クウェート侵攻/1990
終末時計に秒針があるとするならば、それはあの瞬間から動き出したのであろう。
1990年8月2日──針が目には見えぬほど微かに動いた。
日付が変わって間もなく、共和国防衛隊の四個戦車師団がクウェート国境に向けて移動を開始。
午前一時、共和国防衛隊が国境を突破、クウェート領内に侵入。
同刻、イラク空軍がクアリー・サーリム空軍基地およびアフマド・アル=ジャービル空軍基地を空爆。クウェート空軍は機能不全に陥る。
午前二時、特殊部隊がダスマン宮殿にヘリボーン降下を開始。突入部隊は警備隊との交戦の末に宮殿を占領するが、王族は脱出済みであり確保に失敗する。
午前三時、機甲部隊が防衛線を突破。首都クウェート・シティ市街地へ突入する。
同刻、イラク空軍がクウェート国際飛行場を爆撃。間もなく地上部隊により占領される。
午前四時、アル・ジャフラにて共和国防衛隊第1機甲師団とクウェート軍第35機甲旅団が交戦。
午前六時、クウェート・シティ全域が占領。クウェート領も三分の二が制圧される。
午後一時、クウェート軍第35機甲旅団がサウジアラビア領へと撤退を開始。
午後三時、クウェート全土がイラクにより占領される。
こうして、イラクによるクウェート侵攻作戦はたった一日で終わることになった。
この小さな火種が、やがて大火になろうとは、この時は誰も考えなかったであろう。
その点においては、サダム・フセインも、ジョージ・H・W・ブッシュも等しかったと言える。
8月2日のアメリカ合衆国、ニューヨーク。
国連本部で急遽開かれた安全保障理事会では当日中にこの事態を非難する決議が採択された。
国連安保理決議660号──クウェート侵攻を非難し、イラクに対して無条件の撤退を求めたのである。米、英、仏、露、中の常任理事国はすべて賛成。非常任理事国もイエメンが棄権するのみで、他は全て賛成に回った。
更に、クウェート侵攻という事態に対して二つの勢力が動いていた。
一つは周辺諸国が参加している「アラブ連盟」、もう一つがアメリカ合衆国である。
アラブ連盟はこの事態を”内々”に対処しようとしたが、各国の思惑からその足並みが揃うことは無く、統一的な対処は絶望的となった。
クウェート侵攻に対して、サウジアラビア王国は特に危機感を感じていた。長大な国境を接しており、かつイスラム世界の盟主的地位にいた同国は、次の標的が自分であると考えるようになったのだ。
この時、イラク共和国は旧ソ連製兵器の輸入により、アメリカに次ぐ世界第二位の軍事大国ともいわれていた。先の戦争ではイランに対しても勝利を収めており、中東の覇権国まであと一歩。勢いをそのままに、アラブ世界の盟主という地位を狙っているのは誰の目にも明らかだった。
次の標的になった場合、サウジアラビアにはイラクに抵抗できるだけの戦力は無く、8月10日に行われたアラブ連盟首脳会談が失敗に終わるとアメリカに救援を求めた。
冷戦を制したことで世界唯一の超大国となったアメリカ合衆国の動きは早く、8月6日にはイラク軍を完全に無力化する攻撃作戦を検討していた。しかし、当初の目的はあくまでもこれ以上の侵略を防ぐこと、つまりはサウジアラビアの防衛でありこれは実施されなかった。
8月7日になりサウジアラビアからの正式に要請を受けると、アメリカ政府は即座に同地に対して派兵を決定。サウジアラビアの防衛を目的とした「砂漠の盾」作戦が発動された。
それから一週間以内にサウジアラビア領には米陸軍と米空軍の戦闘部隊が展開。更にペルシャ湾に展開した空母機動部隊が海上封鎖を実施した。
8月25日には新たに安保理決議665号が採択。
これに合わせて、アメリカ合衆国はイラクという脅威に対する軍事的対抗の手段として「多国籍軍」の結成を発表。サウジアラビア防衛を行うための有志国を募った。
多国籍軍にはヨーロッパからイギリス軍、フランス軍、そして統一間もないドイツ軍が参加を発表。機甲部隊と戦闘機部隊がサウジアラビアに派遣された。
英仏に関しては大方の予想通りであったが、ドイツ軍の参加は驚きをもって世界に報じられることとなった。第二次大戦以来──つまりドイツ連邦共和国になってからは──ドイツ軍が戦闘が予想される地域に大々的に派遣された例は無かったのである。
当時のドイツ政府はポスト冷戦の世界における平和や秩序への貢献という名分を掲げていたが、実際には隣国ポーランドとの国境紛争調停が目的であったとされている。統一ドイツとポーランド共和国は国境の都市「シュテティーン/シュチェチン」を巡る国境問題があり、東欧内戦の最中にもこの街は旧東ドイツ軍とポーランド軍が衝突した過去がある。
統一したばかりのドイツとしては、国境問題を有利に進めるべくアメリカの支持を取り付けたかったという思惑があったとされている。
そうして結成された多国籍軍はアメリカ中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフ陸軍大将を総司令官として、ヨーロッパのNATO加盟諸国、サウジアラビア、エジプト、シリア、カタール、オマーン、バーレーン、イランなど総勢35ヵ国、総兵力60万を数える超巨大組織となった。
多国籍軍はイラクへの軍事的な圧力を強めつつ、最後まで平和的な解決を模索していた。
9月にはフランス大統領ミッテランによる仲介が行われるが失敗に終わってしまう。その後も、国連大使などがイラクとの交渉を行うもののクウェート撤退が和平の絶対条件であり、サダム・フセインがこれを飲むことは無かった。
1990年11月29日国連安保理決議678号が採択された。
いわゆる「武力行使容認決議」である。
その内容はイラクに対して再度無条件撤退を求めるとともに
国連はクウェートからの撤退を強制するために必要な「あらゆる措置」を認めたのだ。
これはあくまでの「最終勧告」であった。
この時点でイラクが撤退すれば、事態は全て収束していたであろう。
しかし、1991年になってもなお、イラクがクウェートから撤退することは無かった。
1月12日、アメリカ合衆国議会が議決によりイラク攻撃を容認。
1月15日、
同日、多国籍軍、臨戦態勢に移行。
同日、イラク全土に戦時体制が発令。
1月16日、アメリカ本土からB-52爆撃機が離陸する。
そして1月17日未明、中東の大地が揺れ動いた。
それは数百以上の戦闘機とヘリコプターが離陸する音。数千を数える軍事車両が進む音。数万を数えるブーツの足音──多国籍軍が動き始めたのである。
まだ暗い砂漠の上をAH-64攻撃へコプターが超低空飛行で進む。
空軍基地からはF-15戦闘機の双発エンジンがうなりを上げ、青と赤の混じった炎を滑走路に吹き付けながら次々と離陸していく。
午前二時。多国籍軍による最初の攻撃が始まった。湾岸戦争の開戦である。
"『砂漠の嵐』がやってくる。"