Monte Carlo Mally   作:Yaris Margatroid

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LEG12「ふたりの残照、交わるはずだった交差点」

ラリー・モンテカルロ、DAY3終了直後――

人の波が途切れ、パルクフェルメの明かりも徐々に落ちつつあるその頃。

岡崎夢美は、整備エリアの片隅で、スマートフォンの通知を睨んでいた。

 

そこに表示された名は、

「Usami Sumireko」。

 

(……10年ぶり、か)

 

最後に会ったのは、あの事故の直後だった。

以来、連絡は取っていない。会う理由もなかった。

 

だが、通知を開くと、文章はあまりに簡潔だった。

 

『話がある。ホテル・エルミタージュのテラスで22時。来ても来なくても構わない』

 

「……変わってないな。こういうところだけは」

 

文面の棘も、淡白な言い回しも、夢美にはよく知った“菫子らしさ”だった。

 

(本当に変わってないなら……今さら会ったところで、何も進まない)

 

そう思いながらも、スマホをスリープに戻した夢美の足は――

既に、整備棟をあとにしていた。

 

 

同じ頃、モンテカルロ中心街。

ホテル・エルミタージュ、その静かなテラス席に、先に宇佐見菫子がいた。

 

ワイングラスも、飲みかけの水もない。

テーブルの上にはただ、一冊の古びたペースノートだけが置かれている。

 

赤いアンダーリムの眼鏡の奥、その瞳は夜の海に向けられていた。

 

「……来るかどうか、五分五分」

 

風に揺れる髪が、夜の空気に溶ける。

 

その時――

背後から、乾いた足音がひとつ。

 

「五分五分ってのは、ずいぶん期待してたな」

 

「……やっぱり来たんだな、夢美」

 

「呼び出されたからな。……それとも、まさか“夢でも見た”とか言うつもりか?」

 

「10年ぶりに会った相手に、それはないよ」

 

ふたりの距離は、約4メートル。

テーブルを挟んでもなお縮まらないその間には、

**歳月以上に深い“言葉にできない断絶”**が横たわっていた。

 

椅子を引く音すら、どこか遠慮がちだった。

岡崎夢美は何も言わず、菫子の向かいに腰を下ろす。

 

テーブルの上のペースノートに目をやりながら、静かに息をついた。

 

「懐かしい顔をしてるな、そのノート。……まさか、持ち歩いてたのか」

 

「ずっと、手元にあったよ。捨てられなかった。……というか、忘れられなかった」

 

夢美は片眉を上げて、菫子の視線を探った。

 

だが、その目は――夢美ではなく、ノートを見つめていた。

 

(……やっぱり)

 

「で? 今さら私を呼んだのは、何のつもりだ。思い出話でもしたいのか?」

 

「思い出話じゃない。“あれから何も言えなかったから”、呼んだ」

 

「……十年も経って、今さらそれか」

 

夢美は吐き捨てるように笑った。

 

「私はてっきり、教え子たちの話でもするのかと思ったよ。デルタS4と222D。面白いカードだったな」

 

「うん。ふたりとも、本当にいい走りをする。……だからこそ、“君に見てほしかった”。あの頃、君が信じてたものを」

 

その一言に、夢美の表情がわずかに変わった。

 

「……菫子」

 

「ん?」

 

「それって結局、“君自身が何を見てるか”じゃなく、“昔の私が見ていたもの”を見せたいってことか?」

 

菫子の目が、わずかに揺れる。

 

夢美は、さらに言葉を重ねた。

 

「ずっと引っかかってた。“再会したら、何を言うだろう”って思ってた。

……でも、あんたは、また昔の話ばかりだ」

 

「違う、それは……」

 

「違わない。……私は、“今の私”と話してほしかった。

けどあんたは、“過去の私”とだけ向き合ってる」

 

「夢美、それは――」

 

「それじゃ、話なんて通じるわけない」

 

テーブルの上で、古びたノートのページが風にめくられた。

 

その音だけが、ふたりの間に置かれた沈黙の重さを測っていた。

 

夜の海風が、ホテルのテラスを静かに撫でる。

 

夢美は、しばらく黙ったまま古いペースノートを見つめていた。

そしてそのまま、かつて助手席に座っていた“あの頃の菫子”を思い返すように、口を開いた。

 

「……あの事故のあと、最初に去ったのは、お前だったな」

 

「……」

 

「私は、ステアリングを離さなかった。

マシンが壊れても、キャリアが潰れても、“走ること”をやめようとは思わなかった。

けど、お前は――自分から降りた」

 

菫子は、少しだけ視線を伏せた。

 

