Monte Carlo Mally   作:Yaris Margatroid

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前回のあらすじ

旧整備棟の地下ガレージ――そこに眠っていたのは、かつてグループBで“最も危険”とまで称されたラリーマシン、ランチア・デルタS4。
岡崎夢美の手によって蘇ったその車両は、マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子の新たな“相棒”として託されることになる。

しかし、その挙動はあまりに過敏で、荒々しく、アルピーヌとは比較にならない“獣”のような代物だった。
初試走では思うように操ることができず、スピン、オーバーステア、ラインの逸脱――“会話の通じない暴れ馬”に振り回されるふたり。

それでも蓮子は、自分のノートが車に通じていないことに気づき、ペースノートの記号を捨て、“言葉”を探す試みに挑む。
一方メリーも、デルタS4の挙動を“拒絶”ではなく“対話”として受け止めようと、静かな覚悟を固めていく。

やがて再試走――無線も使わず、ただふたりの呼吸だけを頼りに走る中、デルタS4は少しずつ“答える”ようになる。
走りのテンポ、指示の抑揚、そして何より“信頼”が、ついにマシンとの接点を繋ぎ始めた。

そんな矢先、北白河ちゆりは車体にごく微細な細工の痕跡を発見。
それは内部の誰かが意図的に“致命的な挙動”を仕込んでいた証拠だった。

しかし岡崎夢美は動じない。
WRC-Hのエントリー通知をふたりに渡しながら言う――

「いくらでも仕掛けてこい。だがこっちは、そのたびに速くなる」

物語は、夢美と菫子の過去をうっすらと滲ませながら、ついにWRC-Hへの実戦投入へと向かっていく。


LEG4 「雪を纏った獣」

夜明けと同時に、私たちはデルタS4の前に立っていた。

 

昨日の試走で掴んだ感覚は、まだ手の中に残っている――はずだった。

けれど、それを確かめる余裕もないまま、眼前の光景に凍りつく。

 

「……え、ちょっと待って。雪……?」

 

思わず口にしたその言葉が、冷たい朝の空気に白く溶けた。

 

テストコースは、一夜にして冬景色に変貌していた。

ターマックにはパッチ状の雪が点在し、一部は完全に凍結している。

コース沿いの樹々には霧氷すら浮かんでいて、まるでモンテカルロの山岳ステージだ。

 

「昨日まで真夏だったよね……?」

 

隣の蓮子が呆然とつぶやく。

 

ここは確かに日本の内地、Monte Carlo Mallyのテストフィールド。

なのに、今この場所だけが、時間軸ごと切り離されたように“真冬”だった。

 

「……ちょっと、教授?」

 

振り返ると、ガレージ前に立っていた岡崎夢美が、当然のような顔で腕を組んでいる。

 

「お前たちの初戦は“モンテカルロ”。ならば、その環境を再現するのは合理的だろう?」

 

「いやいや、それはわかりますけど!? なんでこんな本格的に雪景色に!?」

 

「ふっ……技術の進歩を舐めるな。ここは特殊な環境シミュレーション施設を利用している」

 

「シミュレーション……?」

 

「温度、湿度、気圧、日射、霧、雪――すべてコントロール可能だ。本来はメーカーが四季ごとの耐久試験に用いていた。今は、私が借りている」

 

「いや、もっと普通の環境で練習させてくださいよ!!」

 

「ダメだ。お前たちが出場するのはWRC-H。その初戦がモンテカルロである以上、実戦環境で鍛える方が効率的だ」

 

「効率じゃなくて生存率の問題なんですけど!!」

 

私は額を押さえて深くため息をついた。

 

「……つまり、この凍ったターマックでデルタS4を走らせる、ってことですね?」

 

「その通りだ」

 

夢美は淡々と頷いた。

そこに迷いも遠慮も、ましてや良心のかけらもない。

 

眼前の白い世界と、背後の白いマシン――

どちらも牙を隠しているように見えた。

 

エンジンが目を覚ますと同時に、空気の質が変わった。

静かな朝の空気が、一気に緊張の膜を張る。

 

「……はあ。行くしかないか」

 

私はハーネスを締め直し、深く息を吸う。

 

助手席では、蓮子が既にノートを握っていた。けれど、その指先はわずかに震えている。

 

「……メリー、怖くない?」

 

「怖くないわけ、ないじゃん」

 

「だよね……」

 

苦笑を交わしたまま、私はクラッチを踏み、シフトを1速に入れる。

 

そっとアクセルを踏んだ――その瞬間。

 

キュルルルルッ!!

 

「っわ!? ちょっ……いきなりホイールスピン!? 雪の上かこれ!」

 

リアが一瞬空転し、ボディが左右に揺れる。

 

慌ててアクセルを抜いて、慎重にトラクションをかけ直す。

滑り出しの“第一歩”すら、容赦がない。

 

「蓮子、降りるなら今のうちだよ」

 

「冗談言わないで! ここまで来て今さら降りられるわけないでしょ!」

 

「……じゃあ、行くよ」

 

慎重にアクセルを踏み直す。

デルタS4は唸るような咆哮を上げながら、再び前へと滑り出す。

 

1速、2速とギアを繋ぎ、路面の状態を探る。

スタッドレスもスパイクも履いていないラリータイヤでは、この雪は“敵”だ。

 

「L3、50……っ」

 

「了解、L3!」

 

慎重に減速し、左にハンドルを切る――その瞬間、車体がズザァッと横滑りを始めた。

 

「ちょ、滑ってる滑ってる!!」

 

「カウンター! 抑えてっ!」

 

必死にカウンターステアを当て、アクセルを抜いて立て直す。

が、デルタS4はわずかにラインを外れ、コース端ギリギリで停止した。

 

