元生徒たちは青春物語の夢を見るか?   作:転倒

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基本ミレニアムですが、主人公があっちへこっちへ奔走する回です


ガリヴァー旅行記

「ケガ人を出すことなく、と言ったはずだけど」

「いやあ、ケガ人。出てないけどね?」

「あなた以外はね」

 ホシノは包帯でくるまれた左腕を指す。エックは困った風な顔をして誤魔化した。

固定者(キミたち)からのケガ人はゼロ。それでいいよね?」

「……まあいいよ、認める。これであなたも私たちの一員だよ」

 ジュッ。旧時代の名残りなのか、儀式として右腕に焼印を押すのだ。三角形の内に煌々(こうこう)と照る太陽を描いたこのマークが、A区自警団である〈アビドス〉の所属であることを示すものになる。アナログで下品だが、こと地下文明のレベルでなら理に適っているとマイスターは感心した。地下における彼の身分証明。痛みと共に刻まれた、固定者の烙印。

 思案すべき問題はいくつかあるものの、これで少なくともエックは彷徨(さまよ)う幽霊ではなく、実体をもった人間として生きることができる。あとは、頭上の寂しさを紛らわせば完璧だ。

「なるほど。それでM区に行きたい、と」

「うん。守護者による定期巡回を抜きにしても、ヘイローがない目立っちゃってしょうがないから」

「なら、行くついでにM区の組織ともコンタクトを取って。共有したい情報があるから」

 そう言うとホシノは封をされた一枚の手紙をエックに渡して、欠伸を手で押さえながら部屋を出ていった。どうやら、昼寝の時間らしい。

 

 本来、名称は同一だが便宜上〈上空車〉、〈地上車〉と呼び分けよう。エックも上空車は保護生育期間を終えた十三歳から乗りこなしていた。普通車運転マニュアルはデータベース上からインストール済みで、十五年間の運転経験と合わさって人並みに運転はできた。ということで、彼は地上車も難なく乗りこなせるだろうと思っていた。結果はこうである。

「あはは……私も音楽プレーヤーが壊れていて、修理に出したかったのでちょうど良かったんです。ですから、その、あまり気になさらないでください」

 ああ、情けないエックハルト。意気揚々と運転を試みたが、エンジンを吹かすどころか始動さえできなかった。恥を忍んでアヤネに色々と聞いてみたものの、一発で覚えられるものではなかった。まともな運転ができるようになるまで、早くても一ヶ月はかかるだろう。そもそも、なぜこれほどまでに難解な操作をわざわざ要求するのか。彼は理解に苦しんだ。

 なんにせよ、三十代を目前とした流動者が十歳以上も年の離れた固定者に運転を頼んだ経験は、エックをとても惨めな気持ちにさせた。

「まあ、そうだね。気にしないことにしよう。アヤネは普段、どんな曲を聞いてるの」

「B.o.Bさんの『方舟』ですね。落ち着いた曲調なので、運転するときによく聞いてるんです」

 エックが十五の頃、人の手によって生み出されていた音楽は、機械によって作られる音楽に取って代わり、徐々に地上からその姿を消した。現存することが許された有人楽曲は片手五本で数えるほどしかない。その五本でさえ、わざわざ聞こうなんていう物好きな流動者は少なく、変人たちの趣向の代名詞としてみられるだけである。B.o.Bは最後の音楽家であるという情報を、彼は脳に保存していた。

 アヤネが壊れた音楽プレーヤーとカセットテープを見せてくれた。エックは出土品に触りでもするかのように、表面を軽くなぞる。これに詰まっているのは機械ではなく、人間の魂だ。固定者の文化の中で、有人音楽は生きていた。単なる延命処置に過ぎなくとも、それは確かに息吹いていた。

「直ったら、聞かせてくれないかな。地上では聞いたことがないんだ」

「いいですよ。でも、意外ですね。地上だとB.o.Bさんは有名ではないのでしょうか」

「どうだろうね。ああでも、あいつなら詳しいかもしれない。友人のデカルトなんだけど」

 

