白を基調とした建物の外壁が、次第に薄汚れた灰色にまみれていく。そんな様子をエックハルトは想像していたが、実際にはそうではなかった。路地裏でさえ秩序的な配色は崩れず、昨晩に洗って今朝に乾いたばかりのタオルのような清潔さを保っていた。もっとも、この
「着いた」
不意を突かれたエックは困惑した。〝着いた〟と言うには、それらしきランドマークが見当たらなかったからだ。シロコは白い海に浮かぶ灰色の壁を前に足を止めている。
「えっと。それ、ただの壁じゃ」
「ん、ここを回すと開く」ガチャリ。
取っ手らしきものをひねると、外壁の一部が音を軋ませながら重々しく動いた。エックは口をぽかんと開けたまま、唖然といった様子で眺める。
「壁が、開いた?」
「? これはドア」
「いや、ドアって言うのは……こんな手間のかかるドアなんてあるのか」
マイスターの発言にシロコは疑問符を浮かべている。膜状で取っ手知らずのドアしか知らなかったエックにとって、ここから先は未知の世界だった。データベースにない過去が大手を振って歩く、忘れられた世界。この扉の先にあるものに対して、そんな期待に彼は胸を膨らませていた。
〝ドア〟が開いた先には、下へと向かう細長い階段が続いていた。暗くて足元は見えづらく、奥底に輝く
ついに光へたどり着き、全身が白に包まれる。網膜が光に慣れてくると、エックは思わず声を上げてしまった。
「広いな」
「こっち。みんなに会いに行こう」
天井から冷たい人工光が注がれた、だだっ広い地下世界。均等に配置された天地を繋ぐ支柱に、地上では見られない旧時代式住宅。そして、住人の頭に浮かぶヘイロー。
周りを見回すと、ヘイロー、ヘイロー、ヘイロー。誰の肌を見ても、鉄製でもなく毛深くもない。エックと同じ柔肌。固定者であることを表す灰色を、誰もが身にまとっている。ヘイローを持たないエックだけがこの空間において異質で、水の中に一滴のインクを垂らしたかのように目立っている。上でも下でも、この孤独感は変わらなかった。
「ここの地名は、上と同じA区?」
「ん、今歩いてる道路がA-β17」
「向かってる場所は」
「A-4-17-52」
「そこがキミの住んでるところ?」
気になることはなんでも聞いてみるのがエックの性分だった。何を食べているのか、服は毎日支給されるのか、移動手段は何があるのか、銃はあるのか。しかし、彼が期待する答えはなかった。
「ない。見たこともない」
──なら、あの夢で銃を持っていたのはなんだったんだ。たしかに、この子が持ってないのは鉄の棒を使ってた時点で分かったこと。固定者の野蛮性からイメージした姿だったのかもしれない。しかし、見たこともないとは。いや、それは私も同じはず。銃なんて見たことがない。なのに、なぜ私はあれを銃だと思ったんだ──
「ならいいんだ。そのほうが平和だからね。地上にはどれぐらいの頻度で出るの?」
「おじさんたちにおつかいを頼まれたとき」
では、あのとき広場に来たのは寄り道だったのかと、エックは得心した。〝おじさんたち〟と言ったのが妙に引っ掛かるが、もし自分と同じ流動者たちのことなら胸糞の悪い話になるだろうと思い、彼は深堀るのをよした。
シロコが立ち止まった。周りの人々が上を見上げていることに気付いたエックも天井を凝視する。
「……あれは」
「定期供給。アヤネに頼まれてたから」
天井がゆっくりと開く。空に穴がくり抜かれたようだった。よく見ると穴は一つだけではなく、地平線の先まで等間隔に何千と開いていた。その穴から地上へ、昇降機が手を伸ばして近づいてくる。その手には、灰色の大きな箱が大事そうに抱えられていた。周りを見渡すと、壁がせり上がって人々を囲っていた。どうやら、定期供給はエリアごとに区切られているらしい。
