Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
ラリー・アルゼンチン、DAY3。
夜がすべてを支配するこの最終ステージ、
空には無数の星が瞬き、乾いた風がグラベルの匂いを運んでいた。
デルタS4は、リエゾン区間を静かに進んでいた。
コクピットに響くのは、排気音とタイヤが小石を噛む微かな音。
メリーは黙々とハンドルを握り、蓮子は隣でノートを確認している。
この数日間で、ふたりは何度も限界を越えてきた。
今夜も、そうなるはずだった。
――だが。
「……あっ」
蓮子が、唐突に気づいた。
「メリー、標識見た?制限速度、下がってる……!」
「え? うそ、どこに――」
その瞬間、後方から閃光。
赤と青のフラッシュライト。
そして、無機質なサイレン音。
「……やばい」
メリーが絶句する。
車両を路肩に寄せた次の瞬間、
警官がやってきた。
早口のスペイン語とジェスチャー。
それは何を意味するか、直感的に理解できた。
「……免停、だって」
蓮子が顔を真っ青にして呟く。
「はぁぁぁぁ!?!?」
メリーの悲鳴が夜空に溶けた。
⸻
数分後。
事務手続きと簡単な取り調べが終わり、
メリーは膝から崩れ落ちた。
「……嘘でしょ、よりにもよって最終日で……」
「ど、どうするの!?これじゃあスタートできないよ!!」
パニックに陥るふたりに、サポートカーからちゆりの無線が飛ぶ。
『落ち着け!ドライバー交代の申請はできる!時間ギリギリだけど、いける!』
「でも、誰が……」
「……私が、やるしかない」
メリーの隣で、蓮子が小さく言った。
「私が、運転する」
⸻
ステアリングを握った蓮子の手は、かすかに震えていた。
これまでずっと、隣で支えてきた。
だが今夜は、自分がデルタS4を動かす番だ。
(できる。できる……)
胸に言い聞かせる。
ヘッドライトが闇を裂き、スタートラインが近づいてくる。
それでも、逃げるわけにはいかない。
デルタも、メリーも、ちゆりも、教授も――
誰ひとり、逃げなかったのだから。
「行こう、蓮子」
助手席のメリーが、そっと声をかけた。
「……うん!」
アクセルを踏み込む。
デルタS4が、夜空に向かって吼えた。
スタートライン。
ナイトステージの入口に、デルタS4が静かに並んだ。
周囲は漆黒。
頼れるのは、車のヘッドライトと、蓮子自身の感覚だけ。
「3、2、1――Go!」
スターターの合図と同時に、蓮子はアクセルをじわりと踏み込んだ。
デルタS4が砂を巻き上げながら、夜の中へ滑り出していく。
⸻
だが走り出した瞬間、痛感する。
(左足……ブレーキ……?無理!)
右足だけでブレーキとアクセルを踏み替える。
そのたびに車体が不安定になり、ステアリング操作が遅れる。
全神経を集中させても、反応がワンテンポ遅れる。
怖い。
制御できる自信が、じわじわと削られていく。
⸻
そのとき、無線が鳴った。
『宇佐見君、聞こえるか!』
夢美の声だ。
『いいか、ギア操作は全部ハーン君が担当する!
お前はステアとアクセル、ブレーキにだけ集中しろ!』
「りょ、了解!」
すぐに助手席のメリーが応じる。
「蓮子、私がシフト操作するから!
言われたらクラッチだけ踏んで!」
「わかった!!」
⸻
「Next, Left 4 plus, over crest!」
蓮子はペースノートを必死に追いながら、
手綱を握るようにデルタS4を操る。
ステアを切る。
アクセルを開ける。
しかしシフトアップのタイミングは――
「はい、クラッチ!」
「踏んだ!」
メリーの声に合わせ、蓮子が瞬時にクラッチを踏む。
カシャン、とシフトレバーが確実に動く感触。
無駄なく、正確に。
「いいよ、繋いで!」
「了解っ!」
蓮子がクラッチを戻すと、デルタS4が唸りながら加速する。
(……助かる……!)
