Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
だが視点は変わり――
これは、“篠原澪の物語”。
ブリーフィングルームを出た澪は、風の抜けるピット通路を歩いていた。
レース当日の朝。
空気は乾いていて、エンジンの燃焼音がまだ遠くでしか響いていない。
だが、その静けさの裏には、明らかな“熱”が漂っていた。
「……並走形式、3周のSSS」
エレナが隣で軽くストレッチしながら、肩をすくめた。
「ねえ、澪。“デルタS4”って……知ってる?」
「うん。グループB。モンスター」
「だよね。ほんとに今あれが走るんだ。しかも、あのドライバーが……」
澪は返事をしなかった。
いや、言葉を持てなかったのかもしれない。
昨日――ピットでモニターを見ていたとき。
その画面に映った、あの銀灰の車体。
その隣に立つふたりの少女。
(あれは……)
心の中で、確かな“引っ掛かり”があった。
――あの日の空港。
――あの市場の喧騒の中。
黒のロングコート。紫の瞳。
あの日本語。あの仕草。
(まさか、とは思った。けど――)
ブリーフィングで名前を聞いた瞬間、確信に変わった。
「マエリベリー・ハーン」
エレナが確認するように言う。
「……偶然って、あるんだね」
「偶然じゃない。たぶん、出会うべくして、出会ったんだよ」
ピットロードに出ると、222Dが静かに出番を待っていた。
黒いボディ。
無骨で無言の獣。
「さ、いくか。“あの子たち”と、本気で走る準備」
「うん。今日のこれは、きっと何かを“知る”ためのレースになる」
コックピットに乗り込む。
ハーネスを締め、呼吸を整える。
メカニックが最後の確認を終えると、合図が出た。
出走順は最終組。
澪たちは――亡霊と並び立つ、その最後の走り手だった。
シグナルのカウントが始まる。
5、4、3――
澪の両手はハンドルを軽く握ったまま、肩に力が入らないよう意識していた。
静寂。
だが、隣から聞こえてくるデルタS4の咆哮が、コックピットの壁を振動させていた。
(あれが、あの子の走りか――)
「……行くよ」
「任せた!」
2、1、GO!
2台のマシンが一斉に飛び出す。
フロントノーズが揃い、視界の端に銀灰の輪郭が映る。
「サン・デヴォート、右。ブレーキング、まだ奥まで行ける!」
澪は、222Dの特性――“踏んだ分だけ反応する”素直な性格を生かし、
ぎりぎりまで加速を残してから、インへ滑り込む。
デルタS4が僅かに外へ膨らむ。
メリーの走りは荒くない。だが、強い意思がある。
(ブレーキを遅らせた……でもそれは、ちゃんと届く距離)
「次、ボー・リバージュ。登り、全開。ブラインドあり!」
「了解。車体を前に――静かに置いていく」
登坂。視界の先に空が広がり、右へと切れるライン。
222Dが、デルタS4よりもひと呼吸早くステアを入れる。
ラインは完璧。だが、すぐ横――デルタS4の影がまったく同じ速度で迫ってきていた。
(並ばれる。けど――怖くはない)
マッセネ。
澪は滑らかに、だが確実にアウトから旋回し、タイヤの外縁で速度を殺す。
エレナの声が重なる。
「カジノ、ラインの切り返し! ちょっと内滑るかも!」
「OK、先に荷重入れてから……」
タイヤのグリップがわずかに外へ逃げる感触。
澪はそれを、右手だけで抑えた。
デルタS4は、アウトから回ってきた。
その走りには、わずかに“膨らんでも譲らない”強情さがあった。
(……やっぱり、あの子)
この強さ、呼吸、ノーズの挙動――
空港で助けたあの時の彼女の目と、今の視線が重なる。
(覚えてる。体が、覚えてる)
ミラボー・オー。
軽い下り、右コーナー。
澪は、ここで一度ブレーキを“抜く”判断をした。
「ちょっと早めに荷重残して。相手、たぶんアウトぎみにくる!」
「了解……ちょっと抑える」
右手のステアをスッと動かし、222Dのノーズが滑り込むように入っていく。
だがそのすぐ外側――
「……重い」
デルタS4が、質量を伴って横をかすめた。
一瞬、車体の空気が押し返される。
