Monte Carlo Mally   作:Yaris Margatroid

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前回のあらすじ

 ラリー講習初日、ダート走行の基礎を学んだメリーと蓮子。しかし、それだけで終わるはずもなかった。

 次なる試練は、ペースノートの習得――。
 WRCにおいて、ドライバーが頼るのは視界ではなく、コ・ドライバーの指示。
 ペースノートとは、事前の試走(レッキ)でコースの情報を記録し、それをレース中にナビゲートするためのものだった。

 「……え? これ、読むの?」
 「当然だ。それができなきゃ話にならん」

 初めてのペースノートに四苦八苦する蓮子。
 走行しながらノートを読み上げる難しさ、適切なタイミングで情報を伝える重要性を痛感する。

 『ナビは一瞬でもミスしたら終わりだ。次のカーブを見失うことは、クラッシュを意味すると思え』

 教授の厳しい指導のもと、蓮子は必死にペースノートを読み上げる。
 一方、メリーも指示に従いながら走行を続け、少しずつラリーの感覚を掴み始める。

 さらに教授は、蓮子に1冊のノートを手渡した。

 「これは、私の知り合いが書いたペースノートだ」

 そこには、信じられないほど詳細な情報が書き込まれていた。
 まるで、あらゆるカーブとコースの特徴を完璧に把握していたかのような記述――。
 蓮子とメリーは、そのノートを書いた”コ・ドライバー”の存在に思いを馳せながら、自分たちでペースノートを作る試走へと挑むのだった。

 「……もう腹をくくるしかないわね」
 「そうね。でも、ちょっとだけ楽しくなってきたかも」

 こうして、二人は自らのペースノートを作り始め、WRCへの一歩を踏み出した――。


LEG3「マシンとの対話」

静まり返った旧整備棟の会議室に、午後の斜陽が差し込んでいた。

ガラス越しの光がテーブルを照らし、そこに並ぶペースノートのプリントやスライド資料が褪せた色を浮かび上がらせる。

 

マエリベリー・ハーンは椅子の背もたれに深く身を預け、腕を組んでいた。

その目は真っ直ぐに岡崎夢美を捉えていた。

 

「教授、先日の話ですけど――なんで、私たちじゃなきゃダメだったんですか?」

 

声の調子は穏やかだったが、芯には確かな意志があった。

横に座る宇佐見蓮子も、うなずくように頷いた。

 

「教授が言う“この車を託す相手”って、誰でもよかったわけじゃないですよね。だったら、理由があるはずです」

 

夢美はしばらく無言だった。

両手をポケットに入れたまま、窓の外を眺めていたが、やがて静かに言った。

 

「理由があるとすれば――そうだな。“君たちにはやらせてみる価値がある”ってところだ」

 

「それだけですか?」

 

「それだけだ。ということにしておこう。質問終了」

 

「……教授、はぐらかしましたね、今」

 

「君の気のせいだ、宇佐見君」

 

メリーは軽くため息をついた。けれど、その表情には、どこかあきらめきれない色があった。

まだこの人は何かを隠している。けれどそれを暴こうとすれば、また一歩、引かれてしまう。

 

「だったら、聞き方を変えます。……私たちに、何を見てるんですか?」

 

夢美は、答えなかった。

 

ただそれだけで、この会話は終わった。

 

「よし。話は終わりだ。……ついてこい」

 

教授は踵を返し、資料室を後にした。メリーと蓮子は顔を見合わせ、慌ててその背を追う。

 

整備棟の地下へ続く通路は、かつての技術開発施設の名残をとどめていた。薄暗く、無骨な鉄骨とコンクリートの壁が続き、空気の匂いすらどこか古い油のようだ。

 

「……ここって、前に来た?」

 

「いや、私も初めて。なんか……秘密基地っぽいね」

 

階段を降りると、そこには一枚の大きなスライド式扉があった。教授がリモコンを操作すると、鈍いモーター音とともに、扉が横にスライドする。

 

現れたのは、薄暗いガレージ。その中央に――

 

「……あれが、私たちのマシン……?」

 

蛍光灯がゆっくりと灯り、姿を現したのは、白いボディにグレーのラッピングが施された、ランチア・デルタS4だった。

 

広がったブリスターフェンダー、ショートノーズと鋭いルーフライン。冷却のためのダクトが複雑に絡み、リアに鎮座するインタークーラーが圧倒的な存在感を放つ。

 

「グループBの怪物、ランチア・デルタS4。君たちの乗るマシンだ」

 

教授の言葉に、メリーは息を呑んだ。

 

