Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
アルゼンチン、ビジャ・カルロス・パス。
まだ空が群青色を残す早朝。
薄明かりの中、サービスパークではすでにエンジン音と工具の金属音が鳴り始めていた。
メリーはデルタS4の前に立ち、ゆっくりと深呼吸する。
「……今日、巻き返すよ」
静かな決意を胸に、グローブをはめる手に力を込めた。
「うん、一緒に行こう」
蓮子も隣で、ペースノートを抱え直す。
昨日のDAY1――
彼女たちは、最下位という現実を突きつけられた。
でも、それがどうしたというのだ。
まだラリーは終わっていない。
むしろ、ここからが本当の戦いだ。
ちゆりが、サスペンション周りの最終確認を終えて、軽く手を挙げた。
「リアのバンプストッパーは急造で仮修理しておいた。完璧じゃねえが、昨日よりはマシだぜ!」
「ありがとう、ちゆりさん!」
メリーと蓮子は、そろって笑った。
夢美も、車両チェックリストを片手に歩み寄る。
「ハーン君、宇佐見君」
ふたりは姿勢を正す。
「今日のお前たちに求めるのは、ただひとつ。
“諦めないこと”だ」
「……はい!」
「昨日よりも速く、昨日よりも正確に。
それができれば、順位は後からついてくる」
夢美はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……行け。デルタと共に」
「はい!!」
スタート時刻が迫っていた。
太陽が、東の山の端から顔を覗かせる。
デルタS4は、まだ傷だらけだ。
でも、まだ――走れる。
シートベルトを締め、エンジンを始動する。
「行こう、蓮子」
「うん、絶対に、昨日を超える!」
低く唸るエンジン音が、コルドバの朝を震わせた。
デルタS4、再出撃――!
「3、2、1――GO!!」
オフィシャルのカウントダウンと共に、デルタS4が飛び出した。
まだ朝の冷えた空気が、車内にひんやりと流れ込んでくる。
しかし路面は、昨日までの焦げつくような砂煙とは違っていた。
「メリー、朝露がすごい。滑りやすいよ!」
「了解、慎重に入る!」
グラベルの上に、うっすらと湿った砂が乗っている。
乾いた埃ではなく、しっとりとした粒がタイヤに絡みつく感触。
(昨日とは全然違う)
デルタS4のリアが、わずかに外へ滑る。
だが、慌てない。
ステアリングを微調整しながら、必要以上に荷重をかけずに抜ける。
「Right 4 minus、滑る、進入抑えて!」
「わかってる!」
メリーはノート通り、進入スピードをほんのわずかに落とす。
タイヤが一瞬、ズルリと流れる。
それでも、車体はコース内に留まった。
「よし、その感じ!」
「蓮子、読みやすいよ!」
ノートと走りが、ぴったりと噛み合っている。
⸻
朝のグラベルは、乾いた昼とはまるで別物だった。
水分を含んだ砂が路面の表情を複雑にし、グリップの変化を予測しづらくしている。
だが、メリーたちはそれを恐れなかった。
「Left 3 plus over small crest、出口砂浮き!」
「見えた、ライン内側!」
イン側をなめるように抜ける。
わずかなミスも許されないが、確かな感覚で車体を導いていく。
「……気持ちいい!」
思わずメリーが叫んだ。
車も、ノートも、自分たち自身も――
昨日より、格段に“前へ”進んでいると、全身で実感していた。
(このまま――このまま行ける!!)
