風の吹かない場所では、空気がどんどん濁っていく。
生ぬるく、肌と肺がザラッとするような感覚。
かつて転んだ拍子にバッタを手で潰したことがあるが、その気持ち悪さは手を洗っても何故か抜けなかった。それと少し似ているような感覚。
汚れの有無は関係がない。“気持ち悪い”という意識がどんどん広がっていき、感覚を汚す感覚。
息を吸って、吐く。
たったそれだけの行為が気持ち悪い。
心なしか肌が粟立ってきたような気もして、彼はため息を一つこぼす。
「──であるからしてXは2になって──」
そう、今は授業中だった。
だからこの教室の中から抜け出すことはできないし、勤勉な学生として生きるのであれば尚更だ。
息が詰まる、と。
そんな風に思いながら、彼は授業の時間を過ごすのだった。
本当のことを言えば、今すぐにでも窓を開けて教室を換気したいところだった。
だが困ったことに、
なにせ彼の名は八雲である。“や”、である。
2年生に進級したばかりの今、名前の順で並べられるとどうしたって窓際には行けない。諸行無常とはこのことである。
そして苦しみはキンコンカンコン、と軽やかなチャイムの音が鳴るまで続いた。教師が授業を終える宣言をする。そして教室に喧騒が満ちる。
「や、今日もなんか不機嫌そうやん」
その喧騒の一部である生徒──、青嵐の友人である
「おー、そんな怖い顔せんでもええやんか。生理?」
「おれは男だが。というかだいたい知ってるだろう。いつものアレだ」
青嵐は、自分がいつも身につけているマスクを示す。
「大変やな、その女の子アレルギー。女の子がたくさんいるとこいたらしんどいんやろ。僕には考えられんなぁ」
「アレルギーという言い方は語弊があるかもしれんが……まぁ話すにしても外に行かないか」
「おー、おけおけ」
青嵐は席を立ち、廊下の方へと赴く。
やはり人口密度が教室内と比べて段違いに低く、空間も広々としている廊下は空気の循環も良い気がした。
カラカラ、と。
青嵐は窓を数センチぶんだけ開けて、その近くに背中を預ける。朝春もまた彼の隣に来て、2人して自然とクラスを窓越しに眺める状況になった。
「やっぱそんくらいでも違うもんなん? 息の吸いやすさ」
朝春は、少しだけ開けられた窓を指差す。青嵐とは去年からの付き合いで、彼がやや面倒な性質をしていることは理解してくれていた。
すなわち、『異性アレルギー』のことを。
触れるのはもちろん、同じ空間に長くいることすら苦手という筋金入りである。
「まあ当たり前やけど人には体臭とかあるし、香水やらが苦手って人もおるし、なんとなくわからんでもないけどなぁ」
「体臭というものは、もうその人間の一部だからな。流石におれも馬鹿らしいと思ってはいるが、いかんせん感覚の問題だからな」
「女の子の二酸化炭素が苦手って言うんたぶん青嵐くらいやんな」
「そうかもしれんな」
今日は比較的大気の状態が安定しているらしく、開けた窓からの風の流れを感じない。青嵐はそれに眉を顰めて、朝春はそんな彼の様子に苦笑する。
「そんな怠いんなら普通に授業中も窓開けたらええやん。アレルギーみたいなもんやろ? 僕にはあんまよくわからんけど」
「馬鹿言え。今何月だと思っている。4月だぞ。そして全国の花粉症患者の割合がいくつだと思っている」
「いや知らんけど」
「4割だ。もちろんこんな数字は聞く相手、場所、母数によって大きく変動するだろうが少なくとも2割はいると見ていい。つまりクラスの中に5人はいる換算になる。逆に多ければ15人いるかもな。そんな状況で窓を開けてみろ、多くの人間が死ぬ」
「死ぬのは困るなぁ」
「そうだろう」
「でも青嵐が死んでも困るし適度にやってほしいけどなぁ」
「必要な犠牲だった」
「ほなしゃーないか……」
