「フリーナ様、また海面が上昇して来ています……」
「そうか……」
フォンテーヌの海面は、日々上昇し続けている。フリーナも海面を下げるため、色々と情報を集めているが、解決は難しそうだった。
このままでは、予言通りになってしまう。そんな焦燥感がフリーナの脳内を埋め尽くす。
けれど、それを表面に出してはいけない。それによって、フリーナが水神ではないかもしれない、と疑われてはいけないから。
「キミは引き続き調査を進めておいてくれ」
「はい、分かりました」
報告に来た研究者がいなくなった途端、フリーナはベッドに座り込んだ。
そして、猫のように丸くなる。
本当に、予言を変えれるのか。不安で不安で仕方がない。けれど、そんな不安も、相談してはいけなかった。
「……フリーナ、入ってもいいですか?」
「わ、ジゼット!? ちょっと待ってくれ」
コンコン、とジゼットがドアをノックしている。前までは部屋にノックもせず飛び込んでいたから、成長したものだ。
ジゼットがフリーナの護衛になって、早くも一カ月が経つが、少しずつ情緒が成長して来ている。機械も成長するらしい。
フリーナは、慌ててベッドから立ち上がって、姿勢を正し、堂々とした表情を作った。そうしてから、ようやく許可を出す。
「うん、入っても構わないよ?」
「それじゃ、お邪魔します」
ジゼットは、幼い歩き方で、フリーナのそばまで近寄って来た。そして、何か言おうとして口を開いた。が、声にならずに、結局その言葉は中断される。
フリーナは、そんな珍しいジゼットの姿に、小さく笑いながら尋ねた。
「えっと、今日って何か約束でもしてたかい?」
「ううん、約束してないです。でも、ホテル・ドゥボールがとっても美味しい新作ケーキを出したらしいって噂を、伝えに来たんです。フリーナ、ケーキ食べると、美味しいって言ってるので」
ジゼットは、前より感情がわかるようになって、フリーナがケーキを貰うと喜ぶことも、自分で理解できたらしい。こんなふうに報告しに来たのは、初めてだ。
嬉しかったが、さっき聞いたこともあって、うまく笑えなかった。
フリーナは、いつも通りに笑おうと、口角を無理矢理上げた。
「はは……ありがとう。時間があったら、食べに行こう」
「うん……」
無表情で、ジゼットは首を縦に振った。
そして、言いたいことは言い終えたのか、それだけを伝えて、ジゼットはその場を去っていく。
ジゼットは、フリーナの部屋のドアをしっかりと閉めてから、次はクロリンデを探しに走り出す。
クロリンデも、時折フリーナの護衛をしているので、必然的によく話すようになった。ジゼットが二番目に話すのは、間違いなくクロリンデと言えるだろう。
「クロリンデ、お願いしたいことがあります」
「何だ?」
クロリンデを見つけたジゼットは、クロリンデに早速お願い事をすることにした。
「買い物ができるくらいの、計算の参考書が欲しいです。どこにありますか?」
「どうして急に? この前、英雄に計算は必要ない、と言っていなかったか?」
「……事情が変わったです」
数日前、クロリンデが計算を教えようとしたら、必要ない、と言って逃げたのに。ジゼットは気まぐれである。
だが、おそらく事情が本当に変わったのだろう。ジゼットは、基本的に自分から動くことは少ない。機械人形なだけあって、命令しない限り、フリーナの横で突っ立っていることも、多い。そんなジゼットが、自分から、計算を覚えようとしているのだ。
よほどなことがあったに、違いない。
「どんな事情があったんだ?」
「私は人間じゃないです。だから、合っているかは不明瞭です。でも、フリーナがちょっとだけ疲れてるように見えたから、ケーキを買いに行ったら、喜ぶと思ったんです。楽しんだり、喜んだりしたら、疲れもなくなるって前にフリーナが言ってました」
「……なるほど」
ジゼットは、「フリーナの英雄」を名乗っている。フリーナから聞いた話だと、ジゼットは英雄になるために作られた機械だそうだ。だから、フリーナが少しでも疲れている様子を見せたら、助けたいと思うのも必然だった。
「それなら、この前渡した本があるはずだ。それを使えばいい」
「あ、その記憶はうっかり消去してました。それじゃ、本をスキャンしてきます」
「……私もついて行こう」
何だか、とても嫌な予感がして、クロリンデは思わず名乗り出た。ジゼットは、率直に言えばかなりポンコツな機械だ。果たして、スキャンなんかで本当に計算ができるようになるのか不思議なほどに。
本人曰く、「大マハマトラのセノ」の戦闘技術を参考に作られて、予定では「書記官アルハイゼン」のような頭脳を組み込むはずが、容量不足になったから、頭脳は諦めたらしい。そのセノとやらの戦闘技術も神の目がないから、完全再現は不可能のようだ。