これまで乗っていたアルピーヌとは、全てが違う。

音も、重さも、空気も――この車は、戦うために生まれてきた。

 

「……これ、本当に動くんですか?」

 

蓮子がぼそりと呟いた。整備されたはずのマシンであっても、数十年という時の重みは視覚だけでなく“空気”にも刻まれているようだった。

 

「動く。というより、動くように戻した。“完全に修復されたグループBマシン”というのは、世界でも希少だ」

 

教授が歩み寄り、フロントフードを軽くノックする。甲高い金属音が返った。

 

「これが当時、グループBの頂点に君臨していた――もっとも危険で、もっとも速い“モンスター”のひとつだ」

 

メリーが車体の横に立ち、視線をゆっくりとボディラインに這わせる。

目を引いたのは、キャビンとリアエンドのバランス。驚くほど短いホイールベース。ほとんどMRに近い感覚。

 

「この車、リアがすごく軽く見える……というか、前に全部が詰まってる」

 

「よく見てる。実際、重心はかなり後ろ寄りにある。それでいて四輪駆動。トラクションは強烈だが、扱いは難しい」

 

「へぇ……教授、結構詳しいんですね」

 

「研究対象だったからな。まあ、思い入れもあるが」

 

その言い回しに、メリーが一瞬だけ目を細めた。

 

“思い入れ”。その一言に、教授の過去がかすかににじむ。

だが今は問い詰めるべきときではないと、彼女はすぐに話題を戻す。

 

「これで……WRC-Hに出るんですね」

 

「そうだ。君たちは“ヒストリカルカテゴリ”――WRC-Hの第1期正規エントリーチームとして出場する」

 

「WRC……H?」

 

蓮子が首をかしげた。

 

「WRCは聞いたことあるけど、“H”って……」

 

「World Rally Championship - Historical。つまり、ヒストリカル車両限定のWRCだ」

 

教授はデルタS4のサイドパネルを軽く叩きながら言う。

 

「かつてのグループBやグループ4などの“歴史的マシン”を、現代の技術と規則の下で再現し、走らせる。そのために国際自動車連盟(FIA)が設立した、新しい舞台だ」

 

「でも、グループBって……禁止されたカテゴリーじゃ……?」

 

メリーの問いに、教授は少しだけ口元を緩めた。

 

「そう。だから“現代の安全基準に適合させた上で”許可された。

もちろん、オリジナルのままでは出られない。ロールケージや燃料系、消火装置、乗員保護構造は現代基準。

ただし、それ以外は可能な限り“当時の姿と性能”を再現する。君たちのデルタS4も、そういう仕様だ」

 

「なるほど……じゃあ、単なる懐古趣味のショーランじゃないってことですね」

 

「そうだ。WRC-Hは“本気”の競技だ。パワーステージ、スプリット計測、リエゾン含めて三日間で争われる。

このデルタも、そのために何年もかけて、文字通り一から起こした」

 

メリーは、再び車に向き直った。

 

ヘッドライトは深く奥まっていて、冷たい光を宿しているようだった。

これは……ただの“古い車”じゃない。

 

“戦うために蘇った獣”だ。

 

「これが……私たちのマシンか……」

 

メリーは運転席側のドアに手をかけた。

フロントにヒンジのない、軽量化されたドアが、乾いた音を立てて開く。

 

そこには、シンプルで無骨な内装が広がっていた。

 

「うわ……エアコンもナビもなーんにもない」

 

蓮子が覗き込みながら言った。シートはフルバケット。メーターはアナログとデジタルの中間で、パネルは簡素、だが目的のためだけに存在している。

 

「ラリーカーだからな。エアコンもカーナビも、余計な装備は全て排除されてる。代わりにあるのは、必要最小限の計器と、命を守るための構造だけだ」

 

助手席側にもロールバーが張り巡らされている。蓮子は思わず、肩をすくめた。

 

「……これ、ほんとに命預けるやつなんだね」

 

「まったくだよ。……でも、嫌いじゃない」

 

メリーがシートに腰を落とすと、体を包み込むような感触が全身に伝わってきた。

 

「……あ。これ……」

 

「どうした?」

 

「座っただけなのに、“走れ”って言われてる気がした」

 

蓮子が苦笑する。

 

「ちょっと何言ってるか分からないけど、そういうの嫌いじゃないよ、メリー」

 

ふたりは笑った。でも、その笑いには、ほんの少しだけ震えが混じっていた。

 

目の前のマシンは、それほどまでに“ただ事ではなかった”。

 

「走らせてみろ、ハーン君。……まずは慣熟だ」

 

