Monte Carlo Mally   作:Yaris Margatroid

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LEG8「亡霊たちは目を覚ます」

朝5時45分。

モナコの港に設営されたサービスパークは、まだ陽も昇りきらぬうちから慌ただしい空気に包まれていた。

 

整備テントには、冷たい海風とオイルの匂い。

ヘッドライトに照らされるのは、ランチア・デルタS4――銀灰色の戦闘機。

 

そのボディに、今まさにゼッケンプレートが取り付けられていた。

 

「ナンバーは“04”……か」

 

蓮子がぼそりと呟く。

 

メリーはその横でスーツのチャックを上げながら、ほんの少し深呼吸をする。

 

「……やっぱり空気が違うね。公式戦の朝って」

 

「うん。街も、人も、全部が張り詰めてる」

 

ちゆりは手際よくラジエターのラインをチェックしながら、ちらりと背後を見た。

 

「冷却水、少し濁ってるけど気温低いし問題ねぇ。インタークーラーの温度、手で測ってるけど……ま、基準内だ」

 

「機械で測らないんですか?」

 

「センサーは信じるな。手が信じられなくなったら、現場に出る資格はねぇ」

 

「……ブラックですね、やっぱり」

 

「そりゃブラックだぜ。ここは“過去の亡霊”を乗りこなす現場だ」

 

その言葉に、メリーの目がふと鋭くなる。

 

「亡霊、か」

 

「……昨日のレッキで会った黒い222Dのこと?」

 

「うん。名前も、乗ってる人も知らない。でも、あれは“ただの車”じゃなかった」

 

「うちらも同じだろ? デルタだって、ただのマシンじゃねぇ。そいつと向き合えるかどうかが、今日の勝負だ」

 

ちゆりがカバーを閉じた音が、朝の空気を断ち切った。

 

蓮子は、ノートを胸に抱える。

 

「今日、私たちは“本当に”この車に乗る。……その覚悟は、ある?」

 

メリーは、ヘルメットのあご紐を締めながら答える。

 

「うん。今なら言える。私は、走りたい。恐怖じゃなくて、意志で」

 

外はまだ薄暗い。

だが、その先に広がる道は、もう“覚悟の上”にある。

 

デルタS4が、咆哮のようにエンジンを始動させた。

 

「出走3分前」

 

係員の低い声が、無線越しにコクピットへ届いた。

 

まだ陽は完全に登りきらず、スタートライン周辺は霧に包まれている。

沿道の観客の声も、車体の外ではほとんど聞き取れない。

 

メリーはハンドルを握りながら、インパネの奥を見つめていた。

 

「……ステア、反応問題なし。油温OK、水温も安定。よし」

 

蓮子もノートを膝に置き、深呼吸してからインカムを確認する。

 

「ノイズなし。マイククリア。聞こえる?」

 

「バッチリ」

 

「じゃあ、あとは……信じるだけだね」

 

「うん。私も、君も、そしてこの子も」

 

外では、スタートフラッグを持ったオフィシャルが手を挙げた。

カウントダウンが、フロントガラスの向こうで始まっている。

 

「30秒」

 

「蓮子、緊張してる?」

 

「うん。……でも、ワクワクもしてる」

 

「同じだ」

 

シートに体を預けながら、メリーは唇を引き結ぶ。

 

このデルタS4と出会ってから、どれだけの時間が経っただろう。

機嫌を損ねられ、振り回され、ぶつかり――それでも。

 

今、この瞬間だけは確かに“ひとつの意思”で繋がっている気がした。

 

「10秒前!」

 

蓮子の声が少し強くなる。

 

「最初のセクション、Right 5、続いてLeft 4、タイトなS字よ!」

 

「了解、抑えて入る!」

 

「5、4、3、2、1――GO!」

 

クラッチが繋がり、デルタS4が地を蹴る。

咆哮とともに、グループBの亡霊がモナコのターマックに牙を剥いた。

 

スタートから100メートル。

デルタS4は勢いよく加速し、ターマックの霜を蹴り上げながら峠道に突入していた。

 

「Right 5、次Left 4タイト、ブレーキ強めで!」

 

「了解、右抜けて、左……!」

 

コーナーの進入。メリーは少し早めにブレーキを踏み、荷重を前に寄せる。

その瞬間、デルタが――軽くリアを振った。

 