ジゼットは、自分の部屋に戻って、一冊の本を持って帰ってくる。
「それじゃ、スキャンします。この量なら、数分でスキャンが終わるので、待ってて欲しいです」
ジゼットは、目をカッと開いて、瞬きもせずに本を無表情で見つめる。
足し算のページ、引き算のページ、掛け算のページ……。基本的な計算式を、頭に取り込んでいるようだった。
本人が言及した通り、数分後、ある程度読み終えたのか、勢いよく顔を上げる。
そして、ピクリとも喜んだ様子は見せず、言った。
「スキャンできたので、一つ問題を出してください」
「それなら……3+4は?」
「7です」
心なしかキリッとした声で、ジゼットは言った。フリーナが1+1すらできない、と言っていたが、スキャンしたらすぐにできるようになるらしい。
クロリンデは合っていたことに驚いて、少し目を大きく見開いた。
「合ってましたか」
「あぁ、合っていた」
ジゼットは、クロリンデにそう言われ、こくこくと何度も頷いた。そうしてから、次は本を仕舞って、小さな袋を取り出した。その袋の中には、モラがたんまりと入っている。
「では、買ってきます。ご協力ありがとでした」
いつも通りのどこか頼りない歩き方で、ジゼットは去っていく。
クロリンデは、計算ができるなら平気か、と思いつつも、その幼い歩き方に、不安になってしまったのだった。
「限定ケーキ、ありますか」
「……あー、限定ケーキは、もう売り切れてしまったんです。すみません」
ジゼットは、ホテル・ドゥボールに行って、早速ケーキを買いに行ったが、今はもう真昼だ。
当然ながら、大人気の限定ケーキは売り切れてしまっている。
クロリンデはジゼットが普通のケーキを買うと思っていたので、止めなかったが、ジゼットは限定ケーキを買う気満々だった。
ジゼットに味覚はないから、よくわからないけれど、限定ケーキはとても美味しいらしいからだ。
「そうですか。それなら、他におすすめのケーキ、ありますか。私はここに来るの、初めてだからよくわからんのです」
「どのような味が、お好みですか?」
店員にそう尋ねられ、ジゼットは大袈裟に首を傾げる。味の種類なんて、甘い、酸っぱい、しょっぱいくらいしか知らないし、どれがいいのかもよくわからない。
「迷ってるなら、このケーキは、どう? 私は一番、これが好き」
ジゼットが無表情で悩んでいると、後ろから誰かが声をかけて来た。
ジゼットは、不器用な仕草で後ろを向く。後ろには、猫耳のついた、ジゼットと同じく無表情な女の子が立っていた。
「ありがとです。それじゃ、この女の子が言ってたやつと、このプチケーキも欲しいです」
「かしこまりました。別に包んだ方がいいですか?」
「それでお願いします」
ジゼットは、店員にケーキとプチケーキを別に包んでもらう。そして、会計をするために、小さな袋を取り出した。
店員が言った通りのモラを、慎重に取り出して行こうとする。
「……数が多すぎてわからんのです」
けれど、ケーキというのは、高価だ。ジゼットが勉強したのは、初歩の計算だったので、当然ケーキの計算なんて、できない。
猫耳のついた女の子は、困っているジゼットを見かねたのか、一緒にモラを出してくれた。
女の子のおかげで、何とかケーキを買い終えることができた。きっと一人だったら、ケーキを何も選べずに終わっていただろう。
ジゼットは早速、プチケーキの入った方の袋を猫耳のついた女の子に突き出した。
「あげます。何かしてもらったら、お礼はした方がいいって、フリーナが言ってたので」
「いいの? 私、大したことはしてない。困っているみたいだったから、助けただけ」
猫耳の女の子──リネットは、遠慮して首を横に振った。なんとなく、リネットはジゼットが自分と似ている気がしたので、手助けをしただけである。リネットの言葉を聞いた途端、ジゼットは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「困ってたら、普通の人でも手助けするんですか? 英雄じゃなくても?」
「うん、する人はすると思う。特にリネは、手助けするのが好き。それに、英雄って言っても、世界を救うくらいの大きな英雄と、一人の人の支えになるくらいの、小さな英雄がいると思う。
だから、みんなが言う英雄なんて、ただ助ける規模が大きいだけ」
ジゼットは、難しい顔をして、また首を傾げる。今回は、大袈裟なものではなかった。
「……難しいです。でも、このケーキはあげます。あなたがいなかったら、私はケーキを買えてないです。
いらなかったら、捨ててもいいです」