教授の一言で、テストエリアのゲートが開かれる。

ガレージの奥から続く試験路は、旧舗装が残るターマック区間。小さな峠道を模したアップダウンとヘアピンが点在し、狭く荒れた路面が続いていた。

 

メリーはシートベルトを締め、エンジンをかける。

セルの音のあと、低く太い排気音が室内を満たす。

 

「……これ、すごい音。アルピーヌとは全然違う……」

 

「エンジンはツインチャージャー仕様の直列4気筒、排気量2053cc。

スーパーチャージャーとターボを併用して、実際には500馬力以上を発生している。

車重は1トンちょっと。四輪駆動でこの出力――踏み方を間違えれば一瞬でスピンだ」

 

「なるほど。じゃあ、間違えないように行ってきます」

 

メリーの返しに、蓮子が少しだけ目を細めた。

 

「気をつけて。初デートの相手は乱暴かもしれないよ」

 

「それ、車に言ってる?」

 

「もちろん。メリーに言っても聞かないでしょ」

 

蓮子が笑う中、ギアが入る。

 

低速ギア、わずかにクラッチを繋ぐと、車体が前に滑り出した。

ブレーキを踏まなければ暴れそうな感触が、足元から伝わってくる。

 

「……これが、ランチア・デルタS4」

 

メリーの声には、ほんの少しの恐怖と、明確な興奮があった。

 

車体が転がり出た瞬間、デルタS4は静かに牙を剥いた。

メリーはステアリングに集中しながら、路面の細かなバンプを拾い続ける。

アルピーヌとは違う。すべてが過敏で、すべてが重い。

 

「……ステアリング、こんなにクイックなの……?」

 

わずかな角度の入力で、ノーズが鋭く反応する。

アクセルを踏み込むと、ドンと背中を押すような加速が襲いかかってくる。

そのくせ、コーナーに入るとリアが浮くような挙動を見せる。

 

「こいつ……めちゃくちゃ跳ねる……!」

 

「メリー、無理しないで!」

 

蓮子の声が届くが、それどころではなかった。

 

デルタS4は、まだ“誰のものでもない”。

メリーのことなど知らないと言わんばかりに、バンプのたびに跳ね、スロットルに過剰反応する。

 

「ラインを……外すな、抑えて……っ!」

 

クレストで浮き、着地と同時にタックイン気味にケツを振る。

 

“抑え込めない”。

 

その感覚が、メリーの背筋を冷やした。

 

⸻

 

サービスロードの端で教授がモニターを睨みながら呟いた。

 

「……今のままじゃ、車に乗せられてるだけだ」

 

蓮子が無線で呼びかける。

 

「メリー、ペース落として。ブレーキが早すぎる、車体が……!」

 

「わかってる……でも、この車……!」

 

叫びにも似た声が、マイク越しに届く。

 

「生きてるみたいなんだよ!」

 

蓮子は、助手席でノートを握ったまま凍りついていた。

 

声を出すべきか、黙るべきか――その判断が一瞬遅れただけで、車体の挙動はまるで変わってしまう。

かろうじて読んだひとつの指示が、次の瞬間には“足手まとい”になる。

 

「Right 4……いや、違う、もっとタイトに……!」

 

デルタのステアリングがノーズから滑り込むように右へ切れた。

だが次の瞬間、着地のズレで左後輪がギャップに取られる。車体が外に膨らんだ。

 

「危ないっ!」

 

蓮子の叫びに、メリーが咄嗟にカウンターを当てて持ち直す。

 

「……ごめん、蓮子!」

 

「私の読みが遅かった!」

 

ふたりの声が重なる。けれど、もうどちらが悪いかなんて問題ではなかった。

 

「……ねえ、教授……この車、たぶん、私たちの言葉を理解してない」

 

ピットの奥で、無線を受けた岡崎夢美が目を閉じた。

 

「理解していないのは、君たちのほうだよ」

 

呟きながら、教授はゆっくりとデータパッドを閉じる。

 

⸻

 

蓮子は、口元を引き結び、ノートを睨みつけるように見つめていた。

 

“読み上げる”だけでは、届かない。

“指示を与える”だけでも、意味がない。

 

彼女のノートの“言葉”は、デルタS4には通じていなかった。

 

走行を終えてピットに戻ってきたデルタS4は、まるで“何かを吐き出した”かのような息遣いでアイドリングを刻んでいた。

 

エンジンを切った直後、車内には、静寂が満ちた。

 

「……降りるね」

 

「うん」

 

