元生徒たちは青春物語の夢を見るか?   作:転倒

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古関ウイの未来に希望あれ


愛の新世界

「黒服は来ないの?」

「私は〈敵対者〉として追われる身ですので、消灯後でないと行動が起こせないのです。屋内から屋内への直接移動はできますが……寂しがらずとも、そう遠くないうちに会えます」

「先生、そいつは放っておいてさっさと行きますよ」バタン。

「ククク……相変わらず〝外の人〟には辛辣ですね」

 ということで、エックはウイと二人でT区を散歩することになった。〈トリニティ〉のホストへ会いに行くのと、思い出を回顧して先生(エック)に伝えるためだと彼女は言っていた。薄暗く狭い地下通路に反響する足音を聞きながら、エックは黒服の言っていたことを思い起こす。

『自らの足で向かう必要はありません。幹部らは地下図書館(ここ)をご存知ですし、招集すればよいのです。それに、過去の出来事はウイさん自身が普段から日記に事細かく書いているのですから、わざわざ外に出る意味はないでしょう。それに、ウイさんは外出を苦手としている、と私は記憶していますが。違いましたか?』

 そう言った後、ウイに頭を鷲掴まれたまま奥の部屋に連れていかれた黒服は、しばらくすると顔のヒビ割れを一つ増やして帰ってきた。旧時代で言うところのイメチェンだろうとエックは解釈し、彼女に何をされたのか聞こうとはしなかった。

 

 足を膝の位置まで上げないといけないほどに急勾配な階段を上っていくと、天井光が二人を出迎えた。後ろを振り返ると、ウイは膝に手をついて乱れた呼吸を整えていた。

「はーっ、はーっ……きつい。これだから外に出るのは……」

「無理に外出しなくてもよかったんじゃ」

「いえ、たまには運動もしないと、いけませんので。生徒のみんなにも言われてますし。それに」言葉を切る。

「それに?」

「……先生とはこうして、出かけたかったので」

「デートってこと」

「そうは言ってません」

 道を行き交う固定者たちは、二人の横を通ってもウイに見向きすることなく過ぎていく。変装は上手くいったらしい。ウイの顔が割れている中で目立ってしまうと守護者に見つかるかもしれないので、対策が必要だった。

 今の彼女の姿は凡百の固定者そのものだ。ボディラインを拾わない灰色の衣に、艶を抑えた黒のウィッグ。完璧さに感心するものの、エックは少し勿体なく思った。

「輪っかは誤魔化さないでいいのかい」

「色形を認識できるのは先生だけですよ」

「そうなの?」

 他愛のない会話を楽しみながら二人は地下街を歩く。いかにも歴史がありそうな建物をウイは一瞥もせず話を続ける。そう、こんな歴史に価値などない。保護者によって徹底的に漂白された後、意図的に作られた歴史。しかし、昨日の話を聞いてもなおエックはこの建造物群に歴史の重みを感じていた。

「見た目は清潔だけど、建築様式はA区より古そうだ」

「はい。実際には五年の差しかありませんが」

「記録には『七十五年前に固定者居住区開発計画が始まり、二十五年の時を経て居住区は完成した』とあったね。設定上の築年数だと二十年以上は離れていそうだ」

「辻褄合わせのためだけに、()()()建物を古ぼけたように見せて、それでいて外壁の塗装剝げはすぐ補修だなんて。馬鹿みたいですよね」

 たしかに倒錯的だ。秩序のためなら生活水準を低くすることだって(いと)わないらしい。保護者による壮大な演劇の舞台上に二人は立っている。エックは歩道橋の上から足元に広がる大通りを眺めた。網膜に映るのは、保護者の掌で生かされているこの街と少女たち。

 

 そんな調子で散歩していると、前方からこちらに手を振る人影がちらりと見えた。遠目でも分かるぐらいにぶんぶんと勢いよく手を振りながら走ってくる。ハツラツな声がよく届いて、顔もよく見える位置まで近づいたところで、倒れた。見るに、すっ転んだらしい。