ガーッ、ガコン。その場にいた全員が黒い箱を固唾を飲んで見守り、異様な静けさが空気中を漂っていた。箱の包装が解けて、食料が見えるや否や一斉に飛びかかる。
「エックも手伝って」
「え、いや私ケガして」
「どけ!」
後ろからの突進に反応する間もなくエックは突き飛ばされた。両足は地面と悲壮な別れを告げ、肉体は宙を舞う。次のまばたき、地面と感動の再会を背中から果たした。保健管理ブザーが悶絶するエックの代わりに悲鳴をあげる。地面にうずくまったまま、彼は動けなくなってしまった。さっきの静寂が嘘みたいに、喧噪が伝播していく。視界がぼやけ、音がだんだん遠くへ走っていった。ブザーの音。殴り合いの音。ブザー。蹴り。ブザー。ブザー。ブザー。
「ねぇアヤネちゃん、これ死んでない? ほんとに生きてるの?」誰かの声。
「まだ温かい。死んだなら新鮮なうちに食べるべき」シロコの声。
「脈があるので死んでないですよ……。シロコ先輩はもう少し反省の色を見せてください」これまた誰かの声。
「ん……」目を開ける。
「あ、起きた!」
頭の中から殴られているような脈打つ痛みで意識がはっきりしてくる。どうやら気絶していて、そのままベッドに担ぎ運ばれたようだと、エックは状況を把握した。目の前にはシロコと、どうやらその仲間であろう二人の固定者がいた。なんとか身体を起こして目線を合わせる。
「えっと、キミたちは、シロコの友だち?」
「まあ、うん。そんなところよ。私はセリカ」
「私の名前はアヤネです。シロコ先輩のせいで大ケガを負わせてしまって、申し訳ありません……。しっかり反省させますので」
「ご、ごめん……。上の人がこんなに弱いとは、思ってなくて」
「言い訳になってませんよ」
「ん……」アヤネという子が強いのは分かった。
何時間ほど気を失っていたのか判断がつかない。衝撃で
エックは自分で血の気が引いていくのを実感した。ノコノコと地上へ出れば、確実に守護者がお迎えにあがってくれるだろう。彼が義務就寝時間になっても自宅のドアを通過していないことは間違いなくバレているからだ。いや、重要なのはそこではない。
そう、致命的な問題は
となれば、彼の結末は二通り。地下で野蛮人と仲良しこよしで行方知らずになるか、バカ正直に地上へ上がって蒸発か。
室内のはずなのに身体が風に揺られてグラグラする。吐き気までこみ上げてきた。原因が痛みのせいなのか絶望的な状況のせいなのか、彼にはまるで判断がつかなかった。
「顔色が悪いですね。水でも飲みますか?」
「あ、ああ。いただくよ」
ごくっ、ごくっ。コップに注がれた水を口へ流し込む。生ぬるい水が喉を通っていくのが分かる。毎日決まった時間に摂取する携帯補水液とはまったく違う。味が一段階、二段階ほど下回っている。それでも、この水がとても美味しいようにエックは感じた。唇から垂れた雫を手で拭くと、血の気が少し戻ったことに気づく。
「地上には帰れそうにないから、しばらくここに居候してもいいかな」
「ご迷惑をおかけしてしまった分です、好きなだけ居て構いませんよ」
アヤネの言葉にセリカが怪訝な顔を見せた。
「ちょっと、どういうつもり? 人一人を養えるほどの余裕だって私らにはないでしょ。しかも、よりにもよって上のヤツなんて!」
「ん、連れてきたのは私。なんとかする」
「でも、ここまで良くする義理なんて……ああ、もうっ。知らないからね、二人で勝手にすれば」
そう吐き捨てると、乱暴にドアを開いてそのまま部屋を出ていってしまった。呆気にとられたエックを見て二人が慌ててフォローをする。つんけんしてるけど心優しい子なんだとか、ああは言ってたけど実はけっこう心配してたとか、色々と聞かされた。