そんな風にくだらない話をしつつ時間を過ごしていると、ふと朝春が「お」と声を上げる。
朝春の視線の先には、美男美女の2人組がいた。ちょうど、廊下側窓から透けて見える位置だった。
席に座っている彼女に、男が近づいていったような構図。
「なあ
「……はぇ?」
意外と廊下まで声が聞こえてくる。よく見ると窓がいつの間にか半開きだった。青嵐の授業中の苦しみはなんだったのかと歯噛みする。
廊下側とはいえ、あんなことをしては花粉症患者の恨みを買ってしまうに違いなかった。
「えー、きみ誰?」
「ええ? 知らない? 俺サッカー部の──」
「知らないなぁ……」
柚月と呼ばれた少女は、肩ひじをついてダラっとした様子だった。顔は笑っているものの、発している言葉は粗雑で、少々相対している男の扱いが悪い。
「でもそうだなぁ。LINEくらい教えてもいいけどつまんない連絡してきたらブロックするし何の連絡してこなくてもブロックするけどそれでもいいならいいよ」
「……えっ」
トドメの如く、きれいな笑顔で、柚月はさらっと酷い追撃をする。
高身長顔良男は、何を言われているのかわからない様子で、唖然としていた。
そうしてそんな様子を他人事として眺めつつ、青嵐らは感嘆としていた。
「よそのクラスからも告白してくる人来るんやなぁ。やっぱ柚月さんはさすがやわ」
「よくあんな公衆の面前でやるもんだ」
「それなぁ」
たかが連絡先一つ断らなくていいものを──、と青嵐は思ったが、やはりあれだけの美人だと、想像のつかない範囲で色々大変なのかもしれなかった。彼にはよくわからないが、仕方がないところもあるのだろう。
「僕も連絡先聞いてみよかな」
「まあいいんじゃないか」
「青嵐も聞いてみたらどうや?」
「おれには無縁の相手だろう」
「いうても同じクラスやしなんなら今席近いやん」
「それはそうだが」
しかし、業務的なやり取りはともかく、私的な関係を持つことはないだろうな──、と思いながらぼんやり柚月の顔を眺めていると。
ふと、彼女と目が合った。
何故有名なのか。その理由は極めて簡単だ。
彼女が“他人の目を惹く”少女だからだ。
春の桜が人々を魅了するように。夏の木漏れ日が情景を生むように。秋の夕暮れが心にじんと沁み入るように。冬の雪がすべてを白く染め上げるように。
彼女は、そこにいるだけで人を魅力する存在だった。ただ容姿に優れているのとはまた違う、どこか特別な空気感。
だから誰しもが柚月風鈴の名を覚えるし、縁がなくとも存在自体は知っている。
かくいう青嵐も、──彼はあまり縁の合った人間以外覚えないが、柚月風鈴という名前は知っていた。
「それで、何か用か? わざわざ放課後じゃないといけない用件に心当たりがないんだが」
そこには一面に大きな字で『放課後屋上に来てネ』とだけ書いてある。なお、その紙は授業中、後ろの席から差し出された。
すなわち、“や”の後の“ゆ”の苗字を持つ相手から。
柚月風鈴から。
「……あは。そのリアクションは想定外だなぁ。でもそうでなくちゃ困っちゃうしね、嬉しいよ」
「……? ちなみに想定内だとどうなるんだ?」
「『ああ! 柚月さんから放課後呼び出されちゃったっ……! な、なんの用なんだろう……も、もしかしてこ、告白……?!』……とか? そんな感じじゃない?」
「迫真の演技だな」
「でしょー? 結構声真似とかも自信あるんだよ、ふふん。なんかやってあげよっか?」
「3回まわってワンと言ってみてくれ」
「……えぇ? そういう趣味……?」
風鈴は頬を引き攣らせて、じりじりと後退する。彼女の背には屋上のフェンスがあり、上履きの踵がカシャンと触れる。
もう後退できないことに気づいた風鈴は、意を決したようにその場で回りはじめた。
「…………わん!」
「本当にやったぞコイツ!」
「でもわたし、どっちかっていうと猫っぽいって言われるんだよね」