メリーが先にドアを開ける。金属が熱を持った音がカコンと鳴った。

蓮子も続くが、足元に置かれたペースノートを手に取る手が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

それは、“敗北”と紙一重の感覚だった。

 

整備棟の床に響くふたりの足音が、やけに重たく感じられる。

 

「お前たちが相手にしているのは“理屈”で動く車じゃない。

マニュアルをなぞったところで、こいつは振り向きもしない」

 

教授は目の前に立ち、ふたりを見下ろすように言った。

 

「君たちは、まだこの車と“話していない”」

 

「話すって……どうやって……」

 

蓮子の声は掠れていた。

 

「“感じろ”とか、そういう根性論は期待してませんからね、教授」

 

「違う。これは“言語の問題”だ。お前たちの言葉が、まだ“この車にとっての言葉”になっていない。

翻訳が必要なんだよ、宇佐見君」

 

教授の視線が、まっすぐに蓮子を貫いた。

 

「……ペースノートをもう一度作り直せ。菫子の模写ではなく、自分の言葉で。

この車が“聞こうとする言葉”を、探せ」

 

その夜、整備棟の片隅にある休憩用のベンチで、蓮子は一人ノートに向かっていた。

照明は暗く、周囲に人影はない。

メリーはシャワーを浴びに行き、教授は奥の研究室に引っ込んだままだ。

 

蛍光ペンのインクが紙を滑る音だけが、部屋に満ちていた。

 

「……“通じる言葉”って、なんなんだろうね……」

 

呟くように独り言をこぼす。

 

菫子のノートをなぞったところで、メリーの運転にフィットしなかった。

記号も数値も、滑らかなラインを生まなかった。

 

「言葉が先じゃない。“走り”が先なんだ……」

 

そう気づいた瞬間、蓮子の中で何かがつながった気がした。

 

——私は、“メリーの走り”を知らない。

 

助手席に座っていたはずなのに、私は彼女の走りを“自分の目”で見ていなかった。

 

「……うん、じゃあ……」

 

ペンを握り直し、新しいページに向かう。

 

そこには、もうRとかLとか、数字の羅列は並ばなかった。

代わりに、“どう走っていたか”“どこで何をしていたか”――記憶に残る断片を、言葉にして並べていく。

 

“言葉を教える”のではない。

“相手の言葉に近づく”ための作業。

 

それが、ペースノートの本質だと、ようやく気づき始めていた。

 

「……ずいぶんと集中してるじゃないか、宇佐見君」

 

蓮子の背後から、低い声がかけられた。振り返ると、岡崎夢美が紙コップを手に立っていた。湯気の立つコーヒーの香りが漂う。

 

「……教授こそ、まだ寝てなかったんですね」

 

「寝るわけないだろ。面白いものを見ているときはな」

 

夢美は蓮子の膝に広げられたノートに視線を落とした。

そこには、従来のペースノートとは違う、走りの“印象”が綴られていた。

 

「いい目をしてるな、宇佐見君。そのノート、おそらく菫子の初期のものに似てる」

 

「……さっきからその人の名前、ちらちら出てきますけど……そんなにすごかったんですか?」

 

「すごかったさ。“走りを翻訳する”ということを、本能的にやってのけるコ・ドライバーだった」

 

夢美はコーヒーを啜り、言葉を選ぶように一拍置いた。

 

「でも、それだけじゃなかった。彼女は“あるドライバー”と組んで初めて、本当の速さを手に入れた」

 

「教授と、ですか?」

 

夢美は黙ったまま、カップの中身を見つめていた。

 

その沈黙が、何よりも雄弁だった。

 

「なるほど……言葉にはしないんですね」

 

「言葉にならないことも、ある」

 

短く返すと、教授は背を向けた。

 

⸻

 

蓮子はノートを見つめながら、ひとつ深呼吸をした。

 

(今の私とメリーも、そうなれるのかな)

 

そう思えたこと自体が、進歩だった。

 

翌朝。

整備棟の天井に吊るされた古い蛍光灯が、徐々に光を取り戻していた。

 

メリーは早くに目を覚まし、デルタS4の横に立っていた。

まだ誰もいないガレージ。澄んだ空気の中で、ひとり、そのマシンのボンネットに手を当てていた。

 

「……昨日は、ごめん。言うこと聞いてくれないって、勝手に思った」

 

手のひらから伝わるのは、ただの冷たい金属。

でも彼女は、あの走行の中で確かに“意思”を感じた。

 

「きっと、私のほうが――話そうとしてなかったんだね」

 

