思わぬ衝撃に足をもつれさせ、僕は間抜けな声をあげながら前方に倒れこむ。とっさに両手を前に突き出すも、転倒するのなんて数年ぶりだった僕の体は突然の出来事に反応しきれなかったらしい。全身を体育館の床にしたたかに打ち付けた。無様にも地面を転がる音と、みっともないうめき声が静かな体育館に響く。その拍子に捻ったのか、手首からはじんじんとした熱が送られてきて、目じりに涙が浮かぶ。
背後ではガラガラと扉の閉まる音。痛みをこらえながらも振り返ると、初めて見る顔の女子生徒が二人、こちらをあざけるように笑いながら鍵を掛けているところだった。……いや、初めて見るわけではないかもしれない。授業で会ったことはないが、いつかどこかで見かけたことがあるような気がする。
「
今度は、右方から。舞台とは逆方向。倉庫か部室か、ともかく外からは死角になる場所に隠れていたのだろう。馬鹿にしたニュアンスを含んだ声が近づいてくる。
顔をあげれば、ほとんど真っ赤な茶髪が目に入る。曽根
予想とは異なる人物の登場にやや混乱しつつも彼女たちの顔ぶれを確認して、正面扉に鍵を掛けていた少女たちの正体と、もたらした既視感に合点がいった。
彼女たちは、みんなバレー部員だ。直接的な接点こそ薄いものの、バドミントン部の練習を見に行ったときや、帰り際に顔を合わせることは多かったのでうっすらと記憶に残っていたのだろう。曽根さんは僕が受け持つ2組の生徒ではないので、何部に所属しているかまでは把握していなかったが、思い返すと
彼女たちの持つ端末が硬質な効果音を鳴らす。写真に収められていると自覚して、途端に羞恥心が湧き上がってくる。立ち上がろうと腕に力を入れるも、走った痛みに手首を捻っていること再認識させられる。
「オイ!……何ボサっとしてんだよ。お前ら、とっととそいつ押さえとけ」
「っは、はい!」
曽根さんが僕の背後にいる女子生徒に命令すると、二人はうわずった声で返事をしたのち、僕に飛び込むような形で上から覆い被さってきた。無遠慮に押し付けられた腕と固い床に挟まれた体が悲鳴をあげる。あの時と同じ、人間性を否定するような物理的にも精神的にも圧迫される感覚。
「あなただったんですね。こんなことをして、どうするつもりですか?」
「どうするもこうするもないっしょ。え、まだ何されるか分かってない感じ?」
「ちょ、亜衣葉ウザすぎ。先生ウブだから知らないんじゃね?」
口元で両手を重ね合わせて憎らしいほど大袈裟に驚きをアピールする曽根さんに、取り巻きの生徒たちがへらへらと笑いながら茶々を入れる。この雰囲気までもがあの時と同じだ。気圧されそうになる心を奮い立たせて彼女たちをにらみつけるも、ただ嗜虐心を煽るだけに終わったようで、彼女たちの口角がさらに増して吊り上がった。
「……問題にならないとでも思っているんですか?」
「ダイジョーブ。ここにはウチらしかいないし、テスト期間だもん、ここを使う人間もいないから。先生が黙っててくれたらそれで解決っしょ」
「一応、言っておきますが」
「あ?」
「あなたたちの持っている情報は、僕の弱みにはなりませんよ」
「あぁ、そのこと」
メッセージカードに記された文章。僕が前の学校で事件に巻き込まれたとき、結果的に相手の生徒を負傷させてしまったという事実。ただ、あれは正当な理由あってのもので、脅しの種にはなり得ない。おおかた事実の一部を曲解し、僕が生徒を傷つけた弱みに付け込もうと企んでいると思っていたのだが、どうやら違うらしかった。曽根さんが「フン」と小馬鹿にした様子で鼻を鳴らす。
「アイツも馬鹿だよねー。中学のころからサルみたいに盛っちゃって」
アイツとは、おそらくは主犯格となった加害生徒のことだろう。スポーツ推薦を有力視されるも、事件と目の怪我で運命を捻じ曲げた少女。察するに曽根さんと彼女は、同じ中学校出身らしかった。
なるほど、と一人納得する。前の学校は世間体を気にして事件のことを念入りに口封じしていたのでどこから漏れたのかと疑問に思っていたのだが、そんなところで繋がっていたのか。
「アンタのこと、メチャ恨んでたよ?今度会ったらボコボコに犯すって。笑いこらえんの大変だったわ。先生もかわいそうにねー。変なのに逆恨みされて」
曽根さんはなおも続ける。言外に、侮蔑の感情をにじませながら。
「別に、そのことで脅そうとしてたわけじゃないよ。アンタをここに呼べればなんでもよかったんだよねー。写真でも動画でもネタは後からいくらでも作れるし。素直に来てくれんのは、ちょっと意外だったけど。いつもあんなガード固いのに」