「っ……!」

 

「浮いた! でもまだいける!」

 

メリーは咄嗟にカウンターを当てる。

それだけでなんとかラインに戻ったが、車体は完全に“こちらを試している”。

 

「やっぱり、朝イチは路面が冷たい……」

 

「次、Left 3。長い、トラクション重視!」

 

「合わせる!」

 

だが、トラクションを意識して早めにアクセルを戻すと――デルタは予想よりも鋭く曲がった。

 

「ちょっ……切れ込みすぎっ!」

 

「ステアが来すぎてる! ライン内で抑えて!」

 

車体がわずかにグラベルへはみ出し、タイヤが砂を噛む音が室内に響く。

 

“まだだ”。

“まだお前たちは、この車を乗りこなしてはいない”。

 

メリーは、デルタS4がそう言っている気がしていた。

 

「次、クレスト越え、すぐRight 4、慎重に!」

 

「見えた! ライン取って――!」

 

デルタは一瞬浮いた。

前輪が地を離れ、空気の中を泳ぐ感覚。

 

そして、着地の衝撃とともに、ステアリングが跳ねた。

 

「うわっ!」

 

「落ち着いて、まだ立て直せる!」

 

荒れた着地でブレーキングポイントを逃す。

メリーはフルブレーキを諦め、ステアで曲げる判断を選んだ。

 

グリップを失いかけた車体が、ギリギリでラインに戻る。

 

「……ふぅ……!」

 

「メリー、無理に攻めない。まず“この車の機嫌”を見極めて!」

 

「わかってる、でも……」

 

言葉の途中で、再びS字が迫る。

車体はまるで、生きているかのように不安定で、気まぐれだった。

 

けれど――

 

「次、Right 3 short、すぐLeft 2、リズム切らないで!」

 

「大丈夫、合わせてる!」

 

ノートの読み上げと、操作のテンポが少しずつ重なり始める。

“彼女たちだけの会話”が、デルタの中で形を取り始める。

 

たとえ、まだ完全には伝わらなくとも――

 

亡霊は、耳を澄ませていた。

 

前半のS字を抜けた先――

 

そこには、霧と霜の狭間にひっそりと架かる古い橋梁が待ち構えていた。

コンクリートの上には溶けきらない雪解け水が薄く張られ、まるで鏡のように空を映していた。

 

「次、直線短い橋! 濡れてる、ブレーキ強め禁止!」

 

「了解、ライン外さない……!」

 

メリーはアクセルを早めに戻し、慎重に荷重を落とす。

ブレーキを少し残して橋に入った瞬間――

 

「っ……滑る!」

 

「まだ抑えて! 脱出ラインまで我慢!」

 

ステアを切るタイミングを0.2秒ずらすだけで、車体は外へ膨れる。

 

デルタS4はそれに過敏に反応し、リアを揺らすようにして滑った。

だが、今回はカウンター不要の“微調整”でラインに戻る。

 

「よし……いける!」

 

「次、鋭角Left 2! すぐにRight 3、間が短いよ!」

 

「入る、抑えて、立ち上がり重視!」

 

メリーの声が少しずつ力を帯びていく。

 

先ほどまで“試されていた”車体が、今は少しだけ――わずかに“応えている”。

 

「デルタ、まだツンツンしてるけど……今日は機嫌悪くない」

 

「その調子、次はRight 5、先にタイトな下り!」

 

その言葉を合図に、視界がぱっと開け、眼下に見えたのはヘアピンカーブの連続。

しかも――その舗装は、部分的に“砕けていた”。

 

「ここ、路面……崩れてる!?」

 

「古い舗装、未補修ゾーン! 飛ばしちゃダメ!」

 

急激な下り。右、左、すぐまた右――

ブレーキングのたびに、タイヤが小石を跳ねる音が室内に響いた。

 

「っく……ブレーキ踏みすぎた!」

 

「カウンターは後半! 前半で切るとケツが暴れる!」

 

一瞬、リアが振れる。

だがメリーはもう恐れず、その揺れを**“デルタの反応”として受け止めていた**。

 

「……抑えた!」

 

「よし、そのまま、Right 4、中間幅、あと50!」

 

残りの区間が減っていく。

あとは、最終コーナーを抜けてリエゾン区間へ――

 

「最後、Left 3、タイトで出口広い! 振らせずまとめて!」

 