デルタS4は、冷えたグラベルを蹴り上げながら、朝のステージを駆け抜けていった。
太陽がさらに昇り、グラベルはみるみるうちに乾いていった。
朝露に濡れていた路面が、今度は急速に水分を失い、
わずか30分もしないうちに浮き砂が表面を覆い始める。
「……路面、だいぶ変わってきた」
「うん、グリップがどんどん落ちてる」
蓮子がすぐにノートで調整を指示する。
「次、Right 5 minus、滑る、ライン外すな!」
「了解!」
メリーはステアリングをさらに繊細に操作した。
アクセルを開けすぎない。
ブレーキを引きずらない。
タイヤと路面の間に生まれる微細な“逃げ”を感じ取りながら、最適なトラクションを探る。
「Left 4 tightens、出口バンプ、注意!」
「わかってる!」
減速を早めに、ラインをやや内側へ。
跳ねる車体を、腕で押さえつけるようにコントロールする。
デルタS4は、ボディを振るわせながらも、着実に前へ進んでいった。
⸻
コクピット内は、じりじりと暑さが満ちていた。
ヘルメットの中の呼吸が苦しくなり、スーツに滲む汗が背中を伝う。
(でも――これくらい)
昨日の灼熱を思えば、まだ“走れる”。
「次、Straight 100 over small bumps!」
「了解、車体跳ねる、気を付ける!」
ストレートの途中、細かいバンプが続く区間。
メリーはわざとアクセルをわずかに緩め、
サスペンションのストロークを最大限に活かしてショックを吸収する。
「ナイス、無理して跳ばなかった!」
「ちゆりさんの整備に感謝だね!」
互いに短く笑い合いながら、
次のターゲットへと集中を切り替える。
⸻
徐々に、彼女たちは“この日のリズム”を掴みつつあった。
冷えた路面から乾いた路面へ。
グリップの変化。タイヤの反応。マシンのコンディション。
それらすべてを、走りながら、肌で感じ取る。
「まだ行ける……もっと!」
メリーの目が、さらに研ぎ澄まされていった。
「次、Right 4 plus over crest、出口、ライン絞る!」
「了解、少し抑え気味で!」
蓮子のノートに従いながら、メリーは慎重に、だが決して消極的にはならずにコーナーへ進入する。
アクセルをわずかに緩め、荷重をフロントに乗せたまま、
タイヤを滑らせるようにして曲がる。
(……行ける)
デルタS4の挙動は、朝方の不安定さからは考えられないほど、いまは安定していた。
もちろん、足回りは万全ではない。
リアのバンプストッパーは仮修理のままだし、ダンパーも限界ギリギリだ。
だが、メリーはそれをすべて“手の内”に収める感覚を得ていた。
「次、Short jump into Left 3 tight!」
「見えた!」
小さなジャンプ――
着地と同時に、すぐタイトコーナーが待ち構えている。
車体が浮いた瞬間、メリーは軽くアクセルを緩め、ステアリングをわずかに開放する。
ドン、と着地。
バンプを殺しきれずにリアがバウンドするが、
それすら読んだかのようにカウンターを当て、ラインを外さず左へ飛び込んだ。
「ナイスコントロール!!!」
蓮子の叫びが無線に乗る。
(もっと行ける――)
頭の中が冴え渡っていく。
グリップが落ちた路面、痛んだマシン、朝陽で滲む視界。
すべてが自分たちを阻もうとしている。
けれど、今は――それらすらも、乗り越えられる気がした。
「Right 5 minus over rough!振られるから、前荷重残して!」
「OK、耐える!」
砂煙を撒き上げながら、デルタS4はリズムよくコーナーを繋いでいく。
少しずつ、ほんの少しずつ。
タイヤの限界ギリギリを攻め、トラクションを逃がさず走る。
(これだ――これが、私たちのラリーだ)
メリーは確信していた。
⸻
ゴールは、もうすぐそこだった。
「Next, Straight 100、then Finish!」
「了解、フルスロットル!」
蓮子の読み上げに合わせ、メリーはアクセルを踏み抜いた。
デルタS4が咆哮を上げる。
サスペンションはもう限界寸前。
それでも、マシンは前へ前へと推進力を失わない。
(最後まで、走り切る)
ハンドルを握る両手に力を込め、
浮き砂の跳ね返りも、細かいバンプも、一つひとつ受け止めながら、加速を続ける。
太陽の下、乾いたグラベルが煌めいた。
シュバァアアアッ――!