 地上車も上空車に負けず劣らずのスピードで、昼過ぎにはA区とM区の区境が目視できる位置まで来た。後部座席からエックは前方に鎮座するゲートを見やる。

「……アヤネ、あれはなに?」

「検問所ですよ」

「えっ」

「えっ、聞いてませんでしたか? ホシノ先輩からてっきり伝えられているとばかり……とりあえず、隠れましょう。そこのレバーを引いてください」

 一台の車がゲートに入る。小屋から出てきた一人のロボットが車へと近づき、運転席側の窓をコンコンと叩いた。

「名前は」

「アヤネです」

「一人ですか」

「はい」

「訪問予定地は」

「M-27-31-1です」

「越境理由は」

「修理に出したい機器がありまして」音楽プレーヤーを見せる。

「A区の修理屋でよいのでは」

「古い型番で無理だと言われてしまいましたので」

「なるほど。では後ろを確認しても?」

「どうぞ」

 後部ドアを開き、座席を一つずつ丁寧に触れながら確認する。ロボットは油を差し忘れたのか、動くたびに不快な音を鳴らしていた。足元にも不審なものがないのか、キュルキュルとレンズを動かして凝視する。ふと、脇にあるレバーが守護者(ロボット)の目についた。レバーを握り、引く。倒れていた座席がガコンと戻ってきた。

 車の下にも潜り、とくに異常が見られなかったのか、ロボットは身体を起こして運転手に声をかける。

「問題ないですね。ゲートが開き次第、そのまま発進してください」

 バーゲートがゆっくりともたげり、車は検問所を通過していった。検問所が後方へ遠ざかるのを確認すると、アヤネは引っ込んでいたレバーを戻した。エックは再び後部座席に姿を現す。

「すごいね、これ」

「もう何度も無事に通過していますからね。M区の技術力は凄まじいんです」

 地上のM区も工業地帯で有名なので、地下でもそれは同じなのだろう。上空車工場はすべてM区に設置されているので、地上車も例外ではないのかもしれない。建物の外見や街並みはA区と変わらずだが、天地を繋いだ煙突群がどこまでも広がっていた。

 

 

 

 道中、セリカが用意してくれた弁当をつまんだりして腹を満たした。切り分けられたブロック状の肉に、ペースト状の野菜。原材料は見当がつかないし、わざわざすり潰して地下に寄越す理由も分からないが、思ったよりも味は悪くなかった。エックは空になった箱に手を合わせる。工房はすでに目と鼻の先だった。

 

 カランコロンという音と共に扉が開くと、コゲ臭さと火薬の匂いが肺を襲う。咳き込み、部屋を見回そうとしても煙が視界を遮っていた。ついさっき爆発でもしたのだろうか。換気扇が硝煙を吸っていくと、ようやく人影が視認できるようになる。しみる目をなんとか開いたまま声を掛けた。

「ウタハさん、で合ってるかな」

「合ってるけど、まずはそちらが名乗るべきだよ。見るに、地下の人間ではなさそうだね」

「失礼。私の名はマイスター・エックハルト。エックと呼んでほしい。訳あって地上から移住してきて、今はA区に住んでいるんだ」

「マイスターを名乗ってるのかい。それは奇遇、私もマイスターを自負していてね。ウタハだ。さん付けはいらないよ」

 スラっとした体型をもつ薄紫髪の少女は、そう言ってゴーグルを外しながらエックに歩み寄る。右手の黒手袋を外してそのまま差し出した。上でも下でも握手という交流の仕方に違いはないらしい。二人のマイスターはかたい握手を交わした。