「OK、ライン残して……出口までトルク!」

 

スロットルオン。

デルタS4は低く唸り、霧の中から再び姿を現した。

 

――彼女たちの第一ステージは、終わった。

 

 

ブレーキの熱で白く曇るブレーキダクト。

微かに軋む足回り。

そして、ペースノートの余白には、またひとつだけ、文字が浮かんでいた。

 

《まだ終わりじゃない。でも、今の君たちは、聞こえている》

 

エンジンの音が静まるリエゾン区間。

景色は穏やかに広がり、先ほどまでの峠道とは別世界のようだった。

 

メリーはアクセルを軽く抜きながら、息を吐く。

 

「……終わったね、最初の一本」

 

「うん。まだ手探りだけど……悪くなかったと思う」

 

助手席の蓮子も、ノートを閉じて後ろに預けた体を少しだけ起こした。

 

「リアの跳ね、最初より収まってた。ステアの反応も良かったし、読み直したラインが当たったのかも」

 

「うん。……あの、微妙なクレスト。昨日だったら絶対弾かれてた」

 

「てことは、“聞いてくれてる”ってことだよ。デルタが」

 

静かな車内に、二人の声だけが柔らかく響いた。

 

メリーはふと、ダッシュボードの上に手を置いた。

 

「ちょっとずつだけど、こいつと話せてる気がする」

 

「私は“通訳”だからね。もっと翻訳精度上げてかないと」

 

「頼りにしてるよ。蓮子語、精度高いから」

 

「それ褒めてる……?」

 

ふたりが笑い合ったとき、目の前に港のサービスパークが見えてきた。

早朝の光が海面を照らし、デルタの銀灰色が淡く光を返す。

 

到着と同時に、ちゆりがパドックから駆け寄ってきた。

 

「おーい、無事に帰ってきたか!」

 

「……なんとかね」

 

「タイヤの表面、悪くねぇな。リヤの減りも均等だ。ブレーキバランス調整、成功だったか」

 

夢美も無言でモニターを睨んだあと、小さく頷いた。

 

「……立ち上がりのスロットル率、想定より10%低いな。だが、回転差の収束は合格ライン」

 

「つまり?」

 

「“まだ抑えてる”ってことだ。だが、“潰れていない”。このマシンでそれがどれだけ難しいか――よくやったな」

 

メリーは目を細めて、静かに言葉を返す。

 

「でも、まだ“完璧に応えてくれた”とは言えません。手の内を少しだけ見せてくれたって感じ」

 

夢美は頷くと、背を向けながら一言だけ呟いた。

 

「亡霊はそういうものだ。気まぐれで、試す。……だが、“答えよう”とはしている」

 

蓮子はその背中を見ながら、そっとノートを開いた。

その余白に記された文字を、今はもう疑いの目では見ない。

 

《答えようとしている》

 

それが、“自分の言葉”ではないとしても。

 

リエゾンを抜け、次のSS(スペシャルステージ)出走まで、残り5分。

出走位置に並ぶデルタS4の車内は、さっきとは打って変わって緊張に満ちていた。

 

「このステージ、路面情報出てる?」

 

「前半はドライ。けど、後半2キロ、日陰で霜残り。しかも幅員狭い」

 

蓮子はノートを広げながら、少しだけ口調を強めた。

 

「ブラインド多いから、ラインの修正が効きにくい。1回読み違えたら、外に弾かれるよ」

 

「……了解。私、ライン外さないように抑える」

 

「ううん、“合わせにいく”の。読みとマシンの感覚を、ね」

 

メリーはその言葉に小さく頷き、インカムの確認を終える。

 

「エンジン、チェック良好。油温も安定。問題ない」

 

「ノートもOK。……行けるね」

 

係員が指を挙げる。

5、4、3、2、1――GO!

