テーブルの上に置かれた蠟燭が灯す小さな火が、二人の顔をわずかに照らす。
「あなたが、先生?」
「……まあ、そういうことになりますね」
先生、もとい古関ウイの姿は異様だった。顔にできたシワが他の固定者よりも明らかに歳が高いように見せていて、身長はエックと数センチ程度の差しかない。白い輪っかが基本のヘイローにも特徴がある。まるで時計のようだ。固定者なのは間違いようのないことだが、彼女を構成する何もかもが特異なようにエックは感じた。
「アビドスから来てお疲れですよね。質素ですがベッドもありますので、お話は休んだ後でも遅くないと思います」エックは首を振る。
「ここに来たのは、ベッドでぐっすり眠るためでも、長旅を癒してもらうためでもありません。答えを得るためです。ウイさん、あなたなら分かるはず」
鬼気迫った表情で距離を詰めるエックを、ウイは両手を前に突き出しながら後ずさった。牽制もむなしくガタン、と背後の机にぶつかる。
「お、落ち着いてください。はやる気持ちは理解できますが……まず、私にあまり期待しないでください。あくまで私は、私の半生と把握できている情報を伝えるだけで、そこから答えを導くのはエックさん自身です」
「……申し訳ない。少し、浮かれてしまっていました」
「どうか、顔を上げてください」
ウイはエックの瞳の奥を覗く。十五年の歳月が、彼をどれほど変容させてしまったのか、自分の知る彼がどれほど残っているのか、見定めるように目を合わせる。
「お飲み物を用意しますね。珈琲でもいかがでしょう」
「ぜひ」
「今から淹れますので、ソファーに腰を掛けて待っていてください」
珈琲。三十年ほど前にカフェインの危険性が指摘され、保健法に基づいて規制された飲料。十五歳のころ、広場で晒し者になった雀を見たあの記憶はエックにとって印象的だった。たかだか百五十㎖程度の飲み物のために、裸で縛り上げられ、輪抜け以上の辱めを受けた者の、鋭く冷たい眼差しを未だ忘れられずにいる。
暖炉の火を眺めているうちに、ウイがコーヒーを入れたカップを手に戻ってきた。
「はいどうぞ、アメリカーノです」
ほのかに漂う香りを嗅いで、エックは部屋に入ったときに感じた匂いの正体に合点がいった。このとても飲み物とは思えない黒。温めた泥水だと言われても、彼は納得するだろう。とても飲もうとは思えない。思えないが、その感情に反して彼は取っ手に指を掛けてカップのふちを口まで運んでいった。
「熱っぁ」ブザー。
苦味。その強烈な苦さで、衝撃のあまり舌がのたうち回っている。ちょろっと漏れ出た涙をエックはぐっと力んで止めた。意外にも、不味いという感想は出てこない。かといって美味しいとも言い難く、なんとも歯切りが悪い。彼はブザーをなだめるよう慎重にカフェインを体内へ流し込む。
「はじめて飲みましたが、美味しいですね」
「
「ええ。私が生まれる前に禁止されてしまったので。裸になる覚悟があれば飲めますけど……」
「なるほど。ですが、エックさん。あなたは飲んだことがあります」
ウイはそう言い切った。まるで確たる証拠を握っているかのように。しかし、初対面でどうやって珈琲を飲んだか飲んでいないかが分かるというのだろう。あまりに唐突で稚拙な冗談に、エックは嘲笑した。
「はは、まさか! 私が広場で裸吊りされたことがあるとでも……」
「ないでしょうね。でも、飲んだことがあるはずです。たとえ思い出と過去が塗り替えられたとしても、真実は揺るぎません。あなたは青空を、見たことがあるはず」
カップを口に近づけようとした手が止まる。音を立てないようにそっと受け皿に戻し、エックは答えを呟く。
「青色の空、銃、ホワイトボード」
ノー、という返事か、あるいは拒絶を予想していたウイは目を見張る。
「夢で見ただけですよ。
「なら、これから私の語ることが、その夢の答えになると思います」
──今思えば、あの夢が始まりだったのかもしれない。広場でシロコと出会った日。そして、協力者の道ではなく固定者の道を選んだあの路地裏。この地下での生活は、愚かな好奇心が招いた転落だと考えていた。でも、本当にそうなのだろうか? 隠された真実があるのだとすれば──
ウイは立ち上がり、積まれた本の山に向かって歩く。エックも彼女の後を着いていき、山の麓で帰りを待った。数分後、ガサゴソとした音が止んでウイが山から出てきた。ステープラ留めされた紙の束を手に、彼女は呼吸を整える。