デルタS4は何も答えない。ただ、そこに静かに“いる”だけだった。

 

「メリー、おはよ。早いね」

 

蓮子が手を振りながらやってくる。昨日の疲れはまだ顔に残っているが、どこか晴れやかだった。

 

「……なんか、話したくなっちゃって。こいつとさ」

 

「言葉、通じた?」

 

「まだ。でも、少し近づけたかも」

 

ふたりの間に、昨日まではなかった一体感が生まれていた。

 

「ノート、ちょっと書き直してみたんだ」

 

蓮子が手にしたノートを広げる。そこには数字と記号に混じって、彼女なりの“感覚”が記されていた。

 

「私ね、メリーの走りを“見る”んじゃなくて、“聞く”ようにしてみたの。

そしたら、少しだけど……言葉になった気がした」

 

メリーはそれを黙って見つめたあと、微笑んだ。

 

「ありがとう。……すごく、嬉しい」

 

その日の午前。再テスト走行が始まった。

 

前日とは打って変わって、メリーの走りには“探るような慎重さ”があった。

デルタS4がどう反応するのか、どうラインを望むのか。彼女はハンドルを握りながら、対話するように走っていた。

 

「Left 4、進入は奥まで我慢して……今っ!」

 

蓮子の読み上げる声が、まるで楽器のように走りのテンポに乗る。

 

「浮くよ、次、右3……トラクション待ってから!」

 

「わかってる……!」

 

車体が浮き、着地でリアが軽く滑る――だが今度は慌てない。

メリーは一瞬の荷重移動でそれを殺し、アクセルを戻す。

 

「……っしゃ、いい子!」

 

「誰に言ってるのそれ!」

 

「もちろん、こいつに決まってるでしょ!」

 

笑いながら、メリーは次のコーナーに滑り込む。

 

助手席で蓮子は、その感触を“確かめるように”言葉を添える。

 

「次、Left 5……後半、絞る。クリップで耐えてから解放して!」

 

「りょーかい!」

 

声が重なり、車が応える。

それは、はじめてデルタS4が“応じた”瞬間だった。

 

⸻

 

整備棟の監視モニター前で、岡崎夢美が映像を食い入るように見つめていた。

 

「……ようやく、言葉が通じはじめたな」

 

その声は、わずかに――ほんのわずかに、安堵を含んでいた。

 

テスト走行を終えたデルタS4が、ガレージへ戻ってくる。

排気音がゆっくりと静まり、冷却ファンの音だけが空間に残された。

 

「……すごい、今日は全然違ったよ」

 

「蓮子の読み方が、ぴったりだったからだよ」

 

ドアを開けて降りたメリーが、汗を拭いながら言った。

蓮子も助手席から身を起こし、ノートを大切に抱えている。

 

「デルタも……あんなに大人しかったの初めて」

 

「いや、たぶん、“大人しくなった”んじゃなくて――“こっちに歩み寄ってきた”んだと思う」

 

ふたりが談笑していると、そこにガレージの奥から足音が響いた。

 

「よくやったな、ハーン君。宇佐見君も」

 

夢美がいつもの調子で、淡々と近づいてくる。

 

「今の走行データ、ピークトルクの入力タイミングと回転差が理想的だ。

パーシャル域でのトラクション操作、ドンピシャだな」

 

「いや、私はただ……」

 

「言い訳は聞いていない。結果が出た。それで十分だ」

 

教授はそこで一旦立ち止まり、ふたりの顔をじっと見た。

 

「このマシンはな、元々“乗りこなす”ものじゃない。“合わせにいく”ものだ。

その癖を理解できたなら、これから戦える」

 

メリーが、微かに笑う。

 

「教授、やっぱり思い入れあるんですね、この車に」

 

夢美は少しだけ目を細めた。

 

「……お前たちが乗らなきゃ、私がもう一度走ってたかもしれないからな」

 

ガレージの片隅に設けられた整備スペースでは、北白河ちゆりがひとりで作業に追われていた。

 

「……ったく、どうして私がこんなブラックな現場で働いてるんだか……」

 

文句をぶつぶつ言いながらも、その手元は迷いなく動いていた。

デルタS4のブレーキキャリパーを分解し、摩耗をチェック。異常なし。

続いて油圧ライン、ダンパー、バンプストッパーの締結まで一気に確認する。

 

「ふぅ……S4ってのは、ほんと気難しいぜ……」

 

顔に汗を滲ませたまま、レンチを置いたところへ、蓮子がふらりと現れる。

 

「ちゆりさん、大丈夫? ずっと一人で整備してて……」

 