操縦の負担が半分近く減った。
それでも――
夜道と、デルタS4と、右足だけでの制御。
それらは依然、蓮子にとって未知への挑戦だった。
⸻
「Next, Right 5 long, caution, rocks outside!」
「了解!」
蓮子は注意深くインへラインを寄せる。
だが、わずかにアウトへ膨らんだ。
「っ……!」
リアタイヤが、大きな岩をかすめた。
ガンッ!!
鈍い衝撃。
車体が一瞬持ち上がる。
そして、直後の違和感。
「左リア、違和感!!」
「後ろ、おかしい!」
慎重にアクセルを抜きながらも、
デルタS4のリアは明らかに沈んでいた。
(沈み込む、曲がってる……!)
即座に判断する。
「止まる!!」
コース脇に滑り込むように停車。
左後輪は――
見るも無惨に、内側へとねじれていた。
「サスペンションアーム、完全に逝ったかも……!」
「これじゃ走れない……!」
絶望しかけたふたり。
だがその時。
無線が吠えた。
『宇佐見!ハーン!聞こえるか!!』
「ちゆりさん!!」
『左リアだな!? なら叩き直せ!!』
「叩くって、なにで……!」
『その辺の岩でも鉄でもなんでもいい!!
ぶっ叩いて、アームをまっすぐに戻せ!!』
「無茶だよ!!」
『無茶でもやるしかねぇんだよ!!!急げ!!!』
⸻
答えは、もう決まっていた。
「メリー、岩!」
「任せて!」
ふたりは暗闇に飛び出し、
必死に転がる大きな石を探す。
(諦めない、絶対に)
汗まみれの手で岩を持ち上げ、
デルタS4の下へと戻る。
「いくよ!」
「うん!」
ガン! ガン!
鈍い音が、乾いた夜空に響き渡る。
その合間にも、遠くから
グラベルを削るタイヤ音と、ヘッドライトの光。
後続車が、次々と近づいてきていた。
夜のグラベルコース。
デルタS4の脇に、ふたりはしゃがみ込んでいた。
汗に濡れた額、息を荒げながら、
必死で岩を振り下ろす。
「っ、もう一発!!」
「がんばって、蓮子……!」
金属がきしむ音と、衝撃の反動。
曲がったサスペンションアームが、わずかに形を取り戻していく。
だが、タイムリミットは迫っていた。
(早く……早く直さないと……!)
そのとき――
遠くから、地響きのようなエンジン音が迫る。
「来る……!」
メリーが顔を上げる。
蓮子も岩を握ったまま、夜空を見た。
闇の中、ふたつのライトが踊る。
ヘッドライトに照らし出されたのは、
漆黒のボディ。
シャープなシルエット。
ミッドシップ特有のコンパクトなリア。
(――トヨタ・222D……!)
あの日、コートダジュールで並走した、
あの黒き幻影。
「……篠原さんたちだ」
メリーが小さく呟いた。
⸻
デルタS4の横を、222Dが駆け抜ける。
澪の視点。
ヘッドライトの端に、傷ついたデルタの姿が映る。
(……止まれない)
心臓が痛む。
でも、ラリーは止まることを許さない。
澪は、ステアリングを握り締めたまま、
その横顔を一度だけ、ちらりと見る。
見えた。
ヘルメット越しに、必死で車体を叩くふたりの姿。
(まだ、諦めてない……!)
⸻
助手席、エレナの視点。
「……!」
彼女もまた、一瞬だけデルタを見た。
「あそこ、メリーたち……!」
そう叫びかけたが、言葉にはできなかった。
澪が、前だけを見ているのを感じたから。
(わかってる……でも……!)
歯を食いしばる。
アクセルワークに迷いはない。
今ここで、立ち止まるわけにはいかない。
エレナはノートを読み上げ続けた。
「Next、Left 3 tight!!」
「了解!」
ふたりのリズムは乱れない。
痛みを押し殺して、ただ前だけを見据える。
⸻
デルタS4の脇を、
トヨタ・222Dが光の矢のように通過していった。
砂煙と、エキゾーストの匂いだけを残して。
「……行っちゃった」
メリーが、静かに呟く。
だがその声には、悲しみではなく――
闘志が滲んでいた。
「蓮子、あと少し。叩こう!」
「うん……!」
ふたりは再び岩を握り、夜空に向かって振り下ろした。
まだ、終わってない。
終わらせない。
このデルタS4と、絶対にゴールするために――
ガン――!
