「お客さん?」
「すみません。トレイに置いてもらえますか」
目の前のコンビニ店員の眉間にしわが寄る。自意識過剰な人間を見る目つき。そのくらいがちょうどいいんだよと思いながら台上に乗せられた釣銭とレジ袋をひっつかんで店を出る。
お釣りを渡すときにやたらべたべた触ってくる店員がたまにいるけれど。これに関しては今世になってようやく意味が理解できる現象に落とし込まれた。むしろ、普通の男性客だった前世で僕の手をべたべた触ってきたやつの異常さがより際立った気がしないでもない。
外に足を踏み出した瞬間、意外な風の冷たさに身を震わせる。5月も中盤に差し掛かったというのに、今朝はやけに寒い。急ぎ足で車に乗り込んで、エンジンをふかした。
宮武さんの相談に乗ったあの日から、土日を挟んで数日後。いよいよ、中間試験1週間前に突入していた。
校内は生徒職員問わずピリついており、一触即発とまではいかずともお互いに邪魔するなオーラを発し合っている。1,2年生ですら緊迫した雰囲気をまとっているのだ。受験を控えた3年生ともなれば、その緊張感は言うまでもない。
とはいえ、一周回ってテストなんていう概念を超越した生徒も一定数いて。そういった人種は部活の無い放課後を満喫しているようだった。
脳筋主義で、いかに部活動の影響力が強い我が
かくいう僕も、そこはかとない緊張感を胸に学校に向かっていた。大学を卒業した後も時折単位が取れなくて焦る夢を見るように、自分のことじゃなくても『学校のテスト』というだけで緊張するものだ。むしろ、自分ではどうにもならないぶんハラハラさせられる。
これが個人の勉強なら、自分の頑張りに応じて自信も諦めもつくが、他人の点数はどうにもならないブラックボックス。故に、点数を予想できない不確定性が僕を不安にさせた。
などとあてどなく思考を巡らせているうちに、学校にたどり着いていた。校門を抜け、駐車場に車を止めてから、職員用の昇降口に向かう。
ウチの学校では、教員用の下駄箱にもそれぞれ一人一つづつボックスロッカーが用意されている。初めは場所を見失ったりもしたが、今となってはそんなことはあるはずもない。迷うことなく自分のロッカーに手を伸ばし、靴をしまい込もうとして。
ぱらり。窪んだ取っ手を引いた瞬間、一枚のメッセージカードが舞い落ちた。
ふと、嫌な予感が脳裏をよぎる。下駄箱の中の置手紙。それは
しかしてそれは、予想外の形で嫌な予感を的中させることとなる。
視界に飛び込んできた一文に、決して少なくない衝撃を受けながら、それをクシャリと丸めて鞄に放り込む。つい、辺りをきょろきょろ見回して。大丈夫。きっとただのイタズラだ。
スリッパを取り出して職員室へ向かう。その足取りは、ぎこちなくはなかっただろうか。
――『お前は、一人の人間の運命を狂わせた』。
両側から腕を押さえつけられる。4年間の大学生活で錆びついた体は、想像の7割程度の反応しか返さなかった。
首元に生ぬるい吐息が短く断続的に吐き出され、鳥肌が立つような不快感を覚える。脇腹を指先が這う感覚に思わず後ずさりしようとしても背後に立つ壁がそれを許してくれない。
『嫌なら、逃げてもいいんだよ?』
逃げる?どこに?喉はひりつくほどに乾いて言葉が出ない。
無表情のまま、目を血走らせながら。情欲に支配された視線が自分に降り注ぐ。対象の人間性を否定し、本能を満たすための道具としか見ていない瞳が。
一歩づつ近づいてくる。
「あっ、今野先生。立ってるついでに、これ入れてきてもらっていいかな?」
職員室に入って早々に飛んできた言葉に唯々諾々と従って、僕はプリントの入れ替え作業を行っていた。
職員室前の廊下に貼り付けられた、今週の目標や学校紹介のチラシ、予定表などを掲示するためのファイル。定期的に入れ替えられてはいるものの、果たして何人が見ていることやら。というか学校紹介のプリントを校内に掲示して何の意味があるんだ。本末転倒じゃないか。
隣には、各種トロフィーの展示されたショーケース。うっすらと埃をかぶって鈍く輝くそれに、ちょっとかわいそうだと思いながら。
下駄箱に入っていたメッセージカードは、タチの悪いイタズラだと思うことにした。
今はどの先生も自分たちのことにかかりきりで、こんな冗談ともつかない目的も差出人も不明な手紙を見せたところで、面倒ごとに関わりたくないと一蹴されるのがオチだ。それに、新学期始まってすぐのテストをこんなことでかき乱すのも申し訳なかった。他のテストを軽んじるわけではないが、最初のテストの成績はその学期、ひいては一年のモチベーションに作用する。
