熱気のこもった空間、ゴム底と床の擦れる甲高い音。誰かが飛び跳ねるたび軽い振動が体に伝わり、生徒たちの掛け声がビリビリと窓を揺らす。
中間試験2週間前になったものの。文武のうち武に注力する
体育館の壇上に腰掛けながら、全体をぐるりと見渡す。こうして見ると、前世で通っていた学校のそれよりかは幾分広い。ウチの学校の場合、体育館はバレー・バスケ・バドミントンの1階と、卓球の2階に分かれている。手前では拙いながらもシャトルを打ち合う少女たち。一方、カーテンのようなネットを挟んだ奥側では、凄まじい気迫でもってボールをしばきあげている戦士たち。こうして見ると、種目は違えども練度の差というものが如実に感じられる。
鬼気迫る雰囲気がこの空間の熱を数段引き上げている。それはなにも、温度のことだけではない。
2年エース宮武千明の台頭によって、今年こそはと学校中からインターハイ本選出場への期待が高まっていることもあり、バレー部の気合の入りようには目を見張るものがあった。
ただ、やる気に関してはバドミントン部も負けてはいない。ラケットを握る手には力がこもり、まなざしは真剣そのもので。
その理由の1つは、間違いなく僕にあるのだけれども。
「この試合勝って今野先生に褒めてもらうのはアタシだぁ!くらえ!」
「死ね!えい!」
「ざっけんなくたばれ!」
すがすがしい汗とは対照的に、邪念のこもったシャトルとスポーツパーソンシップのかけらもない罵詈雑言が飛び交う。これでも本人たちはいたって真面目。
年頃の少女としてその言葉遣いはどうなんだと思いつつ、この期に及んで『女性らしさ』に囚われている自分に驚く。貞淑や清貧という言葉は、この世界において女性を形容するモノではない。
「先生、椅子持ってきたけど使いますか?」
「あ。ありがとうございます」
「あ、う。ど、どういたしまして?」
声を裏返しながら、ややしどろもどろに返事をする部員。そんなに気を使ってくれなくてもと苦笑するが、正直腰が疲れ始めていたのも事実。彼女の厚意に甘えて、折り畳み式の椅子を受け取る。
僕は、顧問として受け持つバドミントン部の練習を見に来ていた。椅子を展開しながら頭の中で指折り数える。前に様子を見に来た時から、ちょうど一週間ほど。忙しさにかまけて流石に放置しすぎたかと反省。
そこだー、やれーと、心の中で声援を送る。運動に興味はなかったが、人がやっているのを見ると、なかなかどうしてうずくものがあった。
思うような結果の残せていないバドミントン部は、いつも不遇な扱いを受けているが。今日は珍しく思う存分練習することができる日。そして、テストから逃れたいのは生徒たちだけではない。
問題用紙の作成に嫌気が差した僕は、気分転換も兼ねて、この場に足を運んだ。
体育館を中央で分かつネット越しに、癖っ毛の少女が「おーい!」と誰かを呼んでいる声がするが、たぶん気のせいだろう。今をときめくバレー部のエース様が、こちらを気にかけている暇なんてないはず。
唐突に、「しゃあ!!」と威勢のいい声が上がる。意識をそちらに戻すと、ちょうど決着がついたようだった。
「私の勝ちィ!寝とけ雑魚!」
「クッ、無念……」
勢いよくこちらに向けられる、何かを求めるようなキラキラとした視線。僕は軽く拍手をして答える。
顧問を任された時に、一応練習メニューを検索してはみたものの。正直あまり理解できなかったし、これまでのやり方に素人知識で口を出すのも憚られたので、基本的に練習メニューは彼女たちに一任している。
目の前に広がった4面あるコートのうち、半分はゲーム、半分は基礎練習中らしい。生徒同士がペアになり、片方が手投げしたシャトルをもう片方が打ち落とす。
