者(モーセ)を摂るのは辞めたんだ」

「ふむ、それはまたなぜ」

「天啓はとても魅力的だ。しかし、それを口にして(﹅﹅﹅﹅)はいけない」

「どうしてでしょう」

「主の(めい)口にして(﹅﹅﹅﹅)しまえば、死んでしまうからだ」

 エック先生はそれ以上は言葉にせず、ドアを閉めた。

 

 

 ──最近はもっぱらこんな夢ばかりだ。

   焦土に私がただ一人。

   あちこちから死の匂いがする。

   瓦礫の下から覗かせる腕。

   誰かが落とした腸の欠片。

   紅く染まった世界で、声が聞こえる。

   自由か、平和か。自由か! 平和か! 

   善か、悪か。善か! 悪か! 

   繰り返しのスローガン。二元論の渦へと

   私の足を引きずって、私の手はもがく。

   散らばったガラスや歯が表皮を突き破り、

   剥がれた皮から筋繊維と骨が露出する。

   ああ、主よ、主よ! 

   どこへ行かれるのですか──

 

 天井光を仰ぎながら心は物思いに沈んでいく。屋上を吹き付ける乾いた風が身体から水分を掠め取る。

「黄昏れてるんですか」

「ここに夕暮れはないけどー」

「比喩ですよ、比喩」

 少女は軽い挨拶をすると、定位置で仰向けになって目を閉じた。

「昼寝かい」

「……眠いので話しかけないでください」

「独り言として流して構わないよ」

「……」

「ホシノと初めて出会って、ナイフで脅された日からもう二年も経ったね」

「その話はもうやめてください」

 エック先生は笑いながらホシノの隣に寝転んだ。強烈な光ながらも、辛うじて直視できる天井を眺めてあくびをする。

「何度来ても、ここは飽きないね。ホシノが気に入るのも分かる。人が支え合い、助け合う──この素敵な町を一望できるんだから」

「先生が昼寝の邪魔をしにこなければ、もっと気に入るんですが」

「……この素敵な景色も、ホシノの活躍あってのものだね」

「ユメ先輩のおかげですよ。あの人は、底抜けに優しいですから。みんなその優しさをみて育つんです。それで、アビドスは人の温かさで溢れる。彼女がいなかったら、私のような人間は独りぼっちでした」

「そうかな、私はホシノとのお喋りを楽しんでいるよ。ヘイローつけなくていいし」

 腹の上に置いた〈輪っかちゃん〉を撫でる。ホシノはエック先生の横顔をじっと見つめた。

「エックとしての初めての生徒が、アビドスのみんなでよかったな」

「やけに辛気くさいこと言いますね。死ぬつもりですか」

「んー、まあ似たようなものだね」

 天井の隙間から送風される空気の流れが二人の間を横切った。少しの沈黙、ホシノはエック先生の手に触れる。

 生傷の絶えない手の甲から、ほのかな温かさが伝わってくる。

「一年後、協力者のテストを受けるんだ」

「……どうしてです」

「保護者との決着には、失った過去が必要だ。けど、色々試してみても記憶が取り戻せなくてね。なら、奪った保護者に直接会って、取り戻すついでに懲らしめるのが手っ取り早いかなと思って」

「決着にこだわらなくても、いいじゃないですか」

 少女は握る。決して離さないために荒縄を掴むように強く。しかし、決して壊さないために羽毛を撫でるように優しく。

 彼が握り返すことはなかった。それは先生であるという立場以上に、表層にこびりついた醜悪のためだった。

「この暗雲の時代を終わらせないといけない」

「暗雲の下でも、私たちは笑って暮らせますよ」

「ダメだ。私には責任がある」

「責任、責任って……あなたはエックで、伝説の先生なんかじゃない。ましてやウイ先生でもない!」

 ホシノの手は小さく震える。エックはただその震えを受け止めるだけだった。

「どうかこれ以上、私たちのために、私たちの先生を演じないでください」

「──ホシノ」

「どうして、エックがありもしない過去を背負わなくちゃいけないんですか。昔話なんかに苦しむ必要なんて……!」

「私の目を見て」

 黒い瞳の奥には灯火があった。優しくも絶えることのない火。

 黄色と灰色のオッドアイ、その瞳には影があった。触れればたちまち沈んでいくような不安の色。

 火が大きくなるほどに、影はますます濃くなっていく。

「ホシノ、キミの夢はなんだい」

「……クジラを、見てみたい。絵本や図鑑じゃない、本物のクジラを。この目で、見てみたいです」

「なら、いつかその目で見れるように、私がなんとかする」

 エック先生は目線を外し、二人の手は離れ離れになった。

 遠くなっていく背中に手を伸ばすが届きそうにない。

 届いたとして、なにをしてあげられようか。

 彼が道化の役を降りることは、ない。

「待ってください」

 ホシノの声でエック先生は振り返る。少女は立ち上がるが、彼に近づこうとはしない。

「私はみんなとクジラを見に行きたいんです。言っておきますが、そのみんなには、先生も入ってますからね」

「……わかったよ」

 霞んだ銀色の扉が閉まって、屋上にはただ一人。乾いた風が吹きさらす。

 

 

 細長い階段を上っていく。どこまでも、どこまでも続く階段。ゲマトリアが体力のあるシロコを選んだのも頷ける。足を踏み外さないようにしっかりと一歩ずつ踏みしめた。

 下半身が骨髄まで煮えたぎるような熱さに襲われだしたところで、ようやく扉にぶち当たった。手探りでドアノブを探し、手に触れた突起物を回す。

 扉の隙間から漏れ出てくる鋭い光に目を細めながら、扉の外へと出た。

 網膜が光に慣れてくればだんだんと懐かしい光景が広がる。

 この路地裏で、教授は終わり、先生が始まった。

 そしてまた、教授としての生を歩む。

 痙攣(けいれん)する足をなんとか引きずって表通りへ向かう。記憶よりも、路地裏の道が長く感じる。心音が煩くてしょうがない。

 一段と強い光が全身を包んだ。空を飛び交う車の風切り音。ヘイローのない通行人。どこまでも広がる大空。

「きゃぁっ!」

「うわ!」

「……相変わらずか、地上は」

 エックハルトはため息交じりにそう吐き捨てると、悲鳴を飛び交わせて離れていく人々には目もくれずに自宅までの散歩道を進む。

 しかし、この愉快な帰り道も早々に終わりを迎えた。

「そこの黄色い服、止まりなさい」

「なんでしょう」

「服が汚れていますね。何日前に交換しましたか」

「二年前です」

 守護者はこれ以上ないほどに目を見開いた。たった二日だけ着続けても義務違反なのに、まさか年単位の人間がいるとは考えもしないだろう。

 正確には一日しか着ていないが。

「……保護義務法第三七五条、衣服交換違反の疑いで身柄を拘束します。よろしいですね」

「ええ、構いませんよ」

 ゴムのように伸び縮みする拘束具を手首に巻き付けられ、車の中に案内された。エックは抵抗することなく後部座席に座る。

 

 暗く狭くてジメジメとした部屋に連れてこられてから、随分と時間が経った。

 一応、窓の外から定期的に投げ込まれる食料と隅にある便器で、生物としての最低限の尊厳は確保されている。

 眠気に導かれるがまま硬くて冷たい床へと横になってから五分、不透明だった扉が透過する。

 その光の奥から一人のロボットが入ってきた。

「起きてください」

「……デカルト?」

 椅子に座った守護者は、エックに着席するよう促した。起き抜けに旧友との再開で面食らった彼は指示に大人しく従った。

 上から垂らされた電球が、まん丸の大きなレンズを照らしている。

「また会えて嬉しいです、エック」

「……キミ、守護者だったのかい。てっきりペンキ塗りだと」

「ええ。奉仕内容の都合で偽っているんです」

「奉仕内容ってのは、地下居住区について知りすぎた者を薄暗い部屋に監禁して情報を吐かせてから処刑するとか、そんなところかな」

 守護者は反応せず、ただキュルキュル音を鳴らすばかり。エックはつまらなさそうな態度をむき出しにしてパイプ椅子にもたれかかる。

「これまでの規則では、流動者が固定者居住区に無断で侵入した場合は記憶処理を施した後に社会復帰プロセスを踏んでもらう手筈でした。しかし、第五八七四回PTA総会でこの規則が改正されまして、記憶を残したまま協力者になってもらいます」

「あー、つまり、固定者との交流経験を活かせと」

「そんなところです」

 手首を縛る拘束具はびくともしない。それどころか、力を込めれば込めるほどに締め付けてくる。

「一年後に控えた名誉試験を受けてもらいます。協力者に選ばれた場合は記憶保持が許されますが、選ばれなかった場合は従来の規則通りの処置をします」

「ここから一年間はどう過ごせばいいのかな」

「地下居住時のデータを漏洩した場合は、事前の勧告なく処分されます」

 処分という陳腐な脅しをマニュアル通りに読み上げて、守護者は深くため息をつくような動作をした。

「さて、私の奉仕活動は以上です。もう数分で迎えが来ます」

「そう、お疲れさん」

「……ここからはエックの友人、デカルトとしての言葉です。こうして生きて再会できたこと、とても喜ばしく思っています。あなたの次の講義、楽しみにしていますので」

「協力者は奉仕中に私語をしてもいいのか?」

「ははっ。私は優秀ですから、多少の融通は利くんですよ」

 デカルトは冗談を残して出て行った。人を通すと扉は光を閉ざし、エックはまた一人になった。

 

 何度も通ったエントランスも以前と変わりない様子でエックを出迎えてくれる。

「管理人さん、ただいま」

「あら、あら。エックさん、どこへ行ってたのですか。心配してましたのよ!」

 管理人は普段以上に羽をパタつかせて歓迎した。エックは申し訳なさそうに頭を下げて通り過ぎる。

 エレベーターから降りると、ひどい悪臭がエックを襲った。

 しかし、地下での生活を経た彼にとっては大したものではない。強烈な臭いと芳烈な匂いが混ざり合った内廊下の空気を吸う。

 長いこと空けていたからか、ドアに嫌がらせの張り紙はなかった。エックはドアを開けようとする。

 しかし、ドアノブがない。エックの口から変な笑い声が漏れた。ここでようやく、彼は自分が地上に戻ってきたことを実感したのだった。

「お帰りなさい、先生」

 エック一人の空間のはずが、そこにはベッドでくつろぐ黒服がいた。

「ベッドから降りろ」

「流動者に与えられたベッドは寝心地がいいですね。協力者ならもっと上質なベッドで寝られるのでしょうか」

「さあね」

 黒服をどかしてベッドに身体を預ける。しばらくぶりのベッドが、疲れたエックを極楽へと手招きする。

「黒服がくれた情報通り、協力者になりさえすれば処分は免れるようだ」

「まずは首の皮一枚と言ったところですか。これからどうするおつもりで」

「明日はメンテナンスに行く。BCFも保健管理ブザーも壊れちゃってるからね。修理が終わり次第、教授職に復帰するよ。休養チケットで得た自由時間はすべて先生としての時間に費やす。地下に出向くための〈壁の目〉による移動も、この際は仕方ない」

「そうですか。先生の計略が上手くいくよう、幸運を祈ります」

 黒服は壁の中へ消えていった。彼が去ったことを確認すると、エックは仰向けになって目を閉じる。

 深い眠りが身体を包み込んでいった。

 完全に眠り落ちる刹那、光が見える。

 

 

 当日。エックはBCFが鳴るとすぐに起きて支度を始めた。受取ボックスを開き、真っ黄色のコートを着て、識別票を腕に巻いた。

 会場の座標値を記録したUSBメモリを後頸部に挿すと、視界上にピンが現れる。

 今回も会場は近かった。彼は前回に引き続いて自分の足で行ってみることにした。

 地下で足腰を鍛えられたからか、この道のりが楽しく感じる。秩序的な配列で並べられた街路樹が色鮮やかに見え、軽やかな足取りでステップを踏んだ。

 会場に着いてすらいないのに、エックはすでに受かっているような気分だった。

 頭上を車が飛び交う。歩行者は少ないが、閑散というほどでもない。月間の義務歩行時間のクリアのために徒歩を選ぶ人もいる。

 エックと同じように、その友好者(デカルト)もまた歩いていた。彼に気付いたロボットは手を振って近づく。

「エック、ついに今日ですね」

「ああ。そうだね」

 エックにとっては今一番に会いたかった人物だ。彼の事情を知っていて、純粋に五度目の挑戦を応援してくれる唯一の友なのだから。

「あの日とは、条件も手順も違う。吉報を信じておくれよ。キミと肩を並べて奉仕する日が来るかもしれないんだから」

「もちろん、期待を胸に待っていますので。応援してますよ」

「ありがとう」

「今度ばかりは、慰めのためにパートナー候補を紹介する必要もありませんね」

「まったく、一考の余地だってないね」

 友人の去る背中を見送ると、エックはまた歩き出した。

 

 会場が目前に確認できるところまで来た。あのときとは違って、暴力的な音は聞こえない。

 あの路地裏を見ても、そこには誰もいないはず。

「──待て。シロコ、なんでいるんだ」

「ん、応援しにきた」

 エック先生は頭を抱える。記憶を失う以前もこんな問題児に手を焼いていたのだろうかと、意味のない妄想がよぎる。

「ここは危ないって知ってるでしょ。ほら、目をつけられないうちに」

「その前にこれ。食べて」

 シロコは手に不細工な焼き菓子を乗せて、エックに差し出した。

「ビスケット?」

「ん。食べれば元気になる。これで試験もバッチリだよ」

 試験の日程を漏らした覚えはなかったが、黒服あたりの仕業だろう。

 余計なことをしてくれたというべきか、それとも粋なことをしてくれたというべきか。エック先生はビスケットを頬張り、よく味わった。

「……んぐっ。ごちそうさま。美味しかったよ。行ってくるね」

「がんばって」

 去り際にシロコの頭をわしゃわしゃと撫でて、エック先生は路地裏を去った。

 

Q:保護者の存在理由を答えよ。

 

A:可能性を閉ざし、現在を永遠にするために存在する。

 

 

Q:社会を何と心得るか。

 

A:個の成長を阻害し、操作する管理システム。

 

 

Q:流動者と固定者はなぜ分けられているのか。

 

A:憎悪に双方向性を持たせることで社会への不満が生まれないようにするため。

 

 

Q:同化計画の最終目標を考察せよ。

 

A:ない。ないことが、最終目標である。

 

 

 試験が終わって次の日、受取ボックスには紫色の服が入っていた。さっそく裾を通してみる。採寸通りにエックの身体にピッタリで、着心地もそこまで悪いものではない。

 さすがに人生を懸けて目指していたこともあってか、浮かれて喜ぶ気持ちは否定できない。

 しかし、今の彼は先生でもあるのだ。肩に背負っているものを忘れてはいけない。

 薄い膜のドアを通り抜け、廊下を進む。エントランスを出ると、太陽が彼を迎え入れる。

 陽光はザラザラとした道路をこれ見よがしに照らしていた。雲は規則的な配置のまま頭上を抜けていく。

 車に乗り、キーを回す。まばたきを三回ほどするうちに高度を上げていき、空域道路に合流した。

 

 ──ああ、私はこれから、この色を覆す。過去を取り戻すんだ──

 

 空はいつも通りの、どこまでも濁りきった灰空だった。

 

 

 

永遠平和のために

 保護歴一一九年十月七日。

 古関ウイの死から二ヶ月後のこと。

 T区の三の一の四の八にて。

 

「調子はどう?」

「この通り、元気ですよ。しっかり水分も摂れていますから」

 そう言ってヒナタは笑みを見せるが、頬は少し()けていた。ヤブ医者でもその嘘を見透かせるだろう。

 ──目の前で親も同然の存在を喪えば、こうもなるのか──

 水を飲もうとすると戻してしまう。水の滴る音を聞くと過呼吸になって気が動転する。マリーから相談されていた通りだった。

 先生として、生徒には手を差し伸べなければならない。

「ヒナタはあの日と向き合っているんだね」

「……私は、あのとき、先生を助けられませんでした」

「そう。私たちは、ウイを助けてあげられなかった」

 エックハルトの過去がなんであれ、彼の感性がこの社会で育ったことは揺るぎない事実である。

 取って付けたような薄っぺらい言葉で共感したふりをするよりも、正面からぶつかるべきだと考えたのだ。

「キミだけが罪を背負(しょ)いこむ必要はない。私にだって、背負わせてほしいんだ」

「……エックさん」

「もしあの日のことで悩みがあるなら、私にも分けてほしい」

「ありがとうございます。では一つ、聞いていただけますか」

 もちろんと、エック先生は首を縦に振った。ヒナタは安心した様子でふーっと息を整える。

 決心がついたように、二人は目を合わせた。

「ウイ先生の声が聞こえるんです」

 

 ペラ、ペラ。

 一本の光源から放たれる、微かな明かりを頼りに。せっせと文章の行間を縫って駆け回る。

 一頁一頁をじっくりと読むには、地下図書館の所蔵量はあまりにも膨大で、エック先生に残された時間はあまりにも少なかった。

「殊勝ですね、先生。一人の生徒のために寝る間も惜しむとは」

 天にまで届く様相で積み重ねられた本を眺め、黒服はそこから一冊だけ手に取った。

「クラフトチェンバーについて、知りたいのですか?」

「あれが光ってウイが死んだとき、その場に私とヒナタも居合わせていた。私に変化は見られないが、ヒナタは固定者……なにか影響を受けたかもしれない」

「ふむ、単なる心的外傷の類なのではないでしょうか。恩師が液体となって消えるのを目撃したのですから、到底癒やされ得ない傷を心に負ったとしても。なんら不思議ではありません」

「もしそうであれば、時間に解決してもらおう。しかし、もしそうでなければ、先生(わたし)のするべきことが残っている」

 エック先生は分厚い本をパタンと閉じてバベルの(ふもと)に置いた。地下入りしてからは切らずにすっかり伸びてしまった前髪をかきあげ、そのまま両腕で首元を揉みしだく。

 ここには彼の求める答え──少なくとも、納得のいく答えはない。

「では、私から一つの仮説をたてましょう。先生のお気に召すかは測りかねますが」

「聞こうか」

「ウイさんの身体が液体へと変化したことを踏まえると、神秘を抽出された身体は耐えられずに朽ちてしまうとみていいでしょう。しかし、ヒナタさんを始め、固定者となった元生徒たちは存在しているわけです。さて彼女らはどうして生きているのか」

「……さしずめ、生まれ変わったといったところかな」

「そう形容してもいいですね。肉体が保たなくても魂があるのなら……これは魂と定義されるものが実在することが前提となってしまいますが」

 人間の認識能力では不可知とされる物自体を土台に論じるなんて、カントが聞けば鼻で笑うこと間違いナシだ。

「魂、ね」

「ユメさんとは面識があるでしょう? かつての彼女は梔子ユメ。保護者が現れる以前に死んでいた生徒です。保護者がどのような奇跡を施したのか明らかではありませんが、なんであれ現実に蘇らせてみせました」

 思わぬ情報で驚くエック先生をよそに、黒服は話を続ける。

「その昔。ゲマトリアでも魂の証明、及び研究を試みたことがあります。たとえば、二つ以上の魂の統合など──肉体を失って魂だけとなったウイさんが、その場に居合わせたヒナタさんと混じってしまったのかもしれません」

「そんなことがあり得るのか」

「ククク、どうでしょう。あくまで推測の域は出ませんので」

 好き勝手に語って満足したのか、黒服は木製の椅子に深々と座って口をつぐんだ。

 二人は静寂を噛みしめ、しばらくしてエック先生が先に席を立った。

「先生、一人で抱え込んで根を詰めすぎないようにしてください。昔からの悪い(くせ)ですよ」

「どうも。お心遣い痛み入るよ」

 

 

 

 約五年後。

 保護歴一二四年九月一三日。

 

 ──白い。真っ白だ。居心地が悪い。いや、もはや良し悪しの問題じゃない。居心地なんてものはない。ここは?

 上下左右すべてが無機質だ。そうだ。目前に本があった。山積みだ。なぜ?

 私は、白い服を着ていて、手にはライターがある。ライター? 私はさっきまで手ぶらだったはず。どうしてこんなものを握っている。

 煙の匂いがする。パチ、パチ。これは、火だ。燃えている。

 燃えている! 本が。私か。違う! 私は火なんて。

 火柱は天井まで届いて、私の前を立ちはだかって。奥には、奥には人らしき影が見える。しかし、まるで人ではない。

 女性だろうか。緑の服を着ている。大きなヘイローを携えて。床に届きそうな長髪。私のことをじっと見ている。

 この視線、今まで夢で見てきたものと同じ感覚だ。まさか、あれが正体?

 そう考えたときには、すでに火だるまだった。どうして燃えているのだろうか、私は。気付いたら、女性のほうへと足を動かしていたのだ。

「あ、あ、ああ、?」

 焼ける。皮膚に火が通っていく。呼吸ができない。

 そんなことは些事だ。あの女性、彼女はまだ居るのか? 私は手を伸ばそうと──

 

「──はぁっ、はあ、ふ」

 目覚めると、エックの手が重力に逆らって伸びていた。天井に触れそうなほどにピンと伸ばしきっていた。

 起き上がると、ベッドが汗を吸収してぐっしょりと濡れている。緊張しきって爆発でもしそうな心臓を押さえつけた。

「ふぅーっ……ふぅーっ……」

 次第に落ち着きを取り戻すと、時間を確認する。どうやら、BCFが鳴るよりも早く飛び起きてしまったらしい。

 義務起床時間より早く起きても罰則はない。とはいえ、睡眠時間が無意味に削れたのはエックにとって惜しいことだった。

 乾ききっていないシーツに身体を沈ませる。寝汗でベッタリとした衣服と肌が擦れあうたび、彼の不快感を増大させた。

 疲労ゆえの悪夢だろうか。彼はあの感覚を忘れるために目を開けたり閉じたりを繰り返す。BCFが鳴るまでの辛抱だと言い聞かせた。

 

 ──夢にいた、あの生徒は──

 

 車を飛ばして一五分。視界の隅に奉仕場が映る。次第に大きくなって見えるその建物は、周囲の無骨な建造物とは違って異彩を放っていた。

 ピラミッド状のそれは、百メートル前後のビル群を小さく見せるほどの高さである。雲の隙間から天辺が垣間見え、その光景は神話に出てくる塔を想起させた。キヴォトスに立つ保護者の権威を象徴するものであり、見上げた市民は否応なく畏敬の念を抱かせられる。

 キヴォトス各地に点在するこの超巨大ピラミッド体。これらは分割された保護府の職能を担う省の建物だ。

 福楽省──エックが向かっているここには〈データベース〉の情報や報道、芸術などの管理を担う機関が敷き詰めてある。近年では、娯楽を担当する部局が新しく置かれていた。

 

 エレベーターホールから七十歩ほど離れた位置。名も知らない同僚たちとすれ違いざまに軽い会釈をして、背もたれのある柔らかい椅子に座った。机の下にある機械と後頸部を接続して数秒後、モニターが小さく発光する。

 ぼやけて見える文字列に、エックはメガネを掛けてじっと凝視した。

 

〈ジャンル*有人音楽─ブラック・デス・ポイズン 来歴 修正〉

〈ジャンル*古典料理─フレデリカ・セムラ 項目及び言及 削除〉

〈ジャンル*報道─二・二一保護表彰 ドン・アランチーノ 全修正 要付託〉

 

 軽く肩を揉んでから伸びをすると、エックはさっそく目の前の奉仕に取りかかった。

 彼が属する〈記録局〉は「データベースの管理」を担当していた。彼に割り振られる業務は、改変(表向きには修正)するべきだと判断された情報の、適切な処理である。

 一番目や二番目は、いわば歴史の辻褄合わせ。キヴォトスが統一されてからまだ二十二年ばかりだというのに、そこに百年も盛るのだから齟齬も生まれる。大半の業務はこういう十数分程度で終わる些細なものだ。

 二つの業務を早々に片付け、骨が折れるであろう三番目の案件に取りかかった。前者は数字や資料と睨めっこする能力さえあればブルドッグ族でも容易い作業だが、後者だとそうはいかない。

 ファイルを展開する。半年前に行われた表彰、その報道に誤りがあるとのことだった。

 表彰された「ドン・アランチーノ」という人物は不適となった。より適切な人物に書き直し、上層部に付託せよ──指示書にはそう命じられている。

 

 ロボット種であり、アランチーノ族の優秀な協力者、ドン・アランチーノ。彼の身に何が起こったのかを民衆が知ることはない。明らかなことは、彼が表舞台に立つことは二度とない、という一点のみ。

 ──ちょっとした不祥事であれば、ここまでの処置は取られないはずだ。おそらくは内乱、もしくは暗殺でも謀ったのだろう──

 しかし、ドン・アランチーノが政治犯だったかはエックによる根拠のない推測でしかない。なぜなら、保護者君臨から現在にいたるまで()()()()()()()()()()()()からだ。保護者の統治に造反など、存在してはならない。

 もしかしたら、彼はR区の郊外でひっそりと余生を過ごしているのかもしれない。あるいは、すでに処分されているか。彼の末路は人々の想像力次第である。

 

 エックは報道記事を読みながら、その表彰式の光景を頭に起こす。

 今まさに表彰されんとする人物の顔をイメージしてみた──ドニャ・マンダリーノ。無名の清掃奉仕員であるものの、生来の生真面目さゆえに過去の一度も義務違反をせず過ごしてきた。そして、三十年間の無違反を賞して表彰されたのだ。

 ドニャ・マンダリーノなる人物は存在しない。だが、たった数十バイトの文字列と識別番号さえあれば存在することになる。紙切れも偽造写真も必要ない。この修正案が通れば、三日後にはデータベース検索に出てくるようになるだろう。

 無名の流動者が表彰されることも珍しくない。無違反による表彰も、年に十数回といったところか。誰かがこの記事を読み返したとして、その違和感に気付くことはない。

 かくして、保護府が賞賛するに相応しい人物へと置き換わった。エックはデータを送信すると、首元のケーブルを抜く。昼前に奉仕を終えられたからか、満足げな様子で椅子にもたれる。午後にはまた案件が積まれる現実には目をつむって。

