Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
太陽が沈まない国、フィンランド。
夜のはずなのに、空は薄い金色の光を残し続けていた。
まるで一日が終わることを拒んでいるかのように――。
ユヴァスキュラ近郊、
湖と森が入り混じるリエゾン区間の入口で、
メリーは赤く光るデルタECVのステアリングを握り直した。
「……これが、空を飛ぶ国の空気か。」
助手席の蓮子が、手元のノートを確認しながら答える。
「湿度が低くて空気が軽い。
……でも、この軽さが逆に怖いね。跳ねたら戻ってこないかも。」
「落ち着いて落ちる。教授の言葉を借りるなら、そうでしょ。」
「うわ、あの理論まだ信じてるの……?」
「半分はね。」
メリーは笑い、ヘルメットのバイザーを下ろす。
リアで唸るツインターボが、ゆっくりとブーストを上げ始めた。
⸻
森の中に響くエンジン音。
ECVは900キロのボディを軽々と持ち上げ、
まるで地面を蹴り飛ばすように加速していく。
「200、Left 4 minus、crest keep!」
蓮子の声が、すぐに風にかき消される。
視界の先、地平線のような直線が、
次の瞬間には“空”へと変わった。
――飛んだ。
短い沈黙。
サスペンションが一瞬完全に伸び切る。
無重力に近い浮遊の感覚。
そして、わずかな角度の狂いが命取りになる、数秒の静止。
「着地まで2秒……姿勢維持、OK!」
ズドンッ――!
着地の衝撃。
だがECVは、足元のグラベルを掴んで揺るがない。
荷重が戻った瞬間、再びスロットルが全開に戻された。
「っしゃああああ!!」
蓮子の叫びが響く。
メリーは無言のまま、次のカーブへと滑り込む。
⸻
対向エリアでは、同じくトヨタ・222Dが走っていた。
澪のハンドル操作は、まるで機械のように正確。
エレナがテンポよくノートを読む。
「Right 6、crest jump、200! 次、湖畔沿い左3 tight!」
「了解。」
跳躍。
黒い222Dが、白夜の森の中で影のように宙を舞った。
サスペンションが着地を吸収し、
その瞬間、澪の表情にわずかに笑みが浮かぶ。
「……悪くない。」
「でしょ? フィンランド、気に入った?」
「静かすぎるけどね。」
ふたりの会話は短い。
けれど、リズムは完璧だった。
⸻
同じ森を隔てて走る赤と黒。
デルタECVとトヨタ222D。
どちらも、“地上の速度”を超えようとしていた。
森を抜けた先、
ECVがわずかにテールを滑らせながらフィニッシュラインを通過する。
その直後、蓮子が息をついた。
「……飛んで、落ちて、走って。なんか人生まとめてやってる気分。」
「なら、まだ半分ね。」
「えっ、もう十分なんだけど!?」
「この国、1日に“1000回ジャンプ”するって言われてるらしいよ。」
「え、マジで? そのまま空まで行けるんじゃないの……」
「行けたら教授が怒るね。“空気密度が違う”って。」
笑い合うふたりの背後、
太陽はまだ沈まない。
ECVのエキゾーストが白夜の空にこだまし、
森の奥へと消えていった。
⸻
森の中を突き抜ける一本の白い道。
空気は乾き、地面は細かい砂利で覆われている。
北欧特有のグラベルは滑るようで、実際にはしっかりと噛みつく。
トヨタ・222Dのタイヤが、砂利を巻き上げながら唸った。
「Right 6 into crest、200! 次、Left 5 long!」
エレナの声がインカムを震わせる。
澪は短く「了解」とだけ答え、
すぐにステアを切り返した。
黒い222Dが、森の空気を切り裂く。
軽量なボディがバンプを弾み、サスペンションが限界まで沈む。
グラベルを蹴り上げるたび、車体がわずかに浮いた。
その挙動を澪はほとんど無意識に制御する。
だが――。
「……なあ、澪。」
「ん?」
「なんか右リア、音おかしくない?」
「……感じてた。」
右後方から、“トトトトッ”と異音。
リズムがズレている。
跳ねたたびに、振動が重くなっていた。
「……ピン、抜けたか?」
「違う。エア、抜けてる。」
その言葉の直後だった。
バンッ!!
