「『ボルバキア』と呼ばれる細菌があります。これは宿主の細胞内に存在し、宿主と関わり合いを持ちながら生活する共生細菌の一種であり、主に節足動物の体内に寄生しています。共生細菌には、皮膚を保護してくれる表皮ブドウ球菌や、消化を助けてくれる大腸菌など、宿主にメリットをもたらしてくれるものもありますが、このボルバキアは利己的に作用し、宿主を自身の繁殖に都合のいいように作り変えてしまいます。ボルバキアは主に生殖に関わる細胞、特に卵巣に感染し、母方の遺伝子から子へ遺伝します。一方で、成熟した精子には存在することが出来ないため、ボルバキアが自身を増やすためには、種全体におけるメスの割合を増やすことが効率がいいのです」
「そこで、ボルバキアは宿主の生殖システムに作用して、生まれてくる個体の性別を変えるという戦略をとりました。例えば、オスの形質に関わるタンパク質を攻撃し、無力化してしまいます。こうなるとその個体は長く生きられない。ボルバキアに感染したある蛾は、遺伝子が破綻し胚子、もしくは幼虫のうちに死んでしまうそうです」
「現在、僕たち人間の体にも、同じようなことが起こっています。えーーっと、何年だっけ。まぁいいや。その辺は歴史の斎藤先生に任せます。……で、あぁ。人間の話か。現在世界的な男女比は20:80。知っての通り、男20%の女80%ですね。なぜこれほどまでに男女比が偏ってしまったのか。現時点では理由はまだ判然としていませんが、ボルバキアに似た共生細菌の仕業ではないかとする見方が有力なようです。……ここまでで何か質問は?」
まくしたてるように言った後、僕は静寂に満ちた教室を見渡した。穏やかな陽気の差し込む昼下がり。カーテンがふわりと揺れて気持ちのいい風が吹き込む。目の前には、等間隔で並べられた机と、それらに向かう生徒たちの姿。
こちらに真剣なまなざしを送っている者もいれば、ニヤニヤと笑みを浮かべながら内緒話をしている者もいて。あるいは机に突っ伏して眠りこけている者もいる。
ただ一つ共通するのは、教室にいる生徒の全てが、女子生徒であること。
機を伺っているのか、それとも本当に疑問がないから黙っているのか。判断に困るこの時間が、僕はどうにも苦手だった。
気まずさから逃れるために、左手に抱えた教員用の教科書に視線を落とす。さて、どこまで話したんだったか。中間試験まではそう日がないっていうのに、このクラスだけ大分進行が遅れていて、範囲を進めきれるか不安が残る。最悪の場合、テスト範囲自体を狭める必要があるかもな。けどそれをしてしまうと、テストの設問を練り直さないといけなくなるし、何より期末試験の範囲が膨大になる。生徒と僕、お互いのためにもそれだけは避けたかった。
黒板の方に向き直り、解説の続きを始めようとしたところで、「せんせー」と呼ぶ声。この部屋において、『先生』に該当する人物は1人しかいない。はいはい何でしょうか。僕は振り返り、声の発生源に目を向ける。
肩ほどまで伸ばした茶髪の少女。茶髪と言うよりは、赤毛と言った方が適切かもしれない。染髪は禁止されていないとはいえ、自分が高校生だったころはこんなに明るい髪色の子はいなかった。これがジェンダーギャップか、それとも
挙手する彼女は、さきほどニヤつきながら私語をしていた生徒と同一人物で。厄介者ぞろいのこのクラスもなかでも特に厄介な生徒の一人。げんなりした内心が表情に現れないよう細心の注意を払いながら、彼女を指名する。
「……はい。曽根さん」
隣に座る金髪の女子生徒が、「おい、やめとけって」とかなんとかつぶやいている。しかし表情は喜色に満ちていて。本気で止めるつもりなど毛頭ないことは、誰の目に見ても明らかだった。
ややあって、茶髪の女子生徒――曽根
「えーっと、そのボランティア?って」
「ボルバキア、です」
「そーそーそれそれ。それって、何に寄生できないんでしたっけ?」
自身の発言と記憶、教科書を確認しなおし、彼女の質問の意図を理解する。肝心な語句は覚えていないくせに、どうしてそういう単語にだけはめざといのだろう。カクテルパーティ効果という奴だろうか、ちょっと違うかもしれないが、根本はだいたい同じだろう。
彼女の口角が天井に着きそうなほど上がっている。全く腹立たしいことだが、こんなことでいちいちキレていたのでは話にならない。この職業とはそういうものだ。あいつの思惑通りになるのは癪だが、聞かれたからには職務を全うしなくてはならない。僕は、鉛のように重い口をどうにかこじ開ける。
「……ボルバキアは成熟した精子には寄生できません。これでいいですか?」
「うひゃー!!お前ら聞いた!?男の口から精子って出るの、めっちゃ興奮するくね!?」
「いや男は出す側っしょ!つかアンタマジでえぐいって!」
曽根を中心としたクラスの一画から、ぎゃーぎゃーと下品な笑い声が吹きあがる。同時に、クラス全体がやにわに騒がしくなった。改めて教室を見回す。すると、ほとんどの人間が何かをこらえるように口元を結んでいた。
よくもまあこんなことで盛り上がれるもんだ。……いや、昔の自分も端から見ればそう映っていたのだろうか。ふと浮かんだ恐ろしい考えをかぶりを振って払う。いくらかやんちゃしていたことは事実だが、あそこまで節操なしではなかったはずだ。きっと、たぶん、めいびー。