「そうか……じゃあ次は『にゃあ』で頼む」
「やだ」
「猫はだめなのか……」
理解に苦しむ、という様子で青嵐は腕を組んで唸る。
それを見て風鈴は「あは」と笑みをこぼす。
「いいね。思ってたより、きみ良い感じ。あんまりやな感じしないね?」
「そうか?」
「男の子にはわかんないかもしんないけど、やっぱり胸元じろじろ見られたり太もも見られたり、あとはまあ顔もかな? 顔ガン見されるのもちょっとなぁ……別に視界に入るのはそりゃ咎めないけど、なんか目つきが厭らしいっていうか……ねぇ?」
「ああ、やっぱりそういうことには苦労してるんだな」
青嵐は風鈴の上から下までをざっと眺め、頷く。
視線を集めるのも納得だ、と。
「客観的な事実として、整った容姿をしてることには違いない」
「そうなんだよね。わたし可愛いから」
風鈴は片目を閉じて、悪戯っぽく笑う。
たったそれだけの動作がやけに絵になっていて、彼女のまわりだけ世界から浮き上がっているようにすら見える。
まず目がいくのは、栗色のさらりと長い髪だ。ポニーテールの形にくくられているというのに、腰ほどまであるのは驚嘆する他ない。しかも傷みの一切を感じず、彼女が動くたびに陽光で煌めいている。
また、栗色の髪に彩られているのは端麗で華やかな面立ちだ。常に微笑みが浮かべられていて愛らしいが、形の良い目元にはどこか妖艶さがある。やや色素の薄い瞳もまた、どこか非現実的な印象を与えていた。
着ているものはただの学校指定の制服だが、それもまた彼女のためにあつらえたかのように似合っている。紺色のブレザー、薄グレーのカーディガン、モノクロのチェックスカート。リボンはなく、シャツのボタンは二つ外されている。ブレザーも羽織るだけでボタンを留めていないため、少し気崩したような印象だ。
それ故に胸部を押し上げる膨らみの豊かさも目立っていて、それもまた異性として見れば大きな魅力だろう。
「それで、その高嶺の花代表が結局なんの用だ?」
「あぁうん。だからつまり、わたしってモテるんだよね」
「そうだろうな」
風鈴は髪を指先でくるくるいじりながら、あどけない笑みを浮かべる。それは遊び心に満ちた無邪気な笑み。
普通は可愛らしいと思うのかもしれないが、現在に至るまでのあらゆることが不明瞭すぎて、青嵐は逆に不気味さすら感じていた。
「というわけで、わたしの彼氏になってくれない?」
「何がというわけでなのかサッパリだな」
「彼氏とは言っても本当に付き合ってほしいわけじゃなくて、要するに“付き合ってるってことにしてほしい”んだけど」
「何がというわけでなのかが読めてきたな」
風向きが怪しくなってきたような。
風の吹く方向が読めてきたような。
そんな気配を感じつつ、青嵐はフェンスの方へ向かって、なんとなく校庭を見下ろす。風鈴もてこてこと後をついてきて、何を見ているの、とでも言いたげに同じように校庭を眺めはじめた。
目に映るのは、まばらに帰路に着く生徒たち。本来なら自分もあの集団の仲間だったはずなのに、何故だかこんなところにいる。
しかもせっかくの屋上だというのに、今日は無風だった。風通しのいい空間だというのに勿体無いな、と青嵐はため息をこぼす。
「わ、すごい嫌そう」
「この誘いを喜んで引き受ける奴は下心全武装野郎か聖人のごとく心の清い奴のどちらかだろうな。生憎、おれはそのどちらでもない」
「そこをどうにか」
「ならない」
「えー」
何が楽しいのかずっと笑顔を浮かべている風鈴と、嫌そうに眉間に皺を寄せる青嵐は、どこか少し対照的だった。
だからこそ片方の出した提案に、もう片方がそう易々と頷くことはない。
「一応確認しておくが、要するに『男除けがほしい』というようなニュアンスでいいのか? 恋人役がいれば告白されることもなくなるだろうと、そういうことか?」