「大丈夫なわけないだろ? 人手はねぇし、パーツは年代物だし、ブラックなんてもんじゃねぇぜ」

 

「えっ、私、文系なんですけど……」

 

「関係ないぜ! ラリーは壊す前提で走るもんだ。壊したら直す、直すのは誰だ? 私だぜ!」

 

「……あー、ごめんなさい……」

 

ちゆりは工具を蓮子に押し付けるように渡しながら、真剣な目つきで続けた。

 

「でもな、今日のデルタは違ったぜ。ちゃんと“声”を聞いてた。

お前らにしか聞かせねぇ声を、少しだけ出してくれてた気がしたんだ」

 

「……ちゆりさんも、そう思う?」

 

「思うに決まってるだろ。マシンってのはな、人間と一緒だ。信用できねぇ奴には、絶対に力を貸さねぇぜ。

でもあの子は、お前らにならって、……ちょっとだけ、心を開いた気がしたんだ」

 

その一言に、蓮子はそっと頷いた。

 

その夜、整備棟の照明はまだ点いていた。

 

再調整を終えたデルタS4は、もう一度だけショートコースでの深夜テストに臨んでいた。

気温が落ち、アスファルトの表面には薄く湿気が滲む。

 

「最終チェックだ。走りきれ。……無理はするな」

 

夢美の声が無線から届く。

ヘッドセットを装着したまま、メリーは軽く目を閉じた。

 

「蓮子、今日が“はじめて”だよ。……この車と一緒に走れるって思えたの」

 

「うん。……でも、今日は“ふたり”じゃない。“三人”だよ」

 

蓮子はノートをそっと胸に当て、静かに頷いた。

 

走行が開始された。

先ほどまでの荒々しさは、もはやない。

アクセルの入力に、車体が素直に応える。

ブレーキングでの沈み込みは、予測通り。

滑りそうなラインも、事前に蓮子が伝え、メリーが備える。

 

「次、Right 5 minus、先に小さな膨らみ、浮くよ」

 

「わかってる、ライン残して……!」

 

一瞬だけ車体が浮き、着地と同時にスロットルを戻す。

収束。トラクション。カウンターなしで旋回を保ち――抜ける。

 

完璧だった。

 

⸻

 

ピットに戻ってきた車体を降りたふたりに、教授が言った。

 

「ようやく、君たちはこの車と“会話ができる”ようになった」

 

メリーも、蓮子も、黙って頷いた。

 

その目はすでに、“次の戦い”を見据えていた。

 

その夜、再び走ることになった。

教授の指示で、短縮されたターマック区間を利用して、深夜の“静かな試走”が行われる。

 

「今度は無線もシャットする。音と感覚だけで走ってみろ。必要なら私が後ろで見ている」

 

スタート地点に静かに並ぶデルタS4。

シートベルトを締めたメリーの瞳には、午前中よりも明らかな“静けさ”があった。

闘志ではなく、集中。言葉ではない、対話の気配。

 

「蓮子、今日は……なんか、いけそうな気がする」

 

「うん。私も。読めるっていうか、“感じる”って言ったほうが近いかも」

 

ヘッドライトが闇を裂き、走り出す。

 

――無線もない。

――教授の声もない。

 

“ふたりだけ”の世界。

 

蓮子はノートを開かない。代わりに、目を閉じたまま呼吸を合わせる。

 

「……この次、少し詰まる。ライン残して……うん、今!」

 

「受け取った!」

 

デルタS4が滑り込むようにコーナーを抜ける。

連続する右左の切り返しが、まるで一枚の布のように滑らかに連なっていく。

 

「次のバンプ、逃がして。膨らまないように、抑えて」

 

「了解、クラッチ少し抜く……!」

 

操作と言葉が、もはや同時に存在している。

 

ふたりは――確かに今、同じ車に乗っていた。

 

 

明け方の整備棟には、夜の冷気がまだ残っていた。

窓の外では港町モンテカルロが静かに目を覚まし始めている。ピット奥の試走ログ再生モニターだけが、青白く部屋を照らしていた。

 

「アクセル入力、平均値105%。……でも滑り出しなし。リフト時の応答も素直になってる」

 

メリーがデータに目を走らせながら言った。

 

隣では蓮子が、紙のノートを閉じる。

 

「こっちのログも、前半のバンプ直後まではほぼ完璧。昨日までは絶対暴れてたラインが……今回は抑えられてた」

 

「たぶん、こっちの“声”が少し通じたんだと思う。昨日の夜、やっと三人でやれるようになった」

 

