Monte Carlo Mally 作:Yaris Margatroid
空港からの移動を終え、メリーと蓮子がモンテカルロ市街に降り立ったのは、午後を少し回った頃だった。
南仏の陽光はやや柔らかく、空気は海風を含んで乾いている。
だが、ふたりの顔にはそれどころではない焦りの色が浮かんでいた。
「ねぇ、蓮子。ホテルの予約って、紙のバウチャー持ってこいって言ってたっけ?」
「えっ? そんなの、夢美が電子データで送ってきたから、スマホで大丈夫って……」
「でもさっき、受付の人に“それじゃダメです”って言われたんだけど……フランス語で」
「えっ……!? どうしよう、私フランス語分かんない……!」
チェックインカウンター前、紙の地図とスマホ画面を交互に見ながら、ふたりはあたふたとやりとりを続けていた。
「英語で押してみたけど、なんか“事前登録が未完了”って言われた気がする……気がするだけなんだけど!」
「待って、それ私が言いたい!」
「もうやだ! いきなり海外トラブルとか聞いてない!!」
小さなパニックに陥るふたりを、数歩離れた場所から見ていたふたつの影があった。
ひとりは、黒髪を高く束ねた、凛とした瞳の少女。
もうひとりは、プラチナブロンドのショートボブに、軽やかな歩調を刻む快活そうな少女。
「……あの人たち、困ってるわね」
「だね。っていうか、あのやり取り……日本語じゃん」
「うん。たぶん、観光客……?」
エレナ・シュタルクは、にやりと微笑むとそのまま受付に歩み寄り、流暢なフランス語で係員に声をかけた。
「Pardon, je peux vous aider ?」
メリーと蓮子が反応する間もなく、受付の男性と何やら短く会話を交わし――
ほんの数十秒後、エレナはにこやかにふたりへ振り向いた。
「OK、手続き通しておいたよ。日本からのデータがうまく反映されてなかっただけ。再送で通ったって」
「えっ……えええっ!? ありがとう……助かりました……!」
「……というか、フランス語、話せるんですか?」
「一応ね。母国語じゃないけど、ラリーやってると使う機会多いから」
「ら、ラリー?」
「ん? いや、こっちの話」
エレナが肩を竦めたその横で、もうひとりの少女――篠原澪は静かに頭を下げた。
「……トラブル、解決してよかったですね」
「う、うん。ほんと助かったよ……」
「じゃあ、私たちはこれで。観光、気をつけて」
ふたりはそれ以上名乗ることもなく、街の路地裏へと消えていった。
残されたメリーと蓮子は、ぽかんとしたまま顔を見合わせる。
「……なんか、すごく不思議な感じのふたりだったね」
「うん。でも、悪い人たちじゃなかった。……名前も聞けなかったけど」
「そうだね。……でも、きっと忘れないと思う。あの髪と、あの瞳」
異国の街での、ほんの短いすれ違い。
けれど、その記憶は確かに、静かに刻まれた。
チェックインを無事終えたメリーと蓮子は、荷物を部屋に置いてすぐ、街歩きに出かけていた。
「……ホテル、意外とちゃんとしてたね」
「ね。なんか“地元感”すごかったけど、ベッドはふかふかだったし」
「あと浴槽があるの地味に嬉しい……」
陽が高いうちに歩いておこうと、ふたりは旧市街の坂道へ向かう。
石畳の小路、カフェの軒先からこぼれるピアノの音。
道行く人々の会話はフランス語とイタリア語が入り混じり、聞き慣れない響きが風に溶けていた。
「ここがモナコの旧市街……本当にヨーロッパって感じだね」
「うん、ヨーロッパって感じしかない」
「語彙力どこいった」
「日本に置いてきた」
「探してこい」
冗談を交わしながら、ふたりは細い坂道を抜け、広場に出た。
そこは地元のマルシェ(市場)が立ち並ぶ開けたスペースで、新鮮な野菜やチーズ、手作りのパンやオリーブオイルが所狭しと並んでいた。
「うわ、すごい……! あれチーズ? めっちゃでかい!」
「パン屋さんもある! ちょっと寄っていい?」
「もちろん。むしろ買ってきて」
蓮子が走って行き、メリーは地元野菜の山を前に立ち尽くす。
その時――
すぐ横から、甲高いフランス語の怒鳴り声が飛んだ。
「Hé ! Ne touchez pas sans demander !(ちょっと! 勝手に触らないで!)」
「えっ……!?」
気づかぬうちに、メリーの指先がカゴのトマトに触れていたらしい。
売り子の女性が早口でまくし立てるが、内容はさっぱり分からない。
「ちょ、ちょっと待って、そんなつもりじゃ……!」
焦って英語で話しかけようとするが、相手は聞く耳を持たない。
完全に言葉が通じていなかった。
――そこへ、蓮子が戻ってきた。
「メリー、どしたの……って、わっ!」