「私は、あれを“背負えない”と思った。あの嵐の中で……君を守れなかった。

ノートを握っていたのに、ラインを示すべきだったのに……間違えた」

 

「それでも、コ・ドライバーだったお前を、私は責めなかった。

なぜか分かるか? “あの時の責任”は、ドライバーである私のものだったからだ」

 

夢美は、拳を軽く握りしめながら続ける。

 

「なのに、お前は“責任を感じている”って顔をして、逃げただけだった。

事故の重さに潰されるフリをして、自分の手で“ラリーを捨てた”」

 

菫子の喉がかすかに震えた。

 

「……夢美、それは違う」

 

「違わないさ。今だってそうだ。お前が向き合っているのは“私”じゃない。

お前がこのノートを持ち出して、今日私を呼んだのも、全部――“過去の夢美”に謝りたかっただけだ」

 

「……!」

 

「私はここにいる。“今の私”は、ドライバーとして戻ってきた。

けどお前は、“あの時の私”しか見てない。……それが、腹立たしいんだよ」

 

強い風が吹き、ふたりの間に置かれたノートがまた一枚、ページをめくる。

 

菫子は、それをただ、見つめていた。

 

夢美が椅子を引く音が、静かなテラスに響いた。

何かを言いかけたように見えたが、その口は結局、閉じられたまま。

 

「……悪い。これ以上、付き合うつもりはない」

 

その言葉だけを残して、夢美は背を向ける。

 

足音が遠ざかる。

かつて助手席で聴いていた、あの歩調――

けれど今、それは決して“戻る”ものではなかった。

 

宇佐見菫子は、何も言わずにその背中を見送っていた。

ただ黙って、立ち上がることもなく。

 

残されたテーブルの上には、ひとりだけのノートがあった。

 

(……結局、また、何も言えなかった)

 

菫子は眼鏡を外し、額を押さえる。

 

(“謝りたかった”わけじゃない。……“向き合いたかった”んだ)

 

(でも、あの人の言う通りだ。私は、今を見ていなかった。

ずっと、“あの時の助手席”から抜け出せなかった)

 

事故の瞬間。

ハンドルが切れず、ブレーキが遅れ、視界が水で潰れたあのコーナー。

 

夢美の横顔。

血に濡れたコクピット。

崩れたマシンの中、ただ一人、菫子だけが無事だった。

 

(あのとき、私は“生きてしまった”。それだけが、私を止めた)

 

ノートのページがまた一枚、風にめくられる。

 

“Right 5 + into Crest. Brake hard. Don’t miss the cut.”

 

その書き込みに、夢美の筆跡が混ざっていた。

 

(……夢美。君があの時、私を責めなかったことが――

一番、私を壊したんだ)

 

静かに眼鏡をかけ直す。

 

「……私が見てたのは、“あの時の君”じゃない。

“あの時の私”を、君に重ねてただけだった」

 

ようやく口にした、たったひとつの“真実”。

 

だがそれを伝える相手は、もうここにはいない。

 

テラスには、深夜の海風だけが残っていた。

 

夜が明けた。

モンテカルロの空に朝日が射し込み、整備棟のシャッター越しにも淡い光が差し込んでいた。

 

岡崎夢美は、無言のままそのシャッターをくぐる。

 

脚には前日と同じ疲労、けれど――

肩に乗っていた重みが、少しだけ静かに揺れていた。

 

整備スペースの一角。

エンジンを開けたデルタS4の脇で、北白河ちゆりがタンクに顔を突っ込んでいた。

 

「おい、ちゆり」

 

「んぁ? あ、教授か……っていうか、朝から無言で来るなよ。心臓に悪いぜ」

 

ちゆりは工具を置いて、ぼさぼさの髪を軽く手ぐしで直す。

 

「昨日の続きで燃調いじってんだ。まだセッティング残ってるからな」

 

夢美は頷くと、黙って脇のベンチに腰を下ろした。

 

ちゆりが、ちらりと夢美の顔色を盗み見る。

 

「……あの、行ってきたのか? 例の相手に」

 

「行ったよ。呼ばれたからな」

 

「で、どうだった?」

 

「……無駄だった」

 

それだけを告げると、夢美は工具台の片隅から古いスパナを取り出し、指先でなぞり始めた。

 

ちゆりは、それ以上は何も言わなかった。

ただ、ごく自然に口角を持ち上げて、工具箱を閉じる。

 

「じゃあ、教授。今日もやるんだよな」

 

「当たり前だ。走らせるマシンがある限り、私は降りない」

 

「了解。だったら、私は整備する側を降りないだけだ」

 

ふたりの言葉は、それ以上でも以下でもなかった。

 

だが――それで十分だった。

 