メリーが言うと、蓮子は少し笑って――ふと、首をかしげた。

 

「……三人で?」

 

「うん。私と、蓮子と……この子」

 

メリーは、ガレージ奥で眠るように静かなデルタS4に視線を送る。

けれど蓮子は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「ちがうよ。……五人、だよ」

 

メリーが驚いたように振り返る。

 

「教授とちゆりさん。……私たちの知らないところで、この車をずっと“守ってた”人たち」

 

「……そうか。そうだね」

 

静かに頷いたメリーの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

ようやく、チームとしての“出発点”に立てた。そう思えた。

 

その瞬間――整備ピットのシャッターが唐突に開いた。

 

「メリー、蓮子! ちょっと来い!」

 

怒鳴り声にも似たその声の主は、北白河ちゆりだった。工具を片手にオイルまみれの指先で整備記録を突きつけながら、鬼の形相で立っている。

 

「……な、何? 今の時間、ちょっとだけゆっくりしようとしてたんだけど……」

 

「甘いぜ、状況的に」

 

ちゆりはそのままふたりを車体のフロントサス側へ引っ張る。そこにはばらされたダンパーが無造作に置かれ、その内部パーツには微かな摩耗の痕が見えていた。

 

「これ、リバウンドストロークの戻りが明らかに遅い。調整ミスかと思ったが、内部のバルブプレートが偏摩耗してる。しかも走行前には問題なかった」

 

「……走行中に変化したってこと?」

 

「もしくは、走行“直前”に誰かが手を加えたか、だ」

 

ちゆりの口調が重たくなる。

ピロボールやナックルには異常がない。つまりこれは、**“目立たないようにダメージを植えつける手口”**だった。

 

「たぶん、今のうちに気付かなきゃ、次の走行でサスが死ぬ。ステア入れてるときに、急に片側だけ沈んだりな」

 

「……教授に連絡しなきゃ」

 

「その必要はない」

 

背後から静かな声が届く。

整備棟の奥から現れた岡崎夢美が、片手に白い封筒を持っていた。いつもと変わらぬ無表情――だが、その瞳の奥には、わずかな怒気がにじんでいる。

 

「予想はしていた。だから監視ログは保存してある。犯人探しは私のほうでやる」

 

「まさか内部の人間が……?」

 

蓮子がそう言いかけたが、夢美は手でそれを制した。

 

「まだ断定するには早い。今はそれよりも――」

 

封筒を差し出す。

 

「……これを渡しておく。“FIA WRC-H登録正式承認通知”。お前たちのチーム名も、ナンバーも、すべて正式登録された」

 

ふたりの手の中に、世界最大のモータースポーツ統括機関からの書類が収まる。

 

「Monte Carlo Mallyでの試走記録と、デルタS4の復元評価が基準を上回った。出場資格は、これで揃った」

 

メリーと蓮子は、一瞬だけ目を見合わせる。

試走でようやく“チームの一員になれた”という感覚。それが、現実の“本戦”へと繋がった。だがその道は、すでに誰かの妨害で“始まって”いた。

 

夢美はふたりの視線をじっと見据え、短く言い放つ。

 

「迎え撃つ覚悟があるなら――いくらでも仕掛けてこい。だがこっちは、そのたびに速くなる」

 

それは、教授ではなく、“かつてのドライバー”の声だった。

 

金属の摩擦音が、整備棟の一角に響いていた。

ちゆりの手元でダンパーのピストンが分解され、慎重に取り外されたオイルバルブが、スチールトレイの上で冷たい音を立てた。

 

「やっぱりだ。ここのシムプレート……誰かが削ってる。極薄のバリが残ってるから、恐らく手作業。しかも、これ専用の治具使ってる」

 

ちゆりは低く唸るように言った。

 

「オイル流量がわずかに偏るように調整されてた。走り出してしばらくは気づかないが、全開走行で負荷がかかると、“片側だけ”減衰がズレて挙動が乱れる。……完全に“潰し”に来てたな」

 

「証拠としてはどう?」

 

夢美が静かに問いかける。

ちゆりは手袋を外し、指先の感触でプレートの縁をなぞる。

 

「充分過ぎる。これが“意図的”じゃないなら、天災ってレベルだぜ」

 

「いい。ログは保存済み。セキュリティの再確認も私がやる。……君は休め、ちゆり」

 

「いや、休めないぜ。あたしがいないと、こいつら誰も締めトルクの感覚も信用できない」

 

「信頼されているな」

 

「人手が足りないだけだぜ」

 

ちゆりはそう言いながら、微かに笑った。

 

—

 