それこそ僕だってこんな雑務をこなすくらいならもう少し問題を詰めたい。苛立ちのままに抱えたプリントの束を握りつぶしてしまわぬよう、ひとつ息を入れる。
ほとんど作り終えてはいるが、別に早いほどいいというわけでもない。かといって人である以上ミスは付き物で、遅すぎても訂正する暇がなくなる。2年生の生物、生物基礎を担当している僕は、文理で違う問題を出さないといけないし、どれだけ遅くともテスト週間の前週末までには作問を終え、他学年の生物教師と確認し、理科の教科主任――もはやこの学校に住みついた大ベテラン――と学年主任のチェックを潜り抜けなければならない。
加えて、2-1の授業が大幅に遅れてしまっていたせいで出題範囲を測り損ねていたこともある。何とか気合で進めたが、最後の方はやっつけ気味になってしまったことは否定できず、そのための補充問題もできれば作りたかった。それをやってくれるとは限らないのだが。あぁ無情。
そんなこんなで、今はイタズラに構っている余裕すらないほど忙しいのだ。犯人捜しは、テスト明けでいい。それに。
――あのメッセージが示すのが、前の学校のあの事件を指しているのだとしたら、差出人は盛大な勘違いをしていることになる。
生徒複数人による、強姦未遂。僕が女性との接触を極端に忌避するようになったきっかけ。
この世界、男女の身体能力の差が極めて小さい。詳細な原因は不明だが、一説によると、現代の女性は『女性としての生殖機能を持った男性』らしい。人類全体が、ある種の性分化疾患を抱えているという説である。
そうでなくても運動とは無縁だった僕と、第二次性徴を終えた運動部の女子高校生とでは、そこまで大きな差はなく。
突発的な犯行であったためにすぐ周囲の教師に発見され事なきを得たが、その際強く抵抗した拍子に加害生徒の目に指が当たってしまった。失明とまではいかず日常生活に支障はきたさなかったものの、スポーツ推薦を狙えるだけの実績があったその生徒は、その怪我が原因で思うようなプレーができなくなってしまったらしい。
そんな事件があったこともあり、僕は2年という短期間で最初の赴任先を異動になった。その先が女子校というのは、配慮の無さを痛感しないでもない。
僕は自分のしたことに罪悪感こそ覚えているが、後ろ暗さは感じていない。司法的には正当防衛の範疇であったとみなされているし、未遂とは言え強姦を謀り、それが明るみになった時点でどのみち推薦の話はなくなっていたはずだ。決して、僕のせいで彼女の運命が狂ったわけではなく、彼女自ら運命を捻じ曲げたのだ。
以来僕は、女子生徒との付き合い方を改めるようになった。コミュニケーションをとるための最低限の親しみはありつつも、けれど深入りはしないことを信条に。
宮武さんの名前呼びをことごとく訂正しようとしているのもそのためだ。彼女は少し、パーソナルスペースが狭すぎる節がある。
まぁ、結局のところ。このメッセージカードは僕の弱みにはなり得ない。とはいえ、知られたいようなものでもない。今の生徒たちとはそれなりに良好な関係を築けているのだから、それをわざわざフイにするのも不本意だ。
闇雲に騒ぎ立て刺激することもない。そんなことを考えていたからだろうか。プリントを取ろうとした腕が空を切る。いつの間にか、全てのプリントを入れ終えていたらしい。
もう一度壁にかかったファイル群を見直し、入れ間違いや折り曲がりがないことを確認して、職員室に戻ろうと。
「やぁ!おはよう今野先生!」
「
僕よりも頭半個分高い女性教員が意気揚々とした挨拶とともに、こちらへ向かってくる。軽く見上げるような形になり、凝り固まった首がかすかに音を鳴らした。
朝練の指導終わりか、首にかけたタオルを両手で弄びながら。
「朝から元気なくない?ほら、おはよう!」
「……おはよう、ございます!」
寒さと時刻の影響で固くなった声帯を奮い立たせ、幾分大きな声で返事を返すと、濱野先生は満足げに頷いた。
体育教師である彼女は、部活や定期テストの作成がないぶん手が空いているのか、ゾンビのような顔でパソコンとにらみ合っている職員室内の人間と比べるとだいぶマシな顔色をしている。とはいえ彼女もまた、テストが終われば成績処理の書類漬けになる身。せいぜいつかの間の休息を味わうといいさ。
