鼻腔を刺激する、しつこいくらいに上品な香り。
自らが珈琲であるかのように振る舞う熱湯を二つのカップに、交互に注いでいく。
そして、粒が沈殿した残りをウイのカップへ。傾けたポットの口から最後の一滴がゆっくりと滴り落ちた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
棚に置かれたカップが湯気を巻いている。エメラルドグリーンの瞳に細長い瞳孔を輝かせ、少女はフーッ、フーッと水面に息を吹きかけた。
「熱いうちに飲んだほうが美味しいよ」
「そ、そうですか。では……」
傾けられたカップから少女の口内へ。バランスの取れた酸味と苦みがワルツを舞って、ほんのりとあるコクが軽やかなステップを踏む。人生一杯目の珈琲はとても好印象なものとして、彼女の記憶に刻まれた。
「美味しいですね、とても」
「そりゃよかった。彼女の出来には到底及ばないけどね」
「ウイ先生はこの飲み物を好んで飲んでいたと、十二生徒の先輩方から聞いてます」
「うん。私のは、その……いや、なんでもない」
所詮は真似事でしかない。なんて言葉を吐いても、生徒が困ってしまうだけだ。先生としてマイナス思考を口走ろうとしたことを密やかに内省した。
「初めてここに来ましたが、とても雰囲気の良いところですね。静かで、暖かくて。本も綺麗に整頓されていますし」
「この量を整理するのは、なかなか骨が折れたよ」
エック先生は空になったカップをテーブルに置く。並べられた本の背表紙をなぞって、お目当ての本を指で抜き取った。
埃を払いながらパラパラとページをめくる。
「この前に渡した本、どこまで読んでくれた?」
「論語ならすでに読み終わりましたよ」
「早いね、さすが。君主論のほうは?」
「第十四章の……軍事に関する義務についてまでは」
本をパタンと閉じて、向き合う形で椅子に座った。暖炉の火が煌々と二人の顔を照らす。薄い赤紫髪が、少しばかり暗い図書館の中で目立っている。
「このキヴォトスからは遠く離れた世界の、東と西。それぞれの地で育まれた人の在り方や、君主の在り方。私からの知恵の贈り物はどうだったかな」
「この
「……カヤ、キミに保護者の是非を問いたい」
天井光が何百もの明滅を繰り返しているうちに、学生同盟も随分と様変わりした。一二〇名ばかりだった生徒も、今や一四〇〇だ。十二の主要な共同体の各人数も合わせれば、万は優に超えるだろう。
エック先生が散歩道を気怠げに歩けば、人々はすれ違いざまに声をかけて歓談に花を咲かせる。列車の窓に肘をついて物憂げに外を見つめれば、人々は遠くから手を振る。
地下で張り巡らされ、増殖し、膨張し、肥え太った同盟は〈学生連邦〉へと名を変えた。
属する固定者共同体も各地区での権威を確固たるものにしていた。とくに〈ゲヘナ〉や〈トリニティ〉はそれが顕著で、学生連邦への影響力も一際強い。末端の構成員が守護者に捕まる事件も増えていて、組織規則の課題が表面化しつつあった。頭痛の種は減るどころか増すばかりである。
先生を中心とした地下勢力はすでに地を這う虫けらではなく、猫を噛み殺す大鼠と成った。しかし、保護府転覆にはまだ足りない。
せいぜい、玉砕覚悟で特攻をすれば主要な建造物を三棟ほど瓦礫の山にする程度でしかない。彼女らが放つ鉛玉は、堅牢な砦の上に立つ保護者の眉間にはまだ届きそうにない。
保護者の手の上で茶番劇をこなしているうちは、エック先生は迂闊に手札を切れないまま。保護者が彼に何を求めているのかも分からない現状を打破するためにも、〈大人のカード〉とは別の切り札を彼は探していた。
二ヶ月前、エック先生が戦前の資料を読み漁っていたときに〈連邦生徒会〉についての詳細な記録が見つかった。連邦生徒会長の失踪、七神リン代行による執政、不知火カヤ防衛室長のクーデター。
