Monte Carlo Mally   作:Yaris Margatroid

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LEG6「搭乗、そして異国の空へ」

午前4時。

整備棟の空気は、まだ夜の名残を引きずっていた。

 

床の照明だけがぼんやりと灯るガレージで、メリーはデルタS4の前に立っていた。

 

ボディカバーは外されていた。

まるで、この車も“出発の準備”を終えたかのように、ただ静かにそこにいた。

 

「……いよいよだね」

 

呟きに返事はない。

けれど、メリーの手がリアフェンダーを撫でると、冷たい金属が確かに応えていた。

 

「デルタ、あんたと一緒に……モンテカルロに行くよ」

 

 

「荷物、これで全部?」

 

「……多分。工具、ノート、スペア、アンダーガード、あと……ラッキーお守りの鈴」

 

「最後の、それ絶対いらないやつ」

 

蓮子は眉をひそめつつも、ふたりで詰めた大型スーツケースのジッパーを閉めた。

 

「出発前なのに、もう疲れたよ……」

 

「言ったでしょ、ラリーは“走る前が一番過酷”なんだから」

 

「名言にしないで」

 

ガレージの隅では、北白河ちゆりが工具箱をトラックに積み込みながら叫んでいた。

 

「オイ! 誰かこのクソ重いタイヤ積むの手伝え! あと申告書類! トルクレンチは私物だ! 誰か盗んだら殺す!」

 

「ちゆりさんのテンション、最高だね……」

 

「だね……帰国する頃には、地元の整備士に就職してそう」

 

笑いながら、ふたりはデルタS4を見た。

 

この“獣”と共に、彼女たちはいま、世界へと旅立とうとしている。

 

次の一歩は、もう――国境の向こうだ。

 

成田空港・カーゴエリア第7区画。

早朝の通関ラインには、まだ霜が残っていた。

 

大型コンテナが並ぶなか、メリーたちのデルタS4はフレームごと持ち上げられ、慎重に分解・梱包が進んでいた。

 

「リアのブレーキライン、もう一度確認! フューエルラインの圧、再チェック入れて!」

 

ちゆりの怒号が響く。

 

「はいっ! もう一回見ます!」

 

現地協力の整備スタッフが走る。

マシンの一部は既にクレートに収められ、残るのはコクピット部と足回り、そして管制用データユニット。

 

「……なんかさ、私たちの車だけ、異様に厳しくない?」

 

蓮子が呟いた。

 

「うん。私も感じてた。周囲の目線が……普通じゃない」

 

隣のコンテナ群には、モンテカルロ行きのWRC-Hマシンが数台、すでに積み込みを終えて並んでいる。

が――デルタS4の周囲だけ、やけに警備が多かった。

 

「聞こえてるぞ。――その通りだ」

 

低い声が背後から響いた。

 

振り向くと、スーツ姿の男が立っていた。

FIAのセキュリティ担当。IDタグには「L.HASEGAWA」の文字。

 

「君たちのマシンは、我々が“監視対象”に指定している」

 

「……は?」

 

メリーの表情が硬直する。

 

「監視って、なにを……?」

 

「グループB由来の車両、それも“実戦未使用かつ独自改修あり”の個体は、現代基準においてハイリスク。

とくに君たちのデルタS4は、“ある件”に関連して――上層部から特別扱いされている」

 

蓮子が顔をしかめる。

 

「“ある件”って、まさか教授が過去に……」

 

「コメントは差し控える。だが我々は君たちを“疑っている”わけではない。“見届ける”必要があると判断しているだけだ」

 

その言葉に、メリーは一瞬だけ口を引き結んだが、やがて静かに言った。

 

「……分かりました。でも、必要以上の干渉はしないでください」

 

「そのつもりだ。無事を祈る。Good luck」

 

男はそれだけ告げて背を向けた。

 

デルタS4が封印され、コンテナがゆっくりと閉じられていく。

 

その瞬間――

 

「メリー」

 

「なに?」

 

