シュタージ・ファイル。東ドイツに住む住民の個人情報が記録されたファイル。
そこには隣人のファイルがある。そこには俺のファイルがある。そこには妻のファイルがある。
膨大な個人情報の塊であるファイルは人間には余りある代物だ。
そんなもの、誰の手にも渡ってはいけない。
CIAも、KGBも、そしてブルクハルトにも……。
古びたアパートの地下にある防空壕が、小隊の拠点だった。
その一角にある部屋で休憩を取っているとシルラー少尉が入って来た。
「フィアルスト少佐。全員揃いました」
声を掛けられ、杖を突いて立ち上がる。
扉をくぐった先では男たちが列を作っていた。
彼らはユルゲンを見ると、バラバラに敬礼をして出迎える。幾人かはピシッと軍隊式の敬礼。残りはどことなくぎこちない敬礼だった。
「改めまして、小隊長代理のペーター・フランツ・シルラー少尉です」
いちばん最後に、その体格よりも少し大きめの野戦服を着ているシルラー少尉が名乗りを上げた。
「え、あぁ……」
てっきり小数精鋭の部隊かと思いきや、ここに居る兵士たちはどう見たって寄せ集め。
本当に師団隷下の正規兵かも怪しいような愚連隊であった。
すっかり呆れて息が出てしまいそうになる。これなら遠足で子供の引率をしたほうがマシだ。
着ている野戦服のサイズはぶかぶかだったり、逆に小さすぎたりしているし、ヘルメットを持っているのは全体で三分の一以下。部隊で使われている銃器が統一されているだけ幸いというべきか。その点だけはミハイル・カラシニコフさまさまだ。
前に率いていた部隊が懐かしく感じる。
まあ文句を言っても始まらないので、行動に向けた準備を始めた。
数日が経ち、第1自動車化狙撃兵師団のブルクハルト師団長からの正式な命令が届いた。
何でもこの小隊は師団司令部曰く正式名称を「ユルゲン
これを傍受した敵が、せいぜい我々の規模を勝手に勘違いしてくれるといいんだが。
「ブルクハルト少将からの正式な命令書が届きました。いつでも出撃できます」
「よし。では早速出撃だ」
「このバックは何ですか?」
シルラー少尉は足元に積み上がっている五個のボストンバッグに目をやった。彼はそのバッグを数日前に外部よりビルの図面を取り寄せた際に一緒に運ばれてきた物だと憶えている。
「気にしないでくれ、作戦に必要なものだ。出撃する時に誰かに運ばせておいてくれ」
そうして、40人の兵士と1人の杖を突いた男が出撃した。
たった41人とはいえ、内戦の終わったベルリン市街地を完全武装の兵士が集団で動いていれば嫌でも目立つ。
ファイルがシュタージ本部ビルの地下に隠されていることは外部にも明らかとなるだろう。
果たしてそこに突入してくるのはどこの特殊部隊か見当もつかないが、ともかくこの愚連隊でまともに戦って勝てる相手ではない。
動き始めてからは時間との勝負だ。
トラックに分乗したユルゲンたちは素早くシュタージ本部ビルに向かった。
この辺りのエリアは丸ごと戦場になり破壊しつくされ長く放棄されていた。住人はおらず周辺には浮浪者が数人いる程度。戦闘を予期して人払いをしつつビルの屋内に突入する。
ビルは三年前の戦闘以来すっかり廃墟である。前の戦いの際に戦車砲を直撃させたので、正面の壁は大きく崩れており室内を大きく外に露出させていた。
ロビーを通って右の部屋。「第1歴史資料保管庫」にある本棚の裏に秘密通路が隠されていた。元々はスパイ映画よろしく電動で開くシステムが構築されていたようだが、東ベルリンは長らく停電しており、当然システムも動いていない。
色々考えてみたが、一番手っ取り早いのでロケットランチャーで壁ごと吹き飛ばすことにした。
「まさか本当にこんな通路が……」
シルラー少尉は目を見開きながら驚いている。
壁には二人並んで歩ける程度の四角い穴が開いており、それは懐中電灯の明かりが届かぬぐらい奥まで道が続いていた。
斥候を出して安全を確認した後、本隊も突入する。
隠し通路をしばらく歩くと、ほぼ垂直になっているスパイラル型の階段に行き当たる。かなり深いところまで続いており、またしても懐中電灯の明かりは届かなかった。いったいこの施設はどうなっているんだ……。
しかし、この構造はありがたい。
守りやすく敵が保管庫まで攻め込んでくるには時間を要するだろう。
「ここに防衛陣地を設置する。歩兵三人と機銃手二人が残れ。敵が来たら一人が知らせにこい」
そう命令してから階段を下った。
「少佐! 扉です!」
何分脚が悪い身なので、隊列の最後尾を歩いていると戦闘の方からシルラー少尉の声がする。
進んで行くと、両開きの扉が見えてきた。