 そんな彼の肩にポンと鋼鉄の冷たい手が置かれた。

「調子はどうかな。教授」

「ついさっき一通りの奉仕を済ませたところです、局長」

 大柄な身体(ボディ)に角張った輪郭。オレンジ色に発光した目。丸目の多眼が特徴のカイザー族では珍しい顔つきだった。

「では、一緒に昼食といこうじゃないか」

 威圧感のある姿とは裏腹に、なかなか親しみ深い人物である。少なくとも、結果を残せているエックからはそう見えていた。

 二人は階下にある共有食堂へと向かう。福楽省の全協力者が施設内の食堂を利用するので、十階層に渡って食堂フロアがあってもぎゅうぎゅうの大盛況だ。

 

 カイザー局長は食堂フロア一番上の階層で止まり、エックもその後を追ってエレベーターから降りた。この階の食堂はお偉方専用なので、()いていて余裕がある。

 なにかを思い出したのか、局長が後ろを振り向いてエックに食事チケットを一枚渡す。

「ここの階層だとキミのでは通れないだろう」

「なるほど。では、ありがたく頂きます」

 ぱっと見だと、そのチケットはエックが持っている紫色のものと大差ないように見えた。しかしよく観察してみるといくつかの相違点が浮かんでくる。

 角に一本の線。識別番号と同じ役割だと思われるマーク。ざらざらとした手触り。光にかざしてみると、どうやら透かしもあるようだ。

「試作段階ではあるがね。偽造防止の技術が使われているんだよ。ゆくゆくはすべてのチケットに、と。科学省は大層に張り切っているそうだ」

「しかし、偽造騒ぎを聞いたことはありませんが」

「まったくな。現状で満ち足りているというのに、危険を冒してまで偽造するようなノータリンなど。そう滅多にお目にかかれない」

 二人はお喋りを維持したまま、チケットと料理の乗ったトレーを交換して窓際の席についた。ちょうど大空路が正面に見えるので、なかなかの眺めを楽しめる。

「お世辞にも費用対効果がよいとはいえません」

「たかが数件の義務違反を未然に防ぐだけだろうな。しかしだ、教授。されど数件なのだ。保護者が照らすキヴォトスは完璧であらねばならないのだよ。その完璧を、愚者ごときに汚されてはたまったものではない!」

 握りこぶしを振る局長は、まるで街頭演説かのように興奮しきっていた。さすがに食卓を叩かない程度の理性は備えているようで、次第に落ち着きを取り戻していく。

「永遠平和のためにも、完膚なきまでの秩序の実現を叶えなくてはなりませんからね」

「その通りだ。それこそ、協力者(われわれ)の存在意義だからな」

 永遠平和のために──保護府がこれ見よがしに掲げているスローガン。その夢を実現しようと、協力者たちは保護者の下で日々邁進するのだ。

 まったく馬鹿げている。フォークで突き刺した蕩ける肉を口へと運び、窓の外に広がる冷たい街を見ながら、エックはそう思考した。

 永遠平和とは、まさに非在郷(ユートピア)だからだ。実現不可能なものをさも可能であるかのように見せかけ、愚衆を奈落へと突き動かす。笛吹き男もいいところである。

 欠乏を埋め立て、苦悩を破壊して、危険を排斥して。

 最後には、人間を棄てる。

 残るのは鉄のみ。

「なんだ、暗い顔をしているな。私の長話で飯が不味くなったか」

「いえ。そういうわけではありません。ただ、欠乏を満たしてもなお道を外れようとする人間の愚かさに辟易しているんです」

「……まあいい。キミを食事に誘ったのは、コジャ(固定者を指す差別用語)の餌にもならないような下らん話をするためではない。キミの華々しい活躍についてだ」

「華々しいとは無縁のデスクサービスですけどね」

「謙遜もし過ぎてはいけないぞ。たった二年で数え切れない功績を挙げた。凡人には到底できない奉仕ぶりだ。保護者もさぞ喜んでいることだろう」

 実際、エックハルトは数多くの隠蔽、もとい修正を成功させた。思考教授としての下積みが活きたのだろう。

 くすぐられる功名心を必死に押しとどめ、ただ果たすべきことを果たすため、協力者としての実績を積み上げた。

 すべては保護者に会うためと、自分に言い聞かせて。

「保護者曰く『献身には、それに相応しき賞賛を』だ。受け取るといい」

 局長はナプキンで口を拭いた後、一枚のチケットをエックに渡した。その紙切れには〈五感映画 テスト鑑賞〉と書かれていた。見聞きしたことのない単語にエックは首をかしげる。

「ここ最近設置された、あの……あー、娯楽局だったか。そこのプロジェクトらしい。きっといい体験になるぞ」

「協力者の中でも上の人に配られている権利(チケット)だとお見受けしますが、よろしいのでしょうか」

「心配せずとも違反行為ではない。それに、私はこういうものに興味がなくてな」

 なんだか受け取らないといけない雰囲気になっても、エックは顔色一つ変えなかった。先生でいられる貴重な自由時間を削らないといけないのは癪だったが。

「何から何までありがとうございます」

「礼はいい。近々、教授宛てによい報せが届くはずだ。これはその前祝いだと思え」

 局長の言う〝よい報せ〟というのがなにか。気になりはしたものの、エックはその場で聞き出すのは控えた。

 局長が勿体ぶった伝え方を好み、それでいてその意図を汲まずに尋ねられると不機嫌になることも知っていた。

 

 

 昼食時間の終了を知らせる音色が鳴ると、エックはオフィスに戻って午後の奉仕を終わらせ、帰路についた。ハンドルを握りしめて黄昏時となった空を眺める。

「クックック、素晴らしい景色ですね」

「……いつから居た?」

「出勤時から後部座席に溶け込んでいました」

「暇なの?」

 その真っ当な疑問を無視し、黒服はエックの胸ポケットを漁る。例のチケットを抜き取りじっくりと観察した。

「映画ですか。興味深いですね、地上では食事以外の享楽はないと思っていたのですが」

「まだ卵から孵ったばかりだからね」

 エックは片手運転のまま華麗にチケットを取り返してポケットにしまう。眠い目を擦りながらも、そろそろ自宅が近づいてきた。

「それ、観に行くんですか」

「そりゃ、当然。せっかく貰ったものだし。感想も伝えなきゃでしょ」

「律儀ですね」

 

 一週間後。エックはチケットに記された場所へ向かった。

 M区の郊外に置かれたその施設は、非居住指定区域でひた隠しにされていた。何重にも渡るセキュリティ、不気味な機械音が木霊する廊下の末、ようやく目的地に着いた。

 いくら最新のものとはいえ、ここまで厳重にする必要があるのかと彼は訝しんだが、その疑問は目前の光景を見て消え去った。

 薄暗い部屋だが、不安は湧かない。むしろ、安心感のある空間だった。まるで生を享受する以前にあった無限の暗闇のようだ。絨毯のように柔らかな床材も相まって、とても居心地がいい。

 巨大なモニターらしき幕が垂れ下がり、ずらっと並んだ席にはコネクタが備わっている。暗がりでよく見えないものの、彼の他にも来客とみられる人影があった。省長クラスのカイザー族らしき顔ぶれもいる。

 

 空いている席に座ってヘッドレストのコネクタに接続する。

〈注意喚起*このプロジェクトはテスト段階です。鑑賞後の副作用も報告されています。皆様は被験者という立場にありますので、当局は副作用について一切の責任を負いません。ご了承ください〉

〈この度は、娯楽局がお送りいたします五感映画に足を運んでくださり誠にありがとうございます。皆様の肘掛けにあります半球型のトラックボールにお手を置いて、今しばらくお待ちください〉

 脳内に響く形式的挨拶。エックは指示通り、ボールの上に手を被せた。すると手が自然と吸着してピッタリと離れなくなった。微弱な電流を流しているのだろう。

 数分して、モニターが白く光る。上映開始だ。

 

 

 世界は暗闇に突き落とされる。

 

 血の雨。銃の声。死の香。

 

 暗雲。破壊。混沌。

 

 狂気と痴愚で窒息する。

 

 ──一筋の光。

 

 雨は止み。声は消え。香は失う。

 

 晴天。創世。秩序。

 

 保護がもたらす真の安寧。

 

 光の化身は我々の手を取る。

 

 

 幕は閉じた。五感映画の名に恥じない出来だというのが、エックの率直な感想だった。

 しかし、わかっていたことだが単調な中身である。ただの保護者礼讃であり、そこに物語は存在しない。甘く評価したとしても叙事詩にさえ値しないお粗末な脚本だ。

 劇場は拍手で包まれ、すでに両手が自由となっていたことに気づいた。エックも周囲の雰囲気に吞まれて手を叩いた。

 拍手はいつまでも鳴りやまない。身体に振動が伝わるほどの喝采は、五分ほど続いた。

 ようやく帰れると足を踏み出した瞬間、逆らえない脱力感に襲われる。膝から崩れ落ちながらも彼が周囲を見渡すと、どうやらこの症状はエックだけではないようだ。

 救助奉仕員の呼びかけが、意識が途切れる寸前の最後の記憶だった。

 

 

 目覚めると、自宅のベッドだった。すぐにエックは辺りを見回して異常がないことを確かめる。

 不思議な体験だった。まるまる一ヶ月、あの劇場にいた気さえする。しかしチケットの切れ端に書いてある時間を見ても、上映時間はきっかり七分だと主張している。

 昼前の上映だったのに外はとっくに日が傾いていた。彼は相当な時間を寝ていたらしい。

 五感映画なるものはかなり危険だ。エックが実際に経験したような副作用があって、これが未だテスト段階なのかが理解できる。

 

 ──しかし、あの高揚感。あの激情は素晴らしかった──

 

 エックは耳裏を押す。浮かび上がる一週間先までのスケジュール表には、たった一つだけ予定が入っていた。

〈第一四八八回 PTA総会 出席〉

 ふと局長の言葉を思い返す。

『礼はいい。近々、教授宛てによい報せが届くはずだ。これはその前祝いだと思え』

 呆気にとられたエックは、慌てて通知を開いた。

〈管理局より:エックハルト、あなたをPTAの教授に任命する。これは()()()()()()()()()を意味する。今一度、自らの立場を理解して気を引き締めるように〉

 

 雫が間断なく滴り落ちる音で、私の掌へと意識が戻っていく。

「お目覚めですか……」

 〈観測者〉の言葉が耳に届く。私は朦朧とする意識をしゃっきりさせ、椅子から身を起こして窓際に立った。

「……九月の睡眠時間は前年比プラス二十パーセントです。このままでは──」

「あなたに監視特権を与えたのは、なにも私の健康管理を任せるためではありませんよ」

「なら、少しはご自分の身を案じてください……あなたを喪ってしまえば、キヴォトスは再び破滅へと向かってしまいます」

 大きな雨粒が窓に当たり、沿って下へと向かう。ぴしゃりと落ちた雷が呼吸音をかき消す。

 結露の中を指でなぞる。

 〝へ〟が二つに〝の〟が二つ。

 〝も〟が一つに〝へ〟をもう一つ。

 最後に美しい曲線と濁点を添えて完成。

 うん、なかなかの出来栄え。

「保護者……それは?」

「あー、そういえば削除していましたね。へのへのもへじ、ですよ。かわいいでしょう?」

 観測者からの反応はないことが分かると、私は翻って椅子に腰を下ろした。机上に置いていた仮面を()()()()()()()()()

 手に取って、ピッタリと顔に装着させた。

「心配することはありません。この通り、私の力は健在ですので。それに同化計画が完遂すれば、私の生死など然したる問題ではありませんよ」

「……次の〈教授〉がそのキーパーソンというわけですか」

「最後のピースと形容してもいいかもしれません」

 首元のパネルを押してデータベースに接続する。網膜に広がる情報の海をかき分け、私は一つのデータに漂着した。

「ドニャ・マンダリーノ──ふふっ、あの子はまったく面白いことを考えますね。伊達に十年余りも思考教授を務めていない」

「彼の講義……私個人の意見としてはいささか退屈でした。スノッブとでも言いましょうか、いちいち回りくどくて」

「そうでしょうか? 気取り屋なところは否めませんが、核心は突けていると思いますよ」

 雨は未だ止むことを知らない。横殴りでガラスに激突する音が鬱陶しいほど鼓膜に張り付く。

「この豪雨は気象局の計算の内ですかね」

「確かです。目障りであれば、止めてしまわれても……」

「いえ、結構です。子どもたちのやることに水を差してはいけませんから」

 

 

 エックが協力者になってから二年もの月日が経っていた。

〈特別 性行動 権利〉

 そう印字された三枚のチケットを破り棄てるたびに、彼は自身が協力者であることを強く実感する。流動者のころは月に一枚の配給だったからだ。

 当然、協力者と流動者に格差があってはならない。すべては保護者の御前にみな平等であり、奉仕に貴賤なし。協力者に与えられる報酬は名誉のみ、それで満足するべきなのだ。

 しかし、人というのはそう単純な構造ではない。

 私益で奉仕に駆り立てられることなく、他人の労苦をあてにできる環境で、率先して責任を手にしようなどとは考えない。

 より美味しい食事、よりふかふかのベッド、より質の高い性行動。そこに一匙の名誉を加えることで、ようやく心身ともに協力的になる。

 流動者と同じ扱いではやっていけないほどに、奉仕が過酷であるということも理由の一つだろう。テーブルに置かれた処方箋が、それを物語っていた。

 今になって、彼は酔い潰れていた隣人の気持ちがわかった。薬漬けよりも酒漬けのほうがよっぽど賢明に思える。

「んぐっ……」

 エックは一杯の水と一緒に何種類もの薬を体内へ押し込んだ。配給のビタミン剤にいくらか彩りが足されたものだと思えば、そう大したことでもない。

 そのままベッドに倒れ、意味もなく目を閉じた。

 ──そうだ、休養チケットを切ったんだったな……生徒たちのところに行かないと──

 ポケットの中でくしゃくしゃになった紙を出して、日付を確認する。しっかりと今日と同じ日時が刻まれていた。

 細工を施したBCFの、本来ないはずの電源スイッチを押す。視界上の煩わしい表示がぱたりと消えた。

 〈壁の目〉の前にエックは立つ。そのまま壁にぴったりとついて意識が途絶える。

 

 ふと、目を開けると傍らにはカヤがいた。相変わらずの糸目美少女が佇んでいる。

「やっぱりキミたちって変わらないよね」

「来て早々に何を言い出すんですか」

 この五年間で生徒たちの容姿が変わることはなかった。推定年齢が一八歳前後に達すると、なぜか時が止まったかのように老化しなくなるのだ。

 少女の顔を見るたび、シワが増すばかりのエックはその生命力に羨ましさを覚えていた。

「……ここ一週間でなにか起こったりしてないかな」

「とくにはありませんね」

 硬い床を十分に味わってからのっそりと起き上がる。エック先生はウッドデスクの上にある本を取り、栞代わりに挟んでいた紙を広げた。

「会議まであと一時間か」

「歩きだと大変ですし、車で送ってあげますよ」

「ありがとう。ついでに会議にも出席してくれない?」

 エック先生の返事に渋い顔を見せたものの、カヤは頷いてみせた。

 

 エンジンの低いうなり声が身体を震わせる。エック先生は車窓越しに遠くを見つめ、なんとか車酔いから逃れようとしていた。

「本当に、私が会議に立ち会っていいんですか」

「ダメなことはないでしょ」

「G区の代表あたりに突っつかれますよ」

 カヤはため息交じりに文句をぶつける。残念なことに彼女の言い分は否定できない。

 エック先生から超法規的権限を与えられた後、カヤは有力な生徒を引き抜き、十数名からなる独立した組織を打ち立てた。地下で尽きない諸問題を大なり小なり解決しているし、実績もそこそこあった。

 しかし、それでも先生直属の軍隊だと邪推する者もいるのが現状だ。

「やれ政治警察だ秘密警察だのと……私たちだって問題解決に努めているというのに、なんっなんですかこの扱いは!」

「みんながみんな、そう思ってるわけでは……」

(もと)を正せばこんな権限をポンと渡した先生も先生です! いったい何を食ってたらこんな権力をそう軽々しく──」

 この説教は少し長引くな、そうエック先生は悟った。付き合いが長くなると先生の神秘性も薄れてしまうようである。

「……あのー、お怒りのところに油を差すようなことを言ってしまうようで申し訳ないんだけど」

「なんですか」

「いや、会議に出てほしい理由というか。保護者に直接会うことが決まっちゃってね。もしものことがあったとき、空いた席に座ってほしいなー、なんて」

「──はぁ、なるほど。そういう魂胆でしたか。別に構いませんが」

「よかっ」

 会場前の路肩でブレーキをかけて停止させると、エック先生の肩を掴んで目線を合わせる。

 横長の四角い瞳孔が、彼の眼を逃さずに捕らえた。

「必ず、生きて帰ってきてください。いいですか、()()ですよ」

「……大丈夫、そのつもりだから」

 その言葉とは裏腹の煮え切らない態度にカヤは怪訝そうな表情を浮かべる。しばしの沈黙を経て、折れた彼女が先に目線を外して車を降りた。

 

 エック先生の到着後、最後に遅れてきた書記が席につく。重々しい雰囲気の中で先生が口を開いた。

「第二十回、学生連邦会議を始めよう」

「さっそくだが先生。その後ろに突っ立っている生徒は誰だ?」

 カヤの憂慮していた通り、ゲヘナの議長が突いてきた。注目が集まると少女は一歩前に出る。

「自己紹介が遅くなりました。私は連邦捜査局〈シャーレ〉の顧問、カヤと申します。マコトさんとは何度か挨拶を交わしたと記憶しています」

「キキ、すまんすまん。なにせ印象に残っていなくてな」

「──んんっ」

 二人の睨み合いを察知し、先生が軽く咳払いする。そのまま発言に繋げた。

「カヤをこの場に招いたのは、私の不幸によってこの議長席が空席となったとき、私の代理として座ってもらうためなんだ」

 不幸、空席、代理──その単語に生徒たちはどよめく。

「ふ、不幸って……」

「ユメ庶務、みんなも落ち着いて聞いてほしい。私が三年前から進めていた保護者打倒計画がついに進展したんだ」

「保護者と直接会う見通しが立った、ということでしょうか」

 補佐の言葉で部屋が静まり返った。

 生徒を地下へと追いやって自由を奪った張本人、ウイ先生の仇。その保護者の雁首に、手が届くというのだから声も失って当然だ。

「その通り。でも、上手くいくとは限らない。もしものための代理になってもらいたいんだ」

「とても理に適った選択だと思うわ」

「妾からも異存は無いな」

 ただ一人を除いて他はとくに不満のない様子だった。

 二人目の、それも伝説上の先生を失うという最悪の結末。その先で待っているのは混沌だろう。そこに権力争いまで生まれれば、学連崩壊は免れない。

 その保険として代理を用意する。その座には、どの地区からも独立した存在であるシャーレが適任だった。

 その座を狙う生徒にとっては不都合だろうが、これ以上ない選択に違いない。

「それで、その代理にシャーレを宛てがう、と。なるほどいいチョイスだな、先生。しかし……なぜカヤなんだろうか? もっと適任がいるんじゃあないか。たとえば、シャーレのリン局長。カヤ顧問が劣っていると言いたいわけじゃないが、より相応しい人物だとは思わないか」

「……量才録用という言葉をご存知でしょうか。マコトさんもG区の上に立つ者として、多少の心得はあるかと思いますが。ああでも、お抱えの治安部隊の扱いには手を焼いているんでしたね。よければレクチャーしてさしあげますよ」

「お二人とも、お静かに」

 小槌(ガベル)のカンカンと打ち鳴らす音が生徒たちを制止させる。場が再び静まると、仕切り直しと言わんばかりにH区代表の進行が話し出した。

「ま~まぁ、先生代理は一旦置いておきましょうよ。他にも面倒な議題が山ほどあるわけですしぃ? 地上外出禁止令の件とか……」

「あれは悪法そのものだ。まったく、自由を求めるのが我々の性分というのに、自ら秩序で縛り上げてしまっては本末転倒だろう!」

「反対派の意見も、ごもっともですねぇ。立案者であるリオ会計さんも、なにか言いたいことはあります?」

「そうね、反対派の意見も重々承知しているわ。住民からの抗議も、無視していいものではない。けれど、年々増加傾向にある地上絡みの事件を防止するには不可欠の規則よ。問題解決に努めないで傍観したままでいるのは、合理性に欠けているわね」

「なるほど~。先生はどう思います?」

「私は──」

 

 いくつかの議題を話し合った末、学連会議は終わりの合図で幕を閉じた。エック先生は帰りもカヤに送ってもらったので、去り際にお礼としてコーヒー豆の詰まった麻袋を手渡した。

 嬉しそうな顔で受け取る少女を見送って彼は図書館に戻った。

 暖炉前のロッキングチェアに座る。〈シッテムの箱〉を膝に置いて〈大人のカード〉に光をかざしながら意味もなく観察する。

『これは不可解な奇跡を起こす代物。あなただけの武器。とは言ったものの、先生が記憶を取り戻さない限りは無用の長物ですが──』

 エック先生は黒服の言葉を反芻(はんすう)する。保護者と会う日はもうすぐだというのに、一向に記憶が蘇ることはなかった。

 もしこの切り札(カード)が使えないのであれば、手段は小刀と小銃(カービン)のみに絞られる。対話の余裕はないだろう。

 先生としての務めを果たすためには、先生のままではいられない。

 鉛玉を一発だけでも命中させて拘束、そして急所を──エックは頭の中で何度もシュミレーションする。

 彼は揺るぎない決意をもって、殺人を成さなければいけない。

 時計の針が六を指し示しているのを見、エックは休養チケットを取り出して時間を確認する。

 自由時間はあと三十分もせずに終わる。エックは壁に掌を当てた。

 ふと、机のほうに振り向く。読み終えていない本があることを思い出した。

『私はみんなとクジラを見に行きたいんです。言っておきますが、その〝みんな〟には、先生も入ってますから』

『必ず、生きて帰ってきてください。いいですか、()()ですよ』

 

 

 冷水を顔に浴びせる。疲れを吹っ飛ばす勢いでバシャバシャとかける。エックが顔を上げると、そこには亡者のような形相が映っていた。

 タオルを握りしめてその亡者と対話を続ける。

 深々と彫られた隈。血走って焦点の合わない眼。止めどない冷や汗。かち割れるような頭痛。

「──ここが踏ん張りどころだ、先生(わたし)!」

 目をつむって、もう一度冷水を亡者に浴びせる。

 受取ボックスを覗くと、普段の紫制服とは別に当日有効の関係者証と〝仮面〟が届いていた。

 

〈第一四八八回 PTA総会〉

 スケジュール表を閉じ、呼吸を整える。法定速度を遵守しつつ指定された座標へと走らせた。

 ピンの指す方角はサンクトゥムタワー。キヴォトスの中枢部。元は連邦生徒会の本部で、二十一年前に奪われて以来、保護者の権威を象徴する建造物となっていた。

 いつ見ても摩訶不思議な構造。まず、このタワーの上には一本の巨大な塔がある。雲の遙か上まで伸びていて、エックも目視どころか映像でさえもその天辺を拝んだことはなかった。

 この塔は下部のタワーと接触していない。つまり、浮いているのだ。黒服たちが言うには保護者以前からそうだったとのことらしい。

 旧シャーレのビルとサンクトゥムタワー。戦前から残されている建造物はこの二つのみだった。

「チケットをお見せください」

「はい」関係者証を渡す。

「その頭のものは?」

「担当医から常に着けておくよう言われていまして」

「……失礼しました。どうぞ、お入りください」

 無事にセキュリティを通ってエレベーターに乗る。一分ほどで最上階に到着した。

 降りて廊下に出てすぐ、エックは異様な雰囲気に気圧された。ピンは真っ直ぐ向かって突き当たりにある扉の先を指しているが、まるで人の気配を感じない。

 人らしさ、ないしは営み。そんなものが入る隙はなかった。冷たいと表現することも、鉄と表現することさえも生ぬるい。

 幅の大きい廊下の中で靴音が小気味よく鳴る。意外にも、エックの心音は平然として落ち着いていた。

 顔に張り付いた仮面の輪郭を指先でなぞる。エックの直感が、こいつの影響だと訴えていた。

 

 ギィ、ギィィィイイッ。

 

 案内用の座標値データは自動削除されてピンが消えた。

 エックから見て右に二人、左に四人が着席している。全員同様の仮面を被せていた。その背後には守護者らしき姿が立っている。

 そして、真っ直ぐ正面。ヘイローを携えた一人の生徒──保護者が鎮座している。物憂げな仮面で顔はよく見えないものの、その威厳は確かなものだった。

 キヴォトスを導く唯一。あらゆる戦争、あらゆる欠乏、あらゆる障害を排除する絶対者。楽園を顕現せし救済者。アルファを賛美し、オメガを唾棄する者。

 エックの意思に関係なく、彼の深層に刷り込まれた崇拝の念が湧き起こされた。

「〈教授〉。どうぞ、空いている席に」

 言われるがままに教授(エック)は座る。座り心地は良いが、この長い背もたれにかかる気にはなれなかった。

 

〈検索:PTA〉

〈協力者から選ばれた七名の非戦論者と保護者で構成された団体。保護府の最高機関であり、いかなる事項でも制限なく決議できることから「万能の機関」とも。名称は非戦論者と保護者と団体、各語の頭文字を取ったものである(Pacifist-Tribune-Association)〉

 

「ただ今より、第一四八八回、PTA総会を始めます」

 仮面の者たちは一人として微動だにしない。静止した空間で呼吸さえ制御されているような感覚。

「それでは観測者より報告を」

「はい……今月は三名の政治家が発見されました。三名のうち、一名は内ランを企んでいました。他二名は省長クラスの人物のサツガイを狙っていました」

「よく防いでくれましたね。では次、〈研究者〉はなにかありますか」

「AL-1Sを媒介とした〈名もなき神の力〉計画についてです。今年六月に開発された特定力場制御装置Ⅱ型によってシステムの安定性を実現。これで名もなき神の力を応用した肉体生産技術や発電技術は目覚しく発展しましたが、〈色彩〉の破壊を可能とするには我々の科学では未だ解釈の及ばない点があります。ANUBISも、制御が上手くいかず……」

「私の権能を使わずに肉体生産を成し遂げた。それだけでも、十分な成果でしょう。しかし、そうですね……色彩に関して話し合いたいことがありますので、研究者は一〇月一五日の予定を空けておいてください」

 教授は、色彩がゲマトリアにとって最大の敵だと言っていたことを思い出した。

 ──到来する不吉な光。保護者が破滅を嫌うのなら、敵対して然るべきだ。でも、どうして研究者とやらに対策を講じさせている? 圧倒的な力を持っているのだから自ら戦えばいいはず。それほど色彩が強力なのか、それとも──

