青春の物語は未だ潰えぬ。
──大草原で日向ぼっこというのも、なかなか良いものだ。久しぶりの陽光が五臓六腑を癒やしてくれる。大の字で寝て、嫌なことはすべて忘れてしまおう! しかし、音がする。お迎えだ。あー、起きたくない。あと五分だけ──
アラームの音が聞こえる。エックは観念して目を開き、テーブルの目覚まし時計に手を伸ばした。
BCFから解放されたものの、怠惰な彼には目覚めを促すものが必要だったのだ。内側にあったものが外側に先祖返りしただけで、本質は変わらなかった。
エックは慣習に従って、彼女が毎朝コーヒーを淹れていた台所まで向かった。彼女と同じように珈琲を作ってみよう、そう考えた彼はコーヒーミルを手に取る。豆をスプーンですくって入れて、すくって入れたらフタを閉め、取っ手をゆっくり回していく。微粉になるまで挽いた豆をマキネッタの中のフィルターに流し込んだら、コンロの上で弱火にかけて抽出を待つ。
この数分間を、彼女は珈琲を淹れるときの楽しみの一つだと言っていた。上部の蓋をずらして覗くと、コポコポと音を立てながら焦げ茶色の液体が湧き出る様子が見られる。この光景を、彼女は何回見ても飽きないと、そう言って先生に微笑みかけていた。
出来上がった珈琲を二つのカップにちょろちょろと注ぐ。好みの量のお湯で割れば、彼女が愛飲していたアメリカーノの完成。
エックはこぼさないようゆっくりと、両手に湯呑みで暖炉前に運んでいく。
棚に飾られたロケットペンダントの傍に片方のカップを置くと、彼はソファーに腰を下ろして珈琲をすすった。
「……不味いな」
一度見ただけの作業を見よう見まねでやっているのだから、美味しいわけもない。エックは考える、あの味を再現するまでにどれほどの時間が必要なのか。
おそらく、どれだけ時間をかけても、何千回と淹れようとあの味にはならない。彼女が楽しんでいた一つ一つの工程を、彼はどうしても楽しめていないからだ。どこまでいっても作業はただの作業で、だから美味しく作れないのだろうと、エックは半ば諦観の気持ちだった。
ペンダントと、リボンと十字架が横三つに並べられ、小さくも暖かな灯りに照らされていた。エックは考える、果たして先生をこなせるのだろうか。
結局のところ、珈琲を淹れるのも先生を全うするのも同じことで、うわべだけをなぞって本質を掴めないままでいるのだ。
カップをぐいっと傾けて中身を飲み干す。沈殿していた粉末が舌の上に広がった。
古関ウイの死から三日後。早くもその出来事による動揺はT区全体に波紋のように広がっていた。
学生同盟を指導する〈先生〉の席が不在の今、誰がその席に座るのか、幹部間できな臭さと不穏な空気が流れている。いわゆる権力闘争のような状態だ。
しかし、どの生徒が
求心力を失った学生同盟は数年もしないうちに、保護者の脅威ではなくなるだろう。エックはそんな明日を憂いながら紙の山を整理する。
その大半はメモ書きで、大した意味を持たないものばかりだった。やることリストや複製時に書き損じたページ、生徒からの手紙などもある。どれも綺麗なまま残されていた。
彼は暖炉の火を見つめる。エックなら捨てるだろう、先生なら大事にしまっておくのだろう。そのとき、彼の思考に恐ろしい影が差した。
──私は
「先生、少々よろしいですか」
紙の山から顔を出すと、そこには黒服が立っていた。
「申し訳ないけど、珈琲は二人分しか用意してないんだ」
「ええ、構いませんよ。それよりも、これをウイさんから預かっていまして」
黒服は手を懐に入れて取り出した手紙を渡す。エックが封を切ると二枚の紙が出てきた。
一枚目には、作業机の引き出しに保護者の能力について判明していることをまとめたノートがあること、ナギサは先生就任の手助けをしてくれることなど、一言でまとめれば引き継ぎのためのことが書いてあった。
〈私は、学生同盟の先生として、エックハルトを指定する〉
二枚目の冒頭には大きく書かれた遺言書という文字と共に、後任としてエックを選ぶ旨が書いてあった。
