Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
五月の京都は、雨が降るでもなく、晴れるでもなく、空気に湿気を含んだ曇天が続いていた。
大学のキャンパスを囲むツツジの花が少しだけ色褪せ、代わりに自転車のベルと人混みのざわめきが早足に響く。
午後、講義室D棟2階。普段は物理学概論の講義で使われるそこに、秘封倶楽部のふたり――マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子が呼び出されたのは、ほんの一時間前だった。
「……で、教授。要件って?」
蓮子が聞いたその声は、いつもの調子よりもいくらか張っていた。こういう“呼び出し”は得てして面倒ごとと相場が決まっている。
「WRCに出てもらう。」
壁に背を預けた赤髪の女性――岡崎夢美は、資料の束を机にトン、と置いた。
「ワ、ダブル、シー……? ってなんですか?」
「それ私も気になってた。……え、まさか今の世界でまだやってるの?」
メリーは眉をひそめる。彼女はこの時代にしては珍しく“内燃機関”に理解のある側の人間だった。
なにしろ、家族から譲り受けた1971年型アルピーヌA110を所有しているのだ。
現代では趣味どころか“骨董品”扱いされるそれに、彼女は時々乗って近郊の山道を流していた。
夢美は手早くタブレットを操作し、WRC-Hと記されたロゴを画面に映す。
「World Rally Historical。 モータースポーツ界が出した、いわば“逆行的プロジェクト”だな。
現代の電動化と自動化に押され、消えかけていた“ドライバー主体のレース”をもう一度やってみようという動きさ。」
「そんなもん、なんで私たちが……」
「宇佐見君、君は“あと4単位”足りていない。」
「なっ……!」
教授はポケットから履修リストを取り出し、しれっと蓮子に差し出す。
「この講義はフィールド実習として扱う。“競技に参加し、レポートを提出”すれば単位は認める。」
「そんな……え、ちょっと待って、教授それ冗談じゃ……」
「私は冗談を言わない。マエリベリー君も同様。君の成績はいいが、在学中に“車両制御に関する実践経験”を持つことが研究室配属の条件になってる。」
「えええ……」
蓮子は溜息をつき、メリーは天井を仰いだ。
「でも、マシンは? 今から準備なんて……」
「ある。プロジェクトの中で、歴史的に重要な車両をレストアして用意した。……ただし、テストはまだ。
それまでの練習車両が――」
「まさか……」
夢美は資料の一番上を開き、メリーの名前が印字された登録用紙を示す。
「A110アルピーヌ、登録済み。 整備とロールケージの組み込みもこちらで進める。グラベルはさすがに走らせないが、舗装なら問題ないだろう?」
「ちょっと待って!? あれは私の……えっ、勝手に登録したの!?」
「言ったはずだ。これは“教育的措置”だと。」
メリーは抗議の声をあげかけたが、教授の冷静な眼差しに遮られた。
「アルピーヌは準備が整うまでの“練習車両”だ。サーキットでの走行、操作系の習熟、ペースノートの確認――全てを行う場としては最適だろう。
君のように、あの時代の車を動かせる人間は貴重なんだ。」
「……それは、ちょっと、嬉しいけど……!」
困惑と誇りが入り混じったような顔をして、メリーは視線を落とす。
蓮子は隣で腕を組んだまま、じっと夢美の様子を観察していた。
いつもより数段本気の目をしている。あの教授が、ただの学術的遊びでこんなことを言い出すわけがない。
「でも、WRCって、そもそもどんな競技なの? 私たち、テレビで少し見たくらいで……」
「説明しよう。」
夢美が机の角に座り、スライドを切り替える。画面にはコース図、順位表、車両の規格、時代を超えた“WRC-H”のロゴが順に映し出されていく。
「簡単に言えば、タイムアタック形式のステージ制レースだ。
舗装路・未舗装・雪・氷・雨、あらゆる天候と路面を舞台に、1台ずつが走行し、最も早く走り抜けた者が勝者となる。」
「1台ずつ……F1とは違うのね。」
「大きく異なる。コ・ドライバーが読み上げる“ペースノート”に従いながら、ドライバーがライン取りを決める。
この“ふたり一組”という構造がWRC最大の特徴だ。君たちのようなコンビには、最適な種目と言える。」
「こっちはまだ1回も運転したことないのに……!」
蓮子は頬を引きつらせたまま、タブレットの映像を見つめていた。
「しかもその……参加チームって、素人ばかりじゃないよね? 他にも、何か訳ありの連中ばっかり集まってるとか……」
「言ったはずだ。これは“教育的措置”だと。」
「だからそういう返しやめてってば……!」
夕方、研究棟を出たふたりは無言で歩いていた。
駐輪場の先に、カバーをかけた紫色の車体が見えている。メリーのアルピーヌだ。
「……本当に、走ることになるんだね。」
メリーの声は、驚きと少しの興奮を混ぜ込んだような響きだった。
「なにがって……この時代にさ。
自分の車で、しかも世界のステージに出るなんて。」
「運命っぽいって思ってる?」
「ちょっとだけ、ね。」
「私は単位のためって割り切ってるから!」
「……それ、長くは持たないと思うけど?」
ふたりは顔を見合わせ、苦笑した。
その後、メリーは一歩アルピーヌへ近づき、そっとリアフェンダーに手を当てた。
「大丈夫。あくまで“練習用”。
本番までに、ちゃんとマシンと呼吸を合わせるから。」
風が通り抜けた。
やがて空はゆっくりと色を落とし始め、
――まだ始まっていない戦いの鼓動だけが、確かに胸の奥で鳴っていた。