話も落ち着いて二人が自室へと戻り、部屋はようやく静寂に包まれる。ずいぶんと目まぐるしい一日であり、エックにとって今までの人生が反転してしまった日でもある。地上に出られないということを踏まえると、固定者よりも固定者をしていると言える。口から変な笑い声がこぼれる。さっきまで顔面蒼白だった人間とは思えないほどに、愉快で仕方なかった。あとは、ヘイローがあれば完璧かな? ひと通り笑ったあと、彼は静かにため息をついた。
──この夢も、前に見たときよりかは嫌悪感も薄れてきた。単なる慣れか、それとも心境の変化か。嫌悪感が薄まるにつれ、どこからか視線を感じるようになった。その感覚の原因を探していくうちに、気がつくと部屋にいた。真ん中に長机が二つ並べられていて、ホワイトボードが……ああ、なるほど。これがホワイトボードか。どの家具も初めて見た型だが、どれも見覚えのあるものだ。シロコに、アヤネに、セリカ。それと、知らない子が三人いる。背の小さいピンク髪の子に、この中だと背の高いクリーム髪の子と、豊満な身体つきの薄い青緑髪の子。五人がワイワイしてる中、青緑の子は私の隣でその光景を眺めていた。その子は口をパクパク動かしているが、なにも聞こえない。彼女をじっと見つめていると、視線に気がついたのか私の方を向く。目が合った瞬間、次第に建物は崩れていく──
不幸中の幸いとでも言おうか、骨は折れていなかったようだった。不幸そのものが許されなくなった現代に、この古臭い言葉を思い浮かべることになるとは。エックハルトはいっそ清々しい気持ちであった。
「ん、入るね」
「どうぞ」
「調子はどう」
「最高だね。生まれ変わったような気分。まったくもって……」言葉を詰まらせる。
「お礼のために連れてきたのに、ごめん」
相手が固定者とはいえ、年下の女性にそんな顔をされてしまってはエックも強くは言えなかった。この見た目のおかげで女性経験もなかったのでなおさらだった。
「謝ることはないよ。この世界を知る機会を得られただけで、教授冥利に尽きるというものさ」
あくまで知識の専門家ではなく思考の専門家ではあるが、言葉少なに角の立たない発言を心掛けた。野蛮人相手ではなにをされるか分かったものではないのと、冷たい目線を浴び続けた者なりの処世術のためである。
「なら、もっと地下を案内するよ。歩ける?」
「肩をお貸し願おうかな」
溢れんばかりの人工光を浴びて、朝が始まった。
正直なところ、この地下世界はエックにとって期待外れの路地裏だった。地上よりもいくらか暴力的で、何世代も前の生活品が現役なだけだった。それ以外はすべて清潔。むしろ自分はなにを求めていたのか、自嘲的な気持ちになるばかり。あの夢の答えが欲しかったのかもしれない。無機質な乾いた風が肌の水分を奪う。
「しっかり掴まって」
エックは自転車と呼ばれるものに乗せてもらっていた。どうやら、シロコのお気に入りの移動手段らしい。移動手段にお気に入りなんてあるものかと、彼には理解しがたい感覚ではあった。古典主義建築とはいわずとも、上では見られない風景は多少の気分転換にもなる。
「待って。隠れないと」
「え?」
急ブレーキをかけ、歩道を突っ切って建物の隙間へと滑り込んだ。状況を飲み込めない搭乗者のなにか言いたげな口をシロコは押さえる。
「上の人に見つかるとまずい、だったよね」こくこくと頷く。
「あれは定期巡回。そこまで多いわけじゃないから、こうやってやり過ごせば大丈夫」
「……行った。もう平気」
大丈夫なわけがあるか、そうエックは怒鳴りたかったが、その言葉を喉元で止める。バクバクと
「私もヘイローが必要かな」
「ん、M区だったら偽造ヘイローを作れる人がいるかも」
「ほんの冗談のつもりだったんだけど……まぁ、行ってみるのもありか」
「アヤネなら車が使えるから、相談してみる」