「〈医師〉はどうでしょうか。人口についてなにか問題は?」

「今のところ、食料需給に問題はありません。しかしS区を中心とした耕作地で不作となる予測が気象局から報告されています。大事には至らないと思いますが、人口調整プロトコル-γを視野に入れるべきかもしれません」

 

 非戦論者たちの報告はそのまま続いていく。教授は初回ということもあり、とくに発言することはなかった。

 今までの報告を聞いたかぎりでは非戦論者たちには役割があるように思えた。

 観測者は監視。

 研究者は色彩に対抗する技術。

 医師は人口管理だろうか。

 しかし、教授は自身の役割について聞かされなかった。どんな権限を与え、どんなことをさせようとしているのか、不明瞭のまま会議は終わりに近づく。

「──では、危険単語の候補もありませんから今回は割愛しましょう。以上をもちまして、第一四八八回、PTA総会を終わります」

 拍手や返事はない。ただ粛々と一人ずつ席を立って、一礼してから部屋を出ていく。教授も立ち上がろうと膝に手を置いた。

「教授は残ってください」

 保護者のその一言に、なにかしてしまったのかと教授は内心ヒヤッとしたが、言い方をみるにそれは思い違いだと分かった。

 教授を除いて最後の非戦論者が退出する。守護者は突っ立たままで一切動く気配はなかった。保護者が教授のほうに近づいて耳打ちする。

「この後〝ある場所〟に向かいます。ついてきてくれますね」

「……ええ。もちろんです」

 教授にその誘いを断る道はない。保護者の後を追うと、部屋を出て左にある階段を上っていった。

 

 

 屋上への扉が開くと揺さぶられるような強い風に煽られる。保護者は身体の軸がブレる様子もなく、真っ直ぐにヘリのほうへと歩いた。ロボット操縦士が一礼して迎える。

「出発できますか?」

「風速が十六・七メートルなので、風が収まるまで運航は難しいです」

 操縦士がそう返答すると、風は次第に弱まっていった。

「この風なら、出発できますね?」

「え、まあ、もう少し様子を見たいんですが……急ぎのようですね」

 操縦士が首を縦に振ったので、二人は搭乗して離陸までのひとときを過ごすことになった。

 保護者はなにやらポケットを探り出し、梱包された一粒の小さな錠剤を教授に渡す。

「酔い止めの薬です。警戒する必要はありません」

「……なにが目的かな、保護者サマ」

「ふふっ、そう焦らないでください。またとない勝機を逃してしまいますよ」

 少し沈黙した後、エックは仮面を外してその錠剤を飲み込んだ。

 風を切るプロペラの音が轟く。機体は宙に浮いて発進した。両者とも逃げ場のない局面だ。

「このシチュエーション、殺しにかかるのにピッタリだとは思いませんか?」

「私だって命は惜しいよ」

 この状況はもちろん、さっきの会議室には守護者──あまりにも生気を感じられないロボットたちがいた。殺すことができたとしても、〈壁の目〉で逃げおおせることはできないとエックは判断したのだ。

「約束、していましたからね」

「盗み聞きは感心しないな」

「その頭に着けた〈輪っかちゃん〉のフラッシュで目眩まし。小銃で拘束。すかさずナイフでトドメ。そんなところでしょうか?」

 思わずエックの頬を汗が伝った。理解していても、いざ対峙すると畏怖の感情がこみ上げてくる。

 ──私は、本当にこの人を殺せるのか? ──

 無機質に悲しむ仮面も相まって、保護者の底は見えそうにない。

「この仮面は到着してから外しますよ」

「……どこに向かっているんだ?」

「ア──AL-1Sのところへです。研究者が言及していたこと、覚えているでしょう」

「名もなき神、だったかな。ゲマトリアから聞いているよ。AL-1Sは名もなき神々の王女だとも言っていた。その目的を知る限りだと、利用するには危険な存在に思えるけど」

「多少は知っていますか。しかし、あの外物たちは肝心な情報を伝えなかったようですね」

 含みのあることを語るだけ語って、保護者は説明しようとはしなかった。その王女に会えば分かることなのかもしれない。

 

 一時間半で自然保護区の上空まで来た。自然という言葉の意味とはかけ離れた、規則的な配置の木々。

 エックが下の景色を眺めていると、緑の中に十円禿げのような人工を見つけた。

「あれはヘリポートですよ」

「なるほど、王女の居る場所は山の中に隠されているわけだ」

 地上との距離が近づいていくにつれ、プロペラの音が収まっていく。回転数が下がり、スキッドが地面と接触した。

 エック人生初──少なくとも記憶の限りでは──のヘリ飛行だったが、幸いにも酷い乗り物酔いをせずに済んだ。限界まで張ったピアノ線のような緊張感の中でそれどころではなかったのだ。

 保護者はエックに背を向け、足下の扉を開けた。

「このハッチの先です」

「……あなたは、私の殺意に気づいているはず。どうして隠れ蓑まで案内したのかな」

 エックの質問に保護者は意表を突かれたのか、少しの間動かず固まった。振り返らずに保護者は答える。

()()()()()()()()()

「──なっ」

 エックの身体は動かなくなった。

 より正確に言えば、保護者(わたし)()()()()()()()()()()()()()()()

 小銃の引き金が引けない。

 フラッシュの長押しができない。

 小刀が鞘から抜けない。

「この自然保護区内であれば〈壁の目〉を使って逃げられるでしょうね。しかし、それは発信機が無事であればの話ですよ」

「発信機?」

「……ゲマトリアが勝手に装着させたものでしたか。どうりで私も気づくのが遅れたわけです」

 私はエックの首元に付いていた発信機を剥がし、握り潰した。

 さあ、これで邪魔は入らない。

「お互いに、約束を果たしましょう」

 

 保護者はハッチの中へと降りていった。戸惑いつつ、エックも小銃をポケットにしまって後に続いた。光明の中へと溺れゆく。

 どれほどの時間を光の中で過ごしたのか。時間さえ超越した空間で、誰かの声が聞こえた。

 

 ──賢者よ、よくぞ参られた。

 

 エックはおそるおそる瞼を開く。そこには、見渡すかぎりの草原が広がっていた。

 奥には風車も見える。周囲を見渡すも、保護者らしき姿は見えなかった。

 ただ一人、目の前に長い灰髪をたなびかせた少女がいるだけ。ウイと同じくヘイローに形と色がある子だ。

 エックは屈んで少女と目線を合わせた。来客がそんなに珍しいのか、きらきらと目を輝かせている。

「えっと、キミは?」

「アリスですか? アリスは見習い勇者です! 今はジョブチェンジして、スローライフを満喫する勇者をやっています!」

 ──ゆうしゃ? じょぶちぇんじ? すろぉらいふ? ──

 困惑するのもそのはず。エックは古き良きRPGを地下で履修していなかったのだ。

「……アリス、でいいのかな。ここはどこなの?」

「はじまりの村の外れです! その様子だと、賢者は迷い込んでしまったんですね」

「……賢者、というのは?」

「白髪、髭、ローブ──これは賢者の鉄板装備です! でも、肝心の杖がありません……もしや杖なしでも魔法を使いこなせる、大賢者ですか?」

 賢者の困惑は止まらず加速する。白髪(はくはつ)と言っても、白髪(しらが)が増えたから生活局に申請して染めていただけだった。

「ま、魔法は使えないかな……」

「なるほど、まだ上級職に転生したてでスキルを習得していないんですね。つまり見習い賢者ということですね!」

 エックは天を仰いだ。少女のペースに吞まれきっている。合わせようにも世界観も用語もまったく分からない。

 彼は自らの不勉強を呪った。もはやそれを呪うべきかも判断がつかないぐらいだった。

「……とりあえず、自己紹介かな。私はエックハルト。よければ、エックって呼んで」

「では、エックと呼びます」

「お家はあるのかな」

「セーブをしたいんですね」

「あー……うん。案内してくれる?」

「パンパカパーン! エックが合流しました」

 勇者パーティは原っぱを進んで、風車小屋近くの家に入った。年季の入った木製の扉が音も立てず開く。

 中はこぢんまりとしていて、人ふたりが生活できるぐらいの家具が揃っていた。賢者は近くの椅子を近くまで寄せ、会話を再開させた。

「それで、キミはいったい誰なのかな?」

「? アリスは見習い勇者で──」

「待って、待ってほしい。訊き方が悪かったね……えー、アリスはここで、なにをしているのかな?」

「スローライフを満喫しています!」

「……もう少し具体的にお願い」

「神の使いから『魔王復活の刻まで待つ』というクエストを受注したので、じっとしています」

 神の使い──保護者本人か、あるいはその部下か。

「その使いの名前は……」

「名前は教えてくれないので、シロと呼んでます。髪色がとても綺麗なのでアリスがそう名付けました!」

 シロ、白色か。あるいは白銀か。賢者は必死に記憶を掘り返す。

 あの部屋に落ちていた髪の毛、あれは確かに白銀色だった。

「その人は、今どこに?」

「アリスにもわかりません。たまに会いにきて、いっぱいナデナデしてくれます! おかげで、どんなに寂しくてもこのクエストを頑張れるんです」

「アリスは……ここでどれぐらいの時間を過ごしたの」

「二十四年半です」

 つまり、アリスは戦争が始まってすぐから、ずっとここ幽閉されているのだ。エックの腸が怒りに煮えてくる。

 エックは今しがたの記憶を掘り返す──保護者の発言が正しければ、ここにはAL-1Sがあり、名もなき神とやらの技術を使うための実験場のはずだった。この少女を幽閉する正当性はない。

 あるいは、AL-1Sを動かすために必要なのか。

「外のお話は、興味あるかな」

「冒険ですか? なら、アリスは知りたいです。たくさん聞かせてください!」

 

 狼少女との出会い、地下ダンジョンの攻略、先生として受け継いだ意志。

 面白おかしい語り口で紡がれる賢者の愉快極まりない冒険譚は、窓辺に射す光が落ちるまで続いた。

 どうやら、この空間にも昼夜があるらしい。

「もう夜だね。そろそろ寝ないと」

「うわーん! アリス、エックの話をもっと聞いていたいです!」

「じゃあ、続きは寝室で。ベッドは二階かな」

 ジタバタする勇者をなだめて、賢者は階段を上がる。上の階には少し小さめのベッドと、背丈のある人間でも横になれる大きさのベッドがあった。

 試しに寝っ転がるとかなりの寝心地。少し膝を曲げる必要があっても、睡眠を取るには事欠かないだろう。

 満足げな賢者の顔を見て、勇者はオロオロし出す。

「……大丈夫。アリスが寝るまでは、私も寝ないよ」

 ホッと安心するとすぐに元気を拾い直した。ベッドに転がって、二人は天井を見上げる。

「ねえ。アリスは、何をきっかけに勇者を目指しているの?」

「……わかりません。アリスの補助記憶装置に障害が発生していて、どうしても思い出せないんです。この『アリス』という名前は、誰から貰ったものなのかも」

 保護者が二人を出会わせたのは、過去を失ったその境遇ゆえか。

「思い出せなくても、アリスは勇者であり続けたいです」

「どうしてかな」

「世界中の人が幸せでいてほしいんです。誰も悲しんだり、苦しんだりしない、そんな世界を……」

「優しいんだね。勇者になら、きっとできるよ」

「ありがとうございます、エック。でも、それは難しいことです。アリスはまだ見習いで、経験値が足りません……それでも、目を背けたくはないです。大切な人を守って、苦しんでいる人と同じ世界を見る勇気を持つ。アリスはそんな勇者になりたいです」

 勇者の眼はまっすぐ前を見据えていた。迷いはあるかもしれないが、屈することのない強さを感じる眼だった。

「アリスも聞いていいですか」

「どうぞ」

「エックは、どうして先生をしているんですか?」

 エックはすぐ言葉を発そうとして、しかしつっかえてしまった。

 目をつむって考え込んで、しかし納得のいく答えはなかった。

「どうだろうね。魔術師に私の過去を教えてもらって、責任を感じたのかもしれない。そう求められたから、なのかもしれない。他人に求められて、認めてもらえるなんて経験がなかったんだ」

「エック?」

「……どうして、なのか」

 賢者の眼はその瞼によって閉ざされていた。迷うことさえできず、進むだけだった。眼はいらなかったのだ。

 ぎゅっ。華奢な躯体から、ほのかに温度が伝わる。

「フフッ……エックの身体、あったかいです」

「アリス?」

「何度かシロにこうしてもらったことがあるんです。そのたびに、アリスの中にあった不安が上書きされました。エックはどうですか?」

「……ああ、温かいよ」

「自分のなりたい存在は、自分で決めていい──昔、誰かがアリスに教えてくれました。エックは、どんな存在になりたいですか」

 ただ静かに、ただ情けなく、その体温にすがる。そっと肺の空気を入れ換えた。エックは答えようと努める。

 しかし、エックはその思いを口にしなかった。適当にはぐらかした後、アリスを寝かしつける。

 ──私はみんなの先生でありたい。そのおかげで、アリスとも出会えたから。生徒のみんなと出会えたから。私は、誰かのための存在であり続けたい──

 

 アリスが寝付いたのを確認すると、エックは寝室を後にした。

 ()()()()()()()()草原を眺める。手を前方に置き、月明かりを反射する緑の地面を踏みしめて歩き出した。

 五分ほどで手は〝壁〟と接触した。接触した箇所を起点に、テクスチャが徐々に剥がれていく。美しい月も、満天の星も、鮮やかな緑も、なにもかもが消え去る。

 温かさの欠片もない無機質な空間が広がった。

「アリス、とてもいい子ですよね」

 どこからともなく声が聞こえた。声の主は、もはや間違えようもない。

「そんないい子を、あなたはこの箱庭に二十年余りも閉じ込めている」

「いい加減に察しがついているでしょう。アリスこそがAL-1Sなのです。〈名もなき神々の王女〉である彼女がいなければ、地下居住区は維持できません」

「地下居住区を捨ててしまえばいい」

「保護以前の世界を知らないからそう言えるのです。固定者がただ無垢なまま生きていける世界のために、永遠平和のために。あの子は尊い人柱となります」

「私は先生だ。これまでも、これからも。そして、アリスも私の生徒だ。助けない道理を捻じ曲げてでも助けるよ」

「……貴方になら、成し遂げられるとでも?」

 次の瞬きで保護者は現れた。エックは反応速度も及ばずに蹴りを入れられる。

 まともにみぞおちでくらって、為す術もなく後方に数メートルほど飛ばされた。

 刹那、激痛の電気信号が脳を支配する。思わず口から胃液を吐き出した。けたたましいブザー音に刺激され、痛みが増幅する。

 必死に息を吸おうとしても、口からキューッキューッと音が漏れるばかり。立ち上がろうとする意思とは反対にエックの意識は無情にも遠のいていく。

 

 

 気がつくと、エックはアリスの家にいた。保護者にリビングまで連れ戻されたのだ。

 目前には、一人の女性が立っていた。まるで雪景色のような艶やかな髪と、瞳に宿る赤い虹彩。頭上には、いくつもの輪っかが重なり織り成された巨大なヘイロー。

()()()()()()()()()()()()()

「……命令されずとも、そんな元気はないかな」

 そうは言いつつもエックは足に力を入れてみる。あのときと同じで、やはりできなかった。

 ──これは神秘の同時発動で出来るような芸当ではない。おそらく、これが保護者が持つ本来の力。この力で学園都市は負けた──

「ご明察です、エックハルト。私が掌握するのはキヴォトスに属するすべて。非生物であればその構造と位置を自在に操り、生物であればその肉体と意思を自由に操れます」

「はぁ、まったく。無法にも限度があるでしょ」

「弱点はありますよ。対象はキヴォトス由来に絞られますので。外から来た物質、存在には効きません」

 ゲマトリアを野放しにしているのは、そのためだったのだ。

 しかし、保護者はまだ手の内を見せきっていない──エックは思考を止めない。

「それだけじゃないはず。あなたは発信機を破壊したとき『どうりで気づくのが遅れた』と言っていた。どうして、私が認知していないゲマトリアの動向を知らないのか? 彼らはあなたにとって私以上の脅威だろう、監視をしないわけがない……監視ができるなら、の話だけどね」

「ええ。その通り。外物は探知できず、神秘による監視もできません。おかげで、私の体内にはウイさんから戴いた銃弾の破片が埋まったままです」

 震える足を押さえ、平然とした表情を保とうとしている。保護者(わたし)でなければ、エックが隠す恐怖心に勘づくことはなかっただろう。

「キミは、固定者をどうしたいんだ」

「救いたいのですよ」

「救う? ははっ、これのどこが救うだって」

「彼女たちは飢えていますか?」

「なに?」

「飢えていないでしょう。誰一人として、腹を空かせている者はいません」

「……でも」

「ウイさんから聞いたでしょう、地下居住区はカタコンベを利用したものだと。旧時代にカタコンベはアリウス派の隠れ蓑として機能していました」

 アリウス。その単語をエックは知っていた。かつてはトリニティの分派として存在し、弾圧によって表舞台から降りた学園。

「歴史の影に追いやられ、その子孫たちは限られた物資を身内同士で奪い合う。挙げ句に外物──ゲマトリアのベアトリーチェに利用され、兵士に仕立て上げられる……」

「私たちはベアトリーチェを破り、アリウス自治区を解放したはずだ」

「ハハっ……ははははは!」

 私はつい可笑しくなって堪えきれずに大声を出してしまった。

 

 ()()()()! 

 ()()()()

 

 高慢も高慢、なんという高慢。まったく笑いが止まらない。

「なにがおかしい?」

「……先生方はなにも救えませんでしたよ。世界は未だ空虚のまま。紛争も、貧困も、絶望も。哀れな少女たちは忘れることができなかった!」

「それでも、生徒たちで手を取り合えば──」

「乗り越えられるとでも? できなかったから保護者(わたし)に負けたんでしょう!」バキッ。

 昂ぶるあまりにうっかり拳を振り上げてしまった。

 木製の机は真っ二つに割れ、木片があたりに散らばる。ここ数年で感情の制御が利かなくなったとはいえ、私にも反省が必要か。

 ポタポタと垂れた()()()()()()()()()()()()。手をかざせば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ふぅーっ……失礼しました。話を戻しましょうか。私が言いたいのはですね、忘却こそが最善の治療法ということなのです。今、ウイさんは七歳前後まで成長しました。居住区へ移動させる際に記憶処理でも改竄(かいざん)でもすれば完璧でしょう」

「本気で言っているのか。ヒナタの苦しみをなかったことにすると?」

「貴方こそ、なにをそこまで気にしているのですか。苦しみなんてないほうがいいに決まっていますよね。それとも、ヒナタさんが生涯に亘って苦しみを背負い続けても構わない、と?」

 エックは言葉を詰まらせた。当然のことだった。これは私の理論云々というよりも、彼の感性が地上で育ったことに起因している。

 彼は保護者を本質的に否定できない。

「けれど、私の目的をしっかりと理解できていない様子。一から話してあげましょう──」

 

 

 昔々、一人の人文主義者(ユマニスト)がユートピアというテクストを発明した。

 それは、社会を映して人々に内省を促す画期的な鏡。

 鏡の世界なんてものは存在しない。痴愚と狂気に踊らされる社会への批判のために産まれた島に、真実はなかった。

 この世のどこを探そうと、地球の裏の毛穴まで探索し尽くしても見つからない非存在の概念。

 しかし、人々は存在するはずのないユートピアを実現する目前まで漂着してしまった。

 物流発展による国際化、穀物の生産性向上、情報革命がもたらす監視社会。

 ユートピアは、ディストピアへと変容した。

 

 私はその現象をキヴォトスで行った。

 ディストピアというテクスチャを被せるのは容易かった。言ってしまえば、初めからユートピアだったからだ。

 ユートピアといっても、青春賛歌の鏡であるこの世界はあまりに不完全。悪意が加えられるだけで途端に崩れてしまうほどに脆い。

 そんなガラスのような世界にコンクリートを流し込む。つまり私の成したのはそういうことだった。

 

「ディストピアの素晴らしい点はなにか、分かりますか」

 

 それは、終わりがないこと。人々は前進することも後退することもない。そのうえ苦痛や不幸が座る席は用意されていない。

 キヴォトスは終わりのない世界を望んでいる。私は、それを叶えた。

 

「ゆえに非物語なのです。喜劇も悲劇も存在しないなんて、すばらしいことでしょう?」

 

 私の役割は、あらゆる破滅を取り除くこと。

 忘れられた神々。

 無名の司祭。

 デカグラマトン。

 排除することは容易かった。それらは、キヴォトスの内にあるものだったから。

 しかし、外からの脅威には無力だった。

 ゲマトリア。

 色彩。

 そして、先生。

 私は策を講じた。外に対抗する力を得るために、あらゆる神秘を取り込んだ。名もなき神の遺物さえも利用した。二十年の刻を経て、ついにその足掛かりを掴んだ。

 

 こうして、終わりは取り除かれる。

 世界の次は生命だった。世界が不変となっても、生命は流転する。不死の研究はしなかった。どのような権能をもってしても、死は逃れられない結末だ。

 肉体の不滅にできないのなら、精神を不滅にすればいい。魂はゼロイチの二進数世界へと落とし込まれる。肉体は工場生産にして、朽ちる前に交換される。

 こうして、この世界からすべての終わりが駆逐される。

 

 

「魂のデータ化なんて、面白い詭弁だ」

「貴方がたには理解できない領域でしょう。私は保護者であり、キヴォトスにあって私に認識し得ないものは存在しません」

「……外からの破滅はどうするのかな。保護者の権能だと太刀打ちできないだろう」

「足掛かりを掴んだと言いましたよね。貴方こそがその足掛かり」

「そう。それで、私に何をさせたい?」

「何もしなくていいのです。貴方はただエックのままで、それだけで十分に働いてくれています」

 私は彼の胸に手を置いた。触覚に意識を集中させる。

 そこには、確かに魂があった。先生の魂ではない。他ならぬ、エック自身の魂。私が操ることのできる魂。

「いったいなにを……」

「少しも疑問に思いませんでしたか。保護者の力に屈している自分を」

「……なんの冗談だ」

「言ったでしょう。私は外物を支配できない。それは先生も例外ではありません」

「待ってくれ」

「二十年前、交渉のテーブルについたあの日。私は先生のことを操れませんでした」

「待て……」

「ですから、同化手術によって記憶と魂を封印して新しい記憶と名を与えました」

「そんな、そんな筈は……」

「操れるようになると、次は〈大人のカード〉を行使できなくなってしまいました」

「それじゃあ、私は」

「私が用意できるのは記憶と名だけ。魂をゼロから生み出すことは敵いません」

「やめてくれ」

「この二十年間。空っぽの貴方に魂が生まれる日を待っていました。物に魂が宿るのと同じ要領ですよ」

「頼む、お願いだから」

「エックの魂は内物ですので、先生の魂と違って操ることができます。この二つを混ぜることで〈大人のカード〉の行使も自在となる」

「……嘘だ」

 気が動転したのか、エックは椅子から崩れ落ちて私の足下に縋っていた。

 赦しを乞うように、救いを願うように、頭を垂れる。

「どうかしましたか、エック。なにをそんなに錯乱しているのでしょう」

「先生なんだ」

「……ああ、なるほど。貴方の心の支えはそこからくる自尊心だったわけですね。先生として求められ認められ、今までの惨めな人生が報われたように思えた──そんなところですか」

「わた、私は」

「けれど、現実は違いましたね。貴方はエックであって、先生ではありません。〈シッテムの箱〉が起動しないのも、〈大人のカード〉が使えないのも、記憶がないからではありません」

「……あ、ああ」

「貴方が先生ではないからです」

 さきほどまでは恐怖で震える足を押さえていた手が、今は動揺で震えている。

 これまでエックを突き動かしてきたものは消え去った。気づけば奈落は足の下。

「一つ、貴方の現状にぴったりのお話をしましょう」

 

 

 ある日。靴直しの記憶を持って目覚めた王子と、王子の記憶を持って目覚めた靴直しがいました。

 王子はいつも通りに宮殿で目覚め、傍目だと眠りについたときと同じ人格に見えるでしょう。

 ですが、王子は自らを靴直しだと感じています。王子ではなく靴直しとしての記憶があるからです。

 ある哲学者は、この場合「王子が自分を靴直しだと感じる」ことは正しいと考えました。

 人格の同一性は肉体の連続性ではなく、記憶の連続性によって決まるのです。

 

 

「他人に王子(先生)だと言われたから、靴直し(エック)が自分のことを王子(先生)と思い込むだなんて、まったく滑稽だとは思いませんか」

「……」

「さて、先生の記憶を解除してあげましょう。記憶が戻ることで、それに結びついた人格も戻ってきます。よかったですね、エック。あんなに使いたがっていた大人のカードを使えるようになりますよ」

「……」

「大人のカードがあれば私を殺せるのですよ。ほら、かわいい生徒たちを救ってあげなくては!」

 エックから返事はなかった。私としたことが、調子に乗って貶しすぎたかもしれない。彼は我が子同然の存在だというのに。

 まあ、これも計算の内としておく。魂の輪郭が不安定にならなければ、先生と混ざることなく二重人格状態に陥ってしまうからだ。

 私が求めるのはエックと先生の統合。統合によって、先生に内物が混ざって先生のまま操れるようになるはず。

「内物と外物を混ぜたとき、どんな挙動をするのかは分かりませんけれどね。いわば一か八かの賭けです。成功すれば外物共すべてが敵ではなくなります」

 私は後頸部の外皮を指でパカッと開けて、一本のコードを引っ張り出した。それをエックのポートに刺す。

 

〈権限照合中……完了〉

〈コード*I.N.R.I〉

〈記憶装置:制限解除〉

〈アクセス*先生.zip:解凍〉

 

 

「さあ、先生。()()()()()()

 私の命令で、先生は立ち上がる。白髪は黒く若返り、皮膚のシワも消えていた。あの日に見た先生の姿そのものだった。

〝……私を利用すれば、世界から終わりはなくなるんだね〟

「ええ。ついに偉業は達成されます。悲しみも苦しみも永久に失われます。いずれはこの世界だけでなく、あらゆる並行世界に救いをもたらせるでしょう!」

〝じゃあ、こんな結末はどうかな〟

「──え」

 先生はいつの間にかポケットからナイフを取り出していた。そのサイズからしてポケットに入りきるものではない。

 ゲマトリアの技術が使われた代物。保護者を殺すために用意したものだ。

 

