イラクにやって来たソ連軍人、ユーリ・イヴァンコフ。
彼がフィオドラ中尉の運転するジープに揺られ到着したのは、イラク空軍第11672機密空軍基地……こんなのは覚えるだけ損だ。
そこの人たちは皆、「オアシス空軍基地」という愛称で呼んでいたので、そう呼ぼう。
オアシス基地はサルサール湖の東岸に位置する軍用飛行場で、タンムズ空軍基地とアル・サフラ空軍基地のちょうど中間にある。名前に「機密」とある通り、タカダム基地やアル・サフラ基地と違って地図に載っていない空軍の秘密基地だ。
設備は滑走路が二本と、大型の格納庫二つ、中型の格納庫四つ、小型六つ。管制塔に兵員宿舎、そして地対地ミサイルによる防衛設備などからなっている。
つい最近建設されたようで、見る限り建物はどれも新しかった。
ジープが正面ゲートを超えて道を進んでいくと、ジェットの轟音が響き渡る。
フェンスの向こう側にある滑走路に目をやってみると、Su-27戦闘機が砂塵を上げながら離陸していくのが見えた。
「おいおい、イラクがSu-27を持ってるなんて聞いてないぞ」
「オイルマネーって奴です少佐殿。スホーイだけじゃありません。この基地にはミグも、ツポレフも居ます」
「ツポレフってTu-16か?」
「いいえTu-95戦略爆撃機です。試験用が一機だけですけど」
「冗談だろ……」
Tu-95はソ連製の大型爆撃機である。核兵器も搭載可能な戦略兵器ということもあって、長らく輸出されることは無くソ連のみで運用されていた機体だ。イラク軍がソ連製の兵器を買い漁っているとは聞いていたが、まさかそんな物さえ輸入しているとは。
呆然としながら背もたれに体重を預ける。
どうやら俺はとんでもない国に来てしまったらしい。これではイラク軍というよりは、むしろソ連軍の亡霊じゃないか。
さらに少し進むと、ジープは格納庫の前に停車した。
「同志イヴァンコフ少佐殿! お久しぶりですな」
車から降りようとすると、不意によく聞きなれたしわがれ声で呼びかけられる。
「その声は整備班長!? アンドレイ班長じゃないか!」
「私が退官した88年以来ですな同志」
そこにいたのは防空軍時代に同じ基地で整備班長をやっていた大ベテランの整備兵であるアンドレイ・ユスコーフ曹長だった。
彼はこの道四十年、まだレシプロ戦闘機が飛んでいた時代から飛行機の整備に関わって来た大ベテランであり、レシプロ機からジェット機まであらゆる軍用機の整備に通じているため、防空軍の整備士やパイロットたちからは英雄的に尊敬されていた。
「……って、もう軍人じゃないですから、アンドレイさんと言った方がよかったですかね。失礼しました。どうにも軍時代の話し方が抜けなくて」
軍隊というのは外の人間からすると不可思議に思えるが、階級によって序列が決まるため、年上の下士官が年下の士官に敬語を使うことが当たり前である。
もちろん士官は年上の下士官たちを敬っているが、同時に彼らは部下であるため、そこには独特な距離感がある。
例えば、年齢を問わず部下の誰にでも敬語を欠かさない丁寧な士官もいるし、その逆もいる。
ユーリの場合は相手の年齢にかかわらず部下に対しては基本的にフランクな口調で通しており、それが許される空気が部隊内にあった。
「よしてくださいよ、同志。ここでは昔通りいきましょう。それにパイロットらしく『軽い』ところがあなたの取柄でしょう?」
「班長がそういうなら。しかし、流石に同志は古臭くないか?」
「若いもんに良く言われますよ。しっかし、私は生まれも育ちもソビエトなものでしてね」
がはははっとアンドレイ班長は煙草で黄ばんだ歯を見せながら笑う。
「少佐、アンドレイ先任曹長はこの基地でチーフ・メカニックを務めておられます」
「班長も私やフィオドラ中尉と同様にイラク軍からリクルートを?」
「えぇ、故郷で余生を送るつもりだったんですけどね、ふらりと整備士時代の仲間が来まして。私みたいなロートルを雇ってくれる仕事があるって教えてくれたんですよ」
「そうだったのか。お孫さんは元気か?」
「この仕事のおかげで、孫を大学に行かせてやれますよ」
