Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
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前回のあらすじ
ラリー講習初日、ダート走行の基礎を学んだメリーと蓮子。しかし、それだけで終わるはずもなかった。
次なる試練は、ペースノートの習得――。
WRCにおいて、ドライバーが頼るのは視界ではなく、コ・ドライバーの指示。
ペースノートとは、事前の試走(レッキ)でコースの情報を記録し、それをレース中にナビゲートするためのものだった。
「……え? これ、読むの?」
「当然だ。それができなきゃ話にならん」
初めてのペースノートに四苦八苦する蓮子。
走行しながらノートを読み上げる難しさ、適切なタイミングで情報を伝える重要性を痛感する。
『ナビは一瞬でもミスしたら終わりだ。次のカーブを見失うことは、クラッシュを意味すると思え』
教授の厳しい指導のもと、蓮子は必死にペースノートを読み上げる。
一方、メリーも指示に従いながら走行を続け、少しずつラリーの感覚を掴み始める。
さらに教授は、蓮子に1冊のノートを手渡した。
「これは、私の知り合いが書いたペースノートだ」
そこには、信じられないほど詳細な情報が書き込まれていた。
まるで、あらゆるカーブとコースの特徴を完璧に把握していたかのような記述――。
蓮子とメリーは、そのノートを書いた”コ・ドライバー”の存在に思いを馳せながら、自分たちでペースノートを作る試走へと挑むのだった。
「……もう腹をくくるしかないわね」
「そうね。でも、ちょっとだけ楽しくなってきたかも」
こうして、二人は自らのペースノートを作り始め、WRCへの一歩を踏み出した――。
静まり返った旧整備棟の会議室に、午後の斜陽が差し込んでいた。
ガラス越しの光がテーブルを照らし、そこに並ぶペースノートのプリントやスライド資料が褪せた色を浮かび上がらせる。
マエリベリー・ハーンは椅子の背もたれに深く身を預け、腕を組んでいた。
その目は真っ直ぐに岡崎夢美を捉えていた。
「教授、先日の話ですけど――なんで、私たちじゃなきゃダメだったんですか?」
声の調子は穏やかだったが、芯には確かな意志があった。
横に座る宇佐見蓮子も、うなずくように頷いた。
「教授が言う“この車を託す相手”って、誰でもよかったわけじゃないですよね。だったら、理由があるはずです」
夢美はしばらく無言だった。
両手をポケットに入れたまま、窓の外を眺めていたが、やがて静かに言った。
「理由があるとすれば――そうだな。“君たちにはやらせてみる価値がある”ってところだ」
「それだけですか?」
「それだけだ。ということにしておこう。質問終了」
「……教授、はぐらかしましたね、今」
「君の気のせいだ、宇佐見君」
メリーは軽くため息をついた。けれど、その表情には、どこかあきらめきれない色があった。
まだこの人は何かを隠している。けれどそれを暴こうとすれば、また一歩、引かれてしまう。
「だったら、聞き方を変えます。……私たちに、何を見てるんですか?」
夢美は、答えなかった。
ただそれだけで、この会話は終わった。
「よし。話は終わりだ。……ついてこい」
教授は踵を返し、資料室を後にした。メリーと蓮子は顔を見合わせ、慌ててその背を追う。
整備棟の地下へ続く通路は、かつての技術開発施設の名残をとどめていた。薄暗く、無骨な鉄骨とコンクリートの壁が続き、空気の匂いすらどこか古い油のようだ。
「……ここって、前に来た?」
「いや、私も初めて。なんか……秘密基地っぽいね」
階段を降りると、そこには一枚の大きなスライド式扉があった。教授がリモコンを操作すると、鈍いモーター音とともに、扉が横にスライドする。
現れたのは、薄暗いガレージ。その中央に――
「……あれが、私たちのマシン……?」
蛍光灯がゆっくりと灯り、姿を現したのは、白いボディにグレーのラッピングが施された、ランチア・デルタS4だった。
広がったブリスターフェンダー、ショートノーズと鋭いルーフライン。冷却のためのダクトが複雑に絡み、リアに鎮座するインタークーラーが圧倒的な存在感を放つ。
