Project:スムータ   作:北極鳥ユキ

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ベルリンの影(5)/1985

「……少佐。……少佐、フィアルスト少佐!」

 

 ひどい耳鳴りと誰かの声が交互に聞こえてくる。

 目を開くと、そこにはシルラー少尉がいた。

 

「敵はどうした」

 

「撤退しました。味方の生存者は……いません。俺とフィアルスト少佐だけです」

 

「そうか。あと、フィアルスト少佐はやめてくれ」

 

 起き上がろうとするが、それで下半身の感覚が無い事に気が付いた。

 あまり見たくなかったが、視線を天井から自分の胴体へと向ける。ぺちゃんこ、というほど酷い有様ではないが、下半身は崩れた棚によって潰されていた。

 被弾した脇の方は止血されていたが、貧血にも似た倦怠感が体を襲っているあたり、潰された脚から出血しているようだ。

 

「いいか、フィアルストは喪失って意味だ。だから俺のことはみんなユルゲン少佐って呼ぶのさ。部下もみんなそうだった」

 

「そんなこと、どうでもいいでしょう。しっかりしてください!」

 

「どうでも良くない。軍人はゲンを担ぐ生き物だから、縁起の悪い名前は敬遠されるのさ。実際、それでお前が偽士官だと確信した」

 

 朦朧とする意識をなんとか体の中に留めようと努力する。

 あと少し、あと少しだけ、時間をくれ。

 

「シルラー少尉、本名は?」

 

「クリストフです。クリストフ・シューバート。ドレスデン工科大学の学生です。三年前に親が殺されて、それで独立東欧軍に参加しました」

 

「学生だって!? ……ふふっ、はははっ」

 

 偽士官の正体を知った瞬間、おかしさが溢れてきた。

 学生の癖にこんなに危険な戦場に出てきたっていうのか。まったくコイツはとんでもなく胆が据わっているのか、とんでもないバカ野郎なのか。あるいはその両方かもしれない。

 

「いくつだ?」

 

「20才」

 

「まったく、若い奴が命を粗末にするもんじゃない。生き残ってよかったな」

 

 呆れてため息をつこうとしたが、ひどい痛みに襲われる。もう息を吸うのも辛かった。

 

「ところで、フォルダーは持ってるか?」

 

「はい、ここに」

 

「じゃあ、それは好きに使え。少将に渡すもよし。ファイルの中身を覗いて世界を支配した気分になるもよし。あるいは、見ずに燃やしても構わない」

 

「これは、俺が一人で背負うには重たすぎます」

 

「なら燃やせ。その実、俺は少将に渡す気なんて無かった。そこには俺の個人情報が、妻の個人情報が記載されている。そんなもの処分するに限るだろう」

 

「わかりました。燃やします」

 

「素直な奴だな」

 

 偽士官がただの学生だと分かると、なんだか急に親しみを感じた。

 てっきり他国のスパイだと思っていたので、警戒して損した気分だ。

 

「……なぁ、クリストフ。俺はずっと夢見てたんだ。妻と、娘と、二人であの砂浜でピクニックをすることを。このまえ、ようやく娘が生まれて夢がかないそうになってたんだ。名前はハンナ。まだ顔も見てない」

 

「……」

 

「ハンナ・ホーフヌン。ホーフヌンってのは妻の苗字だ。希望(ホフヌンク)が訛ったものらしい」

 

「父親は喪失(フィアルスト)で母親は希望(ホフヌンク)なんて……」

 

「安心しろ、今日からはただのハンナ・ホーフヌンだ。文字通り、俺の希望だよ」

 

「希望ですか。そんなもの本当に存在しているんでしょうか……? だってこの世界はあまりに残酷すぎます……」

 

「どうだろうな。でも俺は信じてる。世の中、見えないものが多すぎる。時間やら運命やら希望やら。人は見えない物を在処を探したがるが俺はそうは思わない。ただ信じてればいいのさ、希望も何もかも。そうすればきっと見つかるはずだ」

 

「また随分とかっこいい台詞ですね」

 

「人生をかけたキメ台詞だよ。娘に聞かせられないのが残念だ」

 

「……」

 

「あと、拠点に残した遺書を届けてくれ。妻はリューゲン島に住んでいる」

 

「約束します」

 

 クリストフ・シューバートは俯く。

 

「最後に、俺はやけっぱちになって戦場に来たわけじゃない。子供のために、希望を信じているから来たんだ。それを伝えてくれ」

 

「分かりました。それと、俺も信じてみることにします。これからどんなことがあっても、その先に運命も希望も、全部信じます」

 

「希望はきっと、未来にあるんだろうなぁ。俺には見ることは叶わないみたいだが、お前は違う。クリストフ・シューバート。お前は未来を、壁のない平和な時代を見に行くんだ」

 

 もうそろそろ、体が限界を迎えそうだった。

 不思議なことに、まるで自分の寿命が見えているようだ。しかし、伝えたいことは伝えられた。もう悔いはないし、残す言葉も、かっこいいキメ台詞も残っていない。

 

「ほら行け! もう戦場になんか行かずに長生きしろよ!」

 

 そう叫んで、彼にこの場を離れるように促す。

 まったく、なんて顔をしてるんだ。真っ赤になった瞳には涙が浮かんでいるじゃないか。

 

 クリストフは袖で涙を拭うと、フォルダーを抱えて走り出した。

 

 少しの間、後ろ姿を見送る。

 やがて彼の姿が暗い通路の影に消えていったのを確認した。

 

 信じていればきっと。

 そう、信じていれば、何も怖くない。そう自分に言い聞かせるがやはり怖かった。

 死んだあと、人はどこに行くのだろうか。

 シュタージに属し、軍を裏切り、仲間を裏切り、家族を裏切り、最後にはその組織すらもを裏切り。そんな、ベルリンの影を生きた人間に、天国の門は開いているのだろうか。

 

 もし地獄に行くのなら、アンゼリカとも、ハンナとも、二度と会えないのだろうか。

 だったら最後に娘の顔ぐらい、見たかったなぁ。

 

 流石に限界が来た。それは眠気にも似た感覚だった。

 ようやく覚悟を決めて、重たい瞼を閉じる。

 

 "残されたのは、静かな闇……"

 

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