「なるほど。地上では壇上に立つ人をマイスターと呼ぶんだね」

「地下では職人のことを指すのか」

 教授(マイスター)職人(マイスター)、単なる同音異義だが、エックに妙な親近感を抱かせた。

「それで、なにがお望みかな。なんでも作るし、なんでも直してあげるよ」

「じゃあ頭上の輪っか、作れる?」

 白く輝く光の輪(ヘイロー)。ウタハはエックの頭上を見て、頭をひねった。輪が抜けていることに気付いていなかったらしい。

「んー。私たちに似ていても正確には異なるということなのかな」

「ああ、なんにせよ、幽霊だのなんだのと言われるのも癪だからね。多少クオリティが下がってもいいから、二週間でお願いできる?」

「一週間で十分さ。任せて、最高の特注光輪(オーダーヘイロー)を作ってみせるよ」

「ありがとう。あ、あとこの音楽プレーヤーを直してほしいんだけど」

「ふむ、二世代前の型番だ……この機種ならヒビキに任せるのが最適だね。奥にいる、耳の垂れた黒髪の子に預けておいて」

 エックは前金としてエレミヤを五つ渡そうとした。しかし、モーセが好みだと断られたので、お楽しみにとっておいたのをポケットから取り、代わりに手渡した。外へ出て、多少はマシな外の空気で肺を換気した。

 

「二週間も待たないで済むんだね」

「あの三人組の工房は優秀なことで評判ですから。余計な機能が足されてしまうことでも有名ですけれど」

「大丈夫なのかな、それ」

 石畳の上を揺れながら進む。残る用事は、この地区で活動している固定者の組織に手紙を渡すこと。ホシノ曰く、M区滞在中の衣食住はそこが保障してくれるそうだ。巡回する守護者の目を三回ほど搔い潜ったこと以外は、山も谷もなく、無事にメモに書いてある住所に到着した。アヤネが腕時計を見る。自宅から出発して八時間超、すでに短針は十七時であることを示していた。長時間の運転で疲れているだろうと思い、車中で休んでいてかまわないとアヤネに伝え、エックは住所にある部屋へ歩いた。

 どこもかしこも同じのっぺりとした建物、同じカーペット敷きの廊下、同じ灰色のドア! ノイローゼになりそうだとエックは心の中でごねたが、これはまったくおかしな話だった。なぜなら、地上だって配色と建築様式が異なるだけで、同じく逸脱した物なんて一つもなかったのだから。彼は足を止め、ドアの方を向き、ノックをする。

「A区の者です」

「のぞき穴から印が見えるよう、腕を出してください」袖をまくり、焼印のついた右腕を穴の前に掲げる。

「……どうぞ、入ってください」ガチャリ。

 艶のある髪を左右で結んだ少女がエックを出迎える。少女はA区からの使者を奥の席へと案内した。エックは目の前にあるコップに注がれた水でカラカラの喉を潤す。

「この水、美味しいですね」

「ええ。M区の技師が作った浄水器は優秀ですから」

 なるほど、浄水器。その装置が優秀なのは事実なようで、エックの舌がこの水を地上の補水液だと判断するほどだ。いや、単なるバカ舌かもしれないが。

「マイスター・エックハルトです。エック、と気軽に呼んでもらっても構いません。これをリーダーのホシノから」手紙を渡す。

「ホシノさんからですね。ありがとうございます」受け取る。

 手紙の封を切り、少女は淡々と目を通す。その背筋をしっかりと伸ばした姿勢は整然として見えた。読み終えると、机に置いてあった缶の中からライターを手に取り、手紙の下部分に火を付けた。火は上へ、上へと、紙の全身を優しく包んだ。抱擁(ほうよう)のあとに残るのはただ灰ばかり。

「貴重な情報、ありがとうございます。申し遅れました、私はM区ギルド共同体〈ミレニアム〉の会計担当のユウカです。本日はトップであるリオ会長が不在のため、その代理を務めています。手紙にはエックさんの情報も載っていましたが、上の人なんですね。地下について知らないことばかりでしょう。消灯時間まで、あと九四二七秒の余裕がありますので、聞きたいことがあれば仰ってください。答えられる範囲で答えます」

 その言葉に甘え、エックは気になったことをいくつか訊ねてみることにした。

「自警団ではなく、ギルド共同体なんですね」

「ええ。M区は他地区と比べて暴力沙汰が少なく、防犯よりも技術者・専門家同士のコミュニケーションの場が求められたんです。それもあって、必要に迫られて発足された他団体よりも歴史は浅いのですが……」