「グループBの怪物、ランチア・デルタS4。君たちの乗るマシンだ」
教授の言葉に、メリーは息を呑んだ。
これまで乗っていたアルピーヌとは、全てが違う。
音も、重さも、空気も――この車は、戦うために生まれてきた。
「……これ、本当に動くんですか?」
蓮子がぼそりと呟いた。整備されたはずのマシンであっても、数十年という時の重みは視覚だけでなく“空気”にも刻まれているようだった。
「動く。というより、動くように戻した。“完全に修復されたグループBマシン”というのは、世界でも希少だ」
教授が歩み寄り、フロントフードを軽くノックする。甲高い金属音が返った。
「これが当時、グループBの頂点に君臨していた――もっとも危険で、もっとも速い“モンスター”のひとつだ」
メリーが車体の横に立ち、視線をゆっくりとボディラインに這わせる。
目を引いたのは、キャビンとリアエンドのバランス。驚くほど短いホイールベース。ほとんどMRに近い感覚。
「この車、リアがすごく軽く見える……というか、前に全部が詰まってる」
「よく見てる。実際、重心はかなり後ろ寄りにある。それでいて四輪駆動。トラクションは強烈だが、扱いは難しい」
「へぇ……教授、結構詳しいんですね」
「研究対象だったからな。まあ、思い入れもあるが」
その言い回しに、メリーが一瞬だけ目を細めた。
“思い入れ”。その一言に、教授の過去がかすかににじむ。
だが今は問い詰めるべきときではないと、彼女はすぐに話題を戻す。
「これで……WRC-Hに出るんですね」
「そうだ。君たちは“ヒストリカルカテゴリ”――WRC-Hの第1期正規エントリーチームとして出場する」
「WRC……H?」
蓮子が首をかしげた。
「WRCは聞いたことあるけど、“H”って……」
「World Rally Championship - Historical。つまり、ヒストリカル車両限定のWRCだ」
教授はデルタS4のサイドパネルを軽く叩きながら言う。
「かつてのグループBやグループ4などの“歴史的マシン”を、現代の技術と規則の下で再現し、走らせる。そのために国際自動車連盟(FIA)が設立した、新しい舞台だ」
「でも、グループBって……禁止されたカテゴリーじゃ……?」
メリーの問いに、教授は少しだけ口元を緩めた。
「そう。だから“現代の安全基準に適合させた上で”許可された。
もちろん、オリジナルのままでは出られない。ロールケージや燃料系、消火装置、乗員保護構造は現代基準。
ただし、それ以外は可能な限り“当時の姿と性能”を再現する。君たちのデルタS4も、そういう仕様だ」
「なるほど……じゃあ、単なる懐古趣味のショーランじゃないってことですね」
「そうだ。WRC-Hは“本気”の競技だ。パワーステージ、スプリット計測、リエゾン含めて三日間で争われる。
このデルタも、そのために何年もかけて、文字通り一から起こした」
メリーは、再び車に向き直った。
ヘッドライトは深く奥まっていて、冷たい光を宿しているようだった。
これは……ただの“古い車”じゃない。
“戦うために蘇った獣”だ。
「これが……私たちのマシンか……」
メリーは運転席側のドアに手をかけた。
フロントにヒンジのない、軽量化されたドアが、乾いた音を立てて開く。
そこには、シンプルで無骨な内装が広がっていた。
「うわ……エアコンもナビもなーんにもない」
蓮子が覗き込みながら言った。シートはフルバケット。メーターはアナログとデジタルの中間で、パネルは簡素、だが目的のためだけに存在している。
「ラリーカーだからな。エアコンもカーナビも、余計な装備は全て排除されてる。代わりにあるのは、必要最小限の計器と、命を守るための構造だけだ」
助手席側にもロールバーが張り巡らされている。蓮子は思わず、肩をすくめた。
「……これ、ほんとに命預けるやつなんだね」
「まったくだよ。……でも、嫌いじゃない」
メリーがシートに腰を落とすと、体を包み込むような感触が全身に伝わってきた。
「……あ。これ……」
「どうした?」
「座っただけなのに、“走れ”って言われてる気がした」