「そういうことだね」
念のための確認だったが、予想通りの回答だった。彼はマスクの下で、面倒だなと息を吐く。
「追加の質問だが」
「うん。何?」
「そもそもなんでおれなんだ? まともに会話するのは初めてだと思うが」
「え? わかんない?」
「……? いや、わかるわけないだろ」
「結構わかりやすいと思うんだけどなぁ……うーん……」
「? …………いや、わからんな」
「席が近いからだよ」
「つまり誰でもいいんだな?!」
手のひらで遊ばれているような胡乱な言い回しに、思わず声を荒げる。
そんな青嵐の様子に、あは、と風鈴は楽しげな笑みを浮かべている。
「ちょっとだけ真面目に答えると、きみがわたしにあんまり興味なさそうだから?」
「興味……?」
「2年になってまだ1週間そこらではあるけど、なんとなくね? きみって必要以上にこっちのこと見もしないじゃない?」
「ふむ」
その指摘は的を射ていた。
青嵐は、意識的に、避けている。
「でもそれって別にわたしだけにじゃないんだよね。クラスの女の子全員に対してそうみたいなんだよ」
「……そうかもな」
つまるところ、
「──もしかしなくても女の子苦手?」
青嵐が意識的に異性を避けている理由は、そこになる。
苦虫を噛み潰したような顔で、青嵐は頷く。
「あは。やっぱりそうなんだ」
当たりぃ〜〜、と風鈴は手を合わせて小躍りして喜ぶ。
「わたしの見る目結構しっかりしてると思わない? なんかさ、潔癖症っていうのは噂になってるの聞いたんだよね。マスクはともかくとして手袋してるのはちょっと目立つし。でもあんま男の子同士でいるとき、別に接触とか避けてる風にも見えなくてさー」
青嵐は、マスクと手袋を常用している。
加えて言うと袖をまくることもないし、制服のシャツは上まできっちり留まっている。
ネクタイまできゅっと締められたその姿は、制服を着る上で最大限の遮断力を発揮している。
それは、接触を避けるための形。
不器用な処世術の、一つの形。
それは潔癖症の振る舞いに少し似ているが、実際のところは異性を苦手とする故の在り方だった。
「……まあ、言わんとすることはわかってきた。要するにあれか。異性が苦手なら自分に色目使うこともないだろうと?」
「そうそう。わたしは男の子が苦手で、きみは女の子が苦手ってことじゃない? 言っちゃえば似たような感じだし、ちょっとわかってくれるかなーとか」
「確かに異性が苦手という点で多少分かり合えるのかもしれんが……まぁ、どちらにせよお断りだな」
「なんで?」
「理由を説明する必要あるか?」
「逆に拒否権あると思ってる?」
「思ってるが?! 何様だお前!」
「風鈴さまって呼びたければ呼んでもいいよ」
「呼ぶわけがないだろ!」
「あは。でもあんまり断られると思ってなかったなぁ」
「当たり前だろう。馬鹿か」
風鈴にとってはメリットがあるが、青嵐にとっては現状デメリットしかない。彼女に好意を抱いている人間が同じことを言われたら、最初彼女が言ったような『ゆ、柚月さんからの……告白……?!』というようなメリットというものがあったのかもしれない。
が、当の風鈴がそのような反応をする人間を求めていないため、この応答は必然的だったと言える。
「意外とwin-winな関係になれると思ってたんだけど」
「どういう思考回路だ……」
「苦手なものが同じだし、共生できそうな感じしない?」
「なんとなくわからないではないが。そっちにあるような『男除け』のようなメリットがおれにはないからな」
「でもわたしの生きる助力ができるの光栄じゃない?」
「おれは柚月教の信者か何かか?」
「違うの?」
「違うに決まってるだろ!」
あはー、と笑みをこぼす風鈴に、思わず青嵐は声を荒げる。
「でもそういう話なら帰るぞ。誰か別を当たってくれ」