 ブザー。

 一瞬の出来事だった。その刃先に躊躇はなかった。彼は正確に自らの腹を突き刺した。ブザー。吐き出した血が私の服にかかる。

()()()()()()()()()!」

 先生がナイフを手放すことはない。つまり、私は賭けに負けたのだ。

 ──聖園、若葉──

 即座に膂力系の神秘を発動させる。もう限界だったのか、右手首を掴んで軽くひねれば簡単にナイフが地面に落ちていく。

 私はナイフを手に取って自身の肌に赤い線を引いた。こぼれていく血を、先生のパックリと割れた傷口に垂らし、()()()

 もう一度、彼の胸に手を当てる。そこには二つの魂があった。混ざらなかったのだ。

「……少し見くびっていましたね。混ざらずに耐えるとは、なんて凄まじい精神力」

 脈はまだある。ひとまずは治療室に連れていかなければ。

「〈観測者〉、聞こえていますか。今すぐ清掃員を寄こしてください」

『すでに手配してますよ……』

 私は両腕で先生を抱えて、家を飛び出す。

 

「──エック?」

 数時間後。窓から差す光に反応して、勇者はスリープモードを解除していた。隣で寝ていたはずの賢者はどこにもいない。

「目覚めましたか、アリス」

 代わりに、神の使いが窓辺に立っていた。光の反射で銀が美しく輝き、その顔は勇者に微笑みかける。

「シロ! 元気にしていましたか?」

「ええ。変わらずですよ。顔を出す頻度が減ってしまって、心配をかけてしまいましたね」

 私はアリスの頭を木綿にでも触れるかのように撫でた。アリスは無邪気な笑顔で、撫でられるがままだ。

「シロは、エックがどこにいったか知っていますか?」

「私はすべてを見通せますから、もちろん知っていますよ。エックはまた旅に出たのです」

「……そう、ですか」

 みるみるうちに暗くなっていく顔。私は屈んで、そのほっぺたをこねくり回す。

「んむっ」むぎゅむぎゅ。

「寂しいですか」

「エックにも使命があることはわかっています。でも、アリスはちゃんとお別れがしたかったです……」

「また会える日が来ますよ。彼は先生で、アリスは生徒なのですから」

 エックと先生の融合。一旦は失敗したものの、まだ諦める段階ではない。今のキヴォトスには彼が必要だ。あらゆる手を尽くしてでも屈服させなければならない。

 

 何人(なんぴと)も不幸など経験しない、永遠平和のために。

 

 

同一性と差異性

 液体が奥底に沈んでいた意識を釣り糸で引っ張り上げる。先生は咳と一緒に水を吐き出して、びしょ濡れの顔を上げた。

 身体を動かそうとしたものの、四肢が木製の椅子に縛られている。

「──いやはや、こんな若人が大病を患うだなんて。恐ろしいですね」

〝君は、誰だ?〟

 仮面で顔を隠したロボットは空になったバケツを端に投げ捨てる。レンズをキュルキュルと動かした。

「見ての通りの、しがないロボットですよ」

〝……保護者はどこに?〟

「それを知ってどうすると」

〝会って話がしたいんだ〟

 先生のあまりの愚かな物言いに、ロボットは間接部位を軋ませ不愉快な音を立てながら笑う。

「はあ……なかなか可笑しいことを仰る。起き抜けで頭が回っていない様子!」

〝私の思考は正常だよ。彼女は私の生徒だから〟

「ははっ、やはり治療が必要なようですね」

 ロボットは無造作に物が置かれた、光沢のあるテーブル上を漁る。ガチャガチャ。ピタッと止まり、手を抜き出すとその掌には一つのUSBメモリが収められていた。

「特別にあなたの立場を教えましょう。保護府が築き上げた秩序を脅かすあなたは、〈治療〉を必要とする〈患者〉なのです」

〝誰に指図されたんだ?〟

「指図もなにも。これが私の奉仕でしてね。ここ一〇九号室に運び込まれた患者を、その人に適した治療法で治す。これが〈執行人〉の役目ですから」

〝執行?〟

「私はPTAの一柱、執行人。保護者より処刑特権を賜り、それを唯一の使命とする者です」

 執行人は気を取り直すように、円柱型の頭を覆った仮面の位置を調整する。

 怒り狂う仮面が、これから彼らが向かう未来を案じていた。

「あまりお喋りに熱中しては、観測者にまた奉仕怠慢だと指摘されてしまいますね。さっさと始めますか」

 そう言いながら執行人は椅子の後ろに回り、設置された機械のポートにUSBメモリを挿入する。すでにその機械は患者の首に繋がれていた。

 カタカタ。

〝なにをする気だ〟

「ゴウモンでも期待していましたか。我々は野蛮人ではなく、文明人ですよ。地下に蔓延る固定者どもとは違ってね」

 カタカタ。

〝……なんだって?〟

「知りませんか、ヘイローを持つ種族。丁度あなたのような肌を持った連中でしたかね。私の友人の一人もそういう特徴で辛い目にあっていましたが、あなたも大変でしょう。あんな凶暴な輩と一緒にされては、さぞ屈辱的で──」

〝私の生徒を貶すな〟

 カタ。

「はい?」

 拳に青筋が浮かぶ。先生は静かに、冷たく言葉を発する。

〝わからないのか。貶すな、と言ったんだ〟

「ふむ。先生、でしたか。どうやら筋金入りのようで。これは治療に時間を要してしまいますね」

 厄介な患者に思わずため息が漏れつつ、執行人は止めた手を再び動かす。

 しばらくすると作業を済ませたのか、ロボットはもう一度先生の前に立った。

「エックハルト。地下図書館とシャーレ本部の場所を答えなさい」

〝……誰の名前だ。私はそんな名前じゃない〟

「この質問に答えることができれば、完治と見做します……舌を噛まないようにマウスガードを付けておきましょう」

〝もっ、むむ〟

 患者は抵抗しようと身体をよじる。そのとき、手首から先がまったく動かないことに気がついた。

 目線を落とすと、手は肘掛けの半球にピッタリと引っ付いていた。

「さて、これから行われるのは高尚な〝治療行為〟です。肉体損傷を伴わずに精神へと直接訴える、人道的な療法。技術自体は娯楽局が〈五感映画〉に転用するほどのクリーンなものなのです」

 数秒して、視界が白く染まる。治療開始だ。

 

 

 背筋がピンと張り、意思とは関係なしに身体がこわばった。彼の肉体はこの受難から逃れようともがく。どんなに激しく暴れても、指先がボールから離れる気配はなかった。

「あなたの五感は機械に支配され、絶え間なく苦痛を浴びていることでしょう。時間感覚も機能不全に陥り、一分が百時間に感じられる……ただそれだけでは芸がありません。一定時間が経つと苦痛は快楽へと反転し、恐怖は幸福に変化します。その繰り返し、繰り返しによって、エックと先生。あなた達の融合は果たされる」

 この状態で執行人の声が届くことはない。

 患者は咥えさせられたプラスチックを噛みちぎる勢いで食いしばる。意識を失うこともできず、ただ恐怖に喘ぐしかなかった。

「これこそ文明の果てにある人道的療法! 断頭台も足枷もデータベースの中で埃をかぶって、民衆が刑罰という恐ろしい言葉を思い出すことはない!」

 否応なく手足はガタガタと震え、脂汗が止めどなく溢れる。じわじわと下半身に温かさが伝わってきた。

「排泄は自由にしてください。椅子の下にある溝を通って処理されますので」

 額から垂れた一滴の汗が右目を潤す。瞼がピクピクと動いてしまって、彼自身の意思で動かすこともできなかった。

 ロボットは仮面を外す。礼節を欠かぬように丁寧な動作で胸元に当てた。

「執行人として、必ずやあなたを完治へと導きましょう」

 手を震わせる患者の前で、デカルトは一礼する。

 

 

 保護歴一二四年一一月九日。一〇九号室。

 

 相変わらず、患者は老廃物を垂れ流している。

 栄養失調や脱水症状を防ぐために、治療の合間に挟まれる休憩だけが唯一息をつける時間だった。

「では、そろそろ休憩としましょう」

 唸り声を上げていた機械は静まり、それを合図に痛みも止んだ。患者は胃液と共にマウスガードを吐き出す。

〝かはっ、はぁっ、はぁっ……〟

 髪が垂れて彼の視界を遮った。治療を中断しても、五分弱ほど経たなければ手の痙攣(けいれん)は治まらない。

「答える気になりましたか」

〝はぁ……ぁぁ」

 黒髪に白のラインが入り交じる。手は筋張って、肉が削がれていく。

「ぁ────あ」

「地下図書館とシャーレ本部の場所は?」

 患者は口をパクパクとさせるが、一音も発そうとはしない。当人にさえ、自分がなにをしようとして──なにを抗おうとしているのかも分からないだろう。

 半生を徒労にした尊厳の破壊。唯一の友による拷問。体感時間八年弱に及ぶ苦痛と快楽の交互浴。

「え……ぁ、う」

「ふむ、よろしい。治療の効果は出ているようですね」

 デカルトはまたエックの背後に回って機械を前にする。息を吐くと、カタカタと指先を踊らせた。

「治療の効果が出た場合、あなたに与えられたその名前を(ほど)く。神との合一は魂の輪郭を融かし、先生との合一を果たすのです……いやはやまさか、一ヶ月も耐えるとは。こちらとしても予想外でしたね」

 執行人は淡々と工程を踏んでいく。

 再びエックの前に立つと、次の言葉を唱えた。

「エックハルト・フォン・ホーホハイムよ」

「……ぁ?」

「その名を思い出せ」

「ぅ──

 

 

  汝の自己から離れ、

  神の自己に溶け込め。

  さすれば──

  名前なき〝無〟なることを

  理解するであろう」

 

 

 拘束は解かれた。立ち上がり、両足が動くことを確認する。

 ()()の目は虚ろだった。存在するはずのないものが存在してみせ、ただ外からその被造物を動かしているかのようだ。

 異端として歴史に刻まれた神秘主義者。それは静かに魂を受容してみせる。

「さて、エックハルト。この問いに答えればあなたに残された愛、その責任を裏切ってみせ、心身ともに砕け散ることになるでしょう。被造物は無と帰し、自己は融合する。さあ答えなさい──」

 

 

〈コード*I.N.R.I〉

〈システム:再実行〉

〈・・・・・・成功〉

 

 

 木々の葉はすっかり枯れ、数ミリの雪が路上に積もらず溶けてなくなる季節。

 本来であればそんな季節なのだろう。天井を仰ぎながら、カヤは雪景色に思い馳せる。

「はあ……」

 空に絵の具が垂らされ、白い結晶がポタポタと落ちてくる。その一滴が頬をなぞった。冷たさも、ましてや感触もない。

「ここに居ましたか」

「もう少し、一人にさせてくれませんかね」

 屋上で静かに風に当たるひとときは、来訪者によって慈悲もなく破られた。

「山積みの仕事を終わらせてからにしてください。その後であれば、好きなだけ一人になっていいですよ」

「終わる日なんて来ないじゃないですか」

「あなた次第です」

 リン局長の呼びかけで、仕方なさそうにカヤは起き上がった。

 先生が消息を絶ってからもう四ヶ月が過ぎようとしている。ゲマトリアは発信機の反応が消失したと言っていた。保護者暗殺が失敗したのは明らかだ。

「先生が帰ってくれば、私もゆったりとコーヒータイムを楽しめるんですが」

「無駄口を叩く余裕はあるみたいですね。では、行きましょうか」

 ため息をする間もなくリン局長が足早と階段を下りていく。慌ててカヤもその後をついていった。二人の足音が階段中に空しく反響する。

 

 先生は最悪を回避するためにカヤを代理として立てた。そして彼の思惑通りに作用し、学連は瓦解を免れたのだ。

 しかし、状況は悪くなるばかり。平和的な配給もままならずに学連以前の混沌へ逆戻りしつつある。

「トリニティからの緊急要請です。反体制勢力の鎮圧を手伝ってほしい、と」

「またヘルメット団ですか……規模は?」

「前回の襲撃のおよそ十倍とのこと。トリニティを落としにかかっているのは間違いないでしょう」

「まったく、不良たちもよく飽きませんね。今すぐ使える部隊は?」

「FOX小隊を待機させています」

 彼女たちの足は〈壁の目〉のある場所に真っ直ぐ向かう。

 扉を開けると、すでに小隊の面々が準備を終えていた。カヤは隅のハンガーラックに掛けてある上着を取って羽織り、彼女には少々オーバーサイズな帽子を被る。

 襟の立ち上がった白色のコート、左腕に巻かれた灰の腕章。それは〈先生〉の意志を継ぐ証。

「壁の目の座標を五一・五〇〇八、 マイナス〇・一四二二二二に設定」

 職員が〈壁の目〉の横に備えられた装置に座標を入力する。目標地点はトリニティ本部。

「本日一三時。シャーレはトリニティからの緊急要請を受け、カヤ顧問及びFOX小隊に出動を命じます」

「了解。本件は地下秩序を脅かす重大な犯罪であり──」

 カヤはセリフを中断し、〈壁の目〉の方を向いた。座標値の調整が完了したらしい。

「ま、長ったらしい口上は抜きにして、さっさと出動しましょう」

 そう言ってカヤは壁に消えていく。FOX小隊も後に続いて壁のシミとなった。

「はあ……」

 腰を掛け、額に手を置いた。リン局長の肩に疲労と責任が重くのしかかる。

 先生を喪ったその日から地下は灯火を失った。青空を取り戻すなんていう荒唐無稽な夢は、もう見る影もない。

 シャーレだけでは現状の好転どころか維持さえままならない。このままでは、もって半年がせいぜいか。

 ──もし私が先生なら、どうする──

「……RABBIT小隊に帰投の命令を」

「任務中ですが、よろしいのですか?」

「今回は明らかに規模が大きいです。本部(ここ)が手薄だと不測の事態に対応できません。それから、ヒナタさんにも連絡を」

 たとえ先生が帰ってこなくても、すでに死んでしまっていても。

 ──一人の生徒として……あの人たちの前で胸を張っていられるように、全力を尽くすだけ──

 

 

 トリニティ本部。

「正面の防衛線が突破されました!」

「負傷者多数! もう持ち堪えられません!」

 地響きが段々と近づきつつあった。これほどの惨状でも、守護者たちは固定者同士の争いを止める素振りを見せない。

「せめてシャーレが来れば……」

「呼びましたか?」

 声のする方を見ると、シャーレの顧問が壁からひょっこりと顔を出していた。

「カヤさん!」

「状況を」

「はい。ヘルメット団を名乗る武装集団の襲撃に遭いまして、地下倉庫が大打撃を受けました。さきほど正面防衛線も破れてしまい、ここも時間の問題かと」

「把握しました。集められるだけの人員をここに。シャーレとトリニティの共同戦線を張りましょう。あと、士気向上のためにも前線に我々(シャーレ)の援軍が来たことを伝えてください」

「わかりました。それと、敵は火器とドローンを保有しています。注意してください」

「……ヘルメット団がそんなものを」

 火薬や機械はM区でしか製造されていない。他地区では設備も技術も足りないはずだ。

 M区でさえ火薬の密造がバレてしまうと守護者に差し押さえられてしまうために、生産量は少量に留まっている。ただのチンピラ集団が手に入るような代物ではなかった。

 ──どこから入手した? まさか、ミレニアムがヘルメット団に支援を……いや、それはないと思いたい。なら自ら造って……どう頑張っても粗悪品のはず。武器として運用するには──

 カヤは思考を巡らせ、納得のいく答えを得るには情報が足りないことを悟った。ひとまずは目前の問題が先決。

「FOX小隊は、残存兵力と共に防衛線を再編。正面から牽制しつつ、ステルスドローンで挟撃、これをもって敵勢力の無力化……つまり、常套手段ということです」

「FOX1、了解した」

 四人のFOXは応答すると、ドローンを駆り出して廊下に駆けていった。

 顧問もその後を追おうとしたが、一度足を止めて気に掛かった疑問をトリニティ幹部に投げる。

「そういえば、ナギサ会長はどこに?」

「ナギサ様はG区へ会談に行っています。ミカ様やセイア様との連絡は取れていません。不在の穴を突かれた形ですが、この情報は機密なのでヘルメット団が知るはずは……」

「彼女たちはずいぶんと入念に下調べしたようですねぇ……重要な情報、感謝しますよ」

 カヤは帽子のツバに触れる仕草をする。そのまま廊下の方へ走り、すぐに背中は小さくなっていった。

「た、助かりましたね……シャーレが味方についたからにはもう安心ですよ!」

「いえ、気を抜いてはなりません。私たちも指揮を立て直さなくては──」

 

 カヤは息を切らしながら、前線手前に辿り着いた。

「ぜぇっ、はぁ……」

「カヤ……もうちょっと体力作りしたほうがいいんじゃない?」

「うるさい、ですね……これでも成長、してるんですよっ……」

 上司の情けない声に呆れながらも、FOX4はスコープから目を離さずに集中する。

「……ふう。FOX1、報告を」

〈挟撃には成功し、敵勢力は撤退した。ただ、逃げ方からして戦意喪失ではなく意図した退却に見えた。明らかに統率が取れている〉

 ──今までにない規模の襲撃、会長不在の隙を突いた計画性、さながら軍隊のような動き方──

「どうやら、裏に大物がいるようですね。正面戦闘はトリニティに任せ、私たちは指揮系統を叩きましょう」

〈こちらFOX3、敵の通信機を奪取。これで司令部の位置を割り出せるはずよ〉

 シャーレは道中に適宜遊撃を挟みながら発信源まで向かう。しかし援護するまでもなく、ヘルメット団はさきほどの退却を皮切りに、次々と退いていった。

「なんだか呆気ないわね」

「気を緩めるな。なにか狙いがあるのかもしれない」

 

 数分後。彼女たちは発信源のある部屋を視界に収めた。

「……くそっ、ここもじきに撤退か」

「問題ない。我々のやることは済んだ」

 刹那、爆発音と共に扉が跡形もなく消し去る。粉塵の中から、五人の来客が姿を現した。

 白のコートをたなびかせ、顧問が口を開く。

「問題ない……やることは済んだ……ですか。その話、私たちにもぜひ聞かせてほしいですねぇ?」

「シャーレ! なぜここが──」

 その言葉を吐ききる前に、部屋は鎮圧された。おっかない武装で身を固めていても、初心者(ルーキー)熟練者(ベテラン)では雲泥の差がある。

 拘束されても強情な態度を崩さない小柄な少女を、カヤは問い詰めることにした。

「では、さっさと教えてください」

「ははっ、なにをだ」

「とぼけないでくれますかね。今までのヘルメット団(あなたたち)はこれほど大きな行動を取っていませんでした。規模が大きくなればなるほど、統制を取るのが難しいですから。しかし、今回は百鬼夜行を壊滅寸前まで追いやった……誰が指揮を執っているんですか?」

「我々は我々の意志で──」

 顧問はすかさず腹に蹴りを入れる。身動きが取れない状態で食らえば、たとえ貧弱なものでも効くだろう。

「あなたたちのような不良を名乗る輩が、こんな惨事を統率なしにできるわけがないでしょう。裏で糸を引いている人がいますね」

「ぐぅ、ぅっ……」

「早く吐いたほうが身のためですよ」

「だれ、がっ、屈するかぁっ……」

「ニヤニヤ教授だ」

 口を閉ざしていた大柄な不良が、庇うように口を割った。

「おまっ、なにを……」

「知っていることは全部話す。だから、それ以上はやめてくれ」

「いいでしょう。そのニヤニヤ教授とは、一体誰ですか?」

「三ヶ月前、先生が消えたって騒ぎになり始めたころだ。ニヤニヤ教授と名乗るやつがやってきた。あいつは俺たちに基礎的な兵法とやらを教えてくれた。それに、火器の扱い方も。この日に会長が留守にしている情報を教えてくれたのもあいつだ。どうやって情報を仕入れているのかは、俺も知らない」

 不良はぺらぺらと語る。こうもあっさり情報を漏らすあたり、まだ素人に毛の生えた程度のようだ。

 ──ニヤニヤ教授。真偽のほどは他のヘルメット団員にも尋問して確かめましょうか──

「……くく、は、ははははは!」

 この窮地に、小柄は高笑いしだした。

「なにが可笑しいんですか」

「やることは済んだって言っただろう? トリニティを落とせりゃもっとよかったが、お前らをおびき寄せただけでも御の字なんだよ!」

 ──ここまでトリニティを追い詰めておきながら、私たちが援軍に来ると徹底抗戦もせずにあっさりと手を引いた。それに、私たちをおびき寄せた? いったいなんのために──

「──まさか、狙いはシャーレ」

 顧問の言葉に、FOXの面々は一瞬だけ毛を逆立てた。

「本部へ急ぎますよ!」

「了解!」

 

 

 立ち込める黒煙の中からゆらりと人影が生まれる。狐の面を被った少女が、シャーレ局長の前に立った。

「うふふ、〈壁の目〉は破壊させていただきました。これであなたもお終いですね」

「……生徒同士でこんなことをしている場合ではありません。武器を下ろしてください」

 筒先を向けられてもなお、リンは汗一つ垂らさずに説得を続ける。しかし、その言葉が狐の心に届くことはなかった。

「あなた方も多少の自覚はあるのでしょう。学連のやっていることは、もはや保護府のそれと変わりありませんわ」

「だから、学連を壊滅させると? 混沌に戻ってもいいと言うのですか」

「少なくとも、政治遊びに耽っている現状よりも良いものだと思いますけれど」

 筒先はブレない。説得の余地はないようだった。リンは息をつき、両手を下ろす。

「私たちは、先生たちが継いだ火を絶やさないように、ここに立っています。引き下がるわけにはいきません」

「そうやって先生の威を借りて……その態度が、不愉快極まりないのです」

 狐は引き金を引こうと人差し指に力を入れた。火薬は爆ぜ、弾丸が押し出される。

 しかし、弾はリンの足下に着地した。さっきまで胸に狙いを定めていた筒先が、何者かの手によって下ろされたのだ。

 骨張った手が狐の少女の手を取る。

「〝ワカモ、暴力はいけないよ〟」

「その声、そのお姿……あ、あなた様は」

 大きな背丈に浅いシワの入った顔。髪には白髪が混じっている。もちろん、ヘイローも忘れずに取り付けていた。

「あなた様っ、あなたさまぁっ! もう、もう二度と会えないものかとっ……」

「〝積もる話は後にしようか。まずは、この騒ぎをなんとかしないとね〟」

「はいっ、あなた様が仰ることなら、何なりと♡」

 ワカモは思い人の望み通り、鎮圧のために部屋を飛び出していった。呆然としながらも、リンは言葉を振り絞ろうとする。

 彼女の目前にいるのは、たしかに待ちわびていた人だった。なのに、まるで別人のような気配を感じる。

 藁にも縋る想いで、その名を一音ずつ発した。

「せん、せい……?」

 その名に反応するように、彼は目線を合わせて微笑みかける。

 その目に、光はなかった。

「〝や、リンちゃん。久しぶり〟」

 

 保護歴一二五年一月一六日。地下某所。

 沈黙が支配した空間で、呼吸音や筆記音が際立って耳に残る。十二生徒とその側近たちは、ただ静かに救世主の到来を待っていた。

 いつもは煩く軋む扉が、その瞬間は物音一つも立てずにその人を迎え入れる。

「〝みんな、揃っているかな〟」

「……先生、お待ちしておりました」

 ナギサ補佐の言葉は空気中に響かぬまま溶けて消えた。まるでどこかへ吸い込まれでもしたかのようだった。

「キキ……ようやくのご帰還か」

「〝ごめんね、帰りが遅くなっちゃって〟」

「それで、保護者暗殺はどうしたんだ。まさか生徒だからと情けをかけ、土産もなしに帰ってきたわけじゃあないな?」

「〝本気で殺そうとしたよ。でも、私の刃は届かなかった。失敗した後は罪人として幽閉されて……なんとか隙をついて逃げてきたんだ〟」

 そのことについて疑う生徒はいなかった。劇的に変化した容姿が、先生の経験した出来事を感じさせている。

 なにがあったのかを物語ることはしない。ただ静かに、想像の域を超える恐怖を伝えていた。

 保護者に楯突けばどうなるのか。彼の顔を一目見るだけで説明としては十分だった。

「〝でも、収穫はゼロじゃない〟」

 

[大人のカードを取り出す]

 

 ポケットから取り出されたそれは、明かりの少ない部屋の中で煌々と輝きはじめる。

「な、なんだこれはっ」

「ふしぎ……とっても(あたた)かいです」

 カードの放つ光が生徒たちの身体にまとわりつく。ただの白い輪っかだったヘイローは、徐々に元の形へ回帰した。

「〝カードを使って、みんなの神秘を再現させているんだよ〟」

 再びポケットにしまわれた途端に生徒の輝きは失われていく。ヘイローも白い輪っかに戻ってしまった。

「〝土産はこれで満足かな?〟」

 マコト議員は黙する。それは、必ずしも不満がないことを意味するものではなかった。しかし事実として、彼女は認めざるを得なかったのだ。

「それで、緊急会議はこれでお開きか」

「いいえ。まだ議題は残されています」

 

 次の議論に移行する合図として、小槌(ガベル)を軽く打つ。

「これより、マコト議員の不信任決議を執り行います」

「……な、なにーっ!」

 まさしく鳩に豆鉄砲。どうやら、豆と称するには少々威力が大きいようだったが。

「ど、どうしてだぁ! 私のどこが信任できないというんだ!」

「これからその理由を提示していきますので、反論があればそのときにどうぞ。その後に皆さまから表決を取り、不信任の可否を決定いたします」

 動揺する一人の議員を置き去りに会議は淡々と進む。

「一つ、ゲヘナが管轄するG区の治安悪化」

「……それはどこも同じじゃないか、先生が居なくなった影響によってな。私たちはできるだけの治安維持に努めた。むしろ、その責任の所在は先生や代理だったカヤ顧問にあるとは思わないか?」

「たしかに、治安悪化は全地区で共通の問題でしたね。ですがG区はその中でもかなり顕著でした。ミレニアムなどの特筆した武力を持たない共同体と異なり、治安部隊があるにも関わらず、です」

「ゲヘナは自由と混沌を重んじている。よその共同体にとやかく言われる筋合いはないだろう」

「では、G区が犯罪組織の隠れ蓑となっている現状については? ヘルメット団を筆頭とした不穏分子によって他地区の秩序が脅かされるのであれば、この問題はG区内だけに留まりません」