「いいことですよ、平和が一番ですから」

 暴力に訴えない固定者たちがいることを知れて、エックは少し安心する。固定者が暴力性を克服できるなら、いずれ流動者と固定者の境界線は消え、保護者ひいてはキヴォトス人の悲願である〈同化計画〉が完遂すると考えたからだ。

 M区について話を聞く中、ふとペン立てが視界に入り、彼の忘れかけていた疑問が喋りだした。

「そういえば、なぜ文字の読み書きができるんですか」

 

 現代、文字教育は廃止された。固定者・流動者に限らず教育は施されない。生活上必須の知識は脳に直結した主記憶装置に書き込めるということで、五十年前には教育不要論が市民権を獲得していた。しかし、ロボット種はそれが先天的に可能であったが、動物種はそうではなかった。この格差問題を解決すべく、同化計画の推進で、動物種も手術で後天的に知識書き込みを可能とする技術が確立された。

 かくして教育不要論は勝利を収め、教育に関連したものはすべて廃止された。学校も、教室も、生徒も、先生も、教科書も。それらは墓碑に刻まれるばかりか、忌むべき過去の悪習として道行く人々に唾を吐き捨てらるようになった。

 この〈同化手術〉は全流動者に適用されたが、固定者は手術を受けられなかった。したがって、本来であれば[濁点]文字を書くことはできない。だが、なぜかここには使えるはずのないペンが置いてある。エックはペンを手に取って、ノック筒を繰り返し押してみる。

「……お答えできかねます」カチッ、カチッ。

「アビドスの会議室へ入ったとき、当番表が貼られていました。見たところ、地上と同じ文字でした。今朝に渡された手紙も、ホシノが書いたのでしょう。ユウカさんも先ほどの様子をみるにすらすらと文字を読めるようですね。どうやって、いや、誰に文字を習ったんですか?」カチッ、カチッ。

「繰り返しますが、それはお答えできません。あなたは上の人ですので」

「上の人、上の人、上の人……」

 ペン先を指に当てる。インク切れのようで、エックの表皮には押しつけた跡だけが残った。

「仮に〝先生〟にあたる人物がいたとして、それが明るみになるのはマズいでしょうね。それに、万が一でも『エックハルトは守護者で、先生の行方を探ってる』可能性があるなら、言わないほうが吉です。あなたの毅然(きぜん)とした対応も納得いく」

「ええ。私一人で判断するわけにもいかないんです。こちらの都合で質問に答えられず、申し訳ありません」

「こちらこそ失礼しました、変に探るような質問をしてしまって。寝泊まりはどこで」

「廊下を出て左隣二つの部屋です」

「そうですか、では」

 先生という単語に、ユウカの眉は数ミリ動いていた。間違いなく、先生はいる。エックはそう考察した。アヤネに同様の質問をふっかけてみたがとくに反応はなかったので、組織の中でもトップかそれに次ぐ人物ぐらいしか知らないのだろう。これ以上の詮索が実を結ぶことはないと判断したのか、彼はソファーから立ち上がって部屋を出た。

 ユウカは部屋の中でただ一人、静かにため息をつく。

「先生、ね……リオ会長に相談するべきかしら」

 

 車に戻ってアヤネに部屋番号を伝え、二人は睡眠欲求を解消するべくさっさと各々の部屋へ向かっていった。

 いくら工業が発展していても、ベッドの質も家具の配置も変わらないらしい。上質すぎもせず、粗悪すぎもしない。地上よりワンランク下の平等が敷かれている。慣れてしまえば、流動者だって地下でも生きていけるのだろう。生きていけるにしても、エックは同じ境遇の仲間が欲しかった。〝先生〟は確実に流動者だろうし、エックと同じような理由で地下に来たのかもしれない。爪弾き者の流動者。彼は期待感でなかなか寝付けなかった。一週間のうちに、先生について聞き出さなくてはならない。

 