自分でも迂闊だったと思っている。だがそれ以上に、一人で解決しなければならないという使命感のようなものが僕をここへ導いた。
「鍵は宮武が持ってることになってるし、今アタシの奴隷ちゃんがアイツんとこ向かってる。全部終わったあとは全部あいつがやったことにすればいーよ。そん時は先生も協力してね?」
「僕が証言しないとでも?」
「できんの?自分がぐちゃぐちゃにされてるとこ、色んな人に見られちゃうんだよ?」
「別にどうということはありませんよ。生徒に濡れ衣を被せるくらいなら」
「……そうやってスカしてんの、マジでウザい」
曽根さんは浮かべていた酷薄な笑みを消して不愉快そうな表情を見せたが、それもつかの間。すぐに余裕の様相を取り戻しこちらを一瞥すると、背後に控えた仲間たちに合図を送る。
「大丈夫だとは思うけど。ここからだと見えちゃうから、部室まで運ぼ。あ、先に手出すのは無しだかんね」
「はいはい、分かってるって。一年、とっととそいつ連れてって」
「あの、私たちも……」
「うっさいなぁ。はいはい、アタシらの後にね」
両脇から強引に引き上げられる。捻ったのは手首だけだと思っていたが、どうやら肩もだったらしい。無理な方向に曲げられた関節がきしむ音がして、鈍く痛む。
今回ばかりはダメかもな。授業料にしては高くつきすぎた、なんてくだらない冗談が頭をよぎる。ここに至るまで、それなりに時間が経っている。生徒たちもほとんど帰ってしまっただろうし、先生たちも使われているはずのない体育館までは見回りに来ない。来るとすれば、全員が退勤した後の総合巡回のときだろう。その時には、とっくにすべてが終わっている。
曽根さんたちがこちらを見ながら何やら談笑しているが、右から左へすり抜けていくばかりで何も頭に入ってこない。自嘲気味に笑みをこぼして、引きずられるままに足を踏み出した時。
ドンドン、と。正面扉を強烈にたたく音がした。時が止まったように話し声が止まり、僕を含めた体育館にいる全員が一斉にそちらへ視線を向けた。まさしく、信じられないといった表情。
「英人くん!?みんな!?ねぇ!何してんの!?ちょっ、ミホちゃん離して!」
ここ数日で、ずいぶんと聞いた声。外から宮武さんの叫ぶ声と人が揉みあう音が聞こえた。曽根さんは、先ほど宮武さんの下には人を向かわせたと言っていなかったか。僕が『なぜここに』と言葉にするより先に、他でもない曽根さん本人が疑問を口にした。
「なんっで宮武がここに来てんだよ……!?マジであの奴隷ちゃんズ使えねぇ!……まぁいいや、オイ山口!そいつ絶対押さえとけな!?一年、いったん扉開けろ!騒がれたら面倒なことになる!」
「え、え」
「早くしろよ!殺されたいの!?」
「ひっ……!は、はいぃ!」
「宮武も中入れろ!ぶん殴ったっていい!」
恐ろしい剣幕でそう怒鳴りつけると、呼ばれた一年生と思しき生徒が慌てて鍵を開ける。同時に、曽根さんの近くにいた幾人かが正面扉に向かって駆けだした。扉が開き、目を見開いて驚愕を露にする宮武さんと、彼女に組み付く一人の生徒。おそらく、あれが山口さんで、僕を突き飛ばした人間と同一人物だろう。
「みんな、こんなとこで何して――痛っ!?」
「うるっさいんだよ!調子乗んな!」
「なんで……」
駆けだした生徒が宮武さんの髪の毛をつかみ、館内へと引きずり込む。痛みか困惑か、目元には涙がにじんでいる。彼女の体がすべて中に入っていったのを確認し、扉付近でオロオロしていた二人が再び鍵を閉めた。
「宮武さん!」
「……はぁ。ちょっとビビったけど、よく考えりゃ都合いいかも。どうせ濡れ衣着せんなら体育館にいた方が自然だし。あいつ、アンタの『お気に』っしょ?あいつの目の前でやってあげるよ。お互いハッピーで良かったねー?」
「あの子は関係ないだろッ……!」
「はは、スカしてるよりそっちの方がずっといいじゃん」
言葉遣いさえ忘れてにらみつける僕を、どこまでも見下すように。
宮武さんが数人がかりで取り押さえられ、苦悶の表情を浮かべる。相当な力かかかっているのだろう、押さえつける彼女たちの指先は真っ赤だ。6月には大会も控えているというのに、自チームのエースをそんなふうに扱っていいのか。口元を塞がれた彼女の輪郭が歪む。未だに状況を把握しきれていないのか、その瞳には疑問の感情がありありと浮かんでいた。