 進もうとする会議をどうにか踊らせようとするも、マコトの思惑は通らなかった。

「一つ、犯罪組織への情報供与の疑い」

「待て待て。さすがにそれは言い掛かりじゃあないか。私が犯罪組織と手を組む動機も、情報を流したという証拠だって──」

「先週、T区で起こったトリニティ・シャーレ同時襲撃事件。トリニティとシャーレの本部がヘルメット団の大規模攻撃を受けました。これら施設の位置は本来であれば秘匿され、幹部以上の生徒でないと知り得ません。そのうえ、彼女たちは私が不在である日を狙っていました。私がG区へ会談をしに行ったことを知る者は、私とあなた、そして両共同体の幹部に限られます」

「なら、私以外の容疑者だって何人もいるじゃないか」

 マコトの言い分はもっともである。会談の予定を前もって知っていた生徒は九人。自ら首を絞めるような動機がないナギサを除けば八人。

 ナギサの側近が裏切った可能性も、マコトの部下が独断で行った可能性もある。

 しかし、現状で明らかな動機があるのはマコトだけだった。普段からナギサを目の敵にしていることも、シャーレを目の上のこぶと捉えていることも、この場にいる十二生徒の誰もが知るところだ。

「──では、表決を取りましょう。生徒一同、テーブルの上に片手をお出しください。マコト議員の不信任に賛同の方は手の平を、反対の方は手の甲をお見せください」

 ──キキキッ、キャハハハ! これでこのマコト様を追い払えると思っているのか? ここには、私を支持する者もいる。ナギサ、不信任が否決された後は私から仕掛けてやろう──

「賛成が十一、反対が一、棄権が一。過半数議決の原則に基づき、マコト議員の不信任決議は可決されました」

「な、な、な……なんだとぉぉぉおおおっっっっっ!」

 悲しいかな、彼女が思っていたよりも人望はなかった。

 十二生徒はナギサ派とマコト派に別れている。が、このマコト派というのはあくまで反ナギサ派。ヘルメット団との関わりを疑われれば、まあ見切りをつけられて当然である。

「〝しっかり反省だね〟」

「くっ、くそぅ……このマコト様が……」

「〝となると、ゲヘナから新しい代表を一人選ばないとかな〟」

 皮肉にも救いの糸は先生の手から垂らされた。マコトはその糸をたぐり寄せ、必死に掴もうとする。

「なら、イロハはどうだろうか。我がゲヘナの有力な議員だ。私の後釜には最適な人材だと思うが」

「〝なるほど。イロハはそれでもいい?〟」

 先生はマコトの背後に目をやった。赤毛の少女が、小さなため息を吐く。

 ──仕方ない、この座は一度退いておこう。だがイロハが就けば不幸中の幸いだ! イロハを通してその座から引きずり下ろしてやるぞ。そしていつか、この座に返り咲いてみせる。キキキッ、キキ、キャハハハ──

「いや面倒くさいので辞退します」

「な、なぜだーーっ!」

「面倒くさいからですよ」

「〝そっか。じゃあ代わりは……〟」

 手をピンと伸ばす少女が一人。

 クリーム色にも近いその金髪の間から二本の角がちらりと見える。皮膜の張った翼をパタつかせ、尻尾は先っぽで空をこねるように動いていた。

「イ、イブキ……?」

「マコト先輩。私もちゃんと成長したよ。先輩たちに守られてばかりじゃいけないと思うの」

 またまた動揺するマコトは蚊帳の外。イブキの立候補に異を唱えるゲヘナ生徒はいない。

 結局、次回の会議からは彼女がゲヘナ代表として出席することで話はまとまった。

「ううっ、イブキィッ……」

 ──立派に育ったな、イブキ……私は気付いていなかった。いや、気付かないフリをしていたのかもな。すでに、私の手から離れていたことを──

「すごい感傷に浸ってますね。まるで親みたいに」

「──そうか、私は母だったのか」

「違いますが」

 

 その後、会議は滞りなく進行する。緊急ということもあって議題の数は平時よりも少なく、いつもより早く終わりを迎えようとしていた。

「最後に何か、連絡のある方はいらっしゃいますか」

「〝……なさそうだね。じゃあ〟」

 先生の締めを遮って一人の生徒が手を挙げる。少女は様子を窺うように先生(□□□)の顔を覗いた。

「〝なにかな、カヤ〟」

「これを聞いてください」

 カヤの手で円卓に置かれたその装置はボソボソと呟く。アンテナらしき触覚を広げると、次第にか細かった電子音声が張り上げられていく。

 

〈保健局ヨリ、キヴォトス全市民ニオ伝エシマス。二月カラ健康診断ガ義務化サレマス。流動者モ固定者モ、必ズ受ケマショウ。各地デ実施サレル予定デス。診断奉仕係ノ指示ニ、必ズ従イマショウ。繰リ返シマス。二月カラ健康診断ガ──〉

 

「これは……」

「今朝の定期供給に入っていたものでした。全地区でこの装置が配られているのかは調査中です」

「固定者も必ず、か」

 これまで固定者に義務はなかった。代わりに与えられたのは、触れることのできない透明な抑圧。

 迫害。暴力。教育の放棄。

「保護府に従う義理などない!」

「じゃが、過去に例を見ない妾たちへの義務。安易に従うのはみなも不服やもしれぬが、頑固として従わぬのも悪手じゃろうて」

「その通りね。罠の可能性も考慮すべきだけれど、無理に反抗してしまっては学連の排除に繋がってしまうかもしれないわ。まずは、地上でも同様の〈健康診断〉があるのかを調べるべきよ」

「あっちがその気ならやってやろうじゃないか。我々には先生がついているんだ。守護者程度は軽くひねり潰せるだろう」

 生徒たちの議論は熱を帯びていった。そんな中、カヤは先生の目をじっと観察する。

 リン局長が言っていたとおり、光はなかった。しかし(くま)は消えていて以前より元気そうだ。

 その目がどこを見ているのかは分からない。少なくとも、ここではないどこかを見据えているように思わせる。

「先生はどう思いますか?」

「〝んー、警戒しなくていいんじゃないかな。地上の義務法には市民に害のあるものはなかったし。気になるようなら、私が調べてくるよ〟」

 これ以上のない妥当な返答。先生らしいと言えば先生らしい。

 

 健康診断に関しては先生による調査のもと、問題がなければ彼らの診断に付き合うように──そう結論が出ると、先生が復帰してから最初の会議はその幕を閉じた。

 ウレタン製のハンドルを握りしめ、その横で目をぱっちりと開かせる先生。

 ──大切なものは失ってから初めて気づく、とはよく言ったものですが。いざ取り戻してみると、そう大したものではなかったと思い出してしまうようですね──

 カヤはそんなことを考えながら、ペダルをゆっくりと踏む。

「〝運転、他の人に頼んでもいいんだよ?〟」

「なら私ではなく他の人を頼ってください」

「〝えー〟」

「えーじゃありません」

 建物は次から次へと変わっていくのに、風景は空中に放たれた矢と同様に止まっていた。

 先生はあくび一つせず、助手らしく振る舞う。

「眠くないんですか」

「〝助手席で寝てたら、気が散っちゃうでしょ?〟」

「……それもそうですね」

 そんな他愛のない会話を続け、ほどなくして地下図書館の付近に着いた。

「〝送ってくれてありがとう〟」

「はいはい。この後は地上ですか」

「〝調査もあるけど、協力者としての仕事があるからね〟」

「そうですか。では、行く前に一つだけ」

 そう言って少女は彼の肩を抱き寄せる。シートベルトを外す暇も与えない。

 理性的で静かに、それでいて激情を思わせる乱暴な仕草で、彼の唇を奪った。

 彼は無理に抵抗することなく、ゆっくりと肉体を引き離す。

「〝……カヤ。こういうのはよくないと思うな〟」

「私が生徒だからですか」

「〝私が先生だからだよ〟」

 カヤの行動を先生らしく窘める。そして、先生は車を降りて路地の影へと消えた。

 その背中を見送ると、顧問は通信機を取り出す。

「リン局長」

〈──先生はどうでしたか〉

「いやぁ、まったく。完璧に先生でしたね。非の打ち所がありません」

〈言い方を変えましょう。あれは、マイスター・エックハルトですか〉

「……エック先生は、先生を演じていました。心のどこかでは私たちを見下していて、なのに私たちの助けになりたい、そんな矛盾を抱えた……不器用な人ですよ」

 唇を指先でなぞる。お互いに触れ合ったあの刹那の感触が、指の間から漏れる砂粒のように失われていく。

「あれはエック先生ではありません」

 

 

 キヴォトスの細胞は列を寸分も乱すことなく各々の奉仕に従事していた。

 ここ記録局ではとくに、協力者たちが忙しなく動いている。

「主任、休養を取りたいのですが」

「──ああ、そこに置いておけ。後で確認しておく」

 毛むくじゃらの奉仕員は上司の言葉に従って必要事項が記入されたチケットを机に置く。紙には、来週の日付が書いてあった。

 

 保護歴一二五年二月二日。地上A区近郊。

 獣人は車を停め、短い両足で器用に着地した。寂れたビル群にひび割れたアスファルト。閑散とした空気を思いきり吸ってみる。

「すぅ……ごほっ、ごほっぁ」

 空気に混じった砂埃が彼を襲った。しばらく咳き込んだ後、胸を撫でながらここに来た理由を思い起こす。

 小物類で膨らんだポケットの中から、くしゃくしゃのメモ書きを取って広げた。

〈二月二日 A区 跡地 旧式 徒歩……〉

 指示通り、ここからは歩きで向かうことにした。記録局に身を置く者であれば、「跡地」がどこを指しているのかは分かる。

 代わり映えのしない景観が続くこと十五分。寂れたビルが建ち並ぶ中、ぽっかりと空いた土地が視界に入った。

 覚悟を決め、獣人は草一つ生えていない砂地に足を踏み入れる。膝を屈ませ地面に手をついて在り処を探った。

 ヒントはあの三つのワードのみ。旧式が何を指すのか、跡地は何の暗喩(メタファー)なのか。すべてが作り話の可能性もある。

 彼の手は止まらない。作り話だとしても、これが最後の希望だからだった。

 すると、なにやら冷たい感触が指に伝わる。砂を掻き分けてみると鉄製の地面が出てきた。

 四角形に取っ手をつけたもの。メモに書いてあった旧式という()()()()()熟語。それらが意味することは……。

 

 キィ、キィィッ。

 

 穴の中に砂粒が落ちていく。獣人は固唾を呑み、暗闇に満ちた底へと下りていった。

 梯子を掴んで慎重に下る。一分もせずに足が底についた。

「やあ、待っていたよ」

 闇の中から声が聞こえた。不気味なことに、それ以外は何も音がしない。獣人自身の呼吸音だけが孤独に漂う。

「お前がプレナパテスか」

「私が? ははっ、違うよ。それに、あの人はここにはいない。数多ある支部の一つに過ぎないんだ。本拠地は別にあってね。と、言っても〝今の私〟はどこにあるのか知らないけど」

 コツン、コツン。靴音が一音ずつ獣人の耳元に届く。どうやら彼らはずいぶんと用心深いらしい。拠点の座標まで外付け保存にして尋問対策を施しているのだ。

「あのメモ書き。あれは記録局の人間の書き方だ。『旧式』という単語も、データベースには存在しない……いや、()()()()ものだな」

「ほう。では、どうやってあれが扉だと気がついたんだい」

「重要なのは、俺じゃない。扉そのものだ。俺の認識に関わらず、扉は扉であり続ける」

「唯物論的だな。気に入った」

 声の主は獣人に何かを押しつける。ズッシリと重いそれを慌てて手に取り、その物体にぺたぺたと触れてみた。

 ──箱。いや違う。直方体だ。少し薄くて平べったいな。狭い面はそれぞれ違う材質か。一面だけ、広い面と同じ感触。それ以外の狭い面は同じ感触──

 まるで初めて玩具を触る生まれたての人のように、両手で振ってみたり、傾けてみる。

 バサッ。その直方体は急に音を立てて崩れた。金具が外れたわけではない。獣人は落ち着いて状態を確かめる。

 広い面同士の対応する一辺が離れ、その対辺は離れずに固定されていたのだ。崩れてはいない。いわゆる「開いた」状態。

 安心を得ると、獣人は臆せずその物体に触れ続ける。中にあった広い面は肌触りが狭い面と同様のものだ。

 外と中で材質が異なるということは、外はいわば中を守るための殻。つまり、この物体の本質は中にある。

 おそるおそる中を触れる。ザラザラとした段差に爪先を引っ掛けると、ペラリとめくれた。

 ──これは、紙か──

 指先で一枚一枚めくる。その紙は途方もなく積み重なり合っていた。

 ──どうしてこんなに紙を重ねる必要がある? 何か書かれているのか? いや、こんな媒体は知らない。仮に紙一枚に文字をびっしり書いたとして、百枚でもたかが十数万文字だ。あまりにも非効率的。考えろ、そこから導き出せるのは──

「……まさか、これが本なのか」

「勘が鋭いね。ますます気に入った」

 声の主はすかさず本を取り上げる。あまりの唐突さにマテリアは呆気に取られてしまった。

「くれないのか?」

「頭を冷やしたまえよ、唯物論者。現代には存在しないはずの本という媒体を、我々は所有していると君に教えたんだ──これで我々の誠意は十分。なんにせよこんなデカブツ、持って帰っても隠しようがないだろう」

 獣人は不服の感情を抱える。声の主の言い分も理解できたので、口は出さずに黙ることにした。

 十秒と経たずに、声の主はまた何かを渡した。今度は軽い。一本の鉛筆と、五枚の紙切れだった。

「今この時をもって君は〈神の癌〉の一員だ。神の癌は、君に重要な任務を与えよう。支部の位置を記した紙を何人かに渡してほしい。渡す人物は慎重に選んでくれよ」

「それだけか」

「ああ、それだけだ。しかし命懸けさ……記憶の連続性を人格の同一性とみなすなら、だがね」

「その回りくどい言い回しをやめろ。何が言いたい?」

「失敗すれば記憶処理が待っている。君は自分が何者であるのかを永劫に忘れ、働きアリとしてせっせこ働くわけだね」

 その言葉に全身が身震いする。記録局の奉仕員なら、抹消の恐ろしさを知らない者はいない。

「わかった。だが、こんなことに意味があるのか」

「もちろん、これをしたところで次の瞬間に保護府が打倒されるわけじゃない。こう考えればいい、我々は癌細胞。消しても消しても増殖をし続け、やがて宿主さえ飲み込む、そんな存在なんだ」

「ガン……」

 声の主はそういった言い回しが好きらしい。旧文明を嗜んでいると、こうも非合理で情緒的になるのだろうか。

「プレナパテスは記録局所属なのか?」

「残念なことに、質問は受け付けていなくてね」

「こちらも命を懸けるんだ。一つや二つはいいだろ」

「……うん。それもそうだな」

 ボフッと音がする。おそらく、声の主はソファーにでも座ったのか。獣人は立たされたままだった。

「プレナパテスは、PTAの一人だ」

「はぁっ?」

「おっと、唯物論者もそこまでは予想できなかったかい。彼、昔は教授をやっていてね。この世界の在り方に疑問があったんだ。それで協力者を目指すことにした。彼は名誉試験を乗り越え、記録局でキャリアを積んだ。晴れてPTAの仲間入りをしたが、そこで待っていたのは恐ろしい真実!」

「その真実を知って、彼は保護者を裏切ったと」

「もし、君が無事に任務を終えたらその真実についても教えてあげよう」

「……なあ、もう一ついいか。俺は『君』でも『唯物論者』でもない。俺の名はヘン──」

 その不用心な口を、大きく冷たい金属製の手が塞ぐ。

「それ以上はやめておけ。同胞だからといって不用意に素性は明かしちゃいけない。君の名は、そう……マテリアリスト。マテリアとでも呼ぼうか。私のことはレトリックとでも呼んでくれ」

 声の主、レトリックは言い終えると手を下げてまたソファーに戻った。

「さあ、マテリア。用は済んだな──」

 その後に「さっさと帰れ」と命令形がつきそうな口調で、新入りのご帰宅を促そうとする。

「お前はここに居て大丈夫なのか」

「BCFを破壊したんでね。私は存在しない亡霊というわけさ」

「……そうか」

「なんだ、自分もそうしてほしいのか? 悪いことは言わないが、ここじゃオイルを差すのだって満足にできない」

「俺は獣人だ」

「知ってるさ。さっきこの手に抜け毛がついてね……この毛の感じなら、チワワ族か。注意しておけ。短毛種は痕跡が残りやすいからな」

 レトリックがそれ以上口を開くことはなかった。声を掛けても、その音がただ暗闇の中で静かに木霊するだけだった。

 梯子を登って外に出ると、光と共に煩わしい表示が戻ってくる。ここでようやく、地下ではBCFが機能不全に陥っていた事実にマテリアは気づいた。

 どんなカラクリで電波妨害をしてみせたのかは分からない。一つ分かることは、神の癌には保護府と敵対できるだけの技術力があるということだ。

 

 ベッドの上で、何度も目をぱちくりとさせ、瞑る。

 あの暗闇を思い出す。抑圧、背徳、原始。

 しかしマテリアは自分の目的を忘れていない。彼は悪戯に旧時代への回帰を求めてなどいなかった。

 ──思考を伴わない、データベースに左右されない、唯一不変の真実──

 手を開いては閉じ、閉じては開く。あのときの感覚がまだ握られていた。

 データにはない肌触り。確かにそこにあるという実感。

 ──今度会ったら、題名だけでも聞いておこう──

 

 

 トレーの上に乗せられた飯をかっくらう。スープが口元を汚し、それをナプキンで拭く。

 拭いては汚れを繰り返す日々。

「隣いいかな」

 顔の皮膚を垂らした同僚がつぶらな瞳で話しかけてくる。マテリアは一瞬だけ目を合わせるが、頷きもせずに食事を続けた。

 その様子を見ていつものように同僚は席につく。鼻息を荒くしながら、ペチャペチャと食い進める。

「もぐ……ねぇ」

「食べながら喋るな。飛び散る」

「ご、ごめん……そういえば、明日だったっけ。健康診断ってやつ。最近、呼吸が辛いし診断でなにか出るかもなぁ」

「……」

「あと、最近噂になってるよね。あのーなんだっけ……そう、プレナパテスってやつ」

 マテリアは一瞬だけ手を止め、またすぐにスプーンを口に運んんだ。

「データベースには『保護府設立の立役者でありながら、保護者に背いた裏切り者』ってあったよ。今でもその名を継いだ人間が、協力者の内部に潜んでいるって話だし」

「……お前は興味あるのか?」

「うーん、別に……今の生活に不満はないから。多分、彼は不満があったから永劫平和に背いたんでしょ。絶対に譲れないなにかがあってさ」

「あまり大きな声で敵対者の肩を持つような発言はするな」

「う、それもそうだ。うかつだったね」

 マテリアは口を拭き、空になった食器に対して手を合わせる。それを見た同僚も急いで咀嚼するが到底間に合いそうになかった。

「メル」

「ん、どうしたの(おうひはほ)?」

「……なんでもない」

 素っ気ない返事を残して彼はさっさとトレーを返却しに行った。

 同僚はその背中を見送る。何か声でも掛けようかと声帯を振り絞るも、出たのはおくびの音だけだった。

「はぁ……あれ」

 トレーを動かすと、その裏から一枚の紙が出てきた。用紙の切れ端程度の小さな紙だ。

 友人の忘れ物かと同僚は慌てて廊下に飛び出したが、あの小さなシルエットはどこにも見当たらなかった。

 ふと、同僚の好奇心がくすぐられる。心の中で彼に謝りながら、丁寧に折り畳まれた紙を広げてみる。

〈工場 立ち入り 廃棄……〉

 

 

 マテリアに渡された任務も、残すところあと一枚だった。しかし急いてはいけない。下手をすれば支部一つが壊滅もあり得るリスキーな賭けなのだから。

 ──だが、レトリックが居た支部をみるに、支部には基本少数人なのかもしれない。多くても一カ所に二桁はいないだろう。その分、支部の数は相当か──

 消される数よりも増える数が多ければいい。単純だが一理ある作戦だ。

 多くの屍を足場にして、癌細胞は増え続けていく。

 自分はそんな屍の一つに過ぎない──そんな予感が、マテリアの心のどこかにあった。

 明日にはレトリックもマテリアも記憶処理が施されているかもしれない。真理を忘れ、ただ本能に従って働き食い寝るような、そんな存在に矯正されるかもしれない。

「お時間よろしいでしょうか」

 そしてその明日が、今この瞬間に訪れないという保証はない。

「……なんでしょう」

「最近、取り締まりが強化されましてね。市民の方々に協力してもらっているんです」

 ビル風が強く吹きつける。協力者専用歩道橋の上で、マテリアは下の歩道を目視で確認した。

「プレナパテスの件ですか」

「よくご存じで。彼が運営する組織に唆される人も多いんですよ。潰しても潰しても湧いて出てくるんですから、守護者(われわれ)としても困ったものですよ」

「ちなみだが、その市民に俺は該当するのか?」

 ロボットは護杖(ごじょう)を手に、ニッコリとした顔を頭部モニターに出力したまま黙っていた。一歩ずつ、また一歩ずつと近寄る。

 マテリアは下を覗いた。道には車を持たない流動者たちで溢れている。

「この時間帯はちょうど下が混んでいるな」

「──おい、待て!」

 その静止よりも先に彼の足は歩道橋と別れを告げた。守護者は走って彼の姿を目で追おうとしたが、その影を捉えることはできなかった。

「どうせ逃げる場所なんてない。自宅を封鎖して──」

〈緊急事態。A区の福楽省にて襲撃事件発生。現場付近の守護者は至急現場に向かえ〉

 胸元の無線機からやかましく音が鳴る。守護者は〇・五秒の葛藤の末、福楽省の方向に走った。

 

「はっ……はあっ……」

 痛む足を引きずりながら、人気のない路地裏を彷徨う。鳴り響くブザーが鬱陶しく鼓膜に張りついた。

 息を切らしながらも壁を支えにして走り続ける。

 ──レトリックのところへ……ダメだ、俺を匿ったせいで巻き込まれるかもしれない。俺一人で済む犠牲を下手に増やしちゃいけない。ならこのまま野垂れ死にか……クソッ! そもそもどうしてバレた? 紙を渡した連中が密告したのか? じゃあ、まさか──

 動揺する意識の中で、余計な思考ばかりがリソースを食っていく。マテリアはあてもなく奥へ奥へと進んだ。

 ──いっそのこと、固定者の居住区にでも行ってしまおうか。尊厳もなにもかも棄てればコジャと暮らすのも悪くない──

 居住区の位置なんて検討もつかなかった。あらゆる地区あらゆる区域でネズミのように現れてみせれば、霧のように消える固定者たち。

 ふと、手をついた壁の色が視界に映った。真っ白な壁面に浮かぶ灰色。その前でマテリアは足を止めた。

 壁にペタペタと触れ、隅々まで観察する。

 すると、取っ手のようなものが指に引っ掛かった。

 ──壁、灰色、取っ手……何かが足りない。もう一つ、重要なワード──

 マテリアは縋る思いでポケットを裏返しにする。あのとき捨てずにおいた紙切れが、ひらひらと地面に落ちた。

〈二月二日 A区 跡地 旧式 徒歩……〉

 ──旧式。そう、旧式だ──

「……真実から思考は生まれる。重要なのは、扉そのもの。誰も認識せずとも、扉は扉であり続けるんだ」

 マテリアは迷わず取っ手を掴んだ。引っ張ったり、押したり、ひねってみる。ガチャリ。

 旧時代への〝ドア〟は開いた。下へと続く階段はどこまでも伸びているように感じる。意を決し、マテリアはその短い足で一歩を踏み出した。

 

 

 保護歴一二五年二月七日。

「保護府破壊は大成功を収めた! 我々は華やかな未来への一歩を踏み出したのだ!」

「先生万歳! 先生万歳! 先生万歳!」

 広場では、どこもかしこも狂信的な生徒が騒いでいる。早朝からこんな調子で異様なムードが地下を覆っていた。

 拳を掲げる生徒たちの熱狂を、休暇中のFOX小隊は遠目で見つめていた。隊員の一人が小さくため息を漏らす。

「ねぇ小隊長、本当にこれでよかったと思う?」

「私たちは先生の指示に従いやるべきことをやったまでだ。人的被害を最小限に抑えつつ、保護府の重要設備を破壊した。正義を違えるようなことはない」

「でも、先生はどうしてこんなことをしたのか教えてくれなかったね。クルミも怪我で療養して……ユキノちゃん、私たちの行動に意味はあったのかな?」

「意味は後からついてくる。自分の信じる正義を背くことなく歩んでいれば、必ず」

 二人からの吐露に、小隊長はまっすぐ答えた。隊員たちは少しだけ笑みを浮かべる。

「それじゃあ、そろそろクルミちゃんのお見舞いに行こっか」

「……ああ」

「うひひ、いまごろ寂しがってるんじゃないかな~」

 

 外に広がる熱狂を、カヤは静かに諦観していた。

「まったく、困りましたねぇ……」

 カーテンを閉めて窓際から離れる。片目を隠した少女の真正面でテーブルについた。

「……カヤさん。今、外はどうなっているのでしょうか」

「先日、シャーレの部隊が保護府の施設を襲撃しましてね。まあぶっちゃけてしまえばただのテロ行為なんですが、それが成功だということでお祭り騒ぎになっています」

「カヤさんはシャーレの顧問、でしたよね。今の調子だと、どこか他人事のようで……」

「そりゃあ、あの襲撃に私は関与していませんし。むしろ学連も通さずにやろうとするから、反対の立場を取っていましたよ」

 湯気がほのかに立つコーヒーを口に運び、軽く息をついた。

「私の権限も先生の前では意味を成しませんでしたね」

「エックさんが、そのテロを起こしたということですか?」

「ええ。襲撃を成功させた今、先生の支持率は確固たるものとなりました。扇動も甲斐あってもはや信仰の域に達しています。もう止めようがありませんね」

 カヤは肘をつき、両指先を合わせて眉間に親指を当てる。肺を膨らませては絞らせ、新鮮な酸素をくたびれた脳細胞に与えようとする。

「襲撃成功と声高らかに宣言しても守護者たちはこの騒動を止めようとしません。おそらく、先生と保護府はグルです」

「エックさんがそんなことを、本当に……」

「あれはエック先生ではありませんよ。正確には、先生であってエックではない……単なるなりすましではなく、それ以上におぞましいなにかです」

 焦燥を上手く隠しつつ、冷静な面持ちのままヒナタの顔をしっかりと両目で見つめる。

「先生は健康診断を問題なしと結論付けました。ですが、私は裏があると考えています。今日の昼には実施されるこの健康診断を独断で調査するつもりです」

「つまり、エックさんと対立するかもしれなくて……私のところに来られたのですね」

「そういうことです。ウイ先生の〝目〟と〝啓示〟を持つヒナタさんを味方につければ、勝ち筋もあるでしょう」

 湯気のなくなったコーヒーをぐいっと飲み干す。音が立たないようにカップをゆっくり置いてからカヤは言葉を続けた。

「ヒナタさ──「一緒にエックさんを止めましょう!」

 ハツラツな声を出したかと思うと、ハッと口を塞いでしょんぼりとした顔をする。ずいぶん生き生きとした表情筋だ。

「すみません……被せてしまいました……」

「いえいえ、大丈夫です。むしろ乗り気そうでホッとしましたよ」

「……先生が囁いているんです。あの人は、今とても苦しんでいて、助けを求めているのだと。カヤさん、一緒にエックさんを止めてくださりませんか」

 