「昔話をしましょう。二十年以上前、キヴォトスには数千もの学園が存在しました。各学園が自治区を有する、学園都市キヴォトス。行政は連邦生徒会という生徒で構成された組織が担い、運営していたんです。街行く人々はみな銃火器を携え、毎日どこかで発砲音を耳にする、それが日常でした。その社会構造には欠陥もあり、無視できない問題は山積みでしたが、それでも生徒たち、市民たちは懸命に生きていました。そんな日々に、終わりが訪れます。ある日、自らを〝保護者〟と名乗る生徒が、全学園に宣戦布告しました。はじめは誰も気にかけませんでしたが、一夜にしてミレニアムが陥落したことをきっかけに、先生率いる学園連合軍が結成されました。保護者対連合軍の戦争が始まったんです」
「大故国戦争のこと、ですか?」
自信のない控えめな声でエックが言うと、ウイは頷く。自信がなかったのは、大故国戦争は百年以上も前の出来事だと彼は記憶していたからだ。これは単なる記憶違いではない。データベースに載っている歴史では実際、そう記録されていて、戦争終結から今日まで軍事行動は一切ないとされている。つまり、彼女の語る昔話と〈データベース〉の語る歴史には相違がある。
「先生の健闘むなしく連合軍は劣勢に追いこまれ、三年でほとんどの自治区が保護者勢力の手に渡りました。連合軍はトリニティ自治区にある
ウイは手を広げる。一片の陽光さえ届かない地の底で、彼女らは抵抗していた。ウイは話を続ける。
「地下での抵抗は一年ほど続き、私たちは疲弊しました。この状況を憂いた先生は責任を取ると言って、自ら休戦交渉をしに保護者の元へ向かいました。交渉は無事に成立したおかげで戦争は四年目にして終結し、つかの間の休息を得る事ができました。ですが、休戦してすぐに先生は消息を絶ちました。求心力を失った連邦生徒会は崩壊、地下は無政府状態となり、保護者勢力の介入によって生き残りの生徒たちは捕まって処刑されました。生徒で生き残ったのは、私ただ一人です」
知られざる歴史を聞いて、エックはただ驚くばかりだった。ウイの語ったことは眉唾もいいところである。戦争があったという期間、彼の周りに焦土の匂いはなかった。いくら思い出そうとも、陰口と清潔感のある部屋とモーセ以外にはない。しかし、彼女もただの妄言を吐く固定者とは思えない。その堂々たる様相には、相応の説得力があった。
彼は首にあるポートに触れる。記憶装置のデジタル化によって情報の出し入れが容易になった、画期的な技術。それは同時に、記憶改
データベースは噓をついている、という可能性がエックの頭に過ぎる。それは即ち、保護者が私たちを騙していることに他ならない。受け入れがたい真実に、彼は頭を抱えた。
「考える時間をください。あなたの話は、少し飲み込みがたい。端から信じないというわけでは、ないのですが……」
「突然こんな話を語られて、混乱する気持ちも分かります。話の区切りもいいですし、そろそろ睡眠を取りましょう。太陽がなくても夜は訪れますし、眠気もありますから」
案内された客室に入って、渡された紙の束と共にエックはベッドへ沈む。仰向けで天井を眺めているうちに、そのまま天井が落ちてきてくるのではないかと彼は思った。落ちてくる天井に抵抗できずに挟まれ、ブザーが声をあげる暇もなく身体が粉々に砕かれる。骨格、筋繊維、内臓。暗闇の中で薄れていく意識は、まさに死そのものだ。
──くすぐったい視線が、だんだんと近づいているような気がする。周りを見渡すと、そこは地下図書館によく似た場所だった。そう、ここは古書館だ! 珈琲の匂いがする。匂いの方向に向かうと、そこにはウイがいた。ヘイローの形は同じだが、かなり若い。二十歳ほど若返っているのか? 他の固定者と同じぐらいの歳に見えた。渡されたアメリカーノを一口飲む。先ほど飲んだものより味は落ちるが、十分に美味い。暖炉のパチパチとする音に耳を委ねながら、ページをめくる──
足音でエックの意識は濃くなっていく。目を開けると、すぐ横でウイが布団をめくろうとしていた。彼は上体を起こす。
「おはようございます。一向に起きる気配がなかったので、起こしに来ましたよ」
「ん……どれぐらい寝てました?」ヘイローを起動する。