蓮子が苦笑する。
「ちょっと何言ってるか分からないけど、そういうの嫌いじゃないよ、メリー」
ふたりは笑った。でも、その笑いには、ほんの少しだけ震えが混じっていた。
目の前のマシンは、それほどまでに“ただ事ではなかった”。
「走らせてみろ、ハーン君。……まずは慣熟だ」
教授の一言で、テストエリアのゲートが開かれる。
ガレージの奥から続く試験路は、旧舗装が残るターマック区間。小さな峠道を模したアップダウンとヘアピンが点在し、狭く荒れた路面が続いていた。
メリーはシートベルトを締め、エンジンをかける。
セルの音のあと、低く太い排気音が室内を満たす。
「……これ、すごい音。アルピーヌとは全然違う……」
「エンジンはツインチャージャー仕様の直列4気筒、排気量2053cc。
スーパーチャージャーとターボを併用して、実際には500馬力以上を発生している。
車重は1トンちょっと。四輪駆動でこの出力――踏み方を間違えれば一瞬でスピンだ」
「なるほど。じゃあ、間違えないように行ってきます」
メリーの返しに、蓮子が少しだけ目を細めた。
「気をつけて。初デートの相手は乱暴かもしれないよ」
「それ、車に言ってる?」
「もちろん。メリーに言っても聞かないでしょ」
蓮子が笑う中、ギアが入る。
低速ギア、わずかにクラッチを繋ぐと、車体が前に滑り出した。
ブレーキを踏まなければ暴れそうな感触が、足元から伝わってくる。
「……これが、ランチア・デルタS4」
メリーの声には、ほんの少しの恐怖と、明確な興奮があった。
車体が転がり出た瞬間、デルタS4は静かに牙を剥いた。
メリーはステアリングに集中しながら、路面の細かなバンプを拾い続ける。
アルピーヌとは違う。すべてが過敏で、すべてが重い。
「……ステアリング、こんなにクイックなの……?」
わずかな角度の入力で、ノーズが鋭く反応する。
アクセルを踏み込むと、ドンと背中を押すような加速が襲いかかってくる。
そのくせ、コーナーに入るとリアが浮くような挙動を見せる。
「こいつ……めちゃくちゃ跳ねる……!」
「メリー、無理しないで!」
蓮子の声が届くが、それどころではなかった。
デルタS4は、まだ“誰のものでもない”。
メリーのことなど知らないと言わんばかりに、バンプのたびに跳ね、スロットルに過剰反応する。
「ラインを……外すな、抑えて……っ!」
クレストで浮き、着地と同時にタックイン気味にケツを振る。
“抑え込めない”。
その感覚が、メリーの背筋を冷やした。
⸻
サービスロードの端で教授がモニターを睨みながら呟いた。
「……今のままじゃ、車に乗せられてるだけだ」
蓮子が無線で呼びかける。
「メリー、ペース落として。ブレーキが早すぎる、車体が……!」
「わかってる……でも、この車……!」
叫びにも似た声が、マイク越しに届く。
「生きてるみたいなんだよ!」
蓮子は、助手席でノートを握ったまま凍りついていた。
声を出すべきか、黙るべきか――その判断が一瞬遅れただけで、車体の挙動はまるで変わってしまう。
かろうじて読んだひとつの指示が、次の瞬間には“足手まとい”になる。
「Right 4……いや、違う、もっとタイトに……!」
デルタのステアリングがノーズから滑り込むように右へ切れた。
だが次の瞬間、着地のズレで左後輪がギャップに取られる。車体が外に膨らんだ。
「危ないっ!」
蓮子の叫びに、メリーが咄嗟にカウンターを当てて持ち直す。
「……ごめん、蓮子!」
「私の読みが遅かった!」
ふたりの声が重なる。けれど、もうどちらが悪いかなんて問題ではなかった。
「……ねえ、教授……この車、たぶん、私たちの言葉を理解してない」
ピットの奥で、無線を受けた岡崎夢美が目を閉じた。
「理解していないのは、君たちのほうだよ」
呟きながら、教授はゆっくりとデータパッドを閉じる。
⸻
蓮子は、口元を引き結び、ノートを睨みつけるように見つめていた。
“読み上げる”だけでは、届かない。
“指示を与える”だけでも、意味がない。
彼女のノートの“言葉”は、デルタS4には通じていなかった。