「っ!? 来た!!」
「右リア、完全に抜けた!!」
車体が傾く。
トラクションが右に逃げる。
ハンドルが引っ張られ、澪の腕に重い力がかかる。
踏み込みを誤れば即スピン。
止まれば、タイムも、完走も消える。
「左重心で維持! まだ走れる!!」
「リムまでいってる! このままじゃ転ぶ!!」
澪の額に汗が滲む。
三輪での走行など、制御できる領域ではない。
それでもスロットルを抜けない。
“止まったら終わる”――その一点だけが、彼女の中で反響していた。
⸻
「トラクション、右に全部逃げてる!」
「止めたら終わり、行くしかない!」
エレナは一瞬目を閉じ、息を整えた。
そして、まるで閃光のように何かを閃いた。
「……OK、澪、私に任せて。」
「は? なに言って――」
カチャ。
シートベルトのロック音が外れた。
「エレナ!? 待て、何する気だ!!」
「バランス、取る!」
叫ぶなり、彼女はドアを押し開けた。
強烈な風が車内に吹き込み、髪を舞い上げる。
エレナは窓枠に膝を掛け、腕でルーフとウィンドウの縁を掴む。
体をねじり、64キロの体重すべてを外へ預けた。
「おい馬鹿!! 死ぬぞ!!」
「死なない!! バランスなら取れる!!」
車体が右に沈みかけた瞬間――
エレナの体が左へ強く引っ張る。
金属が軋み、マシンがわずかに持ち上がる。
「……傾き、戻った!?」
「そう! 64キロ分の“外重”で釣り合ってるの!!」
「そんな理屈あるか!!」
「あるのよ、物理は裏切らない!!」
三輪の222Dが再び走り出す。
タイヤの代わりに、地面を掴んでいたのは人間の重心だった。
⸻
風が顔を切る。
火花と白煙が背後に広がる。
エレナの腕が震える。
力を入れすぎて関節が悲鳴を上げるが、手は離さない。
「エレナ、風圧強すぎる! 無理だ!!」
「無理じゃない! この角度なら、荷重バランス50:50にできる!!」
「人間の身体で計算すんな!!」
「私の筋肉は、理論値超えてる!!」
澪は歯を食いしばり、
暴れるステアを必死に押さえる。
その横で、エレナが完全に外側へ体を預けていた。
まるで、黒いマシンの外に生えた“生身のスタビライザー”。
⸻
「あと1キロ!」
「このまま突っ込む!!」
澪が叫ぶ。
エレナはさらに体を外へ傾ける。
重力と風圧のせめぎ合いの中、彼女は笑っていた。
「澪!! もし次もこうなったら、もう少し増量しとく!!」
「今そんな話するな!!」
「大事よ!? あと3キロあればもっと安定する!!」
「筋トレの方向間違えてんだよ!!」
笑いと悲鳴が混ざる中、
三輪の222Dがフィニッシュラインを飛び込んだ。
火花が夜空に散り、白夜の光に溶ける。
「止まった……?」
「止まった!!」
エレナは腕の力を抜き、窓から中へ戻った。
頬は風で焼け、指先には金属の跡。
それでも、笑みは崩れない。
「……馬鹿だな、ほんとに。」
「でしょ。でも、止まった。」
澪はハンドルから手を離し、息を吐いた。
「次やったら殺す。」
「その前に筋肉痛で死ぬ。」
⸻
フィンランドの白夜は、まだ沈まない太陽を抱いていた。
日付が変わっても、空は薄い橙のまま。
サービスパークの照明と混じり合い、夜とも昼ともつかない光が漂っている。
整備ピットの片隅。
ランチア・デルタECVが冷却ファンの音を鳴らしながら、静かにその体を冷ましていた。
ボディは赤く輝き、細かいグラベルの傷跡が無数に刻まれている。
それでも、その姿はどこか誇らしげだった。
夢美は腕を組み、車体の前に立っていた。
その目は勝利でも敗北でもなく、ただ――“次”を見ている。
「……軽く、速く、正確に。
ここまでやっても、まだ“足りない”と思うのは……やっぱり、私が狂ってるんだろうな。」
ちゆりがタブレットを片手に、工具を拭きながら苦笑した。
「教授、十分速ぇって。
このデータ見てみなよ。ブーストも完璧、バランスも理想値。
もう文句なしの仕上がりだぜ。」
「完璧なんて、瞬間的な幻だよ。」
夢美は淡々と返す。
「気温、湿度、空気密度。
その全部が奇跡的に噛み合ったときにだけ存在する。
だが――それを再現できないと、設計者として意味がない。」
「また始まったな……完璧論。」
「“走る”ことと、“勝ち続ける”ことは違うんだよ。」
夢美の視線が、デルタECVのリアウィングへと向かう。
フィンランドの夜風が吹き抜け、赤い翼の端をかすかに揺らした。
「……トリフラックスの制御、まだ改良できる。
ブーストのつなぎがわずかに遅れてる。
もっとシームレスにできるはずだ。
電子制御の補正値を半分にして……吸気の反応を倍に。」
「おいおい……そんなことしたら、ドライバーがついていけねぇぞ。」
「それなら、“ついていける人間”を育てればいい。」
夢美は即答した。
ちゆりは呆れたように息を吐く。
「……教授、やっぱりあんた、怖ぇ人だぜ。」
「怖くなんかない。
まだ“限界”を見ていないだけだ。」
その声は、氷のように冷たく、しかし確かな熱を孕んでいた。
夢美の眼差しは、目の前のECVを越え、
さらにその先――“グループSの理想形”を見据えている。
「S4を越えたECV。
だが、ECVを越える“何か”が必要だ。
次は、空気の壁をもう一段崩す。」
「また軽くする気か?」
「重力を、味方にするだけだ。」
ちゆりが言葉を失う。
夢美は背を向け、夜明けに染まり始めた空を見上げた。
白夜の光が瞳に反射し、まるで彼女の瞳そのものが“炎”のように揺らめいた。
「――グループBの亡霊は、ここで終わりだ。
次は、“未来”を走らせる。」
静かにそう言って、夢美はデルタECVのボディを指先で叩いた。
乾いた金属音が、夜空へ吸い込まれていく。
「……準備を始めるぞ。」
「了解だぜ、教授。」
ふたりの影が照明の下で重なる。
その向こうで、赤いECVはなおも息づいていた。
まるで次の進化を待つかのように。
⸻
その夜、夢美のノートPCには、まだ誰にも見せていないファイルが開かれていた。
タイトルは、こう記されている。
Project: ECV-R/Next Concept – Draft_0.1
カーソルが瞬き、無音のラボに微かな電子音が響いた。
“限界”という言葉は、彼女の辞書にはなかった。