「この車は、誰にも“盗ませない”って、決めたでしょ。……FIAだろうが、過去だろうが、関係ない」

 

「……うん。行こう、“私たちのラリー”へ」

 

午前9時20分、成田発パリ・シャルル・ド・ゴール行き。

モンテカルロへの直行便はない。すべての始まりは、ここから乗り継いで始まる。

 

メリーと蓮子は並んでエコノミーの窓際に座っていた。

飛行機は滑走路を進み、徐々に機体が前傾姿勢をとっていく。

 

「……行くんだね、本当に」

 

窓の外を見ながら、メリーがぽつりと言った。

 

「うん。昨日までの空気とは全然違う。いま、私たちは世界に踏み出すんだって、身体が言ってる」

 

「不安とか……ある?」

 

「不安しかない。でも、“やめたい”とは思わない。不思議だよね」

 

蓮子はそれに頷いた。

 

「そりゃそうだよ。ここまで来て“やめる”って選択肢は、最初からないもの」

 

ふたりの声は、エンジン音に紛れて小さくなる。

 

目を閉じれば、昨日までの整備棟の匂い、デルタS4の金属音、ペースノートの紙をめくる音が、まだ耳に残っている。

 

「……蓮子」

 

「なに?」

 

「本番が近づいてくると、逆に“あの子のこと”ばっかり考えちゃう」

 

「あの子?」

 

「……デルタ。あの子と一緒に、ちゃんと走れるかなって」

 

蓮子は、メリーの手の甲にそっと自分の手を重ねた。

 

「私が信じてるのは、デルタでも、教授でもなくて――メリーだから」

 

「……ありがとう」

 

 

同じころ、日本。

整備棟の裏側では、岡崎夢美がひとつの“出国書類”に署名をしていた。

 

内容は、ある輸送機のチャーター申請。

対象となる貨物――

 

【対象車両:旧式WRCグループBラリーカー、ランチア・デルタS4(旧事故車体)】

 

横に添えられた欄に、記載されていた名前。

 

『予備機体・影:No.2 “Ritorno(リトルノ)”』

 

夢美は署名後、書類を静かに閉じた。

 

「……念のため、な」

 

それは誰に向けた言葉でもなかった。

 

けれど、“何か”が起きたときのための――

夢美なりの、最終手段だった。

 

シャルル・ド・ゴール経由、ニース・コート・ダジュール空港。

 

地中海の陽光が窓を照らし、遠くには赤茶けた山脈、そして白い建物が密集する海岸線――

その奥に、モンテカルロの街が霞んでいた。

 

飛行機の窓からそれを見下ろして、蓮子が思わず呟く。

 

「……ついに来たわね。モナコ」

 

「まだフランスだよ、ここ」

 

「夢を見させなさいよ、もう少しだけ」

 

荷物受取を終え、税関を抜けて出口へ向かうと――

そこに、見慣れたシルエットが立っていた。

 

白衣の裾をコートの下から覗かせ、両手をポケットに突っ込んだまま、じっとこちらを見ている。

 

「……教授」

 

「迎えが必要だと思ってな。予定を前倒ししてこっちに来ていた」

 

淡々とした口調。

でも、ほんの一瞬だけ目が細められたのを、メリーは見逃さなかった。

 

「わざわざ空港までって、意外ですね。夢美教授がこんなサービス精神旺盛だったなんて」

 

「車の通関手続きに立ち会う必要があった。ついでだ」

 

「ついでかー……」

 

「文句があるなら、今すぐ帰国してもいいぞ」

 

「ないです、ないです!」

 

蓮子が慌てて手を振る。

 

「ちなみに、デルタの輸送は?」

 

「すでにモンテカルロのサービスパーク入りしている。午後には確認できるはずだ」

 

教授の目は、あくまで冷静だった。

 

「まずはホテルに案内する。宿泊はエルミタージュ。FIAが用意した部屋だ」

 

「さすが公式枠……」

 

メリーは言いながらも、気を引き締めるように息を吸った。

 