なぜウイがこの人材たちを使わなかったのか疑問は残る。資料と照らし合わせると生徒と固定者は身体能力、あるいは埒外の特殊能力が喪失している以外に変化はみられない。ならば、使わない手はないだろうに。
連邦生徒会に対する不信からか、もしくは先生のために手付かずで残したのか。ペンダントは答えてくれそうにない。
カヤはカップの中身をぐいっと飲み干した。液体が食道を通って身体の一部になる。珈琲を十分に味わうと、彼女は口を開く。
「はっきり言ってしまえば、保護者が敷いた社会は完璧です。餓死も貧困も戦争も、すべてを過去のものにしましたから。私たち十二生徒がどう思っていようと、大半の固定者は今に満足しているのがどうしようもない現実ですね」
「なら、保護者は正しいのかな」
「子曰はく、『己を脩めて以つて敬す』と。会ったことはありませんが、会ったことがないからこそ断言できます。私たちを地下に追いやり、差別という枷をはめ、その上で合わす顔さえないとでも言いたげに、地上で閉じこもっているような人間が正しいわけありません」
カヤはハッキリと、そう断言した。顔に
「なら、上に立つ者としてふさわしいのは誰だろうね」
「それこそ先生でしょう。自身を修養し、世の中を安泰に導ける方なんですから」
「いいや、違うよ。立つべきはキミたち自身だ」
暖炉に薪をくべる。乾いた木は弱々しくなっていた火に包まれて、パチパチと燃え立つ炎となった。
「先生とは、教え導く者。キミたちが再び自由になれるよう手助けしているだけ。いつか自由になったそのとき、キミたちは自分の足で立って前に進まなくちゃいけない。自分で責任を負わなくちゃいけない」
「それは……」
「まあ、その〝いつか〟がくるまでは、私に任せてね」
「あらたまってこの話をしたのには、なにか訳があるんですか?」
エック先生は優しくカヤの手を取って立ち上がる。暖炉を横切って奥に歩いていく彼の背中を、少女は黙って見ていた。振り向いたその顔にはすでに笑みなどない。
「私は保護者に監視されている。今、この瞬間も」
カヤはその場に凍りついた。針を刺す視線にでも囲まれているかのような錯覚に陥る。テンポが早くなった心臓の音が彼女自身の耳にも届く。
平静を装うと試みる様子に、少し気の毒な気持ちが湧きながらもエック先生は一枚の紙を手渡した。
「カヤが超法規的権限を有することを証明する紙切れだよ。煮るも焼くもキミ次第。一人で東奔西走もよし、仲間を集めて超法規的機関を運営するもよし」
「……こんなものを渡されましても」
「たとえ保護者でも、同時に二人は監視できないでしょ。なら、私の思惑から外れた組織を用意すればいい」
「ですが、私にできるのでしょうか」
その言葉を聞いて、エック先生は口を押さえた。資料にああ書いてあった少女が、まさか。いかにも不安そうな顔がますますツボを刺激してきてしょうがない。しかし、その不安は嘘偽りなく本物。
同じ名前、同じ髪色、同じ性格、同じ才能、同じ欠点。だからどうしたというのだろう。以前とは一八〇度も違う経験をしている以上、不知火カヤと固定者カヤは似て非なる人物だ。こういう反応を示すのもそう不思議なことではない。
一通りして笑いの波が収まると、彼は笑顔で答える。
「私はカヤのことを信じるよ」
「……わかりました。私も腹を括りますよ」
「あ、そうそう。リンちゃんとかキミと相性良さそうだし、なにか困ったら彼女を頼るといいと思う」
「やっぱりこの紙破きますね」
暖炉の火も燃え尽き、卓上の蝋も短くなっていた。そろそろ寝ようとエック先生が吹きかけた息を黒い手が阻む。
「もう寝るつもりなんだけど」
「まあまあ、大人同士の語らいもたまにはいいじゃないですか」
「キッパリ言わせてもらおう。私はお前が嫌いだ。わかった?」
「ええ、分かっていますよ」
