1986年。
ドイツ民主共和国、ロストック県。バルトに浮かぶ宝石リューゲン島。
そこは噂に聞いた通り、風光明媚なところだった。
フェリーに乗って到着した観光都市「ビンツ」は大勢の旅行客で溢れていた。
ほとんどは西ドイツ人である。
内戦が終わり、東西ドイツ間の移動が自由化されたことで東側を訪れる西側の人間は週を追うごとに増えている。
特にバルト海沿岸は東欧内戦の戦火を逃れたこともあって多くの観光客が押し寄せていた。
穏やかなバルトの海を臨むことが出来るビンツのビーチにも大勢の人が押しかけていて、白い砂浜はテントやパラソルでぎっしりと埋まっている。
真夏だというのにしっかりとした国家人民軍の勤務用制服に身を包んだクリストフ・シューバートは、その観光客たちの中では一際目立つ存在だった。
数年前までは、ここから少し行ったところにある「プローラ」という施設に地上軍の第40航空突撃連隊が駐屯していたが、内戦中に別の場所に移動しており今は空っぽになっている。
移動用の車を借りた店では、店員から「基地に忘れ物をしたんですか?」と聞かれるほどで、現地住民からしても彼は異質であった。
リューゲン島の海岸にほど近いとある小さな村に夫婦の家がある。
住所はユルゲンの残した『ファイル』をこっそりと覗くことによって、知りえた情報だった。
ファイルは一度だけ見て必要な情報を覗いた後、誰にも渡さず破壊した。
しかし、その一度でも知りたくないことを知ることになった。
ユルゲン・フィアルストは国家人民軍を監視するシュタージ第1局の所属の諜報員だった。
国家保安省に入った経緯については『ファイル』にも記載が無かったので定かではない。彼がなぜ内戦では反乱軍の側に付いてシュタージと戦ったのかも分からない。ブルクハルト少将は半年前に失踪しており、彼の真意は闇の中だ。
そして、妻アンゼリカ・ホーフヌンもシュタージの『非公式協力者』つまり──情報提供者だった。噂によれば非公式協力者は東ドイツに200万人もいたというので、珍しい話ではないのかもしれない。しかし、夫は妻の、妻は夫の、お互いの秘密を知っていたのだろうか?
ユルゲンがアンゼリカと出会ったのは少尉任官後、初めての配属先となった第40連隊の所属としてリューゲン島に配属されたときのことだった。
何もかも、初めからシュタージによって仕組まれたことだとしたら?
二人の出会いは、運命や偶然だったのだろうか?
夫婦はお互いに監視し合っていたのだろうか?
その愛は本物だったのだろうか?
そんな考えが頭をよぎる事に、クリストフはどうしようもない自己嫌悪を憶えていた。
自分は余りにも相互監視社会の闇に毒され過ぎてしまったらしい。
そこには真実の愛だってあるはずなのに、どうしてもそれを疑わずにはいられないのだ。
本当にこの国は狂っていた。そして、自分自身も……。
ビンツからしばらく車を走らせて、村に到着したころには夕刻になっていた。
その辺りは広大な農地と深い森に囲まれていおり、観光地の喧騒からは遠く離れている。
見えてきたのは老後をひっそりと暮らすなら理想的な一軒家だった。
白い壁にオレンジ色の三角屋根の家で、玄関のところには日当たりのいいウッドデッキがあり椅子とテーブルが置かれている。
敷地を囲う柵を超えて、家に続く小道を進む。
少し進むと玄関から女性が出てくるのが見える。彼女は自分の前に現れた軍人の姿にただ不安気な面持ちで、ウッドデッキの上から動けずにいる様だった。
クリストフはそれに合わせて制帽を脱いだ。
「アンゼリカ・ホーフヌンさんですね。ご連絡差し上げました、ペーター・フランツ・シルラーです」
アンゼリカは何も言わず、ただ首を横に振る。その目には涙が滲んでいた。
「彼から託された物をお渡しに来ました」
そういって内ポケットから遺書を取り出そうとしたが、動きを止められる。
「おかしいわ。だって、だって、生まれたばかり娘がいるのよ! あの人はまだ顔すら見ていない! そのまま死ぬわけない!」
アンゼリカがその場で崩れ落ちたので、慌ててその身を支える。
「あの人は自分の苗字が嫌いだったから、ハンナの苗字はフィアルストじゃなくて、ホーフヌンにしようって……それで、それで……」
「心中お察しします」
「ユルゲンは戦闘で脚を失っていたのよ! それだけで十分に、十分過ぎるぐらいに、軍人としての職務を全うしたわ。なのにあなたたち軍隊は、それでもあの人を戦場に呼びつけて、あまつさえ死に追いやった! 貴方たちは悪魔よ!」
「申し訳……ありません……。私が、力不足だったばかりに……」
何か言わねばと振り絞って出した言葉は微かに震えていた。
少し泣いた後、アンゼリカは大きく息を吸ってからクリストフに対して謝罪の言葉を述べた。
「ごめんなさい。分かってる、分かってるの、あなたは何も悪くない、職務をこなしただけ。夫もそう、軍人は戦うのが仕事ですもの。長く戦場に居れば死ぬことだってあるもの……」
クリストフは唇をぎっと噛んだ。この人は、本当に夫のことを愛している。
それが分かって、その愛を一瞬でも疑ってしまった自分を恥じていた。
「彼は、決して身勝手な人間などではありませんでした。最後まで、貴女と娘さんの幸せを何よりも考えていました。どうか、それだけは……」
「大丈夫、分かってるわ。そういう人ですもの。不器用であまり口には出さないけれど、とっても優しい人なの。だから私は彼のことが好きになったの」
アンゼリカは自分に言い聞かせるように、分かってる、分かってる、と呟きながら立ち上がる。
「辺鄙なところまで、わざわざごめんなさい。お茶はいかがかしら」
「いいえ、私はこれを届けに来ただけですから。どうぞお気になさらないでください」
ポケットから出された遺書をアンゼリカはようやく受け取る。
「もしも、何か困ったことがあれば私にご連絡ください。いつでも力になります」
クリストフはアンゼリカとハンナに背を向けて、来た道を反対側に向かって歩き出す。
夕暮れの赤い、赤い、太陽が男を照らし、その背中に影を作り出す。
ユルゲン・フィアルストは東ドイツを象徴する「影」の存在であった。
その人生は暗いもので、終わりもまた人目に触れぬ影の中。
彼が影の中に消えたように、クリストフ・シューバートも影になる。
後に残されるのはペーター・シルラーという偽物の偶像だけ。
彼はその偶像を用いて人々を照らす光になると決めていた。
偶像が影に生きた人々を照らす。
その光が偽りによって輝いているとしても、それは紛れもなく希望の光だ。
「……もしもし、はい、ペーター・シルラーです。以前に頂いた出馬の件ですが、ええ、お受けしようと思いまして。……はい、よろしくお願いします。ギジ党首」
悲劇も、教訓も、そこから生まれ落ちた影も、それを忘れてしまわぬようにすることが生き残った者の使命だ。彼は影となり、私は光になる。
"影は光の中で生き続ける。"