(やっと、来たんだ。ここが“世界の入口”なんだ)

 

夢見てきた道。けれど、それは“遊び”ではない。

デルタS4と共に挑む、“真剣勝負の始まり”。

 

「蓮子、気合い入れてくよ。……この街で、私たちは走るんだから」

 

「もちろん。勝ちに行くよ、最初から」

 

モンテカルロ市街地からほど近い、臨時設営されたサービスパーク。

地中海沿いの広場には、世界中から集められた“獣たち”が整然と並び、静かに牙を研いでいた。

 

パークのゲートを抜けた瞬間、メリーの足が止まる。

 

「……これが、世界のサービスパーク……」

 

金属とオイルと潮風の混ざった空気が肌に触れ、鼓動がひとつ速くなる。

 

そして、その中央に――

 

「デルタ……!」

 

銀とグレーに彩られた鋭角の車体、ランチア・デルタS4。

その姿は、どこか“生きている”ようだった。

 

「触るな。まだ最終チェック中だ」

 

後ろから淡々と告げたのは岡崎夢美。

タブレット片手に点検表を確認しながら、表情ひとつ変えない。

 

「教授って、こういうときだけ本当に職人肌出ますよね……」

 

「君たちが扱うのは、ただの車じゃない。“制御できなければ死ぬ”可能性のある戦闘機だ。甘えるな」

 

「はいはい、分かってますって……」

 

蓮子は笑いつつも、整備区画に目を移す。

 

「で、教授。これが今回の出場マシン、全部?」

 

「ああ。今回のWRC-Hヒストリカル部門、モンテカルロ戦には6台が参戦する。君たちのデルタS4を含めてな」

 

夢美は手短に指を差しながら、簡潔に説明していく。

 

「まずあれ。黄色と白の巨体――アウディ・クワトロ S1 E2。

電子制御のない時代に、四輪駆動の暴力を最初に叩きつけた化け物だ。トラクション性能とパワーは群を抜く」

 

「うわ、なんか全身に羽根ついてるみたいなウイング……」

 

「次に、あのスリムな白赤。ランチア・037 ラリー。

唯一の後輪駆動マシン。いまだにRWDを貫く“美学の化身”だ」

 

「RWDでこのコース走るの? すご……」

 

「そっちのボックス型、白と青のやつはシトロエン・BX 4TC。

元は失敗作だが、現代の補強で別物に進化してる。重量配分は最悪だが、うまく使えば武器になる」

 

「うーん、見た目からして癖強そう……」

 

「そして、そこの短いのがMG メトロ 6R4。V6ミッド、自然吸気。グループBでも異端だったが、今なら十分通用する」

 

「小さくて……でも怒ったら速そうな雰囲気あるね」

 

「そして、最後。あの白いマシン……トヨタ・222Dだ」

 

「トヨタ……? 見たことない。市販車ベース?」

 

「市販すらされなかった。“幻のマシン”と呼ばれている。トヨタがグループBに投入するはずだったプロトタイプだ」

 

メリーと蓮子が、遠巻きにその車体を見る。

 

流麗なミッドシップボディ。冷却用の巨大なダクト。

不気味なほど無音で佇む姿は、どこかデルタとは対照的だった。

 

「なんか……近づきにくい雰囲気だね」

 

「乗ってる人たち、どんな連中なんだろ」

 

「さあな。私も詳しくは聞いていない」

 

夢美の口調はそっけなかった。

だが、内心では――そのマシンの後方に立つ“ふたりの影”を、はっきりと思い浮かべていた。

 

(お前たちも、来たか。澪、エレナ――)

 

だが今、そのことを口にするつもりはなかった。

 

 

デルタS4のボンネットを見つめながら、メリーがひとこと呟く。

 

「……ここで、戦うんだね」

 

「うん。私たちの最初の“戦場”だ」

 

そしてこの街で、彼女たちは“亡霊”と“今”を重ねることになる。

それはまだ、誰にも知られていない。

 

「Left 3 minus, 80……Right 4, crest,注意」

 