 

 監視の目を閉じ、私は目を開ける。

「教授」

「〝ここに〟」

「神の癌は予定通り機能していますか?」

「〝はい。受け皿としての機能を果たし、特定不穏分子の記憶処理は順調に行われています〟」

「民衆の恐怖心は?」

「〝目論見通りの数値を維持しています。ヘイトも、私をモデルに形作られた欺く者(プレナパテス)に向かっています〟」

 憎悪管理が上手く機能し始めた。もう少し手を加えて調整をし、数年もすれば私がいなくともこの社会は維持できるようになるだろう。

「皆既日食──運命の日も、すぐそこまで迫っています。ようやく私たちは真の意味で結末を超越できますね」

 私は立ち上がって彼の前に立つ。相手が外物だとはいえ、無理やり意思を操ろうとすると呼吸が乱れてしまう。

 緊張で汗が噴き出し、心拍が鼓膜を揺らす。

「運命の日までに、不安要素を取り除いてしまいましょうか」

 言葉の一字一句に力を込め、丁寧に発する。

 

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 ひんやりとした感触によって意識がハッキリとしてくる。マテリアはゆっくりと目を開いた。

「あっ。起きた」

「──ちっ、近寄るな!」

 痛みも忘れて固定者から距離を取ろうとする。背中が壁にぶつかったことで、ようやく逃げ場がないことを悟った。

「急に動いちゃダメ! まだ安静にしてないと」

「くるな……」

 流動者は毛を逆立てて、精一杯の威嚇行動を見せた。耳と尻尾が縮こまってビクビクしている。

 すると固定者がもう一人、ドアの奥から入ってきた。状況を察してもう一人の頭を撫でる。

「お姉ちゃん……」

「介抱ありがとうね、あとは私に任せて」

 姉は怯える流動者と同じベッドの上に腰を置き、ゆったりとした声の調子でなだめようとする。

「ここに、あなたを傷つける人はいません。安心なさってください」

「誰がお前らなんか信じるか……このコジャが!」

 身体に張ってあった水浸しのタオルを剥がして思いきり投げつけた。姉は微動だにせず、顔面で受け止める。

「お前っ──」

「しっ。乱暴な言葉はいけません」

 身を乗り出した妹を、落ち着いた調子のまま手で牽制する。顔に当たったタオルを取ると綺麗に畳みテーブルに置いた。

「私たちは、一度ここを離れます。もしお腹が空きましたら、棚に少しだけ食べ物がありますので」

 それだけ言って、二人は部屋を出ていった。その行動が親切心によるものだとは、今のマテリアには到底信じられるものではなかった。

 ──守護者に突き出されたら一巻の終わりだ。今のうちに窓から逃げるか──

 ベッドから降りて窓の外を確認する。外には固定者があちらこちらに散在していた。

 ようやく、マテリアは現実を飲み込み始めた。自分が固定者居住区に来たことを。

 空一面が冷たい光で満たされ地下に注がれる。見渡すかぎりの地下世界。

「……こんなことが、あり得るのか?」

 固定者居住区の開発には二十五年の歳月を費やしたというのがデータベースの見解だ。

 しかし、この空間を建設するには百年を掛けても完成させられるように見えなかった。

「──まさか、保護歴すら嘘なのか」

 口から自然と漏れた真実に思わず手で塞いだ。それはデータベースによる歴史の捏造だけで説明がつくものではない。

 ──保護者が君臨して何年だ。千年か? なら千年と記せばいい、どこに不都合がある。違う、不都合は別にあるんだ。その逆、まだ十年と経っていないとしたら? データベースの不備が山のように積まれていることにも合点がいく。だが、そうだとしたら──

 自らを構成する記憶さえも、疑うべき贋物(にせもの)だったのだ。

「ううっ、おぇえ……」

 指の隙間から体液が垂れて床を汚した。頑強だった足場がまばたきの間に消え、どこまでも落下していく。

「嘘だ、そんな……」

 すべてが贋物(にせもの)だという真実。こんなにも滑稽なことがあるだろうか。

 もはや、保護者もプレナパテスも不確かな存在だ。

「保護者は何のためにあるんだ?」

 それらは象徴(シンボル)。実在か非実在かは瑣末なこと。人々がそれを思考してさえいれば、社会は滞りなく回る。

 仮想権威を崇拝し、仮想敵で不満を晴らす。むしろ仮想がゆえに社会基盤が揺らぐ心配もないのだ。

 マテリアの目眩が治まる気配はなかった。心臓の音が脈打つごとに増幅して、最後には何もかもが徒労に砕け散る。

「落ち着け……落ち着け……」

 虚構に惑わされ真実を見失ってはいけない。保護者、あるいはその権威を利用した何者かがどれだけ虚構のベールで覆っていても、不変の真実はある。

 ──そう、二足す二は四なんだ──

 歪んだ視界が次第に正常を取り戻す。マテリアはよろよろと立ち上がって棚を漁った。

 ぐずぐずのゼリーをちゅるちゅると味わう。地上より味は劣るが、飲めないこともなかった。というより、味覚が固定者と流動者で異なるのかもしれない。

 マテリアはラックに掛けてあった灰色のオーバーコートを手に取る。危険な行動だが、少し外の様子を見てみることにした。

 

 小柄な体型が幸いして、道の端を歩いていれば誰にも気付かれない。

 深々と被ったフードの隙間から周囲を覗いた。どこもかしこも輪付きだらけだ。見ているだけで気分が悪くなるのを感じる。

 ──だが、先ほどから感じるこの違和感。こいつらはどこへ向かっている? ──

 固定者が向かう先を見る。目を凝らすと、そこにはロボットたちがいた。マテリアは咄嗟に建物の影に隠れる。

 ヘッヘッと呼吸を整え、慎重に様子を窺う。守護者らしき姿の武装集団が微動だにせず十字路で整列していた。

 ぼんやりと聞こえる声に、マテリアは耳をピンと立たせて集中する。

「──まもなく、健康診断が始まります!」

 健康診断というワード。たしかに地上で聞いたことのあるものだった。保健局が立案したとかいう、新しい義務。

 流動者だけでなく固定者にも適用されていたというのはマテリアにとって初耳のことだった。

「健康診断~? 受けないといけないの、これ」

「先生が受けろと言っているんだ。まさか先生を疑うわけじゃないだろうな」

「い、いや……そりゃ先生のことは信じてるけど」

 固定者の中でも意見は分かれているらしい。しかし、それ以上に引っ掛かる言葉。

 ──今、先生と言ったのか。地下には先生が、旧時代の遺構が存在しているのか? いや……今やデータベースさえ信用ならない。言葉のガワを考えても無駄だ。重要なのは、奴らが〈先生〉の意向を重視していることだ。つまり、〈先生〉は地下における保護者なのか──

 奇妙なことに、地上と地下、流動者と固定者で相似の社会構造が形作られていたのだ。

 思考を巡らせていると、固定者たちが一斉に空を見上げる。それを追うようにマテリアも空を凝視した。

 天井がゆっくりと開く。空にぽっかりと穴がくり抜かれたようだった。底の知れない暗闇から、すっと大きな手が現れる。

 その手には灰色の大きな箱が大事そうに抱えられていた。

 ガーッ、ガコン。砂埃が舞い、昇降機は地面に接触する寸前で止まる。

 ロボットは寄ってくる固定者を列に並ばせた。一人、数分してまた一人と不透明な薄い膜を通って箱の中に入っていく。

 列の中にさっきの姉妹が居ないか目で探ったものの、見つけることはできなかった。

 何名か何十名かマテリアは数え忘れてしまったが、とにかく開始から十数分後。昇降機は天井に戻り、しばらくしてまた帰ってきた。

 

 これ以上観察し続けるのは危ういと感じたマテリアは、慎重にその場を離れようとした。

「ん。なにか動いてない?」

「え、どれ?」

「あれ」指を差す。

 どうやら、少し判断が遅かったようだ。マテリアは持ち前の俊敏さを発揮させる。

「ちょっとそこ止まって! 止まってってば!」

「ヘイローがないから、もしかして流動者っ?」

 ──どこに逃げれば……くそ、あの部屋に戻るしか──

 小柄な流動者がどれだけ足を速めても、立ち耳の固定者は振り切られる様子を感じさせない。

 廊下を駆け、階段を上がってドアの向こうへ飛び込んだ。

「あ、帰ってきた」

 妹の言葉も待たずにマテリアはベッドの下に隠れる。

「えっなにして──」

「ん、ちょっといい?」

 少しだけ息の上がった固定者が姉妹に尋ねた。額の汗を拭っても、首元のマフラーを外そうとはしない。

 妹はキラキラとした目でその固定者の名を呼ぶ。

「シロコさん!」

「このあたりに流動者が来たと思う。灰色のコートを被ってて、ちょっと小柄なやつ。あなたたちは見なかった?」

「え……」

「うーん、そのような方は見かけていませんね。守護者以外の流動者なんてそうそう地下入りしませんし」

「でも、せんせ──んん。過去に前例がないわけじゃない。それに、ここはなんだか臭う」

 狼の固定者は奥を覗こうと部屋に上がったが、それ以上は姉が阻んで立ち塞がった。

「どいて」

「生徒の頼みだとしても聞けません」

「匿っていると、あなたたちが危険に晒されてしまう」

「それでもです」

 両者は目線を逸らさずに一歩も引こうとはしない。マテリアは息を殺して毛の一本も動かさなかった。

「ぜぇっ、はぁ……ちょっと、はぁ……」

「遅いよセリカ」

「シロコ先輩が……速すぎる、のよっ……」

 後から追ってきた黒猫の固定者は、肩で息をしながら酸欠になった肉体を回復させようとする。

「……それで、あのちっちゃい流動者はここにいるの?」

 狼はもう一度姉の方の顔を見た。生徒相手に表情一つ変えない。

「ん、ここにはいないみたい」

「そう……逃げられちゃったわね」

 呼吸が落ち着くと黒猫は先に部屋を出た。狼は奥にあるベッドをジッと睨んで、黒猫の後を追った。

「……もう出てきていいですよ」

 その言葉を聞いてからもマテリアはしばらく動こうとしなかった。数分後、痺れを切らした妹がベッドをバシバシ叩く。

 おずおずと出てくる流動者。毛にくっ付いた埃を取ろうと、ぶるぶると身体を振るわせる。

「埃、はらいましょうか」

「結構だ」

「おま──あなた、こっちが気を遣ってるのにずいぶんと偉そうだよね」

「気を遣ってくれと言った覚えはない」

「むー。こいつやっぱり生徒さんに引き渡しちゃおうよ」

 姉の裾を引っ張りながら抗議した。姉は無言でその手をどかそうとする。

 表現に困るが、マテリアの目には姉妹同士のわちゃわちゃが映っていた。

「……どうして、匿ってくれたんだ?」

「どうして? あなたは彼女たちに捕まりたくないのでしょう?」

「それは、そうだが」

「なら、それが答えですよ」

 マテリアの疑問符はさらに追加された。まさか、人倫道徳を持たない固定者に親切心などあるのだろうか?

 にわかには信じがたいものだった。たとえデータベースが虚偽にまみれたものだと分かった上でも、刷り込まれた価値観がマテリアの目を濁らせている。

「この話はこれでお終い。そろそろお昼ご飯にしましょうか」

「うんっ。ほら、あなたの分も貰ってきたから。席に座って」

「……棚にあったゼリーで十分だ」

 食事を断ったのは、なにも姉妹に疑心を抱いているからだけではなかった。マテリアの自尊心がそれを許さなかったのだ。

 姉はそれ以上話しかけることはせず、二人でいつも通り食卓を囲んだ。

 

 しばらく経った後、先に言葉をかけたのは意外にもマテリアからだった。

「お前たちは、健康診断に行ったのか?」

「行ってないよ。だって怪しいじゃん」

「しかし、お前の足は……」

 マテリアは目線を落とす。妹の足には厳つい機械が装着されていた。

「これ? いいでしょー」

「健康診断で何か治す手立てが見つかるかもしれない。やはり、保護府が信用できないか」

「信じてない、っていうのもあるけど……それ以上に、この足を治すつもりはないよ」

 想定外の答えにマテリアは思考硬直した。あまりの不合理さに呆れることさえできない。姉は話に割り込まず、ただ黙って頷いていた。

「生まれつきなのかは分からないけど、物心ついた頃にはこんな感じでね。二年前にミレニアムの職人(マイスター)が作ってくれた補助スーツと出会うまでは自力で歩けずにいたの」

「尚更だろう。スーツもなしに歩けるようになる可能性だってある」

「それはそうだけど……一生涯の苦悩が、そう簡単に解決したらムカつくでしょ? だったら最初に施してくれってのー。神サマ気取りで治されて『ほぅら救ってやったぞ。感謝しなさーい』だなんて、真っ平ごめん」

 彼女は軽やかなステップを刻む。健康体となんら遜色(そんしょく)はない。職人とやらの技術力──そして、彼女自身の努力によって生まれた奇跡。

「この苦しみは、私だけのもの。誰にだって奪わせはしない。たとえ神サマ相手でもね」

「……不可解だな」

「はいはい、地上育ちのあなたには分からないでしょうねっ」

 マテリアはまたベッドの下に潜る。生徒とやらがまた殴り込んできても不思議ではなかったからだ。

 姉妹の会話を聞きながら、流動者は少し内省することにした。

 

 あれから何十分経ったか、あるいは何時間か。BCFが止まってしまった現状では体内時計に頼るしかない。

「ねー、そろそろ出てこないの」

「俺は居ないものと扱ってくれ」

「あっそう」

 マテリアはベッド下から出たかったが、それよりも生徒や守護者に見つかる恐怖が上回っていた。

「ふんふふーん……」

 コンコン。

「はい、どちら様でしょうか」

 姉の言葉に答えることなくドアは蹴破られる。土足で上がり込んできたロボットたちは、シンプルな問いを与えた。

「健康診断を受けたか?」

「ねえ、まずはこっちの質問を──」

 妹が不満げな態度で近寄る。それに対して守護者は予備動作なく彼女の襟を掴んで持ち上げた。

「首元に印がないな。義務違反だ」

「妹を離して!」

 非情な守護者相手に姉は果敢に挑むも、鉄製の杖で押し退けられてしまう。杖から流れる電流が、彼女の筋肉を収縮させた。

「お前たちには義務を果たしてもらわなければならない」

「ふざけんなっ……私たちから何もかも奪ったくせに!」

「奪った? ほざけ、保護者様は慈悲を与えたのだ。私たちはいつでもお前たち固定者を皆殺しにできる。存在価値のないお前たちをわざわざ生かしてやっているというのに、恩知らず甚だしいな」

 呆れた調子で長身の守護者はベラベラと説教する。それは陶酔でも狂信でもなかった。

 それが事実であり、彼らにとっての不変なる真実。ついこの前まではマテリアにとっても真実だったものだ。

「連れていかないで、お願い……」

「いやっ、やだぁっ!」

「そいつも診断を受けたか確認をしろ」

 背後に待機していたもう一人が、姉の手首を掴む。もう抵抗する気も起きなかった。

 刹那、守護者の視界は暗くなる。

「な、なにが」

 突然のことだ。視界(モニター)にずぶ濡れたタオルが覆い被さった。暗闇に突き落とされたロボットたちは動揺のあまりに杖を手放す。

「今だ!」

 マテリアすかさず杖を手に取り、守護者めがけて振りかざした。

「おまっあばばばばっばばば──」

 柄にあるボタンを押すと、ロボットは身体を震わせて硬直したまま地べたに倒れる。拘束を解かれた姉妹も加勢してあっという間に鎮められていく。

 見事。たくましいロボットたちがみっともなく積み上げられた。

「ふーっ……」

「あ、ありがとう」

「食料と匿ってくれた分はこれで清算だ」

「……あの守護者たち、どうしましょうか」

「シロコだったか……あいつは生徒なんだよな? 察するに、生徒というのは自警団員だろう。ならそいつらに匿ってもらうのが最適だ」

 ひと奉仕終え、マテリアは〈預言者〉を摂ろうとポケットを探った。大事にしまっていた紙箱を取り出す。

 残念ながら中身は惨状そのものだった。

「なぁ、モーセは余ってないか」

「エレミヤならあるけど」

「……一粒くれ」

 

 

 

 数時間前。

 顧問は天空から伸びてくる手を双眼鏡越しに観察していた。

「普段の定期供給の設備をそのまま使っているようですねぇ」

「あの箱の中に、なにが入っているのでしょうか……」

 二十名ほど通した後、黒い箱は一度天井に戻ってから数分して戻ってくる。

「上でなにか補給をしている……」

 箱の周辺は守護者が警備を固めていた。付け入る隙がまったくと言っていいほどにない。

「直接確認するのが手っ取り早いですね」

「ですが、あの警備をどうやって突破しましょう?」

「なに、考えはありますとも」

 そのセリフに、ヒナタは小さく「ふふっ」と声を漏らした。

「……ヒナタさん?」

「いえ、すみません。少しだけエックさんの口癖に似ている気がしましたので」

 不本意なことにカヤは眉をひそめる。反論でもしようかと口を開けるも、数秒経って何も言わずに閉じた。

 

 物々しい音を立てて灰色の箱は降りてくる。ガコンという音と共に地面スレスレで静止した。

 その箱を囲むように守護者たちが立っている。

「それで、カヤさんの考えというのは……」コソコソ。

「部下からドローンを一機だけくすねてきましてね。これを囮に使います」コソコソ。

 箱が上昇する瞬間。それに合わせて囮を動かす。

 少しでもなにかタイミングが食い違えば終わりだ。カヤは浮き足立つ心臓に手を当てる。

 五人目。六人目。八人目。十三人目。十七人目。

 二十人目。

「今ッ」

 昇降機の駆動音が空気を揺らしたそのとき、ドローンが守護者めがけて突進する。

「えっなに──ウワッ!」

 ドローンからフラッシュが焚かれる。撮影というには少々光が強いようだった。

 守護者たちの失態を挙げるなら、それは迫るドローンを正直に目で追ってしまったことだろう。

 ドローンは一足先に箱の上に着地する。二人も守護者の間を通って上昇しつつある箱にしがみついた。刻一刻と地面から離れていく。

「うっ、ぐぅっ……」

 すでに箱は建物より高い位置まで来ている。いくら頑丈な肉体でも、落ちれば無事では済まないだろう。

 なんとかよじ登ろうにも、カヤの握力では持ち堪えるだけで精一杯だった。

「カヤさん、手をっ!」

 空気循環の強風が吹く中でヒナタは声を張る。箱の上部へ乗るのに成功したのだ。

 カヤがヒナタに向けて手を伸ばす。ガシッ。確かに掴んだその手を、絶対に離さず握った。

「よい──しょっ!」

 ヒナタ渾身の力によって、細身のカヤは軽々と引っ張り上げられた。

「助かりましたよ、ヒナタさん」

「よかったです……あのときとは違って、今度は届きました」

 熱のこもった手を見つめ、ヒナタはようやく一呼吸おけた。

 空まであと十数メートル。

 

 天井の奥まで来ると光は一筋さえない。暗闇の中で、箱は大きく揺れてその動きを止めた。

「止まりましたか……うおっと」

 再度、箱は左右に揺れて動き出す。

「この感じ、上昇ではなく横に移動していますね」

「いったいどこへ運ばれているのでしょうか?」

 まずは二人とも箱から降りることにした。持ち前の頑丈さを活かし、動いてる方向と垂直の方角に飛び降りる。

「いってて……」

「うーん、さすがに暗くてなにも見えないです」

「ドローンも持ってきたのでこれを頼りに進みましょっか。バッテリー持ちは長くないので手短に済ませましょう」

 カヤはライトアップだけして羽を休めたドローンを両手に抱える。奥まで続くベルトコンベアに沿って、二人は歩き出した。

 

 彼女たちの小さな足音は機械の騒音でかき消される。

「うっ、(にお)いますね」

 奥から漂う強烈な腐乱臭が二人を襲う。

 数分後、ベルトコンベアが途切れた。

 どさ、どさ。

「止まってください。床もここまでのようですね」

「箱は……底が抜けて、アームで奥にそのまま運ばれていってます」

 コンベアからアームに移行する際に、そのまま底面が開いて中身が下に落ちていっているようだ。

 どさ、どさ。

「中身がなんなのか、ライトの出力を上げてみましょう」

 ドローンは光を強める。暗闇を退け、目前にある底まで照らした。

 どさ、どさどさ。

「こ、これは──」

「うぶっ、おぇ」

 絶句するヒナタ。せり上がる吐瀉物を手で押さえるカヤ。

 次から次へと箱の()()が落とされていく。その下には、数え切れないほどの()()が無造作に積まれていく。

「こんな、こんな……」

 それらに生気はない。四肢はあらぬ方向に曲がっていて、ヘイローは消えている。

 

 それは固定者の身体だった。

 

 

 ──私たちは先生。私たちは教授。私たちは、私たちは?

 混濁とした思い出の海で、身体はどんどん沈んでいく。

 溺れまいと手を伸ばす。そして、誰かに掴まれる。

 

 身体は海辺に打ち上げられた。四つん這いになって肺に侵入した一粒一粒の記憶分子を吐き出す。

「立ち上がってください。行きますよ」

 この身体を引き上げた者はそう言った。よく見るとそれは保護者であり、シロだった。

「〝行くって……どこに〟」

「まだ()()()の神秘があります」

 

 シロの後を追う形で、砂浜を歩く。しかし、足が一歩も前に進んでいないことを知った。

 ふと足下を見ると、それは砂でなくコンクリートだった。横殴りの強風に身体が煽られる。

「〝これは……〟」

「夢は『記憶の整理と定着の作業風景』という話を耳にしたことはあるでしょう。貴方たちが混ざり合ってから一ヶ月以上、衝突してバラバラになった記憶は未だに混沌としているわけです」

 足の裏に付いた砂粒をコンクリートに擦りつけながら端まで歩く。下を覗いてみたが底は見えない。

「なら、手っ取り早く底を確かめてみましょうか」

 風はさらに強まり、足と地面が離れた。身投げのように身体は屋上から弾き出される。

 落下する感覚が妙に気持ちいい。

 私たちはその感性に身を委ね、ひたすらに地面へと向かった。

 

「ほう、其方(そち)は……久しぶりじゃのう。シャーレの先生」

 木々に咲くピンク色の花弁が舞いを踊って私たちを歓迎する。身体を起こすと、そこには肌も髪もヘイローも真っ白な少女がいた。

 キセルを吹かしながら出迎えてくれる。狐目のその少女は、訝しそうな表情で私たちを凝視した。

「どうやら精神が混淆(こんこう)としておるな。もう一つは、エックハルトという名か」

「〝キみは……〟」

「ようやく会えましたね。初めまして、大預言者クズノハさん」

 シロはスッと私たちの背後に現れると、肩に腕を回して抱き寄せた。ぴったりとついた肌を通して体温がはっきりと伝わってくる。

「はぁ……(わっぱ)、話の腰を折るでない。妾はエック教授、シャーレの先生と言葉を交わしておるのじゃ。用なら後で──」

()()()()()()()

 まっすぐ向けていた銃口が下がる。他ならぬクズノハの手によって。シロは一歩近づいてキセルを取り上げる。

「……ふむ、此れが其方(そち)の本質か。わづらわしいな」

「その様子だと効きが少し弱いようですね」

 シロは掌でかざし、()()()()()()。跪かされてもクズノハの表情が変わることはない。

「クズノハさん。貴方で最後です。忘れられた神々、その最後の神秘を取り込むことで、偉業の前段階が完了します」

「色彩が災禍を引き起こすだけの、ただ其れだけの存在だと思うておるのか?」

「当然。破滅を超越するためには相応の代償が伴います。あれが消滅すれば、世界(星々)が運行を止め……ある一点に収束していきます。第四の壁──その向こう側に在る観測者たちによって証明されたあらゆる分岐、あらゆる結末。それら全てが統一されます。キヴォトスは不変となり、閉幕の刻は訪れなくなるのです」

「未来も、過去も……果てには現在(いま)さえも失われるじゃろうな。不滅とはそう良いものでもないのじゃぞ」

「預言者なら聞こえているでしょう。これがキヴォトスの意志なのですよ」

 シロは彼女の頭を鷲掴んだ。腕から白い光が漏れ出る。その光には見覚えがあった。

 そうだ、クラフトチェンバー。

「哀れだのう。産声を上げた刹那から全能にも匹敵する力を得ていたばかりに、責任を感じてしまったのじゃな。精神が発達する前に身体を弄り、世界を統べることができた──否、できてしまった」

「……お喋りが過ぎましたね。では、さようなら」

 白い光によって視界は奪われる。五感さえも塗りつぶされて──

 

 

 リン局長は背もたれに身を委ね、天井をじっと見ていた。

「──それで、健康診断は身体(ボディ)交換の建前だったと」

「ええ。診断を受けた誰一人として、身体が入れ替わっただなんて自覚はないようですけどね」

 顧問が報告した事実は、到底信じられるものではない。しかし、たとえ信じられずとも受け入れる他なかった。

「調査は続けますよ。診断を受けた人たちの健康状態、記憶障害の有無……そして、なぜ身体の交換をするのか」

「わかりました。引き続きよろしくお願いします」

「……元気がなさそうですね。その長い髪でも踏んで躓いたりしましたか」

 しばらく黙り、リンは衿を引っ張って首元を見せる。

「その印──まさか」

「この世論の中で、仮にもイチ組織のトップが受けないわけにはいかないでしょう」

 カヤはいつもの調子で毒を吐こうとしたが、その覚悟に意見しようとは思えなかった。

 その行き場のない感情は握り拳へ発露される。

「この調査の発表については未定とします。いたずらに民衆を混乱に陥れてはいけません。ヒナタさんも、第三者への口外はしないでください。あと、今晩はシャーレ(ここ)で寝泊まりしていただいても構いませんので」