そうだ、あまり見てあげられていない分、羽拾いでも手伝ってあげようか。
ふと思い立って腰を上げたところで、こちらに近寄ってくる人影に気が付いた。腰を半分浮かせた中途半端な体勢で会釈をする。
「バトミントン部、頑張ってるみたいね」
「えぇ、まぁ。バレー部の気迫には負けますけどね」
「あはは。それは当然よ。宮武のおかげで、インハイ出場に手が届きそうなんだから」
アスリートらしい恵まれた体格に物理的に見下される。
「今野先生は若いし男だから、生徒に舐められるでしょ。それじゃダメ、もっと厳しくいかないと。……そこ!練習中に歯は見せない!」
「まぁ、モチベーションには差がありますし」
「あんまり運動してこなかったみたいだから指導力が足りないのは仕方ないけど、それならそれなりに工夫しないと」
「……参考までに、どんなことができると思いますか?」
「先生いい体してんだから、一緒に練習でもしてやればいいんじゃない?運動部はみんな性欲強いからそれはもう一発よ」
発言全てがコンプライアンス違反すぎて逆にすごい。狙ってるんだとしたら神業だ。
この世界、セクハラに対する人権意識は前世に比べるとかなり遅れている。というか、そもそも社会に出ている男性の絶対数が少なすぎて育つ機会がなかったという方が正しいだろうか。学校という閉鎖的な社会であれば、なおさら。
前世でも学校ぐるみでのいじめや問題行為の隠ぺいなどが話題になることがあった。学校という空間は、ある意味で世間から独立している。加えて、人材の移り変わりが緩やかだ。長きにわたって女性中心の環境で形成された空気は、簡単に変わるものではない。確かこの学校は創立60年ほどだったと記憶しているが、最後に男性教員がいたのは20年以上前に一人いたきりだという。
じゃあなんで僕がこの学校に来たかは――知らない。教育委員会に聞いてくれ。
マイノリティであることはつまり、社会的弱者であるということだ。単純な数の話で、一人より大勢の方が強いに決まっている。
それにしても。体育会系と一言に括ってしまうと、それもそれでハラスメントになってしまうのだろうが。スポーツを人生の中心にして生きてきた人物というのはやはり、特有の空気感を持っている。おそらくは、熾烈な競争社会を勝ち抜いてきたという自負が根底となって、高圧的な態度に出るのだろう。
隣では今もなお自慢話が続く。「私は国体の強化選手に選ばれたこともある」「チームの中じゃ、一番モテた」。
虚実入り混じった雑多な内容。すごいことはわかるが、どれくらいすごいかはよくわからない自慢話を僕は『さしすせそ』で受け流す。ホント、いつもお世話になっております。
「そこを私が反応して――今野先生、聞いてる?」
「え?あぁ……。すみません。練習に夢中になってました」
「人の話はちゃんと聞かないと。カッコよく笑って立ってればいいってもんじゃないんだから」
「はは……。すみません」
片方の口角だけを吊り上げた、嫌味っぽい笑い方。愛想笑いを浮かべながらも、貧乏ゆすりが出そうになるのを必死でこらえる。
僕は比較的温厚な人間だと自称しているが、ストレスを感じないわけではない。どうせ怒ったって状況が悪くなるだけ、そう言い聞かせて。一刻も早くこの時間が終わってくれと願いながら、つい、時計を確認してしまう。
その時だった、僕の左肩に、温かい何かが触れる気配。
僕はこの感触を知っている。怖気が走る。息が詰まる。生ぬるい、人肌の温もり――。
おもわず、身をひねってそれを振り払ってしまった。
「なっ――」
「あっ、いえ、これは。急だったので、驚いてしまって」
濱野先生が、左手を跳ね上げた格好で硬直していた。まさか振り払われるとは思ってもいなかったのだろう、ハトが豆鉄砲を食らったような表情。