「……生きてる?」

 

「たぶん……」

 

私はハンドルを握り締めたまま、汗で濡れた手のひらを感じていた。

 

そのとき、無線から教授の声が平然と流れてくる。

 

『ああ、そういえば言い忘れていたが――ABSとTCSはオフにしてある』

 

「…………は?」

 

思わず耳を疑う。

 

「ちょっと教授、それどういう意味ですか?」

 

『そのままの意味だ。電子制御に頼るな。走りで解決しろ』

 

「いやいやいや、WRC-HのレギュレーションではABSもTCSも使用OKのはずですよね!? なんでオフにしてるんですか!」

 

『お前のアルピーヌには最初から付いてなかっただろう? なら変わらん』

 

「変わるわ!! あれは100馬力台のクラシックカー! これは500馬力オーバーのグループBよ!!」

 

『ならば慣れろ。制御がなくても乗れるようになれば、戻したときに無敵だ』

 

「無敵って……!!」

 

教授の声は、どこまでも冷静だった。

それが余計に怖かった。

 

「……蓮子、もう一回いくよ」

 

「えぇぇ……!? マジで!?」

 

「やるしかないでしょ。やらなきゃ始まらない」

 

震えそうな膝を押さえ込みながら、再び私はアクセルを踏み込んだ。

 

二度目の走行――それは、一度目よりも静かだった。

 

滑りは変わらない。グリップは不安定で、タイヤは常に雪の上を迷っている。

けれど、私はもう、さっきみたいに慌てていなかった。

 

「次、R3、60!」

 

「了解、R3……っ」

 

先ほどと同じコーナーに、今度はほんの少し早めに減速を開始する。

ブレーキを“踏む”のではなく、“移す”。

荷重を静かにフロントに送ってやるようなイメージで。

 

――すると。

 

「……え?」

 

車体が、するりと回った。

回頭性が、さっきよりもずっと滑らかだ。

 

「メリー、今のすごく良かった!」

 

「……うん。自分でもちょっと驚いたかも」

 

ハンドルを切ったときの、あの異様なクイックさ――

それが今は、操作に“応えて”くれているようにすら感じられる。

 

「なるほど……こうやって走るんだ」

 

デルタS4は、ただ力で抑えつけてはいけない。

こちらの動きを“感じさせる”ように、流れるように、荷重とトラクションを繋いでやる必要がある。

 

次のコーナーで、私はあえてリアを少し滑らせてみた。

ほんの少し、アクセルを抜いて、ステアを戻す。

 

「……よし、抜けた!」

 

「さっきよりもスムーズ……!」

 

ペースノートを読みながら、蓮子の声にもわずかに明るさが戻る。

 

「デルタ……やっぱり、さっきより少しだけ、こっちの言うこと聞いてくれてる」

 

「ってことは、昨日のアレ、やっぱり“気のせい”じゃなかったのかもね」

 

「“生きてるみたい”って?」

 

「うん」

 

雪を蹴って進む白い獣が、まるで答えるように轟いた。

 

スロットル操作、ブレーキング、ステアリング――

それぞれの挙動が、少しずつ“手に返ってくる”感覚。

 

この車は、ただ暴れるんじゃない。

ちゃんと、“理由があって”暴れるのだ。

 

それが分かっただけで、少しだけ未来が明るくなった気がした。

 

「メリー、次、L4、タイト!」

 

「了解!」

 

呼吸を合わせるように、私はコーナーへ突っ込んだ。

 

この獣と話すには、叫ぶんじゃなく、囁くように。

命令じゃなく、対話で。

 

――それが、きっとこの車との正しい向き合い方なんだ。

 

滑りながらも、走りがつながっていく感覚があった。

 

ステアの入り。ブレーキの抜き。アクセルの開け方。

すべての操作が“返ってくる”――そんな実感が、今の私を走らせていた。

 

「次、Right 3、60!」

 

「了解、R3!」

 

今度も同じ。早めに減速、軽く前荷重。

丁寧にステアを入れ――

 

「……あっ」

 

一瞬、何かがズレた。

 

前の入力と、車体の反応が噛み合わない。

雪の表面に薄く水が浮いている場所――“さっきはなかったライン”。

 

「メリー、そこ滑る! 抑えて――」

 

蓮子の声が届くより早く、リアが唐突に振り出した。

 

「くっ!」

 

私は即座にカウンターを当て、アクセルを抜く。

だが今度は、その“戻し”が強すぎた。

 

リアが反対に跳ねる。

 

「やばっ!」

 

「メリー!!」

 

コース端の雪にタイヤが取られ、デルタS4は無情にもスピン。

後輪が一瞬浮き、ボディは180度回転して――止まった。

 

深い雪にリアタイヤが埋まり、動けない。

 

「……うわ、やっちゃった……」

 

「だ、大丈夫!? ぶつかってはないけど、完全に埋まってる……!」

 

二人して息を整える間もなく、無線が鳴った。

 

『ハーン、今のは何だ。説明を』

 

「路面の変化を見逃しました。荷重が残ってたのに早くアクセル入れすぎて、リアが……」

 

『なるほど。わかっているなら次は修正しろ』

 

「はい……」

 

素直に答えながら、私は悔しさを噛み締めた。

走りが“繋がり始めた”と思った矢先だった。

 

この車は、そんな甘さを一切許さない。

 

「……ごめん、蓮子。調子に乗った」

 

「いや、私も読み上げのタイミング、ほんの少しだけズレてたかも」

 

「デルタは、それすら見逃さないね」

 

雪の中でエンジンはまだ唸っていた。

まるで言っているかのように。

 

――“調子に乗るな。まだ、お前らは何もわかっちゃいない”