最後の一撃が、アームに響いた。
メリーが顔を上げ、慎重に車体下を覗き込む。
「……蓮子、たぶんこれ以上は無理。
でも――走れるかもしれない」
「ほんと!?」
「見た目は最悪だけど、タイヤは地面に着いてる。……賭けるしかない」
蓮子は強く頷いた。
「やる!」
⸻
ふたりは急いで車体に戻り、シートベルトを締める。
無線機に手を伸ばす。
「教授、ちゆりさん、修理完了!これから再スタートします!」
『了解!無理はするな、タイムリミットだけ意識しろ!』
夢美の声が鋭く飛ぶ。
『この先、ジャンプとヘアピンが続く。足回り死んでるなら、
全部抑えろ。ジャンプするな!振り回すな!』
「了解……!」
蓮子はハンドルを握り、深呼吸した。
「蓮子、ギアいくよ」
「お願い!」
⸻
ギシギシと悲鳴を上げるデルタS4を、そっと転がし始める。
明らかに左リアの挙動がおかしい。
わずかなバンプでも、車体が斜めに揺れる。
でも――
「……動いてる!」
「いける、いけるよ……!」
ぎこちなくも前へ進み始めた車体に、
ふたりは希望を繋いだ。
⸻
「次、Left 3 minus、タイトだから、ゆっくり!」
「了解!」
ギアチェンジのたびに、
メリーの「はい、クラッチ!」の声が飛び、
蓮子が一瞬だけ左足を動かす。
シフトアップ、シフトダウン。
お互いの呼吸だけが、繋ぎ止める唯一の命綱。
「いいよ、いいペース!」
「もうちょっと……!」
左リアはまだ痛んでいる。
ガタガタと車体が揺れるたび、冷や汗が滲む。
それでも、アクセルを戻さない。
⸻
最後のストレート。
遠くに、かすかに光るフィニッシュゲートが見えた。
(……あと、少し)
「ラスト、Right 2!」
「了解っ!!」
右へ、慎重に車体を傾ける。
ゆっくり、確実に、アウトへ広がらないように。
(デルタ……お願い……!)
⸻
そして――
ヘッドライトがフィニッシュラインを照らした。
⸻
「――通過!!」
無線機が叫ぶ。
『Monte Carlo Mally、デルタS4、フィニッシュライン通過確認!』
⸻
息を詰めた数秒の後。
車内に、じわりと涙が滲んだ。
「……やった」
「やったよ、蓮子……!」
ボロボロのデルタS4。
壊れたまま、それでも走りきった。
タイムは、最下位ギリギリだった。
もう後ろには誰もいない。
だけど――
彼女たちは、確かに
このステージを、自分たちの足で走りきったのだった。
⸻
冷えた夜空。
深呼吸をして、見上げた先には、無数の星が瞬いていた。
フィニッシュゲートを越えたデルタS4は、
かろうじて走行を続けながら、ゆっくりとピットエリアに向かっていた。
左リアは相変わらず傾いたまま。
サスペンションは限界を超え、いつ崩れてもおかしくない。
だけど、いまだけは――
「……帰ってこれたね」
「うん……」
蓮子とメリーは、何度も頷きあった。
無線からは、夢美の落ち着いた声が届く。
『ピット手前、最徐行で進め。もう一度壊れたら搬送になるぞ』
「了解です」
⸻
ピットの明かりが見えた。
その入口に、腕を組んで立っていたのは、
夢美と、ちゆりだった。
車体が止まると、すぐにちゆりが駆け寄る。
「左リア完全に逝ってるな……でも、よくここまで持ったぜ」
「ちゆりさん……」
メリーが笑いながら、肩で息をしながら答える。
ちゆりは車体を覗き込み、
感心したように唸った。
「こんなやっつけ直しでも、走りきったか。お前ら、なかなか根性あるじゃねぇか」
「……えへへ」
蓮子も、ようやく張りつめていた緊張が緩み、
小さく笑った。
⸻
夢美が、ゆっくりと歩み寄る。
無言でふたりを見つめる。
プレッシャーのような沈黙。
だけど、それを破ったのは――
「よく帰ってきたな」
それだけだった。
乾いた声。
だけど、その奥に滲むものを、
蓮子も、メリーも、確かに感じた。
「ありがとう……ございます!」
ふたりは、揃って頭を下げた。