走行を終えてピットに戻ってきたデルタS4は、まるで“何かを吐き出した”かのような息遣いでアイドリングを刻んでいた。
エンジンを切った直後、車内には、静寂が満ちた。
「……降りるね」
「うん」
メリーが先にドアを開ける。金属が熱を持った音がカコンと鳴った。
蓮子も続くが、足元に置かれたペースノートを手に取る手が、ほんの一瞬だけ止まる。
それは、“敗北”と紙一重の感覚だった。
整備棟の床に響くふたりの足音が、やけに重たく感じられる。
「お前たちが相手にしているのは“理屈”で動く車じゃない。
マニュアルをなぞったところで、こいつは振り向きもしない」
教授は目の前に立ち、ふたりを見下ろすように言った。
「君たちは、まだこの車と“話していない”」
「話すって……どうやって……」
蓮子の声は掠れていた。
「“感じろ”とか、そういう根性論は期待してませんからね、教授」
「違う。これは“言語の問題”だ。お前たちの言葉が、まだ“この車にとっての言葉”になっていない。
翻訳が必要なんだよ、宇佐見君」
教授の視線が、まっすぐに蓮子を貫いた。
「……ペースノートをもう一度作り直せ。菫子の模写ではなく、自分の言葉で。
この車が“聞こうとする言葉”を、探せ」
その夜、整備棟の片隅にある休憩用のベンチで、蓮子は一人ノートに向かっていた。
照明は暗く、周囲に人影はない。
メリーはシャワーを浴びに行き、教授は奥の研究室に引っ込んだままだ。
蛍光ペンのインクが紙を滑る音だけが、部屋に満ちていた。
「……“通じる言葉”って、なんなんだろうね……」
呟くように独り言をこぼす。
菫子のノートをなぞったところで、メリーの運転にフィットしなかった。
記号も数値も、滑らかなラインを生まなかった。
「言葉が先じゃない。“走り”が先なんだ……」
そう気づいた瞬間、蓮子の中で何かがつながった気がした。
——私は、“メリーの走り”を知らない。
助手席に座っていたはずなのに、私は彼女の走りを“自分の目”で見ていなかった。
「……うん、じゃあ……」
ペンを握り直し、新しいページに向かう。
そこには、もうRとかLとか、数字の羅列は並ばなかった。
代わりに、“どう走っていたか”“どこで何をしていたか”――記憶に残る断片を、言葉にして並べていく。
“言葉を教える”のではない。
“相手の言葉に近づく”ための作業。
それが、ペースノートの本質だと、ようやく気づき始めていた。
「……ずいぶんと集中してるじゃないか、宇佐見君」
蓮子の背後から、低い声がかけられた。振り返ると、岡崎夢美が紙コップを手に立っていた。湯気の立つコーヒーの香りが漂う。
「……教授こそ、まだ寝てなかったんですね」
「寝るわけないだろ。面白いものを見ているときはな」
夢美は蓮子の膝に広げられたノートに視線を落とした。
そこには、従来のペースノートとは違う、走りの“印象”が綴られていた。
「いい目をしてるな、宇佐見君。そのノート、おそらく菫子の初期のものに似てる」
「……さっきからその人の名前、ちらちら出てきますけど……そんなにすごかったんですか?」
「すごかったさ。“走りを翻訳する”ということを、本能的にやってのけるコ・ドライバーだった」
夢美はコーヒーを啜り、言葉を選ぶように一拍置いた。
「でも、それだけじゃなかった。彼女は“あるドライバー”と組んで初めて、本当の速さを手に入れた」
「教授と、ですか?」
夢美は黙ったまま、カップの中身を見つめていた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「なるほど……言葉にはしないんですね」
「言葉にならないことも、ある」
短く返すと、教授は背を向けた。
⸻
蓮子はノートを見つめながら、ひとつ深呼吸をした。
(今の私とメリーも、そうなれるのかな)
そう思えたこと自体が、進歩だった。
翌朝。
整備棟の天井に吊るされた古い蛍光灯が、徐々に光を取り戻していた。
メリーは早くに目を覚まし、デルタS4の横に立っていた。
まだ誰もいないガレージ。澄んだ空気の中で、ひとり、そのマシンのボンネットに手を当てていた。
「……昨日は、ごめん。言うこと聞いてくれないって、勝手に思った」