同じ頃、奥の休憩区画でメリーと蓮子は小さなテーブルを挟んでいた。

手元には、昨日教授から受け取った“エントリー通知書”が置かれている。

 

「これ、本当に通ったんだね……」

 

「夢美さん、あんな顔してるけど、ちゃんと全部やってくれてたんだね」

 

「……いや、“ちゃんと”なんて言葉じゃ足りないかも」

 

メリーがそう言いながら、デルタS4のほうに視線を送る。

 

「この車も、私たちも、夢美さんとちゆりさんがいたからここまで来れた」

 

「うん。昨日、“五人で”って言ったけど……それでも、まだ言い足りない感じがするんだ」

 

「言葉って難しいよね。多分、デルタと話すのと同じくらい」

 

二人が小さく笑い合った、そのとき。

 

夢美が静かに現れ、テーブルの端に腰を下ろした。手には湯気を立てる金属製のカップ。

 

「……“走らせる価値がある”って、前に言っただろ」

 

「……はい」

 

「でも、あれは半分は方便だった。正確に言うなら、あの車には“もう一度走らせてやらなきゃならない理由”があったんだ」

 

メリーと蓮子が、言葉を飲む。

 

「かつて……あれを走らせていたのは、私と、もう一人の女だった」

 

夢美の言葉に、メリーの指がピクリと動いた。

 

「その人が……宇佐見菫子さん、ですか?」

 

夢美は答えなかった。

けれど、その沈黙が、何よりもはっきりと“肯定”を意味していた。

 

「……だったら、私たちが背負うものって、思ってたよりずっと重いんですね」

 

「そうかもしれん。だが重さを知るからこそ、“速さ”は意味を持つ」

 

その言葉は、まるで“走り”そのもののように、重く、そして鋭かった。

 

—

 

そしてその日。

ちゆりの手で完全に補修されたサスペンションが、再びデルタS4に組み込まれた。

 

そして、夜が明ける。

 

朝の光が整備棟の天井を静かに照らし出し、空気が少しずつ暖まっていく……はずだった。

 

「……え?」

 

ガレージのシャッターが開いた瞬間、メリーと蓮子は絶句した。

 

そこには、確かに見覚えのあるテストコースが広がっている――しかし、様子が異常だった。

 

白い。

 

空気は冷たく、舗装路の至るところに雪がパッチ状に積もっていた。

 

「……ねえ、これって……」

 

「雪だよ。どう見ても」

 

「ちょっと待って、昨日まで真夏だったわよね!? なんで――」

 

「まさか……」

 

背後で気配がして、振り返ると、教授がいつも通りの表情で腕を組んでいた。

 

「お前たちの初戦は“モンテカルロ”だ。ならば、それと同じ環境で走るべきだろう?」

 

蓮子の額に青筋が浮かぶ。

 

「いやいやいや、そういう問題じゃないでしょ!? ここ、夏の日本ですよね!? なんで雪が降ってるのよ!」

 

「降ってはいない。敷いたんだ」

 

「敷いた!?」

 

「特殊なシミュレーションエリアを使った。ここでは気温も湿度も降雪量も自在に再現できる。本来は大手メーカーの極限テスト用だった施設だが……今は、私が借りている」

 

メリーはうめくように額を押さえた。

 

「……つまり、今日はこの凍ったターマックでデルタS4を走らせるってことですか?」

 

「そういうことだ」

 

教授は静かに、満足げに頷く。




夜が明け、静寂を破るエンジンの鼓動。
舞台は突如として冬へと変貌した――真夏の日本に現れた、モンテカルロの幻影。
凍てつくターマック。予測不能なパッチスノー。
そして、その先に待つのは、制御不能の白い獣。

「ちょっと!? いきなりスピンしてるんだけど!?」
「ブレーキ踏んだだけなのに!!」
「……だから私は言ったのに。デルタS4は、“乗せてもらえる車”じゃないってな」

かつてグループBに君臨したモンスターは、牙を剥く。
ABSもTCSも切り落とされたその車は、ドライバーに一切の妥協を許さない。

繊細な操作、絶妙な荷重移動、容赦ないカウンターステア。
“感覚”がなければ、生き残れない。

そして、その獣と向き合う中で、彼女たちは“何か”を掴み始める。
恐怖と憧れの先にあるのは――

「……この車、本当に乗りこなせるの?」
「わからない。でも、話しかけるしかないよ。この子が、耳を傾けてくれるまで」

次回――

Monte Carlo Mally LEG4
『雪を纏った獣』

走れ。声が届く、そのときまで。
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