 

再び咆哮。

デルタS4が、朝の光を切り裂いて山へと跳び込んだ。

 

「Right 3 plus、出口きつめ、橋の段差あり!」

 

「了解、抑えて、ライン残す!」

 

メリーはブレーキを早めに踏み、荷重を意識してステアを切る。

その挙動に、デルタが“素直に”応じる。

 

「……さっきより、言うこと聞いてる」

 

「言い方変えたもん。“言語”が合ってきた」

 

「なるほど。通訳、ありがと」

 

「どういたしまして。次、Left 4、タイト、路肩グラベル!」

 

ステアを当て、トラクションを探す。

コーナーを抜けた瞬間、メリーの中に確かな実感があった。

 

“この車は今、確かに私の手にある”。

 

「Right 2 short、すぐJump、Landingで曲げる!」

 

「飛ぶよ……!」

 

短いクレスト。デルタが浮いた。

次の瞬間、路面へと叩きつけられるように着地し――ノーズが滑る。

 

「滑る! でも……抑えられる!」

 

リアが振れそうになる一瞬手前で、アクセルを抜き、荷重を落とす。

デルタは、滑る寸前でグリップを取り戻す。

 

「Good! 次、Left 3、下りで路面不整!」

 

「了解、踏まない、ラインキープ優先!」

 

ハンドルに伝わる路面の微振動。

霜と埃と轍が混じった道を、デルタS4がしなやかに切り裂いていく。

 

“亡霊”は、すでに試すのをやめていた。

今は――共に、走っている。

 

SS2を終えたデルタS4は、再びリエゾンへと滑り込んでいた。

 

風の匂いが少しだけ変わる。

午前の陽が霧を溶かし、木々の間から射す光が車体を照らしていた。

 

「……さっきのステージ、かなり良かったね」

 

メリーの声は、興奮を抑えきれない色を含んでいた。

 

「リアの滑り出し、ほとんど読めてた。ラインも“外してない”」

 

「うん。ノートの精度も、今の感覚に合ってた。ギャップの後の着地、合わせてくれたおかげ」

 

「いや、それは……デルタが合わせてくれたんだと思う」

 

蓮子は小さく笑って頷いた。

 

「……かもね。あのクレストの先、前なら絶対暴れてたもん」

 

「機嫌が良かった、だけじゃない。きっと、少しずつだけど……“信頼”されてる」

 

ふたりの会話に、もはや“恐怖”の色はなかった。

あるのは、走りに対する手応えと、ほんの少しの“誇り”。

 

「今日は、このまま行ける気がする」

 

「油断は禁物だけど……でも、“分かってきた”感じはある」

 

メリーはふと、ルームミラーに目をやる。

 

そのときだった。

霧の切れ間――

 

「……っ、あれ……」

 

「なに?」

 

「……あの黒い車。……また、222Dだ」

 

谷間を縫うように、滑るように走る“黒い影”。

222Dが、静かに、だが確実にふたりを追いかけていた。

 

しかも――

 

「スピード、速い。……私たちのリエゾンに、追いつくペースじゃないはず」

 

「たぶん、意図的にやってる。……存在を、見せてきてる」

 

「牽制?」

 

「あるいは、“挨拶”かもね」

 

ふたりの言葉が止まる。

 

デルタS4のステアリングは、何も言わず、ただ真っ直ぐに進む。

けれどその握り心地だけは、今も変わらず――

 

“お前たちの走りに、意味はあるか?”

 

そう、問いかけている気がしていた。

 

午前のセクションを終えて戻ってきたデルタS4は、即座にジャッキアップされ、作業灯の下へ。

 

「フロントダンパー、左側が少し抜け気味だな。応急で油圧調整かける。ブレーキラインは問題なし。タービンの温度……このレベルで収まってるなら優秀だな」

 

ちゆりが、ひとつひとつ手を止めずに確認していく。

横で夢美がデータパッドを見ながら、無言で首を動かした。

 

「回転域、4000〜6500でのレスポンスが明らかに改善してる。これは……ドライバーの入力とマシンの反応が合ってきた証拠だな」

 

「ふふん。私の調整、ちゃんと効いてんだろ?」

 

「いや、今回はドライバーたちの成長だ」

 

「はいはい、そっち持っていくんだな教授はよぉ」

 

苦笑を交わしながらも、工具の音は一瞬たりとも止まらない。

 

ピットの隅、テーブルには脱がれたレーシングスーツと、汗を拭うタオル。

その脇に、開かれたペースノート。

 

夢美の視線が、ふとそこに落ちた。

 

そして――ページの余白に記された一文に、目を細めた。

 

《走れ。思い出ではなく、“今”のために》

 

「……らしいな、宇佐見君」

 

その言葉は誰に向けたものか。

聞く者のいない声が、微かに整備棟に響いた。

 