その後もA区各地のランドマークを二人で見て回った。広場や駅、廃墟となった食堂。そして、A区固定者のコミュニティ。
「自警団、みたいなもの。ここにホシノ先輩がいる」
「ホシノ先輩って子がリーダーって認識でいい?」
「ん、この時間帯はよく寝てるけど」
とくに目立つような目印がないのは不思議だったが、よく考えてみれば固定者による非保護府組織なのだから、目立たないようにするのは当たり前のことだった。挨拶しに行こうとシロコに手を引かれ、私もとくに抵抗せず建物へと入った。カーペット敷きの廊下をぐんぐん進み、突き当たりを右に曲がる。
「あ、シロコちゃんだっ! わ~!」
前方に鉢合わせた青緑髪の子が、エックの前を歩いていたシロコに抱きつく。シロコは前屈みの態勢で動けなくなり、顔が胸に埋もれたまま、なにかモゴモゴと喋っていた。夢に出てきた子に似ているような気がして、エックは顔をじろじろと見つめる。
「えっと、はじめまして……その、なにか顔についてますか?」
「いや、そういうわけでは」
「ユメ先輩、苦しい」バシッバシ。
「あっごめんね! シロコちゃんと久しぶりに会えたから、つい」
「ん……まだ二日しか経ってない」
胸から引き上げられたシロコは顔を左右に揺らす仕草をし、いつもの無表情ともとれる顔に戻る。
「ホシノ先輩に会いに来た。いつもの屋上?」
「そうだと思うよ! 眠たそうだったからあんまり起こしてあげたくないけど」
「じゃあ、待つ?」エックは相づちを打つ。
「部屋で待ってるなら、お菓子用意するね! エレミヤでいい?」
どうやら地下だと〈預言者〉はエレミヤが主流らしい。炭酸の強い刺激的な味わいと強すぎる効力、効果の持続時間が短いことを理由にエックは苦手としていたので、モーセをお願いした。
他の部屋よりも大きいだろうか、真ん中に長机が二つ並べられている、いわゆる会議室のようなものだろう。エックは部屋中を吟味する。壁には張り紙が貼られ、パトロールの当番が書かれていた。この時間帯はノノミという子が担当しているらしい。肝心のホワイトボードはどこにもなかった。一時間半ぐらいは待ってみようとのことなので、二人は他愛のない話をしていた。途中でユメも入ってくると会話はさらに弾み、彼にとってもそう悪くないひと時を過ごした。シロコを助けたくだりで泣くほど感謝されたときは、さすがに顔を引きつらせてしまったが。
ホシノという子について知りたかったので、エックは会ったときに上手く立ち回るために、情報を得ようと話を振る。二人をよそにシロコはエレミヤを頬張りすぎてボケーっとしていた。
「ホシノちゃんは、すっごく頑張り屋さんなんです。私が、
先輩、後輩という考え方も旧時代的で
お菓子を盛りつけた皿が寂しくなったころ、ドアがギシと音を立てて小柄な少女が入ってきた。エレミヤの効果が切れたシロコが顔を上げる。
「ん、ホシノ先輩。ようやく起きた」
「うへ、久しぶりだねシロコ。アヤネとセリカは元気かな?」
「相変わらず。今日は新人を紹介しにきた」
ピンク髪の子。夢との相違点は長髪でないことと、シャキッとした立ち姿か、そんなことをエックは目を合わせながら考えていた。ホシノはゆっくりと間合いを詰める。
「ホシノちゃん、この人はね~」音もなくエックの喉元にナイフを突き立てる。
「あなた、上の人だね。なにが目的?」
「あっえっ、ホシノちゃん?」
「ユメ先輩は黙っててください」
「聞いてホシノちゃん。多分、なにか誤解が……」
「黙っててください」ホシノの圧。
「ひぃん……」
左手で首根っこを押さえ、もう片方の手にはナイフが握られている。どのタイミングでそれを取り出したのか、刹那のあまり、エックは寸前に差し迫ってからようやくその殺気に気付いた。首に冷たい鉄の刃が当たる。彼女がもう少し力を加えれば、服が鮮血で汚れてしまうだろう。恐怖で身体がこわばる。エックは自分の立場を弁え、素直に質問を聞くことにした。