デルタS4は、まるで砂煙ごとゴールラインを切り裂くように、朝のスペシャルステージを駆け抜けた。
「フィニッシュ!!」
蓮子が叫ぶ。
ブレーキング、そして減速。
車体をクールダウン区間へと滑り込ませた瞬間、
ふたりは無言のまま、ヘルメット越しにグータッチを交わした。
⸻
「……やったね」
「うん、最高だったよ!」
疲労も、汗も、すべてはこの瞬間のためにあった。
(間違いなく、昨日よりも速かった)
自分たちの走りに、確かな手応えがあった。
⸻
サービスパークに戻ると、すぐにちゆりが駆け寄る。
「おかえり!タイヤ、だいぶ削ったな!」
「だいぶアンダーも出てたけど、何とかまとめたよ!」
「上出来だ!」
ちゆりが笑い、即座にタイヤの温度と摩耗をチェックする。
夢美も、走行データパッドを片手に歩み寄った。
「ハーン君、宇佐見君」
「はい!」
「……ラップタイム、確実に縮まってる」
ふたりは顔を見合わせ、思わずガッツポーズを取った。
「だが、安心するな。ここからはさらに暑くなる。
午後には、また別の戦いが待っている」
「はい!」
再調整の短い時間。
それでも、ふたりの顔には、確かな自信が宿っていた。
ピットの簡易テントの下、デルタS4がジャッキアップされ、ちゆりとサポートスタッフたちが手際よく作業を進めていた。
「リアサス、軽くダンピング固めに振っといた。跳ね返り対策だ!」
「ありがと、ちゆりさん!」
メリーは、汗を拭いながら満面の笑みで応えた。
(まだ、デルタは走れる)
朝のステージを通して、確かに手応えを感じていた。
アクセルに応える感触。
ステアリングから伝わる細かい情報。
そして、リアから伝わるわずかな限界の“声”。
(この車は、ちゃんと“まだ戦える”って言ってる)
タイヤもすでに交換が始まっている。
午後に備え、やや耐熱性重視のミディアムコンパウンドへ。
「午後は路面温度50度近くまで上がる見込みだ。グリップより耐久重視だな」
夢美がタブレットを見ながら、冷静に告げた。
「わかりました!」
「でも油断するな。バンプでタイヤ一発破裂もありえるぞ」
「……はい!」
少しだけ、背筋が引き締まる。
⸻
蓮子も、ペースノートのチェックを続けていた。
「午後は……路面乾ききって、さらに滑るな……」
「ブレーキングポイント、少しだけ前にずらす?」
「うん、それと、タイトコーナーは抑え気味指示に変えるね」
ふたりは短く打ち合わせる。
もう、言葉は少なくてよかった。
すでに、お互いの考えていることは、だいたいわかっている。
デルタS4を中心にして、ふたりの呼吸が、自然と重なっていった。
⸻
ふとメリーは、青空を見上げた。
強烈な太陽。
乾ききった大地。
絶え間なく吹く、熱を帯びた風。
「……今日、絶対に、巻き返す」
小さな誓いを、誰にでもなく告げた。
蓮子も、隣でそっと頷く。
「うん、私たちなら、できる」
スタート時間が迫る。
メリーと蓮子は、もう一度だけ互いに視線を交わした。
(大丈夫。デルタも、私たちも、まだ戦える)
ピットの簡易テントの下、デルタS4がジャッキアップされ、ちゆりとサポートスタッフたちが手際よく作業を進めていた。
「リアサス、軽くダンピング固めに振っといた。跳ね返り対策だ!」
「ありがと、ちゆりさん!」
メリーは、汗を拭いながら満面の笑みで応えた。
(まだ、デルタは走れる)
朝のステージを通して、確かに手応えを感じていた。
アクセルに応える感触。
ステアリングから伝わる細かい情報。
そして、リアから伝わるわずかな限界の“声”。
(この車は、ちゃんと“まだ戦える”って言ってる)
タイヤもすでに交換が始まっている。
午後に備え、やや耐熱性重視のミディアムコンパウンドへ。
「午後は路面温度50度近くまで上がる見込みだ。グリップより耐久重視だな」
夢美がタブレットを見ながら、冷静に告げた。
「わかりました!」
「でも油断するな。バンプでタイヤ一発破裂もありえるぞ」
「……はい!」
少しだけ、背筋が引き締まる。
⸻
蓮子も、ペースノートのチェックを続けていた。
「午後は……路面乾ききって、さらに滑るな……」
「ブレーキングポイント、少しだけ前にずらす?」
「うん、それと、タイトコーナーは抑え気味指示に変えるね」
ふたりは短く打ち合わせる。
もう、言葉は少なくてよかった。