ちゆりはその声に気づくことなく、次の整備項目を読み上げた。

 

「……さて、ブレーキバランスの再調整終わったら、午後の本気仕様に変えるぜ。

さっきまでは“試し”だったけど、次は“仕掛ける”やつだ」

 

「いいだろう。……お前たちも、試されてるだけじゃないことを証明しろ」

 

夢美は背を向け、再びパッドに目を落とした。

 

けれど心のどこかでは、きっとあの時と同じ――

あの嵐のコルシカの夜を思い出していた。

 

午後14時。

太陽は高く昇り、山間の影もやや短くなっていた。

 

デルタS4は、午後のセクション・SS3のスタート地点に静かに並んでいた。

 

「午後は路温上がる。タイヤの食い方が変わるよ」

 

蓮子がノートを膝に乗せながら、タイヤマップを確認する。

 

「ちゆりさんの読みだと、最初の4キロはハードな舗装。でも、その先のブラインド下り坂で霜が再凍結してるかもって」

 

「つまり、前半で稼いで後半抑えるのが理想」

 

「うん。ただし、“稼ぐ”ならミスは許されない」

 

メリーは静かに頷き、ヘルメットのシールドを下ろす。

 

「……デルタなら、応えてくれる。私たちが“きちんと話しかければ”」

 

「じゃあ通訳は頑張らなきゃだね」

 

係員がフラッグを掲げる。

 

「出走まで……30秒!」

 

メリーがギアを1速へ。

ブースト計が一気に立ち上がり、タービンの唸りが密やかに響き始める。

 

「Ready?」

 

「Ready。蓮子、任せたよ」

 

「じゃあ、行こうか。“亡霊”を従えて」

 

5、4、3、2、1――GO!

 

デルタS4、再び咆哮。

今回の加速は違った。午前中の“探り”はもうない。

スロットルを迷わず踏み抜くその感触に、亡霊は――確かに、唸った。

 

「Right 5 long、次Jump!」

 

「行ける……飛ばす!」

 

前輪が離れ、ほんの一瞬空中を滑る。

 

その落下のタイミングで、次の読みが入る。

 

「Left 3 minus、ヘアピン状、立ち上がりでカウンター必須!」

 

「任せて!」

 

クレスト、着地、即ブレーキ――

メリーは荷重を後ろに流し、滑る寸前のところでコントロールを維持する。

 

「デルタ、ついてきてる……!」

 

「次、Right 4、出口締まり気味、すぐタイトダウンヒル!」

 

その時だった。

 

後方、視界の隅。

ミラーの奥に――“黒い塊”が、一瞬だけ姿を覗かせた。

 

「また、222D……?」

 

「いや、今は走りに集中。こっちのターンだよ」

 

デルタS4が再び咆哮を上げる。

黒い亡霊は、まだ遠い。

 

だが、遠くない未来――

きっと、背後まで届いてくる。

 

「Left 3、出口締まり気味、カット禁止! その先、Right 2ブラインド!」

 

「了解、減速入れて……待って、次、見えない!」

 

「だから読み上げる! 今! Right 2、きつい、手前で殺して!」

 

メリーはスロットルを抜き、ブレーキを短く当てる。

しかし――前輪が滑った。

 

「路面、濡れてる! やばっ……!」

 

「止まらない! 右が詰まる、ステア早く切って!」

 

滑るグリップ、跳ねる車体。

荷重が前に寄りすぎ、ノーズが跳ねた瞬間――デルタは内側に潜り込むように姿勢を崩した。

 

「浮いた! リア来る! くそっ!」

 

「立て直して、今! カウンター!」

 

メリーは反射的に左へ切り、アクセルを一瞬だけ入れる。

 

その“一瞬”が、デルタS4を持ち上げた。

 

リアが沈み、踏ん張る。

タイヤが路面を捉え、スリップから抜け出す。

 

「――セーフ!」

 

「まだ! 次Left 4、ギャップあり、姿勢戻しきらないと危ない!」

 

「わかってる、でも……今なら行ける!」

 

アクセルオン。

マシンがバウンドし、重力が一瞬ふわりと浮く。

ステアに伝わる“ひねり”を、メリーはそのまま力に変える。

 

「……こっちは、走ってる!」

 

「デルタも、“聞いてる”!」

 

言葉がシンクロする。

 