整備棟の中、作業音が一時止むと、空気は不思議な静けさに包まれた。

岡崎夢美は、ひとりデルタS4の前に立っていた。

 

朝の光が、白と灰のボディラインに淡く反射している。

 

夢美は、ハッチを開けるわけでも、車内に乗り込むわけでもなく、

ただ黙って、そのラインを指先でなぞっていた。

 

フロントバンパーのエッジ、ブリスターフェンダーの張り出し、

そして、リアへと抜けていく鋭いルーフライン。

 

「……10年前、お前はあいつと一緒に止まった。

でも今は、違う。お前の中には、“次のドライバー”の走りが息づいてる」

 

指先が、フロントガラスの下端に触れる。

 

そこには、チームステッカーの隣に――**“M. Hearn / R. Usami”**のネームが貼られていた。

 

「名前が変わっても、走りが繋がってる限り、お前はまだ“生きてる”。

だから私も、教え子たちのステアリングに、誇りを持って向き合う」

 

静かに車体の影に回り込み、リアスポイラーに指を添える。

 

「……メリー、蓮子。

次の戦いでも、お前たちはまた“あいつら”と走ることになる」

 

その言葉に、答える者はいない。

 

けれど――夢美の声には、すでに“躊躇”がなかった。

 

「もう迷わない。……私の中の“過去”は、昨日で終わった」

 

マシンをなぞる手を止め、彼女はふたたび前に立つ。

 

目に宿る光は、10年前と変わらず、ただ走りの未来を見据えていた。

 

ラリーデータのアーカイブ室。

薄暗い蛍光灯の下、宇佐見菫子は一人、ホログラム投影された走行ログを見つめていた。

 

画面には、トヨタ・222D。

篠原澪のドライビングラインが、1/100秒単位の挙動変化として可視化されていた。

 

「クレスト後の舵角入力、理想値より3度深い。

けど……この“揺らぎ”は、彼女自身のスタイルだ」

 

再生を止め、菫子はゆっくり椅子に背を預けた。

 

「夢美のラインと違う。けれど、根底にあるものは――似てる。

だから私は、彼女を選んだ」

 

目を閉じ、脳裏に浮かぶのは、夢美の背中と、崖下へ消えていったマシンの残像。

 

(私は、あのとき助手席にいて、夢美の未来を守れなかった。

守るべき道を示せなかった)

 

(ならば今度こそ、“次のドライバー”には、走るべき道を見せる。私の役割は……そっち側だ)

 

再びログに目を戻す。

 

そこには、澪の走りと呼応するように、エレナのペースノート音声が重なっていた。

 

「Left 5 minus……ライン残して、次、ブレーキ早め」

 

声は冷静で、正確で、澪の走りとぴったり重なっている。

 

「……ふたりとも、本当によく走ってくれた。

だから私は、夢美に“過去”の自分じゃなく、“今の私”を見せたかった」

 

その想いが届かなかったことは、わかっている。

 

それでも――

 

「まだ、完全には終わっていない。

今の私が導くふたりが、もし――デルタS4とまた交差する日が来るなら……

その時こそ、“言葉じゃなく走りで”伝えよう」

 

その瞳に宿ったのは、かつて助手席で夢見たただひとつの未来。

 

“ドライバーを信じ抜く”という、ナビゲーターの誓いだった。

 

モンテカルロの夜が更け、ホテルの一室に静かな灯りがともる。

 

メリーと蓮子は、簡素なソファに腰掛けていた。

テーブルにはコーヒーとタブレット、そして岡崎夢美が持ち込んだレースデータの束。

 

「――というわけで、次の舞台はアルゼンチンだ」

 

夢美の声に、部屋の空気が引き締まる。

 

「標高差のあるラフグラベル、浮き砂利、岩場、そして灼熱。

三日間のうち、一日でも踏み外せば即リタイア。言ってしまえば、“殺しにくるコース”だ」

 

蓮子がモニターをのぞき込む。

 

「……今のスコアは?」

 

夢美が指先で画面をスライドさせると、現在の総合ポイントが表示された。

 

 

【WRC-H 2025 開幕戦:Monte Carlo 総合リザルト】

1位:TOYOTA 222D(篠原 澪 / エレナ・シュタルク)……25pt

2位:CITROËN BX 4TC………………………………………18pt

3位:LANCIA DELTA S4(マエリベリー・ハーン / 宇佐見 蓮子)……15pt

 

 

「DAY3のSSSで首位は獲った。けど、DAY1とDAY2のロスがそのまま響いた。

総合では3位。“及第点”だが、次は違う」

 

夢美の声が、いつになく厳しかった。

 