「地下にしばらくいることになったから、挨拶のために来たんだ」
「聞きたいのはそこじゃない。なぜ、あなたはシロコを助けた?」
「ん、それは」
「シロコは黙ってて」
「……助けたいから助けた。それだけだよ」
「そんな戯言を、信じると思うか」
ホシノの手に力が入る。少しでも気に障るような発言をすれば、終わりだ。手の汗が止まらない。
「昨晩、ヘイローのない幽霊がシロコと一緒にいたって話が出回ってた。気になって黒服から情報を聞き出したけど、まさか私たちと同じ姿をした流動者がいるなんてね」
「その通り。私はそのヘイローのない幽霊、というわけだね」
「勝手に喋るな。楽しくお話をしようなんて気は更々ない。あなたの目的は、私たちのような非合法の自治組織を探し出して守護者に報告すること、そうでしょ。そうじゃないなら、好き好んで自分が軽蔑している固定者を助けるわけがない。それに、あなたは私たちに似てるから、警戒されづらいよね」
──似てる、私が、野人と? ふざけたことを!──
「はっ! それこそ、誰が好き好んで
「そうか、もういい」死。エックは目をつむる。
「ダメ! ホシノちゃん!」
すんでのところでユメが止めに入った。シロコが止めようとするよりも速く、ホシノの手を掴んだ。ホシノは目線を逸らさずにエックを真っ直ぐ睨みつける。
「
「ホシノちゃん。たしかに、エックハルトさんは私たちのことをよくは思ってないかもしれない。でも、シロコちゃんを助けてくれたのは事実だよ? 今まで、身を挺して守ってくれた人はいなかったでしょ。ねぇ、根深くて簡単には断ち切れない嫌悪よりも善意が勝ったって、なんだか奇跡みたいだと思うんだっ! だから、私はこの奇跡を、エックハルトさんを信じたいの」
「……分かりましたよ。じゃあ私も、その奇跡とやらに賭けてみます」
エックの首はようやく自由を取り戻した。ぜぇはぁと乱れた息を整え、額の汗を拭う。生きた心地がしない。こんな所にいては命がいくつあっても足りない。違う。二束三文にさえならない嘆きよりも優先すべき生存思考に切り替える。首をさすりながら、彼は本題を語る。
「私の名は、マイスター・エックハルト。エックでいいよ。シロコを助けた後に地下へ来たけど、保護義務法をいくつか破ってしまった。地上へ出れば確実に捕まる。固定者のことを知りすぎたことで消される可能性もある。だから地下で暮らさないといけない。私の知識や技術を提供する代わり、ここで暮らすことを許してほしい」
「そう、わかった。ならマイスター・エックハルト、あなたに私たちの仕事を任せる。明日、A-1-25での定期供給を調停してほしい。ケガ人を出すことなく収めることができたら、あなたを認める」
「ちょ、ちょっとホシノちゃん」
拒否する理由も権利もないエックは頷く。後ろ二人の心配そうな顔を見、この仕事の困難さを察したが、今さらどうなることでもない。ホシノの横を通ってドアの取っ手に触れる。
「エックハルト。奇跡を証明してみせて」
廊下に出た後、追いかけてきたユメに謝られたものの、エックの身にとっては恩人なので感謝したいぐらいだった。せっかくなのでお詫びの品はいただいておいた。袋いっぱいのエレミヤ。
自転車の後ろで体が揺れる。路面の凹凸のせいで乗り心地は最悪で、地上では無縁だった乗り物酔いがエックハルトの悩みの種となりつつあった。ユメから貰ったモーセを含みながら吐き気を誤魔化す。
「エックおじさん、本当に大丈夫?」
「ああ。乗り物酔いが思いのほかキツくて」
「いや、そっちじゃなくて。明日のこと。あそこはG区と隣り合ってる地域だから、他のところより争いごとが絶えない。定期供給だといつも負傷者が出てる」