音も振動も、すべてが“喧しい”。
(これが、あの子の車――)
ローズヘアピン。
最狭部で、ふたりのマシンがゆっくりと回頭していく。
だが、澪はそこで一つ気づいた。
(回りきってから加速が来る。……デルタは、前が重すぎる)
エレナが息を呑むように言った。
「差が詰まってる。澪、立ち上がりで抜けるかも!」
「ううん、まだ。ここじゃない」
ポルティエ。
澪はわざとインへ突きすぎず、じわじわとタイヤのグリップを確かめながら旋回する。
目の前、デルタS4のブレーキランプが一瞬、遅れた。
(重心の遅れ――タイミングずれてる)
アクセルをじわっと入れた瞬間、222Dのフロントがデルタのリアへ並んだ。
並走のまま、トンネルへ。
闇の中、ふたつの車が同時に飛び込む。
デルタS4が咆哮する。
222Dは無音のまま、真横にいる。
音の有無。重さの違い。
だが“意思”は、確かに並んでいた。
トンネル出口。
陽光がフロントガラスに刺さり、澪は思わず眉をしかめた。
だがその光よりも――
もっと鋭い、もうひとつの“光”が視界に飛び込んできた。
「来る……!」
デルタS4。
咆哮と共に、澪の真横へ並びかけてきた。
「外から突くつもり!? ここで!?」
エレナが驚いた声を上げたが、澪はすでに判断を終えていた。
「――空ける」
「えっ、譲るの!?」
「譲らない。ただ、“その突き方は、認める”」
澪はステアをほんのわずかに引き戻し、ラインの外周に空間を与える。
その瞬間、デルタS4のノーズがヌーベルシケインのインへ突き刺さった。
「……見えてた。あの子、ここで来るって」
「読んでたの?」
「ううん、分かった。“息”が変わったから」
車体を重ねながら、シケインへ滑り込むふたり。
スロットル、ブレーキ、荷重、挙動。
全てが、まるで会話のように交錯していた。
澪は目を細めて、僅かに唇を噛んだ。
(おもしろい。これ、たぶん……今までで一番、楽しい)
「ねぇエレナ。たぶんだけど――」
「うん?」
「この子たちと、もっと走りたいって思ってる。もう、何戦かじゃ足りないくらいに」
助手席からは、小さな笑い声が返ってきた。
「私も。もう完全に好きになっちゃってるもん、あの子たちの走り」
ヌーベルシケインを抜けた直後、デルタS4のリアが僅かに膨らんだ。
澪はその挙動を見て、判断する。
(あの膨らみは、踏みすぎじゃない。……誘ってる)
「エレナ、プール前、間を空ける。……見たいんだ、あの子の“最速”」
「澪、マジで言ってるの!? 今ここで!?」
「うん。怖いけど、見ないとわからない」
222Dが、ひと呼吸分だけスロットルを抜く。
その前を、デルタS4が空を飛ぶようにプールセクションを駆け抜ける。
縁石を舐め、サスペンションを殺し、ボディを振るわせて。
まるで、このコースそのものを“刻んでいる”かのように。
「……あれが、“あの子の答え”か」
「うん。私たちも、“応えないとね”」
ラスカス。
最もタイトで、最も重いこのコーナーを前に、澪はステアをわずかに遅らせた。
その内側、デルタS4がノーズを刺す。
同時に222Dがアウトから覆いかぶさるように旋回する。
ふたりのマシンが、まったく同じタイミングで加速を開始した。
「……速い。けど、負けてない」
アントニー・ノゲ、最終コーナー。
デルタS4のボディが、わずかに外へ流れる。
澪はそこにスッと222Dの影を入れた。
メインストレート。
アクセル全開、5速、6速――
並んだ。完全に、横並び。
(同じだ。今この瞬間、私たちは同じ速さで走ってる)
エレナが叫ぶ。
「フォトフィニッシュ!! マジで並んでる!!」
「……っしゃ!」
アクセルを離すことなく、澪は小さく笑った。
(名前も、声も知らない。
だけど――この人たちと、もっと走りたい)
2周目――スタートラインを超えてもなお、ふたりは並んだままだった。
澪は、加速の中でステアを握る手に少しだけ力を込めた。
(さっきは見せてもらった。今度は――こっちが“見せる番”)
サン・デヴォート。
ブレーキのタイミングは完全に一致。
だが、澪は“曲がる”タイミングをあえて遅らせた。