コーナーの出口、霧の切れ間から見えたのは、ほんの短いストレート。

 

だが、その先には――観客の姿。

観衆が集まるということは、“勝負どころ”が来るということ。

 

「次の右、Right 3 plus、ジャンプ混じり、見せ場だよ!」

 

「任せて。今日のハイライト、行こうか!」

 

デルタS4が姿勢を作る。

アクセルは緩まず、ラインは乱れない。

 

スリップの限界、車体の傾き、そして――空中へ。

 

「……っしゃぁ!」

 

飛んだ。

その瞬間、観客の拍手が木霊のように響いた。

 

着地、収束、トラクション。

デルタは何事もなかったように、地を滑り出す。

 

もう、誰も“このマシンは気まぐれだ”なんて言わない。

今、メリーたちは――確かに、“走らせている”。

 

午後SS3、残り800メートル。

眼前に迫るのは、急峻な崖沿いの連続ヘアピン。

 

しかもそのすべてが、右へ左へと細かく折れながら下っていく“反復型”の構成だった。

 

「Left 2 short、次Right 2、タイトでグリップなし、ブレーキは残して!」

 

「了解、合わせる!」

 

メリーは一段ギアを落とし、ステアに全集中。

午前に比べて滑りやすくなったアスファルトの上を、デルタは“すべらせながら曲げていく”。

 

「トラクション、後ろで待ってくれる……!」

 

「ブレーキの抜き方、完璧! 次、Right 2、短い出口広い!」

 

コーナーが近づくたびに、操作が研ぎ澄まされていく。

蓮子のノートの声が、もはや“外からの指示”ではなく“操作そのもの”に近づいていた。

 

(私は……いま、この車と、蓮子と……同じリズムで走ってる)

 

メリーがそう思った、その瞬間――

 

「っ……また来た」

 

「え?」

 

ミラーの奥。

霧の切れ間から、黒い影が一瞬だけ覗いた。

 

「222D……」

 

「このタイミングで!?」

 

「リエゾンじゃない。……これ、SSで出てる」

 

「ってことは、あの子たちも午後のセクションに入ってるってこと……」

 

一瞬、プレッシャーがよぎる。

だが、メリーはすぐに小さくかぶりを振った。

 

「関係ない。私たちは――この子と走るだけ」

 

蓮子が続ける。

 

「うん。比べる必要なんてない。……だって、私たちの相手は“このデルタ”なんだから」

 

ふたりの言葉に応じるように、デルタS4が最後のタイトコーナーへ飛び込む。

リアを軽く滑らせ、ノーズをねじ込み、アクセルオンで抜ける。

 

霧の向こうへ、銀灰のボディが滑り込んでいった。

 

午後SS3終了。

デルタS4がサービスパークへ戻ってきた頃には、モナコの陽もだいぶ傾いていた。

 

エンジンの熱気が漂う中、ちゆりが駆け寄ってくる。

 

「おかえり、ツンデレ亡霊コンビ!」

 

「誰が亡霊だ」

 

「車だ車。お前たちは翻訳係だろ」

 

ちゆりがジャッキを当て、すぐさま足回りのチェックに入る。

 

「……タイヤ、均一。リアバランス取れてる。フロントストロークは……ちょっと残ってるな。上手く使えてる証拠だぜ」

 

その声を聞きながら、メリーはようやくシートベルトを外した。

 

「……うまく走れた。ほんの少しだけ、だけど」

 

「走れてたよ。ステージ中、私、読み上げてて嬉しかったもん」

 

蓮子が言いながらノートを胸に当てた。

 

「この子、ほんとに今……応えてくれてる」

 

夢美はタブレットのデータを確認しながら、二人のやり取りを聞いていた。

その顔には――うっすらとだが、確かな“評価”の色が浮かんでいた。

 

「午後の走り、グラフで見ても分かる。滑り出しの制御が段違いに向上してる」

 

「ほら、やっぱり私の整備とペースノートが神だったってことで――」

 

「だが」

 

夢美の言葉が、少しだけ鋭くなった。

 

「――その後に通過した黒い222Dのデータも、残っていた」

 

「……! あいつら、タイムどうだったの?」

 

「詳細はまだFIAの集計中だが、少なくともSS3後半、デルタのラップセクションで“追いついてきた”」

 

蓮子が表情を変える。

 

「えっ……でも、それって……」

 