「は、はいっ」

 しゃっきりとした姿勢を維持したまま、少女は発声よく返事をした。

 

 カヤはソファーにぐでんと倒れる。近くの掛け布団をたぐり寄せ、小さな身体をすっぽりと覆い被せた。

「ふーっ、疲れましたねぇ。ヒナタさんは、そこのベッドで寝てください……」

「いえ、私は……これから図書館に用がありますから」

 せっかく被せた布団を剥がして起き上がった。驚愕に満ちた顔をヒナタに見せる。

「えっと、あの()たちが危ない──と、先生が呟いているような気がしまして。杞憂かもしれませんが、様子を見に窺いたいんです」

「……そうですか。じゃあ、送っていきます」

「そんな、悪いですよ」

「いいから黙って送られてください。もういっそ図書館で寝ちゃえばいいんですし」

 ぐったりと疲れた体に鞭打って、車のエンジンを掛ける。消灯手前の閑散としつつあった道路を走り抜けていった。

「ぐっ──」

 図書館が近づくにつれ、頭の中の悲鳴は脈打つようにヒナタを苦しめた。

「大丈夫ですか?」

「……そのまま向かってください」

 地下図書館前に着いた頃には消灯の時間が過ぎて辺りが暗くなっていた。

 車のライトは付けたまま二人は仄暗い階段を下りていく。

 何度も通ったはずの道が、二人にはまるで初めて通ったように感じた。

「なにか変ですね」

「欠けている、あの感覚……ゲマトリアが掛けていた防衛網が解けてないでしょうか?」

 〈壁の目〉を抜けたときと同じ、あの感覚。黒服は同様の技術を応用したものであると言っていた。指定外の生命体が侵入すると、図書館とは別のところへ飛ばされる。

 この防衛網を解けるのは、ゲマトリアとその技術に触れた者のみ。ミレニアムの職人(マイスター)たちと、一握りの幹部生徒と、そして──。

「──エックさんの仕業ですね」

 ヒナタに嫌な予感が過る。今出せる全力を脚に乗せ、急いで駆け下りていった。カヤとの歩幅合わせなどという余裕は消えたのだ。

 

 見慣れた扉の前に立つ。間髪を容れずにヒナタは扉を開けた。

(あつ)っ……!」

 熱風が少女を襲う。身を焼き尽くそうとする空気に喘ぎながらも、退くことはしなかった。

「〝こんばんは、ヒナタ〟」

 暖炉の前に佇む一人。正しくは二人。汚れ一つとない白い服を(まと)った者は平然とした態度で、愛しい生徒に屈託のない笑みを向ける。

「エックさん、今すぐにやめてください」

「〝さん付け、外してくれてもいいのになー。あ、それ以上近づくと危ないよ。ほらこれ〟」

 教授は二つのマスクをヒナタへと投げ渡した。後からもう一人来ていることに気づいているらしい。

「〝そろそろ本が燃えていくだろうね。三分後か、あるいは今か〟」

 突然、後方の本棚から火の手が上がる。その無慈悲な炎は伝播していき、手のつけようがない早さですべてを飲み込んでいった。

 十九年間、古関ウイが守り続けた()たち。悲鳴一つ上げず灰燼に帰す。

「エック……自分がなにをしているのか、分かっているんですか!」

「〝正義さ。本はすでに存在してはいけないんだよ。私は教授としての奉仕を全うしているだけ〟」

「ウイ先生の思いを踏みにじることで成り立つ正義なんて……あの人の願いが忘れ去られることで成り立つような社会なんて、私は嫌です!」

 教授は耳の下をぽりぽりと掻く。貼り付いたような笑顔のまま、ヒナタをギロリと睨んだ。

「〝まるでここが彼女の墓標みたいな言い草だね。ウイは今も生きているよ。でも、今の彼女は本に触れたことがないからな……これが本当に思いを踏みにじることに繋がるのか、今度訊いてみることにするよ〟」

「エックハルト!」

「〝その目……ははっ、なるほど。キミの魂に少しだけ混ざっているようだね。黒服の仮説は正しかったわけか〟」

 怒りに呑まれる少女の前髪が熱風によって揺れる。隠れていた左目がほんの一刹那だけ見えた。

 宝石のような赤い瞳ではなく、紺の瞳。

「エックハルト。これ以上、あなたの好きにはさせません」

「〝本の一つでも持ち帰ってみせるか。試してみるといい、自然発火する前にこの地下から持ち出せるならね〟」

「この()たちを散らすのであれば、その命を散らす覚悟もありますよね」

 ヒナタは一切の躊躇もなく鉄筒を抜き、引き金に指を掛けた──。

 

 

 ……□□は拒む、七つの□□を。

 ……□□は忘れていく、ジェリコの□□を。

 

 パンッ。

 一つの間違いもなく、撃鉄は雷管を叩いた。

 一つの間違いもなく、弾道は彼の眉間を捉えていた。

「──はず、れた?」

 ゲマトリア製の弾丸は残り三センチのところで軌道を逸れて暖炉の耐火レンガに着弾した。

 タブレットの画面は薄らと光を放っている。

「〝当たらないなら──もっとこうやって、近づけてみようか〟」

 教授は立ち込める炎を気にも留めずヒナタの方へ歩く。彼女の震える手を優しく握り、自らの額に銃口を押しつけさせた。

 カチッ、カチカチッ。

 引き金を引いても弾は出ない。銃口を額から逸らすと、正確に本棚の側面へ着弾した。

「〝お別れをする前に、キミたちが知りたそうなことを教えてあげよう。まず、健康診断は必要な痛みだ。キミたちの身体は子宮の中で育ったものではなく、工場で大量生産されたもの。若さを保つことはできるけど、三十年程度で朽ちてしまう。だから、定期的に交換することで擬似的な不死を実現したんだ〟」

「……事実がなんであれ、私たちにはそれを知る権利があります」

「〝こうやって本を禁じ、読み書きを失えば、キミたちは死という概念さえ忘れていく〟」

「それが最善だとしても、私たちは自身で選んだ道を歩みたいんです」

「〝永遠平和の、無限とも思える刻の中。真実はすべて洗い流される。流動者も固定者も、ただ生きていけばいい〟」

「選択によって滅びを招くのだとしても……私は、私は!」

「〝……〟」

 

「──青い空を、見てみたいんですっ!」

 

 それは、小さな奇跡だった。ほんの一握りの砂粒にさえ及ばない奇跡。

 少女の着ていた服が青く輝いた。その色は、人々が海馬の底へと追いやったいつかの晴天を思い出させる。

 時にして三・三秒のドラマ。次第に褪せていき、また灰色に戻ってしまった。

「〝……さすがだね〟」

「い、今のは」

「〝ヒナタ。君の思いは、滅びなんかじゃないよ〟」

 先生は真っ白な仮面を取り付けて、生徒のもとから離れていく。火柱が彼を避けるように揺らめいた。

 〈壁の目〉のある壁面に手を置き、教授は振り返る。

「〝皆既日食。その日が、私たちの分岐点だ〟」

「──エックさん、待って!」

 本棚が倒れて二人の間に炎の壁が生まれた。マスクをしていても、これ以上ここに居るのは危険だった。

 ──ごめんなさい、先生。託された()たちを、守れませんでした──

 部屋を後にして廊下に出ると、煙を避けるように這うカヤがいた。

「カヤさん、これを!」

「ゴホッ、ゴホッ……ありがとうございます。この煙の様子だと──」

「エックさんが図書館を燃やしました。あの口振り、おそらく本を禁止にしようと……」

「思った以上に最悪の事態ですね。シャーレに急いで戻りますよ」

 二人は階段を上っていく。酸欠にならないよう気を配りながら、命からがら外に出た。

 眩しい光が彼女たちを出迎える。しかし、それはつけっぱにしていた車のライトによるものではなかった。

「警察だ。お前たちには放火の容疑が掛かっている。ご同行願おう」

「……()められましたか」

 

非学園、非青春、非物語

「……教授。報告を」

 眠気に目を擦る私の前に、白髪の混じった教授は手を後ろで組んで立っていた。

「〝地下図書館は全焼、所蔵図書の九割が焼失、焼け残り本は回収させ廃棄したよ。先令で図書禁止を命じ、それによる反発もあったけど、無事に鎮圧できたね〟」

「固定者の世論は?」

「〝先生一色だよ。簒奪(さんだつ)を目論んでいたマコトは失脚、彼女にとって弱点であるイブキを代わりに立てた。他にも私を危険視していた幹部生徒は退けた。自由に動いていたシャーレもカヤ顧問の放火容疑によって糾弾され、学連の傘下に取り込まれた〟」

 私は椅子から立ち上がって教授のほうへ近づく。彼は直立不動で、そのくすんだ目だけが私の動きを追っていた。

「あなたの悪あがきも、すべては無駄骨でしたね」

「〝……かもしれない。でも、無意味じゃなかった〟」

「あの現象は偶然が見せた蜃気楼に過ぎません。掴みようのない雲に手を伸ばしたところで、詮無いことでしょう」

「〝意味というものは私たち人間が与えているんだよ〟」

 なんとくだらない。魂について詭弁だなんだと揶揄したわりに、滑稽にも今は修辞法(レトリック)を使っていた。

 私がそれを否定することはない。この社会システムは再定義され歪み曲げられた実存主義によって成り立っている。

〈思考から真実は生まれる〉

 本質は軽視され、風化し、いずれ消え去る。

「観測者。報告を」

「はい……欺く者(プレナパテス)によるヘイトコントロールは上手く機能しつつあります。以前の福楽省襲撃も、神の癌が起こしたテロ行為だと報じられました。これを保護府の自作自演だと疑う者も、神の癌に加入することで我々の監視下に置けています」

「その一連の流れに、貴方は関与しましたか?」

「いいえ。PTAの影響なしに、すべて思惑通りの運びとなりました……」

 テーブルに視線を移す。水飲み鳥のくちばしが水面をつつき、頭を上げて揺れている。

 コップの水はまだまだあった。しばらくは足す必要もないだろう。

「であれば、私の権能が失われても問題はありませんね」

「……それはどうでしょう。問題点がないわけでは、ありませんから」

「その問題点を潰していくのが非戦論者の奉仕ですよ」

 鳥に自ら指を近づける。前後に振るその頭を触れようとする。

 けれど、すんでのところで私の気が変わって、触れることはなかった。どうしてそうしたのか、今になっても答えは出ない。

「……私は寝ます。火急の用事があれば起こしてください」

 カチカチと動く秒針と共に重くなる瞼を閉じ、私はまどろみの海へとその身を投げた。

 水が肺を満たしていく。不思議と苦しくはない──

 

 

 ──砂浜に打ち上げられた身体を起こす。水分を含んだ砂粒はするりと抜け落ち、肌に張りつくことはなかった。

「珍しいこともありますね……貴方のほうから来るとは」

 無造作に積み上げられた学習机の上に、彼は立っていた。

 私が目覚めたことに気付くと、砂上にその両足を着地させる。足跡をつけてこちらに歩いてきた。

「〝シロ。キみは何度も私たちの夢中に土足で侵入してきたんだ。その逆があってもおかしくないだろう〟」

「その節は申し訳ありません。クズノハを見つけるのに苦労していましたので」

 水平線が朝焼けに染まり始めている。いや、染まり始めで止まっていた。

 星空は霞むどころか、よりその輝きを増す。

「〝ここはシッテムの箱、その内部に酷似しているね。ははっ、面白い因果だ〟」

「これから訪れる未来を現しているのなら、これ以上に嬉しいこともないでしょうね」

 一つ一つの星芒は、それぞれの世界が放つ光輝。うじゃうじゃと蠢く有象無象の世界たちはいずれ一点に収束していく。

「〝あのときの賭け、まだ覚えてる?〟」

「……協定を結んだときのですか。私の勝ちなのでは」

「〝いいや、勝負はついてないよ。いずれコップの水は尽き、平和鳥は頭を上げなくなる〟」

 永久などない──そう言いたげな顔。

「ここはキヴォトス。奇跡がまかり通る場所。あなたが可能性に賭けるなら、私が不可能性に賭け、奇跡を起こしてみせても構わないでしょう?」

「〝まったくその通り。なにも奇跡は私たちの専売特許じゃない。キみにも、ウイにも──みんなの手にあって然るべきものだ〟」

「エックが混ざって舌戦が上手くなりましたか……いえ、昔からそうでしたかね」

 波の打つ音が鼓膜を揺らす。なんと美しい景色だろう。

「〝……まだ時間はありそうだ。よければ、キみのことをもっと教えてほしいな〟」

「いいですよ。退屈しのぎにはなるでしょうし」

「〝生まれたときのことについて、とか〟」

 砂を両手で掬ってみる。一分と保たずに指の隙間からどんどんこぼれていき、一粒も残らなかった。

「しっかりと覚えています。赤い空の下、私は生まれました。最初は赤ん坊でしたので、()()()()()()()()()()()。今思えば、あれは生存本能から来たものでしょうね」

 単純に計算すれば、生まれて五年でこの世界を塗り替えたことになるのか。けれど私は保護者。単なる人間の尺度で測るのも、おかしな話かもしれない。

「〝キみが責任を負う必要はなかった〟」

「大いなる力には大いなる責任が伴う、でしたか。私には世界を救える力がありました。それを行使しただけに過ぎません」

 キヴォトスという崇高が生み落とした神秘(わたし)。言ってしまえば、私はキヴォトスそのものなのだ。

 ならば世界をより善いものにするのが道理というもの。

「力なき貴方が責任を語るなどと、笑い話にもなりはしません。かのプレナパテスなんてその最たるものでしょう。私であれば、すべてを救うことができました」

 力なき責任ほど──不様なものはない。

 責任なき力ほど──下品なものはない。

「責任なき生徒たちが力を振るうことで、いったい幾千の世界が途絶えてしまったのでしょうか。そんな悲劇を繰り返してはなりません」

 その言葉を聞いて、彼はさらに距離を詰める。顔には深い陰りが差していた。

「〝シロ〟」

「殴って晴れる気持ちなら、そうしてください。どうせ夢の──」

 私が言い切る前に、彼は行動に移した。私にとってはあまりにも残酷な仕打ちを。

「──エック?」

「〝ごめん。私たちのせいだ〟」

 ただ静かに、ただ優しく、温かい抱擁だった。

 穏やかな体温が私の身体に注がれていく。

「〝まだ子どもであるキみに背負わせてはいけないものを背負わせてしまった〟」

「……やめてください」

「〝身体を弄った今は、たしかに大人なのかもしれない。だが、あの空が赤く染まったあの日……キみはまだ子どもだったはずだ。そんなキみが自ら責任を負う者としての道を歩んでいくのを、大人として止められなかった〟」

 赤子のとき、私は何を求めていたのだろう。もしかしたら、この温もりを欲していたのかもしれない。

 しかし保護者(わたし)はすでに私という不完全な個を捨てていた。自身の願いを思い出すことはない。

「〝シロ。もう、これ以上──苦しみを背負わないで〟」

「勝手なことを、言うな!」

 次のまばたきの内に彼の身体は()()()()()()()()。机の山に激突し、それらはガラガラと大きく音を立てて崩れる。

「〝ゴホ、ゴホッ……〟」

「私は保護者。生まれながらにして全き者。あらゆる力、あらゆる責を手にした絶対者。貴方のような矮小な存在ごときに絆されはしません」

「〝……もう一つだけいいかな。どうして、生徒たち──獣人やロボットも意識ごと操ろうとはしなかったの?〟」

 夢中では外傷など飾りにもならない。彼は起き上がって、その醜い肉体をこちらに近寄らせにくる。

「操る必要がなかった。ただそれだけです」

「〝ここまで遠回りしといて、よく言うよ。地上と地下で分けたのは彼らの身体的特徴の大きな差を考慮したものだ。青春というテクストが剥がれ、グロテスクな現実が表出したとき──あまり想像したくないけど、気持ちのいい光景じゃないと思う。それを事前に阻止する……それは、みんなの精神や肉体を改造することで簡単に解決したはずだ〟」

「私が聖人にでも見えますか?」

 鮮血が彼の額をなぞって砂上に滴る。砂はその液体を拒み、染み込むことはなかった。

「〝いいや。ちっぽけな一人の少女に見えるね〟」

「目を腐らせろ、なんて命令を与えた覚えはありませんが」

「〝うん。現に腐ってないから〟」

 気に食わない。その憐れみの籠もった眼差しが、届きもしない手を伸ばすその傲慢さが、無性に私を苛立たせる。

()()()()()()()。そして、(めい)を一つ。()()()()()()()()()()()

 一瞬にして彼は視界から消えた。

 私は孤独な海辺でただ一人、美しい星の海を眺め──

 

 

 カラン、カラン。来店を知らせる鈴の音が高調子で鳴る。

 天井の低いその空間は湿り気のある夜に満ちていた。その雰囲気を象徴するように、ボリュームをしぼったフュージョンが艶やかな音色でその身に寄り添ってくる。

「お久しぶりですね、先生。隣にどうぞ」

 先生はそっと椅子に腰掛けた。空になったグラスの中で残されたアイスキューブを回しながら、黒服は歓迎する。

「一杯、どうですか」

「〝私が下戸なのは知ってるでしょ〟」

「おや……誘いを断るための常套句だとばかりに思っていました」

「〝まあ、飲めたとしても断っただろうね〟」

 ()がれたオレンジジュースを一口含む。ジューシーで甘酸っぱい味の後に、ほのかな苦味がスッキリと締めた。

「私で最後ですか」

「〝ああ〟」

「であれば、この一杯を堪能しなければいけませんね」

 ビンの蓋がポンと低い音を鳴らす。コクコクと琥珀色の液体が注がれていく様子を見ながら、先生は一息だけついた。

「保護者はゲマトリア(わたしたち)にとって、とても興味深い存在でした。できれば研究対象として利用したかったのですが」

「〝ホシノのときみたいに、か〟」

「ククク、そう怖い顔をしないでください。なにせあれはキヴォトスが生んだ、いわば最終防衛システム。破滅に対抗するため用意された最後の砦です。色彩に対する手段を探るのに、これ以上の人材はいないでしょう」

 黒服はグラスを傾け、口の形を成した光の中に流し込む。

 背景で佇むは、化石となった有人音楽。親しみの籠もったクラシックが生み出すメロディーと、ジャズの精神によって再構築されたハーモニーが彼らに千年分の至福をもたらした。

「しかし、少々気になる点もありますね」

「〝なんだ?〟」

「あれを色彩への防衛システムとするなら、なぜこのような社会体制を築き上げるような挙動をしたのか──思うに、保護者は他の生徒と同じ精神構造を形成しているのでしょう。初めからそうだったのか、彼女たちを見てそう学習したのかは、判断しかねますが」

「〝出自がなんであれ、私の生徒だよ〟」

「クックック……彼女がビッグ・ブラザーだとしても?」

「〝あの子はビッグ・ブラザーでも、フォードでも、ましてや恩人でもない。少しだけ背伸びをしている、大人が守るべき一人の子どもだ〟」

 

[大人のカードを取り出す]

 

「──やはり、あなたは素晴らしい。不可解でありながらとても興味深い哲学を持っている。お互いに研鑽していけば、私たちは崇高が抱える真理にも到達し得たでしょう」

 影を(まと)ったようなその肉体が、指に相当する部位からボロボロに崩れていく。

 バサッ。身につけていた黒手袋が地面に落ちた。袖も次第に下へ垂れていく。

「残っている酒は先生が飲んでくさだい。せっかくグラスに注いだのに、勿体ないですからね」

「〝……ああ〟」

 バランスを崩したのか、黒服はガクンと膝をついてしまった。前のめりで倒れそうになるところを先生が両手で支える。

 そのままゆっくりと横に寝かせた。

「色彩なき後、世界がどうなるのかは……あなたが見届けてください。ゲマトリア(わたしたち)がついに辿り着けなかった、崇高の、その先を──」

 影がセラミックタイルに消えていった。白い光が霧散し、残されたのは成人男性サイズの黒いスーツだけ。

 音楽は止み、ほのかな光だけが、悪い大人の終幕を照らした。

 そのスーツの埃をはたいてキレイに畳む。テーブルの上に置き、黒手袋を添えた。

「〝黒服。悪いけど、私は君たちの代わりにはならない。真理にさして興味はないから〟」

 結露で水滴の垂れるグラスを取り、傾けた。口の中に流しきると勢いよくカウンターに置く。

 アイスキューブがお互いにぶつかり合い、鋭く小さな金属音が響いた。

 

 

『──させてください』

「……」

『一度失った神秘は、元に戻せますか?』

 この光景を、私は何度思い出さなければいけないのだろう。これが、私が犯した業に対する罰なのか。

 本を守り続けた魔術師。私に物語を教えてくれた人。私に愛を説いてくれた人。

 微笑みかけてくるその美しい顔から、私は目を離せなかった。

 

 そして一言、ただ一言だけ呟く。

 

『おやすみ』

 

 

「──はぁ、はぁっ」

「お目覚めに……今日が何の日か、忘れてはいませんね」

「……ええ、問題ありません。この運命の日のために身体を休ませていたのですから」

 首元に湧いた汗を拭い、私はベッドから起き上がった。

 手足の可動を確認するようにグーパーと動かす。ウイさんが残した破片の痛みはだいぶ和らいだ。

 深碧の装束は、今日という日を着飾るのに相応しい装いだった。

「サンクトゥムタワー屋上に非戦論者と守護者数名を召集してください」

「保護者様は……」

「先に向かう場所がありますので」

 鏡に映る保護者(わたし)の姿。仮面を取り付けると、ヘイローから光が抜けていく。

 ものの数秒で跡形もなく消えた。というより、透明になったと表現がより適している。

 物憂げな仮面に反して、其の心は波一つ立っていなかった。

 不完全な個であれば死を前にして、覚悟という儀式を必要とする。保護者(わたし)には不要なものである。死への恐怖など、あるはずもない。

 

 頬を撫でるような柔らかい風に吹かれる。草原は灰々しく視界を彩り、風車がポツンと小さく見えた。

「アリス、いますか」

 コンコンと優しくノックしてからノブに手を伸ばすと、それよりも早くに扉が元気よく開かれる。

「シロ! 来てくれたんですね!」

「はい、来ましたよ。アリスが元気そうでよかったです」

 はつらつな声で勇者は私を出迎えた。満面の笑みから放たれるその光に思わず目を細める。

 勇者は私の手を引いて、椅子まで案内してくれた。

「おっほん……旅人の宿にようこそ。一晩五十ゴールドですが、お泊まりになりますか?」

「思ったより終盤なんですね」

「ですがなんと、シロは特別に無料で泊まることができます! 主人公待遇でタダ宿を味わうのも、RPGの醍醐味です!」

「ふふっ、たしかに」

 私の手をギュッと握り、勇者は明るく振る舞う。その手を平気な顔で握り返すことはできなかった。

 不思議だった。アリスのためを思うのなら、そうするべきだというのに。

「シロ、あまり元気がないように見えます。ちゃんと睡眠は取れていますか?」

「安心してください。むしろ──取りすぎなくらいですので」

「フフッ、相変わらず寝ぼすけなんですね!」

 鈍色の長髪が窓から射す光に当てられて玲瓏(れいろう)としていた。その灰がかった宝石の中に、あるはずだった青はない。

 青空は灰空に、青髪は灰髪に。

 この少女の髪がどれほど美しいものだったのか。それを知るのは私とケイの二人だけ。

 あの従者を、私はアリスの中に再び入れて眠らせていた。

「……アリス」

「どうしましたか?」

 アリスの額に手を当て、()()()()()()()()()

「──どういう風の吹き回しですか」

「アリスのことを頼みたかっただけですよ」

 赤く染まった瞳が私を睨みつけた。けれど、そんな態度を取られる道理はない。

 すべては交渉の末に決まったこと。アリスを解体しない代わりに記憶を凍結、そしてケイを停止させた。

「貴方もその待遇で納得したはずですが」

「納得するわけないでしょう。ただ、王女……アリスを守るためにはこれしかなかった。それだけです」

 私としては最初からアリスを破壊するつもりなどなかったが、こちらのほうが好都合だった。

「色彩が墜ちるとき、その代償として私は潰えます。くれぐれも私なき保護府に反抗しようなどとは考えないでくださいね。今でもアリスが可愛いのなら」

「……その身体でお喋りをする余裕があるんですか。さっさと行ったらどうです」

 手を見ると、いくつも穴が空いていた。ポタポタと水が垂れて地面に小さな水溜まりを形成する。

 ぶらぶらと揺れる薬指がポチャンと落ち、水に溶けた。

「お気遣いありがとうございます」

 

 

 身を切るような風が容赦なく吹き荒ぶ。

 キヴォトスの全貌を眺めるなら、ここ以上の天望はないだろう。豆粒程度に見える数十階建てのビル群。雲によって先端が掠れているピラミッドたち。

 屋上には早くも要人が揃っていた。

「PTA、総勢八名。守護者、十二名。固定者、一体……」

「揃っているようですね。ありがとうございます」

 私はのっぺらぼうな顔を取り付けた教授へと歩み寄る。

()()()()()()()()()()()()()

 真ん中に設置された箱に近づいていく。その透明な直方体の中、固定者は安らかに眠っている。

 彼女と私の間に挟まる強化ガラス板をそっと撫でると、瞼をゆっくりと開いてこちらを見てきた。

 流動体に満ちた空間で、この狼耳の少女には指先の自由さえなかった。

「もう一人の砂狼シロコさん。貴方には色彩の引き寄せに協力してもらいます」

 生徒が色彩に触れる可能性──その一つから生まれた、恐怖(terror)へと身を落とした少女。死の神、アヌビス。

 

 日の光が弱まってきている。時間がすぐそこまで差し迫っていた。悠長にはしていられない。

「シッテムの箱──()()()()()()()()()()()

 教授は一歩前に出て、言葉を紡ぐ。

 

 ……我々は拒む、七つの嘆きを。

 ……我々は忘れていく、ジェリコの古則を。

 

 聖櫃(せいひつ)が目覚めると同時にタワーが光を発し始めた。漏れ出す灰白い光が周囲を照らす。

「サンクトゥム──()()