「インを狙うつもり……?」
「いや、インに“居る”だけでいい。プレッシャーだけかけて、次で獲る」
エレナの息が止まった。
澪のステアが、わずかにアウトへ逃げる。
そしてその後――デルタS4の動きが、明らかにわずかに遅れた。
「今、効いた」
(あの子、“見た”んだ。こっちのインへの進入。見て、そして……回避した)
ボー・リバージュ。
登りながら加速し、フロントが浮き上がる一瞬――
澪は、軽くステアを揺らした。
まるで、ラインを変える“素振り”のように。
その揺れに、デルタS4が反応する。
「読めた。“車体の揺れ”をあの子、警戒してる」
「澪、変わったよ。さっきまで“並ばれないようにしてた”のに……」
「今は、“並ばれること”が怖くない。むしろ、楽しい」
マッセネに向けて、澪はあえて外のラインからスピードを残して侵入。
その走りは“理詰め”ではなかった。
静かな情熱が、ステアリングを通じて車を引っ張っていた。
デルタS4と、再び完全に横一線。
「次、カジノ! 滑るよ、気をつけて!」
「大丈夫。“一緒に行く”から!」
ふたりの車が、並んだまま、同じステア角で、同じタイミングでタイヤを鳴かせた。
(もう、完全に読めてる。あの子のペース、ライン、呼吸)
けれど――
そう思った瞬間。
デルタS4の挙動が“わずかに崩された”。
(……!?)
何が起きたのか。
“変化”が起きた。明らかに、あの子が“何か”を仕掛けてきている――
ミラボー・オーに差し掛かる。
澪はイン側の視界を掴みながら、いつも通りのラインを取ろうとした。
だが――
デルタS4が、明らかに“奥まで突っ込んで”旋回してきた。
「えっ、あのライン……ノートにない……!」
「澪、変わったよ! あれ、“反応”じゃない! “挑発”だ!」
視界がわずかに揺れる。
澪は、初めて心拍が乱れるのを感じた。
(今の、崩しにきた。完全に“こちらの走り”を見て、変えてきた)
ステアを早く切るのをやめ、アクセルを一瞬抜く。
その判断が正しかったことを証明するように――
デルタS4がリアを滑らせながら、ローズヘアピンへ滑り込んでいった。
(……ギリギリ。でも通ってる)
(つまり、“通すために調整してる”――)
(この走りは……私とエレナの動きを“見た上で組み立ててる”)
「エレナ、もう一段階、情報増やして」
「了解。ブレーキタイミング、荷重、ステア残量まで全部言う。澪、拾える?」
「拾う。“向こうの言葉”で、返すために」
ポルティエ。
回頭の起点、澪はここでタイミングを変えた。
ノーズを一瞬遅らせて、そのぶんアクセルの乗せを滑らかにする。
デルタS4が前に出る――けれど、それは“譲った”のではなく、“横に立たせるための加速”。
「来いよ、次。トンネル――一緒に行く!」
そして、闇がふたりを包む。
トンネル内。
光も音も歪む空間で、222DとデルタS4は並んでいた。
正確に言えば――“メリーが仕掛けてきていた”。
アクセルを抜かず、ラインを外さず、
澪の視界の端から、銀灰色の獣がじわりと滑り込んできていた。
「来る、今度は本気……!」
「澪、ライン詰めてるよ! 横、ほんの数十センチ!」
「わかってる。でも、止めない」
トンネルを抜けた瞬間、太陽の白光とともに――
デルタS4のノーズが、222Dのアウトへ飛び込んだ。
その刹那。
澪の両手は、まったく揺るがなかった。
「ブレーキ、まだ。まだ。――今!」
ぎりぎりまで我慢してから、澪はブレーキを叩きつけた。
ヌーベルシケイン。
デルタS4が、アウト側をこじ開けるように回り込む。
そのラインは――あえて“止まりきらない距離”で作られていた。
(スライドを利用してる。止まるんじゃなく、“抜けるための制御”)
「相手、無理やり通してきたよ!」
「でも、私は譲らない。“止まってみせる”」
222Dが、静かに、しかし確実にタイヤのグリップを信じて回頭する。
デルタS4と並んだまま――滑ることなく、ラインに乗せて抜けた。
(押しても、削っても、こっちは崩れない)
「静かにやるよ。私の走りは、“音じゃなくて言葉”で残す」