手のひらから伝わるのは、ただの冷たい金属。
でも彼女は、あの走行の中で確かに“意思”を感じた。
「きっと、私のほうが――話そうとしてなかったんだね」
デルタS4は何も答えない。ただ、そこに静かに“いる”だけだった。
「メリー、おはよ。早いね」
蓮子が手を振りながらやってくる。昨日の疲れはまだ顔に残っているが、どこか晴れやかだった。
「……なんか、話したくなっちゃって。こいつとさ」
「言葉、通じた?」
「まだ。でも、少し近づけたかも」
ふたりの間に、昨日まではなかった一体感が生まれていた。
「ノート、ちょっと書き直してみたんだ」
蓮子が手にしたノートを広げる。そこには数字と記号に混じって、彼女なりの“感覚”が記されていた。
「私ね、メリーの走りを“見る”んじゃなくて、“聞く”ようにしてみたの。
そしたら、少しだけど……言葉になった気がした」
メリーはそれを黙って見つめたあと、微笑んだ。
「ありがとう。……すごく、嬉しい」
その日の午前。再テスト走行が始まった。
前日とは打って変わって、メリーの走りには“探るような慎重さ”があった。
デルタS4がどう反応するのか、どうラインを望むのか。彼女はハンドルを握りながら、対話するように走っていた。
「Left 4、進入は奥まで我慢して……今っ!」
蓮子の読み上げる声が、まるで楽器のように走りのテンポに乗る。
「浮くよ、次、右3……トラクション待ってから!」
「わかってる……!」
車体が浮き、着地でリアが軽く滑る――だが今度は慌てない。
メリーは一瞬の荷重移動でそれを殺し、アクセルを戻す。
「……っしゃ、いい子!」
「誰に言ってるのそれ!」
「もちろん、こいつに決まってるでしょ!」
笑いながら、メリーは次のコーナーに滑り込む。
助手席で蓮子は、その感触を“確かめるように”言葉を添える。
「次、Left 5……後半、絞る。クリップで耐えてから解放して!」
「りょーかい!」
声が重なり、車が応える。
それは、はじめてデルタS4が“応じた”瞬間だった。
⸻
整備棟の監視モニター前で、岡崎夢美が映像を食い入るように見つめていた。
「……ようやく、言葉が通じはじめたな」
その声は、わずかに――ほんのわずかに、安堵を含んでいた。
テスト走行を終えたデルタS4が、ガレージへ戻ってくる。
排気音がゆっくりと静まり、冷却ファンの音だけが空間に残された。
「……すごい、今日は全然違ったよ」
「蓮子の読み方が、ぴったりだったからだよ」
ドアを開けて降りたメリーが、汗を拭いながら言った。
蓮子も助手席から身を起こし、ノートを大切に抱えている。
「デルタも……あんなに大人しかったの初めて」
「いや、たぶん、“大人しくなった”んじゃなくて――“こっちに歩み寄ってきた”んだと思う」
ふたりが談笑していると、そこにガレージの奥から足音が響いた。
「よくやったな、ハーン君。宇佐見君も」
夢美がいつもの調子で、淡々と近づいてくる。
「今の走行データ、ピークトルクの入力タイミングと回転差が理想的だ。
パーシャル域でのトラクション操作、ドンピシャだな」
「いや、私はただ……」
「言い訳は聞いていない。結果が出た。それで十分だ」
教授はそこで一旦立ち止まり、ふたりの顔をじっと見た。
「このマシンはな、元々“乗りこなす”ものじゃない。“合わせにいく”ものだ。
その癖を理解できたなら、これから戦える」
メリーが、微かに笑う。
「教授、やっぱり思い入れあるんですね、この車に」
夢美は少しだけ目を細めた。
「……お前たちが乗らなきゃ、私がもう一度走ってたかもしれないからな」
ガレージの片隅に設けられた整備スペースでは、北白河ちゆりがひとりで作業に追われていた。
「……ったく、どうして私がこんなブラックな現場で働いてるんだか……」
文句をぶつぶつ言いながらも、その手元は迷いなく動いていた。
デルタS4のブレーキキャリパーを分解し、摩耗をチェック。異常なし。
続いて油圧ライン、ダンパー、バンプストッパーの締結まで一気に確認する。
「ふぅ……S4ってのは、ほんと気難しいぜ……」
顔に汗を滲ませたまま、レンチを置いたところへ、蓮子がふらりと現れる。