あー、ちょっとマズいかもな、なんて思いながら。なんだそのマヌケな顔は、と。窮地に陥った時にありがちな無意味な考えが脳裏をよぎる。
数舜の間、呆けた顔をしていた濱野先生。ゲーム風にいえば、ローディング中といったところ。しかし、『この自分の』手が跳ね除けられたのだと、たっぷり時間をかけて理解した時、彼女の顔面がさあっと朱色を帯びる。
プライドを否定された怒りか、羞恥か。抑えきれない激情が表出する。ゆっくりと左手を降ろしながらも、元々ツリ目がちなまなじりをいっそう吊り上げて。
「ちょっと、流石に今のは無いんじゃ――」
「あ、あーっと!濱野先生!お時間よろしいですか!?トレーニング方法について聞きたいことが!」
ドタドタと慌ただしく階段を駆け下りる音。僕と濱野先生が同時にそちらを振り向くと、半分転げ落ちるようにしてやってきた伊藤先生が僕たちの会話を遮った。
軽く息を切らしながら。おそらくは、二階からこちらの様子をうかがっていたのだろう。卓球部の顧問を務める彼女もまた、体育館へとやってきていた。
「何ですか、伊藤先生。私は彼と大事な話をしていたんですけど」
「いや、卓球部もね、大事な時期ですから。テスト一週間前からは部活ができなくなるじゃないですか。その分、今のうちにしっかりやらせてあげたいなと」
お前の自慢話のどこが大事な話なんだとか。なんで僕にはタメ口で伊藤先生には敬語なのかとか。ツッコミどころは多少あるけれど、さっきまでよりはずっと穏やかな気持ちでいられた。濱野先生がこちらから目を離した一瞬の隙。彼女に見えないよう大きく息を吐く。
そうしている間にも、伊藤先生がこちらにチラチラと視線を送ってくる。今のうちに逃げろとでも言いたいのだろうが、彼女の受け答えはしどろもどろで、勢いだけでフォローしに来たのが丸わかりだ。このままいけば、遠からず破綻するのは目に見えていた。それに、自分だけ逃げるのも厄介ごとを押し付けたみたいで後味が悪い。
お互いにけん制し合う彼女たちの間に険悪な雰囲気が流れる。もっとも、その発生源は主に濱野先生だが。
こちらからも何か援護をしてやるべきか。かといってそれで引き止められてせっかくの援護をフイにするのもかわいそうだ。どうすべきかと逡巡していると、予想外の角度からの助け舟。
「濱野
見覚えのある赤毛。曽根
ネットの向こう側を見ると、きびきびとした動きで次の練習の準備を整えているのが見える。人が昇るような台座が用意されているのを見ると、次はレシーブの練習か。そのために呼びに来たらしい。
濱野先生が小さく舌打ちをする。おいおい、生徒の前でそんな態度でいいのかよ。もう一度こちらをにらみつけると、壇上から一足で飛び降りた。
「練習の続きがあるので、失礼します。……オイ!何チンタラやってんの!時間がもったいないでしょう!」
声を荒らげながら去っていく。僕が引き起こした怒気の八つ当たりを食らうバレー部員たちに、心の中で謝罪をいれる。すまん。天変地異だと思って犠牲になってくれ。
ようやく息苦しい時間が過ぎ去り、ふうと胸をなでおろしたのもつかの間。
そうだ、忘れるところだった。隣では、組んだ指をせわしなく弄ぶ伊藤先生。
「ありがとうございます。伊藤先生」
「い、いえいえ!別に大したことをしたわけじゃ!」
「では、僕も練習を見ないといけないので」
「……あれっ!?」
生徒たちの方に向かっていく途中、背後から「いや、見返りを求めたわけじゃないけど」とか「ドラマだったらラブストーリーが始まるはずなのに」とかぼやく声が聞こえるが、生憎、そこまでサービスしてあげられない。
振り返れば、とぼとぼと二階に上がっていく背中。まぁなんだ。
コーヒーくらいは、おごってあげてもいいかな。