「いたた……」

「ヒナタさん、大丈夫ですか」手を伸ばす。

「ありがとうございます、ウイ先生っ」

「外で先生呼びは控えてください」

 長い黒髪で見え隠れする、宝石のように潤んだ赤い目の少女は、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。ウイは少女の服についた汚れをはらう。

「足元には気を付けましょうね」

「珍しく外でウイさんを見かけたのでつい……そちらの方は」

「せん、エックハルトさんです。T区に来たのは初めてとのことなので、街案内をしているんです」

 ここで、エックは当然の疑問を投げた。

「……なぜ、ヒナタさんは遠くからウイだとわかったの?」

「歩き方でわかりますよ!」

 クセを覚えるほどに両者の関係が深いのが垣間見える。そこまでの間柄を持った経験のないエックにとっては、なかなか実感しづらいものだ。

「しっかりとご飯は食べていますか」

「一昨日は食べました」

「お部屋はキレイに整頓してますか」

「なにがどこにあるかは把握してますし」

「シミコさんも心配してましたよ、『また散らかっていたらお仕置きとして一ヶ月間コーヒー禁止にしましょう』って」

「……善処します」

 ヒナタの明るさと世話焼き具合にウイが気圧されている様子は、なかなか愉快なものだ。少女たちに〝先生〟と呼ばれ慕われているはずの彼女からは、あまり年長の威厳を感じられなかった。

 長くなりそうな世間話もそこそこに、ヒナタは二人に別れの挨拶をして走っていった。遠くなっていく彼女の背中を見つめながら、渡された携帯食料をかじる。A区のものより繊細な味付けになっているようにエックの舌は感じ取った。

「ヒナタさんは、私の……友だちでした。漂白化以前のことですが」

「それはどういう?」

「二十年前、〝若葉ヒナタ〟という生徒がいました。その人は真面目で、誰にでも優しくて、おっちょこちょいでよくケガをする、太陽のように眩しい人でした。戦争が始まって二年、桜から最後の花びらが散るころ、安否不明者名簿にヒナタさんの名が記されました。従軍聖職者として前線で祈りを捧げていた彼女は、敵に捕まりました。保護者側とコンタクトが取れない以上、捕虜として生きているのかどうかさえ分かりません。保護者はただ、アクセサリーを航空機越しにこちらへ渡してくるばかりでした」

 ウイは手をポケットに入れて、なにかを掴んで取り出した。掌にはチェーン付きの小さな十字架があった。

「漂白化の後、ゲマトリアの方々に助けられながら地下図書館で身を潜めること五年。外の様子を確認するため、変装して地下生活圏を歩いていると、ルビーのような赤い瞳をもつ少女に出会いました」

 十字架を握り締める。皮膚に刺さったのか、指の隙間から血が垂れ落ち、地面に一滴の汚れを残した。

「その子はヒナタと名乗りました。真面目で、誰にでも優しくて、おっちょこちょいでよくケガをする、太陽のように、眩しい子」

「それは……」

「見間違えませんよ、あの子は間違いなくヒナタさんです。でも、あり得ないことです。本当だったら二十六の誕生日を迎える人が、まだ七歳だと言って、自分の苗字さえ覚えていないんですから。先生から、彼女のヘイローはどう見えましたか」

「ただの白い光輪だったよ」

「私だけはなく、みなさんもヘイローに特徴がありました。ヒナタさんもそうです……保護者が捕まえた生徒をどうしたのかは分かりません。私から言えるのは、私の知る若葉ヒナタさんはすでにいない、ということだけです」

 生徒たちは一人として欠けることなく生きていた。そして、苗字を失い、銃を失い、ヘイローを失った。さらには生徒であることも失い、固定者として生きている。すれ違う少女も、追い越していく少女も元生徒なのだ。

「そろそろ着きますよ。ここを右に曲がれば目的地です」

 二人は光の届かない路地裏へ消えていった。

 

 

 

