テストが近づくにつれて、生徒たちにも焦りが見え始める。僕の下には宮武さん以外にも少なくない生徒が訪れてきており、その対応に追われていた。
ここ1,2週間は作問に追われていて気が滅入っていたが、逆にそれさえ終わってしまえばどうとでもなるもので。
通常授業がなくなったぶん、少しづつ日常に落ち着きが戻ってきた。しかし、空いた時間に待っているのは結局仕事。さらに言えば真の地獄は丸付けと成績表作成の時間なのだけれど、そのことは一旦考えないようにして。
それにしても、テスト期間に入った後にしつこく範囲を聞いてくる生徒がたくさんいるのが不思議だ。
教科書やワークのどこからどこまでというのは明示してあるはずなのに、やたらどこが出るかを聞きたがる。できる限り範囲を絞りたいのだろうけど、そんなに勉強したくないのか。結局期末や模試、受験では習ったすべての範囲から出題されるのだから、小分けにして単元ごとにマスターしていった方が将来的に楽だと思うが。
ただ、ようやく山場を乗り越えたと思っても、問題は次から次へと起こるもので。
生徒たちの成績と同じくらい、ここ最近の僕が頭を悩ませている問題。それこそ、例の奇妙なメッセージカード。
一週間前のあの日から、それは毎日欠かさず僕のロッカーボックスに投函されていた。
現場を押さえられるかもしれないと思い、普段より登校時間を早めてみたりもしたが、それでもメッセージカードは入っていた。下校の時間帯は人の出入りが多くなるし、外からも見られるリスクが高い。それに、僕もそれなりに残って仕事をしたりもするので、帰りの時間は日によってまちまち。実際、帰り際にメッセージカードが入っていたことはなかったし、鉢合わせてしまうリスクなども考えると、やはり朝の時間帯に入れられているとみて間違いない。それも、相当に早い時間に。
全くご苦労なことだ。たかが嫌がらせのために、早起きして登校してくるなんて。一周回って健気ささえ感じる。
メッセージカードについては、まだ誰にも言っていない。理由は変わらず、騒ぎ立てたくないことと、迷惑を掛けたくないことと、取り合ってくれるのかという疑問。今のところ実害は起きていないので、その点は一安心といったところか。
とはいえ、そうのんきなことばかりも言っていられない。これは、いずれ対処しないといけない問題だ。そんなふうに考えてはいたものの。
忙しない日々を送っていると、つい面倒なことは後回しにしてしまう。例えば、なんだかんだ理由を付けて歯医者に行くのをサボってしまうように。
今は忙しい、今日は生徒の質問に答えなければならない、テスト明けでいい、と。気づけば、一週間はあっという間に過ぎていった。
そして、ついに迎えた中間試験当日。4日に分けて行われる試験の初日。
生徒たちはどうか知らないが、僕がやることは変わらない。開き直って、いつも通りの時間に登校する。
昇降口にたどり着けば、考えないようにしていたことを嫌でも思い出してしまう。ロッカーボックスに伸ばした手が止まる。今日もまたアレが入っているのだろうか。憂鬱な気分になりながらも、開けないことには始まらないと自分に言い聞かせて。一度深呼吸してから戸を開いた。
覗き込むようにして確認すれば、そこには一枚の紙きれ。やはり、あった。