 

 

リアタイヤが、雪にすっぽりと埋まっていた。

 

エンジンはまだ回っているけれど、どれだけアクセルを煽っても空転するばかり。

ガレージ前の補助車両に連絡を取り、ウインチで引き出すしかなかった。

 

「……完全に埋まってる。駆動輪が埋まると、ほんと一発アウトだね」

 

蓮子が助手席から脱出し、タイヤのあたりを見ながらつぶやいた。

その口調には、焦りよりも呆れが勝っている。

 

「ていうかさ、最初のテスト走行って普通、もっと慎重にやるもんじゃないの……?」

 

「でも、この車に“慎重に”って言葉は似合わない気がする」

 

私はハーネスを外しながら言った。

 

「乗ってる間ずっと、こっちが試されてる感じがする。ちょっと気を抜いただけで、『お前、それ本気か?』って言われてるみたい」

 

「うわ、それ分かる……。助手席にも圧かかってくるよ、あの子……」

 

二人して雪まみれのタイヤを眺めていたそのとき、教授の声が無線越しに落ちてきた。

 

『一度、マシンを戻せ。補助車を回す』

 

「……了解」

 

無線が切れると、私はふうっと息をついてステアに手を置いた。

 

その瞬間、運転席の下、シート越しに微かに“鼓動”のような震えを感じた気がした。

 

「……また走ろう。こっちが本気で話しかけ続ければ、いつかこの子も返してくれる」

 

「話しかけるっていうか……“殴り合いながら会話”って感じだけどね」

 

蓮子のその例えに、私も笑った。

 

 

コース脇。監視テントの中で、岡崎夢美はモニターを睨んでいた。

 

「ふむ……最初のうちは乗せられていただけだったが、少しずつ操作に意思が見え始めているな」

 

背後ではちゆりが補助車両の手配に追われている。

その間に夢美はタブレットを操作し、走行ログのデータを指先でなぞる。

 

「……理想軌道まであと0.8秒。だが、スロットル開度とブレーキ残しの差分、読み切れていないな」

 

指先が止まった。画面には、今しがたスピンした場面のフレーム。

 

「……乗りこなせるか?」

 

いや――

 

「“この車と、対話できるのか”。問題はそこだ」

 

目を閉じた夢美の脳裏に、一人の女の姿がかすめる。

 

赤い縁の眼鏡。風に揺れる茶色の髪。

かつてこの車と“語り合えた”唯一のナビゲーター。

 

――宇佐見菫子。

 

だが、夢美はその記憶に蓋をするように、小さく息を吐いた。

 

「……今は、今だ」

 

ガレージ裏の整備ヤードに、救援車両がデルタS4をゆっくりと引き戻してきた。

 

シャーシには傷なし。タイヤも凍結泥にまみれただけで、致命傷ではない。

けれど、リフトにかけられた車体を覗き込んだちゆりの眉は、微かに歪んでいた。

 

「……やっぱり、なんかおかしいな。右リアの減衰が、走行ログより数値ズレてる」

 

「スピンの衝撃?」

 

夢美が背後から声をかけると、ちゆりは首を振った。

 

「いや、それにしては“ずれ方”が鈍すぎる。スピンならもっと瞬間的なピークが出るはず。これは、じわじわ削られてる感じ」

 

「経年劣化の再発……か?」

 

「……それもあるかもな。だけど、反応が悪いってだけじゃない」

 

ちゆりは工具を置いて、油の匂いを含んだ手袋を外す。

そのまま夢美に向き直った。

 

「夢美さん、あたし……この車が、どっかで“まだ迷ってる”ような気がするんだ」

 

「迷ってる?」

 

「うん。動作に濁りがある。整備上の話じゃなくて、挙動全体に、“ほんのわずかな逡巡”があるんだ」

 

教授は黙ったまま、それを聞いていた。

ちゆりが言葉を選ぶように、少しずつ続ける。

 

「まるで、“本当にこのドライバーに全力出していいのか”って、車が探ってる感じ。……バカみたいだけど、マシンの反応ってそういうとこあるだろ?」

 

「……あるな」

 

ようやく夢美が短く応じる。

 

「デルタS4は、乗る者を選ぶ。それは過去の記録からも明らかだ」

 

「だろ? で、その“選ばれる”ってやつ……今のふたり、まだ足りないんじゃねぇかな。あと半歩」

 

教授は、その言葉にかすかに目を細めた。

 

「君がそう思うなら、次の走行で確かめるといい。……この車が、本当に“心を開くか”をな」

 

ちゆりはレンチを回しながら、ちらりと整備中のサスペンションを見た。

 

「そのときは、ちゃんと聞こえるといいけどな。こいつの“本音”がさ」

 

翌朝。

ガレージの天井を照らす蛍光灯が、まだ完全に光を取り戻す前――

 

私はもう、シートに座っていた。

 

昨日のスピンが怖くなかったとは言わない。

でも、それ以上に“もう一度走りたい”という気持ちが勝っていた。

 

助手席から、蓮子の声。

 

「……今日は、昨日と違う走り方をしてみるつもり?」

 

「うん。滑らせないようにするんじゃなくて、滑っても壊さないようにする」

 

「なるほど。“制御”じゃなくて“共存”ね」

 

「うまいこと言うなあ」

 

笑い合うけれど、手のひらは汗ばんでいた。

緊張は、ちゃんとある。それでも行く。

 

エンジンスタート。

室内が爆音と振動に包まれ、デルタS4が咆哮を上げる。

 

外は昨日より気温が低い。

霜が残った路面はさらに滑りやすく、試されるには十分すぎる。

 

無線越しに教授の声。

 