「ちゆりさん、大丈夫? ずっと一人で整備してて……」
「大丈夫なわけないだろ? 人手はねぇし、パーツは年代物だし、ブラックなんてもんじゃねぇぜ」
「えっ、私、文系なんですけど……」
「関係ないぜ! ラリーは壊す前提で走るもんだ。壊したら直す、直すのは誰だ? 私だぜ!」
「……あー、ごめんなさい……」
ちゆりは工具を蓮子に押し付けるように渡しながら、真剣な目つきで続けた。
「でもな、今日のデルタは違ったぜ。ちゃんと“声”を聞いてた。
お前らにしか聞かせねぇ声を、少しだけ出してくれてた気がしたんだ」
「……ちゆりさんも、そう思う?」
「思うに決まってるだろ。マシンってのはな、人間と一緒だ。信用できねぇ奴には、絶対に力を貸さねぇぜ。
でもあの子は、お前らにならって、……ちょっとだけ、心を開いた気がしたんだ」
その一言に、蓮子はそっと頷いた。
その夜、整備棟の照明はまだ点いていた。
再調整を終えたデルタS4は、もう一度だけショートコースでの深夜テストに臨んでいた。
気温が落ち、アスファルトの表面には薄く湿気が滲む。
「最終チェックだ。走りきれ。……無理はするな」
夢美の声が無線から届く。
ヘッドセットを装着したまま、メリーは軽く目を閉じた。
「蓮子、今日が“はじめて”だよ。……この車と一緒に走れるって思えたの」
「うん。……でも、今日は“ふたり”じゃない。“三人”だよ」
蓮子はノートをそっと胸に当て、静かに頷いた。
走行が開始された。
先ほどまでの荒々しさは、もはやない。
アクセルの入力に、車体が素直に応える。
ブレーキングでの沈み込みは、予測通り。
滑りそうなラインも、事前に蓮子が伝え、メリーが備える。
「次、Right 5 minus、先に小さな膨らみ、浮くよ」
「わかってる、ライン残して……!」
一瞬だけ車体が浮き、着地と同時にスロットルを戻す。
収束。トラクション。カウンターなしで旋回を保ち――抜ける。
完璧だった。
⸻
ピットに戻ってきた車体を降りたふたりに、教授が言った。
「ようやく、君たちはこの車と“会話ができる”ようになった」
メリーも、蓮子も、黙って頷いた。
その目はすでに、“次の戦い”を見据えていた。
その夜、再び走ることになった。
教授の指示で、短縮されたターマック区間を利用して、深夜の“静かな試走”が行われる。
「今度は無線もシャットする。音と感覚だけで走ってみろ。必要なら私が後ろで見ている」
スタート地点に静かに並ぶデルタS4。
シートベルトを締めたメリーの瞳には、午前中よりも明らかな“静けさ”があった。
闘志ではなく、集中。言葉ではない、対話の気配。
「蓮子、今日は……なんか、いけそうな気がする」
「うん。私も。読めるっていうか、“感じる”って言ったほうが近いかも」
ヘッドライトが闇を裂き、走り出す。
――無線もない。
――教授の声もない。
“ふたりだけ”の世界。
蓮子はノートを開かない。代わりに、目を閉じたまま呼吸を合わせる。
「……この次、少し詰まる。ライン残して……うん、今!」
「受け取った!」
デルタS4が滑り込むようにコーナーを抜ける。
連続する右左の切り返しが、まるで一枚の布のように滑らかに連なっていく。
「次のバンプ、逃がして。膨らまないように、抑えて」
「了解、クラッチ少し抜く……!」
操作と言葉が、もはや同時に存在している。
ふたりは――確かに今、同じ車に乗っていた。
明け方の整備棟には、夜の冷気がまだ残っていた。
窓の外では港町モンテカルロが静かに目を覚まし始めている。ピット奥の試走ログ再生モニターだけが、青白く部屋を照らしていた。
「アクセル入力、平均値105%。……でも滑り出しなし。リフト時の応答も素直になってる」
メリーがデータに目を走らせながら言った。
隣では蓮子が、紙のノートを閉じる。
「こっちのログも、前半のバンプ直後まではほぼ完璧。昨日までは絶対暴れてたラインが……今回は抑えられてた」
「たぶん、こっちの“声”が少し通じたんだと思う。昨日の夜、やっと三人でやれるようになった」
メリーが言うと、蓮子は少し笑って――ふと、首をかしげた。
「……三人で?」