──高層ビル群。青色の空に届きそうなほどの建物。列車窓を通して、美しい景色が見える。以前の夢にも感じた妙な視線を探ってみようとした。つり革が揺れる。落下。肺が水で満たされる。私は必死にもがき、溺れる私を救おうと水中から這い上がった。気が付くと、薄暗い部屋だ。黒髪の少女、少女というには大人びているが、とにかく少女がいた。赤い瞳はモニターをじっと見つめている。その姿は、まるで保護者のよう。声をかけると、彼女はこちらを振り向き──

 

 

 

 一週間が経った。ただ待っているのも暇だと思ったエックは、アヤネと町へ繰り出したり、ユウカに会ってお喋りしたりした。彼は何度もミレニアムに足を運び、ノアという書記担当の少女と会った。ユウカとはかなり仲の良い親友らしく、いろいろ彼女の情報を聞かされたりもした。結局、リオ会長と会うことはなく、先生について聞き出すこともかなわなかった。

 この間、エックの周りでとくに騒ぎもなかったので、事件が少なく平和なのは確からしい。日に三回はどこからか爆発音が聞こえるものの。工房へ入ると、前と変わらずのコゲ臭さがエックを歓迎する。作業に集中するウタハを邪魔しないよう、彼は近くの椅子に腰掛けて静かに待った。

「……これでよし。やあ、エックか。待たせてしまったね」

「気にしないで。偽造ヘイローはどうかな」

「昨晩に完成してね。いま持ってくるから少し待っていてくれ」

 そう言って工房裏に入り、数分すると完成品らしき装置を手に戻ってきた。

「なかなかの自信作だよ。さっそく着けてみようか」エックの後頭部に装着する。

「ここのダイヤルを時計回りに回すと締まるよ。締まったら、つむじあたりにあるボタンを押してみて」ポチッ。

「……鏡はあるかな? 自分の目で見たいんだけど」

「あ、すまない。すっかり失念していた」

 鏡には、ヘイローを浮かべたマイスター・エックハルトの姿があった。ヘイローと頭頂部の間に手を入れてみるとたちまち消え、手をどかすとまた光り出す。白い光輪は頭上に君臨していた。鏡越しに映る彼自身の姿は、どこをどう見ても固定者だ。灰色の服に、細っこい身体に、ヘイロー。複雑な心境を飲み込み、エックは満足げな顔を見せた。

「思った以上の出来だね。ありがとう」

「どういたしまして。『輪っかちゃん』を気に入ってもらえてなによりだ。そうだ、もう一回ボタンを押してみて」

「……これは」

「カッコいいだろう? 長押しするとフラッシュモードになって目眩ましに役立つよ」

 鏡の中のヘイローは、七色に光り輝いていた。

 

 さて、用事を終えた二人はアビドスへ帰るのみであった。しかしエックには心残りがある。彼は、その足取りのままミレニアムへ向かった。

「やはり来ましたね。そのヘイロー、似合ってますよ」部屋にいたのはまたもやユウカ。

「ありがとう。これね、七色に光り輝くんだよ」ヘイローがピカピカ。

「ウタハ、また変な機能をつけて……」

 エックは対面の椅子に座り、互いに顔を見合わせた。

「さっきの言い方だと、私が来るのを予測してたみたいだね。いつから待ってたの?」

「いえ、朝っぱらからコユ……んんっ、問題が発生しまして。解決のために動いていて見送りどころではなかったのですが、リオ会長から言伝てと共に部屋で待つように、と言われましたので」

「お疲れ様だねー。お腹空いてるでしょ、ペーストサラダ食べる?」

「いえ、結構です」

 コップの中の水を飲み干すと、ユウカはその言伝てとやらを話し始めた。

「〝先生〟の存在について、気になっていましたよね」エックは頷く。

「確かに、〈先生〉はいます。私はリオ会長から文字を習ったので直接会ったことはありませんが、リオ会長は〈先生〉から基礎教育を受けたと言っていました。〈先生〉のことを『漂白化を生き残った人』だとも」