すでに、お互いの考えていることは、だいたいわかっている。
デルタS4を中心にして、ふたりの呼吸が、自然と重なっていった。
⸻
ふとメリーは、青空を見上げた。
強烈な太陽。
乾ききった大地。
絶え間なく吹く、熱を帯びた風。
「……今日、絶対に、巻き返す」
小さな誓いを、誰にでもなく告げた。
蓮子も、隣でそっと頷く。
「うん、私たちなら、できる」
スタート時間が迫る。
メリーと蓮子は、もう一度だけ互いに視線を交わした。
(大丈夫。デルタも、私たちも、まだ戦える)
岡崎夢美は、少し離れたピットの隅でタブレットの画面をじっと見つめていた。
映し出されているのは、デルタS4の走行データ。
エンジン温度、ブースト圧、サスペンションストローク量――
どの数値も、ギリギリの領域で踏み止まっている。
(……限界だな)
夢美は静かに、心の中で呟く。
デルタS4は素晴らしいマシンだ。
だが、所詮は1980年代の設計。
現代のラリーシーン、現代のグラベル、現代のレギュレーション――
そのすべてに、完全には対応できない。
「ハーン君たちが優秀だから、今はまだ走れている」
だが、このままでは遠からず破綻する。
特に、これから迎える真夏のアルゼンチン、そして次戦以降の過酷なステージ。
いずれ、確実に“このマシンでは支えきれない”時が来る。
(――その時のために)
夢美は、別の画面をそっと開いた。
そこに映るのは、ランチア・デルタS4 ECV――
正式には、「Experimental Composite Vehicle」。
かつて夢美自身が、夢として描いた“次のデルタ”だ。
「S4では、戦い抜けない未来が来る。
なら、準備しておくしかない」
静かに、しかし決然と心に誓う。
デルタS4を捨てるのではない。
彼女たちの走りを、未来へ繋ぐために――
(デルタを、進化させる)
夢美はタブレットを閉じ、歩き出した。
表情は、いつも通りの冷静なまま。
だがその胸の内には、確かな覚悟が宿っていた。
太陽は完全に空の中心へと登り、コルドバの大地を容赦なく焼き付けていた。
アスファルトも、グラベルも、すべてが熱を孕み、
空気すら揺らめいて見える。
デルタS4のボンネットを叩けば、
じり、と乾いた音が響きそうだった。
「……暑い」
メリーがヘルメットをかぶりながら、うっすら苦笑する。
「大丈夫?水、飲んどく?」
蓮子が差し出したボトルを受け取り、一口含む。
だが、すぐに唇を引き結んだ。
(こんなの、気にしてる場合じゃない)
スタートゲート前。
エンジンを軽く吹かしながら、ふたりは集中を深めていった。
⸻
「次のステージ、グラベルと石が混じってるからね」
蓮子がヘルメット越しに声をかける。
「了解。ライン、絶対に外さない」
「でも、タイムも狙うよ!」
「もちろん!」
デルタS4のエンジンが低く唸った。
⸻
「10秒前――」
オフィシャルが指を立てる。
車内に、無言の緊張が満ちる。
熱い。暑い。けれど、それすらも忘れる。
「5、4、3、2、1――GO!!」
スタートフラッグが振られると同時に、メリーはアクセルを踏み抜いた!
⸻
デルタS4が砂煙を蹴り上げ、
焦げつくグラベルへ飛び出していく!
路面は、朝とは比べ物にならないほど粗く、滑りやすくなっていた。
しかも、浮き石が散乱し、ところどころに罠のようなバンプが潜んでいる。
「Next, Right 5 plus over loose!浮き砂注意!」
「了解、荷重残す!」
わずかにアクセルを緩め、リアの挙動を制御しながら突き進む。
(滑る……でも、まだいける!)
メリーは、焦ることなく、タイヤのグリップを丁寧に感じ取りながらコーナーへ進入した。
滑るグラベル。
襲いかかる熱気。
限界ギリギリのデルタS4。
それでも、
ふたりは前を向いていた。
デルタS4のコクピットは、まるでサウナだった。
路面からの熱、直射日光、エンジンからの輻射――
すべてが襲いかかる中、メリーはただ前だけを見据えていた。
「次、Left 4 minus over crest、出口グラベル流れる!」
「了解、早めに荷重移動!」
声を張る蓮子の指示。
それに応えるように、メリーはステアリングを送り込む。
足元では、グラベルがタイヤを飲み込もうとする。
(浮き砂に負けない!)