「ハッ、宮武。アンタはいつもいつもアタシの邪魔ばっかり……。けどさ、今日は違うから。アンタの目の前でこいつを犯して!全部アンタがやったことにする!アンタもこれで終わりだから!あぁ、最高の――」
「いーけないんだー、いけないんだー」
「……は?」
緊迫した空気にそぐわない、間延びした声。ガタゴトと物音を立てながら、舞台裏から眠たげな眼をした少女がひょっこりと顔を出した。小学生が同級生のいたずらを見つけて囃し立てるときの、珍妙な歌を添えて。
「せーんせーにゆってやろー。……まー、そのせんせーが一番やばそーなんだけどなー」
「ハァ!?更紗ッ、なんでアンタまで!?」
今度こそ本当に予想外だったのか、曽根さんがヒステリックに喚き散らす。そんな狂乱状態の人間から詰問を受けているにも関わらず、金城さんはいつも通りのマイペースさでゆっくりと壇上から降りてくる。まるで、今にも大あくびをかましそうな脱力感。
「なーんかおかしいと思ったんだよなー。いつも朝練が終わったら真っ先に出ていく亜衣葉っちがー、今日に限って『アタシも最後まで残るから、後片づけは任せて』なんて言うからさー」
「千明っちはフツーに鍵渡しちゃうしー、気になってホームルームのあと来てみたらー、なんか鍵掛かってなかったしー」
「聞きに行こうと思ったけどー、テスト始まったらそんな暇なさそうだし、だからー」
金城さんは背中越しにどこかへ視線を向ける。その先にあるのは、舞台裏、というより、さらにその奥の。
「開けといたー。
「フザケッ……!!」
普段から片付けを行っていたなら、気づいていたかもしれないそのほころび。けれど、いつも閉まっているのが当たり前だったために、彼女たちは確認を怠った。いや、そもそも存在を知らなかったのかもしれない。射殺さんばかりの形相で見据えられてもどこ吹く風。飄々とした態度を崩さないまま、「それとー」と続ける。
「てれれれってれー。ぶんめいのりきー」
芝居がかったダミ声とともに金城さんのポケットから取り出されたのはスマートフォン。画面上では棒グラフにも似た縦線が慌ただしく伸びたり縮んだりしていて、電子機器に慣れた現代人が見れば、録音されていると一目でわかった。
「自白いただきましたー」
「ね、ねぇ亜衣葉、これ……。ヤバくない?」
「ちょ……。絶対成功するっていうから協力したのに、どうなってんの!?」
「うっせえなブスども……ッ!」
自分が完全にハメられたと分かったのか、曽根さんはガリガリと頭を掻きながら言葉にならない声をあげる。後ろに控えていた部員たちもようやく事態が飲み込めてきたのか、口々に不安の言葉や曽根さんに対する罵倒を飛ばす。それに耐えるかのごとくしばらくうつむいていた曽根さんだったが、弾かれるようにして顔をあげた。その表情に、もはや最初の余裕はどこにもなく。焦りや怒り、不安を無理やり吐き出すような怒鳴り声をあげる。
「つっても、動けんのはアンタ一人!こっちが何人いるか見えてないの!?」
「あー、動体視力のテストでそういうのあるよなー。何人いるか数えるやつー」
目を血走らせ、歯をむき出しにして。本性を隠そうともしないまま言う。
「犯すのはもういーわ。どうせ終わるなら、アンタらも道連れにしてやるよ……ッ!」
自分に向けられたものでもないのに、身の毛もよだつほどの迫力を感じる。それでもなお、金城さんから発せられる呑気なオーラは消えない。そして、子どもに常識を教えるときの口ぶりで、人差し指を立てて語りだした。
「更紗ちゃん、開かずの扉を開けといたって言ったよなー?」
「は?それが何?」
「あー、ゲームとかあんまりやらないタイプかー?じゃー、教えてやるよー」
RPGの
スマホをポチポチ操作したかと思えば、天高く掲げた右手を画面に向かって振り下ろす。同時に、シュポンという気の抜けた音。僕もよく耳にしたことのある、大手SNSアプリのメッセージ送信音。後方の防火扉がけたたましい音とともに開く。そこにいたのは、いつもホームルームで顔を合わせる2-2のバレー部員たちと、目をぱちくりと瞬かせる伊藤先生。
――必ず先制攻撃になるんだぜー?
ほら、大人の仕事でしょと生徒たちに背中を押され、数歩たたらを踏みつつ強引に矢面に立たされた伊藤先生。彼女は背後のバレー部員たちと僕たちを何度か見比べて。やがて意を決したような表情を見せたかと思うと、一歩前に踏み出し、体育館中に響くくらいの大声で言った。
「――何が起こってるか、全然分かりません!!」
あと1、2話で完結予定