「あのときの定期供給と比べたら、どれくらいかな」
「あれを一としたとき、
「……骨が折れるね」
実際、二つの意味で骨が折れそうだ。平穏を祈るばかり。砂粒を巻き込んだ風が吹きすさぶ。
自室に戻ると、食料と水が置いてあった。アヤネのもとへお礼をしに向かったが、彼女が用意したものではなかった。となると、消去法で該当者は一人だけだった。エックは渋々セリカの部屋のドアを叩いて機嫌をうかがったが、叩き返されて門前払いをされてしまった。つんけんしているが心優しい子、という評価もあながち間違いではないらしい。
窓から射す光で目が覚める。BCFで起こされない朝にも慣れないといけない、とは考えつつも、エックにとっては規律的な朝よりも不規則で乱れた目覚めのほうが性に合っていた。案外、壊れてくれたほうが好都合だったのかもしれない。
「エックおじさん、そろそろ起きて」
「おじさんって言うのやめてくれたら素直に起きるよ」面倒くさいおっさん。
「……わかった。エック、起きて。定期供給まで余裕はあるけど、早めに行くに越したことはないから」
干してある服を手に取り、袖を通してみる。灰色のドレス。固定者の証。屈辱を感じると同時に、しっくりときた感覚を覚えている自分を、エックは情けなく思った。
事前に考えた稚拙な策のために、色々と準備をした。鋭利な刃物を用意したり、エレミヤをありったけ集めたり。個数は多ければ多いほど良いので、シロコにもねだった。嫌そうな顔をしていたが、あとで倍にする約束でなんとか交渉成立した。シロコのへそくり、もとい溜め込んでいたエレミヤで懐は潤沢になり、あとは人手不足の解消だった。アヤネやセリカにも声をかけ、手伝ってもらえないかと頼んだ。前者は快く引き受け、後者は拒絶した。
「ビビってるならしょうがないか。じゃあ、怖がりさんのセリカちゃんはお留守番かなー? お家をしっかり守れるよう、よろしく頼むね!」
彼女はキレながら部屋から出てきた。チョロいな、エックはそう思った。
アヤネに車を出してもらい、A-1-25へ向かう御一行。
「で、なにか策はあるわけ」エックは〈預言者〉をポケットから取り出す。
「これを使う。シロコ、ほら一粒」
「ん、ありがとう」
シロコは奥歯でかみ砕き、空へと旅立った。ボケーっと蕩けた顔のまま、車中の揺れになされるがままとなった。
「エレミヤの特徴は即効性と、この効力の高さにある。効果が切れるまでは意識が完全に覚醒することがない。モーセだと自分で意識を戻すかどうかスイッチできるからね。こうなると木偶の坊もいいところだから、地上では推奨されていない。これを定期供給で集まった人たちに含ませて、私たちが先に食料と水を占領する」
「なによ、一人占めしたいってこと? やっぱり上のヤツは信じらんない」
「まあ、最後まで聞いてほしい。私たちが一人分の食料と水を一人一人に分配するんだ。結局、みんなが鬼の形相で食料に向かってくるのは、手に入るかどうか分からないから、でしょ?」
「それならまあ、そうね。なんだか上手くいきそうな気がしてきた」
「ただ、問題なのは」シロコが目を開ける。
「この効果時間の短さ。平均して一粒一分。複数個を同時に含めば時間も伸びるけど、その伸び率も緩やかになる。三粒で二分、五粒で三分。全員に五粒ずつ与えたとしても、猶予はたった三分しかない」
「用意できた数は?」
「ざっと五百粒。向かうエリアに住む人数は?」
「五百人」
「ねえ、これ本当にいけるの……なんか不安になってきたんだけど」
「半数に渡せれば上々。残りは別プランでいくよ」
シロコは目を煌々とさせ、セリカは物憂げな顔になり、エックは武器の調子を確認し、アヤネは運転に集中していた。