 ウイが壁に空いた穴に腕の焼き印を見せると、壁がスライドして一本の通路が現れた。人ひとりが通れる幅しかない廊下を進んでいき、広い空間に出ると姿勢よく座る一人の少女がいた。薄いクリーム髪をもつその少女は二人の存在に気付くと、すくっと立ち上がってお辞儀をした。

「ごきげんよう、ウイ先生。それとはじめまして、エックハルトさん。お話は伺っております。どうぞこちらへお掛けください。紅茶、お入れしますね」

 二人を席に案内して座らせると、少女は向かいの椅子に座った。目の前にある三つのカップに紅茶を注ぎ、ポットをそっと置いた。

「トリニティのホスト兼、学生同盟で先生の補佐を務めております、ナギサと申します。改めましてマイスター・エックハルトさん、はじめまして。今後ともよろしくお願いいたします」

「これはご丁寧にどうも……美味しいですね、これ」

 珈琲よりカフェイン含有量は少ないものの、茶葉の生産規制で紅茶もほとんど飲む機会がなくなった。覚醒作用による眠気解消や集中力向上を理由に医療用茶葉として残っているが、処方されたことのないエックにとってはこの一杯が紅茶との出会いだった。

「茶葉は貴重ですが、こうしてご足労いただいたお客様にはお出ししませんと」

「だからって私の分まで用意しなくても」

「お客様、ですからね? いつも地下に籠もって代理である私に業務を押しつけ、何か月ぶりに会いに来たと思いきや流動者を連れてくるような方は……」

「この人はただの流動者じゃありません。私たちと一緒に戦い抜いた先生その人です」

 ナギサはカップを唇に寄せ、山海経産の紅茶を少し含む。カタン。

「ウイ先生がそうおっしゃるのなら、そうなのでしょうね。ですが、T区の固定者代表として、生徒の一人として、エックハルトさんを先生として迎え入れることはできません」

「私の意見は聞き入れられませんか」

「そうではありません。私がよいとしても、みなさんを納得させるには相応の時間と信頼獲得が必要になります。私たちの先生は、古関ウイさんただ一人なのですから。それに、敗軍を指揮した方が今さら、なにをしようと言うのです」

「ナギサ!」怒りを抑えながらも声を荒らげる。

「諫言と捉えていただいて構いません。ですが……」

 エックがピンと手を挙げ、両者の間に割って入る。蚊帳の外であることが不満のようだった。

「ナギサさんの言う通り、私は流動者だよ。このヘイローが偽りである限り、その真実は変えられない。しかし、流動者を味方につけるのはキミたちの利になるはず」

「その心は?」

「私たちの勝機は保護者と直接対峙すること。真っ向勝負だと負けるのは過去が教えてくれたからね。では、保護者に会うための手立てはなにか」数秒間の沈黙。

「学生同盟に与する流動者が保護府中枢に入り込んで保護者に接近する、でしょうか」

「その通り。流動者と固定者、一番の差は『協力者になれるか否か』だ。名誉試験を受けられるのは流動者に限られる。ナギサさん、あなたの目前にそのチャンスがいるんだよ。保護者に一矢報いるチャンスが」

「あなたを信じろというのですか?」

 真偽を見定めようと瞳の奥を覗こうとするナギサをエックは振り払い、ウイに目線を送る。

「私ではなく、ウイを信じてあげてほしい。私を信じる先生(ウイ)のことを」

「お願いします、ナギサさん」

「……わかりました。ですが、学生同盟の〈先生〉はウイさんが()()()()()()()引き続き務めてください」

 カップから漂う、リンゴのように甘く柔らかな香りが部屋を包み込んでいる。鼻孔を通る優しい匂いに、三人の心は少しばかり解されていた。

「失礼、そなたらの話も幕間と相成ったか」

 声のする方を向くとそこには双頭の木製人形と、絵画を抱えた首なしのコート姿の影が立っていた。

 

 

 