『補助制御は今回もすべてオフ。だがコースは昨日より短く設定した。……この条件で、形にしてみせろ』

 

「了解」

 

ギアを1速に入れる。

クラッチをそっと繋ぎ、車体が雪の上を滑るように前進する。

 

走り出した瞬間、デルタS4が背筋に語りかけてきた気がした。

 

――昨日の続きを、始めようか。

 

 

第一コーナー、L3。

 

昨日はここでフロントが逃げ、リアが躍った。

今日は、タイヤの温まり方すら感じながら、静かにブレーキを入れる。

 

「……滑ってる。でも、焦らないで」

 

蓮子の声が、丁寧に入る。

 

「わかってる……っ」

 

早すぎず、遅すぎず。

ほんの一瞬リアが流れるが、それを待ってからステアを戻す。

 

「抜けた……!」

 

「今の、すっごくよかった!」

 

「うん……たぶん、“この子が何を嫌がるか”が、ちょっとだけ分かってきた気がする」

 

デルタS4は、今も荒々しい。

だけど、昨日よりも“話を聞いてくれている”。

 

それだけで、こんなにも心強いなんて。

 

「次、Right 5 minus。先に小さな膨らみ、浮くよ!」

 

「了解、ライン残して……!」

 

一瞬、車体が浮く。

 

それでも今は慌てない。

着地の瞬間にスロットルを少しだけ緩め、リアの跳ねを抑える。

 

「着地、いい感じ!」

 

「うん、たぶん今の進入角、合ってた」

 

どこかで崩れそうな不安定な接地感。

けれど、それを“扱えるリズム”の中に取り込めたとき――

 

この車は、微かに笑う。

 

アクセルを開ける。

デルタS4は咆哮しながら、まるで“ついてこい”と言わんばかりにコーナーを抜けていった。

 

「……ねぇ、蓮子」

 

「うん?」

 

「この子……ちょっとだけ、“楽しい”って言ってる気がする」

 

「いやもう、私もそんな気がしてきたんだけど……やばいよねこれ、マジで」

 

笑いながら、ふたりの視線は前を向いたまま。

 

ペースノートはもう“ただの記号”じゃなかった。

蓮子の言葉が、車のリズムとリンクし、メリーの操作を導いている。

 

そこに、ようやく生まれはじめた“呼吸の一致”。

 

 

その走行を、遠くからじっと見つめていた人間がひとり。

 

岡崎夢美は、コースサイドの監視モニターの前に立ち、映像から目を離さずにいた。

 

「……悪くない」

 

肩越しから声をかけたちゆりが、珍しく素直に頷く。

 

「ライン取りも、ノートの入りも、前よりずっと精度が上がってる。やっと“走り始めた”って感じだな」

 

「……“ふたりで”走り始めた、だな」

 

夢美のつぶやきに、ちゆりが目を細める。

 

「……やっぱり、教授の昔の相棒もこうだったのか?」

 

その言葉に、夢美は何も返さなかった。

 

けれど、胸ポケットに入れていた古びたペースノートが、わずかに重さを持ったような気がした。

 

(違う。まだ――あのときには、届いていない)

 

そう思いながらも、確かに“気配”は近づいていた。

 

デルタS4が、ふたたび語りかけようとしている。

 

「次、Right 2……30、直後にタイトLeft!」

 

「了解、R2……!」

 

一段と強いブレーキングをかけ、ステアを切る。

 

下り勾配。しかも、路面は薄く凍っている。

 

タイヤが“逃げようとする”のを、アクセルとステアで必死になだめる。

 

「っ……よし、入った……! 次、L1、すぐ!」

 

「わかってる!」

 

タイトターン。

 

ラインが一つしかない。

 

アウトに膨らめば雪、インに寄りすぎれば車体が雪壁に噛む。

 

ほんの一瞬、ステアに迷いが出た。

 

その隙を、デルタS4は逃さなかった。

 

「っあ、やばい……!」

 

ブレーキが早すぎた。

 

荷重が前に偏りすぎたせいで、リアが不安定になる。

 

「リア滑ってる、持って――」

 

「わかってる、カウンター……!」

 

しかし――間に合わない。

 

キュルルル……ガンッ!

 

「っ……!」

 

左のリアホイールが、凍結部分の雪壁に軽くヒットする。

 

跳ね返るようにリアが振れ、コースの端まで一気に滑り込む。

 

「止まれっ……!」

 

ABSがない。

 

だから、最後の一瞬は“祈り”だった。

 

――なんとか、止まった。

 

「……大丈夫?」

 

「うん。今のは、たぶんギリギリ」

 

メリーは歯を食いしばりながら、ステアから手を離さない。

 

蓮子はノートを閉じて、ひとつ息を吐いた。

 

「今の……ノートが悪かった」

 

「違う。読みは正しかった。……私の判断が、ほんのちょっとだけ遅れた」

 

「……ちょっとだけのズレが、命取りなんだよね、この車」

 

「うん。でも、だからこそ、“次”がある」

 

「次、Right 2……30、直後にタイトLeft!」

 

「了解、R2……!」

 

一段と強いブレーキングをかけ、ステアを切る。

 

下り勾配。しかも、路面は薄く凍っている。

 

タイヤが“逃げようとする”のを、アクセルとステアで必死になだめる。

 

「っ……よし、入った……! 次、L1、すぐ!」

 

「わかってる!」

 

タイトターン。

 

ラインが一つしかない。

 

アウトに膨らめば雪、インに寄りすぎれば車体が雪壁に噛む。

 

ほんの一瞬、ステアに迷いが出た。

 

その隙を、デルタS4は逃さなかった。

 

「っあ、やばい……!」

 

ブレーキが早すぎた。

 

荷重が前に偏りすぎたせいで、リアが不安定になる。

 

「リア滑ってる、持って――」

 

「わかってる、カウンター……!」

 

しかし――間に合わない。

 

キュルルル……ガンッ!

