ルピナス孤児院のシスター、ゼフィヤと孤児のエレクは消えた太陽と燃え始めた王国周辺の山々を見て、孤児院に急いで帰ったが、そこへ襲来した黒龍が圧倒的な力を振るい、孤児院も家族も目の前で惨殺されてしまう。
命からがら逃げ出すことができたゼフィヤとエレクだったが、自分たちの教えに疑問を抱き、迷いながらも、どうにか生き残ることを目指し、黒龍から逃げた。
だが王国唯一の出口である凱旋門に集まった多くの人々はそこに留まったままで、前に進んでいなかった。
さらにそこに
黒龍の災いから逃げていた多くの人々は、シュレイド王国の唯一の出口である南方の凱旋門を目指し、そこへ集まってきた。
だが、その凱旋門の近くで何故か人々はその歩みを止めていた。
「なにがどうなってる?」
歪んだ顔の執事に運転させた
災いがそこまできているのに、どうして早く国を脱出しないのか?
ミゲス伯爵は荒々しく竜荷車から降り、辺りを見渡して、近くの人に尋ねる。
「どうした?何故みんなこんな所で止まっているのだ!?」
「ミ、ミゲス伯爵!?す、すみません、私にもなにがどうなっているのやら⋯⋯」
「チッ!」
ミゲス伯爵は演説の時のような親しげな口調も保てず、苛立ちながら舌打ちをした。
「邪魔だ!どけっ!」
困惑しながら立ち止まっている人々を押しのけながら、とにかく前へ、凱旋門の方へ無理やり進んで行った。
前に進めば進むほど、人々は密集していき、身動きが取れなくなっていった。
ミゲス伯爵は腕の血管が濃く浮き出るほど力を込め、前の人々を押しのけようと手を伸ばした。
「お⋯⋯お前ら!俺が⋯⋯俺が誰だか分かっ——うわっ!」
そこから弾き出されたミゲス伯爵は、その反動で尻もちをついた。
右手で額を押さえながら、腕の向こうにいる人混みを睨みつける。
何故、誰も自分の話を聞こうとしないのか?
自分は今までこの国を必死に支え、強い国に導いてきたのに、この仕打ちはなんだ?
「あ、主!大丈夫ですか!?」
竜荷車を降りた執事がミゲス伯爵の元に駆け寄り、心配そうに声をかけた。
「なにをボサっとしている!?早くあの
「し、しかし!?」
「この役立たずがぁ!」
「うぐっ!?」
ミゲス伯爵は倒れ込んだ状態で執事の腹を蹴り飛ばした。
執事は痛みのあまり、蹴られた腹を押さえながらその場にうずくまる。
立ち上がったミゲス伯爵は歯を食いしばりながら、うずくまった執事を何度も何度も踏みつける。
「なんでこんな状況になっても、お前はなんの役にも立たねぇんだ!?これまで雇ってやった恩を少しでも返したことがあったかぁ!」
ミゲス伯爵は血走った目で執事を踏み続けた。
踏まれた執事は苦悶の表情のまま、じっと耐え続けた。
「お前も愚民だ。あの時、死んでいた方がよっぽどマシだった。もはやこの国は崩壊したも同然だ。だが俺にとってはこの出来事も大いなる犠牲の一つ、ただの教訓に過ぎない。俺が、俺さえ生き残れば、また国は再建できる。隣国のヴェルド王国をシュレイド王国以上に強固で偉大な国にすることができるんだ!これは俺が生き残る上で必要な犠牲なのだ!」
その光景を目の当たりにした周囲の人々が、ミゲス伯爵に対し疑念を抱き、それに加えて強い不快感を覚えていた。
人々にとってミゲス伯爵のそんな行為や発言は、まさに、これまで彼が築き上げてきた信頼や人格を根底から否定するものであった。
「な、なぁ、あれって本当にミゲス伯爵か?」
「俺たちのこと、愚民って」
「ミ、ミゲス伯爵がそんなこと言うわけないだろ!」
「おい、お前ら、そこをどけ」
振り返ったミゲス伯爵が凄まじい怒りを露わにして、人々を睨みつける。
そこには、国の英雄的存在として振る舞っていた大貴族、ミゲス伯爵の姿はなく、ただ純粋に怒りをむき出しにし、ただ自分だけが生き残ろうとする、哀れな人間がいた。
「あ、主⋯⋯い、いけません」
執事が痛みを堪えて這いずりながらミゲス伯爵の元に近づき、服の袖を掴んだ。
周囲の人々はミゲス伯爵の言うことを聞いても、動こうとはしなかった。
「⋯⋯二度も言わすな、どけ!」
「し、しかし!」
「どけぇ!」
「⋯⋯」
なにを言っても動こうとしない人々に対し、ミゲス伯爵は腰元に装着していた護身用の剣に手を伸ばした。
「どいつもこいつも、無能で、腹の立つ愚民どもが!もういい!」
ついにミゲス伯爵は剣を人々に向け、怒りを爆発させた。
「退かぬなら、お前らを斬り捨てて進むまでだ!はぁぁぁ!」
「主っ!」
「そんなっ——!」
ズバァッ!