「理解してくれたならいいんだ。おやすみ」
「カヤさんを選んだのは、なにか意図があってのことでしょう」
席を立とうと腰を上げていたエック先生は少しの葛藤の後にまた腰を下ろした。彼はため息交じりに答える。
「資料を読んだかぎり、彼女は優秀だ。それこそ、リンと組めば私の期待以上の結果が生まれるかもしれない」
「両者の関係はあまり良好だとは思いませんが……カヤさんはクーデターの件がありますので、先生の地位を奪うために謀らないとも言い切れませんよ」
「私の思惑の外に配置してしまった以上、それは賭けだ。でも私はカヤの可能性を信じるよ。今度こそ、信じてあげたい」
黒服は黙ったままピクリとも動こうとしない。すでに蝋は尽きかけ、ちょこんとした小さな火を必死に抱えている。黒服は指先で火を押し潰した。燭台の受け皿には真ん中を凹ませた芯と蝋が残されていた。
「夜更けに呼び止めてしまい申し訳ありませんでした。お詫びとはいってはなんですが」箱を手渡す。
「これは……」
「モーセです。ここ最近は地下への供給が少なくて先生も久しく摂取していないのでは? 目の隈をみるに相当お疲れのようですので、睡眠導入に一粒どうでしょう」
紙箱の側面をなぞり、爪を蓋に引っかける。鼻を近づけるとほのかに香る懐かしきケミカル臭。刺激される五感に呼応して指先が震えだす。分泌される唾液を喉奥へとしまい、箱を黒服の胸部に押しつけた。
「預言者を摂るのは辞めたんだ」
「ふむ、それはまたなぜ」
「かつての人間が、生まれた子どものためにタバコを控えるようになるのと同じだよ」
エック先生はそう言って部屋を出た。
──最近はもっぱらこんな夢ばかりだ。焦土に私がただ一人。
あちこちから死の匂いがする。
瓦礫の下から覗かせる腕。
誰かが落とした腸の欠片。
紅く染まった世界で、声が聞こえる。
自由か、平和か。自由か! 平和か!
善か、悪か。善か! 悪か!
繰り返しのスローガン。二元論の渦へと
私の足を引きずって、私の手はもがく。
散らばったガラスや歯が表皮を突き破り、
剥がれた皮から筋繊維と骨が露出する。
ああ、主よ、主よ! どこへ行かれるのですか──
天井光を仰ぎながら物思いに沈む。屋上を吹き付ける乾いた風が身体から水分を掠め取る。
「黄昏れてるんですか」
「ここに夕暮れはないけど~」
「比喩ですよ、比喩」
ホシノは軽い挨拶をすると、定位置で仰向けになって目を閉じた。
「昼寝かい」
「……眠いので話しかけないでください」
「独り言として流して構わないよ」
「……」
「キミと初めて出会って、ナイフで脅された日からもう二年も経ったね」
「その話はやめてください」
エック先生は笑いながらホシノの隣に寝転んだ。強烈ながらも辛うじて直視できる天井を眺め、あくびをする。
「何度来てもここは飽きないね。ホシノが気に入るのも分かるよ。人が支え合い、助け合うこの素敵な町を一望できるんだから」
「先生が昼寝の邪魔をしにこなければ、もっと気に入るんですが」
「ふふっ……この素敵な景色も、ホシノの活躍あってのものだね」
「ユメ先輩のおかげですよ。あの人は、底抜けに優しいですから。みんなその優しさをみて育つんです。それで、アビドスは人の温かさで溢れる。彼女がいなかったら、私のような人間は独りぼっちでした」
「そうかな、私はホシノとのお喋りを楽しんでいるよ。ヘイローつけなくていいし」
腹の上に置いた輪っかちゃんを撫でながらそう言った。ホシノはエック先生の横顔をじっと見つめる。
「エックとしての初めての生徒が、アビドスのみんなでよかった」
「やけに辛気くさいこと言いますね。死ぬつもりですか」
「んー、まあ似たようなものだけど」
天井の隙間から送風された空気の流れが二人の間を横切る。少しの沈黙、ホシノはエック先生の手に触れた。少し角張っていてゴツゴツとした手の甲から、ほのかな温かさを感じる。