「……うん、分かった。ありがとう」
リネットにプチケーキの入った袋を渡す。リネットは、微かに笑って、丁寧に受け取った。
そして、何かを思い出したのか、ぼそりと呟く。
「最近、人の……特に子供の命を狙う集団が増えて来たみたい。帰りは、気をつけて」
「うん、気をつけるです」
リネットの助言にジゼットはこくこくと頷いた。もちろん、ジゼットは強いが、耐久性に難がある。不意打ちなんてされたら、それこそ避けきれず陶器が砕けてしまうだろう。
ジゼットはケーキを揺らさないように、慎重に歩き出した。
「フリーナ、入ってもいいですか?」
「うん、いいよ」
ジゼットが帰って来たのは、丁度ティータイムの時間だった。ジゼットは、クロリンデに手伝ってもらいながら、ケーキを皿の上に乗せて、フリーナのところまで持って来た。
何も知らないフリーナは、ケーキを片手に持ったジゼットを見て、不思議そうな顔をする。
「フリーナ、ケーキあげます。限定ケーキじゃなくて、ごめんなさい」
「それは僕のだったんだね、ありがとう。誰が買って来てくれたんだい?」
「私が、買って来たんです」
フリーナは、驚いてジゼットの顔をじっと見た。ジゼットは相変わらず無表情で、全く表情の変化はない。
ジゼットは、フリーナにケーキを渡して、それから椅子に座っているフリーナの頭に、そっと手を伸ばした。
本人曰く、「とってもクール」な手の冷たさを、髪の毛越しにも感じる。
ジゼットは、そのままフリーナの頭を撫で始めた。不器用な動きだった。あまりにも唐突だったから、フリーナは大きく見開いていた目を、さらに大きくさせた。
「フリーナ、私のこと、前こうやってしてくれました。悲しいときに、やると良いって言ってました。だからやってます。フリーナ、とっても悲しそうなので」
「ジゼット……!」
ジゼットは、フリーナが落ち込んでいることに気づいたのだ。自分のしたことを真似してくれたことも、とにかくフリーナは、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
「私、フリーナが拾ってくれたとき、こころがとってもクールでした。ひやひやだったけど、それが普通だと思ってました。
でも、あの日、フリーナがこうやってくれたら、こころがぽかぽか、ほかほか暖かくなったんです」
ジゼットは、フリーナの頭を不器用に撫でた。せっかく綺麗に整えたフリーナの髪が、少しぐちゃぐちゃになってしまったけれど、フリーナはそんなこと、気にしなかった。
それよりも、ジゼットが初めてした、不器用な……けれど優しい行動に、胸が熱くなる気がした。
「私、英雄じゃないと、ダメです。でも、私知ってるんです。
みんなの言う英雄って、フリーナの護衛をしたくらいじゃ、なれないんです。才知や武勇にすぐれて、常人じゃないことをしない限り、英雄とはいえない。それこそ、栄誉騎士みたいに、龍を倒したりしないと、英雄じゃないんです。知ってます。そのために、大マハマトラのデータまで用意されたんです。
私、本当は大きな英雄にならないとダメなのかもしれないです。でも、フリーナと過ごして、思ったことがあります。これが、思ったことなのか、プログラムされたことなのか、私ですらわからないです」
ジゼットは、気づいていた。自分を作った学者は、旅人のような大きな活躍をして欲しかったと。
けれど、ジゼットはあの撫でてくれた時の暖かさで、つい護衛をする、と言ってしまったのだ。自分に組み込まれたデータに逆らって、ジゼットはフリーナの護衛を引き受けた。
「私、フリーナの命を守って、疲れをぶっ倒して、それでいいんです。
フリーナ専用の、小さな英雄でも、いいって思えたんです。それも、ぜんぶフリーナのおかげなんです。
だから、ありがとう。フリーナは、私の英雄ですね」
ジゼットは、ほんの少し、口角を上げた。最初に出会ったときに見せた、底冷えするような上げ方ではない。
笑い慣れていない、少し不自然な笑い方だった。いつも同じ無の感情しか映さない瞳が、ほんの少し感情を映しているように見えた。
ああ、ジゼットは笑ったのだ、とフリーナは何秒も遅れて理解する。そして、ゆっくりと立ち上がって、ぎゅっと、まるでぬいぐるみを抱きしめるかのように、ジゼットの小さな体を抱きしめた。
冷たい、体だ。ジゼットは、まるで小さな子供のように、フリーナのことを上目遣いで見つめた。決してあざとい見つめ方ではない。ただ、数秒だけ驚いたように固まって、それからふわりとまた微かに微笑んだ。
「ありがとう……ジゼット。……ありがとう」
フリーナの、不安と孤独を強く持ったこころが、じんわりと暖められていく気がした。