「ちなみに、血しぶきを見たことはある?」
「? ないわよ。すり傷で血が出ることはあるけど」
「私もまだ見たことないんだよね」
「なんで聞いたのよ。話が膨らまないじゃない」
エックは刃を肌に軽く刺して血を確認する。驚く二人をよそにブザーが虚しく鳴った。
「みんな、エレミヤは持ったね」七十五粒。
「ん」百五十粒。
「はい」七十五粒。
「私の分だけ多くない? ねえ?」二百粒。
空に穴が開く。昇降機が地面に手をつけて、灰色の箱が降りてくる。四方の壁もすでにせり上がっていた。人々が箱に目が釘付けになっている今がチャンス。箱が近づき、地面に落とす影が濃くなっていく。
「いくよ……サン、ニ、イチ!」
粒を一人一人の口へ的確に入れ、無理やり嚙ませる。事前に打ち合わせた通り、迅速に事を済ませていく。
「なっなんだおまモゴッ」
「悪く思わないでよね!」
箱は残り四メートルまで近づいていた。
「よし! こっちは渡しきったわよ」三メートル。
「ん、私も終わり」二メートル。
「はぁ、はぁ。私も、なんとかなりました」一メートル。
「これで、最後!」
「モゴゴ……」ゼロメートル。
箱の外套がほどける。猶予はすでに一分を切っている。すぐさま駆け寄って、食料を手渡し始めた。エックがなんとなくで見込んだ通り、セリカの手際は誰よりも良かった。
残り十秒、なんとか目標の半分を超えて全体の七割まで達成する。
「間に合わないっ!」残り五秒。
「いいや、上出来だよ。あとは頼む」ゼロ秒。
手ぶらのまま目覚めた人々が真っ直ぐと突っ込んでくる。エックは箱の上に立ち、包丁を懐から取り出した。肺に空気を注ぎ、出せるだけの声量を発する。
「聞けぃ! 見よぅ!」
全員がこちらを向いて一瞬固まるのが見える。ふと、建物の屋上をちらと見ると、ピンク髪の子がいた。エックはニヤリと笑う。包丁を高きに掲げ、勢いのまま左腕に振り下ろす。ブザー。鮮血。血しぶきが箱を濡らし、地面に染み込んでいく。三人を除いたその場にいた者たちは訳も分からず凍り付き、恐怖で腰を抜かす子もいた。
「こうなりたくなくば! 大人しくせいっ!」渾身の怒声。
アヤネからの合図が見え、すぐさま左腕を押さえて昇降機から降りる。昇降機は音を立てながら空へと昇っていき、壁も消え失せた。一陣の風のようだった御一行はすぐにその場を離れた。エックはもう一度、屋上を見上げてみたものの、そこにホシノはいなかった。
車に乗り込むとアヤネがすぐさま止血の処置をしてくれた。ガーゼを重ね、体重をかけて出血部位を圧迫する。苦悶の声が唇の隙間から漏れる。血を流しすぎたのか、意識がはっきりとしない。
「ここの子たちはみな頑丈だ。暴力が日常なのにも関わらず、すり傷程度で済んでしまう」
「だから、血を見るのに耐性がないと踏んで無茶を?」
「無茶も無茶。無茶苦茶もいいところよ」
「でも、ケガ人は出なかったよ」
「ん、自分を勘定に入れないのも、ホシノ先輩そっくり」
「まったくです。今回は見過ごしますが、ちゃんと反省してください」
袋からモーセを、と思ってガサゴソ漁ったが見つからない。どうやら、エレミヤに紛れて配ってしまったらしい。苦しまぎれの笑顔もここでようやく途絶え、エックは眠りに落ちた。
「どうでしたか、彼は」
「……上の連中が嫌いなのは、変わらない。それと、あの人がその連中の一人だって事実も。でも、少しだけ信じてみようと思う」
「そうですか。あの暁のホルスから信頼を勝ち取るとは、さすが先生です……いや、今は
「黒服は会いに行かないの? 旧友なんでしょ」
「確かに、会ってまた大人の語らいでもしたいのはやまやまですが、先に済ませるべき案件がありますので。それでは」
そう言うと、スーツを着た影のような黒い人型のそれは消灯した地下の暗闇へと溶け、消えた。