デルタS4のトラクションを信じ、アクセルをコントロールしながらラインを維持する。
少しでも踏みすぎればスピン。
慎重すぎれば、タイムロス。
ギリギリのバランスを保ちながら、ふたりは進んでいく。
⸻
「Jump into Right 3 minus!着地バンプ注意!」
「了解!」
視界に飛び込んできたのは、小さな丘陵。
その先には、確かに軽いバンプが隠れている。
ジャンプ――
車体がわずかに浮く。
着地。
サスペンションが沈み込み、リアが一瞬バウンドする。
だが、メリーは驚かなかった。
カウンターを先回りで当て、着地直後にスロットルを調整。
「ナイス着地!」
「ありがと、ノートぴったりだった!」
ふたりの呼吸は、どこまでも噛み合っていた。
⸻
しかし、過酷なコンディションは、簡単にふたりを許してはくれない。
「Right 4 plus, into rough straight 150!石跳ね注意!」
「了解、でも……路面、悪化してる!」
蓮子の警告と、メリーの感覚が一致した。
昼の間に通過した他の車両が、路面を荒らしていた。
タイヤの跡、削れた地面、飛び出した石。
そのすべてが、彼女たちを試してくる。
(こんなの、知ったことか!)
メリーは、デルタS4を全身で押さえつけながら、
リズムを崩さずに攻め続けた。
荒れた路面を、デルタS4は必死に食らいつきながら進んでいた。
バン!バン!と、底を打つような衝撃が断続的に車体を揺さぶる。
(……足回り、耐えてくれよ!)
メリーはそう心の中で叫びながら、
細かくステアリングとアクセルを調整していく。
「Left 5 into crest,注意!砂深い!」
「了解、イン側キープ!」
蓮子の指示に応え、できるだけ路面が固い部分を選びながら走る。
だが、砂と石に埋もれたグラベルは予想以上に手強い。
わずかなミスで、簡単にラインを外されそうになる。
「……っ、滑る!」
「戻して!トラクション待って!」
車体が一瞬、スライドする。
リアが外へ流れる。
だがメリーは、ギリギリでカウンターを当て、姿勢を立て直した。
⸻
気温は40度を超えていた。
コクピット内の体感温度は、軽く50度を越しているだろう。
それでも、ふたりはアクセルを緩めなかった。
(これが、ラリーだ)
汗が目に入り、視界が滲む。
心臓の鼓動が速まる。
酸素が薄く感じる。
それでも、
メリーも蓮子も、口にするのは――
「次、Right 3、タイト、出口絞り注意!」
「了解!」
ただ、それだけだった。
⸻
傷だらけのデルタS4。
すでに小石で割れたフロントバンパー、
砂に削られたサイドスカート。
それでも、
マシンは前へ前へと進んでいく。
まるで、
「まだだ」と言わんばかりに。
「Left 4 into crest、次、連続バンプ!」
「了解、ライン内側、浮かせない!」
デルタS4は、荒れたグラベルを這うように駆けていった。
ジャンプポイントでは車体を浮かせず、
着地をできる限りスムーズに収める。
無理に攻めれば壊れる。
守りすぎれば負ける。
その絶妙なバランスの上を、ふたりは走っていた。
⸻
「次、Right 5 plus、出口 rough zone!」
「了解、でも……もう一段、上げる!」
メリーが小さく宣言する。
(このままじゃ、抜け出せない)
最下位からの逆襲。
昨日の屈辱を、ただ忘れないために。
アクセルを、ほんのわずか深く踏み込んだ。
タイヤがわずかに砂を巻き上げる。
デルタS4のリアが、ほんの少し流れた。
「ライン、残ってる!次、Left 3 tight over small crest!」
「わかってる、ブレーキング少し早め!」
メリーはステアをこじらない。
荷重移動だけで車体を沈め、回し、最短距離でコーナーを抜ける。
これまでよりも、わずかにアグレッシブ。
だが、無謀ではない。
ふたりの呼吸は、今、極限まで研ぎ澄まされていた。
⸻
(デルタ……まだいけるよな)
ダッシュボードに手を添えるように、メリーは心の中で問いかける。
その答えを待つまでもなく、
デルタS4は――応えていた。
タイヤを鳴らし、ボディを軋ませながら、
それでも確実にコーナーを抜けていく。
(よし、まだ行ける。もっと、もっと――)
「Next, Straight 200, then Left 4 minus!」
「了解、フルスロットル!」
メリーはアクセルを床まで踏み込み、
デルタS4のすべての力を解き放った。
エンジンが咆哮し、ターボが甲高い音を立てる。
グラベルを蹴り飛ばしながら、車体は一直線に加速していく。
視界が滲む。
コクピット内の熱気が肌にまとわりつく。
ハンドルを通して伝わる細かい震動も、もはや気にならない。
ただ前へ――
ただゴールへ。
「Left 4 minus、少し絞る、出口浮きやすい!」
「わかってる!」
メリーはギリギリまで減速を我慢し、
荷重をフロントに乗せたまま、インを正確に刺していく。
コーナーを抜けた瞬間、
デルタS4のリアが小さく滑った。
だが、慌てない。
そのままアクセルをわずかに戻し、トラクションを繋ぎ止める。
(耐えろ……っ)
ギリギリのスライドコントロール。
タイヤと地面を、まるで指先でつまむように感じ取りながら、
次の直線へと車体を導いた。
⸻
「Next, Straight 100, then Finish!!」
蓮子の声が弾んだ。
「了解、フルスロットルで抜ける!!」
メリーは最後の力を振り絞り、アクセルを踏み抜く!