「近頃のロシアは世知辛いからな。しかし、また会えてうれしいよ。班長がいるなら整備面には心配いらない」
「歳を取りましたが、まだまだ腕は鈍っておりません。以前のように整備はお任せくださいな」
ユーリは近づいて言って、アンドレイ曹長と固い握手を交わした。
昔馴染みとの再会を喜んでいると、視界の端では遠くにある司令部の方から高級車が砂ぼこりを上げながら走って来るのが見えた。
「あれは……」
「基地司令の車です」
隣のフィオドラ中尉が耳打ちする。
服の襟を正して待っていると、車が三人の前に停車する。その後部座席からはぴしりと整ったイラク軍の軍服に身を包む若い将校が降りてきた。胸元には大量の略章。階級章は大佐を示している。元ソ連軍人三人は、彼に向かって敬礼した。
若い大佐は応礼してから近づいて、ユーリの前に立つと流暢なロシア語で語り掛ける。
「基地司令を務めているアウス=アクラムだ。あなたをこの基地に迎えることが出来て光栄に思いますよ。イヴァンコフ少佐」
「こちらこそ、お招きいただき光栄です」
アウス=アクラム大佐は、バアス党の家系に生まれたエリート軍人だ。ソ連への留学経験があり、ロシア語が非常に堪能。ここの基地司令のみならず、旧ソ連軍人をイラク軍にリクルートする計画の実質的な責任者でもある人物だった。
「この基地は気に入ってもらえたかな。それと、私からの『プレゼント』も喜んでいただけたら嬉しいのだが」
「プレゼントですか?」
「おや、まだ格納庫の中はみていなかったか」
大佐はアンドレイ曹長に目配せすると、彼は待ってましたと言わんばかりに小走りで格納庫のシャッターに向かう。
彼がスイッチを押すと、ガシャガシャと音を立ててシャッターが開いていった。
「これは……」
格納庫に鎮座しているのは、砂漠迷彩の施されたSu-27戦闘機……じゃない! 違和感に気が付いて目を見開いた。そのスホーイには、カナード翼が付いていたのだ。防空軍で乗っていたSu-27には付いていない装備だ。
「少佐が防空軍時代にスホーイに乗っていたと聞いて用意した最新鋭機Su-27M……またの名をSu-35だ」
格納庫の中に進むとその姿に目を奪われた。そのSu-35なる戦闘機は、ソ連軍機特有の美しい流線形のボディはそのままに、少し大きい機首部分、前輪のダブルタイヤ、カナード翼、尾翼、そしてコックピットに若干の変化がある。単座であり、タラップを上ってコックピットを覗いてみるが、計器類はそのままだった。
「Su-35はスホーイで設計されていた試作戦闘機です。端的に言えばSu-27の正統進化ってところでしょう」
興味津々な様子のユーリに、アンドレイ曹長が説明した。
「喜んでもらえたようでなりより」
「もちろんです大佐。……これを、私が操縦するんですよね」
「少佐には編隊長を務めてもらう。コールサインはクニャーズ。僚機はフィオドラ・アンドロスカヤ中尉と、後日パイロットがもう一人着任する」
「分かりました。全力を尽くしましょう」
「頼んだ。キミのような優秀なパイロットが、いまのイラクに求められているんだ」
ユーリは早くこのSu-35に乗りたくてたまらなかった。まるで、新品のおもちゃを前にした子供のような気分だ。
「早速飛んでみるといい。Su-27とは少し違うだろうから、慣れておかないと」
「そうさせていただきます」
パイロットスーツはあっちです、とフィオドラ中尉がロッカールームへ案内する。
彼女に続こうとしたが、その途中でユーリは足を止めてアウス=アクラム大佐に振り返った。
「それで、アメリカ人とはいつ戦うんです?」
大佐は思慮深い面持ちで、目をまっすぐ見ながら短く答えた。
"そう遠くないうちに。"
脚注
タンムズ、アル・サフラ両空軍基地は実在するイラク(またはアメリカ占領軍)の軍事基地。どちらもフセイン政権下における旧称であり、湾岸戦争、イラク戦争を経て現在では改名されている。 タンムズ空軍基地は現在「アル・タカダム空軍基地」または「キャンプ・タカダム」として、アル・サフラ空軍基地は「キャンプ・スパイカー(スペイサー)」として知られている。