「まあまあそう言わずに。ていうか、ここで話が終わると明日会うとき気まずいじゃない? もうちょっと話さない? ね?」
「その気づきは手紙を寄越す前にほしかったところだ」
悪態を吐きながら、青嵐は考える。
確かに風鈴の言うことにも一理あった。親交を深めること自体にはメリットしかない。
現在、時期としては2年生の4月。
つまりこれから約1年同じクラスで過ごすことになり、出席番号は前後している。
出席番号順に並ぶ機会は絶対にあるだろうし、であれば悪しき関係を築くことに懸念がないと言われれば嘘になる。
「…………少しだけだぞ」
「あ、デレた」
「帰るぞ」
「ごめんごめん」
「…………で、何話すんだ」
「立ち話もなんだし座らない? 向こうにベンチあるよ」
「自由か?」
軽い足取りで、風鈴は屋上の奥まったところへ歩いていく。
揺れる栗色のポニーテール。
それに自然と目を奪われながら、青嵐は彼女についていく。
「潔癖症ってわけじゃないんだよね?」
「人として汚いものより綺麗なもののほうが好きだが……ここに座ることに対しての是非の話なら別に特に気にならない」
「ならいっか」
学校の屋上は、存外寂れているし人気がない。
彼らの目の前にあるベンチは、それを象徴しているかのようだった。元は青だったであろう塗装は色褪せているし、ところどころ禿げている。
風鈴はその寂れて少し汚らしいベンチを厭う様子もなく、ストンと腰を下ろす。青嵐はそれを見て、体二つぶんほどの距離を空けて座る。
「でね?」
ずい、と風鈴は体を寄せ、絹糸のように細く、けれど芯の通った声で囁く。
それを受けて青嵐は思わずのけぞり、ぎょっとする。
「近いな。お前、男苦手って話じゃなかったか」
「えー? それはそうなんだけど……」
青嵐は、じり、と少し距離を空ける。
どうやら青嵐と風鈴を比較すると、青嵐のほうがプライベートスペースが狭いらしかった。
そんな彼の振る舞いに、風鈴は「んー」と少し考える素振りをして、喋り出す。
「わたし、きみ相手なら平気かも?」
「何?」
「ほら、わたしが嫌なのはやっぱり厭らしい目で見られるからだし。むしろきみのほうが嫌がってる状態だと気にならないっていうかむしろ嗜虐心が刺激されるっていうか?」
ずい、と下から覗き込むように、風鈴は彼の様子を伺う。それは男を苦手としている仕草というよりは、異性を揶揄って愉しむ仕草だった。
青嵐は心中で舌打ちし、それを口にする代わりに、ジッと上から下まで風鈴の体を舐め回すように眺める。
「…………」
「? なに? どうかした?」
「視姦をしている」
「え、なに、嫌がらせ?」
「そうだ」
「この会話の流れで嫌がらせも何もないと思うんだけど、ちなみに感想は?」
「ふむ」
そう言われたら少し困るな、と青嵐は顎に手をやって唸る。
「…………ふむ」
しかし熟考時間が長引くと、さすがに少し思うところがあったのか、風鈴は足をすり寄せて、身を抱える。
「黙んないでよ。ちょっと恥ずかしいじゃん」
「なんだ。やっぱり効いてるんじゃないか」
「いや嫌がらせとしては機能してないけど」
「なんだと?」
なんだコイツ、と青嵐は眉間の皺を深くする。最初から今の今まで、柚月風鈴という人間のことが全然わからない。
「で、何か感想はないの?」
「必要か?」
「あれだけジロジロ見られて何もなかったらちょっと寂しくない?」
「そうか? ……そうか。……まあしいていうならあれだな。髪そこまで長いと邪魔じゃないのか?」
「そこ?」
風鈴は後頭部に手をまわして、垂れているポニーテールをするりと梳かす。
そしてパチパチと目を瞬いて、小首を傾げる。
「やっぱりもしかしなくても髪フェチ?」
「なんでそうなる。単にそこまで長いと不便だろうと思っただけだ。いまだって背もたれに当たっていたりするだろう」