蓮子の読み上げが、インカム越しに滑らかに届く。

 

メリーはその声に呼応しながら、慎重にアクセルを抜いた。

乾いたターマックの表面はまだところどころ霜が残り、挙動は不安定だ。

 

「この区間、見た目より浮く。ギャップ深い」

 

「うん、しかも路肩の雪が強い。ライン外したら一発で滑るよ」

 

息をひとつ整えて、ステアリングに集中を戻す。

 

デルタS4のクイックすぎる操舵感は、油断を許さない。

それでも、少しずつ“通じる感触”が指先に戻ってきている。

 

「次、R3……その先、クレスト」

 

「了解」

 

ブレーキを残しながらターンイン。

ハンドルを切り込んだその瞬間、前方に不意な“黒い影”が現れた。

 

「っ……!」

 

蓮子の声が跳ねる。

 

雪を巻き上げながら、峠の向こうから現れたのは――

漆黒のボディを纏った、異様なフォルムのラリーカー。

 

「……トヨタ……?」

 

「222D……なの、かな」

 

低く、鋭く、地を這うようなシルエット。

スリットだらけのサイドインテーク、ナローなヘッドライト。

一瞬のすれ違い――けれど、その“音”ははっきりと残った。

 

ドロゥ……という低く伸びる排気音。

それは、アルピーヌともデルタとも違う。

まるで“眠れる怪物”が喉を鳴らしたかのようだった。

 

「……あれが、222D?」

 

「確証はないけど……雰囲気、すごかったね」

 

メリーは黙ったままミラーを見やる。

すでに黒いマシンは遠ざかり、雪煙の向こうに消えていた。

 

けれど、その余韻だけは確かに車内に残っていた。

 

「……なんか、戦う前から気圧された気分」

 

「同感。姿は見えなくなったけど……“牙の音”は聞こえた気がする」

 

デルタS4がわずかに軋む。

それはまるで、“お前たちだけじゃないぞ”と告げるように。

 

サービスパークに戻った頃には、陽が傾き始めていた。

パドックに佇むデルタS4の影が、徐々に長く伸びていく。

 

エンジンを切り、ヘルメットを外したメリーが、汗を拭いながら呟いた。

 

「……あの黒い車。やっぱり、気になる」

 

「ね。あんなの、見たことない」

 

ふたりはそのまま、休憩エリアに向かう。

 

そこには既に、タブレット片手にチェックリストを睨む夢美の姿があった。

あいかわらず表情は硬く、だがその目は、デルタ以上にすべてを見通しているかのようだった。

 

「教授。今日の試走で……黒いマシンとすれ違いました。たぶん、222Dって呼ばれてたやつ」

 

夢美の手が、一瞬だけ止まる。

 

「ほう。目の前で?」

 

「はい。向こうも走ってたみたいで……本番の試走なんですか?」

 

夢美は手元のデータを閉じると、ふたりに向き直った。

 

「トヨタ・222D。グループB時代、投入寸前でプロジェクトが潰れた幻の車だ。

市販ベースではなく、完全な競技専用設計。しかも、今走っているのは“再現”ではなく“実機の延長線上”だ」

 

「実機……ってことは、当時の個体そのもの?」

 

「改修と補強が入っているが、骨格はそうだと聞いている」

 

蓮子が目を丸くする。

 

「じゃあ、今の私たちと同じじゃないですか。……亡霊を連れてるって意味で」

 

夢美はそれには応えず、少しだけ視線を逸らした。

 

「相手のことを探りすぎるな。走る前に相手に呑まれる奴は、戦場じゃ負ける」

 

「……なるほど。警告ってことですね」

 

「違う。“忠告”だ」

 

淡々と告げたあと、夢美は足元のツールバッグに手を伸ばす。

 

「お前たちは、お前たちの走りをすることだ。デルタと共に、な」

 

メリーと蓮子は、その背中を黙って見送った。

 

けれど、その胸の中には残っていた。

黒いマシンの“咆哮”。

そして、教授の――あの一瞬の“言葉にできない沈黙”。

 