「普通に考えれば不可能だ。だが、あのマシンは――“常識の範囲外”にある」

 

ちゆりが整備の手を止め、ぽつりと呟いた。

 

「……気配が違ったよ。静かなんだけど、爆発力だけが研ぎ澄まされてる感じ。

ノイズじゃない、……“生き物の動き”だった」

 

メリーも、ゆっくりと口を開いた。

 

「……あの子たち、どこから来たのか分からない。

でも、もしこの先も走りで向き合うことになるなら――私たちは、このデルタと“もっと先”に行かなきゃいけない」

 

その言葉に、蓮子も頷く。

 

「そう。私たちは、まだ“やっと会話が始まった”段階。

あの黒いマシンが本当に牙を剥いた時……今のままじゃ、届かない」

 

夕暮れの整備エリアで、風が一度だけ強く吹いた。

 

亡霊と亡霊の対話は、始まったばかり。

 

午後16時50分。

DAY1の最終ステージが近づく頃には、モナコの空はすでに夕焼けを帯びていた。

 

山間の林道は、光と影が交互に交差し、ひとつ先のコーナーすらも完全には読めない。

視界が奪われることで、“ペースノートの声”はより一層重みを増していた。

 

「Right 3 minus、木陰で暗い! 出口浮くよ!」

 

「見えてないけど、合わせる!」

 

タイヤが滑りかける。

けれどメリーの右足は、その挙動を恐れず、むしろ“滑ることを前提”に車体を入れていた。

 

「ステア、いま完全に“読んでた”でしょ?」

 

「うん、わかる。“来る”って。……デルタが教えてくれた」

 

ふたりの会話はもはや走行中のものとは思えぬ自然さだった。

 

「Left 2、出口きつめ、手前で一瞬だけ抜いて!」

 

「りょーかい、抜くよ――今!」

 

瞬間的なアクセルオフとステアの操作。

リアがスッと内へ入り、車体が重力の中でひとつの流れを描く。

 

「ねぇ蓮子」

 

「なに?」

 

「この車さ、もう“試してない”よね」

 

「うん。いまは、“答えてくれてる”。私たちの言葉で」

 

木々の影が、車体を横切る。

残照がフロントガラスを染め上げ、銀灰色の亡霊に、まるで“息遣い”のような陰影を与える。

 

「次、Right 4 short、段差あり、抜けた先でRight 2 tight!」

 

「把握……ギャップで跳ねる!」

 

車体が浮き、バウンドと同時に荷重が後ろへ。

そこを見越して、スロットルをほんのわずかに開く。

 

「――いい子」

 

「またそれ。誰に言ってんのよ」

 

「もちろん、“この子”に決まってるじゃん」

 

ヘアピンを抜ける最後のセクションで、デルタS4は一切の乱れを見せなかった。

まるで、自らの意志で走ることを選んだかのように。

 

 

ゴールラインを越えたあと、車内はしばらく無言だった。

 

けれどその沈黙には、疲労でも緊張でもなく――ただ、確かな“満足”があった。

 

「……ねぇ蓮子」

 

「ん?」

 

「今日、私たち、“一緒に走れた”って言っていいかな」

 

蓮子は、ゆっくりとノートを閉じた。

 

「うん。そう思う。“あの子と一緒に走れた”って、ちゃんと言える」

 

夜がゆっくりと降りてくる。

亡霊たちの走りは、確かに今この瞬間――現実のものとなった。

 

夜19時過ぎ。

簡素な会議室に置かれたモニターの前で、メリーと蓮子は、まだ汗の乾ききらないレーシングスーツのまま座っていた。

 

照明は少しだけ暗く落とされ、壁にはその日のステージマップと通過タイムが貼られている。

 

ちゆりが壁に背を預けたまま腕を組み、夢美がテーブルの前に立つ。

 

「……DAY1、全ステージ完走。タイムは、総合4位」

 

「っ……」

 

「ただし、上位3台とは、まだ20秒近い開きがある。とくに――」

 

モニターに映されたのは、黒いマシンのオンボード映像だった。

 

「……222D」

 

「奴らは、後半のセクションで“全ステージ最速セクター”を複数回マークした。

とくにSS3のブラインド区間――あれは“見えていないはず”の場所を、まるで知っているかのような操作だった」

 