「確かに夏場とかはあっつくてヤんなったりするし乾かすのに時間かかったりはするけど」
あは、と風鈴は今にも舌を出しそうな悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でもきみも長い髪好きでしょ? わたしも気に入ってるし」
「特に何も言ってないのに急に髪が好きな男に仕立て上げられている……」
「でも間違ってはないでしょ? 『否定はできないな……』みたいな顔してるし」
「どんな顔だどんな」
「あは。でも否定はしないじゃない?」
「……」
青嵐は、深いため息を吐く。
否定すること自体は簡単だったが、別にそのような会話をしに来たわけでもない。
「まぁ、それはいい。さっさと本題に入ろう。それで結局何話すんだ」
「言い争いをせずにあわよくばきみが明日からわたしの彼氏役やってくれそうないい感じの会話の流れになる話がいいな」
「コイツ……」
「実際きみって、女の子どれくらい苦手なの?」
「……」
「え、もしかして聞いたらダメな奴?」
「別にそういうわけじゃないが。何と言えば諦めてもらえる内容になるかを考えていた」
「えー?」
「でもそうだな……おそらくお前が思ってるよりは苦手だぞ。別に漫画みたいに卒倒したりはしないが」
青嵐はあまり、嘘を吐くのは得意ではない。
ある程度は正直に、けれど諦めてもらえるよう論理を整えて説明していく。
「だからもちろん生活に困るほどではないし、結局は気分の問題だ。異性と一緒にいて人体に害があるわけがない。だがこの場において重要なのはそこではなく、おれの友人はそれを知っているということだ。さすがにいきなり女と付き合いはじめたらおかしいだろう。おそらく信憑性が皆無だぞ」
ふふん、と青嵐は自信ありげに鼻を鳴らす。
苦手な度合いはさしたる問題ではなく、それが周知されてる事実こそが重要なのではないかと。
実際彼女が求めているのは、その『周りがどう認識するか』というところであろうし、妥当な断り文句だと思えた。
「でもそれ、クラスの全員が知ってるようなことでもないよね? 信憑性皆無って言うのは言い過ぎじゃない?」
「……」
「どうとでもなりそうな気もするよね」
ね? と朗らかな笑みを浮かべる風鈴に、彼はあんまりにも横暴な言い草だと呆れることしかできなかった。
自己中心的な物言い。青嵐の不快感を度外視した文脈。
流石に、会話になっていない。この自己中心モンスターをどうやって説得すべきか、と彼は眉根を寄せる。
「しかしだな……」
本来、風鈴が彼に頼み事をしているわけなのだが、いかんせん何故だか青嵐が風鈴を諦めるように説得するような構図になっていた。
「あ、ていうかさ」
そして風鈴は、指をピンと立てて、一つの提案をする。
「わたしが、きみのトラウマ克服の手伝いしようか?」
名案! とでも言いたげに、風鈴は表情をパッと明るくする。
「うんうんそうだよ、今ふと思いついたけど、悪くなくない? きみはトラウマ克服できてラッキーだし、わたしは彼氏役ができてハッピーだし、これでwin-winじゃない?」
「待て待て! 突っ込みどころしかない論法をやめろ!」
まず青嵐が異性にトラウマを持ってるなんてことは一言も言っていない。異性が苦手な理由に心因性以外の要因がないと言われればそれまでだが、思い込みの判断であるのはそうだろう。
加えて、何もwin-winではない。
「いいか、知らないなら教えてやろう。ピーマンが苦手な子供にピーマンを食べさせると、ピーマンがより一層嫌いになるものだ」
「へえ、きみ嫌いな食べ物克服しないタイプ?」
「そんなことはないが?」
「じゃあ女の子苦手なのも克服しようよ。そんな一般論じゃなくてさ、きみはピーマン苦手なら食べて克服するタイプに見えるけど」