「十二時間ぐらいですかね」
エックはテーブルに置いておいた腕時計を手に取って確認する。太陽があれば、すでに頭上に位置している時間だ。ズキズキと痛む頭を押さえる。
「その時計、誰から貰ったんですか」
「アビドスのシロコからです。あると便利だと言われまして」
「ユメさんのところの子ですか?」
「はい。彼女、元気にしてますよ」左腕に着ける。
「……昨日から気になっていたんですが、敬語はいらないですよ」
「いや、あなただって敬語じゃありませんか」
「それは、後で事情を説明しますので。とにかく、いつも通りフランクにお願いします。そっちのほうが気楽なので」
「それじゃあ。ウイ、おはよう」
顔を隠してエックから目を逸らす。
「どうしたの?」
「いえ、こっちの話ですから。気にしないでください」
ウイは部屋を出ていき、エックも十数分ほどゴロゴロしてからベッドから起き上がった。
昨日、歓談した暖炉の前に向かうと、黒い影が珈琲を静かに啜っていた。灯火が照らし出すそれは、人の形を保っていながらも頭部の輪郭は不安定に揺れている。エックは思わず息を潜めた。
「ふむ、やはり紅茶のほうが私の舌には合いますね」
「文句があるなら飲まないでくれますか」
「ウイ、こいつは?」
エックの存在に気付いたそれは、視覚の役割を担っているであろう白く光る部位で目を合わせる。数秒間を置いて、それは嬉しそうに音を発した。
「これは、これは。マイスター・エックハルト。あなたとの感動的な再会を、杯でも交わしながら喜び合いたいところですね。しかし、今のあなたにとっては初対面でしょうから、杯のないここでは控えておきましょう」
カップを置き、すくっと立ち上がるとエックに近寄り、右手を差し出す。エックはまだ身構えたまま、無性に湧く警戒心を剝き出しにしていた。
「……おっと、自己紹介がまだでしたね。私のことは〈黒服〉、とでも呼んでください。崇高を探究する〈ゲマトリア〉のメンバーです。漂白化を生き残った魔術師、古関ウイが率いる〈学生同盟〉とは協力関係にあります。ああ、見た目は気にしないでください。私はキヴォトスの外部の者ですので、キヴォトス人とは身体構造が異なるのです。それはあなたも同じことですが」
「そう。よろしくね」
ようやく二人は握手を交わした。黒い炎は揺らめき、不敵に笑う。
「せっかく淹れたものが冷めてしまいますので、お二人とも席に座ってください」
促されるままソファーに腰掛け、少し湯気の抜けたアメリカーノを飲んだ。
舌に転がる苦味が薄れていく。カップの底についた跡を眺めながら、エックは口を開いた。
「昨日からのウイの口ぶりと、その黒服の発言から察するに、私たちは初めましてではないんだね。つまり、私は記憶を失っているわけか」こめかみを突っつく。
「……二十年前、キヴォトスの外から赴任してきた方がいました。連邦捜査部シャーレの担当顧問であり、先生と呼ばれ、生徒たちから慕われていた方です。先生は大小あらゆる問題を生徒と共に解決へと導き、ときには世界の危機さえ救いました。青春の存亡を賭けたあの戦争も、先生がいなければ一年も保たずに、私たちは為す術もなく虐殺されていたと思います……地下に撤退してから一年経ったあの日、それまで意思疎通の一切を拒絶していた保護者が対談を提案しました。それが罠であることは、みんな分かっていました。ですが、戦いを終わらせたい先生の意志を、止めることは……できなかったんです」
「そして、彼は保護者と休戦協定を結び、消息を絶ったと」
「ええ。青空を廃した漂白化の後も、私たちは先生を捜索し続けました。保護者に抹消された可能性も高く、望み薄ではありましたが。ですが十五年の歳月を経て、ようやく行方知らずだった先生を観測できたのです。すでにお察しでしょう? エックハルト、あなたがその先生なのですよ」
黒服は興奮を抑えながら語る。それが抱いている感情とリンクするように白い光は輝きを増し、輪郭が揺らめく。彼自身が先生という下品な存在であったことは、驚くべき真実だが、彼は不思議と落ち着いた調子のままだった。エックは頷く。
「先生は私と同じく、外部から来た〝不可解な存在〟です。流動者でも固定者でも異質なものとして扱われ、疎外感に悩まされるのも無理はありません。これがあなたの被ってきた不条理の答えです」