 

「っ……!」

 

左のリアホイールが、凍結部分の雪壁に軽くヒットする。

 

跳ね返るようにリアが振れ、コースの端まで一気に滑り込む。

 

「止まれっ……!」

 

ABSがない。

 

だから、最後の一瞬は“祈り”だった。

 

――なんとか、止まった。

 

「……大丈夫?」

 

「うん。今のは、たぶんギリギリ」

 

メリーは歯を食いしばりながら、ステアから手を離さない。

 

蓮子はノートを閉じて、ひとつ息を吐いた。

 

「今の……ノートが悪かった」

 

「違う。読みは正しかった。……私の判断が、ほんのちょっとだけ遅れた」

 

「……ちょっとだけのズレが、命取りなんだよね、この車」

 

「うん。でも、だからこそ、“次”がある」

 

ガレージ横の監視モニター前。

走行ログと車体カメラの映像が、リアルタイムで記録され続けていた。

 

ちゆりが手早くログを整理しながら、ふと口を開く。

 

「……なあ、夢美さん」

 

「なんだ」

 

「今のあの子たちの走り、なんか、“あの頃”に似てきてないか?」

 

夢美は目を細め、映像の一時停止ボタンを押した。

 

画面には、先ほどのタイトL1をギリギリで抜けるデルタS4。

タイヤの挙動、ブレーキのタイミング、回頭角――

 

「……似ていない」

 

「え?」

 

「似てきたのは“操作”じゃない。“反応”だ」

 

ちゆりが一瞬、理解に困った顔をする。

 

夢美は、画面を再生しながらゆっくり言葉を続けた。

 

「操作に正解はある。だが、この車は“正解”よりも、“感情”に反応する」

 

「……感情」

 

「菫子がそうだった。ノートの読み上げが完璧でも、私が躊躇したときは車が滑った。逆に、多少ズレてても、信じて踏み切ったときは、車が応えた」

 

「それって、車の話じゃなくて……」

 

「人の話だ」

 

夢美は静かに言い切った。

 

「この車は、機械じゃない。人の呼吸と、感情と、覚悟に“反応する生き物”だ。……だからこそ、“乗せられるだけの奴”には絶対に懐かない」

 

ちゆりは黙って、画面に視線を戻した。

 

そこには、ほんの一瞬、マシンと人間が“溶け合うように走る”姿が映っていた。

 

「……ほんとに、めんどくせぇマシンだよな」

 

「だから愛おしい」

 

「……言うと思ったぜ」

 

 

そのとき、夢美はふとポケットに手を入れ、古びた紙の束を指先で確かめる。

 

そこには、かつて“彼女”が残したノートがあった。

 

読み返すことは、まだしない。

 

けれど、その重みだけは――忘れていない。

 

「次、Right 4 long、出口少し膨らむ。雪の縁注意!」

 

「了解、R4……!」

 

軽くスカンと抜けるような右への旋回。

ロングコーナーの途中、車体が浮き気味になり、少しずつラインが外に膨らんでいく。

 

「……ちょっとラインが……!」

 

「うん、わかってる……!」

 

無意識に右足に力がこもる。

スロットルを少し抜いて、リアを沈める――はずだった。

 

だけどそのとき、私はほんの少し、手を早く動かしすぎた。

 

「っ……!」

 

ステアリングがわずかに切りすぎる。

 

デルタS4が、一瞬だけ“牙を剥いた”。

 

スロットルが空転し、リアが左右にスリップ。

雪を巻き上げ、車体が暴れ出す。

 

「まずい! メリー、抑えて!!」

 

「くっ……!」

 

脳が、沸騰する。

 

早く、抑えなきゃ。

でも、抑えようとするほど、反発が強くなる。

 

この車は、ただでさえ“暴れ馬”だ。

そこに“焦り”を伝えた瞬間、すべてを拒絶する。

 

「――ちがう」

 

私はブレーキを抜いた。

 

カウンターを早めに当てるのをやめた。

 

暴れたデルタの挙動を、否定しない。

 

そのかわり、あえて“崩れたライン”を受け入れて――

 

「流れたまま、抜ける……っ!」

 

アクセルをほんのわずかに開ける。

 

雪を削りながら、リアが滑る。

でも、今度はその滑りが“止まらずに前へ”繋がった。

 

「行けた……!」

 

「……は?」

 

蓮子の声が間抜けに裏返った。

 

「メリー、今の……滑ってたのに、なんで踏めたの……?」

 

「……たぶん、踏んじゃいけないタイミングじゃなかったんだと思う」

 

「いや理屈じゃなくて……いやもう理屈超えてたよ!? 何あれ、祈ったの!?」

 

「違う。“委ねた”だけ」

 

「もっとやばいよそれ!!」

 

ふたりで笑う。

笑うけれど、汗は止まらない。

 

“紙一重のバランス”。

 

それでも私は、あの瞬間――

たしかに“デルタS4と一緒に走った”気がしていた。

 

ガレージに戻ってきたとき、デルタS4のボディは雪と泥でまだら模様になっていた。

 

冷却ファンの音が落ち着いていく。

エンジンを止めたあとの静寂が、逆に心音を際立たせる。

 

「……降りるね」

 

「うん。お疲れ」

 

蓮子が助手席から出て、私の方を振り返る。

 

「……今日のメリー、すごかったよ」

 

「そっちこそ。ノート、だんだん“話しかけてくれてる”気がした」

 

私たちは笑い合った。

 

でも、心の中では――もっと強い確信が芽生えていた。

 