「……」
「いまちょっと納得したよね?」
「してない」
「『一理あるな』みたいな顔したでしょ」
「してないが?」
毅然とした表情で、青嵐は否定する。
しかし実際、長期的に見ると一理あるのは事実だった。
花粉症を患っていると、過ごしやすいはずの春秋の時期、──花粉の時期が辛くなる。目がかゆくなって、鼻水が出て、酷い場合は薬を処方してもらわないといけない。
それと同じで、女性が多くいる空間、例えば教室などにいるだけで彼は気分が悪くなる。
だからと言って死ぬわけではないが、改善に向かうならばその方がいいに決まっていた。
が、しかし。
「そもそもお前の性格が悪すぎる。仮にやるとして、やっていける気がしない」
「でもさ、優しい子相手にぞんざいな扱いってできなくない? ビジネス的なお付き合いするなら良い子相手じゃないほうがいいな、わたしは」
「……」
「あ、また『一理あるな』って顔した」
「してないが?」
確かに柚月風鈴という女は、顔面をぶん殴ってもいいタイプのように思えた。
それを付き合いやすい相手と言うなら確かに、貴重な出逢いなのかもしれない。
が、しかし。
「そんなこと言っておまえ、普通に煽って乗せようとしてるだけだろう」
「あは。バレた」
先ほどから本当に論法が強引すぎる。
こんな提案に乗るのは聖人君子か、相手に弱みを握られてしまった哀れな子羊くらいだろう。
そして、彼はそのどちらでもない。
少し強めの語気で、彼は口を開いて、
「無理なものは無──」
「心配しなくても大丈夫! いまから入れる保険があります!」
「は?」
断ろうと口を開いたそれを潰すように、風鈴は声をかぶせる。
「ねぇ、それ貸して」
「……これか? お前が寄越したただの紙切れだぞ」
「いま手元にある紙それだけだし。新しいの出すの面倒だし」
風鈴が指差したのは、なんだかんだとずっと手元で遊ばせていた、呼び出しの紙切れ。
青嵐は訝しげな顔をしながら、ベンチの上をスライドさせるようにスッと差し出した。
「いまからこれで紙飛行機を作り出します」
「……?」
「あは。まぁ見ててよ」
風鈴は、受け取った紙切れの皺を丁寧に広げていく。
けれど、もともとルーズリーフを適当に千切ったような紙切れであるし、もちろん端にはルーズリーフ特有の穴も並んでいる。
シワを伸ばしても、当然シワが綺麗に消えるわけもなく、とてもじゃないが綺麗な状態とは言えない。
「紙飛行機とか久しぶりに作るなぁ」
「……普通に意味がわからないんだが、なんでいきなり折り紙なんだ?」
「こっちが聞きたいよ。なんで?」
「おれが聞いてるんだが?」
「そうだなぁ……」
苦笑を滲ませつつ、風鈴は青嵐の顔をじっと見つめ返す。
思案の沈黙。
風鈴が何か言葉を選んでいるのは何となく青嵐にも理解できた。だから特に何も言うことなく、彼はただ待って。
ほんの少し、お互いを見て、お互いのことを考える沈黙の間が生まれた。
「……と、いうわけでだよ?」
神妙な顔で風鈴は口を開き。
そして一転。
「この紙飛行機が向こうのフェンスを越えたらきみはわたしと付き合います」
「おい」
「え? 何か問題ある?」
「問題しかないだろう。紙飛行機ってそのためか?!」
青嵐が声を荒げると、風鈴は大きくため息をついて、やれやれ……と大きくかぶりを振る。
そして子どもを諭すような雰囲気で、「いい?」と語る。
「どうせきみはそこまで乗り気じゃないだろうし、だからと言ってわたしも引き下がらないし」
「下がれ、そこは」
「じゃあもう、白黒はっきりつく賭け事のほうがいいでしょ?」
「……」
「『一理あるな』みたいな顔してるしOKってことで」
「してないが?」
一理あるなという顔つきというのは一体なんなんだ、と青嵐は自分の眉間をもみほぐす。