「一年後、協力者のテストを受けるんだ」
「どうしてです」
「保護者との決着には、失った過去が必要だ。けど、色々試してみても記憶は取り戻せなくてね。なら奪った保護者に直接会って、取り戻すついでに懲らしめるのが手っ取り早いかなと思って」
「決着にこだわらなくても、いいじゃないですか」
少女は握る。決して離さないために荒縄を掴むように強く。しかし、決して壊さないために羽毛を撫でるように優しく。
彼は先生であることを崩さず、その手を握り返した。
「この暗雲の時代を終わらせないといけない」
「暗雲の下でも、私たちは笑って暮らせますよ」
「ダメだ。私には責任がある」
「責任、責任って。なにが責任なんです?」
「ホシノ」
「どうして、先生が過去を負わなくちゃいけないんですか。昔話なんかに苦しむ道理がどこに……!」
「私の目を見て」
黒い瞳の奥には灯火があった。優しくも絶えることのない火。
黄色と灰色のオッドアイ、その瞳には影があった。触れればたちまち沈んでいくような不安の色。火が大きくなるほどに、影はますます濃くなっていく。
「ホシノ、キミの夢はなんだい」
「……クジラを、見てみたい。絵本や図鑑じゃない、本物のクジラ。この目で、見てみたいです」
「なら、いつか見に行けるように、私がなんとかする」
エック先生は目線を外し、二人の手は離れ離れになった。遠くなっていく背中に手を伸ばすが届きそうにない。届いたとして、どうするのか。
「待ってください」
ホシノの声でエック先生は振り返る。少女は立ち上がるが、彼に近づこうとはしない。
「私はみんなと、クジラを見に行きたいんです。言っておきますが、その〝みんな〟には先生も入ってますから」
「……わかったよ」
霞んだ銀色の扉が閉まって、屋上にはただ一人。乾いた風が吹きさらす。
細長い階段を上っていく。どこまでも、どこまでも続く階段。ゲマトリアが体力のあるシロコを選んだのも頷ける。足を踏み外さないようにしっかりと一歩ずつ踏みしめた。
下半身の感覚がなくなってきたところで、ようやく扉にぶち当たった。手探りでドアノブを探し、手に触れた突起物を回した。扉の隙間から漏れ出てくる鋭い光に目を細めながら、扉の外へと飛び込んだ。
網膜が光に慣れてくると、だんだんと懐かしい光景が広がる。この路地裏で、教授は終わり、先生が始まった。そしてまた、教授としての生を歩む。
痙攣する足をなんとか引きずって表通りへ向かう。記憶よりも、路地裏の道が長く感じる。心音が煩くてしょうがない。
一段と強い光が全身を包んだ。空を飛び交う車の風切り音。ヘイローのない通行人。どこまでも広がる大空。
「きゃぁっ!」
「うわ!」
「……相変わらずだな、地上は」
エックハルトはため息交じりにそう吐き捨てると、悲鳴を飛び交わせて離れていく人々には目もくれずに自部屋までの散歩道を歩く。
しかし、この愉快な帰り道も早々に終わりを迎える。
「そこの黄色い服、止まりなさい」
「なんでしょう」
「服が汚れていますね。何日前に交換しましたか」
「二年前です」
守護者はこれ以上ないほどに目を見開いた。たった二日だけ着続けても義務違反なのに、まさか年単位の人間がいるとは考えもしないだろう。正確には一日しか着ていないが。
「……保護義務法第三七五条、衣服交換違反の疑いで身柄を拘束します。よろしいですね」
「ええ、構いませんよ」
ゴムのように伸び縮みする拘束具を手首に巻き付けられ、車の中に案内された。エックは抵抗することなく後部座席に座る。
暗く狭くてジメジメとした部屋に連れてこられてから、随分と時間が経った。一応、窓の外から定期的に投げ込まれる食料と隅にある便器で、生物としての最低限の尊厳は確保されていた。
眠気に導かれるがまま硬くて冷たい床へと横になってから五分、扉が開いて一人のロボットが入ってきた。