「あなたが地下入りしたその日に書かれていました」
「私が断ったらどうする気だったのかな」
その手紙にはエックハルトと達筆な字で書かれているが、その信頼は先生へのものだった。
彼はその紙をしまうと〈輪っかちゃん〉のヘイローを起動させる。ロケットペンダントを首にかけ、エックはドアノブを回す。
「その書面があれば幹部である十二生徒は承認してくれるでしょう。しかし、今のあなたは流動者の身。全員に迎え入れてもらうのは時間がかかるかと思います」
「なに、考えはあるとも」
三日ぶりに浴びた天井光は、太陽と見紛うほどの眩さだった。
ウイの訃報はすでにゲマトリアの情報伝達網によって各地に散った生徒の耳に届いている。皆一様に嘆き、計略を練り、T区に赴いていた。
エックが集会部屋に着くと、十二人の生徒が円卓を囲んで話し合っていた。彼が来たことに気付いた少女らは次第に口を閉ざし、場は静まった。
「お待ちしておりました、次期先生候補のエックハルトさん」
「もう知ってるのか」
「遺言書のこともそうですが、以前からウイさんは本来の先生に座を譲りたいと再三おしゃっていましたので」
円卓の座は一席だけ空いていた。しかし、この目線の中で意気揚々と座れる人はなかなかいない。空気を人一倍読めるエックなら尚のことだ。
彼はその場に突っ立ったまま、話の中心に引っ張り出された。
「それで、キミたちは私を先生にするのはどう思ってるのかな」
「賛成が五、反対が六、棄権が一です」
「エックハルトさんはアビドスで私たちのために奔走してくれました。〈先生〉にふさわしい人だと思います!」
「ま~いいんじゃないですかあ。ウイ先生が選んだ後釜なんですし」
「彼が〈先生〉に相応しいのかを判断するのに二回、三回の善行だけではサンプル数に欠けるわ。この目で実際の行いを見るまでは、本当にウイ先生の言っていた
「キキッ、リオ会計の言う通りだな。それに、固定者たちが青春を手にするべく集った組織のトップが流動者だなんて、とんだお笑い
「むにゃ、むにゃ……プリン、先生と…………」
空気が重たくなるのが肌で分かる。彼女らにとって古関ウイがどのような存在だったのか、想像に難くない。
学生同盟を立て直し、彼女の意志を継ぐのなら、まずはこの場にいる全員をエックが納得させなければならないだろう。
『エックさん。あとは、お願いします』
無論、ここで退こうなどという選択肢は彼の頭になかった。約束をきっちり果たすのも大事な処世術だ。エックは空席の背もたれに手を置き、口を開ける。
「この遺言書にある通り、古関ウイ先生は後任者に私を選んだ。けど、この席に座るのはあなたたちを頷かせてからにすべきだね」
「ほう、ずいぶんと自信のある口ぶりだ。本物の太陽を浴びて育った頭なら、地底人を説き伏せるのも容易いか」
「マコトちゃん、そんな言い方……」
エックは擁護しようとするユメの言葉を遮った。それを見て角の生えた少女はキキキと笑い声を漏らす。
「私が流動者でなければ、キミたちも文句はないわけだね」
「そうさな、妾たちが憂慮しておるのはその点じゃからのう」
「なら、固定者ということにしてしまえばいい」
その発言で場が騒がしくなる。反応は三者三様で、頷いて同意する者、顔をしかめる者、眠りこけたままの者といった様子だった。
「我らに嘘をつけと?」
「私たちにとっては嘘でも、私の正体を知らない子たちにとっては真実になる」
「明るみに出ればおしまいですよ」
「この紙を破って私以外の誰かが就任したとしても、求心力のない学生同盟は緩やかに死ぬだけだ。それはキミたちが一番分かっていると思う。ウイと同列か、それ以上の象徴が必要なんだよ。例えば、大戦争の最前線を戦い抜いた先生とか」
ウイは初めから、生死不明の先生が帰ってきたときのために手足となって動かせる組織として、この学生同盟を結成した。
そして、青春を知らない子どもたちに千の物語を紡いだ。ウイは少女たちに語る、大戦争で青春のために戦った先生のお話を。