私は、デルタS4のルーフにそっと手を置いた。

 

「……ねぇ、蓮子」

 

「ん?」

 

「この車と一緒に、WRCを走りたいって……今、心から思った」

 

蓮子の目が、驚きと、喜びと、少しの不安で揺れる。

 

「……うん。私も、ちょっとずつだけど、そう思えてきたよ」

 

それは、まだ“信頼”とは呼べないかもしれない。

けれど、走るたびに近づいていく。

 

この車が“私たちの相棒”になる日が、きっと来る。

 

 

「――ほう。ならば、ちょうどいい」

 

不意に背後から声がして、ふたりは同時に振り返った。

 

そこにいたのは、岡崎夢美。

 

いつもの無表情。いつものポケットイン。

 

でもその手にあったのは、見慣れない封筒だった。

 

「正式な通知が届いた。君たちは――WRC-Hの第1期正規エントリーチームに認定された」

 

「えっ」

 

「……それって、つまり……!」

 

「そうだ。初戦“モンテカルロ・ラリー”から、君たちは公式に世界戦へ出場する」

 

しばしの沈黙。

そして、私は小さく息を吐いた。

 

「……来たね、ついに」

 

「……うわあ。……うわあ……」

 

蓮子はその場で座り込み、地面に頭を抱えた。

 

「いやいや、ちょっと待って。初戦からモンテカルロって、え、嘘でしょ? いきなり山岳ステージ、雪と氷と崖しかないとこでしょ……? ええええ!?」

 

「……そういう反応、嫌いじゃない」

 

夢美がわずかに笑ったように見えたのは、気のせいじゃない。

 

「……ったく、言っとくけどなぁ、S4ってのは“簡単に仕上がる車”じゃねえんだぜ」

 

ちゆりのぼやきが、ガレージの奥に響いていた。

 

手にはグリスまみれのツール、額には汗。

それでもその動きに迷いはない。

 

「ちゆりさん、大丈夫ですか……? もう半日ノンストップですよ……」

 

蓮子が申し訳なさそうに声をかける。

 

「ノンストップ? 笑わせんな。あたしはこの2日、合計3時間しか寝てねぇよ」

 

「うわぁ……ブラックだ……」

 

「ブラックどころか、カーボンブラック並みに真っ黒だぜ。だけどよ」

 

ちゆりは工具を置いて、ボディの下に潜り込んだ。

 

「こいつが“レースに出る”ってんなら、こっちも手を抜く気はねぇ。走らせる以上は、ちゃんと走れるようにしねぇと」

 

ブレーキキャリパーのピストン点検。

オイルラインの漏れ確認。

ECUからのログと照合し、噛み合わない数値があれば即再検査。

 

「こちとら、お前らが“全開で走っていいように”準備してるんだ。ちゃんと応えてくれよ、な?」

 

ボディに語りかけるようにして、ちゆりは最後のトルクチェックを済ませる。

 

 

「整備完了だ。……あとはお前ら次第だぜ」

 

デルタS4のエンジンフードを閉じながら、ちゆりが言った。

 

「ちゆりさん……ありがとう」

 

「礼はいい。勝ったら寿司奢れ」

 

「それは……夢美教授の経費で……」

 

「ナイス! それ採用!」

 

「おい、聞こえてるぞ」

 

夢美の冷たい声が背後から飛ぶ。

 

それでも、ふたりは笑った。

 

 

WRC-H初戦、モンテカルロまであとわずか。

 

デルタS4は、すでに戦う準備を整えていた。

 

“獣”は牙を研ぎ澄まし、

“乗り手”はそれに応える覚悟を定め、

“整備士”は命を預けるに足る仕事を終えた。

 

――あとは、走るだけだ。

 

夜の整備棟は静かだった。

 

明日からは、WRC-Hに向けた本格的な搬出準備が始まる。

でも今夜だけは、ほんの少しだけ、時間が止まったような気がした。

 

私は、隅のベンチに座ってノートを開いていた。

 

ペンの先が、紙の上で止まる。

 

「……違うな」

 

昨日と今日の走りの記録、マシンの挙動、メリーの反応。

どれを取っても“明らかに手応えがあった”のに、記号に落とし込むと、それがどこか薄っぺらに感じる。

 

「……菫子さんのノートは、すごかった」

 

私は素直にそう思う。

 

記号も指示も簡潔で、でも情報がぎゅっと詰まっていて、正確で、速い。

でも――

 

「私が書くと、なんか全部“違う”んだよなぁ」

 

思わず笑ってしまう。

けれどそれは、諦めではない。

 

ノートの片隅に書いた、“自分の言葉”たち。

「ここは一歩我慢してから飛べる」「少し滑らせて軸で止める」

 

そんな曖昧な、だけど確かな“記憶”が宿っている言葉たちの方が、よっぽどメリーの運転に馴染んでいた。

 

「……言葉を教えるんじゃない。相手の言葉に寄り添うんだって、教授も言ってたっけ」

 

そう、“翻訳”ではなく“共鳴”。

 

私はメリーの走りを、まだ完全には理解していない。

でも、共に走るうちに、少しずつ“読めるようになってきた”。

 

「だから……これでいい」

 

私はペンを走らせた。

 

記号の横に、“意味”を書く。

数字の裏に、“意図”を書く。

 

走るのはメリー。

私は、それを最大限“解きほぐす役目”だ。

 

かつての誰でもない、“宇佐見蓮子の言葉”で。

 

陽が昇る前のガレージは、息が白くなるほど冷え込んでいた。

 

雪は昨夜のうちに再び積もり、ターマックは薄氷に覆われている。

それでも私たちは、迷わずそこにいた。

 