(知っている。けれど、言わない)

 

(……なにを隠してるんだろう)

 

夜のモンテカルロ。

港沿いのサービスパークには、冷たい潮風と混じって、工具の音だけが静かに響いていた。

 

ちゆりは一人、ヘッドライトの下でデルタS4の下回りをチェックしていた。

汗とオイルで袖を黒く染めながら、ブレーキラインを辿っていく。

 

「……S4ってやつは、ほんと気難しいぜ……」

 

そこへ、蓮子がペースノートを抱えてやって来た。

 

「ちゆりさん、なにか問題あった?」

 

「特に異常はねぇけど、ちょっとリアダンパーの戻りが重い。明日もう少し寝かせたほうがいいかもな」

 

「うん、ありがとう。私もノート、少し手直ししてて……」

 

そう言いながらページを開くと、蓮子の指がピタリと止まった。

 

「……ん?」

 

ノートの余白。

R3とL2の間、明らかに“書いた覚えのない一文”がある。

 

《迷うな。デルタの声は、お前の声に似ている》

 

筆跡は、蓮子自身のものに見えた。

だが、彼女の記憶には“その言葉”を記した覚えがなかった。

 

「……ちゆりさん、これ……」

 

「なに、誤字でも見つけたか?」

 

「いや、違う……これ、私……書いたっけ……?」

 

その文字列を前に、蓮子はしばらく沈黙する。

 

不意に、ペンを持つ手が少しだけ震えた。

 

(こんな言葉、私――)

 

ちゆりは工具を置いて立ち上がると、ぼそりと言った。

 

「……たまにあるんだよな。走る前になると、見たはずのない言葉とか、聞こえた気がする音が“ノートに残ってる”こと」

 

「……それって、なに?」

 

「さあな。ただ……走りに“声”があるなら、それを拾うのがナビの仕事だろ?」

 

その言葉に、蓮子は視線をノートに戻す。

 

静かなページの上で、その一文だけがやけに浮かび上がって見えた。

 

《デルタの声は、お前の声に似ている》

 

ホテル・エルミタージュ、7階のテラス。

 

眼下に広がる夜のモンテカルロは、静けさと灯りに包まれていた。

港にはクルーザーが浮かび、丘の上にはかすかにカジノの灯が揺れている。

 

鉄柵にもたれながら、メリーが缶コーヒーを口にした。

 

「明日から、本番だよ」

 

「うん。怖い?」

 

「ちょっとね。……でも、それ以上に、走りたい」

 

隣で蓮子も頷いた。

 

「私も。ここまで来て、“怖い”だけで止まるつもりなんてないし」

 

しばし、ふたりは並んで黙ったまま、港の明かりを見つめていた。

 

メリーが、ぽつりと呟く。

 

「ねえ、蓮子。教授って、何か隠してるよね」

 

「……黒いマシンのこと?」

 

「うん。たぶん、知ってる。あの車の正体も、乗ってる人のことも」

 

蓮子はわずかに目を細める。

 

「でも、“知らないふり”をするってことは――まだ言えない理由があるんだと思う」

 

「それでも、聞きたいよ。……教授が何を見てて、私たちに何を託そうとしてるのか」

 

「うん。けど、たぶんそれは……このレースが終わった後じゃないと、言ってくれない」

 

ふたりの間に、ふと冷たい風が吹き抜ける。

 

それでも――この夜だけは、肩を寄せ合う温度があった。

 

「ねぇ、蓮子」

 

「ん?」

 

「私さ、昔はただのドライバーだった。技術で勝って、数字で上に行けばいいと思ってた」

 

「うん、知ってるよ」

 

「でも、今は違う。……蓮子が隣にいてくれて、教授が背中押してくれて、ちゆりが黙ってマシン仕上げてくれて――それで初めて、怖さに勝てる気がしてる」

 

蓮子は、ふっと笑った。

 

「そういうこと言うと、いざって時に泣かせたくなるじゃん」

 