今となっては彼女の意図なのかどうか分からないが、その物語は固定者の中で神話となっていた。
固定者にとって、先生とは
先ほどまで不敵に笑っていた少女は角をポリポリと掻きながら、鋭い眼差しでその元先生を見た。腹を探るようにじっくりと観察する。
「……いいじゃないか。どんなお題目を唱えるつもりだ?」
「保護者に捕らえられていた伝説の固定者である〈先生〉が古関ウイの尊い犠牲によって解放され、再び生徒のもとに現れた……なんてのはどうかな。これまで〈先生〉が行方知らずだったのは敵に捕まっていたからということにして、ウイが敵地で死んだのはその〈先生〉を助けるためだったことにするんだ。これならウイの死に意味が生まれるし、私が学生同盟を継ぐのも納得できる」
「ウイ先生は〈先生〉のことを固定者とは明言しておりませんよ」
「そして流動者とも明言していない、でしょ? ウイがメモ書きで残してたよ」
エックが机に置いたシワだらけの紙切れには、先生にヘイローがないことは伝えない、と書かれていた。物語を語る上で、自分への注意書きに使ったのだろう。
固定者と流動者の溝は、先生という救世主伝説さえもかき消すほどなのだ。
「固定者たちは私を信じる。そして、あなたたちはウイ先生の判断を信じてほしい。これから私は固定者として生き、青春のためにこの身を捧げることを誓おう。どうか、この席に座ることをお許し願いたい」
十二生徒は押し黙る。固定者を前に膝をつき頭を下げる流動者なんて、彼女たちは見たことがなかった。遺言書という正当性がある以上、彼女らからの承認を得る必要はない。
実際、彼は有無を言わせずに座るだろうと考えていた反対派にとって、この言動は意表を突かれた。
「では、エックハルトさんの意見を踏まえまして、もう一度票決を取りましょう。生徒一同、テーブルの上に片手をお出しください。エックハルトが先生に就任することに賛成の方は手の平を、反対の方は手の甲をお見せください」
ユメをはじめとした賛成派は再び平を見せ、先ほどは反対派だった生徒も何人かが平に返した。文字通りの掌返し。
「賛成が八、反対が三、棄権が一。過半数議決の原則に基づき、十二生徒はエックハルトの先生就任を認めます」
少女らが拍手を送る中でエックは席に座った。組織のトップが座るというには作りの甘い椅子で、座り心地の良いものではなかった。
「改めまして、エックハルト先生……」
「エック先生でいいよ」
「では、エック先生。今後の学生同盟の方針を決めましょう」
「前任の古関ウイが定めた目標である『固定者解放』に加え『保護者並びに協力者打倒』の計画を本格的に進めよう」
その日の会議は大まかな方針だけを話し合い、解散となった。マコトは居眠りしたままの少女の肩を揺らす。
「おい、チェリノ書記。そろそろ起きろ」
「んぐっ……ま、待ってくれ。おいらは寝てなんかいないぞ。熟考する姿がそう見えてしまったのなら謝っておこう」
「マコト様が代わりに記録しておいてやったんだ。プリンを返礼品として期待しておこう」
「おいらだって絵本でしか見たことないのに、贅沢なやつだな!」
すたすたと部屋を立ち去るチェリノの背中を見ながら、マコトは思案に耽る。
「キキ、キキキッ……やるじゃないか、エックハルト。しかし、このマコト様の目は欺けないぞ。必ずや本性を暴いてウイ先生の意志を継ぐ。私こそが、真の先生だ」
高笑いが静寂に包まれていた空間を響かせる。少女は笑いすぎで咳き込んだ後、ご機嫌な調子で部屋を出た。
私は目を覚ます。素晴らしい一日の始まり。いや、これは誇張だ。あれからずいぶんと経つというのに、体内に残留している棘が鈍い痛みを提供しているのだから。おかげで睡眠を取らなければいけない始末。なんと面倒なことか。
さて、正気を保ち直して彼を観察しなければ。
エックが先生に就任して、何度か季節が巡った。と言っても「季節」という言葉は、第一四三八回保護者会にて秩序を乱す単語と認定されデータベースから削除されたが。