青嵐はずっと無愛想な顔をしている。眉間に皺を寄せて、少し態度の悪そうに腕を組んでいる。一見してそこから読み取れるのは『この人は機嫌が悪いのだな』ということだけだろう。
だが、彼が内心『その条件で諦めてくれるなら有りではある』と思っていたのも事実で、つまり結果論として風鈴の発言は的を射ている。
人の内心を見る慧眼については褒めてやりたいところではあるが、しかし賭けの条件については愚かと言わざるを得なかった。
「向こうのフェンスまで───と言ってたが、あそこまで飛ばすのはまず無理だぞ。それでいいのか?」
風鈴の提示した条件は、ひどく彼に有利であった。素直にこの条件を呑めば、まず間違いなく彼が勝つ。
何故なら屋上という空間は広いからだ。
そして風鈴の指す『向こうのフェンス』は対位置に近く、見るからに遠い。
それを指摘しても、風鈴は特に気にすることなく、穏やかな笑みを浮かべていた。
「いいんだよ。届いても届かなくても」
「言ってることが意味不明すぎる」
「わかるように言ってないから当然じゃない?」
「殴るぞ」
「……あは」
飄々とした、掴みどころのないやり取り。
なにを考えているのか。なにがしたいのか。結局彼にはよくわからないままだった。
「とりあえず、これで決めることに異論はないよね? あってもやるけど」
「……まぁ、好きにしたらいいんじゃないか? 後でごねるなよ」
「もち」
しゅた、と風鈴は機敏に立ち上がり、紙飛行機を構える。
「見ててね」
「わかったから早くやれ」
「ふふん。これで勝ったら、きみはわたしの奴隷……」
「要求レベルを勝手に上げるな」
すー、はー。
風鈴は、深呼吸を一つした。
彼女の目の前に広がるのは、広々とした屋上、そして空。
それに対して彼女が投げる紙飛行機はひどくちっぽけで。だからこそ空に投げ放つことに意味があって。
『空を飛ぶもの』に、軽い口づけを一つ。
青嵐にはわからない。彼からは見えない角度での、彼女なりの
「じゃあいくよ」
そうして、前の席の誰かにちょっかいを出すような軽い雰囲気で、風鈴は紙飛行機を投げた。
へろへろ、と。
歪な形をしたそれは、まっすぐに飛ぶことすらなくて。
息を呑む間に、落下するだろうと2人が悟って。
がっかりした声を彼女が上げようとしたその時に。
風が、吹いた。
「きゃっ」
スカートをまくる突風。ビュオオ、と音が鳴るほどの強風に、彼女は軽い悲鳴をあげて、スカートを押さえる。
「え、ちょ、見た?!」
「……ああ」
「うわー! もっと可愛いの履いとけばよかった!」
「は? いや違うだろお前が見とけって言ったんだろうが」
「あ」
青嵐が空の向こうを指差し、風鈴は間の抜けた声でその方角を見る。
「え、どこ行ったのあれ」
「……知らん。とりあえず空の彼方だな」
「わたしの勝ち?」
「……」
「『わたしの勝ち』って顔してる!」
「してないが?」
歪で小さな紙飛行機は、風にさらわれてどこかへ消えた。
それが向こうのフェンスを越えたかどうか。
正確な軌跡を追っていた青嵐にとって、その答えは決まっていた。
「別にお前の勝ちだという顔はしてないが、まぁお前の勝ちだな」
「え、ほんとに? いや……こんなことあるんだね。100%無理だと思ってたのに」
「おい」
会話をしながら、彼は軽く嘆息を吐く。出来すぎだと言いたくなるあんまりなシチュエーション。
ここまでくると、いっそ文句を垂れる気にもなれない。
「じゃあそういうわけで、明日からよろしくね!」
風でたなびく長髪に、煌めく笑顔。
驚くほど綺麗な笑みに、青嵐はまた一つため息をこぼす。
「……勘弁してくれ」
明日からどうなってしまうのか、と青嵐は空を仰ぐ。
けれど、瞳の中に映る風景は存外綺麗だった。
気付けば雲間からは光が差していて、空には心地いい風が吹いていた。