「ちょ、通じない通じない通じない!!」
「私も分かんないよ!? これ高校でやった範囲超えてる!!」
メリーが半泣きになりかけたその時――
すっと現れたのは、さっき空港で出会ったあのプラチナブロンドの少女だった。
「あ〜、Madame, c’était une erreur. Elle n’a pas compris le système ici. Je suis désolée pour elle.」
穏やかな声で割って入り、間に立つ。
彼女の流暢なフランス語に、売り子の女性は肩を竦め、最後には手をひらひらと振って笑ってみせた。
「……Merci, mademoiselle. C’est bon, alors.」
少女はふたりの方へ振り返ると、悪戯っぽく微笑んだ。
「また会ったね。大丈夫?」
「えっ……あ、えっと……」
「あの人、触る前に“買います”って言うのがルールだったの。知らなかっただけで怒ってたわけじゃないよ」
「た、助かりました……!」
「それじゃ、観光楽しんで。バゲットは、あそこの角のパン屋が一番おいしいよ」
そう言って、少女はまたすぐに人混みに紛れて去っていった。
その背中を見送りながら、メリーと蓮子はぽかんと立ち尽くしていた。
「……今の、絶対空港で助けてくれた子だよね?」
「うん。というか……また、名前聞き損ねた」
「なんでこんなにナチュラルに消えるのあの子……」
不思議な縁が、ふたたび結ばれた。
けれどそれは、あくまで“すれ違いの中”でしかなかった。
日もすっかり傾き、モンテカルロの街はオレンジ色の空に包まれていた。
ふたりは港沿いのベンチに腰を下ろし、買い込んだパンとチーズを袋から取り出していた。
「これがさっきのパン屋の“バゲット・レトロ”。外はパリッパリで中はもっちもち……」
「蓮子、それもう三回目のセリフ」
「でも感動が更新されてるんだもん」
「……ま、わかるけどさ」
メリーはチーズをかじりながら、遠くの海を見つめた。
夕日に照らされた港の水面が、ゆらゆらと波を立ててきらめいている。
「不思議な一日だったね」
「うん。初めての土地なのに、なんだか懐かしい感覚だった。……誰かに見守られてるような、そんな感じ」
「……もしかして、あのふたり?」
「たぶん。名前も知らないし、正体も分からないのに、妙に安心できる感じがあった」
メリーは少し考え込むようにして、パンをちぎった。
「名前、聞けばよかったかな」
「聞いても、教えてくれなかった気がする。……あの人たち、きっと“通りすがり”を大事にしてた」
「……そういうのって、嫌いじゃないな」
ふたりの会話に、しばしの間が生まれた。
港の向こうからは、クルーザーの汽笛がかすかに聞こえる。
「……明日からレッキだね」
「うん。ようやく“本番の準備”が始まる」
「デルタ、機嫌いいといいな」
「そればっかりは、お願いするしかないけど……」
蓮子はノートを取り出し、今日の最後の一言を記していく。
そのページの端に、またしても“自分が書いた覚えのない一文”が現れていた。
《道の先でまた会う。その時は、もう少しだけ近くに》
「……誰、これ書いたの……」
「え? 蓮子じゃないの?」
「ううん。少なくとも“記憶にはない”」
メリーはそれを覗き込み、静かに呟いた。
「でも、不思議と……納得できる」
“まだ出会っていないふたり”。
けれど“また会える気がする”。
夕焼けの中、デルタS4のいるガレージに向けて、ふたりは立ち上がった。
「明日は、ちゃんと“戦い”の準備をしよう」
「うん。今日の“偶然”が、いつか意味を持つかもしれないから」
そして、モナコの夜がふたりを包み込んだ。
その静けさの裏で、ふたつの車とふたつの意志が、ゆっくりと“交差”に向かって進んでいた。
モナコの夜が明ける――
南仏の冷たい朝靄の中、WRC-Hヒストリカル部門・開幕戦のDAY1が幕を開ける。
出走準備を終えたデルタS4は、メリーと蓮子を乗せて、初めて“実戦の舞台”へと向かう。
その挙動は、未だ気まぐれで、猛々しく、そして美しい。
「怖い?」「ちょっとだけ。でも、それ以上に――走りたい」
一方、静かに現れる黒き影――222D。
その姿に、メリーたちはただ“気配”を感じ取るしかない。
本番ステージが始まる。
崖下へ吸い込まれるような峠の連続、凍結したブレーキングゾーン、霧に包まれた林道――
いずれも、過去と現在が交差する“試練の道”。
亡霊たちは、今、目を覚ます。
誰のために。何のために。
その答えを探しながら、メリーと蓮子は走り続ける。
――Monte Carlo Mally LEG8『亡霊たちは目を覚ます』
“伝説”は、再び動き出す。