思考教授としての知恵は組織運営の役に立った。生来の勤勉さも上手く作用し、データベースの記録だけでなく地下図書館に所蔵された本からの知識も着々と蓄えていった。
今のエックなら、イヴとアダムの原罪のお話をベースとした皮肉だって言えるだろう。
ウイが残した文書や色々な文献を読んで、エックなりの先生像も輪郭がはっきりとしてきた。
生徒たちと真摯に向き合い、主体的な問題解決ができるように支える。そして、取るべき責任を背負う。
大人と子どもなんていう括り方はいかにも旧時代的で非文明的かもしれないが、先生と生徒とはそういった関係なのだと彼は結論付けた。その野蛮な関係を受け入れた彼は、妙に嬉しい気持ちで満たされた。
それらエック先生の実直な行動は、十二生徒を含めた多くの固定者たちからの信頼を積み重ねていった。
先生交代になってから数えて四回目の会議。ゲヘナで開催された円卓会議の終わりをエック先生が告げる。シンと静かになった会議室で少女は頭を抱えた。
「なぜだーっ! ぜんっぜん弱みを握れないじゃないかーっ!」
「先輩、イブキが起きてしまうので静かにしてください」
健やかな眠りについた少女に毛布をかけ、ふわふわな赤髪をもつイロハはマコトを諫めた。
「どうしてだ……ゲヘナの情報網をもってしても、聖人君子のエピソードが積まれていくばかり」
「そろそろ諦めていいんじゃないですか。先生は悪い方じゃないと思いますよ。それに、余計な人員コストを削っていただければ、私の仕事も減りますし」
「ぐっ、それは確かにそうだが。やはりナギサを陥れて補佐の地位に就き、先生に近づいて籠絡するべきか?」
「……あの人、もう四十超えてるんですよね。なら、年老いて隠居したタイミングを計って乗っ取ったほうが楽なんじゃないんですか」
その言葉を耳にしたマコトはピタッと止まり、地面にまで届きそうな麗しい銀髪を勢いよく揺らしながらイロハのほうを向いた。
「そ、それだ! その手があったか! これでキヴォトスは私の手に……精々、老後を楽しみにしておくといい、エックハルトよ。キキキ、キャハハハハ!」
「静かに」
「すまない」
急行列車の揺れは一際激しい。度重なる出張で乗り物酔いに耐性がつきはじめたエック先生でも、モーセを含まなければ酔い潰れ待ったなしだ。暖房の効かない車内で毛布にくるまって彼は小型ペンを走らせる。
「
「最初から壊れた状態で設置されていても、その最初を知らないから『古いからガタが来てる』と考えてしまう。保護者が直接手を下す必要もなく、私たちは自ら歴史を捻じ曲げるんだ」
馴れ馴れしく対面の席に座った黒服が不愉快な笑い声と共に話しかけてくるのを、エック先生は手を止めずに適当な返事で流す。
「次はR区ですか。あの地区は上でも下でも寒いですから、体調管理にはお気をつけてください」
「助言どうも、気をつけるよ」
軽くあしらう彼をつまらなく思ったのか、黒服はしばらく黙って窓外の景色を眺める。次に沈黙を破ったのはエック先生だった。
「なにか伝言でもあるんじゃないのか。まさか、ただ会いたくて~、みたいな女々しい理由で来たわけじゃないよな」
「クックック……もし『そうだ』と返されたら、どうするおつもりで」
「
「ほんの軽い冗談ですよ。保護者打倒のためにも、エック先生に把握してもらうべき事実を伝えようと思い立った次第です」
「……古関ウイのことか」
エック先生はペンと紙を手のひらサイズの筒にしまい、歯に紐を引っかけて飲み込んだ。二人は目線を合わせると、機嫌を取り戻した黒服が白い光を揺らめかせる。
「お察しの通り、ウイさんのことについてです。ウイさんの死を
「ウイが殺されることは織り込み済みだったんだな」
「思ったより冷静ですね」
「冷静に見えるなら、その目。もう少し大きく開かせあげようか」
刃物の柄に手を添えて、エック先生は冷たい声を吐く。黒服は一切調子を崩さず話を続けた。
