Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
岡崎の試験コース。
標識も観客もいない、無機質な舗装路が山の中に続いていた。
朝霧の中で、エンジンの低い唸りがひとつ、空気を震わせる。
金属のような赤を纏ったボディが、静かに息を吹き返した。
新しい――ランチア・デルタECV。
その名は“Experimental Composite Vehicle”。
S4の後継として、軽量化と高出力化を極めた異端の機体。
そしてそのステアリングを握っているのは、
チーフエンジニアであり、かつてのラリードライバー――岡崎夢美。
「……ブースト計、正常。燃調、良好。
ちゆり、データロガーの準備は?」
「オッケーだぜ教授。センサーも動作確認済みだ。
でも本気であんたが運転するのか?」
「他に誰がやる。
マシンの癖は、作った本人が掴むのが一番早い。」
夢美は淡々と言いながら、グローブをはめ、6点ハーネスを締める。
瞳には、一切の迷いがなかった。
「……“科学者”に戻ったつもりで、観察してろ。」
「“戻った”じゃなくて“戻るな”の間違いだろ。」
「口が減らん。」
笑みとも皮肉ともつかない表情。
次の瞬間、ECVのタービンが甲高く鳴き始めた。
⸻
「シーケンシャル、1速。クラッチ接続。」
ブースト計の針が一気に跳ね上がり――
赤い車体が、爆音とともに霧を切り裂いた。
「ブースト0.9……1.1……!?」
ちゆりの声が無線越しに上ずる。
それでも夢美の声は落ち着いていた。
「問題ない、設定通りだ。
S4より軽い。フロントの入りが鋭すぎるな。」
「教授、やべぇって!まだ冷えて――」
「冷えてるうちに走りを掴む。
温まってからでは、限界が見えない。」
赤いマシンが、コースの端でタイヤを鳴かせる。
ダブルヘアピンを抜けるたび、リアが跳ねる。
それでも夢美は、アクセルを戻さない。
⸻
「……これが“次”のデルタ、か。」
独りごちる声には、歓喜でも恐怖でもない、
ただ純粋な“探究”の音色があった。
「理論上、この軽量率なら旋回性能はS4比で17%向上。
問題は……」
右コーナーで、わずかにリアがスライド。
一瞬、夢美の眉が動く。
「……減衰が足りない。リバウンドで浮いてる。」
「教授、ピット戻れって!あんた、顔色が――」
「データが足りん。」
次の瞬間、ECVがストレートに飛び出した。
タービンの音が叫びに変わり、
空気が裂ける。
180km/h――200――210――。
そして――カーブ。
「……舵角オーバー。くそ、サーボが――!」
ブレーキを踏む。だが応答が遅い。
次の瞬間、左フロントが縁石に触れた。
タイヤが浮き、赤い機体が横に跳ねた。
「――ッ!!」
衝撃。金属の悲鳴。
そして白い煙。
⸻
ピットの無線が悲鳴に変わった。
「教授ッ!!応答しろッ!!教授!!」
数秒の沈黙のあと、
かすれた声が戻ってきた。
「……問題ない。……動ける。」
「動けるかよ!マシン潰れてんじゃねぇか!!」
「潰れてない。“曲がった”だけだ。
修正は……できる。」
「何を言ってんだ、腕から血が――!」
「この程度、観察に支障はない。」
夢美はハーネスを外し、ふらりと外に出た。
左袖が破れ、肘のあたりから血が滲んでいる。
しかし、その視線はひたすらマシンの足回りを追っていた。
「フロントアーム、設計限界は超えてない。
サブフレームも変形していない……優秀だ。」
「教授……お前、また“現場”に戻ってるぜ。」
「そうだ。研究室にいても、“走りの真実”は掴めん。」
⸻
夢美は立ち上がり、血のついた手でボディを撫でた。
赤いECVの表面が、夕陽を受けてきらめく。
「……まだ、生きている。」
「教授、次はドライバーにやらせる。
今度は、あのふたりの番だ。」
「そうだな。
――“私の限界”を超えてみせろ、ハーン。」
風が吹く。
霧が晴れ、沈みかけた太陽が赤い光を落とした。
その中で、夢美の横顔は静かに笑っていた。
岡崎・試験センター。
鉄骨むき出しのガレージの中で、