「漂白化?」

「詳しい話は〈先生〉本人に聞いてください。歴史は生き証人に訊ねるのが手っ取り早いです」

 ユウカはそう語りながら、机の下に手を伸ばして、手に取ったものを机上に置いた。

 それは本だった。エックはそう確信する。彼は半生で本には触れたことも、嗅いだことも、見たこともない。それでも、これが本だということが一目で分かった。楽園に生えたる知恵の樹の実。蛇は物言わずにじっとこちらを見つめる。イヴはただその実を目前に差し出す。アダムは、その実を手に持った。

「この本は『100万回生きたねこ』という絵本です。エックさん、あなたはそれを手にして読んだ時点で、もはや戻ることは叶わないでしょう。読んだらホシノさんにその内容を伝えてください。〈先生〉の居所を教えてくれます」

「……なぜ、私にこれを? ホシノの手紙にはなんて書いてあったんだ? 先生とは、いったい誰だ?」

「リオ会長はあなたのことを、〈先生〉が十数年探していた人物である可能性が高い、とだけ。ホシノさんも同じことを考えて、この本があるミレニアムに向かうようにと手紙を預けたのだと思います。もし、地上に戻ろうとする気持ちが少しでもあるのなら、今すぐ机に戻してください」

 エックの心は妙に落ち着いていた。青色の空であんなにも取り乱していた人が、それと同等の、物語が(つづ)られた本に一片の嫌悪感さえ抱いていない。手が恐怖で震えることもなく、正確に一ページ一ページを読んでは次へとめくる。

「初めて触れる物語でしょうから、焦らずゆっくり読んでみてください。今回の情報料として、その本はアビドスに譲りますから」

「わかった、そろそろお暇するね」

 本を懐に入れ、エックはユウカに背を向ける。

「あ、そうそう。もう七日間も話した仲なんだから、さん付けはいらないよ」

「ふふっ。じゃあ、エック。さようなら。また会いましょうね」

 

 エックは助手席に座り、アヤネに修理済みの音楽プレーヤーを手渡した。

「無事に直ってよかったです。ヘイローも手に入ったようですし」

「そう、ヘイロー。これがなかなかの出来でね。七色に輝くんだよ」

「……輝いてますね、七色に」

「そう。ピカピカでしょ」

「ピカピカですね」

 アヤネはキラキラとした目のエックを軽く流しつつ、さっそくカセットを挿して再生ボタンを押した。たちまち車内に大音量の「方舟」が響く。落ち着いている、とは到底思えない重低音と電子音がエックの耳を突き刺した。固定者は音楽性も野蛮なんだろうかと、彼は耳を押さえながらそう邪推した。

 

 

 

「それで、あなたの答えは?」

「私には分からないことだらけだよ。王も、船乗りも、サーカスも、泥棒も、お婆さんも……そもそも、猫というものも見たことはない。もちろん、ぜんぶ言葉としてなら知ってる。でも、分からないんだ。なんで、最後、猫は生き返らなかったのか」

「そう……」

「死、という言葉に、悲しまなければならないはずなんだ。それなのに、私はなぜだかホッとしている。とらねこと白いねこの結末に、よかったと、そう思えてしまったんだ」

 話してくうちにまた感極まって言葉を震わすエックに、ホシノは黙って頷いている。彼が言葉を出し切った様子をみて、手紙を渡した。

「これをT区にいる〈先生〉に渡してきて。その格好なら、怪しまれずに列車も乗れるでしょ」

「私、なんだか手紙を送り届けてばかりじゃない? 手紙にはなんて書いてあるの」

「黙って運んで」

 エックは大人しく黙って部屋を出た。部屋は空気が固まったように静かになる。十数秒後、その静寂を破ったのは黒ずくめの人物であった。

「これでよかったの? ずいぶんと回りくどく試したけど」

「ええ。ここまでしたのはみなさんと交流を広げてもらうという意味もありますが。私たちは慎重に立ち回らなければなりません。なにせ、彼は本当に我々が探してる人物なのか、私にも確証は得られませんから。物語を読んで、彼がそこからどのような意図を汲み取り、感受するのか。この試練は()の魔術師からも必ず行うようにと言われてますので。魔術師曰く、本を読んだときの感想であの人かどうか分かる、とのことです」

 