「保護者は取り込んだ神秘を利用することができます。複数の神秘を同時発動できるのかは確定していませんが、〝できる〟とみていいでしょう」
「ウイもそう書き残していた。その全能を前に過去の私は敗北を喫したと」
「ええ。その能力を利用して私たち……より正確に言えばエック先生、あなたは保護者直々の監視下にあるものと思われます。この会話も筒抜けでしょう」
「いつでも刺せるように、かな」
「保護者の動向から推察するに、先生を殺すつもりはなさそうです。少なくとも当面のうちは、ですが。先生を利用するつもりかと」
「なぜお前たちは監視されている私を、シロコを危険に晒してまで
柄頭を指先でトントンと叩きながらエック先生は質問を詰める。
「ウイさんが望んだことですから。もちろん、私は事前にその危険性を忠告しましたよ。当人はただで老いるつもりはなかったようですね」
「それはゲマトリアも望んでいたことだろ」
「もし『そうだ』と返されたら、どうするおつもりで」
──落ち着け。相手のペースに吞まれるな。ナイフを突き立てようとこいつは死なないし、殺せても保護者への道が断たれるだけだ。ウイの献身を無駄にするな。ケジメは保護者を絞めてからでも、遅くはない──
「……どうもしないさ。お前たちが関心を寄せているのは崇高という観念だけだというのは、承知の上だ」
どうもしない、という割にその右手は柄をしっかりと握り締めていた。エック先生の様子を見て、黒服は嘲笑うかのように声を上げる。
「クックック、ご理解いただけて嬉しい限りです。この際、正直に話してしまいましょう。ゲマトリアはキヴォトスの未来など憂いていません。保護者が一体何者なのか、すべての神秘を取り込んだ存在とは果たしてどのようなものなのか、それだけに注視しています」
「私もそのための駒か」
「まさか、私たちはパートナーですよ。お互いに利用し合っているのですから」
しーん。
「ああ、もしかして今の台詞って笑いどころだった?」
「お気になさらず」
列車が北に向かうにつれ、空気の凍るような冷たさが肌を刺す。黒服は身震い一つも見せない。
「もう一つ、伝えておくべき情報を。保護者打倒についてです」
「なにか攻略法でも見つかったのか」
「残念ながら、その逆です。先生に回収していただいた銃、あれはデカルコマニーが改造した作品であり、対保護者として設計されたもの。あなたに渡したそのナイフと同じです。弾倉の装填数が一つ減っていたことから発砲したと思われますが、保護者は今も生きています」
学生同盟の動きは監視され、攻撃も通用せず、いつでも手に掛けられるというのにわざと泳がせている。エック先生の思考に、ただ〝詰み〟の二文字が浮かんだ。
「そんな顔をせずとも、まだ切り札はあるでしょう」
黒服はぐいっと顔を近づけるとエック先生の内ポケットに手を入れ、一枚のカードを取り出した。経年劣化で汚れた黒色のそれはまだ自らの役割を思い出せずにいる。
「大人のカード?」
「これは不可解な奇跡を起こす代物。あなただけの武器。とは言ったものの、先生が記憶を取り戻さない限りは無用の長物ですが」
「たかが一枚で戦況がひっくり返るものかな」
「ひっくり返せるから奇跡と呼ぶんですよ。しかし、力には代償がつきもの。あのときは……」
「余計なことはいい。要は思い出せば勝ちということだね」
〈終点。R区、十の二七。終点。R区。十の二七〉
列車の揺れは次第に収まり、警笛が車内を駆け巡る。エック先生は毛布をカバンに詰めて手荷物をまとめ立ち上がった。モーセを一錠かみ砕き、列車を降りた。
一分十五秒置きに北から流れる冷たい風に身を震わせながら、彼は歩く。ただ、向かうべき地まで歩き続ける。小さくなって消えるその影を黒服は窓際から黙って見送った。
「……期待してますよ、エック先生」
黒服はやはりこれぐらいの外道さが欲しい。先生と仲良くしたいくせに生徒は道具としてしか見ていないカスさが美味しいんだよね。