それを取り出し、手に取って眺める。別にいちいち読む必要もないとは思うが、そうは言っても気になってしまうのが人のサガ。筆跡を残さないためなのか、白い紙面の上に明朝体の画一的な文字が印刷されている。ここまでは昨日となんら変わらない。
ただ、今日に関しては書かれた文章が違っていた。
『こっちは証拠も持っている。このことを広められたくなければ、放課後体育館前に一人で来い』
ついに来たか、と思った。いつかアクションを起こしてくるだろうと勘付いてはいたが、よりにもよって今日。いや、今日だからこそ、なのだろう。授業もなく、明日もあるテストの勉強のためにみんなが下校し、校内の生徒の数が少なくなるタイミング。
何度目かのため息。少なくとも、テスト期間中は大人しくしていてほしかったのだが。なるべく穏便に済みますように、と。生まれ変わってから少し信じるようになった神様に祈った。
ホームルームの教室。普段通りのようで、どこか様子の違うクラスの雰囲気。『姦しい』という漢字は女という字が三つ。ならば女子生徒が40人もいれば、それはもうやかましいのが常。しかし、今日ここに至ってはそんな気も薄れているらしい。
テスト当日にもなると流石に朝練は早めに切り上げられたようで。バレー部やその他の生徒たちも問題なく揃っていた。
教室を見渡せば、いつもより幾分か硬い表情をした生徒たち。確かに新学期最初のテストは重要だし緊張するのも分かるが、気負い過ぎてもパフォーマンスは発揮できない。かといって、教師として適当にやってもいいよなどとは口が裂けても言えないことに、歯がゆさを感じる。
なんとなく、自分の学生時代を思い出す。前世の僕は不真面目で、テストに対して真剣に向き合うことはほとんどなかったといってもいい。しかし、この世界に生まれ変わって最初に中学の定期テストを受けた時は、目の前の彼女たちと似たような心境だったと思う。
はたから見ると、自分もこんなふうに映っていたのだろうか。だとしたら少し恥ずかしいなと思いつつ。ここまで来たからには各々に頑張ってもらうしかない。
どうせこの後も散々言われることになるだろうが、テストに関する諸注意を話して、ホームルームの終了を宣言する。最後に、気持ちばかりのエールを添えて。
「それではこれでホームルームを終わります。みなさん、頑張ってください」
そうまとめて僕が退出した途端、ざわめきだす教室。耳をそばだてると、不安や自信を表す言葉に加えて問題を出し合ったりする声も聞こえる。そうだそうだ、テストの最中よりもこうして待機している時間が一番ドキドキするんだよな、なんて懐かしさなんかを覚えたりもして。
僕にはたまたま2回目のチャンスがあったけど、彼女たちの人生は一度きり……。なはず、たぶん。いや、自分というとんでもない例外がいるから断言はできないが。後悔しないように生きて欲しい。
だからこそ、些末なことで気を取らせたくないと、改めて思った。
職員室での待機中も、試験監督中も、頭を悩ませていた。メッセージカードの指令に従うべきか、どうか。
背もたれに深く座りなおして、またしてもため息。限りなく罠に近い、というか十中八九罠だ。あまりに古典的な誘い文句。仮にこれがテストの一科目だったら、間違いなく0点の文章。わざわざ行ってやる方が馬鹿らしいと思う人間もいるだろう。
けれど、こんな爆弾を抱えたまま学校生活を送るのも怖い。以前のような暴走が起こらないとも限らない。いっそのこと、当初の方針通りテスト明けまで放置するか?