コツコツ。教卓を指先で軽くたたく。ざわめきがピタリと止み、教室に静けさが戻ってくる。ただ、先ほどまでとは空気が違うことを僕は感じ取っていた。誰もが薄ら笑いを浮かべた、浮ついた雰囲気。
ここらで一度喝を入れてやるべきか、いや、どうせあいつらのことだ。それすらもまた笑いの種に昇華させるだけに違いない。僕の心に灯った熱血の炎が、見る見るうちにしぼんでいく。
新卒で教師になった時は、子どもたちを正しい方向へ導いてやるんだー、なんて意気込んでたものの。この仕事をはじめて早2年。今じゃそんな気持ちはすっかりなくなって。叱らないのは怒っていないからじゃない。呆れているか、言っても無駄だと思っているから。自分がやんちゃしていたころ叱ってくれていた先生は、実は生徒一人一人に向き合ってくれるいい先生だったんだな。と、改めて思ってみたり。
改めてチョークを持ち直す。とにかく、今はテスト範囲を進めるのが最優先だ。
自分の話など誰も聞いていないことを自覚しながら、解説の続きを始めた。
「――はぁ」
「今野先生。お疲れ様です」
授業はつつがなく終わり職員室。僕の担当は主に2年生の生物。しかし、今日の6時限目はどのクラスも別の教科なので、溜まった書類仕事やらプリントの作成やら行うため、自分のデスクに戻ってきていた。
腰を落ち着けながら先ほどの授業内容について一人反省会を開催していたところ、頭上から声がかけられた。
顔を上げれば、視界に飛び込んでくるせり出した主張の強い双丘。ワイシャツの悲鳴が聞こえてきそうな光景に、しばし圧倒されつつも。
「伊藤先生。お疲れ様です」
「5限目、2-1でしたよね。あそこの子たちはその、なんというか、元気いっぱいですから」
「はは……。まぁ、しょぼくれてるよりは、いいんじゃないですか」
声の主は長い髪を耳に掛けながら、右手に持ったマグカップをこちらに差し出す。彼女は僕と同じく2年生を担当する伊藤先生。教科は国語。一言礼をして、僕はそれを受け取った。手のひらに感じる温かさと、鼻腔をくすぐるコーヒーの匂い。アイスの方がよかったな、などとは決して口に出さない。
動物園並みの騒がしさと衛生状況を有するこの学校では、生徒と教師の隔たりは少ない。良く言えば親しみやすく、悪く言えば舐められている。友達に近い関係性が築かれることの多いこの場において、比較的冷静で、生徒とも一線を引いている人物。そのせいか、多少生徒から煙たがられているきらいはあるが、年頃の子どもなんて誰に対してもそんなもんだろう。
不意に彼女の視線が僕の胸元に移る。季節は5月半ば。気温はそう高くはないが、僕の座る窓際のデスクは直接日差しが当たり、必然体感温度は高くなる。それもあって、油断していた。親しい友人や両親からは幾度も注意されているが、いまさらどうにかなるようなものではない。この世界で生きた年数よりも長く、別の世界で生きた記憶が認識を歪めている。
……とはいえ少々気恥ずかしさはある。別に不快というわけではないが、このまま拝ませてやる義理もない。僕はそんなに安い男じゃないのだ。一つ上のボタンを締めると、伊藤先生は「あっ……」という吐息ともつかない声を小さく漏らした。
「いやまぁ、実際元気なのは構わないんですが。そのせいで授業を止められることも多くて。テスト範囲まで終われるかなぁ」
「今野先生も授業の進め方で悩んだりするんですね。てっきり、全部計算通りなのかと」
「そんなことないですよ。今年で3年目の若輩者ですし、ようやく慣れてきたところで」
「……もしよろしければ、今度2人で話しませんか?もちろんよこしまな気持ちではなく教師のあり方について真剣に――」
「あー……。そうですね。今は生徒たちのことで頭がいっぱいなので、またいつかの機会に」
やたら早口のお誘いを丁重に断ると、あからさまにショックを受けた様子を見せる。急速にしぼんでいくオーラが、物理的にもいくらか縮んでしまったのではないかと錯覚させた。悪い人ではないし、仕事仲間としては尊敬している。しかし、それとこれとは話が別で。今のところは特定の相手を作ろうとは思えない。
理由の一つは、先ほど言った通り仕事に集中するため。もう一つは、年齢差。30手前の彼女と僕では、実年齢に差がありすぎてなんとなく申し訳ない気持ちが勝る。
しょげる伊藤先生から視線を外すと、耳をそばだてていたのだろう、こちらに注目していた職員室中の教師たちが一斉に顔をそむける。あまりにも露骨すぎる。前世の女性たちも皆、こういうふうに感じていたのだろうか。
見回せば、対面に座る教師も女性。学年主任も女性。教頭も女性。
この学校にいる男性は、僕と、学食のおじちゃんと、備品の搬入に訪れる初老の男性だけで。実質僕一人と言ってもいい。
なおもチラチラとこちらを伺う彼女たちに、何度目かわからない嘆息。この世界に来てから、すっかり癖になってしまった。
――拝啓、前世の僕へ。生まれ変わった先は男女比の狂った貞操逆転世界で。僕はそこで女子高の教師をやっています。
序盤の説明ガバってたら教えてください。まあ不思議設定ってことで。