「……うわ、それ今のセリフめっちゃカッコいい」
「言った自分でちょっと恥ずかしいからやめて」
ふたりのマシンは、再び前後ゼロ差でシケインを抜けていった。
プールセクション。
左右に切り返す連続コーナー。
澪は、222Dのサスペンションが一瞬伸び縮みする“タイミングの呼吸”を感じながら、スロットルを抜かなかった。
デルタS4が、視界の端で跳ねた。
その跳ねすら、メリーは“進むための動き”に変えてきた。
「やっぱ、すごいよ。あの子。自分の車の癖、全部理解してる」
「うん。でも――」
「“そこに届くこと”ができるのは、私たちだけ」
ラスカス。
ふたりのマシンが、回頭点へ“同じタイミングで”入っていく。
ノーズが重なる。
リアが踊る。
そして――
「譲らない」
「“一緒に行く”んだよ。最後まで」
澪は口の中で静かに呟いた。
アントニー・ノゲを抜けて、ストレートへ。
デルタS4と、222D。
完全な横並び。
「澪、今の区間タイム、ほぼ一致! どっちが前かは……分かんない!」
「それでいい。これは“競ってる”んじゃない」
「じゃあ何?」
「“互いのすべてを見せ合ってる”」
エレナは息を呑み、そして笑った。
「そっか。じゃあ、次は……“ラストダンス”だね」
3周目に入るその瞬間、
澪は改めてハンドルを握り直した。
――あの銀灰の亡霊に、全てを預けるように。
3周目――最終ラップ。
スタートラインを越えてすぐ、澪は深く息を吸った。
「ラスト。“私のすべて”を置いてくる」
「うん、“預ける”じゃなくて、“ぶつける”んだね」
サン・デヴォート。
アクセル全開からのフルブレーキ。
澪は、今までの中で最も奥まで突っ込んだ。
エレナが叫ぶ。
「ブレーキ遅すぎ!? 止まる!?」
「止める! 今、じゃないと“勝てない”!」
222Dが、デルタS4のインに――ほぼ飛び込む形で差し込む。
咆哮。
タイヤスモーク。
でも、回りきった。
澪の右手は、ハンドルを握りしめながらもブレていなかった。
(この子に勝ちたい。……いや、“知ってほしい”)
(私が、本気で走ってるって)
ボー・リバージュ。
立ち上がり――澪は、今度こそ先頭でカーブを抜ける。
デルタS4が一瞬遅れる。
だが、その音――あの獣の咆哮が背中を追ってくる。
(負けたくない、でも逃げたくない)
「私、“あの子の名前”を聞いたことある」
「え?」
「マエリベリー・ハーン。……どこかで見た記憶がある。
でも、その名前がどうでもよくなるくらい、今の走りが全部だから」
マッセネへ。
222Dが、完全に“先頭の車”として入っていく。
けれど、澪は焦らなかった。
隣に亡霊がいないことで、“走りが鈍る”ようなことはなかった。
(見えてる。あの子が次、どこで牙を剥くか)
(次のカジノで来る。間違いない)
カジノスクエアに差し掛かる。
澪は、ここで来ると信じていた。
「エレナ、メリー来る。アウト側から、回頭タイミングずらして」
「OK、バンプは無視して“投げる”感じで行って!」
澪はアクセルを残しながらラインを寄せ、
あえてギリギリまで視界を開けてやる――
そこに、来た。
「来たッ!」
デルタS4のフロントが、外から被せるように差し込んでくる。
でも、澪は受け止めていた。
一瞬、ふたりの車がまるで“弧”の両端をなぞるように並んでいた。
(読み通り……だけど――)
そのままミラボーに入る直前。
メリーのラインが“崩れた”。
いや、正確には――“崩した”。
「っ、フェイント!?」
「嘘でしょ!? 切り返してきた!?」
澪のブレーキがコンマ数秒遅れる。
ミラボーに入るとき、222Dのノーズがわずかに跳ねた。
デルタS4は、ラインを変え、こちらを跨いで先に侵入していった。
(読まれた……いや、“読みを読んで壊してきた”)
「完全に、走り方が変わってる。あの子、“戦ってる”」
ローズヘアピン。
澪は深くステアを切り、タイヤに最大限のトラクションをかけながら旋回する。
その先――
わずかに先行したデルタS4が、リアを滑らせながら抜けていった。
(追いつける。まだ“届く”)