そこまで考えてかぶりを振る。きっと、それは悪手だ。これで問題が起きて生徒職員に迷惑がかかれば、唯一対処できた人間としてきっと後悔するだろう。
この際、きちんと話し合った方がいいんじゃないだろうか。そもそも僕には後ろ暗いところなんてない。相手もそれを知れば、大人しく引き下がってくれるんじゃないか。
職に縋る思いと、生徒たちへの思い。それらが交錯してごちゃごちゃの闇鍋になる。痛み始めたこめかみを押さえながらまた迷う。そうして最初と同じ、従うか従わないかという選択に戻ってくる堂々巡りを何度も繰り返していると。
「今野先生?そろそろ次の科目が始まりますよ?」
「!……はい」
「す、すみません。驚かせちゃいましたか?」
「あ……いいえ、ちょっと考え事をしてただけです。教えてくださりありがとうございます」
伊藤先生に呼びかけられ、意識が戻ってくる。もうそんな時間か、驚いて思わず肩をびくりと震わせた僕を心配そうに見つめる瞳が向けられる。しかし、僕が立ち上がったのを見て問題ないと判断したのか、こちらを気にしつつもこの場を離れていった。見渡せば、すでにそれぞれが試験官を務める教室に向かったらしく、残っている教師は多くない。
ハッとして席を立つ。そうだ、僕も行かないといけない。手荷物をまとめながらなおも頭の中はあの一文がぐるぐると渦巻いていて。
相談する?誰に?誰かに。味方になってくれる人に。この学校での日々を思い出す。
――自分の味方になってくれる人は、果たしているのだろうか。
そんな身も蓋もない疑問が、鎌首をもたげた。
試験1日目終了後。生徒たちはすでに帰り支度を済ませ、早ければもう校門を出ているところ。
結局。明確な解決策は見つからないまま、僕は体育館へ続く渡り廊下を一人で歩いていた。対話する道、その選択が間違いではないことを願いながら。
どこから情報を受け取ったのかは知らないけれど、おそらくは以前の学校の加害生徒と何かしらのつながりを持った人物がたまたま話を聞いたのだろう。そして、事実を曲解し、僕にメッセージを送った。たとえ、手紙の差出人が誰であろうと僕のやるべきことと目指す地点は変わらない。
勘違いしていることを話し、事件のあらましを説明し、そのメッセージは僕を脅す材料にはならないと告げる。そして、すぐにやめるよう説得する。それが僕に与えられたミッション。
自分が人気のないところに誘い込まれている実感はあった。ただ、他の先生方に相談することも躊躇われたし、生徒に相談するなんてもってのほか。
大丈夫。僕も男だ。走って逃げるくらいはできる。最初に浮かぶコマンドが『にげる』なのは少し情けない。あの日よりもさらに衰えた実感のある体を、軽く確かめるようにして。体育館の正面入り口の前に立つ。
「……来ましたよ」
返事はない。きょろきょろとあたりを見回して周囲の様子をうかがってみたが、人影も見当たらない。まだ来ていないのか、それともやはりただのイタズラだったのだろうかと疑問に思い体育館の扉に近づいたとき、あることに気付く。
「開いて、る?」
正面扉にできたわずかな隙間。風の流れも感じることができ、間違いなく扉は開いていた。このことに対して、僕は違和感を覚える。
現在、校内は中間試験の真っただ中で、平常授業も放課後の部活動も当然ない。すると、体育館を使用しているのは調整のための朝練を行うバレー部しかいないはず。
だが、朝練が終わればすぐに体育館は施錠され、こんなふうに正面扉が開いているなんてことは起こりようもない。
安全管理の関係上、施錠は教師の役割。体育館は使用した部活の顧問が鍵を掛けるはずだから、バレー部なら
僕の脳内に、とある疑問が浮かぶ。体育館に鍵をかけるにあたって、当然生徒を閉じ込める訳にはいかないので、やるなら練習を終えた生徒がみんな出ていってからだ。
必然的に、最後に体育館から出てくるのは濱野先生になるはず。ならばなぜ、一週間前のあの日。
――濱野先生が職員室に戻ってきたよりずっと後に、宮武さんが体育館から出てきたんだ?
濱野先生はあの時すでに、ほとんど汗は引いていたし、彼女と会話したあとに予定を確認して荷物をまとめるくらいの時間はあった。対して、宮武さんはホームルーム開始時間ギリギリの少し前に、体操服のまま息を切らせて飛び出してきていた。これだと、順番が逆転しているように思われる。
仮にだ。濱野先生が体育館の施錠は教員が行うという規則を無視して、最後に出てくる生徒――最後まで残っている生徒にカギを預けていたら?先日交わした言葉がフラッシュバックする。
『あー……。私いつも最後まで残って練習してるから、用具の片づけも全部しなきゃいけないんだー』
だとすると、まさか。どれだけ朝早く来ても手紙が入っていたのも?そうして思考に意識を割き過ぎたまま、不用意に正面扉に近づく。完全に失敗だった。
猛烈な音を立てて目の前の扉が開く。驚きに身を硬直させた刹那。
ドン、と。大きく口を開いた牢獄へ、背後から突き飛ばされた。