 人形がカタカタと音を立てながらテーブルに近寄り、ポットの蓋を開けた。

「ふむ、私たちの来訪は事前に伝えておいたはずだが」

「あなた方は生命活動を保つために補水を必要としないのでしょう。茶葉は貴重ですので」

「…………」

「そういうこった!」

 お客様待遇がないことを確認すると、それらはエックの方を振り向いて前屈気味に顔を見合わせる。目はないものの、エックを隅々まで観察し、満足したのか体勢を起こした。

「おっと、失敬。定型の挨拶を済ませていなかったな。お初にお目にかかる、先生。久方ぶりの再会、大変喜ばしい。私は〈マエストロ〉、ゲマトリアではそう呼ばれている」

「…………」

()の者は〈デカルコマニー〉、絵画は〈シャガール〉だ。双方は互いの〝記号〟として象徴し合い、互いを証明し合って存在している。生憎、シャガールは寡黙なので、彼らの代弁は私が執り行おう」

「そういうこった!」

 人数が増えてずいぶんと賑やかそうに見えるが、空気中は先ほどよりもピリついていた。

「どうやら歓迎の雰囲気ではないが、構わず続けさせてもらうぞ。先生(エック)には私たちの局面を飲み込んでおいてほしいのでな」

「わかった。よろしくね、マエストロ」

 

 マエストロは席に着き、デカルコマニーはその背後で直立したままエックをじっと見つめる。その視線を感じたエックは、全身にかすかな悪寒が走った。

「まずは、先の戦争についてだ。断っておくが、先生が負けるのは有り得ない事象だった。相手はたった一人の生徒、かたや全学園都市勢力……戦力差を覆したことについても多少の疑問は残るが、最も不可思議なのは生徒たちの神秘を抽出した点だ。少女たちは崇高の器であり、神秘と恐怖を写し出す鏡。器そのものに力はなく、崇高にこそ力の本源があった。元生徒である固定者は、いわば空の器であり、無力な脱け殻なのだ」

「保護者には神秘というものを奪う方法があるわけだね」

「ああ。一時は解散したゲマトリア(私たち)であったが、この現象の興味深さに惹かれた。そこで、先生と協力関係を築いて保護者の神秘を探究することにしたのだ。しかし、その方法は未だ不可解である。キヴォトスの生徒たちを実験対象とした崇高への道は黒服が専門とするところだが、彼を以てしても解明には手こずっている」

「そういうこった!」

「先生である私が言うのもあれなんだけど、保護者の神秘について探りたいのであれば、保護者側につくべきなんじゃないの」

「残念ながら、彼女はゲマトリアを〝キヴォトス外からの侵略者〟と見做し、敵対しているのだ。もっとも、芸術を『旧時代の野蛮』だとか、稚拙で的外れな論理を展開するような者と手を組む気もありはしないが」

「…………」

──彼の言っていることは理解しがたいが、ひとまずゲマトリアの立場はわかった。おそらく、彼らを味方だと考えるのは危険だ。神秘とやらに興味があるだけで、生徒たちやキヴォトスがどうなろうと気にしないだろう。警戒を怠るべきではないな──

「相変わらず顔に出やすいな、先生。なに、私たちを信用する必要はない。しかしながら、砂漠の中で砂粒に扮していたそなたを見つけ出し、ここまで導いたのは私たちであることは理解してほしい」

 エックはウイの顔を見て真偽を確かめる。どうやら、ゲマトリアの主張は正しいようだった。シロコが地上に出ていた理由について「おじさんたちにおつかいを頼まれた」と言っていたことを思い出す。

「そなたがホシノから頼まれた一連の手紙も私たちの差し金だ。ときに、古関ウイにあの手紙は渡してあるか」

「あっ……今からでもセーフ?」

 マエストロが少しの沈黙の後にコクコクと頷いたのを見て、懐で温めっぱなしだった手紙をウイに手渡した。ウイは糊を剥がしてそこに書いてある文に目を通す。

「……把握しました。ありがとうございます」

「さて、話を移そう。そなたも気になっているだろう。青空を灰空へと変化させた元凶である〈漂白化〉について」

「…………」

「この現象については、シャガールのほうが造詣が深い。彼の言葉をそのまま、そなたらに伝えよう」

「そういうこったあ!」

 