「……最終チェックだ。今日が、この環境で走れる最後の機会だ」

 

夢美の声は、いつもより低く、静かだった。

 

ちゆりは両手に抱えたツールボックスを床に置き、ひとつ息を吐いた。

 

「マシンは問題なし。ショックも、冷間時の挙動も修正済み。準備は万端だぜ」

 

「ありがとう、ちゆりさん。……ほんと、ずっと支えてくれてたんですね」

 

「感謝はいい。結果で返せ。勝たなきゃ意味ねぇんだ、レースは」

 

その言葉に、メリーも頷く。

 

「うん。……この子と一緒に、ちゃんと走るよ。今度こそ、“私たちの走り”で」

 

私は、その横でノートを持ち上げた。

 

「昨日までとは、少し違う読み方になるかも。でも、それが“私の言葉”だから」

 

夢美が、そのやりとりを見ていた。

 

そして――ゆっくりと、口を開く。

 

「……ならば、今日からお前たちは“チーム”だ」

 

「え?」

 

「メリー、蓮子。ふたりはドライバーとコ・ドライバー。

ちゆりは整備とサポート。私は監督――いや、“預言者”のようなもんだ」

 

一瞬の静寂。

 

「……ってことは、4人で“チーム”?」

 

蓮子が確認するように尋ねる。

 

夢美は、ゆっくりと頷いた。

 

「そうだ。“Monte Carlo Mally”は、ここに完成した。世界に挑むなら、これが我々の核となる」

 

静かな誓いのように、その言葉が空気に沁み込んでいく。

 

冬の朝のガレージで、ついに私たちは――

“ただの走り手”から、“戦う者たち”へと変わった。

 

デルタS4が、出走ラインの前で静かに息を潜めていた。

 

エンジンはまだかかっていない。

車体の下には、霜の膜がうっすらと広がり、空気は張りつめている。

 

「……行けそう?」

 

助手席側のドアを開けながら、ちゆりが尋ねてきた。

 

「うん。今は……大丈夫。怖くない」

 

メリーが静かに答える。

 

その言葉には、嘘も強がりもなかった。

 

隣で私も、ノートを胸に抱えながら頷く。

 

「うん。今日は、“三人”で走るから」

 

「三人?」

 

ちゆりが首をかしげる。

 

私とメリーは顔を見合わせ、微笑んだ。

 

「私たちふたりだけじゃないよ。……この子も一緒に走ってる」

 

メリーがそう言って、そっとデルタS4のルーフを叩いた。

 

その一拍の間のあと――

 

「……あー、そっちの“子”か。びっくりした。“教授も入れて三人”かと思ったぜ」

 

「おい」

 

背後で夢美の声が冷たく返ってきて、ちゆりが肩をすくめる。

 

「冗談だって。なあ教授、そろそろ見送りのキスとか――」

 

「整備担当、口を閉じろ」

 

「はーい」

 

メリーが笑いをこらえている。

 

私もつられて、小さく息を吐いた。

 

「じゃあ、行こうか」

 

「うん」

 

ドアが閉まる。

コックピットの中に、静けさが戻る。

 

エンジンスタート。

咆哮と振動が、朝の空気を切り裂いた。

 

ノートを開く。

私は、昨日までと少しだけ違う言葉を、メリーに伝える。

 

“走りの記憶”が、“言葉”になっていく瞬間。

 

――最終試走、開始。

 

「Right 5 minus……その先、軽く浮く。ライン残して」

 

「了解……踏み直して抜ける!」

 

コーナー進入。

ブレーキは浅く。ステアはじわりと。

雪面の下に潜むグリップを感じながら、車体が吸い付くように旋回する。

 

軽く浮いたタイヤが、次の瞬間に着地。

衝撃が来る――でも、揺れない。

 

リアのショックが、まるで意思を持ったように沈み、跳ね返しを殺した。

 

「今の、完璧……!」

 

「このまま行くよ、次R3!」

 

「準備してる……!」

 

ふたりの声が重なり、走りが重なる。

デルタS4の挙動が“予測”ではなく“共鳴”に変わっていく。

 

ステアの角度、踏み込みの深さ、減速のタイミング。

すべてが“ぴったり”と噛み合っていた。

 

「ねえ、蓮子」

 

「なに?」

 

「いま、ほんとに“会話してる”気がする。この車と」

 

「うん……なんか、喋ってる。言葉じゃないけど、聞こえる」

 

アクセルを少し抜いて、次のコーナーに備える。

 

滑るかどうかじゃない。

滑っても、“それが答え”になる感覚。

 

私たちは、ようやくこの獣と同じ言語を喋り始めたのかもしれない。

 

 

「……見たか、今のライン」

 

監視モニターの前で、ちゆりが思わず声を漏らす。

 

「トラクションの入り、ブレーキの抜き、すべてが車体のロールと合ってた。……理屈じゃねぇ、“生きてる”ラインだ」

 

隣で夢美も、目を細めていた。

 

「……ようやく、この車が“歩み寄った”な」

 

「やっぱ、あの子たちが正解だったんだな」

 

「そうかもしれん。だが――」

 

そこまで言いかけて、夢美は口をつぐんだ。

 

目の奥にあるのは、懐かしさ。

それと、わずかな“焦燥”。

 

あのとき自分たちが辿り着けなかった“言葉の領域”に、

いま、この若きコンビが指先をかけようとしている。

 

「Left 4、出口絞る。雪の壁、内側注意!」

 

「了解、我慢して……いま!」

 

滑り出す寸前のラインをトレースする。

 

アクセルは微開。

雪を蹴りながら、リアをわずかに滑らせて旋回。

 

「抜けた!」

 

「速い! このままもう一段……!」

 