「やめてよ、集中切れるから」

 

「……じゃあ、泣くのは最後にして」

 

ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑い合った。

 

モンテカルロの夜は深まりつつあった。

けれど、その深さの中で――ふたりの心は、着実に“ひとつの答え”へと向かっていた。

 

朝8時。

サービスパークは、公式車検を受けるマシンたちの搬入で慌ただしく動き出していた。

 

デルタS4は、既にちゆりと現地スタッフの手で所定位置へと移動されており、タイヤ、灯火類、ロールケージの検査が始まっている。

 

「ホーン、作動良し。消火装置、作動確認……OK。次、重量計測」

 

淡々と進められる検査を見守りながら、メリーは黙ってマシンの背中を見つめていた。

 

「……これが“世界の公式戦”か」

 

「書類一枚通すのにも、胃が痛くなる量だったわよ……」

 

蓮子がペースノートを脇に抱えて肩を竦める。

そのノートの片隅、余白に今朝もまた“記憶にない言葉”が一行、増えていた。

 

《道を読むな、呼吸しろ》

 

筆跡は確かに自分のものだった。

けれど、まるで“誰かに手を取られて書かされた”ような奇妙な感触が残っている。

 

「……誰かの声を、私が書き取ってるだけなのかもしれない」

 

ぽつりと漏らすと、ちゆりが頭上から声をかけてきた。

 

「おい蓮子、ブリーフィングそろそろ始まるぞ。ドライバーとナビ両方出席な」

 

「はーい。了解……」

 

ノートを閉じながら、蓮子は小さく息を吐いた。

 

「ねぇ、メリー」

 

「ん?」

 

「“ペースノート”って、地図じゃないよね。“共通言語”だと思う」

 

「……なんで急に?」

 

「ううん。ふと、そう思っただけ。……きっと、私が今書いてるのは“デルタの言葉”なんだって」

 

メリーは少しだけ微笑んだ。

 

「じゃあ、通訳は任せた。私、話しかけるのは得意でも、翻訳は苦手だから」

 

「安心して。ちゃんと通じさせてみせる」

 

その会話の裏で、パークの奥――

今朝早くに搬入された黒い222Dが、ひっそりとテントの中に格納されていた。

 

誰も近寄らず、整備員の数も最小限。

 

だが、その沈黙の中にこそ、“何かが始まる気配”があった。

 

モンテカルロ市庁舎・会議ホール。

WRC-Hヒストリカル部門・開幕戦の公式ブリーフィングは、厳粛かつ形式的に進んでいた。

 

各チームの代表者が一同に集まる空間。

メリーと蓮子は、デルタS4のエントリーナンバーが書かれた席に腰を下ろし、簡潔に配布資料へと目を通していた。

 

「リエゾン区間の速度規定、ちょっと厳しくない?」

 

「モンテカルロだもの、交通規制は世界一細かいって教授言ってた」

 

「……で、その教授は?」

 

「関係者席で後ろから睨んでる。振り返らない方がいいよ」

 

「りょーかい」

 

壇上のマイクに立つFIA競技ディレクターが、やがて手元のリストを読み上げ始めた。

 

「出場マシン6台の確認に入ります。エントリーNo.01――アウディ・クワトロ S1 E2、No.02――ランチア・037……」

 

形式的な読み上げが続く中、空気は平坦なままだった。

 

しかし――

 

「エントリーNo.06、トヨタ・222D、ドライバー:篠原澪、コ・ドライバー:エレナ・シュタルク」

 

その名前が発せられた瞬間、蓮子の手がぴたりと止まる。

 

「……シュタルク?」

 

「聞いたこと、ある……?」

 

「ううん。でも、なんか……妙に引っかかった」

 

メリーも、思わず名簿に目を落とした。

 

黒い222D。

正体不明のあのマシン。

そして今、そこに“名”が与えられた。

 

「……澪と、エレナ……」

 

ふたりの名は、まだ意味を持たない。

けれど、ただの文字列以上の“圧”が、そこにあった。

 