「エレナ、ノート書き直し。今の動き、次の周回で活きるから」
「次の周回って、もうラストなんだけど!?」
「だからこそ、今“残す”。全部、走りに還す」
エレナは微笑んで、わずかに涙ぐんだ声で言った。
「ほんとに、いいコンビだね……私たち」
ポルティエ――
澪は、再び後手に回っていた。
デルタS4が旋回の頂点でノーズを沈め、
あえてわずかにオーバーステア気味の回頭で、立ち上がり重視のラインを取ってきた。
(あの動き、私がさっき使ったやつ)
(真似してきた……いや、“吸収”してきた)
「澪、やばい。あの子、学習速度おかしい!」
「うん。でも、焦らない。……私の“静かさ”は、最後の武器」
トンネル。
黒い影と白い音が交錯する、唯一の闇。
澪は、デルタS4のスロットルワークに注意を集中させていた。
(来る。また来る。……でも、今回は“無理に並ばせない”)
右足の動き一つで、アクセルの開度を細かく変える。
デルタS4がわずかに浮き、澪が前へ出る。
「今、離したよ!」
「でも、次のシケインで“寄せてくる”。そこが本番」
ヌーベルシケイン。
外から差し込んでくるデルタS4。
でも澪は、今回は一切譲らなかった。
「止める。曲げる。“ラインは、渡さない”」
アクセルオフ、フロント荷重、浅いカウンター。
そして最短距離で抜けるステア残量。
シケインを抜けるとき、222Dのリアがわずかに滑った。
けれど、止めた。
譲らなかった。
デルタS4は、そのすぐ横にいた。
(あと一歩。あと一歩で……この戦いが終わる)
(でも、それが少しだけ――寂しい)
プールセクション。
222Dのサスペンションが、限界まで潰れる。
滑らかに、無音のままコーナーを切り返していく。
その真横に――銀灰の亡霊。
跳ねる、揺れる、暴れる――それでも曲がる。
デルタS4のラインは、まるで意思そのものだった。
(あの子、もう“なぞってない”)
(今は、完全に自分の言葉で走ってる)
ラスカス。
澪は、視界の外にメリーを感じながら、ステアを入れた。
エレナが震える声で囁く。
「澪……今、あなたたち――並んでるよ」
「うん。わかってる。……だから、もう何も足さない。ここからは、ただ走る」
スロットル全開。
ドアミラーの中、銀灰色がまだ並んでいる。
アントニー・ノゲ。
澪は、左フロントを縁石ギリギリに乗せて旋回し――
最終加速に入る。
右手の感触、左足のリズム。
すべてが、車と一体になっていた。
「行こう。最後まで、“一緒に”」
222DとデルタS4、完全なる並走のまま、フィニッシュラインを通過。
フォトフィニッシュ。
勝敗の判定はモニターに持ち越された。
だが澪は、ヘルメットの中で静かに目を閉じていた。
(ありがとう。……楽しかった)
⸻
ピットロードに戻る途中。
222Dの隣に、ゆっくりとデルタS4が並ぶ。
ヘルメット越しに、あの紫の瞳と――
また、目が合った。
ほんのわずかに、メリーが頷く。
それだけだった。
「……また会える気がするね」
「うん。今度は、名前で呼び合いたい」
澪はヘルメットの奥で、小さく笑った。
亡霊との3周が、終わった。
だがこの戦いは、
新しい始まりのプロローグにすぎなかった。
ラリー・モンテカルロ、DAY3終了後。
勝敗の熱狂が冷めやらぬパドックの片隅で、
“ふたりの亡霊”が、ついに対面する。
岡崎夢美。
宇佐見菫子。
かつて嵐の中のグループBを走り抜け、
ひとつの道を共にした者たち。
今はそれぞれの教え子たちに“かつての自分”を託し、
別の道でラリーを見つめている。
なぜ、別れたのか。
なぜ、再び出会ったのか。
そして――今、互いの目に映る“現在”とは何か。
語られることのなかった過去。
残されていたペースノート。
壊れたコクピットの記憶。
“あの事故”の真相が、静かに明かされるとき――
彼女たちは、再び“ステアリングを握る理由”を問われることになる。
次回、Monte Carlo Mally LEG12『ふたりの残照、交わるはずだった交差点』
それは、再会ではない。未完の続きを走り出す物語。