 私の声を合図に、真上にあった塔がバラバラに崩れていく。塔だったモノは重力に従うことなくその場に留まっていた。

 崩壊。そして再構築。

 またパーツの一つ一つが繋ぎ合わさっていく。何重にも円環を形作り、その動作を終える。

 サンクトゥムタワーは砲塔とも形容できるような代物へと変質した。その砲身から覗かせる空に、重なりつつある月と太陽が見える。

「名もなき神よ、その残滓よ──()()()()

 灰空が軋み、その輪郭と意義は融けていく。(ひず)みによって生じたヒビ割れ、その隙間から極光(オーロラ)が溢れ出した。

 風はその勢いが弱まる気配もなかった。髪とドレスの裾がされるがままになびく。

「私に平伏する神々よ──乳と蜜の流れる地(サンクトゥム)へと集え」

 すっかり暗くなった空に対して、タワーは煌々とその光彩を増す。

「うぶっ……」

 咄嗟に口を塞いだ手にはべったりと水がついていた。次から次へと、全身から透明な液体が漏れる。ボタボタと地面に垂れて広がっていく。

 鼻腔。耳介。結膜。関節。脳。

 肉体強度にも限度はある。超回復を何重にも掛けようと、神秘の負荷に耐えられず自壊していく。

 この状態では十分と保たないだろう。なら、その前に片をつける。

 

 月と太陽が寸分違わず重なった。

 真珠色の光芒がベールのように黒い太陽を包む。

「色彩よ──その姿を現せ」

 刹那、風は消えた。止んだのではなく、消えた。

 空気分子の一つ一つが、まるで展足板に針で留められた昆虫みたいに静止した。

 真珠は次第に紫へと侵されていく。空は更なる暗黒へと叩き落とされていく。

 それはまさしく滅びそのもの。狂気の擬人化。不吉なる光。

「神秘、()()

 周囲に飛び散っていた液体が光に分解される。その光は一点に集まって、一つの形を成した。

 旧時代に打ち捨てた銃、その概念の具現化。銃が有するテクスト、象徴(シンボル)暗喩(メタファー)に実存を与えたもの。

 そしてこれが最後の一押し。奇跡を生む最後の欠片(ピース)

「教授よ──()()()()()()()()()()()()

 白き仮面が近寄って私の背後に立つ。そしてカードをかざした。

 

[大人のカードを砕く]

 

 代償として彼の魂は滅びる。糸の切れた人形が、力もなく地面に倒れ伏せた。

 銃はその身を倍に大きくする。帯びた熱が私の朽ちかけた肉体を焼く。

 あとは引き金を引くだけだった。このたった一動作で、世界は変わる。変わらなければならない。

 

 名もなき神。

 忘れられた神々。

 先生。そして、保護者(わたし)

 全てを贄に捧げる。

 破滅は消え、平和が訪れる。

 誰も苦しまない。

 誰も悲しまない。

 そんな素敵なキヴォトスを──

 

 

「……ああ、やだな」

 保護者(わたし)は確かに引き金を引こうとした。覚悟などなくても、まるで息を吸って吐くかのように引けたはずだった。

 私は指を動かす代わりに、言葉を漏らしていた。

 今にして思えば、それは積み重ねだった。ウイさん、勇者アリス、エックハルト。

 私という個。捨てたはずの個が、蘇ってしまったのだ。

 けれど、それはたった数秒の隙を生んだに過ぎない。色彩が保護者(わたし)に触れるところまで到達するのにはまだ時間を要する。

 ワンテンポ遅れただけ。それだけだった。

 

「なんだ、やっぱり子どもじゃないか」

 その隙が致命的な結果を生んだ。老成した声に振り返ると、私の視界は真っ白に塗りつぶされた。

「──んっ」

 そして一拍も置かずに私は。

 私は、口を奪われていた。

 その瞬間、私の力が抜けていく。数多ある神秘が失われていくのを感じた。

 なにが起きたのか、色彩はどうなったのか、なぜエックが生きているのか。思考は追いつかない。

 パリンッ。ガラスの割れる音がした。こぼれた流動体が私の方向にも流れ、ドレスが濡れて重くなる。

「……先生?」

 非戦論者たちの悲鳴と守護者たちの怒声、その中から二人の会話がうっすらと聞こえた。

 立ち上がれない。全身から、神秘が薄れていくのが分かる。

 身体はとうに限界を迎えていた。摩耗した精神も、使い物にはならなかった。

「──私の負け、ですね」

 保護者(わたし)はゆっくりと目を閉じる。

 敗れ去った不可能性を、胸に抱きながら。

 

 

 ──私は立ち上がる。そこはあまりにも真っ白な部屋。タイルの隙間から漏れる蛍光灯が眩しい。どこまでも奥行きが続いているように見えるし、たった一歩で端から端を制覇できるようにも思える。

〝……エックハルトさん〟

「思えば、最後までロクに会話ができなかったな」

 背丈は、ちょうど私と同じ。黒髪と、髭を綺麗に剃った顎。丸い輪郭がより幼く見せている。絵に描いたような好青年といった感じだった。

「私という内物が混じったことで、キミは操られるようになってしまった。だから、私は私を排除する方法を探った」

 先生は黙ったまま私の声に耳を傾ける。

「彼らは私に〈神との合一〉を施し、魂の融合を促した。だから、それを利用させてもらったわけだ」

〝神の有から脱して、神と合一した自己さえも捨てた……〟

 そもそも、この対話に意味はなかった。私と彼は合一によって意識や思考を共有していたわけだから。

 しかし、私の口は止まらない。

 正しく言えば、私が消えた後の残滓の口は、壊れた機械のように口を動かさずにはいられなかった。

「究極の無になったことで、内物は失われた。これで保護者から解かれる」

〝でも……私たちはカードを砕いた。その代償は〟

「私が引き受けた。じきにこの残留思念も召されるだろう」

 私は〈神との合一〉の中で先生の記憶を覗いた。そこで見たケイという少女の献身から着想を得たのだ。

〝消える前に、気になることが一つ。どうしてその……シロの唇を?〟

「キスか──正直なところ、大した理由はない。単なる好奇心だ」

 カヤにされた接吻。あのとき私は身体の主導権を持たなかったので、まるで俯瞰した目線でその光景を見ていた。

 私は接吻というものをしたことがなかった。もし固定者相手にすることを想像したら、なかなか身の毛立つ。

 しかし、固定者としたことがないのにうそぶくのも癪だ。好き嫌いは見てから決める、とウイに言ってしまったことも要因だった。

〝それで、どうでしたか〟

「うん。そう悪いものでもなかったよ。こんなことなら、青空もぜひ拝んでみたかったな」

 お互いの口唇が触れあう感覚。考えていたよりも呆気ないものだったが、あの保護者には似つかわしくない赤面を見ることができただけでも十分だろう。

「他に心残りがあるとすれば、あの子たちにちゃんと先生をしてあげられなかった──」

〝いいえ。あなたは先生でしたよ。最後まで責任を掴んで離そうとはしなかった。私よりもできた先生です〟

「……そうか」

〝あなたが本当に心残りだと思うべきは、無事に帰ってクジラを一緒に見に行ってあげられないことです〟

 最後の最後に痛い所を突かれてしまったな。

 

 指先が次第に崩れ、霧散していく。いよいよお終いだ。

〝また会えますか〟

「そうだな……壁の目はブラフだ。ゲマトリアは一度も『床から繋げることはできない』なんて言っていない。少々楽観的だが、彼らは生きているだろう」

〝つまり、あなたが彼らに拾われることがあれば……ということ?〟

「ああ。ゲマトリアなら()()()()()となった私を見つけてくれるかもしれない」 

 そんな奇跡、あるわけがない。分かっている。

 しかし、思考するだけなら人の勝手。ビッグ・ブラザーにだって止められはしない。私という思考が、私という真実を再び形作る。いつかその真実はこの世界に根付くことだろう。

 私はまた赤色の衣服を身に纏い、壇上に立つのだ。

 そして胸を張ってこう答えてやろうじゃないか。

 

 そう、思考から真実は生まれる。




 白い光が焼き付いたあの光景を最後に、保護者(わたし)の意識は途切れた。
 それから長い年月──あるいは一刻。白い空間を彷徨っていた気がする。どうにもはっきりとは思い出せない。
 そこは楽園(エデン)だったのかもしれないし、辺獄(リンボ)だったのかもしれない。
 私はいつも同じルートを散歩していた。なぜそうしていたのかも思い出せない。思い出す必要もないと感じている。
 その日、代わり映えすることのない白い道に、一つの亀裂が生じた。その亀裂は人ひとり入れる程度の大きさで、今にも塞がれて消えそうだった。
 導かれるように、私はその亀裂へと手を伸ばす。肘まで入れたところで私はその暗闇に吸い込まれた。あっと言う間の出来事だった。

 そして、私は目を開ける。
「──ここは」
 早々に出迎えてくれたのは縞状の白い天井にカーテンレール。ぼんやりした頭でも、自らの置かれた状況がすぐに分かる組み合わせだった。
 身体を起こしてみようにも、あまり力が入らない。後遺症だろうか。それも当然、むしろ生きているのが不思議なほどなのだから。
 呼吸を整える。いつも通りに、私は()()()()()()()()
「……あれ」
 なら、()()()()()()()()
「……?」
 私のものであろう身体は、うんともすんとも答えなかった。
 困った。神秘が発動しないと、ここから抜け出す術もない。
 身体を動かせるようになるまで、狸寝入りをして誤魔化すのが最善か。
「気がつきました?」
 シャーッ。レールに沿ってカーテンが開いていく。
「……」
「そうきますか、なら……」コショコショ。
「んっ!」
 抵抗むなしく心恥ずかしい声を出したところで、私の完璧な寝たふりは看破されてしまった。
 観念して瞼を開ける。すかさず入ってくる無菌室の光、そこに糸目の少女がいた。
「……カヤさん」
「さん付けは、いりませんよ。シロさん」
「どうしてここに」
「仕事の合間の、必要な休憩です。サボりじゃありませんからね」
「サボりと宣言しているようなものでは?」
 重苦しい空気が沈殿して、顔すれすれまでせり上がったかのように息が詰まる。
 花瓶の横に置かれた水飲み鳥が二回ほど頭を上げたところでカヤは口を再び動かした。
「その様子だと、やはり保護者(あなた)の神秘は使えなくなってしまったみたいですねぇ……」
「予期していましたか」
「容態を知っていれば、誰だってそう思いますよ──」

 あの日、あなたは神秘の負荷に耐えきれず気絶しました。
 そこで限界がきたのでしょう。あなたの身体はほんの少しずつ──着実に、崩れていった。
 ヒナタさんが見たウイさんの〝あれ〟とよく似た状態だったと聞いています。想像するだけで鳥肌立つおぞましい惨状ですよ。幸運にも私は両方の現場に居合わせませんでしたが。
 そのまま放置していれば、あなたは死んでいたでしょうね。そこは慈悲深き()()。生かす選択を取りました。
 健康診断で行われた身体(ボディ)交換、精神移植。それを施すことであなたは死を免れることができたわけです。

「──手術はできるだけ早くに処置されました。ですが……」
「生き長らえることと引き換えに神秘を失ったわけですね」
 本来なら、神秘を失ったことを嘆くべきだった。もう破滅を取り除く手段は潰え、世界は存亡に怯える日々のまま。
 けれど、どうしてだか私はホッと息をついた。安心してしまった。まるで憑き物が落ちたように。
「ところで、私は何年ほど眠っていたのでしょうか」
「ざっと一年ですね」
 私が覚悟していたよりもずっと早く、私は目覚めることができたようだった。
 保護歴で計算すると、保護歴一二六年か。もし桜があれば花弁は散る頃合いだろう。
「あなたが眠っていた間、なにがあったか。知りたげですね」
「ええ、ぜひ知りたいところです」
「いいですよ。長くなるので腰を休ませながらにしましょうか」
 カヤは近くの椅子を寄せ、淡々と、それでいて聞き取りやすい抑揚で語り始める──



 たった一撃の閃光を浴びせ、輪っかちゃんは力尽きたように煙を吐く。職人(マイスター)の技術の粋が生み出した傑作が保護者の喉元に届いたのだ。
 頭から丁寧に外して傷のつかないよう地面にそっと置いた。
 大小の散らばったガラスの破片が靴底に食い込んだ。先生は少女の身体をそっと支える。
 取り外された吸入マスクが地面にぶつかり、喧騒の最中で鋭くも軽い音を立てた。
「先生、あとは任せた」
 色素の抜けた髪が色を取り戻していく。肌は潤い、筋組織は蘇った。
「……先生?」
〝──ごめん、遅くなってしまったね。シロコ〟
 サンクトゥムを飲み込まんと近づいていた色彩は、そこで止まった。
 シロコの目線が先生の顔から色彩へ移る。すると、其は次第に遠ざかっていく。
 空が明るさを取り戻す。永遠とも思える日食は終わりを迎えた。
「そいつらを囲め!」
「緊急要請、緊急要請だ。直ちにサンクトゥムタワーへ──」
「保護者様も濡れている……巻き込んじゃいけない、護杖(ごじょう)はオフのまま使うんだ!」
 二人を囲むように守護者たちは立ち塞がる。放電しないおかげで脅威に欠ける杖も、四方から袋叩きにされては一溜まりもない。
〝動ける?〟
「ん。この程度なら、ウォーミングアップに丁度いい」
 シロコは〝空〟の中に手を伸ばす。その手が掴んだものは、数少ない漂白化を逃れた銃、ブラックファング。
 二十余年も主を待ち続けた銃身は錆びつくことなく掌に帰ってきた。歳月を感じさせない動作で、シロコは構えて迎撃の姿勢を取る。
「て、鉄筒か?」
「一体どこから……」
「狼狽えるな! 腕を狙え!」
 シロコが引き金に指を掛ける。そのとき、轟音を携えて風を巻き上げる無数の影が上空に生まれた。
〝──ヒナタ!〟
〈サンクトゥムタワーはシャーレが掌握した。流動者は速やかに投降せよ。繰り返す、サンクトゥムタワーは固定者組織であるシャーレが掌握した。流動者は速やかに……〉
 ドローンから放たれるアナウンス。守護者たちが絶望するには十分だったが、彼らは杖を離さずより一層に握りしめる。
「こ、こうなったらお前らだけでも──」
「やめなさい!」
 甲高い声がその場に居る全員の動きを止めた。
 守護者の間を通って両者の前に立つと、ロボットは怒りに震えた仮面を外す。
「勝敗は決しました。無益な血を流すことは、執行人であるこの私が禁じます」
 守護者はお互いに顔を見合わせ、杖を手放した。地面に落ちたそれを見てシロコもゆっくりと銃口を下げる。
〝ありがとう、デカルト〟
「エック……いえ、先生。保護者が倒れた以上はこちらの敗北です。PTAはシャーレに投降します」
 後ろに立っていた他の非戦論者たちも黙したまま、仮面を外していく。
 カラン、カラン。地面に触れて軽快な音を鳴らす。アランチーノやカイザー、シェパードにバーミーズ。保護府のトップに相応しい面子だ。

 屋上の扉を蹴飛ばして突入した小隊が、一人一人に手錠をかける。
 指揮を執っていた片目隠れの少女は一息ついた様子で先生のもとに駆け寄った。
「エックさんご無事でっ──あなたは」
〝えっと、私は先生なんだけどエックじゃなくて……話せば長くなっちゃうな〟
 先生は参った様子で後頭部をかく。シワ一つない童顔に、白髪(しらが)の一本もない黒髪。
 少女の右目には、エックが若返ったかのように映っていた。
「……わかりました。それで、保護者はどうなりましたか?」
〝気絶しているよ〟
 そのまま目線をヒナタから保護者へ移動させる。世界を制した魔王も、いばら姫になればただの少女だ。
 ふと、彼女の手元に転がっていた〝銃〟が目に留まった。ヒナタはそっと指先で触れようとする。
 ジュッ。
「ぅぐっ──」
〝ヒナタ!〟
「へ、平気ですっ……それよりも、この銃」
 タワーが光を失っても、その銃身は色褪せるどころか更に強く脈打っていた。
 少女たちの知らない世界、忘れ去られた時代。いつか見た学園都市の象徴。
「……先生の、声」
 耳鳴りの中でかすかに聞こえる。銃に触れたことで、その音はより鮮明となった。
 導かれるように、ヒナタの右手はそのグリップを握る。
 ジュゥゥゥゥッ。
〝ダメだ、手を離して〟
「──きっと、保護者は慈悲深い方だったのでしょう」
 重さはない。ジュグジュグと焼ける皮膚を意に介さず、その銃口を灰空に向けた。
「彼女がいなければ、この世界はとっくに滅んでいたのかもしれません」
 白銀色の少女はただ地に伏して安らかに眠っていた。
 灰が天地を覆う世界。保護者が歪め、定めた平和。
「今はただ、その献身に心からの感謝を」
 少女は祈る。経典を知らずとも、(しゅ)を知らずとも。
 呼応するようにサンクトゥムは輝きを取り戻す。
「そして、これからは──私たち自身で」
 どれほどの熱が修道女を襲おうと、その手が緩むことはない。震えを押さえるようにもう一方の手を添える。
「私たちの手で描いてみせます」
 人差し指が引き金を抱く。その動きはどことなくぎこちないが、迷いはなかった。
「誰もが笑顔でいられる、そんな素敵な世界を──」


  「──青春の理想郷(Blue Utopia)を!」


 少女の願いは放たれる。
 名もなき神、忘れられた神々。その全てが集約されたもの。優しくて温かな光。
 弾丸は光芒を描いて空に到達した。
 ミシリッ。
 裂け目が裂け目を生み、瞬く間に全体へと広がっていく。
〝空が……違う。これは私たち自身だ〟
 視界がボロボロと崩れていく。灰の法則が根底から覆される。
〝そうだ。空は、はじめから──青色だったんだ〟
 灰色のベールが人々の網膜から剥がれ落ちた。

 陽光は彼らをこれ見よがしに照らしている。雲は不規則に頭上を漂っていた。
 少女が鮮やかな青のドレスをなびかせ、静かに呟く。
「先生が仰っていた通りでした。とても……綺麗な、空」

 空はいつも通りの、どこまでも透き通った青空だった。



 サンクトゥムタワー会議室。
 十二生徒。PTA。固定者と流動者、それぞれのトップがここに集っていた。
 この静寂の中では、カチカチと鳴る秒針の音も通りがいい。
「キキキッ、ずいぶんとお行儀がいいじゃないか。せっかく相反する組織同士が未来を案じて協議し合っているのだから、もう少し建設的に発言してもいいと思うが」
「マコトさん、あなたはすでに十二生徒ではありません。外野からの発言は控えてください」
「それより、どうして部外者がここにいるんだ」
「イブキが心配だったからな!」
「……そうか」
 細身のカイザーはもう頭を抱えることはしない。この会議が始まってからずっとこの調子だからだ。
「しかし、これは重要な決定です。慎重に協議すべきでしょう。現行の社会システムを刷新するのかどうか、刷新するとして、どうやって秩序を保つのか。ただ世界を混沌に突き落とすのなら保護府も学生連邦も必要ありません」
 一人の非戦論者が落ち着いた調子で話す。実際、彼女が言うようにここでの決定がキヴォトスの未来を決めることになるだろう。
 ゲヘナ代表は座り直して姿勢を正し、彼女に続くように牽制の意がこもった言葉を投げた。
「技師さん、PTAが保守的になるのは理解できます。でも、システム刷新は確定事項──現状維持など、到底飲み込むつもりはありません。私たち固定者、もとい生徒からの要求は地下居住区からの解放です。これだけは譲れませんから」
「……そうですね。勝者はあなたたちで、敗者は私たちです。生徒の要求を飲まない、なんて選択は許されません。絶滅戦争という凶行に走らず、こうやって交渉のテーブルを用意していただけただけでもありがたいものです」
 地下解放によるメリットは保護府側にもあった。地下全体を支える供給システムが削減できれば、枯渇気味だったエネルギーの問題も向こう百年まで先送りにできる。
 しかし、そのメリットが霞むほどの懸念材料も、そう無視できるようなものではなかった。
「固定者と流動者、両者間の深い溝。これが一番の問題ね」
 憎悪と差別。それが地上と地下を分け隔てていた。同時に、社会秩序を維持する重要な歯車でもある。
 人々の固定観念に根深く張ったそれは一朝一夕で除去できない。犠牲なしに、取り除けはしない。
「──保護者が固定者であることを発表するというのは、どうだろう」
 獣人が発したその一言は、その場にいる者すべてを凍り付かせる。正気を疑うような発言をした彼の目はしっかりと焦点が合っていた。
「司祭。それがどういう結果をもたらすのか、君が一番よく分かっているはずだが……」
「保護府の権威は失墜し、形ある平和は崩れるだろう……もちろん承知の上だ。しかし思い出してほしい。我々、非戦論者は保護者が固定者であると知ったうえで付き従っていた。この十数年、信仰が腐ることはあっただろうか」
 人々の宗教的観念を管理していた司祭は力強く訴える。誰よりも間近に信仰を見ていたからこそ、彼はそれが有する絶大な力を知っていた。
「ふむ。そちらが決して少なくない代償を払うのであれば、こちらも覚悟を決めるべきでしょうねぇ……どうします、ナギサ補佐?」
 放火容疑から免れたシャーレ代理の視線がチクチクと刺さる。ナギサは唾を飲み込んで、学連としての答えを出した。
「では、私たちも公表しましょう。先生は流動者だったと」

 こうして、地上と地下に蔓延っていた二つの神話は崩壊した。上っ面の信仰が破れ、売れ残ったのは「憎悪する人種を崇拝していた」という事実だ。
 しかし意外にも秩序が瓦解することはなかった。保護者と先生に対するイメージダウンよりも、その人種に対するイメージアップのほうが大きかった。
 とくに地下では、驚きの声が聞こえたものの皆すんなりと受け入れていた。
 先生に対する反感がゼロだったわけではない。ただ、先生が早々に権力を手放したことで溜飲を下げられたのだ。
 地上も一応の体裁は保てているが、みるみる治安が悪化していった。〈神の癌〉の正体、そして〈データベース〉による情報統制を明かしたことによる反動は小さくなかった。
 保護府の失墜を見計らったカイザー族の起業、黒亀組を名乗るギャング連合──これら反体制派組織との紛争は未だ終わりの兆しが見えてこない。
 そして肝心の流動者と固定者の融和は、想定以上に上手く進んだ。
 地下居住区を放棄し、固定者と流動者間にある格差や制限を取っ払う。同化計画、改め融和計画。
 住居の問題は真っ先に解決された。なぜか地上には()()()()()()()()()()()()()住まいがあり、空き部屋が余っていたのだ。
 ──賭けに負けた場合に備えておいてよかったですね──
 それでも学連に従うお利口ばかりではない。ヘルメット団やそれに追随する不良集団は地下生活、路上生活を続けていた。それに伴う治安悪化も早急に解決するべき問題として今なお取り組まれている。
 そして次に差別問題。これもまた完全にとは言えないが、未来は明るい。
 とある獣人種流動者、そして固定者の姉妹。保護府とも学連とも無関係の彼らが融和運動を先導したことで、民衆も次第に肯定的となっていった。
 最近の会議で「その獣人と姉妹の像を立てるかどうか」の議題が上がるほどだった。こればかりは浮かれすぎだとして却下されてしまっているが。



 カヤがカーテンを開け、窓の外を見せてくれた。
 晴れた青い空に花びらの舞う桜並木。鳥が窓辺で羽を休めている。
 空を見上げると雲の向こうに巨大なヘイローが佇んでいた。ピラミッドも健在の様子。
「──保護者(わたし)がいたときよりも鮮やかで、美しいですね」
「ええ。この世界は変わりつつありますよ。ですが、あなたのしてきたこと全てが無駄だったとは思いません。肉体生産の研究は継続されていますし……私たちはそこに、選択を用意したのです」
「身体を交換するかどうか、自ら選ぶと?」
「自分の手で選択するのが大切なんです。保護者の理想郷に足りなかったのは、そういうところでしたね」
 水飲み鳥のコップが底を尽きる。カヤはそっとクチバシをどかして水を汲みに行こうとした。
「それで、私はどうすれば」
 その声に震えはなかった。落ち着いたトーンで、威厳のあるものだった。けれど余りの情けなさにカヤは足を止める。
「保護府の地位向上があれば、いくらかの問題は解決しますね。そうでなくとも保護者は流動者にとっての精神的支柱。たとえ神秘による奇跡がなくなろうと、あなたが復帰していただければこちらとしても大助かりですよ」
 カヤは指を指す。その方向には、アイロンがけでシワ一つなく綺麗な緑の服。そして仮面があった。
「……わかりました」
「まず、決心を固める前に一つだけ」
 カヤはコップを置いて私と目を合わせた。潰れた四角の瞳孔が、私の本心を覗くように捉える。
「先生からの伝言を一つ──」

『自分のなりたい存在は、自分で決めていい』
『保護者としての責を負うのも──シロとして、新たな生を歩むのも』
『誰かの望みではなく、自分の意思で選んでほしい』

 その言葉で、私はようやく自分が分岐点にいることを知った。
 保護者として生きるか、シロとして生きるか。
「……エック」
 正真正銘、教授の言葉だった。百合園セイアから借りた〝直感〟が働かなくても、私には分かる。
 あの口づけの感覚がふと甦った。
「キヴォトスに望まれて生まれた私から、望みを奪って、どう生きろと……」
「私個人の意見も一つ。もし保護者として生きることを選ぶのなら、そのキヴォトスのなんとやらを言い訳にしないでください」
 言い終えて立ち去ろうとするカヤの裾を掴む。それまで動く気配もなかったのに、なぜだか自然と手が伸びた。
「ウイさんは……」
「ヒナタさんのところで元気にしていますよ。もちろん記憶処理はしていないので、あなたに会いたがっています。気まずいでしょうが、顔を見せに行ってくださいね」
「アリスは、どうしていますか」
「……地下居住区を使わなくなった今、名もなき神のエネルギーを利用する必要はありません。ですが、自由の身になっても、まだあの箱庭で待っていますよ」
 タンッ。スライド式のドアが緩衝材と接触して柔らかい音を出す。
 病室はとても静かになった。私の呼吸だけが水面に浮かび上がって、かすかに波紋を生む。


 数日して、私は病室を離れた。
 部屋には畳まれた服と仮面が今も残されている。







ブルアカ×ディストピアはこれで以上となります。
最後の最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
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