「なぜか分からないけど、覚えておいた方がいい気がする」

 

蓮子は静かに頷いた。

 

「うん。たぶん、“あの車に名前がある”ってことが――もう、ただ事じゃない」

 

 

ブリーフィングを終えたふたりは、静かに席を立った。

 

廊下を出た先、ふと見上げたロビーの階段。

 

そこに立っていたのは――

金髪の少女と、黒髪のポニーテール。

 

視線が交差する。

だが、その瞬間は一瞬で過ぎ去った。

 

まだ、“戦い”ではない。

けれど、確かに“気配”は交わった。

 

サービスパークの空気は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

明日はついに、WRC-Hモンテカルロ戦の開幕日。

 

ちゆりは車体下に潜り込み、最終チェックを続けていた。

 

「……よし、フロントアームのピロ側、ガタなし。バンプストッパー異常なし。ダンパーリバウンド正常」

 

その声はひとりごとというより、マシンに語りかけているようだった。

 

隣では夢美がフロントのECUカバーを開き、細かな配線を目で追っていた。

 

「モニター上のスロットル応答、問題なし。点火マップ……手は加えてないな?」

 

「当たり前だろ、教授。勝手に触ったら殺すぞ」

 

「それなら安心だ。……この車は繊細だからな」

 

工具を置いたちゆりが、少しだけ真顔になった。

 

「なあ教授。あんた、本当はあの黒い222Dのこと――」

 

「聞くな。今は“この車のため”に集中しろ」

 

「……了解だぜ」

 

ちゆりはそれ以上口にせず、再びホイールハウス内へ手を伸ばした。

 

その頃、少し離れたベンチでは、メリーと蓮子が静かにノートを見ていた。

 

「明日の1本目……どうする?」

 

「最初のステージは午前7時、路面はまだ凍ってる。左5から入って、序盤は流す。様子を見る」

 

「……分かってるけど、すぐに“本気出したくなる”かも」

 

「そこを抑えるのがナビの仕事。暴れたら引っ叩く」

 

「えぇ……」

 

メリーは小さく笑ったあと、ふと目を伏せた。

 

「ねぇ、蓮子。もし、デルタがまた“牙を剥いてきたら”――」

 

「……一緒に押さえ込もう。もう、ひとりで抱えないでいいから」

 

言い終えて、蓮子は手元のノートに目を落とす。

 

そして、そこに今朝また記された一行に目を止める。

 

《明日は走れ。振り返るな。お前たちは、もう“乗っている”》

 

「……だってさ」

 

「……誰の声だと思う?」

 

「さあね。でも、明日になれば分かるかもね」

 

 

サービスパークの灯りがひとつ、またひとつと消えていく。

デルタS4のカウルに反射する星空の光が、夜の静けさを際立たせていた。

 

明日、すべてが始まる。

亡霊と共に、歴史を越えて――戦う者たちの物語が。

 




空港から降り立ったばかりの異国の地――モナコ。
デルタS4とともにやってきたメリーと蓮子だが、出国直後の手続きや言葉の壁に早くも困惑していた。

そんなふたりの前に現れたのは、モノクロームの瞳を持つ少女と、プラチナの髪を揺らす快活な少女。
彼女たちの助けにより、メリーたちは思いがけない“旅の導き”を得ることになる。

けれど――名前を聞くことはなかった。
互いの素性を知らぬまま、すれ違うように別れたふたつの影。

「……不思議なふたりだったね」

「うん。でも、嫌な感じはしなかった」

そして舞台は、世界有数の港町・モンテカルロへ。
ホテルのチェックイン、街中のバス移動、旧市街の迷路と市場の喧噪。

観光の顔を見せる街で、ふたりの少女は束の間の平穏を味わう。

だがその裏で、“亡霊たち”の準備は静かに進んでいた――。

――Monte Carlo Mally LEG7『静かな街に交わる影』
すれ違っただけの邂逅は、いずれ“交差”へと変わる。
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