迷いのない、荒々しい剣撃が、目の前にいたなんの罪もない人々の身体を容赦なく斬り裂いた。
血飛沫の中に浮かび上がったミゲス伯爵の姿からは、まるで悪鬼のような殺意が全身から滲み出していた。
「ひっ!ひぃぃぃっ!」
「逃げろ!殺されるぞ!」
「助けっ——ぎゃぁあ!」
「どけっ!どけぇええ!」
ミゲス伯爵は人混みで身動きの取れなくなった人々を、何人も何人も斬りつけながら、その屍を踏み越え前に進んでいった。
たちまち周囲は大混乱に陥った。
「こんな時まで、なんてやつなの!とにかく今は、ここから逃げなきゃ!」
離れた場所でその様子を見ていたゼフィアは身の危険を察知し、エレクを連れてその場を離れた。
※※※
凱旋門から離れた周辺には、あっという間に死屍累々の光景が広がっていた。
ミゲス伯爵が行った惨殺をきっかけに、理性を失った人々は次々と暴動を起こし、まだあちらこちらで乱闘や破壊活動が続いていた。
兵士でもないミゲス伯爵が、たった一人でこれだけの人々を相手にできるはずもなかった。剣を折られ、体を痛めつけられ、打ちひしがれた心がその虚ろな瞳に現れていた。
ミゲス伯爵はこれまでの人生で初めて、自分自身が
だが、彼はこれを乗り越え、生き残ってやるという、微かな意思だけは残っていた。
それでも、今、ミゲス伯爵は生き残った人々に体を押さえつけられながら、顔を何度も殴りつけられていた。
鈍い音が響くたびに視界が歪み、血反吐を吐いた。
「死ねっ!死ねっ!この裏切り者がぁ!」
「俺たちのことをずっと見下しやがって!」
「あ⋯⋯ぁあ」
抵抗もできない、言葉さえも出ない。
薄れゆく意識の中、それでも自分はなにも間違ってはいないと、何度も思った。
間違っているのは、自分のことをなにも知らないまま、勝手な振る舞いをしている愚民どもの方なのだと。
スジンッ。
「おっ、なんだ!?」
地面が揺れ、ミゲス伯爵を殴りつけていたその手が止まった。
「あ⋯⋯あぁ!」
「で、出たぁ!」
空から舞い降りたのは、この災いの元凶である黒龍だ。
そして人々の逃げ道を塞ぐように、その背後は炎に包まれていた。
黒龍はその邪眼に人々を映し、凱旋門の方を向いてその大きな口を開けた。
それはまさに、地獄の入口のようであった。
「逃げろっ!」
ミゲス伯爵を押さえつけていた人々は、その手をすぐに離し、一目散に逃げていった。
逃げ惑う人々を追うように、黒龍の首がガクンと動いた。
そして——ブワッ!と建物をいくつも飲み込むほどの巨大な炎が立ち上がり、一瞬にして命を飲み込む。
頭が割れそうなほどの咆哮が辺りに響いた。
黒龍は生き残った人々を炎と巨体による攻撃で、次々と殺していった。
人々がその場から逃げれば逃げるほど、黒龍もそれを追うように襲いかかってきた。
誰もが泣き叫び、炎に焼かれ、瓦礫に潰され、現実に地獄が形成されていく。
火傷で皮膚は爛れて、黒く炭化した手足が地面に転がり、沸騰した血液が体外に破裂して、血溜まりを作る。
そんな状況の中、身動きの取れなかったミゲス伯爵だけは、まだ生き残っていた。
何故か黒龍は、逃げ惑う人々ばかりを狙って襲っていた。
理屈は分からないが、逃げるなら今しかないと、なんとか自力で立ち上がり、歩き始める。
「く⋯⋯そ⋯⋯⋯⋯仕切り直しだ」
フラフラとしていてもその足取りに迷いはなく、炎を避けながら、凱旋門と反対の方向へ歩いていった。
※※※
ミゲス伯爵がやっとのことで辿り着いたのは、ミゲス邸であった。
既に周囲では炎が近くに上がっていたが、ミゲス邸は他の建物とは一定の距離を保っていたため、まだ燃えてはいなかった。