デルタS4が咆哮を上げ、
前輪がわずかに浮き上がるほどの加速を見せる。
そして――
シュバァァァアアアッ!!!
ゴールラインを、
全速力で、駆け抜けた。
⸻
ふたりは、しばらく無言だった。
汗だくのまま、
握ったステアリングとノートをただ見つめて。
「……やりきったね」
メリーが、小さく呟く。
「うん。……やりきった」
蓮子も、息を整えながら微笑んだ。
ゴール後のクールダウン区間。
熱い砂煙の中を、デルタS4は静かに流していく。
壊れてはいない。
走りきった。
この地獄のような午後を、ふたりと一台で、確かに乗り越えた。
(まだ、私たちは戦える)
そんな確信だけが、
胸の奥で、静かに燃えていた。
サービスパークへ戻るリエゾン区間。
デルタS4のエンジン音は、どこか満ち足りたように響いていた。
「……ほんとに、走りきったんだね」
メリーが、ハンドルに手を預けたまま、ぼそりと呟く。
「うん、ちゃんと、走りきったよ」
蓮子も、隣でヘルメットを軽く脱ぎながら笑う。
互いの顔は汗と埃にまみれ、
スーツは砂塵を浴びて色が変わっていた。
けれど、ふたりの目は、まるで少年のように輝いていた。
⸻
サービスパークに到着すると、
すぐにちゆりが走ってきた。
「無事か!?デルタ、動いてるか!?」
「ばっちりだよ!」
「むしろ、めちゃくちゃ調子いい!」
「……おいおい、こっちはヒヤヒヤしてたっつーの……!」
ちゆりは呆れたように笑いながらも、すぐに車体の点検に取りかかる。
フロントバンパーの小さな傷、
リアディフューザーの砂詰まり、
タイヤの偏摩耗。
ダメージはあった。
でも、決定的なものは何もなかった。
「こいつ……ほんとに、まだ走れるな」
ちゆりがポツリと呟く。
その言葉に、メリーと蓮子は顔を見合わせ、ふっと笑った。
⸻
走行データをチェックしていた夢美も、静かに頷いた。
「ピークタイムには届かないが、安定してる。
タイヤマネジメントも悪くない。
なにより――」
そこで、夢美はふたりを見た。
「完走した。それが一番だ」
メリーも蓮子も、
力強く頷き返す。
⸻
ふと、メリーが小さな声で呟いた。
「……教授」
「なんだ」
「デルタ、まだ、戦えるよ」
夢美は短く息を吐き、
わずかに口元を綻ばせた。
「そうだな。……まだだ」
熱と埃にまみれたデルタS4は、
まるで誇らしげに、そこに立っていた。
夕方。
ラリー本部から、DAY1の暫定リザルトが掲示された。
パークの一角、スタッフやクルーたちが集まり、静かに結果を見守る。
メリーと蓮子も、汗だくのレーシングスーツのまま、歩み寄った。
掲示板には――
⸻
DAY1 暫定リザルト(WRC-Hカテゴリ)
1位:トヨタ・222D
2位:アウディ・クワトロ S1 E2
3位:ランチア・037ラリー
4位:ランチア・デルタS4(メリー&蓮子)
5位:MGメトロ6R4
6位:シトロエン・BX 4TC
⸻
「……4位、か」
メリーが、肩で息をしながら呟いた。
「でも、最下位じゃない」
蓮子も、隣で小さく笑う。
「昨日、あのトラブルからよくここまで巻き返したよね」
「うん……デルタも、私たちも」
⸻
離れた場所でその様子を見ていた夢美も、
わずかに目を細めていた。
(まだトップとは差がある。
でも、“走りきる強さ”は、確かに育ってきた)
彼女の胸の中に去来するのは、誇りでも、満足でもない。
もっと先を見据えた、冷静な情熱だった。
(このままでは終われない。
このチームは、もっと高く――)
⸻
掲示板の前で、メリーが拳を握る。
「明日、もっと詰める。絶対に」
