Project:スムータ   作:北極鳥ユキ

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ベルリンの影(1)/1985

「ユルゲン! 待ってたぞ!」

 

 車から降りて、二人の衛兵の守るガラス扉を超える。

 ユルゲン・フィアルスト少佐が、第1自動車化狙撃兵師団司令部の大ホールに足を踏み入れるや否や馴染みのある大声が響き渡った。

 

 目の前にある大階段からは、いつも通り豪快なあの軍人(ひと)がドタドダと音でも立てるように降りてくる姿が見える。

 

「時間ぴったりなはずですよ。ブルクハルト……少将閣下」

 

 ユルゲンは彼の襟についた階級章を確認しながら答えた。

 

 少将か。ブルクハルトの階級を知って、隠居していたこの一年間で世の中というのは、随分と色々なことが変わったのだと実感させられる。

 

 ソ連軍は撤退していったし、ベルリンの壁も崩壊した。

 かつて鉄のカーテンと呼ばれた東西間の障壁もまた、すでにないに等しい。

 東欧全域からの撤退を経て、ソビエト連邦の勢力は明確に衰退しており、そう遠くないうちに東西冷戦も終わりを告げるだろう。

 ドイツ民主共和国においても政府側と反政府軍による内戦が終わり一党独裁は崩壊。民主的な選挙が近づいている。

 そして終いにはあの連隊長代理が今や師団長様だ。

 

「閣下はよせ、俺とお前の仲じゃないか!」

 

「はぁ……」

 

 ユルゲンはいつの間にそんな仲になったのだろうと考えながら続ける。確かに彼とは長い付き合いだが、別に友達ってほどの距離感でもない。

 

「それで少将、今更になって私に何の御用ですか? 内戦はもう終わりましたし、私が前線を離れてからもう丸一年は経っていますよ」

 

 瞼を閉じると、その瞬間には今でも一年前のあの地獄がパシャリとシャッターを切ったカメラのように鮮明に浮かび上がって来る。

 散乱する血と肉と泥。そのイメージが中々脳内から消えず、思わず顔を歪めてしまう。

 辺りに飛び散った肉片のいくらかは、ユルゲン自身から飛び出していったものであった。

 主に左脚の肉である。

 

 おかげさまで、今では空挺降下はおろか、あの白い浜辺に通じている崖ですら、一人では満足に降りられなくなってしまった。

 

 無いはずの脚が痛む。幻肢痛だ。これは記憶に引っ張られいるだけのまやかしだ。

 妻の顔を思い出して、あの日の記憶を無理やりかき消した。

 

「立ち話もなんだ。そこの応接室に行こう」

 

 ブルクハルトはそんなユルゲンの脚を気遣って、一階にある応接室に案内した。

 応接室の中では三人の士官が待機しており、一斉に敬礼を向けてくる。

 

「全員休め。さ、ユルゲン、そこに座ってくれ」

 

 ユルゲンが柔らかい長椅子に腰をうずめると、その向かい側にブルクハルトが座る。それに合わせて士官たちも腰を下ろした。

 

「突然呼び出して悪かったな。本当ならリューゲン島で隠居したままにしてやりたかったんだが」

 

「なら呼ばないでくださいよ。こっちは妻と生活を楽しんでいたのに」

 

「悪いがそうもいかなくなったんだ。この数か月で状況はかなり変わった。さ、説明しよう」

 

 ブルクハルトは士官の一人にアイコンタクトを送ると、鞄の中から書類の束が数部取り出される。

 ユルゲンの前にも束が一部が置かれたので、さっそく目を通してみることにした。

 

「エーリヒ・ミールケは知っているな?」

 

「えぇもちろん。国家保安大臣ですよね」

 

 エーリヒ・ミールケは国家保安大臣。つまり、国家保安省(シュタージ)の親玉であり、50年代から内戦まで長きにわたって秘密警察を仕切って来た男だ。

 

「彼が逮捕された」

 

「本当ですか?」

 

 東ドイツで内戦が始まった後、政府高官はどこかに姿をくらますか、ソ連に逃げるか、逃げ遅れて反乱軍に捕まるかの三択だった。

 1982年に国家人民軍によってベルリンが包囲された際、ミールケは逃げ遅れた高官の一人でありシュタージ本部ビルに衛兵連隊と共に立てこもっていると考えられていた。

 