 デカルコマニーはマエストロに近寄って背中に張り付き、数分の静寂の末に人形が喋りだした。

「……十五年前の二月四日十一時〇分〇秒、最初の〈異変〉が観測された。サンクトゥムタワーを中心に異変は伝播していき、同日一九時〇分〇秒にはキヴォトス全域に蔓延し尽くした。これによりキヴォトスから〝学園〟と〝青春〟と〝物語〟、以上三つの記号の消失が確認された。キヴォトスに根付いていた記号が漂白されたことから、この〈異変〉を〈漂白化〉と呼称した。漂白化現象には保護者が関与しているものと思われるが、なぜ漂白化を発生させたのか具体的な動機は不明。聞きたければ本人に直接問い質すといい」

「消失……でも、私は言葉として三つとも知っているよ。それが何を意味するのかも」

「……記号の消失は、言葉の消失を意味しない。喩えるとすれば、空島という言葉があっても空島が存在するわけではない、そんなところだ」

「そういうこった!」

「シャガール、キミ自身の見解でいい。なぜ、保護者はその三つを消したと思う?」

 次の静寂はかなりの長さだった。エックは過ぎた質問だったと思い、訂正しようと口を開いた瞬間に人形が動き出す。

「……学園と青春と物語。これらの記号には共通する解釈が見出せる。それは可能性であり、不完全性であり、希望であり、破滅。この解釈から生まれる数多の〝テクスト〟が保護者にはお気に召さなかったのだろう。これは私個人の見解であり、参考程度に留めておくことを推奨する」

「いや、貴重な意見、助かるよ。ありがとう」

「……私からは以上だ。他に質問がなければ、これにて失礼する」

「そういうこった!」

 デカルコマニーはマエストロの背中から剝がれ、元の位置に戻った。調子を取り戻そうとナギサが舵を取る。

「エックハルトさんも、これで現状の把握が十全にできたかと思います。今後の方針としては、保護者暗殺を目標とした計画立案とその準備ですね」

「そうだね……ねえ、ウイ。保護者は生徒で間違いないの?」

「はい。ヘイローが確認されているので、そこは間違いありませんよ」

「そう……」

 エックは額に親指を当て、黙り込む。ぐりぐり。少ししてからまた言葉を続けた。

「本当に、殺すべきなのかな」

 

 

 

 場が凍るというのは、まさにこういう状況を指すのにピッタリだ。そう思うほどに凍ってしまった。この言葉に激情をみせたのはウイだった。

「先生、気は確かですか」

「確かだよ、これ以上ないほどにね」

「あなたはそうやって……あのときもそうだったんですか」

「あのときってのが思い出せないけど、そうだね。私が生徒を思う先生なら、まず対話を望むんじゃないかな」

「大勢が犠牲になったんですよ。保護者のせいでどれだけ多くの生徒が死んだと思ってるんです?」

「本当の意味で死んだわけじゃない。彼女たちは今も生きている。神秘を抽出したというのなら、その逆もできるはずだ。みんな元に戻る道があって、それを話し合いで切り拓けるのなら、先生(わたし)だってそうするはず」

 痛み。ブザーは限界を迎えたのか、すでに鳴らなくなっていた。平手打ちをくらった頬に触れる。ウイはエックの胸ぐらを掴み、壁に押しつけた。彼女の瞳は、涙で(にじ)んでいる。

「それができたなら、休戦交渉したあの日にすべて終わったんですよ。でも、そうはならなかった。もう対話なんて無意味です!」

「交渉の場で、二人はなにを話したのか。それを知るのは保護者と私だけなんだ。私がその内容を思い出せれば、もしかしたら希望があるかもしれない」

「もう、死んだんですよ……ヒナタさんも、シミコも、みんな。もう、嫌なんです。ありもしない希望に縋るのは、疲れたんです。やめてください……先生の顔を見ると、また信じたくなっちゃうじゃないですか」