⸻
ちゆりが、冗談めかして言う。
「まあ、あれだな。教授は素直に褒めるのが苦手だからな」
「うるさいぞ」
夢美が小さく睨むが、
ちゆりはケラケラと笑うだけだった。
「でもな、宇佐見、ハーン」
夢美はふたりを見据えた。
「今日のお前たちは、“ただ乗せられてるだけ”じゃなかった。
ちゃんと、自分たちの力でマシンを動かしてた」
「……!」
蓮子の目が見開かれる。
「車の意思を受け取って、応えた。
その結果だ。誇れ」
⸻
夜の空気が、澄んでいた。
満天の星空の下、
傷ついたデルタS4と、ふたりの少女。
その姿は、きっと、何よりも強く輝いていた。
整備エリアの奥。
簡素なテーブルと椅子が並ぶ小さな休憩スペースに、チームのメンバーが集まっていた。
夢美はコーヒーカップを手に、沈思黙考していた。
向かいでは、ちゆりが修理レポートをまとめている。
その隣で、メリーと蓮子はぐったりと椅子にもたれていた。
しかし、どこか誇らしげな顔つきでもあった。
「……しかし、教授も褒めるなんて珍しいですね」
ちゆりが冗談めかして言うと、
夢美は視線を外し、コーヒーを一口啜った。
「事実を言っただけだ」
⸻
沈黙。
やがて夢美は、ふとテーブルに手を伸ばし、
手元のタブレット端末を開く。
そこには、今日一日の走行データが並んでいた。
速度、荷重、トラクション、各部の応答――
そして、左リアサスペンションに記録された異常データ。
(……限界だな)
そう、確信する。
どれだけ腕があっても。
どれだけ心を通わせても。
「――このデルタS4には、“物理的な限界”がある」
思わず、独り言が漏れた。
⸻
メリーと蓮子が顔を上げる。
「教授……?」
夢美は二人を見た。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「別に、今すぐの話じゃない。
だがいずれ、お前たちの走りは、このマシンの性能を超える」
「……!」
「現代のグラベルに耐える足回り。
制御しきれる新型のパワートレイン。
安全性と剛性を両立したシャシー――」
タブレットの別のページをめくる。
そこには、新たな車両構想図が浮かび上がっていた。
「ランチア・デルタS4の後継。
“ECV”――エボルツィオーネの名を持つマシンだ」
「ECV……?」
メリーが呟く。
夢美は静かに頷いた。
「本来、グループSとして開発されていた幻のマシンだ。
それを、今の技術で蘇らせる。――そのための準備は、すでに始めている」
⸻
メリーも、蓮子も、言葉を失った。
デルタS4は、ただのマシンじゃない。
ふたりにとって、それは初めて“戦った”相棒だ。
でも――
(もし、もっと先へ行けるなら……)
ふたりの胸に、言葉にできない感情が広がった。
⸻
ちゆりが、そっと問いかける。
「それって……今のデルタを、捨てるってことですか?」
夢美は、ほんのわずかだけ間を置き、答えた。
「――違う。
このデルタS4があったから、次へ行ける。
だから、連れて行く。今度は、進化した姿で」
(必ず――連れて行く)
静かな誓いが、胸の奥で燃え続けていた。
⸻
外では、まだ夜風が吹いている。
アルゼンチンの星空の下、
小さなチームは、それぞれに静かな未来を見据えていた。
ラリー・アルゼンチン、夜の死闘を越え、
傷だらけのデルタS4はついに完走を果たした。
勝敗を超えた”走り切る”という誇りを手にしたメリーと蓮子。
そしてチームは、新たな旅路へと進み出す。
次なる舞台は、はるか海を越えた日本。
慣れ親しんだはずの祖国で、ふたりを待ち受けるのは――
かつてない激戦と、未知の挑戦だった。
限界を超えたマシン、交錯する想い、
そして夢美が抱えるひとつの”決意”。
帰還の翼は、すでに夜明けを目指している。
走り続けろ。まだ見ぬ未来へ。
Monte Carlo Mally LEG17『アルゼンチンを越えて』、始動。