 しかし、実際に総攻撃が始まりシュタージ本部ビルが陥落してみると、ミールケの姿は影も形もなかった。衛兵連隊の士官に聞けば地下通路を使って逃げたのだという。彼だけではない。諜報部門の長マルクス・ヴォルフを含む多くの職員がその「穴」から逃亡したのだ。

 

 シュタージ職員の捜索は難航を極めている。名前や顔といった情報も限られているうえに、ただでさえ彼らはその手のプロだ。

 ノウハウのない軍人に彼らを見つけ出すのは、アリの個体を識別するぐらいに難しい。

 実際に現在に至るまで、ほとんどのシュタージ職員は見つかっていないと聞いている。

 ミールケもその一人だったはずだが、今はもう違うらしい。

 

「その彼がとんでもないことを暴露した。我々はそれを単に『ファイル』と呼んでいる」

 

「ファイル?」

 

「そのままの意味だ。シュタージが集めた東ドイツ内外の情報データベース。そのほとんどはマイクロフィルムに収められていて、どこかに保管されている。これには東ドイツ国民全ての個人情報と、諜報部門が収集した西側、東側問わない機密情報が含まれている」

 

 淡々と語るブルクハルトに対して、ユルゲンはその話の規模についていけず、ただ唖然とするばかりだった。それから少しの間は頭の中を整理する時間が必要で、手元にあった紙の束をぼうっと眺めることに注力していた。

 

 どうしてだ。どうして少将はこの話を俺にする?

 

「そしてなによりも……だ。『ファイル』の中にはシュタージ職員の情報も含まれている」

 

「……」

 

「我々は『ファイル』を何としても奪取しなければならない。信頼できる筋によれば、既にCIA(アメリカ)KGB(ソビエト)BND(西ドイツ)MI6(イギリス)まで動いているそうだ。まるで諜報機関の博覧会だよ」

 

「しかし……そんな話をされても、私は脚を失って満足に走る事すらできないんですよ?」

 

「この『話』をするのは君がシュタージ本部ビルの構造に詳しいからだ。ミールケによれば『ファイル』は東ドイツの各地にある秘密の地下バンカー隠されている。そして、そのうちの一つはシュタージ本部ビルから隠し通路を通った先にあるという話だ」

 

 呆然としているとブルクハルトは軽く首をかしげながら鋭く問いかけてきた。

 

「ユルゲン、君はそういう施設があることを知っていたか?」

 

「いいえ。全く知りませんでした」

 

「ふむ。まあ、それだけうまく隠されていたのだろう。しかし、今となってはもう時間の問題だ。君に兵を与える。それを率いてシュタージ本部ビルに突入し、ファイルを確保してくれ」

 

「部隊の規模はどのぐらいですか? その『ファイル』とやらは相当な量になると予想できますが」

 

「一個小隊40人だ。少ないと感じるかもしれないが、君の任務はあくまでも地下バンカーの偵察と確保。君たちからの報告を聞いて、運び出しに使う本隊を向かわせる。最初からぞろぞろと大人数で行くのは、流石に目立ちすぎるからな」

 

 ブルクハルトは歯を見せながら笑って見せる。その豪快さの中には相変わらず食えない部分がある。毎度毎度、彼には見事に利用されているのだ。この狸親父め。

 ユルゲンに断るという選択肢はなく、ため息をついて項垂れることしかできない。

 

「ユルゲン、全ての因縁に決着をつけて、これを最後の戦いにしようじゃないか」

 

 ふと、三年前にもブルクハルトが同じことを言っていたのを思い出す。第一次ベルリン攻防戦の時、確かシュタージ本部ビルに総攻撃をかけた際にも彼は「最後の戦い」と言ったのだ。

 だが、それは大ウソだった。内戦はあれから更に三年も続いた。

 84年にはソ連軍の第二波がベルリンまでやってきて、そこで左脚を吹っ飛ばされたから運よく除隊できたものの、ベルリンというのは命が幾つあっても足りない戦場だった。

 

 最後の戦い、最後の戦い、最後の戦い。そう言ってるうちに、家に帰れなくなるかもしれない。

 

 ユルゲンは記憶に想いを馳せていた。

 白い砂浜。バルト海の深い青。同じ色の瞳を持つアンゼリカと、そのお腹にいる一人目の子供。

 性別は女の子だそうだ。

 もう名前はもう決めてある。とっておきの名前だ。

 

 娘の顔を見るまでは、俺は死ねない。

 

 "終わらせて、帰らないと。"

 

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