「アルゼンチンでは、優勝を狙う。そのつもりで準備をしろ。

“よくやった”は、もう終わり。“勝った”以外、次は意味がない」

 

メリーが静かにコーヒーを置いた。

 

「……了解。“走ってみる”じゃなく、“勝ちに行く”。それでしょ、教授」

 

「その通りだ、ハーン君」

 

蓮子もノートを閉じ、視線を夢美へと向ける。

 

「次のラリーで、私たちの本当の言葉を聞かせるよ。車にも、世界にも」

 

夢美は何も言わず、ゆっくりと頷いた。

 

そして、それは――

“チーム・デルタS4”としての、最初の“覚悟”の共有だった。

 

チーム・222Dの滞在するアパルトマンの一室。

シャワーを終えた篠原澪は、髪をタオルで拭きながら、ダイニングテーブルに並ぶ資料を一瞥した。

 

「……次は、アルゼンチンか」

 

「うん。しかも、本格的なグラベルよ。タイヤも足も全部組み直しだね」

 

ソファに寝転がったままエレナ・シュタルクが答える。

その手には、すでにFIAから届いたレッキ資料と標高マップが広げられていた。

 

「これ見て。標高、最大で2,200mオーバー。エンジン出力も落ちるだろうし、熱ダレもシビアよ」

 

「でも……路面温度の変化も激しいなら、集中はしやすい。

気温に合わせたペース配分ができれば、戦えるはず」

 

エレナが振り向いて笑う。

 

「その言い方、どっかの教授に似てきたわね」

 

「……そっちの“教授”は、まだ黙ってるけど」

 

部屋の隅。

ラリー資料に囲まれた机で、宇佐見菫子はペンを止め、こちらを見た。

 

「出発前に、ひとつだけ確認しておきたいことがあるの」

 

「ん、何?」

 

「――“モンテカルロでは、あの子たちと並んだ”。

次は、“越える覚悟”がある?」

 

その問いに、澪はわずかに視線を落とし、そして――はっきりと頷いた。

 

「はい。次は、勝ちに行きます」

 

その瞳には、すでに迷いはなかった。

 

菫子は、ゆっくりと手帳を閉じた。

 

(……夢美。私は、ようやく“私自身の言葉”で、走れるようになったよ)

 

声には出さなかった。けれど、その胸の奥で静かに――確かに、誰かに届くことを願っていた。

 

夜明け前のモナコ。

街の灯りがひとつずつ消えていくなか、夢美はホテルの小さなデスクに向かっていた。

 

デルタS4の整備リストと、前夜のデータログが並ぶノート。

その片隅に、何かを添えるようにペンが走る。

 

「走りで答えろ。言葉ではなく、結果で交わる」

 

夢美はペンを置き、椅子にもたれた。

 

(……私は、もう過去に言葉を求めない。

今の走りが、今のチームが、すべてを示してくれる)

 

窓の外で、夜と朝の境界線がゆっくりと染まり始めていた。

 

 

一方その頃、アパルトマンの一室では、宇佐見菫子がひとり手帳を開いていた。

 

ページの中央に、迷いのない文字でこう綴る。

 

「たとえ交わらなくとも、また“同じ地図”を見られる日が来ると信じている」

 

その言葉には、謝罪も後悔もなかった。

ただ、ようやく過去を手放し、“今”に立つ者としての祈りがあった。

 

彼女はペンを閉じ、手帳をそっと胸元に滑り込ませた。

 

(また、どこかで)

 

そう呟くように視線を上げると、東の空に細く朝焼けが差し始めていた。

 

 

それぞれの静けさの中で、ふたつの意志が、もう一度だけすれ違う。

 

それは再会ではなく、次なる戦いへと向かう“出発点”。

 

やがて空が白み始める。

ラリー・モンテカルロの幕が閉じ、次なる挑戦――ラリー・アルゼンチンの舞台が、ゆっくりと開かれていく。

 




ラリー・モンテカルロの戦いを終え、舞台は南米・アルゼンチンへ。
標高差と粉塵が待ち受ける過酷な道のり――その前に訪れたのは、束の間の休日。

「え、観光……って、ガチで!?」

異国の高原にて迷子寸前、焼肉レストランで内臓祭り、そしてなぜか売店に飾られる“自分のデルタ”。
ツッコミと肉汁が飛び交う、珍道中の先にあったのは、静かな夕焼けと、心に火を灯す記事の一行。

「勝とう。――次も」

これは走りから少しだけ離れた、ラリークルーたちの“とある1日”。
交錯し、すれ違い、そしてまた、ひとつの場所に戻ってくる“想い”の物語。

Monte Carlo Mally LEG13
『陽光と煙と、パリジャーダ』
――次回、開幕。
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