「うん。私と、蓮子と……この子」
メリーは、ガレージ奥で眠るように静かなデルタS4に視線を送る。
けれど蓮子は、ゆっくりと首を横に振った。
「ちがうよ。……五人、だよ」
メリーが驚いたように振り返る。
「教授とちゆりさん。……私たちの知らないところで、この車をずっと“守ってた”人たち」
「……そうか。そうだね」
静かに頷いたメリーの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
ようやく、チームとしての“出発点”に立てた。そう思えた。
その瞬間――整備ピットのシャッターが唐突に開いた。
「メリー、蓮子! ちょっと来い!」
怒鳴り声にも似たその声の主は、北白河ちゆりだった。工具を片手にオイルまみれの指先で整備記録を突きつけながら、鬼の形相で立っている。
「……な、何? 今の時間、ちょっとだけゆっくりしようとしてたんだけど……」
「甘いぜ、状況的に」
ちゆりはそのままふたりを車体のフロントサス側へ引っ張る。そこにはばらされたダンパーが無造作に置かれ、その内部パーツには微かな摩耗の痕が見えていた。
「これ、リバウンドストロークの戻りが明らかに遅い。調整ミスかと思ったが、内部のバルブプレートが偏摩耗してる。しかも走行前には問題なかった」
「……走行中に変化したってこと?」
「もしくは、走行“直前”に誰かが手を加えたか、だ」
ちゆりの口調が重たくなる。
ピロボールやナックルには異常がない。つまりこれは、**“目立たないようにダメージを植えつける手口”**だった。
「たぶん、今のうちに気付かなきゃ、次の走行でサスが死ぬ。ステア入れてるときに、急に片側だけ沈んだりな」
「……教授に連絡しなきゃ」
「その必要はない」
背後から静かな声が届く。
整備棟の奥から現れた岡崎夢美が、片手に白い封筒を持っていた。いつもと変わらぬ無表情――だが、その瞳の奥には、わずかな怒気がにじんでいる。
「予想はしていた。だから監視ログは保存してある。犯人探しは私のほうでやる」
「まさか内部の人間が……?」
蓮子がそう言いかけたが、夢美は手でそれを制した。
「まだ断定するには早い。今はそれよりも――」
封筒を差し出す。
「……これを渡しておく。“FIA WRC-H登録正式承認通知”。お前たちのチーム名も、ナンバーも、すべて正式登録された」
ふたりの手の中に、世界最大のモータースポーツ統括機関からの書類が収まる。
「Monte Carlo Mallyでの試走記録と、デルタS4の復元評価が基準を上回った。出場資格は、これで揃った」
メリーと蓮子は、一瞬だけ目を見合わせる。
試走でようやく“チームの一員になれた”という感覚。それが、現実の“本戦”へと繋がった。だがその道は、すでに誰かの妨害で“始まって”いた。
夢美はふたりの視線をじっと見据え、短く言い放つ。
「迎え撃つ覚悟があるなら――いくらでも仕掛けてこい。だがこっちは、そのたびに速くなる」
それは、教授ではなく、“かつてのドライバー”の声だった。
金属の摩擦音が、整備棟の一角に響いていた。
ちゆりの手元でダンパーのピストンが分解され、慎重に取り外されたオイルバルブが、スチールトレイの上で冷たい音を立てた。
「やっぱりだ。ここのシムプレート……誰かが削ってる。極薄のバリが残ってるから、恐らく手作業。しかも、これ専用の治具使ってる」
ちゆりは低く唸るように言った。
「オイル流量がわずかに偏るように調整されてた。走り出してしばらくは気づかないが、全開走行で負荷がかかると、“片側だけ”減衰がズレて挙動が乱れる。……完全に“潰し”に来てたな」
「証拠としてはどう?」
夢美が静かに問いかける。
ちゆりは手袋を外し、指先の感触でプレートの縁をなぞる。
「充分過ぎる。これが“意図的”じゃないなら、天災ってレベルだぜ」
「いい。ログは保存済み。セキュリティの再確認も私がやる。……君は休め、ちゆり」
「いや、休めないぜ。あたしがいないと、こいつら誰も締めトルクの感覚も信用できない」
「信頼されているな」
「人手が足りないだけだぜ」
ちゆりはそう言いながら、微かに笑った。