「ごめんね、これが先生(わたし)なんだ」

 ウイはその場にへたり込んだ。彼女の身体をそっと抱き寄せ、エックは受け止める。十九年間の絶望、憎悪、孤独、後悔。彼の胸で泣きじゃくるウイを見ていたナギサも、ハンカチを取って目頭を拭いた。

 

 落ち着きを取り戻したところで、二人とも席に戻って話を続けた。保護者に対してはまず対話を試みて、交渉が決裂したら予定通り殺害する、というところで互いに譲歩した。キヴォトス人は頑丈だが、専用の得物をシャガールたちが用意してくれるらしい。

 その他の予算調整や人員再配置など、それ以降はとくに対立することなく話も円滑に進んでいった。ナギサとウイの仕事ぶりを見ていると、エックは自身の存在意義について自問したくなった。会話の輪に入れないことを悟ると、マエストロのほうに椅子を寄せた。

「ちなみに、ゲマトリアは三人で全員なの」

「現ゲマトリアには三人しかいないな。旧メンバーにはベアトリーチェやフランシス、地下生活者などがいたが……彼らとはあまり良い思い出がないな。どうにもそりが合わなかった。いや、撤回しよう。ゴルコンダとは記号から生まれるテクストの虚構と非実在について語り、興味深い知見を得ることができた。すでに居ないことが実に惜しい」

「エック(わたし)についてはどこまで知ってるの?」

「名誉試験に四回ほど落ちていることは把握している」

「……それって捏造された記憶だったりしないかな。実際には試験を受けてなかったりとか」

「黄色い服を身につけて会場に入っていく場面を四回、会場から出ると手応えを感じたのか小さくガッツポーズした場面を四回、合否通知を見て肩を落と」遮る。

「あー、あー、もういい分かったから。そうだね実力で落ちたんだな受け止めるよ現実を」

「そういうこった!」

 そうこう話しているうちに、消灯時間も近づいてきていた。

「では、みなさま。帰り道には気をつけてお帰りください」

「私たちはお先に失礼する」

「…………」

「そういうこった!」

 ゲマトリアは早々に立ち去る。壁にそのまま向かっていくと、彼らを壁はすっぽりと飲み込んだ。跡も残らずどこかへ消えていった。二人も荷物をまとめ、ナギサに別れを告げて細い廊下を抜ける。路地裏に出て、壁が閉まっていくのを確認してから二人は大通りへと歩く。前を行くエックの背を見ながら、ウイは喋り出した。

「その、今日はありがとうございました。そして、ごめんなさい。先生は悪くないのに、八つ当たりをしてしまいました。生徒の前であんな醜態を晒してしまいましたし。仮にも先生の名を背負っている身なのに……」

「いや、謝るべきは私のほうだよ。私が背負うべき重荷を、生徒に十五年も押しつけてしまった」

「最初の五年は引きこもっていましたので、正しくは十年ですよ。それに、生徒といっても私もいい歳ですから」

「私から見れば三十代なんてまだ子どもさ……ウイは立派にやってくれてる。ヒナタやナギサとの関係を見れば分かるよ。キミは、いい先生だ」

「先生、今日なんだか私のことを泣かせにいこうとしてませんか」

「いやー、気のせいだよ」

「ふふっ、ありがとうございます。先生」

 大通りに出ると、建物で遮られていた光がエックの全身に注がれる。思いきり背筋を伸ばして、深い息を吐いた。本物の太陽ではないにしても、日陰にいるよりかは多少の元気を与えてくれる。

「よし、帰ろうか。ウイ」

「……」

「ウイ?」

 光の届かない路地裏には、誰もいなかった。十字架のピアスと、ロケットペンダントを残して。




ゲマトリアのセリフ考えているときが一番楽しいかもしれない
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