あらかじめ入手しておいた図面によればこの先がファイルの保管庫だ。
「驚いたな」
図面上では分かっていたことだが、その大きさにはただ圧倒されるばかりだ。
超巨大なコンクリートの立方体。その中では高さが何十メートルもある大きな棚が列をなしている。棚の一つを見てみると、それは紙媒体の資料であった。クリップ止めされたフォルダーであり、中を見てみると履歴書のようなものが数十枚入っている。
「聞いてた話と違うぞ。マイクロフィルムじゃないのか」
慌ててマイクロフィルムの捜索を命じるが、それらしい物は見つからない。
仕方ないので、兵士たちにはフォルダーに詰まっている紙媒体の中から、マイクロフィルムの在処が掴めそうな情報を調べるように命じた。
保管庫内にある資料は膨大であり、三十数人では保管されている内容物の半分を調べるだけで一時間以上を費やしていた。
「これは国防省の秘密資料じゃないか……。こんなものまで……」
ユルゲンと、シルラーと、そして兵士たちは全員がただ呆然としながら資料を眺めていた。
そこに保管されていた資料はドイツ民主共和国という存在そのものが紙に書き起こされ、情報化された物であった。
資料を散策する全員が悪寒に襲われた。
シュタージの集めたファイルという時点で全員が察してはいたことだが、膨大な資料の中には一介の兵士が"見るべきでない物"も多く含まれていたのだ。
既に東ドイツという国が消滅寸前であるのは誰もが知っていることだが、それでも口に出してしまえば命の保証はないであろう内容が大量に存在していた。
兵士たちはフォルダーを見れば見るほど、果たして自分たちは生きて帰れるのかどうかと疑念を抱いた。自分たちはいつか口封じをされるのではないか……?
「少佐殿……これは、これは、到底一人では背負いきれません……」
地べたに座りながらフォルダーを読み漁っていると、一人の若い兵士がやって来た。彼の手には一冊の紙が握られている。フォルダーから破ってきたようだ。
「なぁに、読んでく内に慣れるさ。さっきはケネディ暗殺の資料を見つけたよ、内容は忘れることにしたがね。君も知らない方がいい」
そういって目を通してみる。
脳がその内容を理解した瞬間に、あまりのおぞましさに全身が鳥肌を立てた。
『第一級国家機密指定』『速やかに破棄』というスタンプが大きく押された資料には「ソ連製核兵器のドイツにおける秘密配備協定について」が書かれていた。
「まさか!」
そう叫んだ声が、保管庫の中に響き渡る。
ドイツ民主共和国に核兵器は無い。いや、少なくとも、軍人も市民も、そして党の幹部や議員ですらも、そんな事実は知らない。
だが、資料には確かにそう書かれていた。
そして60年代当時の東ドイツ首相や、国防大臣、ソ連書記長、駐留ソ連軍司令官のサインまである。それ自体はコピーだが内容は本物だった。
目を疑うのはその部分だけではない。
核兵器はソ連軍の駐屯地ではなく、弾道ミサイルと共に国有森林や自然公園、そして湖の中などに隠されていたのだ。
多くは国内で名の知れた観光地であり、ユルゲンが行ったことのある湖も含まれている。
まさか妻との新婚旅行地に弾道ミサイルに積まれた核兵器が隠されているなど、一体誰が想像できたであろうか?
おそらく内戦後、ソ連という主人を失った核兵器たちは解体も搬出もされずその場に残り続けているだろう。こんなものが公になれば、スキャンダルどころでは済まされない。NATO軍が即時に攻めてくる大義名分には十分過ぎるぐらいだ。
ユルゲンは資料を読む中で秘密情報とか個人情報を知ることになるとは思っていたし、長生きしたいのでそれを口に出さず墓まで持って行く覚悟があった。
しかし、予想していたのは個人情報とか、隣人の不倫とか、官僚の汚職とか、海外のスパイ網とかについてであって、まさか自分と妻が核兵器の隠されている湖を泳いでいたなんていう、余りにも身近で、かつおぞましい事実だとは思いもしなかった。
「ここの……ここに書かれている小さな村は俺の故郷なんです……。この森で俺は子供の頃よく遊んでいました。まさか、俺が生まれる前から核兵器が隠されていたなんて……」
泣きそうになっている若い兵士に対して、肩に手を置いて同情することしかできなかった。
「少佐! 少尉! 見つけました! マイクロフィルムの場所が書かれています!」
遠くからそんな声が反響してくる。手元の紙をくしゃくしゃに握りつぶすと、その若い兵士の手を借りて立ちあがった。
「よし、必要な情報は見つかったらしい」
"もう何も見なくていい。全部忘れて家に帰ろう。"