—
同じ頃、奥の休憩区画でメリーと蓮子は小さなテーブルを挟んでいた。
手元には、昨日教授から受け取った“エントリー通知書”が置かれている。
「これ、本当に通ったんだね……」
「夢美さん、あんな顔してるけど、ちゃんと全部やってくれてたんだね」
「……いや、“ちゃんと”なんて言葉じゃ足りないかも」
メリーがそう言いながら、デルタS4のほうに視線を送る。
「この車も、私たちも、夢美さんとちゆりさんがいたからここまで来れた」
「うん。昨日、“五人で”って言ったけど……それでも、まだ言い足りない感じがするんだ」
「言葉って難しいよね。多分、デルタと話すのと同じくらい」
二人が小さく笑い合った、そのとき。
夢美が静かに現れ、テーブルの端に腰を下ろした。手には湯気を立てる金属製のカップ。
「……“走らせる価値がある”って、前に言っただろ」
「……はい」
「でも、あれは半分は方便だった。正確に言うなら、あの車には“もう一度走らせてやらなきゃならない理由”があったんだ」
メリーと蓮子が、言葉を飲む。
「かつて……あれを走らせていたのは、私と、もう一人の女だった」
夢美の言葉に、メリーの指がピクリと動いた。
「その人が……宇佐見菫子さん、ですか?」
夢美は答えなかった。
けれど、その沈黙が、何よりもはっきりと“肯定”を意味していた。
「……だったら、私たちが背負うものって、思ってたよりずっと重いんですね」
「そうかもしれん。だが重さを知るからこそ、“速さ”は意味を持つ」
その言葉は、まるで“走り”そのもののように、重く、そして鋭かった。
—
そしてその日。
ちゆりの手で完全に補修されたサスペンションが、再びデルタS4に組み込まれた。
そして、夜が明ける。
朝の光が整備棟の天井を静かに照らし出し、空気が少しずつ暖まっていく……はずだった。
「……え?」
ガレージのシャッターが開いた瞬間、メリーと蓮子は絶句した。
そこには、確かに見覚えのあるテストコースが広がっている――しかし、様子が異常だった。
白い。
空気は冷たく、舗装路の至るところに雪がパッチ状に積もっていた。
「……ねえ、これって……」
「雪だよ。どう見ても」
「ちょっと待って、昨日まで真夏だったわよね!? なんで――」
「まさか……」
背後で気配がして、振り返ると、教授がいつも通りの表情で腕を組んでいた。
「お前たちの初戦は“モンテカルロ”だ。ならば、それと同じ環境で走るべきだろう?」
蓮子の額に青筋が浮かぶ。
「いやいやいや、そういう問題じゃないでしょ!? ここ、夏の日本ですよね!? なんで雪が降ってるのよ!」
「降ってはいない。敷いたんだ」
「敷いた!?」
「特殊なシミュレーションエリアを使った。ここでは気温も湿度も降雪量も自在に再現できる。本来は大手メーカーの極限テスト用だった施設だが……今は、私が借りている」
メリーはうめくように額を押さえた。
「……つまり、今日はこの凍ったターマックでデルタS4を走らせるってことですか?」
「そういうことだ」
教授は静かに、満足げに頷く。
夜が明け、静寂を破るエンジンの鼓動。
舞台は突如として冬へと変貌した――真夏の日本に現れた、モンテカルロの幻影。
凍てつくターマック。予測不能なパッチスノー。
そして、その先に待つのは、制御不能の白い獣。
「ちょっと!? いきなりスピンしてるんだけど!?」
「ブレーキ踏んだだけなのに!!」
「……だから私は言ったのに。デルタS4は、“乗せてもらえる車”じゃないってな」
かつてグループBに君臨したモンスターは、牙を剥く。
ABSもTCSも切り落とされたその車は、ドライバーに一切の妥協を許さない。
繊細な操作、絶妙な荷重移動、容赦ないカウンターステア。
“感覚”がなければ、生き残れない。
そして、その獣と向き合う中で、彼女たちは“何か”を掴み始める。
恐怖と憧れの先にあるのは――
「……この車、本当に乗りこなせるの?」
「わからない。でも、話しかけるしかないよ。この子が、耳を傾けてくれるまで」
次回――
Monte Carlo Mally LEG4
『雪を纏った獣』
走れ。声が届く、そのときまで。