「うん。私たち、まだこれからだよ」
ふたりは見えない契約を交わすように、静かに頷き合った。
南米の空は、いつしか群青に染まり始めていた。
乾いた大地に、夜の静寂がゆっくりと降りてくる。
サービスパークの夜は静かだった。
パドックに並ぶマシンたちは、
走行後の余熱をまだわずかに纏いながら、
整備灯の下で眠るように佇んでいる。
ちゆりは黙々とデルタS4に取り付いていた。
フロントダンパーをチェックし、リアのブレーキラインを点検する。
スキッドプレートを外し、底のダメージを確認。
「……まあ、よくもここまで酷使したもんだぜ」
呟きながらも、
その顔にはどこか嬉しそうな色が滲んでいる。
(本気で走った証拠だ)
砂と石で傷だらけのアンダーボディ。
細かいヒビが入ったフロントリップ。
それでも、決定的なダメージはない。
「こいつ、本当にタフだな……」
ちゆりは心の中で、デルタS4を労った。
⸻
夢美は、別テントでタブレットを広げ、データロガーをにらんでいた。
「……セクター3でペース落ちたな。
原因は、砂浮きとバンプ悪化か」
走行データとオンボード映像を照合しながら、
冷静に分析を重ねる。
その横では、明日のSSスケジュールがすでにプリントアウトされ、
作戦会議の準備が整えられていた。
「教授、明日のグラベル、さらに悪くなるぞ」
ちゆりが言う。
「分かってる。
……明日は、マシンを“壊さずに速く”走らせなきゃいけない」
「ハードすぎだろ、その要求……」
「だから面白いんだ」
夢美は静かに笑った。
だがその奥底には、
「デルタS4の限界」を誰よりも理解する者だけが持つ、
孤独な覚悟が潜んでいた。
(デルタは、もう限界ギリギリだ。
だが、ハーン君たちが望むなら――
私は最後まで、このマシンを走らせる)
⸻
その頃、メリーと蓮子も、
ピット脇のベンチに腰掛けていた。
ヘルメットを磨きながら、ふとメリーが言う。
「……もっと、速くなれるよね、私たち」
「うん、なれる。絶対に」
蓮子は即答した。
迷いはなかった。
この1日で、ふたりは確かに、
“まだ先がある”ことを感じていた。
「デルタも、応えてくれてる。
……だから、私たちがもっと応えないと」
「うん。明日は、もっといい走りをしよう」
「もっと、デルタを信じよう」
ふたりは小さく拳を合わせた。
夜空には南十字星が瞬いている。
遠く離れた異国の地。
けれど、ふたりの心はひとつだった。
明日も、走るために。
もっと強くなるために。
ラリー・アルゼンチン、決戦の最終日。
だが彼女たちを待っていたのは、華やかなフィニッシュラインではなかった。
リエゾン区間での一瞬の油断。
メリーの免許停止という非常事態。
急遽ドライバーを交代し、蓮子がステアリングを握るナイトステージ。
不慣れな闇の中、想定外のアクシデントがふたりを襲う。
――左リアの破損。
――車体の歪み。
――走行不能。
立ち尽くす二人。
だが、仲間の声が彼女たちを呼び戻す。
「そこらの岩で、叩き直せ!!」
焦り、必死にもがきながら応急修理を進める中、
後続車たちが次々と闇を切り裂いて走り抜けていく。
――そして、あの黒き幻影。
トヨタ・222D。
澪とエレナのマシンが、傷ついたデルタS4の傍らを通過していく。
追う者と、追われる者。
交錯するのは一瞬の視線、胸の奥の葛藤。
限界寸前、
痛む車体と、震える手で、
彼女たちは再び立ち上がる。
走るために。
願いを繋ぐために。
この夜空に、誓いを響かせるために――
次回、Monte Carlo Mally LEG16
『夜空に響く誓い』
――走れ、たとえ壊れても。