「起きてください」
「……デカルト?」
椅子に座った守護者は、エックに着席するよう促した。起き抜けに旧友との再開で面食らった彼は大人しく従った。上から垂らされた電球が、まん丸の大きなレンズを照らしている。
「また会えて嬉しいです、エック」
「キミ、守護者だったのかい。てっきりペンキ塗り職だと」
「ええ。奉仕内容の都合で偽っているんです」
「奉仕内容ってのは、地下居住区について知りすぎた者を薄暗い部屋に監禁して情報を吐かせてから処刑するとか、そんなところかな」
守護者は反応せず、ただキュルキュル音を鳴らすばかり。エックはつまらなさそうな態度でパイプ椅子にもたれかかる。
「これまでの規則では、固定者居住区に無断で侵入した場合は記憶処理を施した後に社会復帰プロセスを踏んでもらう手筈でした。しかし、第一四四三回保護者会でこの規則が改正されまして、記憶を残したまま協力者になってもらいます」
「あー、つまり、固定者との交流経験を活かせと」
「そんなところです」
手首を縛る拘束具はびくともしない。それどころか、力を込めれば込めるほどに締め付けてくる。
「一年後に控えた名誉試験を受けてもらいます。協力者に選ばれた場合は記憶保持が許されますが、選ばれなかった場合は従来の規則通りの処置をします」
「ここから一年間はどう過ごすのかな?」
「地下居住時のデータを漏洩した場合は、事前の勧告なく処分されます」
処分という陳腐な脅しをマニュアル通りに読み上げて、守護者は深くため息をつくような動作をした。
「さて、私の奉仕活動は以上です。もう数分で迎えが来ます」
「そう、お疲れさん」
「……ここからは
「守護者は活動中に私語をしてもいいのか」
「ははっ、私は優秀ですから、多少の融通は利くんですよ」
デカルトは冗談を残して出て行った。ギィーッと音を立てながら扉は閉まり、エックはまた一人になった。
何度も通ったエントランスも以前と変わりない様子でエックを出迎えてくれる。
「管理人さん、ただいま」
「あら、あら。エックさん、どこへ行ってたのですか。心配してましたのよ!」
管理人は普段以上に羽をパタつかせて歓迎した。エックは申し訳なさそうに頭を下げて通り過ぎる。
エレベーターから降りると、ひどい悪臭がエックを襲った。しかし、地下での生活を経た彼にとっては大したものではない。強烈な臭いと芳烈な匂いが混ざり合った内廊下の空気を吸いながら、自部屋のドアを開けようとした。
しかし、ドアノブがない。エックの口から変な笑い声が漏れる。ここでようやく、彼は自分が地上に戻ってきたことを実感したのだった。
「お帰りなさい、先生」
エック一人の空間のはずが、そこにはベッドでくつろぐ黒服がいた。
「ベッドから降りろ」
「流動者に与えられたベッドはふかふかで寝心地がいいですね。協力者ならもっと上質なベッドで寝られるのでしょうか」
「さあね」
黒服をどかしてベッドに身体を預ける。しばらくぶりのベッドが、疲れたエックを極楽へと手招きする。
「黒服がくれた情報通り、協力者になりさえすれば処分は免れるようだね」
「まずは首の皮一枚と言ったところですか。これからどうするおつもりで」
「明日はメンテナンスに行く。BCFも保健管理ブザーも壊れちゃってるからね。修理が終わり次第、教授職に復帰するよ。休養チケットで得た自由時間はすべて先生としての時間に費やす。〈壁の目〉による移動もこの際は仕方ない」
「そうですか。先生の計略が上手くいくよう、幸運を祈ります」
黒服は壁の中へ消えていった。彼が去ったことを確認すると、エックは仰向けになって目を閉じた。深い眠りが身体を包み込んでいく。完全に眠り落ちる刹那、光が見えた。