流れに乗ったまま、次のR3にアプローチしようとしたそのとき――

 

「っ……あれ?」

 

「え?」

 

わずかに、車体が“重く”感じた。

 

踏み込んだはずのアクセルが、ほんの一瞬“遅れて”返ってくる。

 

「今、反応……?」

 

「鈍った?」

 

違和感は、ほんのコンマ数秒。

けれど、それは明らかに“昨日までにはなかった感覚”だった。

 

次のターンで再びアクセルを踏む。

応答はある。でも、微かに“引っかかる”。

 

「メリー、マシンのフィーリング、変わった?」

 

「うん……リアの反応が、少し鈍い。気のせいかと思ったけど……」

 

不安が、ふたりの間を走った。

 

だが、それでも走行は止まらない。

 

「このまま、もう少しだけ様子見る」

 

「了解……慎重にね」

 

 

「……出たな」

 

ちゆりの目が鋭くなる。

 

「夢美さん、今の挙動、見たか?」

 

「見た。“迷い”が出ている。……マシンのほうが」

 

「やっぱ、あのショックか? 昨日の雪壁ヒット……あるいは、それ以外の要因か」

 

夢美は一瞬だけ黙り、そして言った。

 

「“懐く”とは、“完全に手懐ける”ことじゃない。信頼とは、“裏切られる可能性ごと抱える”ことだ」

 

「……それって」

 

「今、あの子たちは“信じる”という選択を試されているんだ」

 

 

車体はまだ走っていた。

けれど、その奥にある“何か”が、音もなく揺らいでいた。

 

デルタS4が完全に懐いた――そう思っていた。

 

でも、もしかしたら――

 

「……この子、まだ“迷ってる”のかも」

 

メリーの呟きに、蓮子は強くノートを握りしめた。

 

「だったら、“答え”を見せてあげなきゃだよね」

 

「うん。“私たちは、逃げない”って」

 

走行を終え、ガレージへと戻ってきたデルタS4は、

まるで何かを“考え込んでいる”かのように、静かにアイドリングを刻んでいた。

 

私はハーネスを外し、無言でルーフに手を置く。

 

その金属の冷たさは、もう驚きではない。

むしろ、どこか“懐かしい感触”すらあった。

 

「……ちょっとだけ、分かってきた気がするよ」

 

蓮子が助手席から降りながら言う。

 

「この子は、懐いたんじゃない。試してるんだ。“私たちを”」

 

「うん。私たちが、どう向き合うのか。何を諦めて、何を選ぶのか」

 

デルタS4は、何も語らない。

けれど、その挙動のひとつひとつが、私たちに問いを投げかけてくる。

 

“お前たちは、本当に私を乗りこなすつもりがあるのか?”

 

“私と走る覚悟があるのか?”

 

私は、その問いに――小さく頷いた。

 

「あるよ。私たちには、覚悟がある」

 

 

整備ヤードに戻ったちゆりが、ブレーキの温度を確認しながらぼやいた。

 

「……ったく、最後の最後で不安要素出してくれるなんて、ほんと手のかかる子だぜ」

 

それでも、その口調に棘はなかった。

 

「ちゆり」

 

夢美の声が静かに響いた。

 

「マシンの状態は?」

 

「異常なし。ショックの作動タイミングも正常範囲。あとは、“本人”の気分次第ってとこだな」

 

夢美は一度だけ頷いた。

 

「ふたりに伝えろ。“迷いごと走り切れ”と」

 

「……了解」

 

 

その夜。

ガレージに車を残し、私たちは全員で整備棟の仮設ベンチに腰掛けていた。

 

ストーブの熱が緩やかに漂う中、湯気の立つカップをそれぞれの手に持つ。

 

「ねえ、教授」

 

蓮子がぽつりと問いかけた。

 

「WRC-Hって、怖くないですか?」

 

夢美はカップの縁を見つめながら言う。

 

「怖いに決まっている。命をかけて戦う以上、軽く考えた瞬間に喰われる」

 

「……でも、それでも出るんですね」

 

「それでも、“走りたい”なら、行くしかない」

 

夢美のその声には、確かに“過去の誰か”が宿っていた。

 

ちゆりが腕を組んで笑う。

 

「それでこそラリー。こっから先は、全員で地獄を見に行くんだ」

 

「それでも……いいよ。走れるなら」

 

メリーの声は、凛としていた。

 

私は頷く。

 

「……行こう。私たちの戦いは、まだ始まったばかりなんだから」

 




舞台はドイツ・バイエルン州。
深い森に囲まれた雪のテストコースを、白い影が駆け抜ける。

トヨタ・222D。
かつてWRCの表舞台に立つことなく終わった、幻のマシン。

そのハンドルを握るのは、篠原澪――
かつて岡崎夢美に教えを受けた“静かなる才能”。

コ・ドライバーはエレナ・シュタルク。
地元ドイツ育ちの情熱家であり、澪を導く唯一の声。

「君の走りは、まだ眠ってる」

「……私の走りは、先生の借り物じゃない」

WRC-H参戦を前に、彼女たちは“幻のマシン”との対話を試みていた。
それは、ただ速さを求めることではない。

機械に宿る記憶と、言葉にならない“誰かの走り”の残響。
語られざる因縁が、ふたりの間に静かに降り積もっていく。

一方、彼女たちの影を追う者がひとり――

「エレナのノートの癖……あれは、あの女の教えか」

かつてWRCを去った者が、再び目を開く。

今はまだ、誰も知らない。
この222Dが、いずれモンテカルロで“宿命”と交差することを。

――Monte Carlo Mally LEG5『交差する影、重なる声』
雪に沈む轍は、やがて未来を照らす道となる。
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