玄関の扉に手をかけた途端、体の力が抜け、扉が開くと同時に屋敷の中に倒れ込んだ。
「ぐはっ!」
吐血し、浅くなっていく呼吸の中、這いずりながら階段を上り、自分の部屋を目指し始める。
「うぅ⋯⋯まだ⋯⋯だ⋯⋯こんな傷⋯⋯すぐに治して⋯⋯」
ミゲス伯爵は、自分の部屋にある治療道具を取りに戻ってきたのだ。
そして、やっとの思いで、這いずったまま部屋に入り、重い瞼をわずかに開き、辺りを見渡した。
そこに、誰かの足元が見えた。そして顔を上げると。
「お⋯⋯お前ぇ!」
ミゲス伯爵の低い視線から見えたのは、凱旋門の近くにいたはずの歪んだ顔の執事であった。
普段は曲がっている背筋をキチッと伸ばし、手を後ろで組んだまるで別人のような姿で、そこに立っていた。
「お待ちしておりました、主——いや、ミゲス」
「お前、今までなにをしてやがった!?」
「⋯⋯待っていた」
「はぁ?」
「ワシはこの時を待っていたんだよっ!」
執事は不気味な笑みを浮かべながら、後ろに回した手をゆっくりと前に出した。
その手には大きなナイフが握られていた。
「おい!なにを考えっ——うぐっ!」
執事はナイフを構え、もう片方の手でミゲス伯爵の首を掴んだ。
「毎日、毎日、ワシを虫ケラのように扱いやがって!」
「やめっ——ガハッ!」
そのままナイフを握った拳を、ミゲス伯爵に叩きつけた。
抵抗する力もほとんど残っておらず、執事にされるがままなにもできなかった。
「自分がどれだけ愚かか分かったかっ!?これが本当の痛みだ!お前がくどいほどこだわっていた犠牲の痛みだ!ミゲス、あの日お前に裏切られ、地位も立場もこの顔も全てを失ったワシは、お前に従うふりをして、復讐の機会をずっと待っていたんだ!」
ジュワッ!パチンッ!
その時、突然部屋の温度が上昇し、辺りが焦げ臭くなってきた。
「くそっ!もう火の手が回ってきやがったか!」
ブワッ!
パチパチと炎が下の階から燃え上がってきた。
「逃⋯⋯げ」
「逃げる?ハハハッ!逃げ場なんてあるものか!もはやこの国は終わりだ!お前もそう言ったよなぁ!いいんだよこれで、ワシはこの命を犠牲にしてでもお前にぶつけてやるんだ、今日までの憎しみをなぁ!」
執事は血走った目で、ナイフをミゲス伯爵の左腕に思いっきり突き刺した。
「うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その間にも部屋はどんどん燃えていった。
リオレウスの顔の剥製、高級なツボ、鉱石が装飾された椅子——屋敷を彩っていた品々も次々と炎に飲まれていった。
それでも執事はその手を止めない。
「痛いかぁ!?苦しいかぁ!?これがお前の人生の果てだ!自分のためだけに他人に犠牲を強い続けた末路だ!思い知ったかぁぁぁ!」
燃え盛る部屋の中、執事は発狂しながらミゲス伯爵の体を刺し、切り、殴り続けた。
「ハハハッ!ハハハハハハハハハッ!熱ぃぃぃハッハハハァァァァァァッ!」
「や⋯⋯⋯⋯め⋯⋯」
炎が二人を包み込んでも、執事はナイフを振るった。
二人の真上には、リオレウスの顔の剥製があった。
炎によってその留め具が焼け落ち、剥製がガクンと大きく傾いた。そして——グチャッ——剥製が落ちてきて、炎に包まれていた二人はその下敷きになった。
ミゲス邸はそのまま全焼し、崩壊した。
犠牲を教訓と考え続けたミゲス伯爵と、不本意ながら彼に仕え、憎しみを抱えながら生きてきた執事の人生が幕を閉じた。
もうこの話も17話です。
もう生き残っている主要人物の方が少なくなってきましたが、まだまだ書き続けます。
時間はかかりますが待っていてください。