 二人がA区に帰宅した次の日に、エックはT区に向かう列車に乗り込んだ。みな治安維持に大忙しで、ろくに顔を合わせることなく出発した。ことを急ぐ必要はなかったが、彼の心がそうしたのか。それでもただ一人、ユメが見送りに来ていた。

「〈先生〉に会いに行くんですよね。ユメは元気にしていますと、そう伝えてくれませんか」

「いいけど、ユメは先生と会ったことがあるの?」

「はい。彼女から大事なことをいっぱい教わったんです。おかげで、ホシノちゃんたちにも色んなことを教えることができて……」

 エックは、リオ会長とユウカのことを思い出した。〈先生〉からユメへ、ユメからホシノへ伝わっていってるのなら、リーダーはユメではないのだろうか。彼は首を傾げた。

「私がアビドスのリーダーですよ。あれっ、もしかして聞いてませんでしたか?」

 シューッ。列車の扉が閉まり、車窓越しに二人は手を振って別れを告げる。

 窓の外に広がる変化のない街並みを呆けた顔で眺める。エックはユウカに「リーダーのホシノ」と言ったことを思い出す。なぜ、誰も訂正してくれないのか。夕日に照らされてるわけでもないのに、彼の顔は赤みを帯びていた。

 

 

 

 列車はG区を経由した。G区の駅から乗車してきた人たちはなかなかに騒がしく、エックはモーセを含んでT区に着くまでは上の空のまま過ごした。

 終点を知らせるけたたましい警笛を合図に列車から降りる。A区やM区と大差ない光景が広がっていた。A区よりも人だかりは多いだろうか。エックは時計を見て、寄り道する時間がないことを把握すると、手紙に書かれた住所へまっすぐ向かった。行き交う固定者たちを見ると、どうやらここは翼を持つ人が多いらしい。翼と言っても、鳥人種と違って腕とは別で生えてるようだった。

 そうして駅から一時間、エックの足はようやく目的地にたどり着いた。しかし、目印もないのでただの路地裏にしか見えず、戸惑った彼はあたりをうろちょろ無意味に動く。しばらくして、地面の一部分が開いて下へと続く穴が現れた。おそるおそる掛けられた梯子に掴まって、彼は暗闇の中に溺れていった。

 

 どれほど長く暗闇にいただろうか。時間さえ克服した空間で、エックの前に明かりが灯った。明かりに吸い寄せられると、焦げ茶色の古めかしいドアが見えた。このドアの先に、答えがある。漂白化、同化計画、固定者、いや、そんなことはどうでもよかった。彼がただ知りたいのは、物語、青色、先生。固定者のような流動者である輪抜けのエックのように、唾を吐きかけられてきたものたちの存在意義だった。ノックをしようと手を上げると、戸を叩く前に中から声がした。

「どうぞ、入ってください」ガチャ。

 部屋に入るとほろ苦くも香ばしい、なんとも筆舌しがたい匂いが漂っていた。エックは声の主と目を合わせる。大人びた雰囲気に、ぼさっとした長い髪。時計のようにも見える異様なヘイロー。灰色の服ではなく、白のスカートにカーディガン! まるで何世紀も前からやってきたような姿だった。女性は嬉しそうに頬を緩めて、エックに話しかける。

「お久しぶりです、先生。信じて待ってましたよ。十五年も、ずっと……」

「ちょっと待って。えっと、どういうこと?」

「あ、そうでした。黒服さんが言ってたことを私すっかり忘れて……すみません、一旦忘れてください。まずは自己紹介から、ですよね」

 エックは不思議だった。初めて会うはずなのに、この名前を知ってるような気がするからだ。気がするだけで、名前を当てられるわけではなかったが。

「私は古関ウイ。この地下図書館の主、そして学生連盟のリーダーである〈先生〉を務めています」

 蠟燭の揺らめく明かりで、数え切れない本の山が照らされていた。




先生、もとい古関ウイの登場です。わりと活躍、というか中心人物です。推しなので。
100万回生きたねこ、読んだことなかったんですけど良い作品ですね。子どものころに読みたかった。
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