当日。エックはBCFが鳴るとすぐに起きて支度を始めた。受取ボックスを開き、真っ黄色のコートを着て、識別票を腕に巻いた。会場の座標値を記録したUSBメモリを後頸部に挿すと、視界上にピンが現れる。今回も会場は近かった。彼は前回に引き続いて自分の足で行ってみることにした。
地下で足腰を鍛えられたからか、この道のりが楽しく感じる。秩序的な配列で並べられた街路樹が色鮮やかに見え、軽やかな足取りでステップを踏んだ。会場に着いてすらいないのに、エックはすでに受かっているような気分だった。
頭上を車が飛び交う。歩行者は少ないが、閑散というほどでもない。月間の義務歩行時間のクリアのために徒歩を選ぶ人もいる。エックと同じように、その
「エック、ついに今日ですね」
「ああ、そうだね」
エックにとっては今一番に会いたかった人物だ。彼の事情を知っていて、純粋に五度目の挑戦を応援してくれる唯一の友なのだから。
「あの日とは、条件も手順も違う。吉報を信じてくれよ。キミと肩を並べて奉仕する日が来るかもしれないんだから」
「もちろん、期待を胸に待っていますので。応援してますよ」
「ありがとう」
友人の去る背中を見送ると、彼はまた歩き出した。
会場が目前に確認できるところまで来た。あのときとは違って、暴力的な音は聞こえない。あの路地裏を見ても、そこには誰もいないはずだった。
「待て。シロコ、なんでいるんだ」
「ん、応援しにきた」
エック先生は頭を抱える。記憶を失う前もこんな問題児に手を焼いていたのだろうかと、意味のない妄想がよぎる。
「ここは危ないって知ってるでしょ。ほら、目をつけられないうちに」
「これ、食べて」
シロコは手に不細工なビスケットを乗せてエックに差し出す。
「ビスケット?」
「ん。食べれば元気になる。これで試験もバッチリ」
試験の日程を漏らした覚えはなかったが、黒服あたりの仕業だろう。余計なことをしてくれたというべきか、それとも粋なことをしてくれたというべきか。エック先生はビスケットを頬張り、よく味わった。
「……んぐっ。ごちそうさま。美味しかったよ。行ってくるね」
「がんばって」
去り際にシロコの頭をわしゃわしゃと撫でて、エック先生は路地裏を去った。
Q:保護者の存在理由を答えよ。
A:可能性を閉ざし、現在を永遠にするために存在する。
Q:社会を何と心得るか。
A:個の成長を阻害し、操作する管理システム。
Q:流動者と固定者はなぜ分けられているのか。
A:憎悪に双方向性を持たせることで社会への不満が
生まれないようにするため。
Q:同化計画の最終目標を考察せよ。
A:ない。ないことが、最終目標である。
試験が終わって次の日、受取ボックスには紫色の服が入っていた。さっそく裾を通してみる。採寸通りにエックの身体にピッタリだが、着心地はそこまで悪いものではない。
さすがに人生を懸けて目指していたこともあってか、浮かれて喜ぶ気持ちは否定できない。しかし、今の彼は先生だ。肩に背負っているものを忘れてはいけない。薄い膜のドアを通り抜け、廊下を進む。エントランスを出ると、太陽が彼を迎え入れる。
陽光はザラザラとした道路をこれ見よがしに照らしていた。雲は規則的な配置のまま頭上を抜けていく。車に乗り、キーを回す。まばたきを三回ほどするうちに高度を上げていき、空域道路に合流する。
──私はこれから、この色を覆し、過去を取り戻すのだ──
空はいつも通りの、どこまでも透き通った灰空であった。
もとい、
彼の新たなる人生と、その惨憺たる終章が産声をあげる。私からもどうか、お願いしたい。彼の非物語を、共に見届けてほしい。
前編、終わりました。お話としては一区切りです。
後編はしばらく間を置いてから書き始めるつもり。
一応、はじめに用意したプロットではカヤのカの字もなかったのですが、いつも通りのガバガパッションが発動して重要ポジションに置いてしまいました。どうしましょう。