以前体育館で起こったことは気にしていないのか、それとももう忘れてしまったのか。先日の険悪な雰囲気が嘘のようににこやかに話しかけてくる。
「やっぱり、主要教科の先生は忙しそうね。お肌も荒れちゃって」
「えぇ。でも、ここが踏ん張り時なので」
「へぇー。根性あるじゃない。男はみんな甘やかされて育ってると思ってた」
「はは……」
事実、そういうタイプの人間はいるが、みんながみんなというわけではない。
おそらく、彼女は本当に悪気はないんだろう。パワハラで問題に挙げられた人間は台本でもあるかのように、決まって『そんなつもりじゃなかった』と言う。そのつもりがないことが、一番の問題だというのに。
「なんか元気ないね。だれかにイジメられた?大人しそうにしてるからつけあがるのよ。はっきり言わないと」
じゃあ鬱陶しいんでどっか行ってくださいと言ったら、消えてくれるのだろうか。そんなことはないんだろうな。
曖昧に微笑んで、彼女が職員室に入っていくのを見届けた。
いつもと同じルートで、2-2教室に向かう。手荷物をまとめて今日の予定を確認して、結局自分の作業などできていない。
なんだか今日は厄日な気がする。コンビニ、昇降口、職員室、行く先々で心をざわつかされていた。
まぁ生きていたらこんな日もあるかと、自分を奮い立たせる。生徒たちも大変な時期なのに、僕だけが一人気の滅入った顔をしているわけにはいかない。顔を両手で挟み込んだ時、背後からドタドタと何かが駆けてくる音。振り返ると、今さっき体育館を抜け出してきたのだろう、息を切らせた宮武さんが体操服姿のままこちらに走ってくる。彼女は僕を視界に収めると、急ブレーキをかけて速度を緩める。
「っと、英人くんおはよー!」
「英人くんではありません廊下は走ってはいけません校内では制服を着用してくださいおはようございます」
「情報量が多い!」
大袈裟にショックを受けて見せる宮武さん。見ればよほど焦っていたのか、丸めて抱えられたワイシャツがシワになってしまっている。今朝練が終わったのだろうか。腕時計を確認すると、ホームルームまであと数分。余裕がないわけではないが、テスト当日もこの調子だと支障をきたすのではないか。
「こんな時間まで部活ですか?着替えもできていないとなると、だいぶギリギリまでやるんですね」
「あー……。私いつも最後まで残って練習してるから、用具の片づけも全部しなきゃいけないんだー」
「それは……お疲れ様です」
社会生活を送っていると、やる気のある人間から順に損をしていく。それはどこも変わらないんだなと察した。
彼女はしばらく不満そうに唇を尖らせていたが、ふと思い出したように。表情をころりと変えて聞いてきた。
「そうだ、聞きたかったんだけど」
「はい?」
「スポーツ推薦で大学に入って、体育以外の先生になれるの?なんか調べてもよくわかんなくて」
「結論だけでいえば可能ですね。スポーツ推薦で教育学部に入学した後に、各教科にコースが分かれているのでそこで……という方法もあります。しかし、推薦入学したからには大学でも部活に参加しないといけないでしょうし、勉強や実習との両立は厳しいものになります。それに、免許を持っていることと教員に採用されることは別なので、その対策もとなると、体がいくつあっても足りませんね」
僕の言葉を反芻するように、しばし考え込んでいた宮武さんは、パッと顔をあげて。
「そっかー。でも、バレーをやってて損はないんだよね?」
「もちろん。学生時代に打ち込んだ経験は、時に知識を上回ることもあります」
「なるほど。じゃあ、今を頑張ればいいってことだね!」
「そして、今は何週間でしたっけ」
「うっ。忘れかけてたのに……」
一瞬だけ渋い顔をしたが、頭を大きく振るって。もう一度こちらに顔を向けたとき、陰りは欠片も残っていなかった。
「……ううん。頑張るって、決めたから。まずは頑張ることを頑張る!頑張るぞー!!」
やる気だけは感じられるトートロジー。国語の成績が心配になりつつも。
一度両拳を突き上げると、威勢のいい声を上げながら教室へ向かって走り出した。彼女の残した風が前髪を揺らす。廊下は走るなと注意するのも、今は野暮だと思って。
その元気さに呆れつつ、少しだけ軽くなった足で階段を踏みしめた。
大丈夫だとは思うけどなんか言われたらR18にします。