Monte Carlo Mally   作:Yaris Margatroid

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LEG22 『紅いECV、覚醒』

岡崎の試験コース。

標識も観客もいない、無機質な舗装路が山の中に続いていた。

朝霧の中で、エンジンの低い唸りがひとつ、空気を震わせる。

 

金属のような赤を纏ったボディが、静かに息を吹き返した。

新しい――ランチア・デルタECV。

その名は“Experimental Composite Vehicle”。

S4の後継として、軽量化と高出力化を極めた異端の機体。

 

そしてそのステアリングを握っているのは、

チーフエンジニアであり、かつてのラリードライバー――岡崎夢美。

 

「……ブースト計、正常。燃調、良好。

 ちゆり、データロガーの準備は?」

 

「オッケーだぜ教授。センサーも動作確認済みだ。

 でも本気であんたが運転するのか?」

 

「他に誰がやる。

 マシンの癖は、作った本人が掴むのが一番早い。」

 

夢美は淡々と言いながら、グローブをはめ、6点ハーネスを締める。

瞳には、一切の迷いがなかった。

 

「……“科学者”に戻ったつもりで、観察してろ。」

 

「“戻った”じゃなくて“戻るな”の間違いだろ。」

 

「口が減らん。」

 

笑みとも皮肉ともつかない表情。

次の瞬間、ECVのタービンが甲高く鳴き始めた。

 

⸻

 

「シーケンシャル、1速。クラッチ接続。」

 

ブースト計の針が一気に跳ね上がり――

赤い車体が、爆音とともに霧を切り裂いた。

 

「ブースト0.9……1.1……!?」

 

ちゆりの声が無線越しに上ずる。

それでも夢美の声は落ち着いていた。

 

「問題ない、設定通りだ。

 S4より軽い。フロントの入りが鋭すぎるな。」

 

「教授、やべぇって!まだ冷えて――」

 

「冷えてるうちに走りを掴む。

 温まってからでは、限界が見えない。」

 

赤いマシンが、コースの端でタイヤを鳴かせる。

ダブルヘアピンを抜けるたび、リアが跳ねる。

それでも夢美は、アクセルを戻さない。

 

⸻

 

「……これが“次”のデルタ、か。」

 

独りごちる声には、歓喜でも恐怖でもない、

ただ純粋な“探究”の音色があった。

 

「理論上、この軽量率なら旋回性能はS4比で17%向上。

 問題は……」

 

右コーナーで、わずかにリアがスライド。

一瞬、夢美の眉が動く。

 

「……減衰が足りない。リバウンドで浮いてる。」

 

「教授、ピット戻れって!あんた、顔色が――」

 

「データが足りん。」

 

次の瞬間、ECVがストレートに飛び出した。

タービンの音が叫びに変わり、

空気が裂ける。

 

180km/h――200――210――。

そして――カーブ。

 

「……舵角オーバー。くそ、サーボが――!」

 

ブレーキを踏む。だが応答が遅い。

次の瞬間、左フロントが縁石に触れた。

タイヤが浮き、赤い機体が横に跳ねた。

 

「――ッ!!」

 

衝撃。金属の悲鳴。

そして白い煙。

 

⸻

 

ピットの無線が悲鳴に変わった。

 

「教授ッ!!応答しろッ!!教授!!」

 

数秒の沈黙のあと、

かすれた声が戻ってきた。

 

「……問題ない。……動ける。」

 

「動けるかよ!マシン潰れてんじゃねぇか!!」

 

「潰れてない。“曲がった”だけだ。

 修正は……できる。」

 

「何を言ってんだ、腕から血が――!」

 

「この程度、観察に支障はない。」

 

夢美はハーネスを外し、ふらりと外に出た。

左袖が破れ、肘のあたりから血が滲んでいる。

しかし、その視線はひたすらマシンの足回りを追っていた。

 

「フロントアーム、設計限界は超えてない。

 サブフレームも変形していない……優秀だ。」

 

「教授……お前、また“現場”に戻ってるぜ。」

 

「そうだ。研究室にいても、“走りの真実”は掴めん。」

 

⸻

 

夢美は立ち上がり、血のついた手でボディを撫でた。

赤いECVの表面が、夕陽を受けてきらめく。

 

「……まだ、生きている。」

 

「教授、次はドライバーにやらせる。

 今度は、あのふたりの番だ。」

 

「そうだな。

 ――“私の限界”を超えてみせろ、ハーン。」

 

風が吹く。

霧が晴れ、沈みかけた太陽が赤い光を落とした。

その中で、夢美の横顔は静かに笑っていた。

 

岡崎・試験センター。

鉄骨むき出しのガレージの中で、

機械の音が止むことはなかった。

 