映像の中で、黒い222Dは淡々と、だが確実に“最短距離”でコーナーを切っていく。

 

「彼女たち……走りの“言語”が、私たちと違う」

 

蓮子が呟いた。

 

「それが問題だ。もし相手が“未知の言語”で走っているとすれば、私たちは“その音”すら聞けない」

 

「でも」

 

メリーが、はっきりと口を開いた。

 

「私たちも、今日ひとつ“共通言語”を見つけた。……このデルタと、そしてふたりの間で」

 

夢美はゆっくりと頷いた。

 

「そうだ。それは大きい。今日、お前たちは“走れる”ことを証明した。

だが、証明したのはそれだけじゃない」

 

画面が切り替わる。

 

そこには、サービスパークでのペースノート――余白に残された文字列が浮かび上がっていた。

 

《走れ。思い出ではなく、“今”のために》

 

「……この言葉。これは、君たちだけのものじゃない。

私たちがかつて走っていたとき、菫子が初めて書いた言葉でもある」

 

一瞬、空気が静まる。

 

メリーは、そっと瞳を伏せた。

 

「教授……その人の話、いつかちゃんと聞かせてくれますか?」

 

「そうだな。“聞く準備ができた時”に話すとしよう。だが――」

 

夢美は立ち上がり、デルタS4の写真を指差す。

 

「この車は、ただの“再生産されたレプリカ”じゃない。

このマシンには、“語り継がれるべき走り”が詰まっている。

お前たちがその続きを“今”として描くなら――私は喜んで託そう」

 

蓮子が目を細め、そして微かに笑った。

 

「じゃあ教授、私たちは……この車と一緒に、“亡霊の続きを書く”ってことでいいですか?」

 

「違うな。“君たちが新しい物語を始める”んだよ」

 

深夜0時を過ぎた頃、港沿いのサービスパークは静まり返っていた。

テントの灯りは落とされ、マシンはカバーを掛けられ、ただ潮風だけが鉄の匂いを運んでくる。

 

そんな中、銀灰色のランチア・デルタS4の傍らに――メリーの姿があった。

 

「……眠ってる、って感じでもないんだよね。

どこかでずっと起きてて、私たちを見てる」

 

彼女はそっと、車体のボンネットに手を添えた。

 

「今日、やっと少しだけ“話せた”気がした。

でも、まだ十分じゃない。……君がほんとうに言いたいこと、まだ全部は分かってない」

 

静寂の中、その手のひらから伝わるのは金属の冷たさ。

けれど、どこかで“鼓動のような何か”を感じていた。

 

背後で足音がする。

振り返れば、手にカップを持った蓮子がいた。

 

「ココア。ちょっと甘すぎたけど、温まるよ」

 

「ありがとう。……眠れなかった?」

 

「うん。いろいろ考えてて。

でも、不安ってより……“先に進みたい”って気持ちのほうが強かった」

 

ふたりは並んでデルタの前に立ち、夜の海を見つめた。

 

「明日からは、他のチームも全力でくる。

あの222Dも、本気になる。きっと、私たちを振り払おうとする」

 

「それでもいい。……私たちは、この子と走るだけ。

亡霊じゃない、“今を生きてる車”と一緒に」

 

蓮子は小さく笑って頷いた。

 

「それでこそ、私のドライバー」

 

メリーも笑い返す。

 

やがて、波の音に紛れて、遠くで教会の鐘が一度だけ鳴った。

 

深夜のモナコ。

亡霊たちが静かに眠り、そして――明日、再び目を覚ます。




夜明けのモナコ。
霧を抜けた先に、牙を剥く影がある――

DAY2。ルートはより標高差の激しい山岳地帯へと進み、連続するクレストと急勾配、そして凍結の気配が漂う“魔の下り”が待ち受ける。

「メリー、次、ライン外すと……飛ぶよ」

「外さない。“絶対に”」

だがそのとき、背後から現れた黒き獣――
トヨタ・222Dが、今度は“仕掛けてくる”。

その走りは、音を立てずに迫り、
その加速は、風を裂く。

「気配だけで、抜かれた気がした――」

亡霊と亡霊。
だがこの日、彼らは初めて“戦場”で並び立つ。

――Monte Carlo Mally LEG9『風が裂く、その名は黒き222D』
競う者すら名を知らぬまま、勝負の火蓋は切って落とされた。
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