三十一年間、偽の記憶を除けば十五年間。生涯に渡ってエックを苦しませていたものの正体を掴めた。掴んでしまえば、あっけないものだ。
「で、キミたちは何をさせたいのかな?」
「
「無理だね」食い気味。
空気が重くなる。暖炉の火は今にも尽きそうで、弱々しい光を放っている。
「どうして……」
「勝ち筋がないでしょ。相手は保護者と協力者率いる守護者たち。天井光や食料のような生命線を保護者側に握られている以上、正面切っての行動は取れない。となると、守護者に悟られず保護者を直接ぶん殴るしかない……到底不可能だよ」
「全流動者に記憶改竄を伝えれば味方にできるのでは?」
「私のように受け入れられるとは限らない。みんな、現状に満足してるからね」
ポケットの底にあったモーセを一粒取り、口に放り込んで噛まずに舌の上で転がす。ウイは口を動かそうとするものの、声を出せずにいた。
「
「そうかい。私は覚えてないし、奇跡とやらになんら興味も湧かないね。残念ながら、私はどこまでいっても先生ではなくエックだよ。青色は嫌いだし、学園とやらも不愉快極まりないと思っている。先生だったという事実を知ってもなお、その認識は揺るがない。そう、思考から真実は生まれるんだよ」
エックは席を立ち、暖炉を背に扉へ向かった。黒服は静かに、それでいて耳に届くよう呟く。
「エック、あなたに見せたいものがあります」
立ち止まり、ドアノブから手を離して後ろを振り返った。エックの目は黒服の目をしっかりと捉え、白い光の奥にあるものを探る。数秒考えた後、彼は黒服の後についていくことにした。
黒服は明かりのない廊下をランタン片手に歩いた。カビの生えたドアをゆっくりと開き、埃の舞う部屋の中へエックをいざなう。天井から伸びたフックにランタンを掛け、床に手を置いた。板を横にずらして、床下から物を取り出す。
「これは?」
「あなたが先生だった頃に使っていた代物、〈シッテムの箱〉と〈大人のカード〉です。起動できますか」
電源ボタンらしきものを押してみる。すると、画面に光が灯った。灯ったが、Sという字がでかでかと映し出されるだけで、なにも起こる気配はない。
「……記憶を取り戻さない限り、本来の機能を扱うことはできないようですね。恐らくは、このカードも同様でしょう」
「黒服はこれが唯一の勝ち目だと考えているのか」
「さすが、話が早くて助かります」
「でも、これを以てしても
「条件と手順が異なれば、異なる観測結果が出るものですよ」
「そんなものを勝ち目とは呼ばないよ」
「ええ、これは無謀な賭けに過ぎません。ですが、このリターンはあなたにとって大変魅力的だと思いますよ」
煤けたタブレットに触れる。指先から懐かしさが伝う。だが、その懐かしさの正体をエックは思い出せない。ランタンを凝視しながら、深いため息をついた。
「気になるね。過去の私が、なぜ固定者たち……生徒たちを助けようとしたのか。その答えは、ここにあるのかな」液晶をコツンと叩く。
「ククク……そうかもしれませんね。どうぞ、持っていってください。
小さく溶けていく燭台の火をぼうっと眺めるウイに、後ろから声をかける。
「元気がないね、ウイ。私のせいかな」
「せんせ、あっ。すみません、間違えました。エックさん」
「呼びやすいほうで呼んでもらって構わないよ。エックでも、先生でも」
「ですが……」
「これ、分かるでしょ。まだ起動できないけどね」わざとらしくタブレットを扇ぐ。
「……先生としての道を、歩んでくれるのですか?」
「まあ、それはまだ断言できないけど。でも少しだけ、青空がどんなものか、この目で見たくなったんだ。好き嫌いは、それから決めることにするよ」
ウイは安心したように胸を撫でた。後ろで尽きかけている火に気付いて、暖炉に薪をくべる。火は再び、吹き返した。
──視線が強い。刺すような視線だ! 目を開けると、そこには水平線の向こう側まで広がる海と、ここは教室だろうか。積み重ねられた机に、半壊した天井と壁。不規則な分厚い雲が、青空の中で自由に泳いでいる。綺麗だ。おっと、左手が握られている? 振り返ると、そこには少女がいた。今まで会った子の中でも、かなりのちんちくりんだ。この子の笑顔を見ていると、なんだか穏やかな気持ちになる。しかし、ここはどこだろう? この子はいったい──