エアガンの乾いた音、

コンプレッサーの唸り、

そして――

焼けた金属の匂いに、血のような鉄の臭いが微かに混じる。

 

「教授、こっちは右サスの再調整終わったぜ。

 フロントはどうする?」

 

北白河ちゆりが手袋を外し、油を拭いながら声をかける。

夢美は無言でタブレットを操作し、

計測データを確認していた。

 

「……フロントのピボット、あと0.3下げろ。

 バンプ側のストロークを稼げ。」

 

「それ、昨日もやっただろ。」

 

「“昨日”の私は、0.5で失敗した。」

 

「……まだ腕、治ってねぇくせに。」

 

包帯が巻かれた左肘。

白い布の下からは、

まだ赤黒い染みがにじんでいた。

 

「このくらいで止まってるのが奇跡だぜ、教授。

 よく“歩いて”帰ってきたもんだ。」

 

「歩けるうちは、死んでない証拠だ。」

 

夢美は淡々と答え、

修正されたECVのサスペンションを見上げた。

 

その赤いボディは、

火のように鮮やかで、

まるで血を流した本人の“延長”のようでもあった。

 

⸻

 

その頃。

京都から戻ったメリーと蓮子を乗せた新幹線が、

名古屋駅を過ぎた。

 

「……教授、無事なんだよね?」

 

メリーの問いに、蓮子は曖昧に頷いた。

 

「“無事”の定義によると思う。

 ちゆりからのメッセージ、短すぎて逆に怖い。」

 

“教授は動いてる。走行データも取れてる。問題なし。”

 

「“問題なし”のあとに“問題ありすぎ”が隠れてるパターンだ。」

 

「だよね。」

 

窓の外に流れる田園風景を眺めながら、

メリーは小さく息を吐いた。

 

「……教授、あんな体でまた走るなんて。」

 

「きっと、止まれないんだよ。」

 

「止まれない?」

 

「うん。たぶん、教授にとって走ることは――

 研究でも、競技でもなくて、“生きること”そのものなんだと思う。」

 

メリーはしばらく黙って、

自分の掌を見つめた。

 

「……もし私たちが、それを引き継ぐなら。」

 

「うん。」

 

「同じくらいの覚悟、いるね。」

 

⸻

 

岡崎到着。

ふたりがガレージに入ったとき、

整備場はまるで戦場のように熱気を帯びていた。

 

「――来たか。」

 

夢美の声。

エンジン音に負けない強さがあったが、

その表情の奥には、わずかな疲労が滲んでいる。

 

「教授、その腕……!」

 

「かすり傷だ。問題ない。」

 

「どう見ても包帯ぐるぐるなんですけど。」

 

「……負傷より、成果の方が重要だ。」

 

蓮子が眉をひそめる。

 

「成果って、命懸けで取るものじゃないでしょ。」

 

夢美は言葉を返さなかった。

ただ、ふたりをまっすぐに見た。

 

「――見せてやる。」

 

⸻

 

ガレージの中央で、

赤いボディがゆっくりと照明に照らされる。

 

「これが……デルタECV……!」

 

メリーが息を呑んだ。

ランチア・デルタS4をベースにしながらも、

すべてが異なる。

より低く、より広く、そして“軽い”。

曲線ではなく“刃”のような形をしていた。

 

「複合素材とカーボン・ケブラーのフレーム。

 重量はS4比でマイナス120キロ。

 最大ブースト圧1.6、出力換算で600馬力超。

 ……S4の限界を超えるために作った。」

 

「でも……教授、自分で走ったんですよね。

 その結果、怪我して……」

 

「――こいつは“噛む”。

 その牙の長さを知らずにお前たちを乗せる方が、もっと危険だ。」

 

静寂。

メリーも蓮子も、何も言えなかった。

それが“覚悟”という名の重さだと、痛いほど分かった。

 

⸻

 

「メリー、蓮子。」

 

夢美はゆっくりと近づき、

右手でECVの赤いフェンダーを叩いた。

 

「この車は、私が完成させた。

 だが、私が走るための車じゃない。

 お前たちが、“未来で走るため”の車だ。」

 

「教授……」

 

「命を削って作った。だからこそ、使いこなせ。」

 

その言葉は命令でも叱責でもなく――

祈りのように、静かに響いた。

 

⸻

 

夜。

テスト場の照明が落とされる。

赤いECVが静かに闇の中で眠る。

 

その横で、夢美は包帯の腕を押さえながら、

小さく呟いた。

 

「……お前たちが、“次”を見るんだ。」

 

風が吹き、蛍光灯がひとつ、かすかに揺れた。

 

――ECV、覚醒。

それは血の匂いと共に始まった。

 

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