機械の音が止むことはなかった。
エアガンの乾いた音、
コンプレッサーの唸り、
そして――
焼けた金属の匂いに、血のような鉄の臭いが微かに混じる。
「教授、こっちは右サスの再調整終わったぜ。
フロントはどうする?」
北白河ちゆりが手袋を外し、油を拭いながら声をかける。
夢美は無言でタブレットを操作し、
計測データを確認していた。
「……フロントのピボット、あと0.3下げろ。
バンプ側のストロークを稼げ。」
「それ、昨日もやっただろ。」
「“昨日”の私は、0.5で失敗した。」
「……まだ腕、治ってねぇくせに。」
包帯が巻かれた左肘。
白い布の下からは、
まだ赤黒い染みがにじんでいた。
「このくらいで止まってるのが奇跡だぜ、教授。
よく“歩いて”帰ってきたもんだ。」
「歩けるうちは、死んでない証拠だ。」
夢美は淡々と答え、
修正されたECVのサスペンションを見上げた。
その赤いボディは、
火のように鮮やかで、
まるで血を流した本人の“延長”のようでもあった。
⸻
その頃。
京都から戻ったメリーと蓮子を乗せた新幹線が、
名古屋駅を過ぎた。
「……教授、無事なんだよね?」
メリーの問いに、蓮子は曖昧に頷いた。
「“無事”の定義によると思う。
ちゆりからのメッセージ、短すぎて逆に怖い。」
“教授は動いてる。走行データも取れてる。問題なし。”
「“問題なし”のあとに“問題ありすぎ”が隠れてるパターンだ。」
「だよね。」
窓の外に流れる田園風景を眺めながら、
メリーは小さく息を吐いた。
「……教授、あんな体でまた走るなんて。」
「きっと、止まれないんだよ。」
「止まれない?」
「うん。たぶん、教授にとって走ることは――
研究でも、競技でもなくて、“生きること”そのものなんだと思う。」
メリーはしばらく黙って、
自分の掌を見つめた。
「……もし私たちが、それを引き継ぐなら。」
「うん。」
「同じくらいの覚悟、いるね。」
⸻
岡崎到着。
ふたりがガレージに入ったとき、
整備場はまるで戦場のように熱気を帯びていた。
「――来たか。」
夢美の声。
エンジン音に負けない強さがあったが、
その表情の奥には、わずかな疲労が滲んでいる。
「教授、その腕……!」
「かすり傷だ。問題ない。」
「どう見ても包帯ぐるぐるなんですけど。」
「……負傷より、成果の方が重要だ。」
蓮子が眉をひそめる。
「成果って、命懸けで取るものじゃないでしょ。」
夢美は言葉を返さなかった。
ただ、ふたりをまっすぐに見た。
「――見せてやる。」
⸻
ガレージの中央で、
赤いボディがゆっくりと照明に照らされる。
「これが……デルタECV……!」
メリーが息を呑んだ。
ランチア・デルタS4をベースにしながらも、
すべてが異なる。
より低く、より広く、そして“軽い”。
曲線ではなく“刃”のような形をしていた。
「複合素材とカーボン・ケブラーのフレーム。
重量はS4比でマイナス120キロ。
最大ブースト圧1.6、出力換算で600馬力超。
……S4の限界を超えるために作った。」
「でも……教授、自分で走ったんですよね。
その結果、怪我して……」
「――こいつは“噛む”。
その牙の長さを知らずにお前たちを乗せる方が、もっと危険だ。」
静寂。
メリーも蓮子も、何も言えなかった。
それが“覚悟”という名の重さだと、痛いほど分かった。
⸻
「メリー、蓮子。」
夢美はゆっくりと近づき、
右手でECVの赤いフェンダーを叩いた。
「この車は、私が完成させた。
だが、私が走るための車じゃない。
お前たちが、“未来で走るため”の車だ。」
「教授……」
「命を削って作った。だからこそ、使いこなせ。」
その言葉は命令でも叱責でもなく――
祈りのように、静かに響いた。
⸻
夜。
テスト場の照明が落とされる。
赤いECVが静かに闇の中で眠る。
その横で、夢美は包帯の腕を押さえながら、
小さく呟いた。
「……お前たちが、“次”を見るんだ。」
風が吹き、蛍光灯がひとつ、かすかに揺れた。
――ECV、覚醒。
それは血の匂いと共に始まった。